私たちは自分の頭の中のスクリーンに映し出されて知覚したものを世界とする。私には過去の病気のトラウマがあり、時折り(ときおり)、頭の中のスクリーンに映し出された過去のイメージを憎悪(ぞうお)する。しかし、頭の中に想起(そうき)したイメージを憎悪することは、すなわ
私たちは自分の頭の中のスクリーンに映し出されて知覚したものを世界とする。私には過去の病気のトラウマがあり、時折り(ときおり)、頭の中のスクリーンに映し出された過去のイメージを憎悪(ぞうお)する。しかし、頭の中に想起(そうき)したイメージを憎悪することは、すなわ
「私は頭が良い」というプライドが、自分の頭の中の間違った考えを妄信(もうしん)させている。
私は頭の中で自我が語る言葉を信じてしまう。「私は頭が良い」というプライドが、自分の頭の中の間違った考えを妄信(もうしん)させている。そして頭の中の絶え間ない独り言に耳を傾け続けて、それが有害であるのにその考えを信じてしまうのです。冷静になって考えれば、自分
血液中のコルチゾールレベルが上昇すると、脳はストレスを感じて不快な気分になる。しかし主観的には誰かのせいで不快なのだと解釈して、グルグル考えてしまう。原因は血液中のコルチゾールレベルの上昇にあるのだから、いくら考えても無意味である。コルチゾールレベルを押
他者の誤り(あやまり)を「罪」と見なすか、「間違い」と見るか。罪と見るということは、それが訂正不可能であり赦されない(ゆるされない)ことをしたと裁く(さばく)ことです。一方間違いは訂正可能である。その誤りはすでに赦されている(ゆるされている)。私が他人の間違いを
神と神の子の「オリジナルの関係」の「代替品(だいたいひん)」があり得るという幻想。それが特別性の承認欲求であり、代替品の関係として機能しない相手を私は憎悪する。だけど この世界中探したって「オリジナルの関係」の代わり(かわり)は無かったもし「たった一つ願いが
「心の闇」による欠乏感が強い程、問題の演出もより強大なものとなる。
私たちが見ている目の前の世界というのは、映写機(えいしゃき)である無意識の「心の闇」が投影(とうえい)されて、頭の中のスクリーンに映し出されたものである。私が不快感から不満や文句を言う時、「何かがそれに先行していたはずである」それが無意識の「心の闇」による欠
統合失調症者は「他者の主観を排除する」私は無意識の心の闇が疼いて(うずいて)、嫌なことを思い出して不快感を感じる時がある。その時、無意識の「心の闇」からくる不快感から逃れて、私が救われるために相手に罪悪感を与える目的で、苦情や文句を言う。この時、自分の言葉
私には私が蔑んでる(さげすんでる)人のインターネット上の日記(ブログ)を見たり、私の誹謗中傷のネット掲示板を見てしまうという心の闇がある。メリットが何も無く心を蝕む(むしばむ)だけだと分かっていることをするのはネット依存症なのです。だがこれらの蔑んでる人のブロ
今思うことは、私の価値観による考え方には欠けているところがあるということです。損得勘定がありますが、私がお得だと思って選択していることは、最善の利益ではない。私は結局、損したという私の価値観で文句を言うのです。この世界はイリュージョン(幻影)である。このイ
私が自分の自我に従って(したがって)しまう理由。それは、自我が「私を信じればお前だけは助けてやる」「私を信じれば、お前だけが得(とく)をすることができる」と心の中で私を幻惑(げんわく)してくるからです。私は何か得をしたような気分になる。自分の自我の考えているこ
統合失調症の症状が悪化している時は、自分がどう思うかが全てになっていて、つまり心の中が主観的(しゅかんてき)になり、同時に「他者の主観が排除(はいじょ)されている」。私は高校時代に病気で嫌な思いをしたトラウマがあり、時折そのトラウマを思い出し親に文句を言うの
パソコンのインターネットの世界に、私が蔑んでる(さげすんでる)人物が居て、彼の中に卑小(ひしょう)さを見て悦ぶ(よろこぶ)という闇の心が私にはあります。その後、必ず私の心に違和感が生じて、私についての誹謗中傷の掲示板を見てしまうのです。これには真の因果律(いんが
私は統合失調症であり「他者の主観(しゅかん)を排除(はいじょ)する」傾向があり、相互主観性(そうごしゅかんせい)の欠如がある。このように文章を書いている時でも自分の主観だけで書く傾向にある、私の文章は「読み手の主観を排除する」傾向にある。私の文章を読んだ人がど
統合失調症者がブログ(ネット上に公開できる日記)で、最初の内は自分の書いた日記に対して、リップサービスにせよ好意的なコメントが書き込まれて、幸せな世界を手に入れたと思っていたら、ある日自分に対して否定的な悪意あるコメントが書き込まれ出して、自分の世界が崩壊
統合失調症者は人と話をしている時でも「他者の主観を排除している」。統合失調症者は他者の主観『I(アイ)』が自分の心に侵入してくると、異物もしくはジッター(イライラさせられるもの)と判断して、自分の心の中から「他者の主観を排除する」のです。統合失調症者はルールに
「自分が苦しいのを人のせいにする」というのは割と一般的だ。過去に嫌な出来事があった。起こった事は変えられないし、その時に苦しむのは不可避(ふかひ)です。だがこれはキッカケに過ぎない。その後、それがトラウマとなることで、思い出す度に何度でも苦しむことになるの
SNSにおける承認欲求とは?これは一見人気者になりたいだけで悪い事ではないように思える。
