全身の細胞は血糖を代謝することでエネルギーを得ている。血糖はそのままでは細胞の中に入って行かず、細胞の壁にはドアがあって、インスリンが細胞壁の鍵穴に入るとドアが開いて細胞の中に血糖が吸収され血液中の血糖値が下がる。砂糖と果糖ブドウ糖液糖と穀粉(こくふん)が
かつて「はるかなる故郷」に居た私たちに小さな狂った考えが生じた。神が創造したままのオリジナルの神の子であることを止めて、神の子の代用品(パロディー)としての自我を作り出して神から分離したというものです。神と神の子は一体であり、その一体性から分離したのが自我
赦せる(ゆるせる)かどうかは、全体像をよく確認してからでないと決定できないと、「被害者意識」で過去を回想して酷い物語が頭の中で流れて、そして怒るという一定のパターンが私にはあります。量子物理学の「シュレディンガーの猫状態」というか、全体像を確認するまでは赦
疲れている時によく被害者意識に囚われて過去を回想することがありますが。過去の記憶の全体像を再確認すると、酷い話なので嫌な気持ちになって行動の面で暴発することがあるのですが。量子力学実験のシュレディンガーの猫状態というか、過去の全体像を再確認するまでは赦せ
被害者意識で過去を解釈すると、主観的には腹が立ってくるが、客観的には狂った解釈であり、聞くに堪えない物語であると解る。被害者意識というのは自分を庇う為にそう考えるのだが、全然自分を守れていない防衛である。自分の思考の底流を流れている愚かな部分があり、主観
無能力、失敗、空虚感、欠乏感、これらの「心の闇」が目の前のスクリーンに映し出されたのがこの世界の正体である。神からの分離。それは天国から離れる、という「夢のはじまり」その分離の「闇」が自我となった。自我はあなたの心にある天国の記憶の封印が解かれることを恐
過去の嫌な体験を思い出す時、私は自分を庇う為に被害者意識を持つが、これは相手に罪悪感を背負わせるための心理的な攻撃なのです。この被害者意識という攻撃の心を持つことで、私は罪悪感を感じて神からの処罰を恐れるようになる。この世界は鏡であり、私の心の内容を具現
私が誹謗中傷を見る前に、心の中で必ず被害者意識が生じている。まず内側に被害者意識から不安と恐怖があり、外の世界を確認する必要性が生じて、その後に誹謗中傷を目にするのです。この世界のあらゆる存在物を支えているのが、相反する2極性である。押せば押し返される、熱
過去のトラウマを思い出す時、私は自分を庇う(かばう)ために被害者意識を持つ。「私は不当な苦痛を味わった」これは自分を庇う為に考えているのだから、自分にとって良いことだと思っているのですが、違うのです。被害者意識を持つことは、相手に罪悪感を抱かせる(いだかせる
通常の鏡だと、鏡の前に立つと自分の物理的な姿が映し出される。しかし、現実世界というのは、自分の無意識の心の状態を具現化した他者の姿が見える特殊な鏡なのである。私が無意識に攻撃の心を鏡に向けて、私を攻撃してくる他者の姿を鏡に映し出すことで、最初は私が攻撃の
自分が「信じるに値しない人間」という誹謗中傷をされているのを見た時、私が認識できるのは全体像の半分だけである。私は彼らの攻撃には何の正当性も無いとだけ感じる。だから私は、なぜ自分が攻撃されているのかが理解できない。認識できないもう半分は、無自覚な私の「心
「人はしかるべき場所を、立つべき処(ところ)を持たずして、生きていくことができるのか?」もしそれが本当に真実であれば、それをよりより処(どころ)にした考え方ができる。そして世界での発言と振る舞いが変わってくる。にほんブログ村
「心の闇」が疼いて(うずいて)過去のトラウマが蘇った時、その出来事の全体像を吟味してよく確認してから赦そう(ゆるそう)とすると、僕は大抵嫌がって次に怒りの感情で腹が立ちます。自我の判断を介入させてからだと赦せない(ゆるせない)のです。前もって赦す(ゆるす)と心を
完璧でない形(かたち)をしているものは愛することができないというジレンマ
「愛することでしかそれ(対象)を本当に知ることはできない」のであれば、奇跡講座をもっと愛することができれば、ちゃんと理解できるようになるのでは?と思っていました。しかし奇跡講座という形(かたち)を崇める(あがめる)ことが、本当の意味で愛するということにはならな
