心の内側の闇が外の世界に映し出されて問題となって見えている。私たちは問題に直面(ちょくめん)した時、腕力、知力、お金などの「力(ちから)」で問題を解決しようとする傾向にある。お金の力(ちから)で健康になれるかというと、健康に良い食べ物を買うよりも、健康に悪い食
かつて「はるかなる故郷」に居た私たちに小さな狂った考えが生じた。神が創造したままのオリジナルの神の子であることを止めて、神の子の代用品(パロディー)としての自我を作り出して神から分離したというものです。神と神の子は一体であり、その一体性から分離したのが自我
赦せる(ゆるせる)かどうかは、全体像をよく確認してからでないと決定できないと、「被害者意識」で過去を回想して酷い物語が頭の中で流れて、そして怒るという一定のパターンが私にはあります。量子物理学の「シュレディンガーの猫状態」というか、全体像を確認するまでは赦
疲れている時によく被害者意識に囚われて過去を回想することがありますが。過去の記憶の全体像を再確認すると、酷い話なので嫌な気持ちになって行動の面で暴発することがあるのですが。量子力学実験のシュレディンガーの猫状態というか、過去の全体像を再確認するまでは赦せ
被害者意識で過去を解釈すると、主観的には腹が立ってくるが、客観的には狂った解釈であり、聞くに堪えない物語であると解る。被害者意識というのは自分を庇う為にそう考えるのだが、全然自分を守れていない防衛である。自分の思考の底流を流れている愚かな部分があり、主観
無能力、失敗、空虚感、欠乏感、これらの「心の闇」が目の前のスクリーンに映し出されたのがこの世界の正体である。神からの分離。それは天国から離れる、という「夢のはじまり」その分離の「闇」が自我となった。自我はあなたの心にある天国の記憶の封印が解かれることを恐
過去の嫌な体験を思い出す時、私は自分を庇う為に被害者意識を持つが、これは相手に罪悪感を背負わせるための心理的な攻撃なのです。この被害者意識という攻撃の心を持つことで、私は罪悪感を感じて神からの処罰を恐れるようになる。この世界は鏡であり、私の心の内容を具現
私が誹謗中傷を見る前に、心の中で必ず被害者意識が生じている。まず内側に被害者意識から不安と恐怖があり、外の世界を確認する必要性が生じて、その後に誹謗中傷を目にするのです。この世界のあらゆる存在物を支えているのが、相反する2極性である。押せば押し返される、熱
過去のトラウマを思い出す時、私は自分を庇う(かばう)ために被害者意識を持つ。「私は不当な苦痛を味わった」これは自分を庇う為に考えているのだから、自分にとって良いことだと思っているのですが、違うのです。被害者意識を持つことは、相手に罪悪感を抱かせる(いだかせる
通常の鏡だと、鏡の前に立つと自分の物理的な姿が映し出される。しかし、現実世界というのは、自分の無意識の心の状態を具現化した他者の姿が見える特殊な鏡なのである。私が無意識に攻撃の心を鏡に向けて、私を攻撃してくる他者の姿を鏡に映し出すことで、最初は私が攻撃の
自分が「信じるに値しない人間」という誹謗中傷をされているのを見た時、私が認識できるのは全体像の半分だけである。私は彼らの攻撃には何の正当性も無いとだけ感じる。だから私は、なぜ自分が攻撃されているのかが理解できない。認識できないもう半分は、無自覚な私の「心
「人はしかるべき場所を、立つべき処(ところ)を持たずして、生きていくことができるのか?」もしそれが本当に真実であれば、それをよりより処(どころ)にした考え方ができる。そして世界での発言と振る舞いが変わってくる。にほんブログ村
「心の闇」が疼いて(うずいて)過去のトラウマが蘇った時、その出来事の全体像を吟味してよく確認してから赦そう(ゆるそう)とすると、僕は大抵嫌がって次に怒りの感情で腹が立ちます。自我の判断を介入させてからだと赦せない(ゆるせない)のです。前もって赦す(ゆるす)と心を
完璧でない形(かたち)をしているものは愛することができないというジレンマ
「愛することでしかそれ(対象)を本当に知ることはできない」のであれば、奇跡講座をもっと愛することができれば、ちゃんと理解できるようになるのでは?と思っていました。しかし奇跡講座という形(かたち)を崇める(あがめる)ことが、本当の意味で愛するということにはならな
