全身の細胞は血糖を代謝することでエネルギーを得ている。血糖はそのままでは細胞の中に入って行かず、細胞の壁にはドアがあって、インスリンが細胞壁の鍵穴に入るとドアが開いて細胞の中に血糖が吸収され血液中の血糖値が下がる。砂糖と果糖ブドウ糖液糖と穀粉(こくふん)が
私が過去のトラウマを思い出して被害者意識を持った時、私の自我の解釈が「世界の唯一の解釈」となっていて、その悪夢に私は閉じ込められているのです。問題は、I think this way.(私はこう思う)が、「世界の唯一の解釈」となっており、訂正不可能になっていることにある。も
影で誰かの悪口を言う時、その闇は私の世界に映し出されて、私の世界が不穏(ふおん)なものに見えるようになる。この時、私の解釈が、『世界の唯一の解釈』となっており、私はその悪夢の世界に閉じ込められている。私は頭の中の私の声だけしか聞こえず、世界についての別の解
私が過去のトラウマで被害者意識に囚われている時、「あまりにも酷い」と、それが世界の唯一の解釈(かいしゃく)となっており、私は私の悪夢に閉じ込められている。その悪夢から脱出する鍵は、私の世界の見え方が、世界の唯一の解釈ではないと、知っているかにかかっている。
他人を具体的に悪く言う時、私は疲れていて、そういう時に心の闇が表面化する。私はその人を悪く言うが、私が彼の中に見ているのは彼の罪悪ではなく、本当は「私の」罪悪を彼の中に見て、悪口を言うことで「私の」罪悪を解消しようとしてるだけなのです。したがって彼を完全
疲れている時に心の底の罪悪感が浮上し易くなります。決して気分の良いものではないですがピンチはチャンスなのです。まず過去の赦せない何かが浮上してその瞬間はもちろん赦していないのですが、そこで心を変えることを選択して「過去のことは赦す」と心を決めるのです。次
被害者意識で過去のトラウマを想起する時、私は自分を肉体だと信じていて、心であることを忘れている。私は被害者意識で文句を言うことで想念の周波数を下げているのだがそのことに気付かない。自分を想念であると思い出させてくれるものを利用するのがいいのかもしれない。
科学的には私たちは肉体の頭脳だと言われている。私もそう信じていました。しかし自分を肉体だと信じると、遅かれ早かれ必ずチェックメイト(王手で詰み)状態になり、被害者意識に囚われて不平不満を言うだけの、絶望的な回答となってしまうのです。しかし私たちは想念である
私たちの正体は物理的肉体ではなく「想念(そうねん)」である。自分を肉体だと信じていることの論理的帰結は憎悪を持つということです。音楽が好きな人は同調することでその音楽と一体になる。バイクが好きな人は同調することでそのバイクと一体になる。私たちは想念の中でな
私は被害者意識の雑念に考えが囚われる(とらわれる)ことがある。被害者意識で頭の中に過去を映し出してイライラするのです。その精神が動作した直後は赦していないのですが、その時にすぐに被害者意識だと気付いて、「赦す」と決断することで、心の闇が少しずつ減っていき、
私は高校の頃、身体の病気で散々苦しんでいたのに親が全く配慮せず「学校に行かないのは悪いことだ」と私に罪悪感を感じさせて無理矢理学校に通わされた過去があるのです。私はその頃の罪悪感が今も残っており、被害者意識で責めて親に罪悪感を感じさせて、私はその罪悪感か
この世界は神からの分離によってもたらされた。他者との差異(さい)の夢の世界。他人とは、自分との比較対象になっていて差異を証明するものとなっているのです。「皆同じだ」と言うと、自尊心(プライド)の高い彼はもしかしたら「私の方が遥かに知能が高いですよ」と侮辱され
私が過去を想起(そうき)する時、過去の事実ではなく、その解釈によって怒るのです。「あまりにも酷い」という解釈です。それは心の中で自我が語る言葉は心の声だから真実に違いないという私の誤解です。精神科の主治医はこう言うでしょう、「今の君の話を聴いて、私は非常に
被害者意識で過去の記憶を解釈する時、その理屈は非常に酷いものとなる。被害者意識ではなく、赦し(ゆるし)の心を持とう。答えは、過去を理屈で解釈することではなく、赦す(ゆるす)という意志(いし)を持つことにある。にほんブログ村
