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2022/11/07

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    今度は、左の方の源流をたどっていきます。・・・生息地へ流れ込む生活排水は約千五百世帯分で、日量約千立方メートルだ。その生活排水を県と民間養鱒場から放流する日量約二万立方メートルのきれいな水で希釈しているのが現状なのだ。水質測定結果から、生活排水による汚濁の進行が明らかとなり、稚魚や餌となる甲殻類への影響が懸念されている。このままでは近い将来、絶滅のおそれもある。絶滅させないためには、この区域に最低三kmは生活排水を流入させない対策が急務である。京都府と兵庫県の一部に生息し絶滅したミナミトミヨの二の舞になることは、是が非でも防がなくてはならない。世界で唯一熊谷市にしか生息していない希少種ムサシトミヨを守れるとすれば、それは、流域住民の意志と行政の決断にかかっている。(この項、「埼玉新聞」より)この記事のうち...c

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    <imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d1/46ecbb9c96ed82474989a87876322445.jpg">z

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    すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z

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    10月1日。晴れ。八ッ場ダム建設で廃線となった「吾妻線」沿線(「川原湯温泉駅」~「岩島駅」)を歩きました。一時の暑さもおさまった感のする一日。家を出たときは雨がポツポツ、しかし、高崎付近あたりでは、すっかり晴れ渡ってきます。沿線の田んぼも稲刈りが進み、秋の田園風景。約ひと月ぶりの「吾妻線」です。今回、「八ッ場ダム」から「岩島駅」(「川原湯温泉駅」の一つ渋川駅寄り)まで歩く予定です。「川原湯温泉駅」に12時ころ到着。前回同様、今回も小生一人、下車。八ッ場ダムまで歩きます。思ったよりも汗をかきました。※「八ッ場ぐるりんバス」12:06発のバスを利用すれば、わずか8分ほどで八ッ場ダムに着きます。無理して歩く必要はありません。旧線路が眼下に見えます。エレベータで下まで降り、通路を歩くと、一気にダム下に。この橋から...a

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    高麗川駅に近づきます。住宅と田畑と。緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。畑が広がっています。「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。八高線は当駅を境に八王子方面が電化、高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。※川越線埼玉県の県庁所在地であるさいたま市か...z

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    しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x

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    「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z

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    倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z

  • 「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。

    8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。

  • 「ヒトラーへのメディア取材記録」

    「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」

  • 「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。

    q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。

  • 記事がない時のソウタ頼み。その2。

    何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。

  • 記事がない時のソウタ頼み。

    ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。

  • 宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)

    白岡市のマンホール。抽象的な「家族」を中央に配置。その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。「篠津一号橋」。「星川」。星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。けっこうな回り道。「蓮田白岡環境センター」。右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。上流に橋が見えてきます。橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)

  • 7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)

    向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?ところが、どこを見渡してもいません。親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。園内には、風鈴が涼しそうな音色を響かせています。足下には木漏れ陽。炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。そしてザクロの実が一つ。朝顔展の準備が始まっています。売店には「氷」の旗が。この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。アゲハチョウの姿が(↓)。遠くにスカイツリー。今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになる...7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)

  • 宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)

    7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。「八幡橋」方向。かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな?と「さくらロードガーデン」。川べりも歩けそうです。左手に解説板があります。「茅野(かやの)の渡し」。現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました渡しは対岸の二軒...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)

  • 東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

    「東北新幹線」。白岡町(白岡市)の表示が。※「白岡市」白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。交通面では、都心まで40分程度...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

  • 東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

    日差しが強くなってきます。木々があるので、歩くのにはちょうどいい。ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。次の橋に近づきます。振り返る。この先には運動公園はなさそう。広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。「新今宮橋」。下流方向。上流方向。大きくて見事なサボテン。水管橋。蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。「今宮橋」・今宮けやき通り。下流方向。上流側から橋を望む。川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。これがけっこう長い。この付近から白岡市入り。対岸に東北新幹線。この付近の今昔。(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。(現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

  • 東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

    運動広場が続いています。パークゴルフ?それともグラウンドゴルフ?この先、公園ではどこもゴルフを楽しんでいます。河川敷なので大雨なのでは水没する可能性も。両の島水門。橋が見えてきます。「荒川橋」。JR宇都宮線・鉄橋。白岡駅方向。「椿山住宅地」。川沿いの緑地・公園へ。この公園の土手際には、様々な花が咲き誇っています。知らない名前の花たちが、色鮮やかに。素敵なおうち。「新荒川橋」。少し河川敷から離れて進みます。キウイがたくさん実る棚の下を抜け、河川敷に。この公園でもゴルフを楽しむ人たちの姿。元荒川の流れ。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

  • 東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

    「川島久伊豆神社」脇の解説板。「元荒川の水はどこから来るの?」「久伊豆神社めぐり」。「宮前橋」。下流方向。上流方向。左に向かうと、JR宇都宮線「蓮田駅」に出ます。蓮田市のマンホール。蓮田市の木「ハナミズキ」のカラーデザイン。橋のたもとに「元荒川」解説板。元荒川(もとあらかわ)元荒川は、熊谷市から南東に流れ、白岡市で野通(やどおり)川を、蓮田市で星(ほし)川を合わせ、吉川町で古利根(ふるとね)川(中川)に合流する、長さ約六〇キロメートルの一級河川である。現在県中央部を流れる荒川(あらかわ)は古来しばしば流路を変え、県東部地区低地を乱流していた。江戸時代初期の荒川は、現在の元荒川の流路を本流とし、一部は分流として現在の綾瀬(あやせ)川の方にも流れていた。このため沿岸一帯はしばしば大きな水害を受けたので、関東代...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

  • 向島百花園。さぎそう・おみなえし・ききょう。・・・カルガモ・オナガ。・・・そして我が家のソウタ。富士山遠景。

    カルガモ親子は、どうしているか?7月15日。曇り空の下、向島百花園にでかけました。訪問客もチラホラ。静かな園内。さぎそう。花がシラサギの姿によく似ています。※サギソウは、日本各地の日当たりのよい低地の湿地に生える球根性のランです。親株から走出枝(そうしゅつし、ランナー)を伸ばして、その先端に翌年の球根をつくります。3~5枚の細長い葉を根元近くにつけ、中心からまっすぐに茎を伸ばして、先端に1~5輪の花を咲かせます。花は純白で唇弁(しんべん)の先端が3つに割れ、その左右の裂片には多数の深い切れ込みがあって、その形は白鷺を思わせます。冬は球根だけになって冬越しします。おみなえし(女郎花)。ききょう(桔梗)。「秋の七草」(お好きな服は)の二つ。ところで、カルガモは?池の中で泳いでいるのは、親鳥とあと1羽。残りはど...向島百花園。さぎそう・おみなえし・ききょう。・・・カルガモ・オナガ。・・・そして我が家のソウタ。富士山遠景。

  • 東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

    草刈りを行った後なので、歩きやすい。次の橋まではけっこう歩きます。右手には一面、田んぼが広がります。川面。この付近の今昔。(現在)。自然堤防が舗装道路に。(1880年代)。幅広い流路。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/c7/4c114c6731f6273b5cc2499ebfd1ef50.jpg">東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

  • 東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

    右手は工業団地。「元荒川水管橋」。※元荒川水管橋は城北大橋から500m上流に架けられている。元来は水管橋(元荒川の上を水道水を渡らせるためのもの)だったが、平成14年に改修され、歩行者も渡れるようになった。上流方向。下流方向。土手沿いの道を進みます。「伊豆島の大蛇全3ヶ所の東側」(蓮田市黒浜)。※この付近が、蓮田市とさいたま市岩槻区の境界線になります。民俗行事の一つで、春祈祷(はるきとう)に関連する厄除け行事です。由来は200有余年前に集落内に悪い病が入り「魔除け、災難除け、疫病除け」として『大蛇(だいじゃ)』を作り、集落境界の2ヶ所に立てたと言われています。集落内の1軒に1人が夕方(3時頃)集まり、御神酒で清め「家内安全・五穀豊穣」も祈りながら作られ、「上顎」・「下顎」・「胴体」を別々に作ります。胴体は...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

  • 東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

    今回から元荒川の上・中流歩きになります。利用する路線も東武線からJR線になります。「東岩槻駅」。東武線鉄橋の上流へ出ます。「東宮(ひがしみや)歩道橋」から上流を望む。この付近の今昔。(現在)東武鉄橋上流に「東宮歩道橋」。「江川地区調整池」が設置されています。(1970年代)元荒川は大きく西にカーブしていました。その後、流路の変更が行われ、宅地化されました。土手沿いの道(左岸)を歩きます。右手は住宅地。上流に「慈恩寺橋」。河川敷に畑が広がっています。(1880年代)河川敷が広がっています。(現在)かつての河川敷が農地となっています。水道橋が左手奥に。畑の正面に「水道橋」。「城北大橋」。下流の水道橋を望む。この先に人も歩ける「元荒川水管橋」があります。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

  • 東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

    国道16号線・「岩槻大橋」のたもとに。下流方向。上流に「新曲輪橋」。「国道16号線」は首都圏の幹線道路。都心から郊外へ向かうときには必ず遭遇します。(「」より)春日部方面。「新曲輪(くるわ)橋」。右岸奥周辺が「岩槻城址公園」。岩槻は「日光御成街道」歩きのときに通りました。※「本郷追分」で中山道と分かれ、「幸手」で日光街道と合流する。モニュメントの人形。旧岩槻市のマンホール。蓋を三等分し、上部には岩槻城黒門と桜の花、右には園内の池にかかる朱塗りの八つ橋、左には岩槻城鐘楼と市の花「ヤマブキ」がデザインされている。汚水蓋。「岩槻橋」。岩槻橋は、第二次緊急輸送道路である主要地方道さいたま春日部線(都市計画道路岩槻中央通り線)と一級河川元荒川の交差箇所に位置し、さいたま市の副都心である岩槻駅周辺地区を横断する路線の...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

