私たちは自分の頭の中のスクリーンに映し出されて知覚したものを世界とする。私には過去の病気のトラウマがあり、時折り(ときおり)、頭の中のスクリーンに映し出された過去のイメージを憎悪(ぞうお)する。しかし、頭の中に想起(そうき)したイメージを憎悪することは、すなわ
私が過去のトラウマを思い出して被害者意識を持った時、私の自我の解釈が「世界の唯一の解釈」となっていて、その悪夢に私は閉じ込められているのです。問題は、I think this way.(私はこう思う)が、「世界の唯一の解釈」となっており、訂正不可能になっていることにある。も
影で誰かの悪口を言う時、その闇は私の世界に映し出されて、私の世界が不穏(ふおん)なものに見えるようになる。この時、私の解釈が、『世界の唯一の解釈』となっており、私はその悪夢の世界に閉じ込められている。私は頭の中の私の声だけしか聞こえず、世界についての別の解
私が過去のトラウマで被害者意識に囚われている時、「あまりにも酷い」と、それが世界の唯一の解釈(かいしゃく)となっており、私は私の悪夢に閉じ込められている。その悪夢から脱出する鍵は、私の世界の見え方が、世界の唯一の解釈ではないと、知っているかにかかっている。
他人を具体的に悪く言う時、私は疲れていて、そういう時に心の闇が表面化する。私はその人を悪く言うが、私が彼の中に見ているのは彼の罪悪ではなく、本当は「私の」罪悪を彼の中に見て、悪口を言うことで「私の」罪悪を解消しようとしてるだけなのです。したがって彼を完全
疲れている時に心の底の罪悪感が浮上し易くなります。決して気分の良いものではないですがピンチはチャンスなのです。まず過去の赦せない何かが浮上してその瞬間はもちろん赦していないのですが、そこで心を変えることを選択して「過去のことは赦す」と心を決めるのです。次
被害者意識で過去のトラウマを想起する時、私は自分を肉体だと信じていて、心であることを忘れている。私は被害者意識で文句を言うことで想念の周波数を下げているのだがそのことに気付かない。自分を想念であると思い出させてくれるものを利用するのがいいのかもしれない。
科学的には私たちは肉体の頭脳だと言われている。私もそう信じていました。しかし自分を肉体だと信じると、遅かれ早かれ必ずチェックメイト(王手で詰み)状態になり、被害者意識に囚われて不平不満を言うだけの、絶望的な回答となってしまうのです。しかし私たちは想念である
私たちの正体は物理的肉体ではなく「想念(そうねん)」である。自分を肉体だと信じていることの論理的帰結は憎悪を持つということです。音楽が好きな人は同調することでその音楽と一体になる。バイクが好きな人は同調することでそのバイクと一体になる。私たちは想念の中でな
私は被害者意識の雑念に考えが囚われる(とらわれる)ことがある。被害者意識で頭の中に過去を映し出してイライラするのです。その精神が動作した直後は赦していないのですが、その時にすぐに被害者意識だと気付いて、「赦す」と決断することで、心の闇が少しずつ減っていき、
私は高校の頃、身体の病気で散々苦しんでいたのに親が全く配慮せず「学校に行かないのは悪いことだ」と私に罪悪感を感じさせて無理矢理学校に通わされた過去があるのです。私はその頃の罪悪感が今も残っており、被害者意識で責めて親に罪悪感を感じさせて、私はその罪悪感か
この世界は神からの分離によってもたらされた。他者との差異(さい)の夢の世界。他人とは、自分との比較対象になっていて差異を証明するものとなっているのです。「皆同じだ」と言うと、自尊心(プライド)の高い彼はもしかしたら「私の方が遥かに知能が高いですよ」と侮辱され
私が過去を想起(そうき)する時、過去の事実ではなく、その解釈によって怒るのです。「あまりにも酷い」という解釈です。それは心の中で自我が語る言葉は心の声だから真実に違いないという私の誤解です。精神科の主治医はこう言うでしょう、「今の君の話を聴いて、私は非常に
被害者意識で過去の記憶を解釈する時、その理屈は非常に酷いものとなる。被害者意識ではなく、赦し(ゆるし)の心を持とう。答えは、過去を理屈で解釈することではなく、赦す(ゆるす)という意志(いし)を持つことにある。にほんブログ村