私たちはまず無意識に内側の心を見て、もしそこに「心の闇」があるなら、即座に外の世界にあらゆる形象(かたち)を映し出す。そしてその意味を理解しようとしているうちに次第に不快な気分になり、結果として怒るのです。まず外の世界に形象(かたち)として映し出された、不快
私たちはSNSなどを利用して繋がりを持とうとするが、本物の気持ちを返してくれる人は居ない。SNSに真実の絆は存在しない。なぜなら見えている世界というのは、心の中の分離の想念が目の前に映し出されたものだから、分離の世界には本物の絆は見つからないのです。それでも、
神が創造したままの神の子のオリジナルの心は無形・永遠・完璧であり、心の中に形象(かたち)である言葉は実在しない。私たちは神から分離する為に、「神が創造したままのオリジナルの心」の代用品として、「パロディーである自我の心」を作った。神が創造したままのオリジナ
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全身の細胞は血糖を代謝することでエネルギーを得ている。血糖はそのままでは細胞の中に入って行かず、細胞の壁にはドアがあって、インスリンが細胞壁の鍵穴に入るとドアが開いて細胞の中に血糖が吸収され血液中の血糖値が下がる。砂糖と果糖ブドウ糖液糖と穀粉(こくふん)が
特別性の投影(とうえい)によって我々に見えている、数々(かずかず)の諸問題(しょもんだい)は、時間と距離の、他者との「隔たり(へだたり)」の中で起こる。分かり合えない心の、途方(とほう)もない「隔たり」こそが、投影の本質(ほんしつ)である。その問題は遡る(さかのぼる)
神が創造したままの神の子のオリジナルの「たった一つの想念(そうねん)」からの分離(ぶんり)が、この世界と私たちの自我を作った。分離による投影(とうえい)が作り出した時間と空間の中で起こる問題が、それが自分との「宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)137億年」という、いかに
私たちの心の中には2つの視点が存在する。一つは分離の想念である特別性の自我の視点。もうひとつは溶け合う心であり「欲しいものすべて」である「たった一つの想念」の視点。自我の特別性の目的とは、自分だけがより多く独占することである。より多くでなければならない、何
私たちの遥かなる故郷である天国での、神と神の子の本来の関係では決して伴わない感覚は、全て「特別性(とくべつせい)」である。優越感や劣等感や攻撃や被害者意識や損得勘定や復讐心や承認欲求などは、全て「特別性」であり分離の悪夢である。過去のトラウマを思い出して被
私がかつてネット上で実現しようとしていたのは「特別性」というゴールである。それまでの人生で味わった辛酸(しんさん)と苦痛の全てが報われる(むくわれる)瞬間。万来(ばんらい)の拍手と称賛(しょうさん)と栄光の瞬間を欲していた。その「想いは届かない」。なぜならその「
かつて私たちの遥かなる故郷である天国で、神と私たち神の子の間で交わされて(かわされて)いた愛がオリジナルの関係である。だが天国に居た神の子の心に小さな狂った考えが生じた。私は天国で神に、「私が作った私の自我を、神が創造したままのオリジナルの神の子以上である
私には雑念が常にある。その一つにネット上の特定の統合失調症者に対する蔑み(さげすみ)の雑念がある。私は雑念がざわつくと、彼のyoutubeを見て、彼の低能力を確認して、彼の無価値性を見てそこに優越感(ゆうえつかん)を感じている。更に彼に対して「いじわる」をする思考実
嫌なことがあって腹が立った時、二者択一の選択肢が生じる。その被害者意識そのまんまに粗暴な言動や振る舞いをして相手を責める(せめる)か?それとも、赦し(ゆるし)たくないと思っているその瞬間(とき)に、あえて「心を変える決断」をして赦す(ゆるす)か?責めることは、「
私は統合失調症であり「相互主観性(そうごしゅかんせい)」の障害がある。これは無意識に「他者の主観を排除(はいじょ)する」という、コミュニケーションの障害のことです。私は言いたいことがあった時、相手の心の感じ方を無視して一方的に言ったりする。私に「主観を排除さ
私たちは何者なのか?どこから来てどこへ行くのか?私たちの正体は、肉体でも脳でも物質でも従来の意味の心でもない、「たった一つの想念」である。統合失調症患者が好んで使う物差し(ものさし)が、大学受験の偏差値である。高い偏差値のことを「頭のいい」と、接頭語(せっと