  • 東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

    公園内の釣り堀。賑わっています。森の中の下道。公園内に。森に囲まれ、体育館やグランド、大きな池などが広がっています。案内図。「グリーンアドベンチャー岩槻文化公園コース」。この木の名は?この地域はかつては元荒川沿いの微高地でした。(1880年代)(現在)駐車場の向こうに元荒川の流れ。川沿いの小道。足下の草むらをトンボが。全身真っ黒で蝶々のようにひらひら羽を動かし、ヒラヒラ飛んでいます。○のところにとまっている。中川歩きの時に見た「ハグロトンボ」。ハグロトンボ(羽黒蜻蛉カワトンボ科のトンボ。別名ホソホソトンボ。東アジア(日本、朝鮮半島、中国、ロシア)、北米に分布する。日本国内では東北・本州・四国・九州に分布する。成虫の体長は57-67mm、後翅長35-44mmほどで、トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

  • 東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

    溜井が大きく広がる。桜並木。右手は緑濃き、水田。「武蔵第六天神社」の境内地に入ります。川原に下りられる階段がありますが、今は水底に。「夏越の祓」茅の輪がある。先に進みます。まだ「岩槻市」のまま。※現在は、さいたま市に編入「さいたま市岩槻区」。田んぼが広がります。土手の道が途切れ、たんぼの中の道を進みます。上流に赤い橋。振り返る。久々な経験。農家の脇に、カボチャ。枝豆。県道に出ます。上流に見えていた赤い橋に向かいます。「大野島水管橋」。※大野島水管橋は、昭和52年(1977)竣工。三連アーチのランガー補剛形式で70m。口径600mmの管が2本設けられ、元荒川の上を水道水が横断している。大野島水管橋は歩行者も渡れる。下流方向。上流方向。橋を渡り、右岸に。振り返る。上水道管。「岩槻文化公園」の脇の道を進みます。東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

  • 東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

    「末田須賀堰(すえだすがせき)」が目の前に。さいたま市岩槻区の永代橋の脇には、「末田須賀堰」があります。堰とは水深や流量の調整のため、河川の途中などに設けられる構造物です。元荒川は古くから農業用水路として用いられており、全部で4カ所の堰が設けられていて、末田須賀堰はその一つです。4月から9月にかけて、農業用水の確保のため水門が閉まります。また、水門の脇には魚道が設けられていて、水門が閉じている時期でも魚が遡上できるようになっています。(この項、「」HPより)「永代橋」。モニュメント。この付近の今昔。(現在)中央に堰。川幅が大きく広がっている。(1880年代)現在の堰付近の流れが複雑になっている。上流方向。広がりを見せる。旧永代橋の架橋記念碑。周囲には古い親柱、中柱が残されている。1926(大正15)年の建...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

  • あんずとソウタ。そして、向島百花園のカルガモたち。花も咲き、緑も濃く、夏らしい雰囲気。

    暑いせいか、涼しさを求め、家の中を転々とする猫たち。だから、二人が鉢合わせをすることも。6日には、窓際に。あんずが窓際に乗ると、ソウタは、あんずがいなくなると、その後を目で追うソウタ。という猫たちを横目で見ながら、「向島百花園」へ。7月6日。「小暑」の日の午後。いました!親が。親の後をくっついて泳いだり、歩いたりしていたヒナは?親から離れ、自由気ままに泳いでいます。親はそんなヒナたちを目で追い、守っているようす。そして親子一緒に。前来たときは7羽のヒナ。見ると5羽、残りのヒナは?気になります。もみじあおい。にっこうきすげ。やまゆり。寺島なす。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/87/2ff6d8ff92a04e21bf1b674e796011d...あんずとソウタ。そして、向島百花園のカルガモたち。花も咲き、緑も濃く、夏らしい雰囲気。

  • 東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

    「〆切橋」を渡り、右岸を歩きます。こちら側にも農地が。ここにもネムノキの大木。上流に「大砂橋」が見えてきます。「元荒川緑道(上流部)散策案内」。「大砂橋」を振り返る。けっこう緑が深い。路傍に何体かの古仏。元荒川の流れ。農地が続きます。菊の栽培。左手には畑作地が広がる。イチゴ。サツマイモ。咲き始めている菊。川沿いから離れて進みます。右手灌木の右に、元荒川。一面、青々とした田んぼ。「三野宮橋」。上流方向。橋を渡り、左岸へ。「元荒川」沿いの、車の行き来が激しい県道を進みます。「補修境界←さいたま市北部建設事務所→越谷県土整備事務所」。さいたま市に入ります。この辺りも「さいたま市」?さいたま市埼玉県の県央部に位置する市。埼玉県の県庁所在地で、人口は約135.0万人と県内最多。政令指定都市の一つ。また財政力指数は政...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

  • 東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

    「国道4号線(現日光街道)バイパス」を渡ります。.元荒川橋から下流を望む。川沿いには歩道がないので、県道を進みます。この標識板には、「↑越谷国道4号線→春日部←上野」とあります。左手に「元荒川」。「〆切橋」(人道橋)。越谷市においては最も歴史の古い橋である。江戸時代(宝永年間)には橋が架けられ、明治時代には長さ約29メートル、幅員約3メートルの土橋が架かっていた。また、1924年(大正13年)には先代の橋が架けられていた。現在の橋は1937年(昭和12年)竣工のRC橋で、市内の元荒川に現存する橋の中でも古い部類。橋長54.6メートル、幅員4.15メートル。老朽化に伴い、大砂橋開通後の2005年(平成17年)度以降は橋の両詰めに車止めが設置され、人道橋として歩行者のみの通行が許されている。元荒川はかつて〆切...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

  • 東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

    元荒川歩き、2日目。往復とも東武線内の乗り降りです。北越谷駅西口。「元荒川」土手。前回に続き、左岸を歩くことに。森の脇に進みます。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央に「宮内庁埼玉鴨場」。現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり、両鴨場のそれぞれ約12,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には、毎年2千羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。鴨場は、鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に、天皇陛下の思召しにより内外の賓客の接遇の場として使用されています。埼玉鴨場(埼玉県越谷市)及び新浜鴨場(千葉県市川市)では、野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されています。我が国では、古くから網や鷹を使っ...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

  • JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

    東武線のガードをくぐって先に進みます。越谷駅と北越谷駅は直線の線路で隣同士ですが、元荒川は半円状で迂回します。○。明治時代から現在までほとんど変わらない流路。(「今昔マップ」より)東武線鉄橋方向を振り返る。左岸のようす。桜堤通りになっていますが、右岸は炎天下の道。ところどころ、花壇があり、ベンチなどもあります。前方に「神明橋」。中央の車道部分は古そうなトラス橋振り返る。この橋を渡り、左岸に移ります。桜並木の下。河川敷には耕作地が広がっています。対岸に「文教大学」キャンパスが見えてきます。前方には「出津橋」(人道橋)。文教大学越谷キャンパス。出津橋。学生たちが通行中。今回は、ここまで。「北越谷駅」に向かいます。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

  • JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

    元荒川歩きを再開します。カラフルな遊歩道になっています。右手が元荒川。葛西用水は、元荒川を「伏越」で越えて流れてきます。※伏越(ふせごし)用水施設や排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの。用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い。歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)振り返る。右が葛西用水。「新宮前橋」。「宮前橋」。「久伊豆(ひさいず)通り」となっています。東の方に「久伊豆神社」があります。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

  • JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

    「溜井(逆川・葛西用水)」。花しょうぶが満開。「元荒川」。「越谷市役所」・「越谷市中央市民会館」が見えてきます。「平和橋」(葛西用水)「新平和橋」(元荒川)。越谷市中央市民会館。平和橋・新平和橋。いったん、東武伊勢崎線「越谷駅」に向かい、小休止。「越谷・松伏水道企業団」のマンホール。「越松水」「仕切弁」。※越谷市の花、松伏町の花が共に菊です。旧日光街道。日光街道歩きのときに通過しました。日本橋から3番目の宿場・越谷宿。越谷駅。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

  • JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

    右岸の河原。「瓦曽根堰(かわらぞねせき)スポット広場」。正面は、「しらこばと橋」。解説板。「葛西用水」の成立享保(1719年)すでに開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井・松伏溜井・瓦曽根溜井・亀有溜井を連結させた十ヶ領、三百村、領石高13万3千石(年貢米)の大用水が成立し、葛西用水と呼ばれた。「葛西用水」流路図。「利根川」から取水された「葛西用水」は、「大落古利根川」、「逆川」を経て、ここまで流れ、この後は、「元荒川」から離れ、八潮市、足立区、葛飾区、墨田区まで続くことになります。※「溜井」は河川を堰き止めて洪水対策や農業用水とした施設。近世初頭に瓦曽根溜井が建設され、中期以降に石堰が設けられた。中土手(元荒川と溜井を分ける土手)には竹を植えたり畑があった。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

  • JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

    右岸沿いに大きく広がる「遊水地」。南方に「越谷レイクタウン」があります。「越谷レイクタウン」の今昔。(現在)大規模な商業施設、住宅地となっている。(1970年代)ほとんど、田んぼや畑であった。※市街化調整区域左岸の大きな建物。「越谷東高校」。舗装された道なので、照り返しがけっこうキツイ。早く木陰の下に。ほっと一息。「大相模スポット広場」。所々にこうした小公園風な施設がある。「不動橋」が見えはじめる。「不動橋」のたもとに、「相模町スポット広場」。木陰が涼しい。水分補給などで小休止。「元荒川緑道(下流部)散策案内」。来た道を振り返る。「不動橋」。※「不動橋」の由来は沿岸にある「大聖寺(大相模不動尊)」から。「しらこばと橋まで1,050m」。「動端落し(どうばたおとし)スポット広場」。流入口。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