私には嫌がっていた過去があり、そのせいで他人を責める気持ちがある。私が他人を責めるのは、「彼に罪悪があるからだ」と私は思い込んでいるが、本当は私が私の心の闇を感じ取っていて不快に感じているからです。私は自分の心の闇を直視する勇気が無いので、その罪悪の闇を
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私たちは自分の頭の中のスクリーンに映し出されて知覚したものを世界とする。私には過去の病気のトラウマがあり、時折り(ときおり)、頭の中のスクリーンに映し出された過去のイメージを憎悪(ぞうお)する。しかし、頭の中に想起(そうき)したイメージを憎悪することは、すなわ
私は頭の中で自我が語る言葉を信じてしまう。「私は頭が良い」というプライドが、自分の頭の中の間違った考えを妄信(もうしん)させている。そして頭の中の絶え間ない独り言に耳を傾け続けて、それが有害であるのにその考えを信じてしまうのです。冷静になって考えれば、自分
血液中のコルチゾールレベルが上昇すると、脳はストレスを感じて不快な気分になる。しかし主観的には誰かのせいで不快なのだと解釈して、グルグル考えてしまう。原因は血液中のコルチゾールレベルの上昇にあるのだから、いくら考えても無意味である。コルチゾールレベルを押
他者の誤り(あやまり)を「罪」と見なすか、「間違い」と見るか。罪と見るということは、それが訂正不可能であり赦されない(ゆるされない)ことをしたと裁く(さばく)ことです。一方間違いは訂正可能である。その誤りはすでに赦されている(ゆるされている)。私が他人の間違いを
神と神の子の「オリジナルの関係」の「代替品(だいたいひん)」があり得るという幻想。それが特別性の承認欲求であり、代替品の関係として機能しない相手を私は憎悪する。だけど この世界中探したって「オリジナルの関係」の代わり(かわり)は無かったもし「たった一つ願いが
私たちが見ている目の前の世界というのは、映写機(えいしゃき)である無意識の「心の闇」が投影(とうえい)されて、頭の中のスクリーンに映し出されたものである。私が不快感から不満や文句を言う時、「何かがそれに先行していたはずである」それが無意識の「心の闇」による欠
統合失調症者は「他者の主観を排除する」私は無意識の心の闇が疼いて(うずいて)、嫌なことを思い出して不快感を感じる時がある。その時、無意識の「心の闇」からくる不快感から逃れて、私が救われるために相手に罪悪感を与える目的で、苦情や文句を言う。この時、自分の言葉
私には私が蔑んでる(さげすんでる)人のインターネット上の日記(ブログ)を見たり、私の誹謗中傷のネット掲示板を見てしまうという心の闇がある。メリットが何も無く心を蝕む(むしばむ)だけだと分かっていることをするのはネット依存症なのです。だがこれらの蔑んでる人のブロ
今思うことは、私の価値観による考え方には欠けているところがあるということです。損得勘定がありますが、私がお得だと思って選択していることは、最善の利益ではない。私は結局、損したという私の価値観で文句を言うのです。この世界はイリュージョン(幻影)である。このイ
私が自分の自我に従って(したがって)しまう理由。それは、自我が「私を信じればお前だけは助けてやる」「私を信じれば、お前だけが得(とく)をすることができる」と心の中で私を幻惑(げんわく)してくるからです。私は何か得をしたような気分になる。自分の自我の考えているこ
統合失調症の症状が悪化している時は、自分がどう思うかが全てになっていて、つまり心の中が主観的(しゅかんてき)になり、同時に「他者の主観が排除(はいじょ)されている」。私は高校時代に病気で嫌な思いをしたトラウマがあり、時折そのトラウマを思い出し親に文句を言うの
パソコンのインターネットの世界に、私が蔑んでる(さげすんでる)人物が居て、彼の中に卑小(ひしょう)さを見て悦ぶ(よろこぶ)という闇の心が私にはあります。その後、必ず私の心に違和感が生じて、私についての誹謗中傷の掲示板を見てしまうのです。これには真の因果律(いんが