SNSや掲示板での文章だけのやり取りというのは見た目の形態(けいたい)だけの通信だ。何しろ文面からは背後にある心の内容は読めないのだから。私に見えるのはSNS上の形態(かたち)だけでありそれが私の快不快を左右する。心のこもってない内容の無い形態(かたち)だけのリップ
私たちの遥かなる故郷である天国で神と神の子である私たちは幸せな日々を送っていた。だが天国に居た神の子の心に小さな狂った考えが生じた。「私が作った私の自我を、神が創造したままのオリジナルの神の子以上であると認めろ」この要求をしたとたん、私はパロディーとして
過去の嫌な体験を思い出す時、私は自分の心を守る為に反射的に被害者意識に囚われて、あの人のしたことが原因で苦しんだ、と思い込んでいる。自分の心の中の空虚感、欠乏感、罪悪感が外の世界に映し出されて、その世界の中心に居る私は何にも悪くないのに、彼の落ち度のせい
嫌な事を心の中で他人のせいにしていると、それが世界に映し出されて、他人が自分を批判していると感じるようになる。心の中で他人を責める者だけが、自分がいつも批判されているように感じるのである。もし心の中で他人への文句が浮かんだのなら、「その酷い内容の話を信じ
精神疾患とは脳の生化学的な代謝の異常です。どれほどの精神療法を施したとしても、この脳の生化学的な反応を改善しないと無駄であることがわかっている。脳を構成する脂質で一番必要とされているのがDHAなどのオメガ3脂肪酸であり、長期間オメガ6脂肪酸とトランス脂肪酸の摂
過去のトラウマを思い出す時、自分を庇う為に被害者意識で頭の中でストーリーを再現して、それを理解しようとしているうちに腹が立ってくるのです。被害者意識という点で主観的であり、内容も脚色(きゃくしょく)されているのだが、私は酷い話の小説の作者のようなものです。
根本的なエラーは 「私は頭が良い、なぜなら私の感覚がそうだと言っているからだ」にある。
主観的には朝、地平線から太陽が昇る(のぼる)と経験されているも拘わらず(かかわらず)、客観的には太陽の周りを地球が自転しているのが真実です。過去の上手くいかなかったトラウマについて考える時、「なぜなら私の感覚がそうだと言っているからだ」を絶対的根拠として、I t
主観的には文句を言うことが正しいように感じられても、客観的には間違っている
過去の嫌な出来事について文句を言う時、私の被害者意識は正当なものだと「私の感覚がそうだと言っている」しかし、主観的には私の文句が正しいように感じられても、やはり客観的には私は間違っているのである。そして私の心が間違っているのが真実だという確信がある。こう
私がネットで誹謗中傷される原因となったのが「特別性の承認欲求」
私がネットで誹謗中傷される原因となったのが「特別性の承認欲求」です。この人生が始まった理由。それはかつて天国で神からは拒まれた「特別な好意」を、この世界の他者に求めたということです。分離によって私の心と神の心に不一致が生じた。それは私の「私は愛さないが、
過去の嫌だったことを思い出すと、反射的に自分を庇う(かばう)ために被害者意識に囚われる(とらわれる)。自我はその嫌だった過去を理由に、私が心に憎悪の意思を持つことを強要してくる。そして私は、心の中に憎悪の他に選択肢は無いと誤解し、私は正しいのだと騙されて(だま
目の前に世界を知覚(ちかく)する直前に何かが先行していたはずである。その何かとは、「心の闇の投影」である。これが世界の因果律(いんがりつ)の根底にある。心の中の見たくないもの、触れてはいけないもの、それについて言及してはいけないアンタッチャブルな絶対不可侵の
私たちの遥かなる故郷である天国で、かつて神と私たち神の子が至福の時を共有した接し方(せっしかた)が、私たちのオリジナル(本来)の関係です。それは見た目の形式主義のことではなく、喜びがあふれて止まらないPerfect feeling(完璧な感じ)の精神状態を伴う。だが天国で幸せ
ネットの誹謗中傷は心理戦ですが、批判された時に、対抗して自分の中で「I think this way(私はこう思う)」の方を勝ちとしたい場合は、相手と競い(きそい)、そして勝つという自我の誘惑に乗ったことになる。自分の方が頭が良いというプライドを賭けた勝負だが、相手と自分ど
世界を見るとはすなわち解釈(かいしゃく)であり、世界の見え方を伴う。この自我による解釈が私にとっての世界である。私は自分の解釈が間違っていて、それを基(もと)に間違ったことを考えていると、心の中で自分ですぐに気付けるかが問題行動を起こさない為に必要である。ま
「自分のことを頭がいいと思ってる」というのはパロディーである自我を賛美する言葉
自我とは愚かなパロディー(代替え品)である。かつて私たちが天国に居た時、神が創造したままのオリジナルの神の子を、自分だけの知能で超越できると妄想したことにより作り出されたパロディー(代替え品)、それが自我です。いわゆる「自分のことを頭がいいと思ってる」という
疑いをかけろ その自我に その限界におまえを渡すな(わたすな)
心の中で私の自我は過去に対して酷い被害的な解釈(かいしゃく)をする。頭に浮かぶその自我の語る被害的な物語に聴き入っているうちに腹が立ってくるのです。人は事実に対して怒るのではなく、事実についての解釈によって怒るのです。従って怒りの原因は心の中で自我がしてる
自分の自我が心の中で考えていることを客観的に観察すると、一見理屈に正当性はあるものの被害者意識で酷い内容であり、「それを信じるのか?」という問いが生じる。自分が間違ったことを考えているのだと気付けるかが運命の分かれ道。にほんブログ村