  • 雨降りの午後・日曜。「向島百花園」。アジサイ。リンドウ。ハンゲショウ。カルガモ・ヒナ。オナガ。・・・

    雨降りの午後。向島百花園。アジサイには、雨が似合う。降ったりやんだりのお天気。入園者も少なく、のんびりと散策。ヤマユリ。リンドウ。ハンゲショウ(半夏生)。ネムノキ。カザグルマ。カルガモたちはどうなったか?四阿で雨宿りをしていると、現れました。親鳥とヒナたちがスイスイと水面を。ヒナは、合計7羽。親鳥のあとをついていきます。正面の叢に。雨脚が強くなってきました。親子であちこちウロウロ。天敵の野良猫がうろつかないうちに。ヒナたちが叢の中に。そのうち姿が見えなくなりました。さて、帰ろうかとすると、「オナガ」が。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/0f/35390b3509d0b0685431b98cec8dc837.jpg">※オナガ水色の美しい鳥実を...雨降りの午後・日曜。「向島百花園」。アジサイ。リンドウ。ハンゲショウ。カルガモ・ヒナ。オナガ。・・・

  • JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

    中川の一つ上流にある「吉川橋」。その先で、元荒川が中川に合流する。左手が「元荒川」、右手が「中川」。付近は、工事中。左手に「中島橋」。越谷市内のマンホール。「越松水消火栓消防士ガーヤちゃん」。越谷特別市民「ガ-ヤちゃん」が消防士にふんしたデザイン。元荒川の最下流に架かる「中島橋」。中川方向を望む。上流に向かって歩き始めます。右岸の「元荒川緑道」を歩きます。「飯島排水機場」からの流れ。その先に「大成スポット公園」。緑道には、休憩ベンチ・簡単な運動器具・トイレなどが整備されています。左手に土手状の盛り土が続いています。この付近の今昔。(1880年代)元荒川沿いの微高地で自然堤防が形成されている。(現在)住宅地や畑地などになっている。土手沿いに水路。対岸のようす。国道4号線・「大成橋」。「水道管橋」その先に、「...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

  • JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

    今回から「元荒川」を「中川」との合流地点から水源まで遡ることにします。ただ流域は暑さが並みではないところ。熱中症に気を付けながら、歩く距離も短めに。5日くらいかけて歩くつもり。また上流は最寄り駅が遠いので、バスを利用する予定。本数があまりなさそうですが。「元荒川」現在、埼玉県熊谷市久下にある熊谷市ムサシトミヨ保護センター内に源を発する。おおむね南東方向に流れ、行田市、鴻巣市、久喜市、桶川市、蓮田市、白岡市を経由する。途中、鴻巣市袋付近で武蔵水路と、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で見沼代用水と立体交差する。白岡市西付近で星川が合流すると川幅を大きく広げ、さいたま市岩槻区を経由し、越谷市中島で中川に合流する。かつての元荒川は1955年(昭和30年)頃までは荒川扇状地の湧水を水源としていたが、高度経済成長期に水源が...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

  • ソウタとあんず。我が家の猫たち。

    6月16日(日)。13回忌法要を済ませて、帰宅。息子夫婦から父の日のプレゼント。やはり、ビール。サントリーのセット。箱から出した途端、ソウタがすぐ、底の浅い箱に入っています。よほど箱好きなようです。入りきれないしっぽ。そのうち箱もつぶれて、そして、昨日。この格好は?頭は?しっぽは?<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/45/37d01859d03c8e7e1fc05c60f5915302.jpg">ソウタ。家人が出かけると、ジジを咥え、雄たけびをあげながら、家の中を走り回るようです。帰ってくると、必ずジジがそばに。家に来たときはこんな小さかったソウタ。ふだんは、一方のあんずは3歳になっても大きくなく、「可愛いわね」と声を掛けられる存在。家人の姿が...ソウタとあんず。我が家の猫たち。

  • 成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

    賑やかな町並みに入ります。漁港らしいお店なども。「鈴木海苔株式会社」。しばらく進み、「国道356号」に合流し、「銚子大橋」に向かう交差点へ。左に「銚子大橋」。利根川最下流の橋。ここが「銚子往還(飯岡灯台~)」との追分になります。総武本線「旭駅」の先で二手に分かれた「銚子往還」。松岸町での追分と併せて二カ所の追分にたどり着きます。右に行くと「銚子駅」。この先は、前回、行きました。しばらく歩いた左手に「飯沼観音」(今回の「佐原銚子街道」のゴール)があります。ここまでで旅の終わりとします。この「あぶら屋」さんも関連がありそうです。銚子駅から成田線で帰途につきます。「下利根漁業協同組合」。利根川一帯も漁業の盛んな土地柄であることがわかります。「下総豊里」駅。この駅で下車して「佐原銚子街道」を歩きました。約12㎞。...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

  • 成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

    「松岸」。ここを右に曲がって進むと、「松岸駅」に。「松岸駅」は「総武本線」(千葉~銚子)と「成田線」(成田~松岸)が合流する駅。「金井商店」。街道筋らしいお店。実は、この道は利根川歩きのとき、土手が工事中のため、途中から通った道です。利根川の土手に行ってみましたが、相変わらず工事中(何年越しでしょうか)でした。この先、街道から少し右に入ったところに、石碑「飯沼観世音江一里」。残り4キロ。残りわずかに。石仏などが一か所に集められています。銚子市のマンホール。図柄は「犬吠埼灯台」と「カモメ」と市の魚「イワシ」。利根川沿い・銚子港の一角。街道に戻ると、「木内旅館」。この先、桝形になっています。この付近の今昔。(現在)〇が桝形の部分。赤い線が国道356号線(利根水郷ライン)。(1880年代)街道は利根川・銚子港沿...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

  • 成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その4。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

    しばらく進んだ右手に、石碑「飯沼観世音江二里」。あと8キロ。その先、右手に入る道が旧道です。田畑が広がります。遠くには風力発電所。国道356号線に復帰。田んぼが広がる。右に入る道も旧道のようですが、省略し、国道をそのまま進みます。「高田川」。利根川方向。上流方向。バス停「余山(よやま)」。「余山貝塚」は、利根川に注ぐ高田川東岸の標高約7メートルの浜提上の集落によって形成された長軸約140メートル、短軸約70メートルの広がりを持つ貝塚です。貝塚は縄文時代後期から晩期を中心にして形成されていますが、弥生、古墳、奈良・平安時代に至る遺構や遺物も出土しており、原始から古代の長期間にわたって継続した遺跡です。余山貝塚は明治時代中ころから多量の人骨や遺物が出土することで考古学界に知られるようになり、考古学史上著名な貝...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その4。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

  • 成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その3。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

    銚子市立椎柴小学校。見事な槙の生垣。右左折します。桝形のような形状の道筋ですが。かつては利根川沿いの道だったので、それと関連があるか、と。庭一面に「かきつばた」。バス停「野尻」。左手に大きな長屋門が見えてきます。「滑川家住宅母屋・長屋門」。滑川家住宅主屋滑川家住宅は集落内で最も有力な家のひとつで江戸時代には、代々「藤兵衛」を名乗っていました。主屋は奥行が深く、座敷部を別に構えるなど規模が大きくその家格を示していることに加え、座敷部の室内意匠や仕様を上級武家住宅風になっています。多くの河岸問屋が存在していた野尻河岸において、明治6年(1873)に建てられた主屋が現存し、舟運で栄えた集落の往時の様子を示す家として貴重な存在です。近年においても薬局店、塩、煙草商店として広く地域住民に親しまれた歴史が伺えます。滑...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その3。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

  • 成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その2。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

    周囲に広がる田園地帯を、「成田線」上り電車が通過中。左手に牛舎があります。真っ黒な体に目が光る。久々に見ました。バス停「」。家並みが続くようになります。落ち着いた街並み。石碑。忠魂碑?詳細不明。地元の方はおわかりでしょうが。遠くの踏切を下り電車が通過中(↓)。久々に木漏れ陽の中を歩きます。水準点。海抜6.8m。この付近、小さなな上り下りがある道筋。風力発電所の風車が見えます。「利根かもめ大橋有料道路」。利根かもめ大橋は、利根川に架かる利根川河口から数え2番目の橋です。慢性的な渋滞が激しい銚子大橋の混雑解消と、千葉県東総地域と茨城県鹿行地域を結ぶ幹線道路として両県の地域発展に寄与するものです。(この項、「」HPより)この先、道はジグザグに進みます。この付近の今昔。(現在)ジグザクな道筋。利根川の流域整備がさ...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その2。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

  • 成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その1。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

    6月8日(土)。晴れ。「佐原銚子街道」の最終回(むりやり)。「下総豊里駅」。跨線橋からの眺め。「利根川」を望む。さすが大河。佐原方面を望む。街道に復帰します。田園風景が広がる。千葉交通バス停「森戸西」。一日朝夕2本ずつ。15分くらい歩いた右手に、石碑「飯沼観世音江三里」。「水準点」=海抜10.0M。個人のお宅の一角にあります。ゴールまで約12㌔。道なりに左にカーブ。成田線の踏切を渡ります。「第三佐原銚子街道踏切」。下総豊里駅方向。椎柴駅方向。利根川に注ぐ小川。けっこう深い谷になっています。右手が開けてきます。振り返る。バス停「忍町」。忍町の集落に入っていきます。露地でイチゴの栽培。日本人に交じって、若い外国人労働者が手作業していました。眺めていると、長く伸びた芽(枝?)を手で取って、小さな鉢に移し替えてい...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その1。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

  • 我が家の猫たち。あんず・ソウタ。その2。マロン。(附)ベイブレード。(Days with Cats)