私たちはまず無意識に内側の心を見て、もしそこに「心の闇」があるなら、即座に外の世界にあらゆる形象(かたち)を映し出す。そしてその意味を理解しようとしているうちに次第に不快な気分になり、結果として怒るのです。まず外の世界に形象(かたち)として映し出された、不快
私たちはSNSなどを利用して繋がりを持とうとするが、本物の気持ちを返してくれる人は居ない。SNSに真実の絆は存在しない。なぜなら見えている世界というのは、心の中の分離の想念が目の前に映し出されたものだから、分離の世界には本物の絆は見つからないのです。それでも、
神が創造したままの神の子のオリジナルの心は無形・永遠・完璧であり、心の中に形象(かたち)である言葉は実在しない。私たちは神から分離する為に、「神が創造したままのオリジナルの心」の代用品として、「パロディーである自我の心」を作った。神が創造したままのオリジナ
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心の内側の闇が外の世界に映し出されて問題となって見えている。私たちは問題に直面(ちょくめん)した時、腕力、知力、お金などの「力(ちから)」で問題を解決しようとする傾向にある。お金の力(ちから)で健康になれるかというと、健康に良い食べ物を買うよりも、健康に悪い食
私が他人を批判したり他人の悪口を言う時、本当は私の心の中のやましさを直視したくないのです。私の心の中の見たくない部分、それに触れたり、それについて言及(げんきゅう)してはいけないアンタッチャブルな絶対不可侵(ぜったいふかしん)の心の領域、それがやましさです。
ネット掲示板の私についての誹謗中傷や悪口を見る時、私自身の心の闇が映し出されたものとしてその掲示板は存在している。誹謗中傷や悪口が効いてしまうのは、私自身にやましいところがあるからです。だけどそのやましい心を私は見たくない。それを認めてしまったら私の方が
体内に慢性炎症(まんせいえんしょう)があると炎症を抑える(おさえる)為に、ストレスホルモンである血中コルチゾール濃度が上昇する。この血中コルチゾールレベルが常に高いと脳はストレスを感じる。血中コルチゾールレベルが高くても短期間なら問題ないが、慢性的に血中コル
私についての誹謗中傷のネット掲示板に何が書いてあるか気になって見たくなった時、実はその誹謗中傷と全く同じものが私の内側にある。私がネット掲示板の私への誹謗中傷を見る直前に、「何かがそれに先行していたはずである」。それは私の無意識の「心の闇」の疼き(うずき)
私が気分が悪い時というのは、私の心の中の見たくない部分が疼いた(うずいた)時です。この心の中の見たくない部分が「心の闇」です。この不快感をもたらす見たくない「心の闇」を私の中から除外(じょがい)するために、他者の中に私が嫌がってるものを見ることで、私は私の心
私たちの正体は「たった一つの想念」である。見かけの上辺(うわべ)はそうは見えず、私たちは別個(べっこ)の分離(ぶんり)した肉体であるかのように見えている。私が嫌な人、バカにしている人、蔑んでる人は、私が認めたくない「私の一部(part of me)」を映す鏡です。彼らを鏡
赦していない心の状態(じょうたい)で、赦さないことを選択し続けるのはあまりにもeasy(イージー)です。赦し(ゆるし)とは、最初から赦している精神状態で、何の抵抗もなく赦す(ゆるす)という簡単なものでもない。嫌だった過去を思い出した瞬間というのは、常(つね)に赦してい
言葉によって傷ついたり腹が立つ原因は、相手の言葉の意味にあるのだと私は誤解していた。気付くべきである。その体験に私がした解釈(かいしゃく)は、私の無意識の「心の闇」の投影(とうえい)であったと。「相手が私の心の触れて(ふれて)はいけない部分に触れた。」この解釈
自分についてのネットのSNSの誹謗中傷を見る時、見えているそのまんまに判断するなら、誹謗中傷を書いた人が悪い、と考えるのが普通だろう。しかし、ここで解釈(かいしゃく)の訂正が必要になる。私が誹謗中傷を見る時、実はその誹謗中傷と全く同じものが私の内側にある。そし
僕は高校の頃に重度の慢性炎症になっていて、その病気の苦痛のストレスでクタクタに疲れていて高校を辞めたかったのですが、母親が僕を無理矢理学校に通わせて、更に学校に通うために重い副作用のある治療を嫌だったのに強要したのです。無理強いされたせいで高校卒業後も病