私は統合失調症であり「他者の主観(しゅかん)を排除(はいじょ)する」傾向があり、相互主観性(そうごしゅかんせい)の欠如がある。このように文章を書いている時でも自分の主観だけで書く傾向にある、私の文章は「読み手の主観を排除する」傾向にある。私の文章を読んだ人がど
統合失調症者がブログ(ネット上に公開できる日記)で、最初の内は自分の書いた日記に対して、リップサービスにせよ好意的なコメントが書き込まれて、幸せな世界を手に入れたと思っていたら、ある日自分に対して否定的な悪意あるコメントが書き込まれ出して、自分の世界が崩壊
統合失調症者は人と話をしている時でも「他者の主観を排除している」。統合失調症者は他者の主観『I(アイ)』が自分の心に侵入してくると、異物もしくはジッター(イライラさせられるもの)と判断して、自分の心の中から「他者の主観を排除する」のです。統合失調症者はルールに
「自分が苦しいのを人のせいにする」というのは割と一般的だ。過去に嫌な出来事があった。起こった事は変えられないし、その時に苦しむのは不可避(ふかひ)です。だがこれはキッカケに過ぎない。その後、それがトラウマとなることで、思い出す度に何度でも苦しむことになるの
SNSや掲示板での文章だけのやり取りというのは見た目の形態(けいたい)だけの通信だ。何しろ文面からは背後にある心の内容は読めないのだから。私に見えるのはSNS上の形態(かたち)だけでありそれが私の快不快を左右する。心のこもってない内容の無い形態(かたち)だけのリップ
私たちの遥かなる故郷である天国で神と神の子である私たちは幸せな日々を送っていた。だが天国に居た神の子の心に小さな狂った考えが生じた。「私が作った私の自我を、神が創造したままのオリジナルの神の子以上であると認めろ」この要求をしたとたん、私はパロディーとして
過去の嫌な体験を思い出す時、私は自分の心を守る為に反射的に被害者意識に囚われて、あの人のしたことが原因で苦しんだ、と思い込んでいる。自分の心の中の空虚感、欠乏感、罪悪感が外の世界に映し出されて、その世界の中心に居る私は何にも悪くないのに、彼の落ち度のせい
嫌な事を心の中で他人のせいにしていると、それが世界に映し出されて、他人が自分を批判していると感じるようになる。心の中で他人を責める者だけが、自分がいつも批判されているように感じるのである。もし心の中で他人への文句が浮かんだのなら、「その酷い内容の話を信じ
過去の嫌な体験を思い出す時、私は自分を庇う為に被害者意識を持つが、これは相手に罪悪感を背負わせるための心理的な攻撃なのです。この被害者意識という攻撃の心を持つことで、私は罪悪感を感じて神からの処罰を恐れるようになる。この世界は鏡であり、私の心の内容を具現
私が誹謗中傷を見る前に、心の中で必ず被害者意識が生じている。まず内側に被害者意識から不安と恐怖があり、外の世界を確認する必要性が生じて、その後に誹謗中傷を目にするのです。この世界のあらゆる存在物を支えているのが、相反する2極性である。押せば押し返される、熱
過去のトラウマを思い出す時、私は自分を庇う(かばう)ために被害者意識を持つ。「私は不当な苦痛を味わった」これは自分を庇う為に考えているのだから、自分にとって良いことだと思っているのですが、違うのです。被害者意識を持つことは、相手に罪悪感を抱かせる(いだかせる
通常の鏡だと、鏡の前に立つと自分の物理的な姿が映し出される。しかし、現実世界というのは、自分の無意識の心の状態を具現化した他者の姿が見える特殊な鏡なのである。私が無意識に攻撃の心を鏡に向けて、私を攻撃してくる他者の姿を鏡に映し出すことで、最初は私が攻撃の
自分が「信じるに値しない人間」という誹謗中傷をされているのを見た時、私が認識できるのは全体像の半分だけである。私は彼らの攻撃には何の正当性も無いとだけ感じる。だから私は、なぜ自分が攻撃されているのかが理解できない。認識できないもう半分は、無自覚な私の「心
「人はしかるべき場所を、立つべき処(ところ)を持たずして、生きていくことができるのか?」もしそれが本当に真実であれば、それをよりより処(どころ)にした考え方ができる。そして世界での発言と振る舞いが変わってくる。にほんブログ村
