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2022/11/07

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  • 総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

    銚子市内に入っても、畑地が大きく広がる。収穫時期をずらしてのキャベツ畑。収穫済みとこれからのもの。こちらでは、ダイコンの収穫が盛んにおこなわれています。何を植えるのでしょうか?どういう工場・施設だったのか?廃業になっているようです。ダイコン畑。シートをかけた畝。これから大きくなるキャベツ。奥には、成長したキャベツ。キャベツもダイコンも収穫時期をずらすことで、年間を通しておいしい野菜が収穫できます。また、露地植え、といういところにこの地域の特徴があるようです。遠くの方まで、風力発電所の風車(プロペラ)が。シートを外したダイコン畑。緑濃きキャベツ。キャベツ畑が遠くまで続いています。県道から右にそれて進みます。小さな集落へ。ハウスから軽トラにいくつも苗を載せています。「何の苗ですか?」「メロンの苗でしすよ。」メ...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

    大きな風車(プロペラ)の下にも畑。千葉県の北東部、銚子市や旭市などの東総地域には、東総台地という標高40~50mの台地が広がっています。関東平野から太平洋へと突き出しているこの地域は、東南北の三方を海に囲まれており、1年を通して風速6m/s前後の強い風が吹いていることから、旭市から銚子市にかけての東西約10kmの範囲に、過去10年以上にわたって累計40基もの風車が建設されました。車で成田空港方面から国道296号線を東進し、さらに匝瑳市で国道126号線に入って旭市へと向かうと、まず左手の台地の上に飯岡風力発電所(850kW×5基)が見えてきます。そこから更に銚子方面へと走ると、銚子市内に入ってまもなく、丘の向こうに八木風力発電所(1,500kW×6基)が見え、海側には銚子小浜風力発電所(1,500kW×1基...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

  • 総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

    4月13日(土)。晴れ。今回。総武本線「旭駅」で下車し、総武本線と成田線が合流する「松岸駅」から帰途に、という計画。歩くとかなり時間がかかり、途中、北総台地を越えていくことになります。膝の具合もよくないので、途中までタクシーを利用、台地の南端まで行き、そこから歩くという算段。けっこう安易な歩きになりそうです。この付近の今昔。(現在)道筋はほとんど変わらない。(1880年代)「従銚子港至千葉町道」。塙新町。まとまった集落になります。ここまではカーブが続く、緩い上り坂。振り返る。塙十字路。左の角に「塙十字路祠」。集落から次第に離れていくと、左右が開けてきます。風力発電の大きなプロペラが目に入ってきます。起伏にとんだ丘陵。緩やかな上り坂を進みます。右には谷に降りる細道。谷の向こうに雄姿を見せる巨大なプロペラ。振...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

  • 総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

    「安中藩太田陣屋跡」。解説版。明和4年(1767)、上野安中藩の下総領二三ヵ村、およそ1万石の土地を支配する拠点として設けられた陣屋の跡。・・・安中藩はここ太田村に陣屋を置き、代官2名、与力数人を常駐させて、支配地の年貢の収納、治安などを行わせた。周囲に堀をめぐらし、南に長屋門をおき、奥に間口八間・奥行四間の役所があった。堀は排水溝程度のもので粗末なものだった。明治初年、廃藩になるまでのおよそ100年間を支配したが、江戸時代末期にアメリカのペリーが江戸湾に来航し、海防の必要から藩より30数人の武士が派遣増員された。廃藩後、陣屋の施設は撤去されたが、部下たちのなかには安中に帰らずにこの土地に残った者もあり、現在もその子孫が市内で生活している。県道に戻ります。旭市のマンホール。太平洋から昇る朝日と市の木クロマ...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

  • 総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

    カフェ&レストラン「グレコ」。開けたところに出ます。角に「セブンイレブン」。旭の市街地に向かいます。すでに水が張られた田んぼ。「沖縄を楽しみましょう三線ライブもやっています」。昼間、お店は閉まっていますが。しばらく進んで旧道へ。旧家の趣。すぐ県道に復帰。来た道を振り返る。路地の奥に趣のあるおうち。「宿天神青年館」との看板が。7月27日、旭市太田の宿(しゅく)天神(てんじん)地区にある八坂神社祇園祭、通称「太田(おおた)祇園(ぎおん)」の夜に演じられるつく舞を、地元では「太田のエンヤーホー」と呼んでいる。つく舞は、長さ9間の柱と、その前に組まれた2間四方、2段の舞台で演じられ、動物の面を付けて舞台上段で無言劇を演じる「地(じ)舞(まい)」部分と、登り獅子がつく柱に登っての曲芸部分から成ります。地舞では赤獅子...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

  • 総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

    園芸店[園芸店「川嘉園」。県道は、整備されたようです。カーブごとに注意喚起の表示。用水路と古仏。道路整備に伴って移転?槙の生垣が続く。槙の生垣が連なる様子は、房総半島によく見られる風景。趣ある門のおうち。匝瑳市から旭市に入ります。左の旧道に入ります。県道に、「小久保畳店」。「一針入魂」。国道に合流します。沿道沿いのおうち、鉢植えのチューリップが満開。趣のある門構え。内裏神社。社伝によれば、祭神耳面刀自媛(弘文天皇の妃)は関白太政大臣の藤原鎌足の娘で、白鳳元年に壬申乱が起り、妃は悲運にも弘文天皇と共に近江の露と消えゆる所を、逃れて東国に下りました。途中海難に遭い現在の匝瑳市野手の内裏塚浜に漂流し、不幸にもそこで病歿し、従者などが媛を葬り墳土を築きました。妃の従者の子孫の美敷が天慶3年(940年)に野手の墳土...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

  • 総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

    銚子方向。車の通りも少ない旧道を進む。古い石塔。判読不能。バス停「新宿」。1880年代の古地図では民家がなく、「新宿」(しんじゅく・にいじゅく)という地名はありません。八日市場町が発展するにしたがって、「新宿」と名付けたものと思われます。※かつて、この地域には沼地・湿地帯が広がっていました。ここにも同じような古い石塔。「四国八八ヵ所巡礼・・・記念碑」?用水路と田畑が広がる。廃業となったビジネスホテル。ソテツがたくさん。通りの向こうに「水準点」。7.0m。田植えの準備中。この付近の今昔。(現在)(1880年代)↓の部分が直線化されている。左側の歩道が旧道?かなり幅広い。バス停「東谷入口」。家並みが続く地区へ。「匝瑳市立平和小学校」。「庚申塔」「西国参拝記念碑」など、まとまって古仏が置かれています。両側に家並...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

  • 総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

    「銚子往還」歩きも5日目になりました。3月30日(土)。晴れ。今回は、総武本線から離れて歩きます。「旭駅」が街道近くにあるので、そこまで歩くことに。駅でいうと、2駅になります。「八日市場駅」。銚子往還(旧道)に「復帰します。看板建築。モルタル仕立て。バス停「法務局前」。「←八日市場青果地方卸売市場」。バス停「篭部田(かごべた)」。水準点。地中に埋めてあるケースもあるようです。9.0m国道126号に合流します。(「篭部田」三差路)左手奥に「市役所」、右に「八日市場ドーム」。この先、斜め右に入っていきます。「大利根用水西幹線用水路」大利根用水(おおとねようすい)千葉県北東部の利根川沿岸地域の排水と、九十九里平野北部の地域への農業用水の供給を目的とした用水路。疏水百選に選定されている。千葉県香取郡東庄町で利根川...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

  • JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

    街道沿いに家並みが続くようになります。バス停「砂原」(八日市場イ)。バス停「仲町」。「裁判所→」。「千葉地方裁判所八日市場支部」。「塚本弓具店」。なかなか素敵な店構え。八日市場の中心街に入ってきます。ところで、「八日市場町」とは?かつて毎月八日に市が開かれ、市場町として発展した。「八日市場」の名はこれにちなむ。似た市名としては、滋賀県の八日市市(ようかいちし、現東近江市)があった。また、匝瑳(そうさ)市に改称後もかつてのイ〜ホの前に「八日市場」の名が付いている。(「Wikipedia」より)匝瑳市は、平成18年1月23日、八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併して誕生した市です。市の名称については、八日市場市・野栄町合併協議会において、15歳以上の住民を対象に両市町の名称を除いて行ったアンケート調査で1位であった...JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

  • 隅田川・お花見客でいっぱい。満開の桜のもと。ユリカモメもたくさん。曇り空の下。

    一昨日からPCの調子が悪く、電源を入れても起動しない。「ようこそ」がかなり長く(何分どころではない)続く。そのまま画面が動かず。再起動して先達の指示などを参考にして、あれこれ(例えばF8キーを押す)試みてもダメ。ますます事態は悪化(したのだろう)。PCにしてみればごちょごちょやりすぎだろ、爺さん!改善されない。HPで問い合わせてもらちが明かない。相手はおそらくAI。やり取りしても、行き違う。結局、PCを初期化することに、意を決して。昨日、5時間くらいかかって初期化。それで済むはずもなく、なんだかんだ我が家のPC様もご機嫌斜め。何とか再起動はしたが、今度は、メールやウィルス対策ソフトが起動しない。ここまでは、昨日夜。これらは、「明日できることは、今日するな」という原則に則って、今日に持ち越し。今朝。メール。...隅田川・お花見客でいっぱい。満開の桜のもと。ユリカモメもたくさん。曇り空の下。

  • JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

    この先、旧道は、いったん消滅します。国道126号に合流します。バス停「」。「飯倉」=「いいぐら」と読む。(→)※国道の東奥に総武本線「飯倉駅」があります。「飯倉」。来た道を振り返る。左手。右手には「九十九里ホーム病院」。残り少なくなったキンカンの実。国道から左手の旧道へ。バス停「米倉三叉路」。すでに匝瑳市内に入っていました。(←)房総でよく見かける屋根の建物。「高橋本店」。商家らしい建物。バス停「米倉分校跡」。来た道を振り返る。用水路と古仏。「御菓子司処鶴屋」。水準点。9.9m。八日市場の町場に入っていきます。JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

  • JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

    集落に入っていきます。左角に記念碑?が。田畑が広がります。山裾沿いに家並みがあり、東側には田んぼが続く。立派な門構え。水準点。かつては重要な道筋だったことが分かります。標高7.1m。山裾では畑作業。直進。けっこう新しいのおうちが目立ちます。農道の向こうに「総武本線」。↓長い路地の先のおうちの佇まい。旧家らしい雰囲気。左手の奥にも。満開の真っ白な花。梅ではなさそう、いったい何という木でしょうか?隣では宅地?の造成中。「子安神社」の常夜燈。田植えに備えて?「お菓子のたいよう本店」。昭和26年創業、千葉県匝瑳市(そうさし)を拠点に近隣市町村に5店舗の直営店を運営している、地元の小さいお菓子屋です。落花生せんべいをはじめ、どら焼き、苺大福、慶弔まんじゅう・赤飯などの和菓子から、バウムクーヘン、マドレーヌ、クッキー...JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

  • JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

    旧道らしいカーブが続く。踏切を越えます。「第二千葉銚子街道踏切」。総武本線・銚子方向。西方には田園風景が広がる。国道126号に合流します。この付近、旧道が失われています。「横芝光IC入口」。国道からすぐ旧道に入ります。左に「銚子連絡道路」造成中。歩いた後、「横芝光町芝崎(横芝光IC)~匝瑳市横須賀(県道八日市場野栄線)」が3月31日に開通しました。この向こうに進みます。「銚子連絡道路」。「国道126号」のバイパス的役割。この付近の今昔。(1880年代)大きな沼を巻いて北へ進む旧道。(現在)沼地を埋めて鉄道や国道が建設されている。田んぼが広がります。「成田国際空港」を離陸した飛行機の姿が(↓)。田植えの準備が進む。JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

  • JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

    「横芝駅」。銚子往還4日目。あと何日で銚子までたどりつけるか?3月24日(日)晴れ。ところで、横芝光町(よこしばひかりまち)千葉県の北東部に位置し、山武郡(さんぶぐん)に属する町。成田空港の南側、九十九里浜に面する自然豊かな町で、千葉県内の町村では人口規模が最大。現・九十九里町にて生誕した伊能忠敬が、現・香取市佐原に婿養子にいくまでの少年・青年期を過ごした町としても知られている。千葉県北東部に位置し、千葉市から約35キロメートルの距離、東京都の都心から60-70キロメートル圏内である。太平洋に面し、九十九里浜および九十九里平野のほぼ中央に位置する。町の北部は標高が高い場所もあるが起伏は大きくなく、中央部を九十九里平野最大の河川である栗山川が流れている。2006年(平成18年)3月27日に匝瑳郡光町と山武郡...JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)

  • JR成東駅~横芝駅。その6。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    商家。来た道(旧道)を振り返る。左から来ました。街道筋らしい家並み。横芝駅に向かいます。横芝上町郵便局。右奥に大きなおうち。右手に国道126号。「←銚子匝瑳東金千葉→」。※匝瑳=そうさ。難解地名の一つ。商家。商売はしていないようです。国道126号を渡ります。「国道126号」:千葉県銚子市から東金市を経由して、千葉市稲毛区に至る一般国道。総武本線の踏切を越えます。「第一千葉銚子街道踏切」。※「総武本線」は、佐倉から単線になります。横芝駅前。今回はここまで。駅に向かいます。総武本線「横芝駅」。西方向。帰途の車窓より。山裾をたどるように旧道は進んでいます。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/c2/30ff9b23765b543a25d52fa6227...JR成東駅~横芝駅。その6。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR成東駅~横芝駅。その5。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    出桁造りの商家。現役の酒屋さん?昔、田舎によくあった「よろず屋」さん的存在。隣には土蔵。左手に槇の生垣が続きます。大きなおうちが多い。奥には田んぼが広がる。国道126号に合流します。「八田本村入口」の看板。田んぼの向こう、西方の山すそに集落があります。「八田砦」跡などがあるようです。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)国道から左の道に入ります。途中、「多古」への道と分かれる。右手に大きな木造の建物。「こさく呉服店」。その隣に「金刀比羅神社」。上町三叉路。明治時代、この付近には、沼地が広がっていました。(1880年代)「琴平神社」があります。沼地に挟まれた微高地に街道が通じ,集落が形成されていきます。※当時の表記では、「従銚子港至千葉町道」とあります。(現在)坂田池がかつての沼地。南部は、鉄道、住宅地や田...JR成東駅~横芝駅。その5。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR成東駅~横芝駅。その4。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    「国道126号」に出ます。国道の向こう側に旧道から続くような道があります。旧道かと思いましたが、そうではないようです。※このかんの歩きで、銚子往還と国道との関連は、左折していく道が旧道となるようです。国道から遠く東を望むと、踏切を電車が通過中。国道126号線。交通量は激しい。丘の上には、山武望洋中学校。「県道62号」と交差。「←成田・(銚子連絡道路)松尾横芝IC」。この先で左に分かれる旧道に入ります。右手に「天然醸造古谷糀店」。「生みそ特製こうじ味噌甘酒漬物糀」などを製造販売しています。道を挟んで、長屋門の旧家。ゴミ収集箱に「生子宿区」と。この付近の集落は「生子宿」。「生子宿」は何と読むか?「はだかじゅく」と読みます。またしても難解な地名に出会いました。「生子宿不動尊堂」。旧道らしい落ち着いた街並み。<i...JR成東駅~横芝駅。その4。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR成東駅~横芝駅。その3。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    車も少なく、ほとんど人とも出会わない旧道。「木戸川」を渡ります。田園地帯が広がります。「木戸川」下流・小松交差点付近は、河津桜が咲きそろう花見の名所になっています。(2024/3/1「山武市観光協会」HPより)下流方向。陽光の下、のんびりと。住宅が続きます。浅間神社庚申塔(山武市有形文化財)。解説版。旧道はまだ先に続きます。国道126号にコンビニや食堂があるので、ここから右折していったん国道に。バス停「田越」。「仲よしドライブイン」。看板が剥げかかり、古びた建物ですが、けっこうお客さんの車が入ってきます。旧道に戻ります。上空に航空機の音が頻繁に。↓。成田空港を出発する航空機が多い。九十九里浜に抜けていくルート。旧松尾城御殿表門。立派な長屋門。民家の表門になっています。藩主の居館として建築された御殿の表門。...JR成東駅~横芝駅。その3。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR成東駅~横芝駅。その2。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    左手に「光明寺」。「銚子往還」道。裏手の小山。右手に「らぁ麺富士虎屋」。らぁ麺富士虎屋・富士虎(黒)。富士虎(白)。2022年12月15日にオープンした大髙醤油直営の醤油ラーメン屋です。お子様からお年寄りまで幅広い年齢層に気軽に醤油を味わってもらうというコンセプトの元、毎週木曜日金曜日のランチタイム11:00〜15:00(L.O.14:00)の営業となります。また、ラーメン屋「富士虎屋」は大髙醬油の味を楽しんで実感していただくためのラーメン屋だけではなく、地元山武市の魅力を充分に実感してもらえるよう併設の直売店では大髙醬油の商品はもちろんのこと近隣地域の商品も取り扱っています。(「大髙醤油」HPより)「大髙醤油」のトラックが停車中。左手のおうち。槙の生垣が連なっています。「公園」入口。バス停「富田東」。駒...JR成東駅~横芝駅。その2。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR成東駅~横芝駅。その1。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    3月15日(金)快晴。銚子往還歩きの第3日目。成東駅(船橋~千葉~大網~東金~成東)に到着。「成東駅」は「東金線」の終点と同時に、「総武本線」の駅でもあります。※総武本線名称は上総国(かずさのくに)・下総国(しもうさのくに)と武蔵国(むさしのくに)を結ぶことに因む。1972年(昭和47年)、錦糸町駅から東京駅まで地下トンネル化が完成した後(総武快速線)は、「東京駅~銚子駅」となる。錦糸町駅で分岐して御茶ノ水駅に至る支線(総武緩行線)、小岩駅(新小岩信号場駅)から分岐して金町駅および、越中島貨物駅に至る貨物支線を持つ。電車内や駅構内の旅客案内上は主に千葉駅から銚子駅の区間がこの名称で呼ばれる。成東駅前の案内板。伊藤左千夫の生家などをたどる道(成東駅~東金駅)のようです。※伊藤左千夫の歌碑が錦糸町駅前(ここで...JR成東駅~横芝駅。その1。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • 「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その6。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

    真亀川の土手から廃線跡(片貝駅方向)を望む。向こう岸(東金駅方向)に行くため、県道の橋を渡ります。あぜ道から橋台跡を望む。田植えの準備が進む。「真亀川」下流方向。新しい橋を建設中。土手の部分も工事中なので、県道から回り込んで、廃線跡の水路の出会いまで歩きます。県道沿いの「ラーメン自動販売機」。最近、はやっているようです。水路になっている廃線跡。「真亀川」方向。東金市浄化センターの用水路として転用したもののようです。幅は思ったよりも広い。「東金駅」方向。用水路となっている廃線跡。水路脇の道を歩きます。南側に広がる田畑。しだいに住宅地に入っていきます。ボケの花。「堀上(ほりあげ)」駅は、どの付近にあったのか?↓が「堀上駅」(があったところ)。(「今昔マップ」より)この先、広い「国道126号」を越えて、廃線跡は...「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その6。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

  • 「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その5。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

    通りを越えて、廃線跡を進みます。しばらく進むと、砂利道に。この先は、土手(路盤)に戻る。脇道から廃線跡を望む。振り返る。立て看板は、「関東天然瓦斯」の看板だった?舗装された、生活道路に。振り返る。微妙なカーブが線路を彷彿とさせる。都内では見かけない消火栓。少し広くなったところ。菜の花が満開に。この付近に家徳駅があったようです。右の↓が「家徳」駅、左が「堀上」駅。(「今昔マップ」より)両側に家並みが続きます。この先、廃線跡は田んぼの中の道に。右が線路跡(路盤)。歩いている道は線路跡ではありません。線路跡にはけっこう草が生い茂り、歩くのを躊躇。唯一の遺構・橋台跡を発見。片貝駅方面を望む。東金駅方面を望む。↓が橋台跡。「真亀川」に突き当たります。廃線跡はこの先は、水路となって東金駅方向へ進みます。「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その5。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

  • 「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その4。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

    「西」駅から次の駅跡へ。廃線跡としてけっこう広く残っています。県道に接近する廃線跡。振り返る。田植えの準備が始まっています。廃線跡の部分?黄金のすすき(?)の波。振り返る。足元には車線のデザイン。右手は住宅。左は田畑。右手に大きな公園。九十九里町と東金市の境。バス停。駅の跡ではなさそうです。ここまでが遊歩道(九十九里町)。振り返る。この先は廃線跡の堤になります。県道の方に迂回して進みます。「九十九里町」ともお別れ。東金市入り。踏み跡があります。遠くに車が駐車中。刈られた土手を歩く。真夏時の草がいっぱいのときには、歩きにくそう。右手は工場。左手には水田が広がる。あぜ道に咲く紫の花。新しい広い道を通過。荒生(あらおい)駅跡?廃線脇の草。これは?この先で廃線跡は藪の中に隠れてしまいます。来た道を振り返る。再び廃...「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その4。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

  • 「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その3。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