私には確かに「心の闇」がある。その心の闇の中心に私の自我がいる。自我は過去を忘れない。自我は酷いストーリーを頭の中で語りだす。その過去のストーリーを聞いている内に腹が立ち、自我の術中に落ちて心が制御不能になる。そもそも「それを信じるのか?」という問いがあ
創世神話(そうせいしんわ)について話そう。かつて私たちは神の子として天国で神と共に幸せに暮らしていた。しかし神の子である私たちの心に小さな狂った考えが生じた。神が創造したままのオリジナルの神の子であることをやめて、自分で思い通りのパロディーの自分になれたら
統合失調症の正解は「心理学的アプローチ」か「生化学的アプローチ」か
この2年間ほど統合失調症に「考え方を変える」という心理的なアプローチをしましたが、頭の中で堂々巡り(どうどう)に至りました。僕はこの心理的アプローチしか検討していなかったのではなく、サブシステムとして食事と運動による脳のコンディションの改善という「生化学的(
心の闇の中で誰の腕をつかんだのだろうか?それは神が創造したままのオリジナルの神の子。私のオリジナル。私の心の中に居る彼に名前をつけた。彼の名前は『Luke』ルークは光の地から来るもの、すなわち「光をもたらす者」の意味彼の姿を心の中に復元させよう。心の復活だ。
彼に差異(さい)を見て愉悦(ゆえつ)しようとしたり、羨ましさを感じるのではく、神が彼を見ているような目で彼を見るべきだ。その時「キミは”ゾッとするほど美しい彼の心が伝わってくる感覚”を感じ取ることができる」それは彼を見るあなたの目に神性なる愛が宿っているから
私はこの文章を書いている前夜に、他人の不幸を思い浮かべて、それと比較して自分は優位性があると、「他人の不幸は蜜の味」と愉悦(ゆえつ)を感じていたのですが、これは自我が与える快楽なのです。そして今朝、私は牢獄に居るような気分で目覚めた。私たちはひとつなのだか
この物理世界に自由はない。心は自分自身を闇に縛る(しばる)ことができる。これが心に限界をもたらす。精神病のフィーリングとは不自由な心である。頭の中で自分で考えている理屈が間違っており、これによって私は心が不自由になっている。私たちの本来の状態である神が創造
「恐怖・不安・文句・嫌がってる心」が心に生じた瞬間にそれらを赦す
自我の存在は「欠乏(けつぼう)の原理」に基づいて(もとづいて)いる。まず心の中に欠乏の原理によって「恐怖・不安・文句・嫌がってる心」が生じる(しょうじる)。そしてその自我の欠乏感が投影(とうえい)されて、外の世界に映し出された嫌なものを見て「やっぱりそうか」と確
誰もが自分の無罪性を信じているのではなかろうか?だが他人の中には卑小(ひしょう)さや罪を見ることには抵抗が無い。このようにして自分は無罪だが他人は有罪だという状態を理想的だとみなす。この不公平な状態を好むことが私たちをイリュージョン(幻影)の世界に閉じ込める
過去のトラウマを思い出した時、自分を庇う(かばう)為に被害者意識で考えるのですが、この赦せない(ゆるせない)気持ちが自分自身の心にかけた呪いなのです。私は相手を呪ったのかもしれないが、自分のことは庇おう(かばおう)としたのであり、自分を呪う意図はなかったのだと
「キミには聴こえるか? 彼の心の祈りが?彼の願いが?頼む、彼を理解してやってくれ。そして彼の願いを叶えてやってくれ。キミにはそれができる」よく精神病者が「人の役に立てる人間になりたい」と言う。そういう人間になることを、キミが本当に望むのなら、お互いの心が
妄想とは間違った考えに囚われていることです。妄想が真実だから力があるのではない。その間違った考えを真実だと思い込むことで、自分で妄想に自分を支配する力を与えている。自分の考えていることが間違っていると、自分で気付くことによって妄想は止められる。にほんブロ
誰にでも間違いは起こるものだが、間違いは訂正可能である。答えは存在する。被害妄想とは間違った考えを訂正できない精神状態のことです。間違いは誰にでも起こる。「今自分は間違った考えをしている」と自分で気付ければ妄想は訂正可能になります。にほんブログ村
自分を庇う(かばう)ためであっても被害者意識は心の闇を増大させてしまう
過去のトラウマを思い出した時、自分を庇う(かばう)ために被害者意識で私が考えていることは客観的に見て間違っている。更に自分を庇うための被害者意識が私自身の苦しみの本当の原因である心の闇を増大させてしまう。まず他者を赦し、次に自分の心の闇を恐れずに直視するこ
被害者意識でネガティブになって考え込んで言動や振る舞いにそれを出すと大抵酷い結果になります。自分の考えていることを客観的に見て、間違ったことを考えていると自分で気付き、そこで被害妄想を止めれば、言動や振る舞いに出ないので、何も起こらなかったのと同じになり
Only I think this way(そう思うのは私だけ)
自我が頭の中で語る言葉の原理は『Only I think this way(そう思うのは私だけ)』であり、その正しさを支えているのは「私は頭が良い」というプライドです。これが自我という心の闇であり、自我を支えている正しさの「絶対的根拠は嘘だらけ」です。内なる心のリンク(繋がり)、
私がかつてネットの世界で探求していたのが特別性の承認欲求であった。特別性とは神からは拒まれた特別な承認をこの世界の他者に要求するというものです。それはイリュージョン(幻影)の夢の世界が私の目の前に表れて、その中で「より多くの何かを求める」ということ。何が?