    椅子の下、頭がぶつかるアンズ。細長い箱では、何となく不安そう。2階にも1階にも箱がいくつも置いてあります。「取扱注意」。箱が壊れそう。小学生の孫たちが遊び疲れた、この中にも。右奥にベイブレード。ところで、孫たちがはまっている、この遊びは?「ベイブレードX」。『ベイブレードX』という名前のオモチャと言うのか遊び道具というのか、これを説明するには少々時間がかかるかもしれません。もともとは当時の『ベーゴマ』が発祥で、現代版のベーゴマといってしまえばそれでおしまい・・・では面白くないので、ちょこっと調べてみました。大体ベーゴマってなんや?と言うところから調べてみると面白いことが分かりました。・・・それは、江戸時代までさかのぼります。当時、巻貝の中に砂などを入れてそれをコマのようにまわしてぶつけたりして遊ぶ遊びがあ...我が家の猫たち。あんず・ソウタ。その2。マロン。(附)ベイブレード。(DayswithCats)

  • 我が家の猫たち。久々に。あんず・ソウタ。相変わらず箱好き。その1。(Days with Cats)

    久々の猫たち。「あんず」と「そうた」。小柄のあんず。3㎏。その代わり、相変わらずすばっしこい。なかなか写真に納まりません。洗濯機の中に。そうた。5.6㎏。相変わらず「ジジ」をくわえて、ベッドの上で寝転ぶと、でかい!頭はどこ?<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/e6/4f5b0d7c75f32ce66a96b67c6f572b9c.jpg">寝るところ選ばず。納戸。箱好きがますます嵩じて、小さな箱に大きな図体。我が家の猫たち。久々に。あんず・ソウタ。相変わらず箱好き。その1。(DayswithCats)

  • 水元公園。葛飾区菖蒲まつり。開会セレモニー。屋台もたくさん。

    6月1日(土)午前。「水元公園」に出かけました。自転車もたくさん、人もたくさん、出店もたくさん。「葛飾区菖蒲まつり」の開会式が始まるようです。屋台も大賑わい。地元野菜の即売会も大繁盛で、次々と買い求める人々。ところで、花菖蒲の方は?開花は、まだまばらな印象。それでも大輪の花が。開会式の日からいよいよ始まり!今日は、屋台の方に大勢の人。睡蓮の花が池に浮かんでいます。対岸は、三郷市。水元公園にはアジサイもたくさん植えられています。ガクアジサイ。メタセコイヤの森も見事です。樹高が20mにもなるメタセコイアの木々が、晩秋の色に染まる様子は圧巻。森の外縁の日当たりの良い木々は紅葉が進んでいます。ちなみにメタセコイアの紅葉は、赤色ではなく「レンガ色」と表現されます。内側から輝くようなまぶしさを持つ色で、円錐形のメタセ...水元公園。葛飾区菖蒲まつり。開会セレモニー。屋台もたくさん。

  • 堀切菖蒲園。「葛飾しょうぶ祭り」。5月31日(金)。曇りのち晴れ。江戸花菖蒲や肥後などの花菖蒲が種類豊富に。

    ぐずついたお天気も少し回復してきた5月31日。花しょうぶの咲き具合はどうかな、と。愛用の折り畳み自転車で出かけます。まだ5分咲きというところでしょうか?それでも、晴れ間を縫って大勢の見物客が続々訪問。さまざまな花菖蒲が咲き始めています。それぞれに絶妙なネーミング。これはユニークな花のようですが。言いえて妙です。個人的にけっこう気にいった花菖蒲。紫色が目立ちますが、白い花も魅力的。ここで、「あやめ」、「かきつばた」、「花しょうぶ」、「しょうぶ」の違いは?花の基が「白」か「黄色」か「網目」か。「しょうぶ湯」の菖蒲との違いも。育つ場所の違いもあります。堀切三姉妹。「堀切の夢」。「花菖蒲かがやく雨の走るなり」中村汀女全景。綾瀬川をはさんで、首都高の高架線。周囲を住宅に囲まれながらも、よく整備された菖蒲園です。堀切菖蒲園。「葛飾しょうぶ祭り」。5月31日(金)。曇りのち晴れ。江戸花菖蒲や肥後などの花菖蒲が種類豊富に。

  • 成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

    のどかな田園地帯。「この場所は標高10M」。集落に入ってきます。左手線路際に大きな石碑。「銚子市立豊里小学校」。道路脇に「紀念碑(忠魂碑)」(大正7年建立)。「千葉若潮牛」。「豊かな自然と温暖な気候のもとで、心を込めて育てあげました。」左に折れると、「下総豊里駅」。右手にある建物。「銚子速算塾」。以前は、商家だった?「下総豊里駅」。ホームから改札口を見ると、「新国立劇場舞台美術センター」の案内図。ここで製作しているのですね。車窓から広がる水田や麦畑を眺めながら、帰途に。そして、筑波山(↓)。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/ee/0356b180eb73f06ceddd43721590257a.jpg">次回は、ゴールしたいと思いますが、なか...成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

  • 成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

    右手、街道脇に「飯村観音江四里」碑があるのですが、確認せずに通り過ぎてしまいます。※(「Wikipedia」より)右手前に「道標」があったはず!実は、「歴史的農業環境閲覧システム」では、この道標付近から、旧道は東に向かい、利根川沿いに進むようになっています。(現在)旧道は線路を越えて東南に進んでいた。現在、道筋は部分的に不明瞭もしくは消失している。(1880年代)顕著な道筋になっている。※1880年代の街道は集落をつないでいる様子です。今回のコースは「下総豊里」付近に顕著な集落があるのみ。今回歩いている道は、そのまま南下する道筋。1880年代の道筋とは、「下総豊里駅」付近で合流します。※「今昔マップ」では、明治後半・大正には、今回歩いた道になっています。「利根川」流路の整備に伴って、新しい道路整備があった...成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

  • 成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その4。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

    先に進みます。振り返る。店先にスイカ。今年初めて見ました。それよりも、玉ねぎがたくさん、大きい袋に入ったまま並べられているには驚きました。右手には田畑が広がる。左手に高橋農園・いちご園。来た道を振り返る。道標。「・・・観世音壱丁」。詳細不明。※丁=町約100m。「↑銚子→下総橘駅」。右手の奥、丘の上には、「東庄町国民健康保険東庄病院」・「保健福祉総合センター」バス停「石出」。「トゥーノーイシデショウ(旧東庄町立石出小学校)」。やってみたい!が見つかって、やってみた!が得られる場所千葉県香取郡東庄町では、2020年3月31日をもって、5つあった小学校が1校に統廃合され、4校(石出小学校、神代小学校、橘小学校、東城小学校)の校舎が使われなくなってしまいました。そこで、東庄町出身者を中心に設立されたオンラア未来...成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その4。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

  • 成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その3。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

    しばらく国道歩き。「→東庄町役場・・・」直売・苺狩り。営業中の「林いちご園」。バス停「菰敷青年館」。横道に入ると、水田が広がる。遠くに「筑波山」(↓)。「笹川」。右手奥に、「レストランだんだん」。若い娘さんが幟を立てていたので、「さりげなく」声をかけて先に進みます。バス停「一本松」。大きな石碑。「日本名山霊地巡拝大乗修養碑」。この隣の塀の中に、「水準点」。海抜4.4m。直線の道が続く。バス停「寺前」。左手奥に「忠魂碑」。右に「新宿青年館」。お店が並ぶ交差点に。山裾には住宅地が広がっています。高速バス「橘」。「バスターミナル東京八重洲」行きのバスの停留所です。「利根川大橋入口」交差点。右手では県道の拡幅整備工事中。「←常陸川大橋鹿嶋↑利根かもめ大橋銚子」。(現在)南東から接続する県道は未完成。成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その3。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

  • 成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その2。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

    天保水滸伝。歌川芳虎〈1828~87頃〉「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(「城西国際大学水田美術館」より)さて、街道歩きに戻ります。「桁沼川」(下流方向)。上流方向。「国道356号(利根水郷ライン)」に合流します。来た道を振り返る。通りの向こうに石塔。近づくと「飯沼観世音江五里」。残り20㎞。成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その2。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

  • 成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その1。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

    5月17日(金)。快晴。今回「椎柴駅」まで行く予定でしたが、一つ手前の「下総豊里駅」で終了。あと1日でゴールの銚子・飯村観音までたどり着けるか、微妙に。成田線「笹川駅」。素朴な駅舎。アーケードをくぐって街道に復帰。「御大典記念築堤」碑。「諏訪神社(大神)」境内。坂上田村麻呂が蝦夷征討の際、悪神退散を祈願して建てた一祠が当社の始まりとされ、大同2年(807年)に創建されたといわれており、須賀山明神とも称された。東国鎮護の神社として国司武将等の崇敬篤く、特に大江維時は社殿を造営し、源頼朝は建久2年(1191年)東重胤に命じて社殿を改築した。その後天正19年(1591年)に徳川家康が朱印地10石を寄進し、享保3年(1718年)には神階正一位を授けられた。当社の春の例祭には、神前の神楽殿で「笹川の神楽」が演ぜられ...成田線「笹川駅」~「下総豊里駅」。その1。(「佐原銚子街道」をゆく。第3日目。)

  • JR「船橋」~「銚子」~銚子電鉄「犬吠」。その2。(「銚子街道」番外編。)

    車両の顔。「澪つくし号」。※澪標(みおつくし)通行する船に水脈や水深を知らせるために目印として立てる杭。水深の浅い河口港に設けるもの。古来、難波のみおつくしが有名。和歌では「身を尽くし」との掛詞で用いられることも。「わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ」(元良親王「小倉百人一首」)この電車。マニアの方にはどこで使用されていた車両かはご存じでしょうが、・・・。終点・外川に向けて走り去る電車。ホーム。「最高だぜ!ちょうしアイドルマスターSideM」。「ありがとうとかわ」。駅前広場。駅舎。「犬吠埼灯台」に向かって歩きます。右手の眼下に大海原が広がってきます。「銚子グランドホテル」。高浜虚子句碑。犬吠の今宵の朧待つとせん左手奥に「犬吠埼灯台」。周辺観光案内図。郵便ポストも白色。上に上るか?い...JR「船橋」~「銚子」~銚子電鉄「犬吠」。その2。(「銚子街道」番外編。)