    随所にベンチなどが設置されています。「関東天然瓦斯」。南関東ガス田のうち千葉県茂原市を中心とした一帯の鉱区の採掘権を所有し、水溶性天然ガスの採取・販売及びヨウ素の製造・販売を営んでいる。可採埋蔵量973億立方メートルと推定される合計714平方キロメートルの鉱区で、天然ガス採掘権を有する。ただし、天然ガスの生産は地盤沈下をもたらすため、千葉県との協定に基づいて制限している。可採埋蔵量は、現在の生産量の600年分にあたるという。※房総東往還歩きのとき、茂原付近で「大多喜ガス」の大きなガスタンクを見ましたが、廃線後の九十九里鐵道の敷地もこの会社の所有地になっているのでしょうか。農家の間の道を抜けて行きます。左方向。右方向。この広い土地には、駅舎でもあったのでしょうか?左手に田んぼが広がります。右手にはバスが通る...「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その3。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

  • 「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その2。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

    東金駅まで向かって出発です。右の道路は廃線跡ではありません。左の住宅が廃線跡に建てられたもの。敷地が四角でなく、細長い三角形になっています。左手が軌道跡。→が線路跡。上が「片貝駅」。通りを越えると、廃線跡は右にカーブします。この先で、遊歩道になります。自転車道と歩道と分離。遠くに大きなガスタンク。「九十九里町」とある。千葉県は、南関東ガス田の中心地で天然ガスが採取される地域。九十九里町では、地元の天然ガスを原料とした都市ガスを供給しています。交差する道路の足もとには、九十九里町の町章とガスバルブ。用水路を越えます。現役の頃からあったのでしょうか?振り返る。周囲には田んぼが広がります。「きどうみち」。営業当時のようすはどうだったのでしょう?九十九里鉄道線は、千葉県東金市の東金駅と山武郡九十九里町の上総片貝駅...「九十九里鐵道」廃線跡(片貝~東金)。その2。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

  • 九十九里鐵道廃線跡(片貝~東金)。その1。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

    かつて、JR東金線「東金駅」から九十九里浜の「片貝駅」まで「九十九里鐵道」線がありました。※「九十九里鐵道」現在はバス専業であるが、社名に「鉄道」が付くのは、1926年(大正15年)から1961年(昭和36年)までの間、東金駅から九十九里町の上総片貝駅までを結んでいた鉄道路線(1931年まで軌道)を有していた名残である。鉄道路線は千葉市や山武郡成東町(現・山武市)への延長も計画されていたが実現せず、1961年3月1日に廃止された。その後も社名に「鐵道」の名を残し、バス停名には片貝に「駅」が冠されるなど、鉄道の名残が見られる。※九十九里鐵道線は、千葉県東金(とうがね)市の東金駅と山武(さんぶ)郡九十九里町の上総片貝(かずさかたかい)駅を結ぶ8.6㎞の路線。廃線跡は、九十九里町側は「遊歩道(軌道道(きどうみち...九十九里鐵道廃線跡(片貝~東金)。その1。(「銚子街道」をゆく。番外編。)

  • JR東金駅~成東駅。その5。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    バス停「」。左手のお店。「田舎ずしことぶき」。「田舎ずし」とは?立ち寄ってみます。大きな巻物。30㎝以上。太さは10㎝。恵方巻のはしりのような?その大きさにビックリ!玉子太巻き、太巻き寿司。玉子の太巻きの具は干瓢と玉子、でんぶ、玉子の方には椎茸が入ってます。巻き寿司の中で絵を作るのが蘇我や千葉辺りの昔ながらの風習ですが、そこまで凝ってなく、素朴で田舎っぽさがあります。他にも、うずら豆の煮物などのお惣菜がケースの中に並んでいます。巻きずしはけっこうな大きさなので、持って帰るには・・・。煮物を二種類、購入します。甘さもほどほどで、美味でした。バス停「波切不動」。左手高台に、「波切不動」。成東下町の標高30メートルの小丘「石塚山」(石塚の森)の中腹の岩石上に、成東山不動院長勝寺本堂が建てられています。入母屋造り...JR東金駅~成東駅。その5。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR東金駅~成東駅。その4。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    しばらく県道を進みます。左の旧道へ。古びた方向案内板。この角にもあります。「関東ふれあいの道」。ため池「東池」。西側には「根蔵池」「姫島池」。旧道はもう少し進みますが、県道に戻ります。バス停「根蔵(ねぞう)」。県立成東高校モニュメント。開校当時、学校と県道を直接つなぐ道路はなく、生徒は曲がりくねった小道をたどって登下校していたが、登下校時の混雑や雨天・霜解け時のぬかるみが大きな問題となっていた。これを解決するため学校と県道を結ぶ100間の道路建設を計画していたが、用地の買収をめぐって地主との折り合いがつかず、建設の目途がたっていなかった。1910年になって、地域有力者の仲介などもあって用地の買収が成立し、11月16日から職員・生徒を動員して建設工事がはじまり、12月24日に完成した。翌年、皇太子嘉仁親王(...JR東金駅~成東駅。その4。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR東金駅~成東駅。その3。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    街道筋らしい家並み。バス停「東金商業入口」。「←↑→」。角に大きなお屋敷。「千葉学芸高等学校」。県道から分かれ、左の道に。ここでも水路沿いに進む。変わりやすい雲行きに。昔ながらの家並み。「真亀川」沿いのレストラン。「kawanosaki」。古民家の店で隠れ家風。(「食べログ」より)左奥にあります。県道に合流する手前に、キンカンの実がすずなり。趣のあるおうち。里山風景。県道に合流。「公平幼稚園」。1974年(昭和49年)4月、旧公平小学校の西半分を使用し、公平幼稚園が開園。園庭は、かつての小学校の校庭の大きさだったのですね。園舎も小学校の校舎のまま?右手は九十九里浜平野。小高い森。バス停「姫島」。JR東金駅~成東駅。その3。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR東金駅~成東駅。その2。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    バス停「片貝県道入口」。九十九里浜・片貝に向かう県道。商家が建ち並ぶ。西北に向かう県道。街道の両側に古くて立派な商家造りが続きます。(写真を取りそこねたおうちも多い)なまこ壁。「上行寺」山門。「←東金簡易裁判所」。立派な土蔵造り。「村井綿店」。見事な看板建築。「田中家具店」。1930年(昭和5年)築。黄金色のモルタル塗り。側面、正面とデザインが見事。先に進みます。まだまだ古い町家がありそうです。二軒とも素晴らしい。手前が看板建築、奥が出桁造りの商家。バス停「金半前」。朱塗りのおうち。軽トラも朱塗り。一方では洒落たお店も。「SUNNYDAY」。左手に「田間神社」。この神社の上が、かつての城址に。土塁と空堀で区画された主郭と、細長い第二郭が並ぶ直線連郭状の城跡で、現在城山団地となる一帯にも、「山小屋」と呼ばれ...JR東金駅~成東駅。その2。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR東金駅~成東駅。その1。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    「東金駅」。駅前の案内板。今回から、JR東金線「東金駅」から「成東駅」までの報告。かつて東金駅から九十九里浜まで鉄道が敷かれていました。↑が軌道跡。「今昔マップ」より。九十九里鉄道線は、千葉県東金(とうがね)市の東金駅と山武(さんぶ)郡九十九里町の上総片貝(かずさかたかい)駅を結ぶ8.6㎞の路線で、1961年に廃線となりました。1926年の開業後、成東(なるとう)町(現・山武市)や千葉市への延伸は実現しませんでした。九十九里鉄道では、小さな車体の単端式ガソリンカーが使われていました。客車の前面にフォード社製のエンジンを取り付け、バックができない構造のため、終点で向きを変える必要がありました。廃線間際には、鉄道と並行する未舗装の道路に自社の定期バスも運行し、列車と交互に運行しました。乗客が上総片貝駅で尋ねる...JR東金駅~成東駅。その1。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第1日目。)

    「東金」。東金の(かつての)中心街に入っていきます。バス停「」。この付近の今昔。(1880年代)。東金街道沿いに町屋がり、東南側は畑地が広がる。(現在)駅を中心に市街地が発展。※「東上宿」は、かつての宿場としての地名ではなく、街道筋にある「上宿」との関連。東金市江戸時代には徳川将軍家(徳川家康、徳川秀忠)が八鶴湖へ鷹狩に訪れ、東金御成街道、東金御殿などを整備し、宿場町・問屋街として栄えた。その後も山武地域(山武郡市)の拠点都市として、農業・商業を中心に発展してきた。市の中心駅東金駅と県庁所在地の千葉駅は東金線-外房線で約35分で結ばれている。また、朝夕は京葉線経由で東京駅発着の通勤快速も運行されている。バス輸送においても、東京駅・千葉駅への直通バスが、東関東自動車道-京葉道路-千葉東金道路経由で運行されて...JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第1日目。)

  • JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第1日目。)

    右手に「ヰセキ関東甲信越千葉事務所」。かなり大きな営業所のようです。左手には「旬菜らーめんえむず」。地元食材、トマトなどを用いた創作ラーメンがウリ。バス停「市立西中学校入口」。正面奥は、「東金九十九里有料道路」高架。下の流れは「北幸谷川」。高架橋をくぐり、正面の道を進みます。道路脇の用水路蓋の上を歩きます。水路脇が旧道になっている場合がよくあるようです。槙の生垣。立派なお屋敷が続きます。正面を左に曲がります。東金線の踏切を渡ります。「第三東金街道踏切」。「東金駅」方向。「福俵駅」方向。JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第1日目。)

  • JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第1日目。)

    「銚子往還」としての旧道は、国道を渡った正面の道のようですが、左に見える国道脇の道(旧道)に進んでしまいます。この道も旧道のようです。すぐ国道に合流します。この付近の今昔。(現在)現在も旧道として残されている。(1880年代)新堀地区への道が旧道。朽ちたバス停。東金市へ。九十九里浜らしい広告。「なめろう」。イワシやハマグリなど海の恵みが豊かな千葉県ですが、千葉の海産物といえばやっぱりアジが代表的ですよね。千葉では昔からアジが豊漁で、なめろうは千葉の代表的な郷土料理として広く知られています。あまりのおいしさに、ついお皿まで舐め尽くしてしまいたく──というのが由来の「なめろう」。なめろうは、アジやイワシ、サンマなどの青魚を薬味や味噌などと一緒に包丁で叩いて作ります。味噌など塩気を含む調味料と一緒に叩くことで粘...JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第1日目。)

  • JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第1日目。)

    年季の入ったおうち。看板建築風。バス停「大網下宿」。大きく右折します。その先を左折。「曲尺手(桝形)」。宿場を抜けて田園地帯へ。田畑が広がる。かえもん・ジョブファーム直売所。里山風景が広がる。クラフト工房。「南白亀川」を渡ります。南白亀川(なばきがわ)千葉県の房総半島東部九十九里平野を流れる二級河川。南白亀川水系の本流である。地理・環境大網白里市小西付近の丘陵面に源を発し東流する。間もなく両総用水を越えて、東金市との境界を南下する。東金線を越えると川幅が広がり、多くの支流を集めながら東へ進む。周囲は水田と畑が混ざって分布しており、複数の頭首工によ取水されている。東金市との境界で再び南へ折れ、小中川を合わせると茂原市に入る。赤目川を合わせると今度は長生郡白子町に入り、観音堂橋・白子町役場付近で東へ折れる。古...JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第1日目。)

  • JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第1日目。)

    今回から「銚子往還(街道)」歩きの報告。成東までは、「東金線」、成東からは房総本線を利用しての歩きとなります。第1日目2月9日。晴れ時々曇り。手始めに「大網」から「東金」までをあるくことに。北風が冷たく、体感的には寒い。南房総歩きとは、けっこう異なるようです。「大網駅」。右は「東金線」。「駒込」交差点。ここをスタート地点とします。右(南)に進むのが「伊南房州通往還(房総東往還)」、左(北)に進むのが「銚子往還」。「外房線」のガードをくぐります。「落合橋」から「小中川」上流。「南白亀川(なばきがわ)」の支流。下流方向。大網白里市のマンホール。太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。旧市街地を進む。バス停「市役所入口」。町時代の「役場前」というバス停名も。房総半島独特の小山。宿場...JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第1日目。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その9。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

    かつての宿場町の雰囲気。長須賀。「べにや」。右折します。この通りにも昔風の建物があります。商家風の建物が多い。ところで、館山市とは?中世には戦国大名・里見氏がこの地を治め、1580年(天正8年)、里見義頼は、水軍の拠点として利用していた館山湾を望む独立丘に館山城を築いた。現在は城山という名で呼ばれるこの独立丘には、里見氏の築城以前にも城館が構えられ、ここから館山という名で呼ばれていたようである。館山城は曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の舞台ともなっている。1591年(天正19年)、里見義康は里見氏の本拠を館山城に移すと、城山の周囲に家臣の居住地を造るとともに、その北側に商人・職人を集めて海に面した城下町を形成した。1781年(天明元年)、稲葉正明が加増を受けて大名となり、1万石の小藩として館山藩が立藩する。ただ...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その9。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

    海沿いから田園地域へ。バスは、国道128号線を進みます。※旧道は残っていて、国道から分かれて進むところがあります。途中、「伊南房州通往還」旧道を通り、「丸山川」を越えます。※丸山川南房総市丸山地区の北端、嶺岡山地中央部愛宕山南西麓の二ツ山に挟まれた谷を水源とする。同じく愛宕山を水源とする愛宕川を合わせた源流部は「千葉県酪農のさと」として公園や観光施設が整備されている。平安時代より軍馬牧場として放牧が盛んであったこの地(峯岡牧)が江戸時代に幕府直轄となり、1728年(享保13年)に八代将軍徳川吉宗がインド産乳牛3頭の飼育を開始し、「白牛酪」として乳製品や傷薬を製造したことが日本における酪農の始まりとされていることから「日本酪農発祥の地」とされ、1963年(昭和38年)5月に千葉県史跡に指定された。「国道12...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

    三原川河口にある「和田サーフ橋」。国道脇には村社・浅間社の石柱と元禄16年の大地震の記念碑(句碑)があります。ただし、かなり摩滅していて判読できません。碑の裏には、地震の被害のようす等が記されている、とのこと。解説板を設置して頂けると、ありがたい。元禄地震は元禄16年11月23日(西暦1703年12月31日)の未明に発生した。地震の規模はマグニチュードM7・9〜8・2とされ、1923(大正12)年の関東地震(M=7・9)よりやや大きい。大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。ただし、規模や震源域、地殻変動などは大正関東地震よりも大きいものであった。大規模な地盤変動を伴い、震...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

  • 2月12日。向島百花園・梅まつり。満開の梅やしき。メジロ。

    向島百花園・梅まつり開催中。しろかが。べにとうじ。べにちどり。鮮やかな紅色。白梅、紅梅と色とりどりで満開。東京スカイツリー。福寿草(ふくじゅそう)。メジロ二羽が梅の枝に。飛び回って花の蜜を吸っています。花から花へ、枝から枝へ、梅の木から他の梅の木へ。目まぐるしく飛び移るメジロ。見知らぬ中型の鳥が木の枝に。近所の公園の花壇も満開の花々。地元の方々が丹精込めて育てています。2月12日。向島百花園・梅まつり。満開の梅やしき。メジロ。

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

    国道128号を越え、斜めに旧道を進みます。角のところに、「房州みやげひものかわはぎくじらのたれ中村鮮魚店」という看板。「くじらのたれ」とは?「くじらのたれ」は、くじら肉をたれに漬け込んで干した千葉県南房総の郷土料理。見た目は炭や海苔のように真っ黒で、木の皮のような見た目である。「くじらのたれ」に使用されるクジラは体長12メートルほどのツチクジラという種類である。鎌倉市内の遺跡から出土する多くの鯨骨の存在などから、鎌倉時代後半の13世紀頃から室町時代14世紀~15世紀頃までには、房総で沿岸捕鯨が始められていた可能性が考えられている。各地で「網取り法」での捕鯨が主流になっても、ツチクジラが深くまで潜るため網取り法が適さず、一貫して「突き取り法」でおこなってきたことが南房総地域の捕鯨の特徴的である。捕鯨は昭和の...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

    内房線「和田浦駅」。フェニックスの大木。木の元に菜の花。待合室で休憩。抽象画が飾られています。※「道の駅和田浦WA・O!」に展示されている全長26メートルのシロナガスクジラの骨格標本。ここ南房総では、17世紀頃から小型船による沿岸捕鯨が行われてきました。そして現在でも、6月から8月に掛けてツチ鯨の漁が行われています。シーズンになると、捕獲された鯨とその解体を見る為、各地から多くの人々が訪れます(捕鯨の予定などは、捕鯨の会社外房捕鯨さんのブログに情報が掲載されます)。捕鯨は早朝出航し、当日の夕方は捕獲した鯨を曳航して港に帰り(当日出航の当日帰港)、鯨はそのまま熟成させるため、一晩寝かせます。翌日の早朝、鯨の体長などの計測したあと日の明けぬうちから解体が始まります。解体には、大きな包丁(薙刀のよう)を持った男...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

    往還(旧道)に戻ります。右手奥に満開の桜の森。水準点。すばらしい槙の生垣が続く。「花嫁街道・黒滝ハイキングコース」案内板。《花嫁街道の由来》山間にある上三原の集落と海辺の集落との交流道、古くは塩汲みの道から生活物資の往来、学校への通学路として利用され、かつては花嫁行列もここを通って嫁いでいったことから、近年ハイキングコースとして整備され花嫁街道と呼ばれるようになった。昔とは多少道筋は変わってはいるが、歴史は古く、今でも経文石、じがい水、猿渡り、馬井戸、駒返し、桟敷塚(馬駆け場)等の地名が残されている。上三原集落も歴史は古く、頼朝伝説に出てくる名馬「スルスミ」を産出したといわれる磑(スルス)森集落、里見伝説の残る五十蔵集落、竹の中集落の竹は浜の漁業の必需品である満漁籠。魚樽の材料として売るために植栽され生活...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

    満開の桜が間近に。このブログを掲載したときには、早くも東京などでも「河津ザクラ」などが咲き始めた、というニュースがありましたが、このときに、今年初めて満開の桜を見ました。※東京地方も、その後、寒気が入りこみ、雪模様に。坂道を上がっていきます。と、満開の桜並木。散策にやってくる人も。遠く、南房総の海が見下ろせます。ここは、抱湖園。全国的に有名な花の産地である南房総市和田町にある「抱湖園」は、当地に花栽培をもたらした偉人、間宮七郎平が開いた庭園です。元々薬剤師であった間宮七郎平は、花づくりによって半農半漁で生計を立てる民を救いたいという想いから、花栽培に取り組みました。安房で初めて花栽培に成功し、自らくわを持って山を切り開いて花木を植栽。この際に植えられた寒桜は、旧暦の元日朝に咲くことから「元朝桜」と名付けら...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

    眼下に南房総の海が。鴨川市から南房総市に入ります。「またどうぞ鴨川へ」。南房総市南房総市は、千葉県の南部に位置する自治体である。関東地方および千葉県最南端。南房総観光圏の観光都市。市域は森林セラピー基地、海岸部は南房総国定公園に指定されている。本地域が位置する安房地域は718年(養老2年)に上総国から分かれ、明治初期まで安房国と呼ばれていた。国府は旧三芳村に置かれ、条里制の遺構も見られる。かつては多数の荘園があり、これらは中世末まで統治者の交代を繰り返した。戦国時代に入り、15世紀中頃に里見氏が安房統一を果たし、戦国末期に館山城を築城し、安房国統治の拠点とした。江戸時代初期、里見氏は江戸幕府により1614年(慶長19年)に改易され、以降この地は旗本領、天領、小大名の領地として分割統治された。近代に入り、1...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

    1月27日(土)晴れ。房総東往還(伊南房州通往還)最終日。《往路》船橋~安房鴨川(「新宿わかしお」7:25―9:36)(「安房鴨川駅」にて)~江見~南三原―(バス)―館山※9時50分に着いた「江見駅」から「南三原駅」までは歩き。《復路》館山~船橋(「新宿さざなみ」16:02―17:39)(「館山駅」にて)※今回も「大人の休日倶楽部」利用で、乗車券・特急自由席を合わせ、3割引き。「江見駅・江見郵便局」に下車。郵便局は閉まっています。旧道に復帰します。海方向。左に折れます。洲貝川。内房線の鉄橋。河口(海)方向。しばらく進み、「国道128号」に合流します。バス停「野田」。「HOTELMAKAI」。ハワイ風リゾートホテル。(「同」HPより)「一期屋」。閉店したようです。国道から右に入ります。ふと左の柱に※「綱吊り...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

  • 2月3日(土)晴れ。隅田公園。「梅の散歩道」。メジロ。ユリカモメ。

    雪模様の東京。近所の高校も早めに下校させていました。2月3日(土)、向島百花園から隅田公園(浅草側)へ。今日のお天気とは打って変わった日差し。ここは、満開の梅も目立ちます。「東京スカイツリー」。梅の花を求めて「メジロ」が来ていました。「隅田川」。ユリカモメ。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/a4/be1cd237c01aa5c826ef43e8bdb52edf.jpg">2月3日(土)晴れ。隅田公園。「梅の散歩道」。メジロ。ユリカモメ。

  • 向島百花園。2月3日・節分。

    2月3日(土)。朝から風は冷たいが、上天気。向島百花園へ。梅はどのくらい開花しているか?門脇の梅。白加賀と一重寒紅。手前の公園には、「八重寒紅」が満開。「道知辺(みちしるべ)」。園内の梅の満開は、まだまだ先のよう。この「白加賀」は満開間近。「八重寒紅」。日当たりなどによっても、開花時期が異なるようです。山茶花。「東京スカイツリー」。「唐梅」。日だまりと梅を求めて三々五々訪れる人々。「うめ(月影)」。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/55/3af03e9b69fc1cb72a35bfac79c1f7e2.jpg">向島百花園。2月3日・節分。