過去の嫌な記憶が思い出されて、赦し(ゆるし)たくないと思っている時は、赦す(ゆるす)のは難しい。しかし赦しが最も必要とされるのは、まさにその赦して(ゆるして)いない瞬間(とき)である。したがって最も赦しが必要とされる瞬間(とき)に、その赦しが不可能であるはずがない
私は統合失調症であり「相互主観性(そうごしゅかんせい)の障害」がある。自分とは異なる「他者の主観を排除する」という特性がある。他者の主観を排除してしまったら通信はできても心の通った(かよった)コミュニケーションはできない。私が例えば承認欲求からブログやエック
統合失調症の私には無意識に「他者の主観(しゅかん)を排除(はいじょ)する」相互主観性(そうごしゅかんせい)の障害がある。これは自分の心を守るために「他者の主観を排除している」のだが、これによって「人の話が聴けない状態」になり「赦し(ゆるし)が極めて困難となる」。
過去のトラウマを思い出して苦しくなった時、その過去の出来事について考え続けることは、必ず、「気分を損なう(そこなう)」という「損失(そんしつ)」を伴う(ともなう)。過去は毎回違った形(かたち)で想起(そうき)されるから、思い出される出来事の見かけが違っているのだか
罪悪感とは不快なものである。私が無意識に罪悪感を感じ取ると、不快感、イライラ、不安感、恐れが生じる。その後、私は外の世界を凝視(ぎょうし)して、他人の中に不快感の原因を見ようとする。この「自分が苦しいのを他人のせいにする」罪悪感の投影(とうえい)は「無意識」
心の内側の闇が外の世界に映し出されて問題となって見えている。私たちは問題に直面(ちょくめん)した時、腕力、知力、お金などの「力(ちから)」で問題を解決しようとする傾向にある。お金の力(ちから)で健康になれるかというと、健康に良い食べ物を買うよりも、健康に悪い食
私が他人を批判したり他人の悪口を言う時、本当は私の心の中のやましさを直視したくないのです。私の心の中の見たくない部分、それに触れたり、それについて言及(げんきゅう)してはいけないアンタッチャブルな絶対不可侵(ぜったいふかしん)の心の領域、それがやましさです。
ネット掲示板の私についての誹謗中傷や悪口を見る時、私自身の心の闇が映し出されたものとしてその掲示板は存在している。誹謗中傷や悪口が効いてしまうのは、私自身にやましいところがあるからです。だけどそのやましい心を私は見たくない。それを認めてしまったら私の方が
体内に慢性炎症(まんせいえんしょう)があると炎症を抑える(おさえる)為に、ストレスホルモンである血中コルチゾール濃度が上昇する。この血中コルチゾールレベルが常に高いと脳はストレスを感じる。血中コルチゾールレベルが高くても短期間なら問題ないが、慢性的に血中コル
目の前に世界を知覚(ちかく)する直前に何かが先行していたはずである。その何かとは、「心の闇の投影」である。これが世界の因果律(いんがりつ)の根底にある。心の中の見たくないもの、触れてはいけないもの、それについて言及してはいけないアンタッチャブルな絶対不可侵の
私たちの遥かなる故郷である天国で、かつて神と私たち神の子が至福の時を共有した接し方(せっしかた)が、私たちのオリジナル(本来)の関係です。それは見た目の形式主義のことではなく、喜びがあふれて止まらないPerfect feeling(完璧な感じ)の精神状態を伴う。だが天国で幸せ
ネットの誹謗中傷は心理戦ですが、批判された時に、対抗して自分の中で「I think this way(私はこう思う)」の方を勝ちとしたい場合は、相手と競い(きそい)、そして勝つという自我の誘惑に乗ったことになる。自分の方が頭が良いというプライドを賭けた勝負だが、相手と自分ど
世界を見るとはすなわち解釈(かいしゃく)であり、世界の見え方を伴う。この自我による解釈が私にとっての世界である。私は自分の解釈が間違っていて、それを基(もと)に間違ったことを考えていると、心の中で自分ですぐに気付けるかが問題行動を起こさない為に必要である。ま
自我とは愚かなパロディー(代替え品)である。かつて私たちが天国に居た時、神が創造したままのオリジナルの神の子を、自分だけの知能で超越できると妄想したことにより作り出されたパロディー(代替え品)、それが自我です。いわゆる「自分のことを頭がいいと思ってる」という