「心の闇」が疼いて(うずいて)過去のトラウマが蘇った時、その出来事の全体像を吟味してよく確認してから赦そう(ゆるそう)とすると、僕は大抵嫌がって次に怒りの感情で腹が立ちます。自我の判断を介入させてからだと赦せない(ゆるせない)のです。前もって赦す(ゆるす)と心を
「愛することでしかそれ(対象)を本当に知ることはできない」のであれば、奇跡講座をもっと愛することができれば、ちゃんと理解できるようになるのでは?と思っていました。しかし奇跡講座という形(かたち)を崇める(あがめる)ことが、本当の意味で愛するということにはならな
私たちはまず無意識に内側の心を見て、もしそこに「心の闇」があるなら、即座に外の世界にあらゆる形象(かたち)を映し出す。そしてその意味を理解しようとしているうちに次第に不快な気分になり、結果として怒るのです。まず外の世界に形象(かたち)として映し出された、不快
私たちはSNSなどを利用して繋がりを持とうとするが、本物の気持ちを返してくれる人は居ない。SNSに真実の絆は存在しない。なぜなら見えている世界というのは、心の中の分離の想念が目の前に映し出されたものだから、分離の世界には本物の絆は見つからないのです。それでも、
神が創造したままの神の子のオリジナルの心は無形・永遠・完璧であり、心の中に形象(かたち)である言葉は実在しない。私たちは神から分離する為に、「神が創造したままのオリジナルの心」の代用品として、「パロディーである自我の心」を作った。神が創造したままのオリジナ
自我は2極性を信じている。裕福と貧乏、健康と病気、美しい者と不細工、強い者と弱き者、知能の高い者と馬鹿、皆が好む他人との差異とはより多くの良いとされる極の極端な独占状態である。裕福で健康で美しく強く知能が高い、これらの有利性の差異をずっと維持している者が勝
私のこれまでの傾向として、例えばゲームでもキャラクターの見かけの形(かたち)の好みだけ見て、内容であるキャラクターの心情描写は無視していました。ボスが出てきたらただダメージを与えてステージをクリアするだけで、主人公達の意志や成長と言ったことには無関心でした
私が文句を言うのは不快(ふかい)だからなのですが、そもそも他人のせいにしている考え方が間違っているのです。無自覚に「私の」罪悪を他人の中に見て文句を言ってる限り、私の言う「絶対的根拠は嘘だらけ」なのです。にほんブログ村
誹謗中傷は相手が過去に達成できなかったことや過ち(あやまち)について責める。実際に私に何があったかについては食い違うだろうが、私に苦痛をもたらしている過去の傷跡があるということ。無能力、失敗、空虚感、心の欠けてる部分、つまり私の『心の闇』について語っている
私の眼前(がんぜん)に現実世界が映し出されている。そこで私の人生という夢が紡がれる(つむがれる)。私の夢の世界の登場人物が私にとって悪い事をして、そのせいで苦痛を味わったと腹を立てているとする。しかし私の見ている夢の世界の登場人物の誰かに罪悪があると解釈した
かつて楽園で神と共に永遠の日々を過ごしていたある時、神の子の心に小さな狂った考えが生じた。それは神が創造したままの神の子であることを辞めるというもので、自分で思い通りの自分になれるという妄想によって自我を作り出した。それは「あなたの愛だけでは足りなかった
かつて神の子であった私たちは神が創造したままのオリジナルの神の子であることを辞めて、自分で思い通りのパロディーの自分になれるという妄想よって自我を作り出した。そして思い通りの特別な存在になれた自我の素晴らしさを神に認めさせたかった。これが神の子の小さな狂
自分への誹謗中傷を目にして怒りを感じることを正当化しようとした時に、気付いて欲しい、「原因は自分の心にある」と。誹謗中傷の語っている酷い論理と、同じ間違ったことを自分も無自覚に信じているのです。誹謗中傷という形で「あなたにはこんなところがある」と指摘され
不快(ふかい)な気分になった時、誰かや何かのせいにしたくなるが、少し立ち止まって欲しい。外の世界の何かが原因で不快感が生じているように見えているのだが、本当は内側の心の闇が外の世界に映し出されてそれを不快だと感じていることを。原因は自分の無自覚の心の闇にあ