私たちは嫌な事があっても、反射的に怒っているのではなく、出来事の意味を理解しようとしているうちに、酷いと解釈(かいしゃく)することによって腹を立てるのです。これは自分では自覚できないようなプロセスで為される(なされる)。ネットや陰口などで誹謗中傷されている場
私は過去のトラウマを思い出した時、それがいかに酷い話だったかを考える。そして被害者意識で解釈(かいしゃく)して、その酷い話が真実だったと確信(かくしん)している。「なぜなら私の感覚がそうだと言っているから」です。だが酷いと解釈することによって、「それをそのよ
私は私の誹謗中傷のネット掲示板を見て気分が損なわれる(そこなわれる)ことがある。しかし気分が損なわれた原因のように見えているネット掲示板を見る直前に、「何かが先行していた」はずである。それは「私には何かとても大切なものが欠けている」、という心の欠乏(けつぼう
私には病気の過去のトラウマがある。私がトラウマを思い出す時、反射的に自分を庇う(かばう)ために、自分が苦しいのを人のせいにする。この苦痛の責任は私にはない、相手が処罰されるべきで、私は救われるべきだと。私は自分を庇うために他者を憎むのだが、それは逆効果であ
口に出さなくとも、頭の中のスクリーンに映し出された誰かを憎悪して、悪く思ったり心の中で批判することは投影(とうえい)である。投影とは、無意識の「心の闇」である憎悪が自分の頭の中のスクリーンに映し出されて、イメージされた他者をそこで憎んで、悪口を思い浮かべた
私は時折(ときおり)、心の中で「カス、バカ、間抜け」と、他者に酷い言葉で悪態(あくたい)をつくことがある。私はその心の中の言葉に罪悪感を感じて、精神的に体裁(ていさい)が悪いので、心の中でポジティブな言葉で上塗り(うわぬり)しようとする。「言葉を間違えた」ことが
私は時折、過去の嫌な記憶を思い出して、間違った解釈(かいしゃく)をして、その考えを信じてしまうことがある。これは私が気付かないようなやり方でなされる。無意識の「心の闇」が自分の頭の中のスクリーンに投影(とういえい)されて、映し出されたイメージを憎悪することで
私は過去に達成できなかったことを思い出して、何々が原因で出来なかったと、憎悪(ぞうお)に囚われる(とらわれる)ことがある。しかし頭の中のスクリーンに映し出された人物を憎悪することは、自分自身の心を呪うことです。なぜなら私たちの正体は「たった一つの想念(そうねん
私には私が蔑んでる(さげすんでる)人のインターネット上の日記(ブログ)をチェックしたくなるという、「心の闇」の衝動がある。その人のネット上の日記を読んで、その人の卑小(ひしょう)さを確認することで、私の「心の闇」は悦び(よろこび)増大するのです。「心の闇」が増大
過去のトラウマを思い出した時、無意識に自分を庇う為に被害者意識で考え出す。自分は悪くなくて他人が悪いという、頭の中で自分の自我が言ってることを理解しようとすると、段々腹が立ってくるのです。この時にできるだけ早く、考えてる内容が間違ってると自分で気付けると
神と神が創造したままのオリジナルの神の子の関係を神聖な関係という。ある時、神の子がオリジナルの神の子であることを辞めて、自分で思い通りのパロディーの自分になれたら、物凄く特別な存在になれるという妄想を抱いた。そう思った途端に神の愛が感じれなくなり、パロデ
あの人のせいで苦しんだと思っている時が一番苦しいですが、彼に罪悪は無かったと赦そう(ゆるそう)という目的を持つなら、必ず赦せる時が来ます。その時、本当の原因が見えるようになり、解決策が授けられる。この世界を駆動しているのは心なのです、真の因果律とは物理法則
自分の内側の「心の闇」を見たくないのでその存在を否認すると、必然的に外の世界に「心の闇」が映し出され具現化したものを見ることになる。自分が蔑んで(さげすんで)いるもの、嫌がっているものを他人に見ることで、自分の内側の「心の闇」を除外できたという思い違いがあ
心に思い浮かぶことは真実であるという思い違いがある。実際は心に思い浮かんだことをそのまんま行動に移せば、他人からは間違っていると見えるのです。私の場合は自分で気付けないばかりか、他人から間違いを指摘されても理解できなかったりした。一番良いのは他人から指摘
過去の嫌なことで被害者意識を持って他人のせいにしていると「心の闇」が増大して、その闇が映し出された悪夢の世界を見ることになる。つまり過去が再現された嫌な世界が未来にまた訪れるのです。赦さない(ゆるさない)でいると未来は同じ嫌なことの繰り返しとなる。他者を赦