私には嫌がっていた過去があり、そのせいで他人を責める気持ちがある。私が他人を責めるのは、「彼に罪悪があるからだ」と私は思い込んでいるが、本当は私が私の心の闇を感じ取っていて不快に感じているからです。私は自分の心の闇を直視する勇気が無いので、その罪悪の闇を
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全身の細胞は血糖を代謝することでエネルギーを得ている。血糖はそのままでは細胞の中に入って行かず、細胞の壁にはドアがあって、インスリンが細胞壁の鍵穴に入るとドアが開いて細胞の中に血糖が吸収され血液中の血糖値が下がる。砂糖と果糖ブドウ糖液糖と穀粉(こくふん)が
特別性の投影(とうえい)によって我々に見えている、数々(かずかず)の諸問題(しょもんだい)は、時間と距離の、他者との「隔たり(へだたり)」の中で起こる。分かり合えない心の、途方(とほう)もない「隔たり」こそが、投影の本質(ほんしつ)である。その問題は遡る(さかのぼる)
神が創造したままの神の子のオリジナルの「たった一つの想念(そうねん)」からの分離(ぶんり)が、この世界と私たちの自我を作った。分離による投影(とうえい)が作り出した時間と空間の中で起こる問題が、それが自分との「宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)137億年」という、いかに
私たちの心の中には2つの視点が存在する。一つは分離の想念である特別性の自我の視点。もうひとつは溶け合う心であり「欲しいものすべて」である「たった一つの想念」の視点。自我の特別性の目的とは、自分だけがより多く独占することである。より多くでなければならない、何
私たちの遥かなる故郷である天国での、神と神の子の本来の関係では決して伴わない感覚は、全て「特別性(とくべつせい)」である。優越感や劣等感や攻撃や被害者意識や損得勘定や復讐心や承認欲求などは、全て「特別性」であり分離の悪夢である。過去のトラウマを思い出して被
私がかつてネット上で実現しようとしていたのは「特別性」というゴールである。それまでの人生で味わった辛酸(しんさん)と苦痛の全てが報われる(むくわれる)瞬間。万来(ばんらい)の拍手と称賛(しょうさん)と栄光の瞬間を欲していた。その「想いは届かない」。なぜならその「
かつて私たちの遥かなる故郷である天国で、神と私たち神の子の間で交わされて(かわされて)いた愛がオリジナルの関係である。だが天国に居た神の子の心に小さな狂った考えが生じた。私は天国で神に、「私が作った私の自我を、神が創造したままのオリジナルの神の子以上である
私には雑念が常にある。その一つにネット上の特定の統合失調症者に対する蔑み(さげすみ)の雑念がある。私は雑念がざわつくと、彼のyoutubeを見て、彼の低能力を確認して、彼の無価値性を見てそこに優越感(ゆうえつかん)を感じている。更に彼に対して「いじわる」をする思考実
嫌なことがあって腹が立った時、二者択一の選択肢が生じる。その被害者意識そのまんまに粗暴な言動や振る舞いをして相手を責める(せめる)か?それとも、赦し(ゆるし)たくないと思っているその瞬間(とき)に、あえて「心を変える決断」をして赦す(ゆるす)か?責めることは、「
私は統合失調症であり「相互主観性(そうごしゅかんせい)」の障害がある。これは無意識に「他者の主観を排除(はいじょ)する」という、コミュニケーションの障害のことです。私は言いたいことがあった時、相手の心の感じ方を無視して一方的に言ったりする。私に「主観を排除さ
私たちは何者なのか?どこから来てどこへ行くのか?私たちの正体は、肉体でも脳でも物質でも従来の意味の心でもない、「たった一つの想念」である。統合失調症患者が好んで使う物差し(ものさし)が、大学受験の偏差値である。高い偏差値のことを「頭のいい」と、接頭語(せっと
過去の嫌な記憶が思い出されて、赦し(ゆるし)たくないと思っている時は、赦す(ゆるす)のは難しい。しかし赦しが最も必要とされるのは、まさにその赦して(ゆるして)いない瞬間(とき)である。したがって最も赦しが必要とされる瞬間(とき)に、その赦しが不可能であるはずがない