自分は何にも悪くないのにあの人のせいで甚大(じんだい)な苦痛を味わったと、被害者意識に囚われている時、それでも、自分の理屈の正当性よりも、相手の幸せを願う気持ちがあれば、必ず赦す(ゆるす)ことができる。にほんブログ村
外の世界に誹謗中傷を見る時、そこに目が釘付けになるが、その時、自分の内側の「心の闇」の存在には気付かない。外の世界に酷いことが書かれているというが、同じものが自分の内側の「心の闇」にある。誹謗中傷とは自分の内側の「心の闇」が投影されて外側に映し出されたも
過去のトラウマを思い出した時、無意識に自分を庇う為に被害者意識で考え出す。自分は悪くなくて他人が悪いという、頭の中で自分の自我が言ってることを理解しようとすると、段々腹が立ってくるのです。この時にできるだけ早く、考えてる内容が間違ってると自分で気付けると
神と神が創造したままのオリジナルの神の子の関係を神聖な関係という。ある時、神の子がオリジナルの神の子であることを辞めて、自分で思い通りのパロディーの自分になれたら、物凄く特別な存在になれるという妄想を抱いた。そう思った途端に神の愛が感じれなくなり、パロデ
あの人のせいで苦しんだと思っている時が一番苦しいですが、彼に罪悪は無かったと赦そう(ゆるそう)という目的を持つなら、必ず赦せる時が来ます。その時、本当の原因が見えるようになり、解決策が授けられる。この世界を駆動しているのは心なのです、真の因果律とは物理法則
自分の内側の「心の闇」を見たくないのでその存在を否認すると、必然的に外の世界に「心の闇」が映し出され具現化したものを見ることになる。自分が蔑んで(さげすんで)いるもの、嫌がっているものを他人に見ることで、自分の内側の「心の闇」を除外できたという思い違いがあ
頭の中で自分の自我が考えることが間違っているとすぐに気付けるか?
心に思い浮かぶことは真実であるという思い違いがある。実際は心に思い浮かんだことをそのまんま行動に移せば、他人からは間違っていると見えるのです。私の場合は自分で気付けないばかりか、他人から間違いを指摘されても理解できなかったりした。一番良いのは他人から指摘
過去の嫌なことで被害者意識を持って他人のせいにしていると「心の闇」が増大して、その闇が映し出された悪夢の世界を見ることになる。つまり過去が再現された嫌な世界が未来にまた訪れるのです。赦さない(ゆるさない)でいると未来は同じ嫌なことの繰り返しとなる。他者を赦
過去のトラウマに対する被害者意識、他者への不満と文句、悪口と批判、これらを頭に思い浮かべる度に「心の闇」が増大する。そしてこの「心の闇」こそが実質的な損失であり、自分の心を幽閉(ゆうへい)する鎖である。「心の闇」を増大させる考えは一切抱かないくらいのつもり
誰しもが心に過去からの傷を負っている。過去のトラウマ。これを見たくないものとして自分の中でその存在を否認したことにより、心の中に光の当たらない部分「心の闇」ができた。触れてはいけないもの、それについて言及してはいけないアンタッチャブルな心の領域、それが「
悪口とは自分の「心の闇」が具現化した他者の概念を実在させようとする行為です。悪口の形態は様々でしょうが、内容は自分の「心の闇」の目で見えた他者の姿を悪く言ってる点で、どの悪口も同じです。悪口とは蔑んで(さげすんで)いるものを他人に見ることで、自分の内側の無
無意識の「心の闇」が疼いた(うずいた)時、私は不快感を感じる。心を安定させる為に、「嫌いなものを外の世界に見ることで」内側の「心の闇」を解消できると思い込んでいた。ネットの誹謗中傷を目にすると私の自我は、「もっと見るねん」と私を外の世界に釘付けにしようとす
人は事実に対して怒るのではなく、出来事についての「自我の解釈(かいしゃく)」を信じることによって怒るのです。自我の被害者意識の、「私は被害者だ、私が苦しいのはアイツのせいだ」という解釈を聴き入っているうちに腹が立ってきて私は怒るのです。自我の解釈を真に受け
過去のトラウマを想起した時、自分を庇う(かばう)ために自我が被害者意識で「自分が苦しいのを人のせいにすることができる」とその魅惑的(みわくてき)なロジックを頭の中で語りだしてきます。その頭の中で自我の言ってることの意味を理解しようとしていると腹が立ってきて、
疲労やストレスを感じると性格が悪くなり他人を批判しがちです。疲労やストレスによって抑圧(よくあつ)されていた無意識の「心の闇」が表面化して私は不機嫌になる。私は不快感を感じているので嫌なものを外の世界に見ること、他人の中に罪悪を見て、蔑んで(さげすんで)いる
私の心の中には見たくないものがあり、それが私の罪悪である「心の闇」です。直視するにはおぞましいこの罪悪の闇を否認(ひにん)して、つまり見たくないが故にその心の闇が存在しないフリをする。しかし心の闇は無意識に疼いて(うずいて)私は不快感を感じる。私は精神を安定
過去のトラウマを思い出す時、被害者意識でどうしてそうなったかを考えて誰かのせいだと確信しようとする。この一見良い事のように見える、苦痛から自分を庇う(かばう)ために被害者意識で文句を言うことが、自分の「心の闇」を増大させる。「心の闇」が具現化した、私を誹謗
私は疲れている時に無自覚の「心の闇」の衝動で他人の悪口を言う傾向にある。「心の闇」は不快なためそれを解消しようとして悪口を言うのです。その時、私は直接的に自分の「心の闇」のせいで不快感を味わっていることには全く気付かない。私は不快感を解消するために他人の