  • JR「船橋」~「銚子」~銚子電鉄「犬吠」。その1。(「銚子街道」番外編。)

    「佐原銚子街道」がまだ完歩していませんが、その前に、一番小さな孫と銚子電鉄で犬吠埼灯台まで。5月25日(土)。曇りのち晴れ。父親のザックだそうで、大きく、重そう。行きは、特急「しおさい」。帰りは成田線経由で京成電車。半日の慌ただしい旅。孫も小型のカメラで撮っています。こちらは、それを気にせず、地域鉄道の鉄道事業経営は時代の流れと共に年々厳しさを増しております。弊社は幾度とない経営危機を迎えましたが、どんな逆境にもあきらめない想いと、ぬれ煎餅の製造販売に代表されるような、常識にとらわれないチャレンジ精神で、必死に鉄道事業を守り続けてきました。⇒倒産の危機を救った奇跡のぬれ煎餅銚電ストーリーはこちらをクリックしてご覧ください。⇒奇跡濕仙貝(ぬれ煎餅)物語也是拯救銚子電鐵從因財務困境而差點倒閉狀況中起死回生的最...JR「船橋」~「銚子」~銚子電鉄「犬吠」。その1。(「銚子街道」番外編。)

  • 成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

    「第二佐原銚子街道踏切」。「笹川駅」方向。「小見川駅」方向。「国道356号(利根水郷ライン)」。右手に「高橋いちご園」。この地域でも、房総特有の槇の生け垣が続きます。タイヨー東庄店。向こうに水田が広がる。利根川の対岸には、鹿島臨海工業地帯(神栖)の高い煙突群。バス停「新切(しんせつ)」。雪洞風の街灯。右手奥に「笹川駅」。今回はここまで。駅に向かいます。「水の里風ロマン東庄町」というアーケード。成田線「笹川駅」。駅前の広場。右手の駐輪場にあるモニュメント。タイトルは「積雲の彼方へ」。葉と人と鳥が融合したかたち。足下に、「天井にツバメのお家があります。ご注意下さい。あたたかく見守ってね」見上げると、小見川とここと、ツバメに出会いました。跨線橋から。銚子方向。南東側。上りホーム。次回はこの駅から。成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

  • 成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

    左折し、直畝道を進みます。この道筋は大きな桝形(曲尺手)?街道沿いに集落。この付近の今昔。(現在)左折した後、成田線沿いに進む。(1880年代)阿玉川の集落。舟運のための道が見える。広く大きな屋敷。「飯沼観音江六里」。銚子駅まであと24㎞弱となります。ということは、あと6時間。軟弱な小生。あと2.5日ペース。成田線沿いの直線道になります。左手下には水田が広がる。眼下は成田線の線路。「黒部川」、その向こうに「利根川」。北西遠くに「筑波山」(↓)。利根川歩きのときは、筑波山を眺めながらの歩きでしたが、振り返るときにのみ。「東庄(とうのしょう)町」に入ります。成田線。右手は森。色褪せた看板。「ようこそ東庄へ。これよりいちご街道」。成東駅から歩いたときにも「いちご街道」がありましたが、東庄町でもイチゴ栽培が盛んな...成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

  • 成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その4。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

    国道356号に合流します。左折し、国道歩き。この通りが「(旧)佐原銚子街道」になっています。頭上を何羽ものツバメが飛び交っています。このお店の「デ」の上に巣がありました。(↓)近所の工場に毎年、ツバメがやってきましたが、近年はまったく見なくなりました。久々のツバメの姿を見ました。ツバメ(「Wikipedia」より)・・・「燕尾服」の由来となったオスの尾羽は長ければ長いほどモテる?!全長17cm。オスメス同色ですが、尾は長い方がオスです。空中を飛んでいる虫を餌にしていますので、農薬を使っていなかった昔は稲作の害虫を食べてくれる大切な鳥でした。そのためツバメを大切にするような言いつたえが各地にありました。日本で繁殖をしたツバメは台湾を経由してフィリピン、マレーシアで越冬する事が知られています。ツバメは南の国か...成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その4。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

  • 成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その3。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

    古代、小見川の大部分は海であり、陸地部には縄文人が住み着いていた。そのため現在でもその地域には貝塚が多数存在している(白井、阿玉台、木内、内野、良文等)。4〜6世紀には、日本の他地区と同様、小見川でも古墳が作られた。100基程見つかっており、代表例として三ノ分目大塚山古墳や、城山古墳群が挙げられる。鎌倉時代に入ると、千葉氏の勢力が強まり、その一族である粟飯原朝秀が小見川城を築いた。一方で、西地区の一部(織幡など)は香取神宮が領有を主張していた。粟飯原氏はその後も、源氏、足利氏、北条氏と密接に関わり地域を支配していた。しかし、やがて千葉氏の勢力が衰え、天文21年(1552年)に正木時茂により小見川城が攻略されると、粟飯原氏一族は離散した。また、香取神宮も天正19年(1591年)の太閤検地によって多くの社領を...成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その3。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

  • カルガモ4羽。梅の実も大きく。かるみや。やまあじさい。緑が濃くなった「向島百花園」。立葵。

    すっかり緑が濃くなった「向島百花園」。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/1d/e850474d7fc25041cfe89b7957dbcd85.jpg">5月18日(土)。このところ、不思議と土曜日に晴れるの日が続きます。その後のカルガモは?いました!2組のつがい?池を思い思いにスイスイ。あやめ。水辺も初夏らしく。梅の実も大きく、色づきつつ。「とうばい」。「しろかが」「べにすずめ」。「かるみや」。カルミアはコンペイトウのような形をした、色濃い蕾を持っています。花が開くと皿形になり、色は薄く模様が入って、蕾の様子とは全く異なった印象を受けます。開いた花をよく見てみると、雄しべの先は花弁のくぼみの中に収まっています。この雄しべは、飛来した昆虫など...カルガモ4羽。梅の実も大きく。かるみや。やまあじさい。緑が濃くなった「向島百花園」。立葵。

  • 成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その2。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

    用水路脇を歩きます。明照保育園。左手が開けてきます。と、そちらを眺めながら歩いていたので、「飯沼観音七里道標」を見逃してしまいます。「COCO'S小見川店」と反対側の国道沿いにあった!「城山公園」に向かう道の角に、「御大典記念碑」。「北大倉村津之宮方面西分郷神里村方向」「東小見川町笹川町銚子町方面」※1928年(昭和3年)11月10日、京都御所で挙行された昭和天皇の即位式を記念したもので、全国にある。この石碑は道標にもなっている。※「城山公園」城山の名前のとおり鎌倉時代から戦国時代末期にかけて、豪族粟飯原氏の城が築かれたところで、今でも城跡の一部が残っているほか、古代の古墳群もあります。現在では70種余り、約6,000本のさまざまな樹木が植えられ、四季を通じていろいろな花木が楽しめる公園となっています。中...成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その2。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

  • 成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その1。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

    5月10日。快晴。佐原銚子街道歩きの続き。水郷駅。下車客1名。「一の分目(いちのわけめ)」※地名は新田開発に伴う地割に関係するものと思われます。「三の分目(さんのわけめ)」という地名も同様か。この付近の今昔。(現在)現在も水田が広がる。赤い線が「国道356号」。(1880年代)街道は、集落に沿って続く。利根川は、周囲の河川、沼地などで流路が狭くなっていた。後、大規模な河川改修がなされ、現在のような流れに。バス停「水郷駅」。右手に「前方後円墳」。「三ノ分目大塚山古墳」。解説板。香取市一ノ分目・三ノ分目・富田地区の利根川に沿った微高地上には10基以上の古墳が確認されており、「豊浦古墳群」と総称されている。中でも最大の本古墳は、墳丘の全長が123mの前方後円墳で、後円部の径68m、高さ9.5m、前方部の幅62m...成田線「水郷駅」~「笹川駅」。その1。(「佐原銚子街道」をゆく。第2日目。)

  • JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

    狭い歩道。家などのところでは下りたり上がったりで、けっこう膝にこたえます。車の行き来も多い。車道を歩いたり、歩道に上がったり・・・。もうじき「水郷駅」のはずですが。右手に立派な長屋門。左手には「旧大倉小学校」。2022年3月末をもって、香取市立大倉小学校(千葉県香取市大倉501)が閉校します。1879年に千手院を仮校舎として大倉小学校が創設。ここが当校の創立起源となります。水田地帯が広がる自然環境に恵まれた同校は、児童数35名の小規模校。この地域では梨栽培が盛んなため、学校の校庭でも梨が育てられています。自然と触れ合う授業が多いことでふるさとを知る機会となっているそうです。また授業間の時間には縄跳びを行ったり、昼休みに「ロング昼休み」を実施したりと楽しく体力づくりにも励んでいます。143年間に渡りこの地区...JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

  • JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

    右手、線路の向こうは丘陵。成田線・国道356号は台地の裾を縫うように進む。バス停「側高(そばたか)青年館」。この先に、「側高神社」の大きな看板。左手は利根川堤に続く田んぼ。水準点。これも民家の敷地内にある。「海抜2.0m」。「側高神社入口」。奇祭「髭撫祭(ひげなでまつり)」で知られる側高神社は、香取神宮第一の摂社です。香取神宮の祭神である経津主命と縁故の深い神を祀った神社ですが、その主祭神は神秘とされて明らかにされていません。鳥居をくぐって拝殿へと向かう石段の脇には、「四季の甕」と呼ばれる石段が並んでいます。石段の側から春の甕、夏の甕、秋の甕、冬の甕といい、夫々の甕の水量が四季折々の降水量を示すとされています。この神社は利根川を見下ろす台地に建立されていますが、はるか昔は香取ヶ浦と呼ばれる広大な内海が眼下...JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

  • JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その4。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

    田植えの時期。来た道を振り返る。バス停「かわじり橋」。「川尻」。利根川沿いに進んできた国道356号「利根水郷ライン」に合流。国道に入ってすぐ左手に、「香取神宮一ノ鳥居(津宮鳥居)」。ここは、利根川歩きのときに立ち寄っています。大鳥居と「与謝野晶子歌碑」があります。バス停「津の宮」。国道356号線「利根水郷ライン」を進みます。この先からは、利根川河畔と少し離れていきます。この国道は、銚子・小見川・対岸にある鹿島臨海工業地帯への幹線道路。大型トラックなどがひっきりなしに行き来します。路肩も狭く、けっこう歩くのに苦労します。信号も少なく、スピードを出して通り過ぎるので、恐い!バス停「香取駅」。駅までは、かなり歩きます。バス停「堀川」。遠くに鹿島線の利根川橋梁。「鹿島線」の高架をくぐります。振り返ると、右に「鹿島...JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その4。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

  • JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その3。(「銚子街道」をゆく。第1日目。)

    「香取神社入口」交差点を左折します。交差点を振り返る。右手が佐原の中心街。すぐ右折。枡形(曲尺手)になっていて、「佐原宿」から離れていくことになります。この道「佐原銚子街道」を香取駅を経由、水郷駅へ。「御神燈」。「○内安○」。香取市のマンホール。市の花「アヤメ」の咲く水郷での鮒釣りをデザイン。※2006年3月27日に佐原市、香取郡栗源町、小見川町、山田町と合併し、香取市となった。バス停「仁井宿(にいじゅく)」。仁井宿は佐原で最も古い町内の一つです。嘉永5年(1852年)に製作された2代目の漆塗りの幣台(やだい)は、完成から既に150年近くが経過しており傷みが激しくなりましたので、平成10年の春に現在の幣台(やだい)が新造されました。仁井宿では3代目の幣台(やだい)にあたります。飾り物は「大鷹」です。この巨...JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その3。(「銚子街道」をゆく。第1日目。)

  • JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その2。(「銚子街道」をゆく。第1日目。)

    看板建築の一つ。木造モルタル造り。なかなかおしゃれです。メインストリートに向かいます。蔵造りのお店が並んでいます。この界隈は、以前来たときに歩き回りました。今回は、あっさりと歩きます。観光客もたくさん。外国人の姿も結構見かけます。(伊能)「忠敬(ただたか)橋」。「小江戸さわら舟めぐり」で有名な「小野川」。これから先、佐原は、「あやめ祭り」でも賑わいます。「佐原銚子街道」を歩きます。「さわら十三里屋」。栗(九里)より(四里)うまい芋製品。※「くりよりうまい」は、埼玉・川越が江戸(中山道・板橋宿)より13里(半)の距離があることになぞらえたうたい文句ですが、このお店の屋号にもなっているわけです。重厚な土蔵造りの建物が連なります。「癒しの雑貨らぱん」。「佐原三菱館」。レンガを積みあげて建てられた2階建ての洋館で...JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その2。(「銚子街道」をゆく。第1日目。)

  • JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その1。(「銚子街道」をゆく。第1日目。)

    まだまだ「銚子往還」歩きが続きます。今回から「佐原」~「銚子」まで。「東金線」、「総武本線」を利用しての銚子往還。今回から「成田線」を利用しての銚子街道となります。銚子街道起点:我孫子市寿1丁目旧水戸街道我孫子宿、成田街道我孫子ルート重複終点:銚子市飯沼町「観音前」交差点国道356号が現在踏襲している利根川沿いに整備された街道である。なお、厳密に起点は決定されておらず、木下街道と接続する木下付近を起点とする説や佐原を起点とする説もある。江戸時代には我孫子宿(我孫子市寿1丁目16、追分石碑)で旧水戸街道と接続していた成田街道(印旛郡栄町安食「安食」交差点までの国道356号の一部、県道18号・松崎街道)と共に印旛への輸送路・開発路として役割も果たした。また、水運と共に発達し、明治期には水戸街道(現在の国道6号...JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その1。(「銚子街道」をゆく。第1日目。)

  • 旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その6。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

    国道沿いにある「イオンモール銚子」。ここまで歩きました。大型店舗で、駐車場もけっこう満車。ここから銚子駅へのバスに乗り、「春日町」バス停で下車。国道126号から右、直線の旧道を歩きます。街道沿いらしい町並みではありません。総武本線「清川町踏切」。銚子駅方向。この道をまっすぐ進むと、佐原方向からの「銚子街道」と合流します。右に折れて銚子駅前へ。銚子駅。「国木田独歩」碑。交差点を右に曲がると、水準点。銚子の街歩きはここまで。発車時間が近づき、銚子駅に向かいます。(何しろ1時間に1本なので逃すとタイヘン!)総武本線の車窓より。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/58/dec68f121473859c6ee11ba415f6647d.jpg">利根川沿...旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その6。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

  • 初夏の「向島百花園」。緑が一段と濃くなってきます。カルガモたち。

    久々の「向島百花園」。年間パスポートを購入(280円)。緑が濃くなった百花園。スカイツリー。カルガモの姿。何羽もカルガモがいます。番が何組か。百花園の池は一組の親子が棲みつくだけ(のはず)。今年は、どういうわけ?先陣争いなのでしょうか?去年の雛が成長して戻ってきて・・・「楽焼づくり」。梅の実。みやこわすれ。ばしょう。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/66/b001f26fb25e6ef0be2e76bb468ecd6b.jpg">新しい葉っぱが。初夏の「向島百花園」。緑が一段と濃くなってきます。カルガモたち。

  • 旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その5。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

    風力発電所。畑の向こうに。振り返る。ダイコン畑。広大な畑地と風力発電所。収穫時期の異なる畑。ソバの花。風車から次第に遠ざかる。住宅地に入り、正面を左折。国道126号に合流します。銚子方向。旭方向。「イオンモール銚子」に向けて歩きます。この付近の今昔。(現在)国道への道が不明になっている(1880年代)集落はなく、田畑の一本道。旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その5。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

  • 旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その4。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

    キャベツ畑が広がる。集落はまだ先まで続きますが、銚子往還は右折します。ここで右に折れます。急坂を下ります。振り返る。頭上に、道を横切るように、しめ縄、タコ(右)やイカ(左)などの作り物が渡されています。「道切り」。道切り(みちきり)とは、村(地域)の出入り口にあたる道や辻で行われる民俗習慣のひとつ。辻切り(つじぎり)とも称される。日本の村落においては、村と山の境界にあたる野良(ノラ)、あるいは村と村の境(サカイ)には古くから魔や疫病をはやらせる神などが出入りすると考えられていた。出入り口にあたる道には魔を防いだり、追い払うために道祖神が祀られたり、注連縄(または藁で作った蛇)を張ったり草履や草鞋が供えるなどの道切りが行われていた。関西地方では近畿地方を中心として、村境や辻、寺社の境内などに注連縄を渡す勧請...旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その4。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

  • 旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その3。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

    「磯見川」に向かって下ります。来た道を振り返る。けっこうな急坂です。左手小高い丘の上に、「日本ペット診療所」。右手遠くに海。かつてはもっと向こうに陸地が続いていたのでしょうね。ソバ畑。白い花が咲いています。「磯見橋」。河口付近に「通蓮洞」がありました。・・・今回ご紹介する「通蓮洞」は、「磯見川」の河口付近にある「洞窟(どうくつ)」のことで、「名所」として賑わい、「通漣洞」、「通漣坊」、「潮漣洞」とも読み書きしていました。「千葉縣海上郡誌」の「潮漣洞」の「項」には、「豊岡小浜磯見川の河口にあり、一名「通漣坊」ともいう。潮汐(ちょうせき)沿岸を洗い、岩石為めに穿(うが)たれて一の大なる竈(かまど)形の空洞を生ず。一洞崩壊すれば、随(したがって)って一洞を生ず。世俗之(これ)を「延命淵」と称す。数十年前には、川...旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その3。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

  • 旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その2。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

    静かでのどかな道。谷戸の風景。田んぼや畑。多摩丘陵、三浦丘陵、狭山丘陵、房総丘陵、武蔵野台地、下総台地といった関東の丘陵地・台地の縁辺部が、長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形は、谷戸・谷津・谷地などと呼ばれている。これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)または「谷」(や)を、東北地方では「谷地」(やち)を使う場合が多い。これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している。多摩丘陵・三浦丘陵における谷戸地形の成因は、主に約2万年前の最終氷期...旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その2。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

  • 旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その1。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

    今回から、もう一つの銚子往還道(「従銚子港至千葉町道」)を歩くことにします。旭駅からコミュニティバスに乗って刑部灯台の手前まで。そこから銚子駅を目指して歩きます。途中から国道126号を歩くので、国道沿いにある「イオンモール銚子」まで歩き、そこから千葉交通バスに乗ることに。旧道の今昔。(現在)上永井から東北に向かい、小浜町から三崎に向かう道が旧道。※通蓮洞は、すでに崩壊している。(1880年代)「従銚子港」「至銚子港」として存在している。立体地形図だと、台地の縁を旧道が通っている。・・・さて歩き始めます。「海抜59.6m」。右手にキャベツ畑が広がります。左手は住宅。時折、農作業用の軽トラや耕運機が通るだけ。一面、畑やハウスが広がる。この道が下の畑に下りる道?遠くに田畑が。旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その1。(「銚子往還」をゆく。第8日目)