私は統合失調症であり「相互主観性(そうごしゅかんせい)の障害」がある。自分とは異なる「他者の主観を排除する」という特性がある。他者の主観を排除してしまったら通信はできても心の通った(かよった)コミュニケーションはできない。私が例えば承認欲求からブログやエック
統合失調症の私には無意識に「他者の主観(しゅかん)を排除(はいじょ)する」相互主観性(そうごしゅかんせい)の障害がある。これは自分の心を守るために「他者の主観を排除している」のだが、これによって「人の話が聴けない状態」になり「赦し(ゆるし)が極めて困難となる」。
過去のトラウマを思い出して苦しくなった時、その過去の出来事について考え続けることは、必ず、「気分を損なう(そこなう)」という「損失(そんしつ)」を伴う(ともなう)。過去は毎回違った形(かたち)で想起(そうき)されるから、思い出される出来事の見かけが違っているのだか
罪悪感とは不快なものである。私が無意識に罪悪感を感じ取ると、不快感、イライラ、不安感、恐れが生じる。その後、私は外の世界を凝視(ぎょうし)して、他人の中に不快感の原因を見ようとする。この「自分が苦しいのを他人のせいにする」罪悪感の投影(とうえい)は「無意識」
心の内側の闇が外の世界に映し出されて問題となって見えている。私たちは問題に直面(ちょくめん)した時、腕力、知力、お金などの「力(ちから)」で問題を解決しようとする傾向にある。お金の力(ちから)で健康になれるかというと、健康に良い食べ物を買うよりも、健康に悪い食
私が他人を批判したり他人の悪口を言う時、本当は私の心の中のやましさを直視したくないのです。私の心の中の見たくない部分、それに触れたり、それについて言及(げんきゅう)してはいけないアンタッチャブルな絶対不可侵(ぜったいふかしん)の心の領域、それがやましさです。
ネット掲示板の私についての誹謗中傷や悪口を見る時、私自身の心の闇が映し出されたものとしてその掲示板は存在している。誹謗中傷や悪口が効いてしまうのは、私自身にやましいところがあるからです。だけどそのやましい心を私は見たくない。それを認めてしまったら私の方が
体内に慢性炎症(まんせいえんしょう)があると炎症を抑える(おさえる)為に、ストレスホルモンである血中コルチゾール濃度が上昇する。この血中コルチゾールレベルが常に高いと脳はストレスを感じる。血中コルチゾールレベルが高くても短期間なら問題ないが、慢性的に血中コル
目の前に世界を知覚(ちかく)する直前に何かが先行していたはずである。その何かとは、「心の闇の投影」である。これが世界の因果律(いんがりつ)の根底にある。心の中の見たくないもの、触れてはいけないもの、それについて言及してはいけないアンタッチャブルな絶対不可侵の
私たちの遥かなる故郷である天国で、かつて神と私たち神の子が至福の時を共有した接し方(せっしかた)が、私たちのオリジナル(本来)の関係です。それは見た目の形式主義のことではなく、喜びがあふれて止まらないPerfect feeling(完璧な感じ)の精神状態を伴う。だが天国で幸せ
ネットの誹謗中傷は心理戦ですが、批判された時に、対抗して自分の中で「I think this way(私はこう思う)」の方を勝ちとしたい場合は、相手と競い(きそい)、そして勝つという自我の誘惑に乗ったことになる。自分の方が頭が良いというプライドを賭けた勝負だが、相手と自分ど
世界を見るとはすなわち解釈(かいしゃく)であり、世界の見え方を伴う。この自我による解釈が私にとっての世界である。私は自分の解釈が間違っていて、それを基(もと)に間違ったことを考えていると、心の中で自分ですぐに気付けるかが問題行動を起こさない為に必要である。ま
自我とは愚かなパロディー(代替え品)である。かつて私たちが天国に居た時、神が創造したままのオリジナルの神の子を、自分だけの知能で超越できると妄想したことにより作り出されたパロディー(代替え品)、それが自我です。いわゆる「自分のことを頭がいいと思ってる」という
心の中で私の自我は過去に対して酷い被害的な解釈(かいしゃく)をする。頭に浮かぶその自我の語る被害的な物語に聴き入っているうちに腹が立ってくるのです。人は事実に対して怒るのではなく、事実についての解釈によって怒るのです。従って怒りの原因は心の中で自我がしてる