無意識の「心の闇」が疼く(うずく)と、私は不安感に襲われて、すぐに外の世界を確認したくなり、険しい表情で誹謗中傷を目にする。自我はこう言うだろう「もっと見るねん」と。それが、なぜ、どのようにして起こったのか、と分析することは目に見えてものの実在性を強化して
過去のトラウマを想起(そうき)して文句を言うとは、頭に思い浮かんだそのまんまに文句を言うことです。「目に見えているそのまんまに文句を言う」あたかも私が被害者であるかのように。この発生源には「私の」罪悪である心の闇がある。この心の闇が頭の中のスクリーンに映し
私が過去を想起(そうき)して不快感に囚われた時、「過去に不当な扱いを受けたことに文句を言うのは正当である」という、間違った思い込みをしている。私は過去の出来事が私を不快にしていると思い込んでいて、それを他人の責任にしようとしている。この過去の不快感が「心の
不安になった時、外を見るのではなく、まずは心の内側を確認する
無自覚の心の闇が疼いて(うずいて)不安な気持ちになり外の世界を確認すると、やっぱりそこに嫌な物、嫌な人を見ることになる。これは鏡のように私の無意識の心の内容を具現化した、私を攻撃してくる他者という姿が見えているのです。そうして私は気になるから外の世界の他者
無自覚の心の闇が映し出されることで見えているのが現実世界である。この現実世界とは、あなたの心を惑わす(まどわす)イリュージョン(幻覚)である。イリュージョン(幻覚)の世界で為された罪を実在のものとして扱い、それを不快感の原因とすることが、自分の心の闇を保護して
私たちは、嫌いな物を外の世界に見ることで、自分の内側の心の闇を除去できるという間違った信念を持っている。嫌な物や嫌いな人は誰にでもあるだろうが、それらの嫌いな物が意識に上る時というのは、本当は心の内の自己嫌悪や自己憎悪、つまり心の闇が疼いて(うずいて)いて
心の闇が外側に映し出されることで現実世界が出現する。心の闇とは過去の嫌がっている記憶です。トラウマとは自分を庇う(かばう)為に持つ被害者意識です。この一見良い事のように思える心理的な防衛によって、鏡のように私の心の闇の内容を具現化した、私を誹謗中傷してくる
私が他者から攻撃される原因は私の無自覚の「心の闇」にある。それはトラウマであり嫌がっている心です。嫌なので見ないことで無意識となり「心の闇」になった。この世界は鏡であり、私の心の内容を具現化した他者の姿が、私が見ている世界に映し出されるのです。私の「心の
私の自我が「世界の唯一の解釈」としてしまった「それはつまりこういうことだ」という解釈の中に答えはない。「世界とはこういうものだ」という解釈は歪められており不正確である。何も証明していないし達成されていない。だけど、『アンサイズニア』答えは近い神は答えを私
気分が悪くなると酷い心になり文句を言いたくなりますが。その時、私の視点からはそれは「世界の唯一の解釈」であり正しいのだと、私の感覚がそうだと言っているのです。しかし他者視点の解釈だと、その時の文句を言っている私の姿は明らかに間違っていておかしいのです。そ
妄想とは「世界の唯一の解釈」のことである。世界の見え方を訂正すれば簡単に解決できることが、自分の妄想に囚われているので答えが見えないのです。知ってる人から見たら「こうすればいい」で済むことが何年も解決しないのもザラです。自分以外の世界の解釈を認めることで
嫌な事が起こった時、被害者意識になるのではなく赦す(ゆるす)ことが必要です。反射的に自分を庇う(かばう)ために被害者意識になって、出来事を許さないと解釈(かいしゃく)するのですが、その解釈は間違っています。その時、自分の許さない解釈が「世界の唯一の解釈」となっ
自我による「世界の唯一の解釈」は幻覚(イリュージョン)である
私が過去を思い出して、誰かを頭の中で悪く考える時、私は黒い衝動と共に迫力を持って考える。その時、私の自我の解釈(かいしゃく)が「世界の唯一の解釈」なのだと、私は信じている。他の世界の見え方、別の解釈も存在する、ということを知らないのです。そもそも自分の解釈
私が過去のトラウマを思い出して被害者意識を持った時、私の自我の解釈が「世界の唯一の解釈」となっていて、その悪夢に私は閉じ込められているのです。問題は、I think this way.(私はこう思う)が、「世界の唯一の解釈」となっており、訂正不可能になっていることにある。も
影で誰かの悪口を言う時、その闇は私の世界に映し出されて、私の世界が不穏(ふおん)なものに見えるようになる。この時、私の解釈が、『世界の唯一の解釈』となっており、私はその悪夢の世界に閉じ込められている。私は頭の中の私の声だけしか聞こえず、世界についての別の解
私が過去のトラウマで被害者意識に囚われている時、「あまりにも酷い」と、それが世界の唯一の解釈(かいしゃく)となっており、私は私の悪夢に閉じ込められている。その悪夢から脱出する鍵は、私の世界の見え方が、世界の唯一の解釈ではないと、知っているかにかかっている。
他人を具体的に悪く言う時、私は疲れていて、そういう時に心の闇が表面化する。私はその人を悪く言うが、私が彼の中に見ているのは彼の罪悪ではなく、本当は「私の」罪悪を彼の中に見て、悪口を言うことで「私の」罪悪を解消しようとしてるだけなのです。したがって彼を完全
疲れている時に心の底の罪悪感が浮上し易くなります。決して気分の良いものではないですがピンチはチャンスなのです。まず過去の赦せない何かが浮上してその瞬間はもちろん赦していないのですが、そこで心を変えることを選択して「過去のことは赦す」と心を決めるのです。次