  • 総武本線「旭駅」~「飯岡刑部灯台」。その6。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

    そろそろ昼飯時。旭駅周辺で買い物ができず、ここまで。帰りのバス時間も考え、刑部灯台から帰途へ。「上永井公園飯岡刑部岬展望館~光と風~」。この展望館は、千葉県立九十九里自然公園内に位置し、自然とふれあう活動の場として平成13年3月にオープンしました。展望館のある刑部岬からの眺望は、「日本の夕陽百選」「日本の旭百選」「日本夜景遺産」「日本夜景百選」「ちば眺望百景」「関東の富士見百景」に選定されています。空気の澄んだ晴天時には、水平線に浮かぶ富士山や夕陽に映える富士山のシルエットを見ることができます。特に2月下旬には父子山頂に夕陽が沈む「ダイヤモンド富士」という珍しい現象が見られます。ここ刑部岬からいすみ市太東岬に至る約66㎞の九十九里浜は、ハマヒルガオなどの植物群落のある美しい海岸として「日本の白砂青松100...総武本線「旭駅」~「飯岡刑部灯台」。その6。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その5。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

    飯岡漁港・刑部岬付近の今昔。(現在)砂州が沖に伸びています。(1880年代)岬のような地形ではありません。100年間の海岸地形の変化は著しい。港湾施設の建設などで潮流の変化があったことも、大津波の一因になったのでは?「・・・自宅兼店舗は、海に向いた玄関から津波が入り周囲の壁を壊して突き抜けていた。幸い家族は避難して無事だったので、しばらくは友人やボランティアの力を借りて私は週末だけ帰り片付けを手伝った。再建に時間がかかったが12月にオープン。私は郷里に戻り父と二人で店を経営してゆく決心をした。経営は難しいが、私なりにインスタグラムやフェイスブックなどを活用して、会席料理をもっと気軽に若い人に楽しんでもらえるよう頑張る。」「大地震の日は飯岡中学校で帰りのホームルームの最中だった。津波が来るかもしれないと言う...総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その5。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その4。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

    断崖絶壁の下は、大海原が広がる。刑部岬の先端。「屏風ヶ浦と刑部岬」。飯岡台地が断崖となって太平洋に落ち込む屏風ヶ浦は、高さ60m、現在地には飯岡灯台がたち、刑部岬と呼ばれている。灯台周辺は公園に指定されており、水平線と九十九里浜が織りなす眺望は、昼夜を問わず絶景であり人気が高い。ここ刑部岬から銚子市名洗にかけて、高さ40~50mの絶壁が屏風のように約10㎞にわたり続いており、屏風ヶ浦は俗に「東洋のドーバー」と呼ばれています。太平洋の荒波が直接打ち寄せるため、その浸食により形成されたもので、700年余りに約6㎞近く陸地が後退したといわれています。平安時代末期にはこの地に源義経の四天王の一人、片岡常春が佐貫城をかまえていたが、その城跡は激しい浸食による海岸線の後退で今では海中に没してしまい、昔の姿はありません...総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その4。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その3。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

    眼下に「飯岡漁港」が広がります。飯岡の町並み。右奥の遊歩道を上がってきました。遠く九十九里浜が連なる。けっこう高台に上がってきます。左手奥が刑部岬の先端。「飯岡刑部岬展望館」が正面に。屏風ヶ浦先端に立つ「刑部灯台」。眼下に広がる大海原。「希望の鐘」。「打ち上げ花火下から見るか横から見るか」ロケ地。「東日本大震災により大きな被害を受けた本作のロケ地と東日本復興への願いをこめて」と、2011年7月22日から8月31日まで岩井俊二の公式サイトにて、無料で動画配信された。※Aパート、Bパートがあるようです。Bパート足をぶつけることなく勝った典道はなずなに「花火大会に二人で行こう」と誘われ、男友達にも「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか?平べったいのか?」と誘われるも、ギリギリまで粘った典道はなずなとの約束を優先し...総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その3。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その2。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

    飯岡漁港付近の今昔。(1880年代)銚子港への道は、飯岡村(飯岡漁港)を抜けて、北東に向かいます。(現在)飯岡漁港付近は港湾施設が整備され、道筋は変化していますが、東側には旧道が残っています。刑部灯台を望む。釣り船が出航。灯台の方へ向かいます。この道はかつての往還道。現在は、遊歩道になっています。山を回り込みながら進む。右に「海津見神社」。通称「永井の妙見様」。急な石段を上っていきます。坂道を振り返る。かつての往還道になっている。50mほどの高さを一気に上がり、灯台に向かう舗装道路に出ます。銚子に向かう旧道はここから台地の縁を東に進みますが、次回に回すことにして、刑部灯台に向かいます。この付近の今昔。(1880年代)(現在)〇が分岐点。灯台への上り坂を行くと、絶景が待っていました。総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その2。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その1。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

    今回は、もう一つある「銚子往還道(従銚子港至千葉町道)」を歩く、その前に。旧道に連なる「飯岡漁港」から刑部岬・灯台付近を探訪します。4・19(金)。晴れ。「旭駅」から旭市コミュニティバスを利用して、「玉崎神社」下車。(ここまで運賃100円。)※小学生、75歳以上、運転免許返上者は100円。通常は200円。数人乗ってきました。飯岡漁港まで歩きます。道路が整備され、新築のおうちが目立ちます。実は、それには背景があったのですが、後で知ります。さらに、19日に出かけた翌日、整髪に行ったとき。行きつけの床屋さん、飯岡の「三川」出身だということが判明。「昨日、歩きましたよ。旭駅からバスに乗って、飯岡漁港から刑部灯台まで」「高校まで三川に住んでいました」そこから、話が弾んで、玉崎神社までのコミュニティバスの停留所を停留...総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その1。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その6。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

    総武本線・上りの電車。古い石塔。旧道沿いの街並み。「塙廣屋」。屋号?「柴崎町」交差点。国道356号「利根水郷ライン」を横切る。※利根水郷ライン=千葉県銚子市から、我孫子市に至る全線に渡って利根川右岸に沿う。角に大きな記念碑。「銚子市立海上幼稚園」。奥に「海上小学校」。海上=うなかみ。海上村(うなかみむら)は、千葉県海上郡に存在した村。現在の銚子市の、おおむね松岸駅と椎柴駅・猿田駅の間の沿線に位置していた。海上は広域地名であり、1954年から2005年まで存在した海上町(現旭市)は本村と位置も異なる別の自治体である。銚子市立海上小学校などにその名をとどめている。いよいよゴール地点へ。正面は、「藤兵衛支店」。来た道を振り返る。「銚子信用金庫松岸支店」。佐原方面から利根川沿いを進む「銚子街道」と出会う(追分)。...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その6。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

  • 久々の「向島百花園」。4・20。ツツジ・サツキ。サクラソウ。タケノコ。タムケヤマ。カルガモの姿が。

    すっかり春めいた今日この頃。小さな花が咲きそろっています。近所のおうちの車庫前の溝にも小さな花が。風で運ばれてきたのか、車で出かけたときにタイヤについてきたのか?土もなさそうなところに、けなげに咲いています。路地裏にも、これは我が家の鉢植え。そういえばサクラソウの咲く時期。毎年、百花園でも地元の方々が丹念に育てた「展示会」が開かれるはず、今年も、と出かけます。ところが、今年は中止。暑さで生育が思うようにいかなかった、とのこと。今年は園内で育てた花のみが。それでも、様々な色合い、姿のサクラソウが咲いています。満開のサツキ。ツツジとサツキは、それぞれ似た特徴をもった植物のようです。では、どうやって見分ければいいのでしょうか。「ツツジとサツキはどちらも花が非常に良く似ていることから、間違えてしまうことも多い植物...久々の「向島百花園」。4・20。ツツジ・サツキ。サクラソウ。タケノコ。タムケヤマ。カルガモの姿が。

  • 総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

    収穫済みのキャベツ畑。平地が広がる。「標高8.5m」。約50m下がってきたわけです。前方遠くには「JR線」。東方向。西方向。キャベツ畑。JR総武本線踏切。「柴崎街道踏切」。銚子方向。旭方向。成田線「柴崎踏切」。佐原方向。銚子方向。この際、まとめて路線図。成田線総武本線佐倉駅から北へ分岐し、成田駅を経て、利根川南岸に沿って、再び総武本線との合流駅である松岸駅へ至る本線と、成田駅から分岐して我孫子駅に至る支線(我孫子支線)と、成田駅から約2km北の地点で本線と分岐し空港第2ビル駅を経て成田空港駅に向かう支線(空港支線)を持つ路線である。本線の佐倉駅-松岸駅間では総武本線よりも13.4km営業キロが長い。成田線の正式な起点駅は佐倉駅であるが、千葉駅を発着する成田線発着・経由列車は、総武本線成東駅方面行きの列車と...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

    三叉路に石碑などがいくつか。小さな集落に入ります。右手には畑が広がります。路傍には明るい色のキク科?の花々が。ガーベラ?この花の名は?右手下にも住宅が。剪定された見事な槙。県道に合流します。その手間に作業所。ダイコンを水洗いながら先端を切り落としています。カートに山積みされたダイコン。その作業所の前に、木彫りの熊?振り返る。合流地点に記念碑。この付近、旧道の道筋ははっきりしません。(1880年代)丘陵と丘陵の間を進む。(現在)黄線が県道。白線が旧道。西側には畑が広がる。この道が旧道の一部?東総台地の北端から下り坂にかかります。台地に上った分、下るわけです。坂の途中に古い石碑。右手は谷筋。前方が開けてきます。平地に降り立った印象。来た道を振り返る。<imgsrc="https://blogimg.goo.n...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