自分の自我が心の中で考えていることを客観的に観察すると、一見理屈に正当性はあるものの被害者意識で酷い内容であり、「それを信じるのか?」という問いが生じる。自分が間違ったことを考えているのだと気付けるかが運命の分かれ道。にほんブログ村
私には確かに「心の闇」がある。その心の闇の中心に私の自我がいる。自我は過去を忘れない。自我は酷いストーリーを頭の中で語りだす。その過去のストーリーを聞いている内に腹が立ち、自我の術中に落ちて心が制御不能になる。そもそも「それを信じるのか?」という問いがあ
創世神話(そうせいしんわ)について話そう。かつて私たちは神の子として天国で神と共に幸せに暮らしていた。しかし神の子である私たちの心に小さな狂った考えが生じた。神が創造したままのオリジナルの神の子であることをやめて、自分で思い通りのパロディーの自分になれたら
この2年間ほど統合失調症に「考え方を変える」という心理的なアプローチをしましたが、頭の中で堂々巡り(どうどう)に至りました。僕はこの心理的アプローチしか検討していなかったのではなく、サブシステムとして食事と運動による脳のコンディションの改善という「生化学的(
心の闇の中で誰の腕をつかんだのだろうか?それは神が創造したままのオリジナルの神の子。私のオリジナル。私の心の中に居る彼に名前をつけた。彼の名前は『Luke』ルークは光の地から来るもの、すなわち「光をもたらす者」の意味彼の姿を心の中に復元させよう。心の復活だ。
彼に差異(さい)を見て愉悦(ゆえつ)しようとしたり、羨ましさを感じるのではく、神が彼を見ているような目で彼を見るべきだ。その時「キミは”ゾッとするほど美しい彼の心が伝わってくる感覚”を感じ取ることができる」それは彼を見るあなたの目に神性なる愛が宿っているから
私はこの文章を書いている前夜に、他人の不幸を思い浮かべて、それと比較して自分は優位性があると、「他人の不幸は蜜の味」と愉悦(ゆえつ)を感じていたのですが、これは自我が与える快楽なのです。そして今朝、私は牢獄に居るような気分で目覚めた。私たちはひとつなのだか
この物理世界に自由はない。心は自分自身を闇に縛る(しばる)ことができる。これが心に限界をもたらす。精神病のフィーリングとは不自由な心である。頭の中で自分で考えている理屈が間違っており、これによって私は心が不自由になっている。私たちの本来の状態である神が創造
自我の存在は「欠乏(けつぼう)の原理」に基づいて(もとづいて)いる。まず心の中に欠乏の原理によって「恐怖・不安・文句・嫌がってる心」が生じる(しょうじる)。そしてその自我の欠乏感が投影(とうえい)されて、外の世界に映し出された嫌なものを見て「やっぱりそうか」と確
誰もが自分の無罪性を信じているのではなかろうか?だが他人の中には卑小(ひしょう)さや罪を見ることには抵抗が無い。このようにして自分は無罪だが他人は有罪だという状態を理想的だとみなす。この不公平な状態を好むことが私たちをイリュージョン(幻影)の世界に閉じ込める
過去のトラウマを思い出した時、自分を庇う(かばう)為に被害者意識で考えるのですが、この赦せない(ゆるせない)気持ちが自分自身の心にかけた呪いなのです。私は相手を呪ったのかもしれないが、自分のことは庇おう(かばおう)としたのであり、自分を呪う意図はなかったのだと
「キミには聴こえるか? 彼の心の祈りが?彼の願いが?頼む、彼を理解してやってくれ。そして彼の願いを叶えてやってくれ。キミにはそれができる」よく精神病者が「人の役に立てる人間になりたい」と言う。そういう人間になることを、キミが本当に望むのなら、お互いの心が
妄想とは間違った考えに囚われていることです。妄想が真実だから力があるのではない。その間違った考えを真実だと思い込むことで、自分で妄想に自分を支配する力を与えている。自分の考えていることが間違っていると、自分で気付くことによって妄想は止められる。にほんブロ
誰にでも間違いは起こるものだが、間違いは訂正可能である。答えは存在する。被害妄想とは間違った考えを訂正できない精神状態のことです。間違いは誰にでも起こる。「今自分は間違った考えをしている」と自分で気付ければ妄想は訂正可能になります。にほんブログ村