被害者意識で過去のトラウマを想起する時、私は自分を肉体だと信じていて、心であることを忘れている。私は被害者意識で文句を言うことで想念の周波数を下げているのだがそのことに気付かない。自分を想念であると思い出させてくれるものを利用するのがいいのかもしれない。
科学的には私たちは肉体の頭脳だと言われている。私もそう信じていました。しかし自分を肉体だと信じると、遅かれ早かれ必ずチェックメイト(王手で詰み)状態になり、被害者意識に囚われて不平不満を言うだけの、絶望的な回答となってしまうのです。しかし私たちは想念である
私たちの正体は物理的肉体ではなく「想念(そうねん)」である。自分を肉体だと信じていることの論理的帰結は憎悪を持つということです。音楽が好きな人は同調することでその音楽と一体になる。バイクが好きな人は同調することでそのバイクと一体になる。私たちは想念の中でな
私は被害者意識の雑念に考えが囚われる(とらわれる)ことがある。被害者意識で頭の中に過去を映し出してイライラするのです。その精神が動作した直後は赦していないのですが、その時にすぐに被害者意識だと気付いて、「赦す」と決断することで、心の闇が少しずつ減っていき、
私は高校の頃、身体の病気で散々苦しんでいたのに親が全く配慮せず「学校に行かないのは悪いことだ」と私に罪悪感を感じさせて無理矢理学校に通わされた過去があるのです。私はその頃の罪悪感が今も残っており、被害者意識で責めて親に罪悪感を感じさせて、私はその罪悪感か
この世界は神からの分離によってもたらされた。他者との差異(さい)の夢の世界。他人とは、自分との比較対象になっていて差異を証明するものとなっているのです。「皆同じだ」と言うと、自尊心(プライド)の高い彼はもしかしたら「私の方が遥かに知能が高いですよ」と侮辱され
私が過去を想起(そうき)する時、過去の事実ではなく、その解釈によって怒るのです。「あまりにも酷い」という解釈です。それは心の中で自我が語る言葉は心の声だから真実に違いないという私の誤解です。精神科の主治医はこう言うでしょう、「今の君の話を聴いて、私は非常に
被害者意識で過去の記憶を解釈する時、その理屈は非常に酷いものとなる。被害者意識ではなく、赦し(ゆるし)の心を持とう。答えは、過去を理屈で解釈することではなく、赦す(ゆるす)という意志(いし)を持つことにある。にほんブログ村
私には嫌がっていた過去があり、そのせいで他人を責める気持ちがある。私が他人を責めるのは、「彼に罪悪があるからだ」と私は思い込んでいるが、本当は私が私の心の闇を感じ取っていて不快に感じているからです。私は自分の心の闇を直視する勇気が無いので、その罪悪の闇を
かつて「はるかなる故郷」に居た私たちに小さな狂った考えが生じた。神が創造したままのオリジナルの神の子であることを止めて、神の子の代用品(パロディー)としての自我を作り出して神から分離したというものです。神と神の子は一体であり、その一体性から分離したのが自我
赦せる(ゆるせる)かどうかは、全体像をよく確認してからでないと決定できないと、「被害者意識」で過去を回想して酷い物語が頭の中で流れて、そして怒るという一定のパターンが私にはあります。量子物理学の「シュレディンガーの猫状態」というか、全体像を確認するまでは赦
疲れている時によく被害者意識に囚われて過去を回想することがありますが。過去の記憶の全体像を再確認すると、酷い話なので嫌な気持ちになって行動の面で暴発することがあるのですが。量子力学実験のシュレディンガーの猫状態というか、過去の全体像を再確認するまでは赦せ
被害者意識で過去を解釈すると、主観的には腹が立ってくるが、客観的には狂った解釈であり、聞くに堪えない物語であると解る。被害者意識というのは自分を庇う為にそう考えるのだが、全然自分を守れていない防衛である。自分の思考の底流を流れている愚かな部分があり、主観
無能力、失敗、空虚感、欠乏感、これらの「心の闇」が目の前のスクリーンに映し出されたのがこの世界の正体である。神からの分離。それは天国から離れる、という「夢のはじまり」その分離の「闇」が自我となった。自我はあなたの心にある天国の記憶の封印が解かれることを恐
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私たちは自分の頭の中のスクリーンに映し出されて知覚したものを世界とする。私には過去の病気のトラウマがあり、時折り(ときおり)、頭の中のスクリーンに映し出された過去のイメージを憎悪(ぞうお)する。しかし、頭の中に想起(そうき)したイメージを憎悪することは、すなわ
私は頭の中で自我が語る言葉を信じてしまう。「私は頭が良い」というプライドが、自分の頭の中の間違った考えを妄信(もうしん)させている。そして頭の中の絶え間ない独り言に耳を傾け続けて、それが有害であるのにその考えを信じてしまうのです。冷静になって考えれば、自分
血液中のコルチゾールレベルが上昇すると、脳はストレスを感じて不快な気分になる。しかし主観的には誰かのせいで不快なのだと解釈して、グルグル考えてしまう。原因は血液中のコルチゾールレベルの上昇にあるのだから、いくら考えても無意味である。コルチゾールレベルを押
他者の誤り(あやまり)を「罪」と見なすか、「間違い」と見るか。罪と見るということは、それが訂正不可能であり赦されない(ゆるされない)ことをしたと裁く(さばく)ことです。一方間違いは訂正可能である。その誤りはすでに赦されている(ゆるされている)。私が他人の間違いを