    銚子市内に入っても、畑地が大きく広がる。収穫時期をずらしてのキャベツ畑。収穫済みとこれからのもの。こちらでは、ダイコンの収穫が盛んにおこなわれています。何を植えるのでしょうか?どういう工場・施設だったのか?廃業になっているようです。ダイコン畑。シートをかけた畝。これから大きくなるキャベツ。奥には、成長したキャベツ。キャベツもダイコンも収穫時期をずらすことで、年間を通しておいしい野菜が収穫できます。また、露地植え、といういところにこの地域の特徴があるようです。遠くの方まで、風力発電所の風車(プロペラ)が。シートを外したダイコン畑。緑濃きキャベツ。キャベツ畑が遠くまで続いています。県道から右にそれて進みます。小さな集落へ。ハウスから軽トラにいくつも苗を載せています。「何の苗ですか?」「メロンの苗でしすよ。」メ...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

    大きな風車(プロペラ)の下にも畑。千葉県の北東部、銚子市や旭市などの東総地域には、東総台地という標高40~50mの台地が広がっています。関東平野から太平洋へと突き出しているこの地域は、東南北の三方を海に囲まれており、1年を通して風速6m/s前後の強い風が吹いていることから、旭市から銚子市にかけての東西約10kmの範囲に、過去10年以上にわたって累計40基もの風車が建設されました。車で成田空港方面から国道296号線を東進し、さらに匝瑳市で国道126号線に入って旭市へと向かうと、まず左手の台地の上に飯岡風力発電所(850kW×5基)が見えてきます。そこから更に銚子方面へと走ると、銚子市内に入ってまもなく、丘の向こうに八木風力発電所(1,500kW×6基)が見え、海側には銚子小浜風力発電所(1,500kW×1基...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

    4月13日(土)。晴れ。今回。総武本線「旭駅」で下車し、総武本線と成田線が合流する「松岸駅」から帰途に、という計画。歩くとかなり時間がかかり、途中、北総台地を越えていくことになります。膝の具合もよくないので、途中までタクシーを利用、台地の南端まで行き、そこから歩くという算段。けっこう安易な歩きになりそうです。この付近の今昔。(現在)道筋はほとんど変わらない。(1880年代)「従銚子港至千葉町道」。塙新町。まとまった集落になります。ここまではカーブが続く、緩い上り坂。振り返る。塙十字路。左の角に「塙十字路祠」。集落から次第に離れていくと、左右が開けてきます。風力発電の大きなプロペラが目に入ってきます。起伏にとんだ丘陵。緩やかな上り坂を進みます。右には谷に降りる細道。谷の向こうに雄姿を見せる巨大なプロペラ。振...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

  • 総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

    「安中藩太田陣屋跡」。解説版。明和4年(1767)、上野安中藩の下総領二三ヵ村、およそ1万石の土地を支配する拠点として設けられた陣屋の跡。・・・安中藩はここ太田村に陣屋を置き、代官2名、与力数人を常駐させて、支配地の年貢の収納、治安などを行わせた。周囲に堀をめぐらし、南に長屋門をおき、奥に間口八間・奥行四間の役所があった。堀は排水溝程度のもので粗末なものだった。明治初年、廃藩になるまでのおよそ100年間を支配したが、江戸時代末期にアメリカのペリーが江戸湾に来航し、海防の必要から藩より30数人の武士が派遣増員された。廃藩後、陣屋の施設は撤去されたが、部下たちのなかには安中に帰らずにこの土地に残った者もあり、現在もその子孫が市内で生活している。県道に戻ります。旭市のマンホール。太平洋から昇る朝日と市の木クロマ...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

  • 総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

    カフェ&レストラン「グレコ」。開けたところに出ます。角に「セブンイレブン」。旭の市街地に向かいます。すでに水が張られた田んぼ。「沖縄を楽しみましょう三線ライブもやっています」。昼間、お店は閉まっていますが。しばらく進んで旧道へ。旧家の趣。すぐ県道に復帰。来た道を振り返る。路地の奥に趣のあるおうち。「宿天神青年館」との看板が。7月27日、旭市太田の宿(しゅく)天神(てんじん)地区にある八坂神社祇園祭、通称「太田(おおた)祇園(ぎおん)」の夜に演じられるつく舞を、地元では「太田のエンヤーホー」と呼んでいる。つく舞は、長さ9間の柱と、その前に組まれた2間四方、2段の舞台で演じられ、動物の面を付けて舞台上段で無言劇を演じる「地(じ)舞(まい)」部分と、登り獅子がつく柱に登っての曲芸部分から成ります。地舞では赤獅子...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

  • 総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

    園芸店[園芸店「川嘉園」。県道は、整備されたようです。カーブごとに注意喚起の表示。用水路と古仏。道路整備に伴って移転?槙の生垣が続く。槙の生垣が連なる様子は、房総半島によく見られる風景。趣ある門のおうち。匝瑳市から旭市に入ります。左の旧道に入ります。県道に、「小久保畳店」。「一針入魂」。国道に合流します。沿道沿いのおうち、鉢植えのチューリップが満開。趣のある門構え。内裏神社。社伝によれば、祭神耳面刀自媛(弘文天皇の妃)は関白太政大臣の藤原鎌足の娘で、白鳳元年に壬申乱が起り、妃は悲運にも弘文天皇と共に近江の露と消えゆる所を、逃れて東国に下りました。途中海難に遭い現在の匝瑳市野手の内裏塚浜に漂流し、不幸にもそこで病歿し、従者などが媛を葬り墳土を築きました。妃の従者の子孫の美敷が天慶3年(940年)に野手の墳土...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

  • 総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

    銚子方向。車の通りも少ない旧道を進む。古い石塔。判読不能。バス停「新宿」。1880年代の古地図では民家がなく、「新宿」(しんじゅく・にいじゅく)という地名はありません。八日市場町が発展するにしたがって、「新宿」と名付けたものと思われます。※かつて、この地域には沼地・湿地帯が広がっていました。ここにも同じような古い石塔。「四国八八ヵ所巡礼・・・記念碑」?用水路と田畑が広がる。廃業となったビジネスホテル。ソテツがたくさん。通りの向こうに「水準点」。7.0m。田植えの準備中。この付近の今昔。(現在)(1880年代)↓の部分が直線化されている。左側の歩道が旧道?かなり幅広い。バス停「東谷入口」。家並みが続く地区へ。「匝瑳市立平和小学校」。「庚申塔」「西国参拝記念碑」など、まとまって古仏が置かれています。両側に家並...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

  • 総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

    「銚子往還」歩きも5日目になりました。3月30日(土)。晴れ。今回は、総武本線から離れて歩きます。「旭駅」が街道近くにあるので、そこまで歩くことに。駅でいうと、2駅になります。「八日市場駅」。銚子往還(旧道)に「復帰します。看板建築。モルタル仕立て。バス停「法務局前」。「←八日市場青果地方卸売市場」。バス停「篭部田(かごべた)」。水準点。地中に埋めてあるケースもあるようです。9.0m国道126号に合流します。(「篭部田」三差路)左手奥に「市役所」、右に「八日市場ドーム」。この先、斜め右に入っていきます。「大利根用水西幹線用水路」大利根用水(おおとねようすい)千葉県北東部の利根川沿岸地域の排水と、九十九里平野北部の地域への農業用水の供給を目的とした用水路。疏水百選に選定されている。千葉県香取郡東庄町で利根川...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

  • JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

    街道沿いに家並みが続くようになります。バス停「砂原」(八日市場イ)。バス停「仲町」。「裁判所→」。「千葉地方裁判所八日市場支部」。「塚本弓具店」。なかなか素敵な店構え。八日市場の中心街に入ってきます。ところで、「八日市場町」とは?かつて毎月八日に市が開かれ、市場町として発展した。「八日市場」の名はこれにちなむ。似た市名としては、滋賀県の八日市市(ようかいちし、現東近江市)があった。また、匝瑳(そうさ)市に改称後もかつてのイ〜ホの前に「八日市場」の名が付いている。(「Wikipedia」より)匝瑳市は、平成18年1月23日、八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併して誕生した市です。市の名称については、八日市場市・野栄町合併協議会において、15歳以上の住民を対象に両市町の名称を除いて行ったアンケート調査で1位であった...JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

  • 隅田川・お花見客でいっぱい。満開の桜のもと。ユリカモメもたくさん。曇り空の下。

    一昨日からPCの調子が悪く、電源を入れても起動しない。「ようこそ」がかなり長く(何分どころではない)続く。そのまま画面が動かず。再起動して先達の指示などを参考にして、あれこれ(例えばF8キーを押す)試みてもダメ。ますます事態は悪化(したのだろう)。PCにしてみればごちょごちょやりすぎだろ、爺さん!改善されない。HPで問い合わせてもらちが明かない。相手はおそらくAI。やり取りしても、行き違う。結局、PCを初期化することに、意を決して。昨日、5時間くらいかかって初期化。それで済むはずもなく、なんだかんだ我が家のPC様もご機嫌斜め。何とか再起動はしたが、今度は、メールやウィルス対策ソフトが起動しない。ここまでは、昨日夜。これらは、「明日できることは、今日するな」という原則に則って、今日に持ち越し。今朝。メール。...隅田川・お花見客でいっぱい。満開の桜のもと。ユリカモメもたくさん。曇り空の下。

  • JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

    この先、旧道は、いったん消滅します。国道126号に合流します。バス停「」。「飯倉」=「いいぐら」と読む。(→)※国道の東奥に総武本線「飯倉駅」があります。「飯倉」。来た道を振り返る。左手。右手には「九十九里ホーム病院」。残り少なくなったキンカンの実。国道から左手の旧道へ。バス停「米倉三叉路」。すでに匝瑳市内に入っていました。(←)房総でよく見かける屋根の建物。「高橋本店」。商家らしい建物。バス停「米倉分校跡」。来た道を振り返る。用水路と古仏。「御菓子司処鶴屋」。水準点。9.9m。八日市場の町場に入っていきます。JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

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