過去のトラウマに対する被害者意識、他者への不満と文句、悪口と批判、これらを頭に思い浮かべる度に「心の闇」が増大する。そしてこの「心の闇」こそが実質的な損失であり、自分の心を幽閉(ゆうへい)する鎖である。「心の闇」を増大させる考えは一切抱かないくらいのつもり
誰しもが心に過去からの傷を負っている。過去のトラウマ。これを見たくないものとして自分の中でその存在を否認したことにより、心の中に光の当たらない部分「心の闇」ができた。触れてはいけないもの、それについて言及してはいけないアンタッチャブルな心の領域、それが「
悪口とは自分の「心の闇」が具現化した他者の概念を実在させようとする行為です。悪口の形態は様々でしょうが、内容は自分の「心の闇」の目で見えた他者の姿を悪く言ってる点で、どの悪口も同じです。悪口とは蔑んで(さげすんで)いるものを他人に見ることで、自分の内側の無
無意識の「心の闇」が疼いた(うずいた)時、私は不快感を感じる。心を安定させる為に、「嫌いなものを外の世界に見ることで」内側の「心の闇」を解消できると思い込んでいた。ネットの誹謗中傷を目にすると私の自我は、「もっと見るねん」と私を外の世界に釘付けにしようとす
人は事実に対して怒るのではなく、出来事についての「自我の解釈(かいしゃく)」を信じることによって怒るのです。自我の被害者意識の、「私は被害者だ、私が苦しいのはアイツのせいだ」という解釈を聴き入っているうちに腹が立ってきて私は怒るのです。自我の解釈を真に受け
過去のトラウマを想起した時、自分を庇う(かばう)ために自我が被害者意識で「自分が苦しいのを人のせいにすることができる」とその魅惑的(みわくてき)なロジックを頭の中で語りだしてきます。その頭の中で自我の言ってることの意味を理解しようとしていると腹が立ってきて、
疲労やストレスを感じると性格が悪くなり他人を批判しがちです。疲労やストレスによって抑圧(よくあつ)されていた無意識の「心の闇」が表面化して私は不機嫌になる。私は不快感を感じているので嫌なものを外の世界に見ること、他人の中に罪悪を見て、蔑んで(さげすんで)いる
私の心の中には見たくないものがあり、それが私の罪悪である「心の闇」です。直視するにはおぞましいこの罪悪の闇を否認(ひにん)して、つまり見たくないが故にその心の闇が存在しないフリをする。しかし心の闇は無意識に疼いて(うずいて)私は不快感を感じる。私は精神を安定
過去のトラウマを思い出す時、被害者意識でどうしてそうなったかを考えて誰かのせいだと確信しようとする。この一見良い事のように見える、苦痛から自分を庇う(かばう)ために被害者意識で文句を言うことが、自分の「心の闇」を増大させる。「心の闇」が具現化した、私を誹謗
私は疲れている時に無自覚の「心の闇」の衝動で他人の悪口を言う傾向にある。「心の闇」は不快なためそれを解消しようとして悪口を言うのです。その時、私は直接的に自分の「心の闇」のせいで不快感を味わっていることには全く気付かない。私は不快感を解消するために他人の
無意識の「心の闇」が疼く(うずく)と、私は不安感に襲われて、すぐに外の世界を確認したくなり、険しい表情で誹謗中傷を目にする。自我はこう言うだろう「もっと見るねん」と。それが、なぜ、どのようにして起こったのか、と分析することは目に見えてものの実在性を強化して
過去のトラウマを想起(そうき)して文句を言うとは、頭に思い浮かんだそのまんまに文句を言うことです。「目に見えているそのまんまに文句を言う」あたかも私が被害者であるかのように。この発生源には「私の」罪悪である心の闇がある。この心の闇が頭の中のスクリーンに映し
私が過去を想起(そうき)して不快感に囚われた時、「過去に不当な扱いを受けたことに文句を言うのは正当である」という、間違った思い込みをしている。私は過去の出来事が私を不快にしていると思い込んでいて、それを他人の責任にしようとしている。この過去の不快感が「心の
無自覚の心の闇が疼いて(うずいて)不安な気持ちになり外の世界を確認すると、やっぱりそこに嫌な物、嫌な人を見ることになる。これは鏡のように私の無意識の心の内容を具現化した、私を攻撃してくる他者という姿が見えているのです。そうして私は気になるから外の世界の他者