神と神の子の「オリジナルの関係」の「代替品(だいたいひん)」があり得るという幻想。それが特別性の承認欲求であり、代替品の関係として機能しない相手を私は憎悪する。だけど この世界中探したって「オリジナルの関係」の代わり(かわり)は無かったもし「たった一つ願いが
私たちが見ている目の前の世界というのは、映写機(えいしゃき)である無意識の「心の闇」が投影(とうえい)されて、頭の中のスクリーンに映し出されたものである。私が不快感から不満や文句を言う時、「何かがそれに先行していたはずである」それが無意識の「心の闇」による欠
統合失調症者は「他者の主観を排除する」私は無意識の心の闇が疼いて(うずいて)、嫌なことを思い出して不快感を感じる時がある。その時、無意識の「心の闇」からくる不快感から逃れて、私が救われるために相手に罪悪感を与える目的で、苦情や文句を言う。この時、自分の言葉
私には私が蔑んでる(さげすんでる)人のインターネット上の日記(ブログ)を見たり、私の誹謗中傷のネット掲示板を見てしまうという心の闇がある。メリットが何も無く心を蝕む(むしばむ)だけだと分かっていることをするのはネット依存症なのです。だがこれらの蔑んでる人のブロ
今思うことは、私の価値観による考え方には欠けているところがあるということです。損得勘定がありますが、私がお得だと思って選択していることは、最善の利益ではない。私は結局、損したという私の価値観で文句を言うのです。この世界はイリュージョン(幻影)である。このイ
私が自分の自我に従って(したがって)しまう理由。それは、自我が「私を信じればお前だけは助けてやる」「私を信じれば、お前だけが得(とく)をすることができる」と心の中で私を幻惑(げんわく)してくるからです。私は何か得をしたような気分になる。自分の自我の考えているこ
統合失調症の症状が悪化している時は、自分がどう思うかが全てになっていて、つまり心の中が主観的(しゅかんてき)になり、同時に「他者の主観が排除(はいじょ)されている」。私は高校時代に病気で嫌な思いをしたトラウマがあり、時折そのトラウマを思い出し親に文句を言うの
パソコンのインターネットの世界に、私が蔑んでる(さげすんでる)人物が居て、彼の中に卑小(ひしょう)さを見て悦ぶ(よろこぶ)という闇の心が私にはあります。その後、必ず私の心に違和感が生じて、私についての誹謗中傷の掲示板を見てしまうのです。これには真の因果律(いんが
私は統合失調症であり「他者の主観(しゅかん)を排除(はいじょ)する」傾向があり、相互主観性(そうごしゅかんせい)の欠如がある。このように文章を書いている時でも自分の主観だけで書く傾向にある、私の文章は「読み手の主観を排除する」傾向にある。私の文章を読んだ人がど
統合失調症者がブログ(ネット上に公開できる日記)で、最初の内は自分の書いた日記に対して、リップサービスにせよ好意的なコメントが書き込まれて、幸せな世界を手に入れたと思っていたら、ある日自分に対して否定的な悪意あるコメントが書き込まれ出して、自分の世界が崩壊
統合失調症者は人と話をしている時でも「他者の主観を排除している」。統合失調症者は他者の主観『I(アイ)』が自分の心に侵入してくると、異物もしくはジッター(イライラさせられるもの)と判断して、自分の心の中から「他者の主観を排除する」のです。統合失調症者はルールに
「自分が苦しいのを人のせいにする」というのは割と一般的だ。過去に嫌な出来事があった。起こった事は変えられないし、その時に苦しむのは不可避(ふかひ)です。だがこれはキッカケに過ぎない。その後、それがトラウマとなることで、思い出す度に何度でも苦しむことになるの
SNSや掲示板での文章だけのやり取りというのは見た目の形態(けいたい)だけの通信だ。何しろ文面からは背後にある心の内容は読めないのだから。私に見えるのはSNS上の形態(かたち)だけでありそれが私の快不快を左右する。心のこもってない内容の無い形態(かたち)だけのリップ
私たちの遥かなる故郷である天国で神と神の子である私たちは幸せな日々を送っていた。だが天国に居た神の子の心に小さな狂った考えが生じた。「私が作った私の自我を、神が創造したままのオリジナルの神の子以上であると認めろ」この要求をしたとたん、私はパロディーとして
過去の嫌な体験を思い出す時、私は自分の心を守る為に反射的に被害者意識に囚われて、あの人のしたことが原因で苦しんだ、と思い込んでいる。自分の心の中の空虚感、欠乏感、罪悪感が外の世界に映し出されて、その世界の中心に居る私は何にも悪くないのに、彼の落ち度のせい
嫌な事を心の中で他人のせいにしていると、それが世界に映し出されて、他人が自分を批判していると感じるようになる。心の中で他人を責める者だけが、自分がいつも批判されているように感じるのである。もし心の中で他人への文句が浮かんだのなら、「その酷い内容の話を信じ
過去の嫌な体験を思い出す時、私は自分を庇う為に被害者意識を持つが、これは相手に罪悪感を背負わせるための心理的な攻撃なのです。この被害者意識という攻撃の心を持つことで、私は罪悪感を感じて神からの処罰を恐れるようになる。この世界は鏡であり、私の心の内容を具現
私が誹謗中傷を見る前に、心の中で必ず被害者意識が生じている。まず内側に被害者意識から不安と恐怖があり、外の世界を確認する必要性が生じて、その後に誹謗中傷を目にするのです。この世界のあらゆる存在物を支えているのが、相反する2極性である。押せば押し返される、熱