心の中で私の自我は過去に対して酷い被害的な解釈(かいしゃく)をする。頭に浮かぶその自我の語る被害的な物語に聴き入っているうちに腹が立ってくるのです。人は事実に対して怒るのではなく、事実についての解釈によって怒るのです。従って怒りの原因は心の中で自我がしてる
自分の自我が心の中で考えていることを客観的に観察すると、一見理屈に正当性はあるものの被害者意識で酷い内容であり、「それを信じるのか?」という問いが生じる。自分が間違ったことを考えているのだと気付けるかが運命の分かれ道。にほんブログ村
私には確かに「心の闇」がある。その心の闇の中心に私の自我がいる。自我は過去を忘れない。自我は酷いストーリーを頭の中で語りだす。その過去のストーリーを聞いている内に腹が立ち、自我の術中に落ちて心が制御不能になる。そもそも「それを信じるのか?」という問いがあ
創世神話(そうせいしんわ)について話そう。かつて私たちは神の子として天国で神と共に幸せに暮らしていた。しかし神の子である私たちの心に小さな狂った考えが生じた。神が創造したままのオリジナルの神の子であることをやめて、自分で思い通りのパロディーの自分になれたら
この2年間ほど統合失調症に「考え方を変える」という心理的なアプローチをしましたが、頭の中で堂々巡り(どうどう)に至りました。僕はこの心理的アプローチしか検討していなかったのではなく、サブシステムとして食事と運動による脳のコンディションの改善という「生化学的(
心の闇の中で誰の腕をつかんだのだろうか?それは神が創造したままのオリジナルの神の子。私のオリジナル。私の心の中に居る彼に名前をつけた。彼の名前は『Luke』ルークは光の地から来るもの、すなわち「光をもたらす者」の意味彼の姿を心の中に復元させよう。心の復活だ。
彼に差異(さい)を見て愉悦(ゆえつ)しようとしたり、羨ましさを感じるのではく、神が彼を見ているような目で彼を見るべきだ。その時「キミは”ゾッとするほど美しい彼の心が伝わってくる感覚”を感じ取ることができる」それは彼を見るあなたの目に神性なる愛が宿っているから
私はこの文章を書いている前夜に、他人の不幸を思い浮かべて、それと比較して自分は優位性があると、「他人の不幸は蜜の味」と愉悦(ゆえつ)を感じていたのですが、これは自我が与える快楽なのです。そして今朝、私は牢獄に居るような気分で目覚めた。私たちはひとつなのだか
この物理世界に自由はない。心は自分自身を闇に縛る(しばる)ことができる。これが心に限界をもたらす。精神病のフィーリングとは不自由な心である。頭の中で自分で考えている理屈が間違っており、これによって私は心が不自由になっている。私たちの本来の状態である神が創造
自我の存在は「欠乏(けつぼう)の原理」に基づいて(もとづいて)いる。まず心の中に欠乏の原理によって「恐怖・不安・文句・嫌がってる心」が生じる(しょうじる)。そしてその自我の欠乏感が投影(とうえい)されて、外の世界に映し出された嫌なものを見て「やっぱりそうか」と確
誰もが自分の無罪性を信じているのではなかろうか?だが他人の中には卑小(ひしょう)さや罪を見ることには抵抗が無い。このようにして自分は無罪だが他人は有罪だという状態を理想的だとみなす。この不公平な状態を好むことが私たちをイリュージョン(幻影)の世界に閉じ込める
過去のトラウマを思い出した時、自分を庇う(かばう)為に被害者意識で考えるのですが、この赦せない(ゆるせない)気持ちが自分自身の心にかけた呪いなのです。私は相手を呪ったのかもしれないが、自分のことは庇おう(かばおう)としたのであり、自分を呪う意図はなかったのだと
「キミには聴こえるか? 彼の心の祈りが?彼の願いが?頼む、彼を理解してやってくれ。そして彼の願いを叶えてやってくれ。キミにはそれができる」よく精神病者が「人の役に立てる人間になりたい」と言う。そういう人間になることを、キミが本当に望むのなら、お互いの心が
妄想とは間違った考えに囚われていることです。妄想が真実だから力があるのではない。その間違った考えを真実だと思い込むことで、自分で妄想に自分を支配する力を与えている。自分の考えていることが間違っていると、自分で気付くことによって妄想は止められる。にほんブロ
誰にでも間違いは起こるものだが、間違いは訂正可能である。答えは存在する。被害妄想とは間違った考えを訂正できない精神状態のことです。間違いは誰にでも起こる。「今自分は間違った考えをしている」と自分で気付ければ妄想は訂正可能になります。にほんブログ村