過去のトラウマを思い出す時、私は自分を庇う(かばう)ために被害者意識を持つ。「私は不当な苦痛を味わった」これは自分を庇う為に考えているのだから、自分にとって良いことだと思っているのですが、違うのです。被害者意識を持つことは、相手に罪悪感を抱かせる(いだかせる
通常の鏡だと、鏡の前に立つと自分の物理的な姿が映し出される。しかし、現実世界というのは、自分の無意識の心の状態を具現化した他者の姿が見える特殊な鏡なのである。私が無意識に攻撃の心を鏡に向けて、私を攻撃してくる他者の姿を鏡に映し出すことで、最初は私が攻撃の
自分が「信じるに値しない人間」という誹謗中傷をされているのを見た時、私が認識できるのは全体像の半分だけである。私は彼らの攻撃には何の正当性も無いとだけ感じる。だから私は、なぜ自分が攻撃されているのかが理解できない。認識できないもう半分は、無自覚な私の「心
「人はしかるべき場所を、立つべき処(ところ)を持たずして、生きていくことができるのか?」もしそれが本当に真実であれば、それをよりより処(どころ)にした考え方ができる。そして世界での発言と振る舞いが変わってくる。にほんブログ村
「心の闇」が疼いて(うずいて)過去のトラウマが蘇った時、その出来事の全体像を吟味してよく確認してから赦そう(ゆるそう)とすると、僕は大抵嫌がって次に怒りの感情で腹が立ちます。自我の判断を介入させてからだと赦せない(ゆるせない)のです。前もって赦す(ゆるす)と心を
「愛することでしかそれ(対象)を本当に知ることはできない」のであれば、奇跡講座をもっと愛することができれば、ちゃんと理解できるようになるのでは?と思っていました。しかし奇跡講座という形(かたち)を崇める(あがめる)ことが、本当の意味で愛するということにはならな
私たちはまず無意識に内側の心を見て、もしそこに「心の闇」があるなら、即座に外の世界にあらゆる形象(かたち)を映し出す。そしてその意味を理解しようとしているうちに次第に不快な気分になり、結果として怒るのです。まず外の世界に形象(かたち)として映し出された、不快
私たちはSNSなどを利用して繋がりを持とうとするが、本物の気持ちを返してくれる人は居ない。SNSに真実の絆は存在しない。なぜなら見えている世界というのは、心の中の分離の想念が目の前に映し出されたものだから、分離の世界には本物の絆は見つからないのです。それでも、
神が創造したままの神の子のオリジナルの心は無形・永遠・完璧であり、心の中に形象(かたち)である言葉は実在しない。私たちは神から分離する為に、「神が創造したままのオリジナルの心」の代用品として、「パロディーである自我の心」を作った。神が創造したままのオリジナ
自我は2極性を信じている。裕福と貧乏、健康と病気、美しい者と不細工、強い者と弱き者、知能の高い者と馬鹿、皆が好む他人との差異とはより多くの良いとされる極の極端な独占状態である。裕福で健康で美しく強く知能が高い、これらの有利性の差異をずっと維持している者が勝
私のこれまでの傾向として、例えばゲームでもキャラクターの見かけの形(かたち)の好みだけ見て、内容であるキャラクターの心情描写は無視していました。ボスが出てきたらただダメージを与えてステージをクリアするだけで、主人公達の意志や成長と言ったことには無関心でした
私が文句を言うのは不快(ふかい)だからなのですが、そもそも他人のせいにしている考え方が間違っているのです。無自覚に「私の」罪悪を他人の中に見て文句を言ってる限り、私の言う「絶対的根拠は嘘だらけ」なのです。にほんブログ村
誹謗中傷は相手が過去に達成できなかったことや過ち(あやまち)について責める。実際に私に何があったかについては食い違うだろうが、私に苦痛をもたらしている過去の傷跡があるということ。無能力、失敗、空虚感、心の欠けてる部分、つまり私の『心の闇』について語っている
私の眼前(がんぜん)に現実世界が映し出されている。そこで私の人生という夢が紡がれる(つむがれる)。私の夢の世界の登場人物が私にとって悪い事をして、そのせいで苦痛を味わったと腹を立てているとする。しかし私の見ている夢の世界の登場人物の誰かに罪悪があると解釈した
かつて楽園で神と共に永遠の日々を過ごしていたある時、神の子の心に小さな狂った考えが生じた。それは神が創造したままの神の子であることを辞めるというもので、自分で思い通りの自分になれるという妄想によって自我を作り出した。それは「あなたの愛だけでは足りなかった
かつて神の子であった私たちは神が創造したままのオリジナルの神の子であることを辞めて、自分で思い通りのパロディーの自分になれるという妄想よって自我を作り出した。そして思い通りの特別な存在になれた自我の素晴らしさを神に認めさせたかった。これが神の子の小さな狂
自分への誹謗中傷を目にして怒りを感じることを正当化しようとした時に、気付いて欲しい、「原因は自分の心にある」と。誹謗中傷の語っている酷い論理と、同じ間違ったことを自分も無自覚に信じているのです。誹謗中傷という形で「あなたにはこんなところがある」と指摘され
不快(ふかい)な気分になった時、誰かや何かのせいにしたくなるが、少し立ち止まって欲しい。外の世界の何かが原因で不快感が生じているように見えているのだが、本当は内側の心の闇が外の世界に映し出されてそれを不快だと感じていることを。原因は自分の無自覚の心の闇にあ