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その9。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

    右折すると、「江見駅」。その角にあるおうち。南国風の大木。フェニックス(Phenix)カナリーヤシ:古代エジプトの想像上の鳥で、不死鳥と訳される。フェニックスはアラビアまたはフェニキアに住み、史実タキトゥスによれば、500年毎に太陽の都ヘリエポリスを訪れ、生命の終わりが近づくと香木を山と重ねて火をつけ、自らを焼き、たえなる歌声とともに死に至るといわれている。そしてその灰の中から蘇るのが次代のフェニックスであり、同時に二羽のフェニックスはこの世に存在しない。ギリシア語のフォイーニックスは、フェニキア、紫、ナツメヤシの三つの意味を持つ。そこで、生地はフェニキア、王者の色としての紫の色を身にまとうといい、勝者のシンボルとしてのナツメヤシと同一視される。「江見駅」・「江見駅郵便局」。2019年(令和元年)7月1日...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その9。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

    この付近から「伊南房州通往還」(旧道)のようです。この先で国道128号を横断します。「助八そば鴨川店」。海から離れた道を進みます。左奥に水平線。静かでのどかな田園風景。右手に山が迫る。この地域は、純農村地域?新興住宅地の雰囲気も。振り返る。この道が、かつては主要道であったことがわかります。水準点(15.5)。旧家の趣のおうち。集落に入っていきます。木造の素敵なおうち。「←180m江見海岸」。海岸方向。この付近の今昔。(現在)国道128号線(赤線)が東西に直線で延びる。(1880年代)東側にずれがある。岩場続きの海岸。JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

    この先、内房線と国道128号を陸橋で越えていきます。スイセン。内房線。「」方向。振り返る。左奥に内房線「山生(やもうめ)橋梁」。途中、露出した岩に、貝の化石の跡があります。※剥がれた部分に貝。この先、旧道は右に折れて進みますが、右折せずにそのまま歩いてしまいました。この付近の今昔。(1880年代)太線が「伊南房州通往還」。直角に曲がる道筋。(現在)赤い線が国道128号。現在の旧道は複雑に進む。※「江見太夫崎」は町村合併で付けられたもので、もともとは、「太夫﨑(村)」であった。そして、「道の駅鴨川オーシャンパーク」脇へ。旧道は、この施設の向こう側、海側を進んでいきます。旧道方向。ユニークな建物。鴨川オーシャンパークは、南房総の観光の主要幹線となる国道128号線沿いにあり、鴨川のとれたての海の幸、山の幸を販売...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

    浅間宮の常夜燈。左はツナツリ(綱吊り)で、昔はここに大きな「綱吊りの松」があり、この先の「天面(あまつら)村」への悪病・悪霊などの侵入を防いでいたという。※「綱吊り」=「道切り」道切り疫病が流行らないように行うところが一般的ですが、災いを封じると豊作になるという考えから、五穀豊穣を願って道切りを行うところもあります。正月から2月にかけて多く行われます。疫病神は道を通ってやってやってくると考えられていたので、むらの出入り口にあたる道で行われました。わらの大蛇(市川市国府台辻切り)しめ縄・手桶・サイコロ・蛸(飯岡町三川浜辻切り)男女一対の武者人形(君津市大坂鴨畑人形だんご)大草履(富津市関尻綱つり)道切りの形は、百足や蛇や龍の形をした太綱をむら境の木に掛けるタイプや、綱を道を横切るようにわたし、男女一対の人形...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

    この先で、右からくる「国道128号」に合流します。その先、「房総鴨川温泉是空-ZEKUU-」。おしゃれなホテル。海の絶景を目の前に究極の癒し体験“海旅”を叶える都心から東京湾アクアライン経由で車を走らせること約1時間半、千葉県鴨川の荒磯に寄り添うように造られた湯宿。この地屈指のオーシャンビューが魅力だ。完全プライベート空間の貸切露天風呂など、館内のあらゆる場所から、海の壮大なパノラマを間近で見渡せる。もちろん、すべての部屋からもこの唯一無二の景色を満喫。なかでも、是空棟に設えられた半露天風呂付きの客室が好評だ。“密”を避けた“おこもりステイ”にも最適。是空でしか味わうことのできない究極の“海旅”を体験したい。(「旅色」HPより)振り返る。岸壁上に建つのは、「是空」。国道から右の坂道へ。地層が露出しています...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

    バス停「仁右衛門島入口」。左折し、仁右衛門島へ向かいます。仁右衛門島(にえもんじま)千葉県鴨川市太海の沖合約200mにある島。全島砂岩よりなる周囲約4kmの島で、千葉県では最も大きな島かつ唯一の有人島である。源頼朝や日蓮の伝説で知られ、個人所有ではあるが千葉県指定名勝となっているほか、新日本百景にも選ばれている。島主である平野仁右衛門の名に因み、この名前になったといわれている。夏涼しく冬暖かい風光明媚な自然の楽園。金銀針茄子(キンギンハリナス)という珍しい植物もみられる。島の南側は荒々しい海岸線がみられ、自然の防波堤の役割も果たしている。《伝説》代々島主は平野仁右衛門を名乗り、現在の島主が推定で38代目。治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房に逃れた際、平野仁右衛門に助けられ、この島で平...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

    海と山と畑と複雑に入り組む。県道に出てすぐ右の細い道に入ります。住宅地への坂道。坂道の向こうに海。県道に合流。左手にある案内板。※鴨川市太海地区の、昔の名前は「波太(なぶと)」。明治ごろまで、ここは波太と呼ばれていた。今でも、ここは波太の頃と変わらず、のんびりとゆるやかな時間が流れている。「泊まれるレストラン波太オルビス」。鴨川市天津にて地魚寿司&民宿を31年間営んできた「中乃見家」が太海海岸に生まれ変わり「波太オルビス」となりました。一流ホテルやオーベルジュで修業をしたフレンチシェフと、千葉の海の食材を知り尽くしたベテラン寿司職人が見事なハーモニーで美食の皿を提供します。(この項、「」HPより)県道を振り返る。「曽呂川」河口。「なぶとばし」。「内房線」の鉄橋。その奥は、「国道128号」。「ブルースカイ鴨...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

    行き先案内板。「↑弁天島→鴨川松島→仁右衛門島」。右手に妙昌寺、急坂の上に八雲神社。鴨川漁港。仁右衛門島方向。左に海を眺めながら、ゆっくり上り坂を。眼下には、「鴨川松島」。大小七つの島(荒島こうじま・弁天島べんてんじま・鵜島うじま・雀島すずめじま・波涛根島はとねじま・猪貝島いがいじま・海獺島あしかじま)の総称であり、宮城県の松島を思わせる景観からその名がついた。中央に「雀島」。魚見塚展望台から鴨川松島。(「」HPより)振り返る。スイセン。少し下ったあと、右の上り坂になっている旧道に入ります。住宅の向こうに海が。南国風な木々。振り返る。海側にある小山。この先、右に上っていくと、「魚見塚展望台」に行けますが、省略。下り坂になると、前方が開けてきます。車道に合流します。正面の丘の上には、「JOSAI」(城西国際...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

    「安房鴨川駅」から「江見駅」までの歩き旅。船橋~安房鴨川の往復を特急「わかしお」を利用しての旅。安房鴨川に着いたのが午前11時少し前。そこからの歩き。帰路は、「江見駅」から安房鴨川。そこから午後3時半過ぎの特急で。「大人の休日倶楽部」を利用したので(往復で200㌔を超えますので)、3割引で大いに助かりました。1月19日(金)。あいにくの曇り空時々晴れ。しかし、強い風もなく、穏やかな日和でした。安房鴨川までの車窓から。「安房鴨川駅」。駅前の通りを進み、「伊南房州通往還=房総東往還」に出ます。ここは、曲尺手になっていました。小湊方面からだと、右折して、すぐ左折します。この角に道標があったのですが、見落としました。商店と住宅が建ち並ぶ街道を進みます。左側は海岸。バス停「前原海岸」。典型的な曲尺手。「加茂川」。上...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第9日目。)

  • JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

    鴨川市観光案内図。駅周辺は何もありません。西側にはイオンなど大きな店舗もありますが。鴨川市マスコット。安房鴨川駅は、「外房線」と「内房線」の境目の駅。どちらも下りの終点駅。上り「(内房線)館山・木更津・千葉方面(外房線)茂原・千葉・東京方面」の始発駅に。ほとんど1時間に1本。21時で終電。外房線に乗って帰ります。(「上総一ノ宮」で「東京」(京葉線経由)行きの電車に乗り換え、さらに「蘇我」で内房線「千葉」経由、総武線「船橋」まで。)「安房天津」。「木更津行き」の電車(外房線~内房線)。「安房小湊」。帰路。新茂原駅を通過後、「新茂原貨物駅」跡を電車内から撮りましたので、付け足します。「旧新茂原貨物駅」跡。右手に見えてきます。本線からの分岐線。今回、途中から「バス旅」になりました。風光明媚な房総。「おせんころが...JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

  • JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

    港の方へ戻ります。大波が来ると、水しぶきを浴びそう。海の中、緑の海藻。崖が海に迫る。ここで大地震が起き、津波に見舞われたら逃げるすべがなさそう。振り返る。遠くに弁天島。大海原を望む。「安房小湊駅」に向かいます。奥に「鯛の浦遊覧船乗り場」。「吉夢」玄関に飾られた写真。「日本の夕陽百景の館」。小湊漁港。この交差点を左に折れて駅に向かう。と、バス停があり、まもなく来たバス。「安房鴨川駅」(終点は、「仁右衛門島」)まで行く、とのこと。飛び乗ってしまいました。※「安房天津駅」を通過して、安房鴨川駅まで。この先は、バスの車窓からの風景。海岸伝いに進むバスの車窓からは、左手に海が広がります。小さな漁港をたどりつつ・・・。※途中のバス経路は「伊南房州通往還(房総東往還)」と重なっています(言い訳がましいですが)。けっこう...JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

  • JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

    小湊漁港内。正面奥は、鴨川方向。「遊歩道」案内板。「鯛の浦遊歩道」先端。小弁天島。右端の島は、大弁天島。昭和皇后の短歌を刻んだモニュメント。水際まで下りてみました。そこには、こんな風に穴の空いた石がたくさんあります。はて?生きた貝が穴を空けるというケースがあります。これはボーリングシェル(穿孔貝せんこうがい)と呼ばれる貝が、柔らかい砂岩や泥岩を削ったり、あるいは酸で石を溶かして穴を明けたものです。石に穴を開ける貝としてはタガソデガイモドキ、トマヤガイ、カモメガイ、モモガイ、キナマツカゼガイ、イシマテガイヤエウ、メノハナガイ等があり、貝の大きさやによって穴の径や、角度が変わってきます。一般的な磐笛の多くはこの貝由来のタイプをいい、酸に溶けやすい石灰岩や泥岩や砂岩の場合が多く、深い穴が特徴です。岩(磐)笛磐笛...JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

  • JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

    小湊山誕生寺総門。誕生寺は、日蓮聖人生誕の地に建治2年(1276)に建立されました。明応7年、元禄16年の2度の大地震、津波により水没したこともあり、寺域を現在地に移して堂舎を再興しました。宝暦8年(1758)の大火で誕生寺の諸堂は焼失しましたが、宝永3年(1706)に建立と伝えられる「仁王門」のみ焼失をまぬがれました。県内でも最大規模の仁王門で、創建時の様子をとどめている貴重な建造物として、平成9年に県の有形文化財として指定されました。また、日蓮聖人が下総の富木常忍の妻に宛てた「富城殿女房尼御前御書」は、日蓮聖人58歳の時の御真筆と思われ、聖人の閲歴を知る上で貴重な資料として県の有形文化財に指定されています。他に、本堂と祖師堂に安置されている中世期の「木造日蓮聖人坐像」2軀は、日蓮聖人の古肖像として重要...JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

  • JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

    背後には山が迫っています。房総の海が広がる。内房では対岸に三浦半島が見えますが、はるかかなたまで海が。雀島。磯釣りが盛ん。この付近から海沿いの道から山中の道(峠道)になります。隧道を抜けると安房小湊の町へ。隧道の先は森の中へ。木洩れ陽の中を下っていく。隧道を振り返る。林道風な道。隧道の上を進む旧道?住宅が現れます。左手は廃墟?正面奥に「誕生寺」が見えてきます。誕生寺。裏手の方から歩いて来たようです。JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

  • JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

    古びた木製の案内板。「←・・・誕生寺→」。この付近の今昔。明治以前、山側に古道があったが、その後は、ほぼ廃道。明治以降から唯一の道となる。(「今昔マップ」より)※1969(昭和44)までは、国道128号線として位置づけられていました。さて、旧道(「伊南房総通往還=房総東往還」)を海沿い(崖沿い)に歩くことに。振り返る。「大沢漁港」から北の道は、廃道に近い。眼下に房総の海が広がる。風もなく、穏やかな日差しのもと。車も行き来するので、ちょっと怖い。頑丈なガードレールはあっても、左は垂直の崖が続く。右手は崖。コンクリートで固められているが、そうでないと、・・・。「落石注意」の看板が随所に。しかし、地震などで崩壊したら、にっちもさっちもいかなくなりそう。それでも雄大な景色を堪能しながら歩きます。振り返り、振り返り...JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

  • JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

    今回。前回の「勝浦駅」から「行川アイランド駅」までは電車(二駅「鵜原」「上総興津」)で移動。そこから「おせんころがし」を歩いて、「安房鴨川駅」まで歩くことにします。「行川アイランド駅」。下車したのは、小生のみ。日陰にあるせいか、よけい寂しい雰囲気。「行川アイランド」駅2006年(平成18年)度の1日平均乗車人員は19人であり、県内のJR駅の中では最も少なかった。1990年代前半は200人超であったが、1994年に200人を割ってからは、年々減少の一途をたどっている。駅名の通り実質的に行川アイランドの来園のための専用駅で、閉園後は一気に利用客が減少した。「行川アイランド」1964年8月13日に開園してフラミンゴショーの人気などから1970年に年間117万人もの入場者数を記録し、外房線に行川アイランド駅が設け...JR外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第8日目。)

  • JR外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第7日目。)

    朝市通り沿いに商家。朝市通りを振り返る。魚市場に向かいます。観光案内図。勝浦魚市場。水揚げする活発な時間を終え、静かなひととき。「仲本町朝市通り」。振り返る。今回はここまで。勝浦駅に向かいます。「勝浦タンタンメン」広告。勝浦のタンタンメンは、当地の海女さん・漁師さんが寒い海仕事の後に、冷えた体を温めるメニューとして定着してきました。メニューの特徴は、通常のゴマ系と違い、醤油ベースのスープにラー油が多く使われたラー油系タンタンメン。具材はミジン切りの玉ネギと挽肉が入ることが一般的で、お店によってニンニク、ニラ、ネギが入ったり、スープも味噌ベースのお店もあったりと各店が特色を生かしたメニューを提供しております。熱血!!勝浦タンタンメン船団船団長の磯野典正です。2011年に勝浦市をもっと元気にと立ち上がった市民...JR外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第7日目。)

  • JR外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第7日目。)

    商店が立ち並ぶ通りへ。昔ながらの商家。空き家?ここは商いをしているようです。振り返る。「松の家」。国の登録有形文化財に指定されている旅館。江戸時代創業の純和風の当館・松の家(本館は国の文化財)は、こじんまりとした小さな古い宿です。設備など大きな温泉旅館さんやホテルさんにかないませんが、勝浦近海の新鮮な海の幸をリーズナブルにご提供致しますとともに、自然と心の安らぐ家庭的な雰囲気を持ってお客様をおもてなし致します。夜。正面のようす。中のようす。(この項、「」HPより)通りを進むと、左奥に「日蓮宗本行寺」。日蓮宗寺院の本行寺は、長寿山と号します。本行寺は、大同2年(807)に僧空海が創建したと伝えられ長寿院と号していましたが、暦応2年(1339)当地へ教化に来た宝乗院日続が、当寺を真言宗から日蓮宗へ改め、長寿山...JR外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第7日目。)

  • JR外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第7日目。)

    部原海岸。部原漁港に寄ってみます。小さな漁港。漁船が数隻。突堤では釣り人が。背後に迫る岩山。街道に戻り、先を行くとトンネルが見えてきます。北側入口から南側を望む。南側の扁額には「風早隧道」とあります。来た道を振り返る。「箱岩」が海中に。豊浜港。ここを左折して海岸方向へ。「水準点」。かつての街道であったことが分かります。海岸沿いの道。勝浦の市街地に入っていきます。前方にこんもりした山。前方頭上に高架橋。左手に使用不能のアパート。勝浦市とは勝浦は古くから漁師町として栄えた。中心部の勝浦地区にある勝浦漁港は銚子漁港に次いで千葉県第2位の漁獲量であり、カツオの漁獲量は関東地方の漁港では最大である。日本三大朝市のひとつである勝浦朝市や、かつうらビッグひな祭りなど、祭事・催事も盛んである。ご当地ラーメンとして2015...JR外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第7日目。)

  • JR外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第7日目。)

    今回は、夕方から予定があるため、一駅間のみの歩き。1月5日(金)。晴れ。外房線「御宿駅」。ホームに海女さんの像があることに気づき、パチリ。房総の海女(あま)は、三重県和具、石川県輪島市舳倉島と並んで「日本の三大海女」として知られていました。房総の中でも外房の御宿と南房総市白浜は代表的な地域で観光面でも有名でした。しかし海女が全盛期だったのは1960年代あたりまでで、今はこの地に海女さんはいません。(「月の沙漠記念館」HPより)さて、この先、「国道128号」にはトンネル(隧道)が4つほど続きます。路肩もなく、車も行き来があり、危険。※旧道は山道で、後半は道なき道になるようなので、最初から遠慮。国道を歩くことにしていました。(「今昔マップ」より)駅前にタクシーが停まっていたので、事情を話すと、「けっこう危ない...JR外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第7日目。)

  • 初春。向島百花園。春の七草。スカイツリー。もうじき「梅まつり」。

    新年を迎えた向島百花園へ。東京地方は昨日も快晴でした。能登半島地震は悪天候の中、捜索が続けられていますが、なかなか進みません。道路など寸断されたライフライン、復興支援も困難さが増しているようです。そんな中、暖かく、風もない午後の向島百花園。七福神廻りの人出も。「献上七草籠と百花園」。明治時代、その当時のお得意様の方々の中に九條家(のちの大正天皇の皇后様となられました節子姫のご生家)がありまして、年末になると七草籠をお届けしておりました。その後、明治33年に節子(さだこ)姫が大正天皇の皇太子妃になられると、七草籠を宮内庁にお届けしまして、妃殿下のもとにさしあげていました。それが献上七草籠のはじまりで、毎年当園の職員が手作りで育てた七草を籠に盛り込んで、新年に皇室に献上しています。春の七草。こちらにも、冬らし...初春。向島百花園。春の七草。スカイツリー。もうじき「梅まつり」。

  • JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その4。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

    引き込み線は外房線本線から左へカーブし、「阿久川」左岸沿いに進んでいました。航空写真での「新茂原貨物駅跡。」全景(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。現在の様子。建物が残っています。かつての正門か?外房線踏切近くに道路上の線路跡。外房線・本納駅方向。右に貨物駅・駅舎跡。草むらから覗くと、プラットホーム上部。地面は、コンクリートで覆われています。現在は、資材置き場。周囲は田園地帯。北側から望む。すっかりさび付いた線路。構内信号機。北側の踏切に行ってみます。本線からの引き込み線。本納駅方向。貨物駅へ。道路上の線路。今回は、ここまで。「本納駅」まで歩きます。※「伊南房州通往還(房州東往還)」で歩いた道を戻る。本納駅。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4...JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その4。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

  • JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その3。新茂原貨物駅跡まで。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

    バラストが残されている線路跡。線路跡に残る標識(↓)。鉄道標識のようですが、詳細不明。旧敷地内にある標識。「管理者関東天然瓦斯株式会社」。旧線路の地中には、天然ガスのパイプが敷設されているようです。新茂原貨物駅方向。右手の鉄柵は、鉄道由来のもの。旧貨物線・線路跡。振り返る。左が線路跡の草むら。この付近では、線路跡が明確。(「三井化学」方向。)外房線方向を望む。「三井化学工場」方向を望む。線路跡はこの先埋もれてしまいます。外房線方向。外房線との分岐点。線路跡。カーブしているようすが分かります。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/7e/17c42bd4e06d6e77ca61239ac5e08a72.jpg">跨線橋下。遠くに新茂原貨物駅(跡)が見...JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その3。新茂原貨物駅跡まで。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

  • JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その2。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

    「阿久川」の左岸の遊歩道を歩きます。右は、「沢井製薬関東工場」。「沢井製薬」と「三井化学」の間にある道路はかつての三井化学への貨物線跡のようです。右が「三井化学」、左が「沢井製薬」。この道をたどってみます。沢井製薬。しばらく直線の道。広い道にぶつかります。この付近で貨物線は、工場構内に入って行ったようです。阿久川沿いに戻り、北西にあった「新茂原貨物駅」跡に向かいます。ここでおさらい。(「」HPより拝借)三井化学茂原工場敷地までの間に、3系統のルートで旧国鉄と連絡した貨物の専用線が敷設されていた。1941年(昭和16年)に旧海軍茂原航空基地への引込線としての敷設が最初で、専用線の南方ルートは茂原駅の南側で房総東線から上り方向に東へ分岐北上し旧海軍茂原航空基地に接続していた。1957年(昭和32年)旧海軍茂原...JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その2。新茂原貨物駅跡。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

  • JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その1。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

    「房総東往還」を歩くために、外房線を何度も利用していますが、「本納駅」と「新茂原駅」の間に気になる建物が。また、「房総東往還」の時に、貨物線跡が遊歩道になっていることを知りました。そこで、今回、「茂原駅」から「本納駅」まで歩き、この二ヶ所を確認しました。12月28日。曇り。北風寒し。茂原駅。高架線の下が遊歩道になっています。ただ、この道が貨物線の廃線跡そのものではなさそうですが。振り返る。↓が「三井東圧」からの貨物線。その後、整備されて遊歩道に。(「今昔マップ」より)※○が本線との合流地点と思われます。「房総東往還」道を渡ります。正面の道が「農総東往還」。「高師」交差点。大きく右にカーブします。右奥に「県立長生高校」。「房総東往還」は、長生高校の東を通ります。「信号」と刻まれた標石。茂原駅からの高架線が下...JR茂原駅~本納駅。廃線跡を探る。その1。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

  • JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

    海岸に向かいます。観光案内図。御宿海岸は、はるか昔、高校時代。ま夜中、友人と養老渓谷から麻綿原高原を抜け、外房線・上総興津駅まで歩き、電車で移動して御宿まで来たことがあります。それ以来の訪問。当時の記憶は薄れてしまいましたが、その後、長く登山を趣味にするきっかけとなった、思い出の徹夜行でした。「御宿町営ウォーターパーク」。「清水川」河口。「月の沙漠記念公園」へ。童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像月の沙漠記念公園の中にある月の沙漠記念像は、童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像となっています。御宿海岸の美しい砂浜からアラビアの情景を思い浮かべて作られたとも言われている。ラクダに乗っていることからラクダ像とも呼ぶ人も多いです。このラクダ像は2代目で、1990年7月に建てられ...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

  • JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

    風はけっこう強いですが、青空の下、御宿町に入っていきます。房総らしい屋根のおうち。この建物は?モルタル2階建て。どんな商いをしていた建物なのか?今は廃業中。「伊南房州通往還(房総東往還)」はこの先の交差点を右折します。「御宿小学校」正門前を左折。この三叉路を右に。「ロペス通り」を突っ切り、向かいの細道へ。※「ロペス通り」の由来は、後で。「ロペス通り」。海岸方面を望む。この細道が旧道にあたる。「御宿駅」方向を望む。「清水川」に突き当たります。旧道歩きはここまで。この後は、海岸へ向かいます。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

  • JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

    しばらく「国道128号」を進みます。振り返ると、「WelcometoISUMI」。この先、御宿町に入ることに。洒落たスープカリーのお店。この先で、国道から右に分かれて進む。国道は一直線で御宿の町へ。来た道を振り返る。外房線の踏切を越えます。「第二房総街道踏切」。しばらく線路沿いに進みます。山道を行く雰囲気。舗装されていますが、車が来たら大変!しかし、幸いに小型車二台と、すれ違っただけでした。切通しの道が続く。前方が開け、やっと広い道に。来た道を振り返る。「御宿町B&G海洋センター」。右奥には、弓道場や野球場などが広がります。外房線を越える。左手上に「WANぱく館」(廃業)。山道(?)を振り返る。国道128号に合流、御宿町に入ります。「WELCOMETOONJUKU」。街路樹が南国的な雰囲気。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

  • JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

    「ログハウス」など住宅地が奥に広がる。しかし、道筋には住む人がいない、荒廃した家屋がいくつか。崩れ落ちた家。どれくらい経過したのか?集落を抜けると、田畑が広がり、住宅も。「浪花駅」方向。標準点が設置され、かつての主要道であることが分かる。旧道の左奥に「旧伊南陣屋移築表門」があるようです。(「Googleマップ」より)外房線「浪花駅」。島式ホーム1面2線を有する地上駅。国鉄の房総東線時代は有人駅で木造の立派な駅舎があった。駅舎側に貨物ホームもあり、現在のような単調な配線ではなかった。また、いすみ鉄道が国鉄の木原線時代に機械式気動車だけで運転されていたころは現在の上り線の外側に側線が一本あり(プラットホームの写真の上り線外側にある草むらが側線の跡)、廃車されたレールバス・キハ01がしばらく留置されていた。側線...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

  • JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

    左に折れて、今度は右に折れます。その向かいの左の角に、天保9年建立の「追分回国供養塔道標」があります。正面上部如意輪観音半跏座像。下部左「四國西國/秩父坂東」下部右「此方、かつうら/ぼう志ふなこ/こみなとみち」(勝浦/房州那古/小湊道)右側面右指差し図、下に「古はまみち」(小浜道)左側面左指差し図、下に「一の宮江戸/きよみづ、道」この道が江戸時代からの伊南房州通往還(房総東往還)だったことが分かります。この先で県道に合流します。さらに「国道128号」に合流。右側に立派なおうち。右側に「瀧泉寺」門前のイチョウ。「平(上総)広常公お手植えの大銀杏」。※「上総広常」平安時代末期の武将、豪族、上総氏。上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね、上總介廣常とも)の呼称が広く用いられるが、上総介は...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

  • JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

    大原駅で小休止し、南に向かいます。元酒屋さんらしい。道筋に、こうした廃業したお店が目立つのは、残念です。現役のおうちが二棟。振り返る。かつての曲尺手の名残でしょうか?県立大原高校付近。この先、旧道が左に。「大原小・わんぱくランド」のところを右折。「忠霊塔」の先で、行き止まり。振り返る。県道に戻ることに。この右手に旧道があるはずですが。この先で外房線の踏切を越えます。「第一房総街道踏切」とあります。「大原」方向。御宿方向。踏切を渡ってすぐ左折します。左手にジグザグに旧道が残っています。この付近の今昔。(1880年代)西に流れる「塩田川」との関連あるか?(現在)二ヶ所の○が旧道。JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

  • JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

    「国道465号線」深堀バイパスとの交差点に。右手奥には、「JAいすみグリーンスパいすみ」の建物。房総らしい低い山並みが見える。街道は右に大きくカーブします。右手奥に緑豊かな低山。「宮元橋」で「新田川」を越えます。※新田川-千葉県いすみ市を流れる塩田川水系の二級河川。すぐ左折し、しばらく「新田川」に沿って進むと、「いすみ鉄道」の踏切を渡ります。「房総街道踏切」。※今夏。内房線・五井で乗り換え、小湊鐡道」、「いすみ鉄道」と乗り継いで大原まで列車の旅をしました。いすみ鉄道の終点「大原駅」方向。「大多喜駅」方向。「大原駅」に向かう坂。「塩田川」を渡ります。上流方向。千葉県いすみ市を流れる本流の二級河川。下流方向。いすみ鉄道の鉄橋。「大原はだか祭り」のポスター。9月下旬の2日間にわたって行われる雄壮な祭りです。十数...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

  • JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

    12月9日(土)。晴れ。外房線「三門駅」。旧道に復帰します。街道は、「国道128号」のう回路になっているのか、車の往来がけっこう多い。外房線の線路沿いに「征清征露碑」。「日在(ひあり)踏切」。右手の土手は、「大山堰」。大山堰の奥には、「老人ホームエスポワール大原」。左手には外房線。右手からの道と合流。道端には、「日在城址」碑。(「古城盛衰記」HPより)※山裾沿いに進む「房総東往還」。遠く海方向。住宅地に入っていきます。旧道らしくカーブし、狭い道の両側には住宅が立ち並び、生垣も道路ギリギリまで。さらに、車の往来がけっこう激しい。けっこう飛ばして通過する車、すれ違う車が気になり、避けるので精いっぱい。周囲を見回す余裕がありません。手入れの行き届いた槇の生垣が続きます。水準点。奥に田畑が広がる。「三省学校跡」碑...JR外房線「三門駅」~「御宿駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第6日目。)

  • JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

    この先、静かで落ち着いた住宅地を進みます。房総らしい屋根。空き地や廃屋も目立つ。手入れの行き届いた槙の生垣。大きなお屋敷が連なる。街道らしいカーブが続く。車の行き来はあるが、人通りはなし。「本寿院」入口にある水準点。かつて、この道は、この付近の主要な道として存在していたことが分かります。この付近の今昔。(現在)水準点が表示されている。(1880年代)道沿いに街並みが形成されている。※「三門」では,外房線の建設の際に,前方後円墳が見つかり,そこから人物や家,水鳥などの埴輪が出てきました。鏡や刀も出土したそうです。6世紀ころのものと思われており,豆塚古墳と呼ばれています。三門駅の近くに小さな鳥居が立っており,かすかに古墳の位置を示しています。来た道(旧道)を振り返る。旧江場土村。国道128号を斜めに通過します...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

  • JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

    右手奥には「長者駅」がありましたが、次の駅「三門」まで足を延ばすことに。複雑でユニークな屋根。こちらは房総らしい屋根のおうち。「長者」。一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)「飯島喜美」記念碑。匝瑳郡共和村(現旭市)生まれ東京モスリン紡績亀戸工場でストライキ指導モスクワのプロフィンテルン第5回大会で演説(1930・18才)・ひろひろと夷隅の川の海に入る岬のかなたに虹立ちて居り・よしきりのここだ来啼ける河口にかか...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

  • JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

    ここにも親子連れが。周囲は、広々と。バス停「小福公民館前」。左手に大きな建物。こちらは小さなぬいぐるみたち?振り向くと、一家勢ぞろい。こうして「スタート」地点に。「いすみ市岬ふれあい会館・文化センター」。歩いた日が、11月30日。翌々日の大会のために準備に慌ただしいようす。当日は、なかなかの盛り上がりを見せていたようです。この先、「岬町長者」交差点を左に曲がります。と、角にあるお店。「池田屋菓舗」。かなりのインパクトがあり。年期が入ったお店です。営業中?このゲートには「○○商店街」と掲げられていたはず。バス停「岬郵便局前」。長者地域も昔から商業の中心地だったようですが、商店街らしい雰囲気はありません。バス停「千葉銀行長者出張所前」。(「今昔マップ」より)往還道沿いに町場が形成されていたようです。JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

  • JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

    「椎木商店街」もここまで。「福原橋」で夷隅川を渡ります。夷隅川(いすみがわ)千葉県の房総半島南東部を流れる二級河川。一級河川の利根川を除くと千葉県最大の流域面積をもつ。勝浦市の清澄山に源を発し、数多くの渓流をあわせいすみ市岬町で太平洋に注ぐ。流路延長は67.5km、流域面積は299.4km²である。夷隅川は類まれな蛇行河川であり、夷隅川河口から西畑川合流点まで直線距離では約22kmなのに対し、河川延長は約45kmもある。夷隅地域は『古事記』や『日本書紀』で「いじむ」「いじみ」と呼ばれているが、ハワイ語の「イ・チ・ミ(川が悲鳴を上げて流れる(山の間を蛇行して流れる)地域)」が語源との説がある。夷隅川流域は古くから水田が多く、夷隅川を利用した農耕が盛んである。生活用水としても利用されている。江戸中期から明治中...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

  • JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

    都内の商店街のイメージとは異なり、住宅と商店が混じりあって存在しています。車が行き来するも、人通りも少ない。、売り地。細長い土地。「岬町椎木」交差点。この付近は、かつて曲尺手になっていました。椎木宿「伊南房州通往還(房総東往還)」の宿場町。南総の城下町大多喜や大原、上総一宮に挟まれた岬町には旧房総東往還沿いに形成された宿場町がいくつかあり、それらが商店街として発達していきました。岬町の中心部は同じく宿場町として栄えた長者町にありますが、こちらにはもはや往時を偲ばせる姿はまるで残されていません。夷隅川を越えた北側に位置する椎木地区。旧字名で「椎木宿」の名が残ることからも期待度は高まりましたが、はたしてそれは正解でした。椎木は房総東往還の宿場町であるとともに、2と7の日に六斎市が立ち、やがて店舗を中心とした在...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その4。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

  • JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

    落ち着いて静かな街並み。すっかり色あせた看板。写真屋さん?この先で「いずみ市」に入ります。緩い下り坂。右手のおうち、軒先までサボテンの木。!!鮮やかな紅葉。下ると、家並みが開ける。左右の森も少なくなり、「岬町椎木(しぎ)」。「梨販売所」。季節も終わり、閉店中。千葉県は梨の生産高全国1位ですが、中でも「一宮・岬梨組合」の梨は、大きくて甘い早出し産地として有名です。主な栽培品種は「幸水」「豊水」「新高(にいたか)」で、人気上昇中の新しい品種「あきづき」も年々生産量が増えてきています。梨は水分と食物繊維の含有量が比較的多く、便秘予防、高血圧予防の他、夏バテ解消にも効果があると言われています。せん定、緑枝管理等各種講習会、出荷査定会等をこまめに開催し、甘くてみずみずしい梨を出荷するよう心掛けています。(この項、「...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その3。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

  • JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

    斜め右に進みます。「梨街道・椎木(しぎ)商店街・みさき」。南下する「国道128号」。門扉のみの敷地。右に小さな祠。「出征土偶」とあります。「土偶」について、作られた理由採集生活をしていた縄文人にとって自然の恵みがいかに大切かを考えると、1万年近く日本各地で作られていたことも不思議ではない気がします。縄文時代については謎が多く、土偶が何のために作られたのかについてはいくつかの説があります。ここでは代表的な二つの説を紹介しましょう。①身代わりにするため日本では古代から病や怪我の原因を「ケガレ」のせいと考えてきました。このケガレを身体から移し取り除くために使われたのが身代わり、形代(かたしろ)と呼ばれるものです。同じように縄文人が形代=土偶を使ったとすると、ケガレを移した土偶を破棄する、つまり壊す必要があります...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その2。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

  • JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

    11月23日(祝)。晴れ。「上総一ノ宮」駅下車。踏切を渡り、これから街道(往還)を進みます。外房線。旧道。駅方向。旧道に復帰します。上総一宮町のマンホール。・町の木クロマツと太平洋の荒波をデザインした集落排水管。町章は宮の「み」を一宮の「一」で丸く囲んだデザイン。右手に「国道128号(房総横断道路)」が見えてきます。国道に合流し、南に向かいます。けっこう車の量が多い。房総らしい屋根のおうち。右手の家並み。左手、海方向。左手にほんの少し旧道が。右手に見えるのが、国道128号。せがい造りの立派なおうち。右手丁字路のところに「浪切地蔵」。「忠魂碑」等。「一宮町立東浪見小学校」。駅名にもなっている「東浪見」は、何と読むか?・・・「とらみ」と読みます。※九十九里浜平野南端に位置する。地名は、沖合いに砂泥が堆積し、「...JR外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。その1。(「房総東往還」を歩く。第5日目。)

  • 「大雪」。12月7日。

    「大雪(たいせつ)」。二十四節気の21番目12月7日〜12月21日頃。大雪(たいせつ)とは本格的に冬が到来するころ。山々は雪に覆われ、平野にも雪が降り積もります。新しい年の準備をはじめる「正月事始め」もこの時期から行われます。七十二候では、初候 12月7日〜12月10日頃閉塞成冬そらさむくふゆとなる天地の気が塞がれ、冬がおとずれる頃。空は重い雲に覆われ、生き物はじっと気をひそめています。塞ぐという言葉は、寒さから人々を守るという意味でとることもできます。次候 12月11日〜12月15日頃熊蟄穴くまあなにこもる熊が冬ごもりの時期に入り、穴にこもる頃。春になるまで、穴の中で過ごします。熊だけではなく、しまりすや蛙、こうもりも冬ごもりを始めます。ところが、今年は!クマ被害人数11月までに211人で過去最多冬眠時...「大雪」。12月7日。

  • JR船橋~蘇我~安房鴨川~館山~蘇我~船橋。わかしお3号。渚の博物館。南房総やまと寿司館山本店。(「房総東往還」番外編。)

    鉄道好きな孫を連れて、外房線から内房線をぐるっと一周の旅に。JR船橋駅で待ち合わせ、蘇我で「特急わかしお3号」に乗り、安房鴨川まで。そこから在来線に乗り換え、館山まで。孫のもう一つの目的は館山に新規開店した「やまと寿司」でマグロを食べたい。と。11月27日(日)「曇り時々雨」というお天気でしたが、朝は母親が、夕方は父親が送りと迎えに。ま、小学生なので、そう心配することもなく、出かけました。房総東往還を電車でいち早く実行してしまったわけです。※房総往還(内房線沿い)は、すでに歩きました。以下は、その時の記録。孫がスマホで撮ったものが多い。「蘇我」9:37発。自由席で。海が見えてきます。サーファーの姿が。勝浦付近。安房鴨川付近。安房鴨川駅10:54着。「普通列車」安房鴨川駅10:59発。遠くに海が。停まって電...JR船橋~蘇我~安房鴨川~館山~蘇我~船橋。わかしお3号。渚の博物館。南房総やまと寿司館山本店。(「房総東往還」番外編。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)

    「一宮館」本館の裏手にあります。芥川荘は、明治末期から昭和初期にかけて避暑地として開発された一宮町の海岸地区に建つ宿・一宮館の離れで、芥川龍之介が滞在していたことからこう呼ばれている。平屋建、寄棟造、茅葺で、主室、次の間2室の3方に縁を回らせ、縁の一端に洗面所が付く。当地方の伝統的な民家建築の技法になり、周囲の松林に溶け込んで避暑地らしい情景をつくり出している。(「解説板」より)一宮の海岸地区は、明治時代から鉄道が通り海水浴場が整備されたことから、明治末期から昭和初期頃まで「東の大磯」と称され、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶ避暑地として栄えた。芥川荘は、海岸地区の一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1916)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)

    丘の上から海岸を望む。今年春、海岸におよそ30頭のイルカが打ち上げられたことがありました。午前6時半ごろ、千葉県一宮町の海岸で、サーフィンをしていた女性から「波打ち際にイルカが打ち上げられている」と通報がありました。一宮町役場によりますと、海岸のおよそ500メートルにわたってイルカおよそ30頭が打ち上げられています。そのうち、およそ5頭は死んでいることが確認され、役場などが対応にあたっています。(「TBSテレビ2023年4月3日(月)10:26」より)広場には、「芥川龍之介愛の碑。」芥川龍之介の愛のはじまりは彼が東大在学中二十三才の頃であった。当時彼は吉田弥生という女性に初恋し激しい相愛の仲になったものの養家(彼の母の実家)芥川家が士族吉田家が平氏であるとの理由だけで許されざる恋となった。彼の親友堀内利器...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)

    「農免道路」という標識が。農免農道というのは、その農道を作った事業名に由来し、その事業名とは、「農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業」と呼ばれている公共事業で農林水産省の補助事業です。どこにも“免”の字はありません、それは、S28年に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」で揮発油税の収入は、国道や県道の道路の整備に使うことが決められたのですが。「農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費として税金を“免除”してほしい」との声が強くなり、その声に答えるように発足したのがこの事業です。個人を特定して税金の免除は、できないから、その替わりに農道の整備を行うと言う主旨で発足した事業です。そこで,免税の“免”の字をとって略称で「農免農道」と呼ばれています。「農林漁業用揮発油税財源身替農道」は名称...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)

    「上総一ノ宮駅」東口。駅を出て、斜めの道を進み、「伊南房州道往還(房総東往還)」旧道へ。「大原」への道筋を確認。駅東口からの海岸への直線道路を進みます。実は、この道路がかつての風船爆弾基地への引込線でした。↓。(「今昔マップ」より)■「奇妙な気球が空に消えた」昭和19年12月、よく晴れた寒い朝だった。教師だった長谷川英美さん(89)=一宮町=は通勤途中、上総一ノ宮駅に近い七島踏切で奇妙な気球を目撃した。海岸の松林の上空。クラゲのような形の気球がふわっと浮かんでいる。風に吹かれ、横になり、斜めになってよろよろと上昇していく。やがて気球は直立。満球となってぐんぐん高度を上げ、空に消えていった。気球の正体は、日本軍が開発した秘密兵器「風船爆弾」だった。当時の長谷川さんは知る由もない。しかし、予兆はあった。戦局が...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。(「房総東往還」を歩く。第4日目+α)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その5。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

    新旧の建物が続く街並み。バス停「鳥居前」。赤茶け、字がかすれた標識。この路線のバス停は、ほとんどこういう状態。バス停名のもとになった「玉前神社」が右手奥にあります。「御菓子司角八本店」。千葉一宮の御菓子司角八本店は江戸寛政年間、玉前神社の門前、一宮城の城下として栄えた上総之国一宮に生まれました。(この項、「同」HPより)参道には、明治時代に建てられた土蔵造りの蔵をリノベーションしたカフェ「赤七屋」さんがあり、旬の食材のシロップをかけたかき氷と、静岡おでんを主に販売しています。玉前神社や一宮城跡を見て回るのが、本来。しかし、海岸の方に向かいますので、ここからいったん上総一ノ宮駅に出て、休憩します。奥にかつての商家が。宿場や城下町特有のウナギの寝床のような細長い敷地。奥に煙突。お味噌屋さん?「一宮酒場がけっぷ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その5。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その4。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

    田畑が広がる。庭先に、「バビアナ」という名前の植物が。南アフリカを中心に60種あまりが分布する球根植物ですがその大半がアフリカの中でもケープ地方に分布しています。葉っぱの形はアヤメやグラジオラスに似て細長い剣状で直立し、縦方向に走る葉脈の部分が盛り上がっており葉の表面の凹凸がはっきりと筋のように見えるのが特徴です(葉っぱに光が当たったとき、影ができるのでさらにはっきり見えます)。球根は繊維状の軟らかい皮にくるまれています。開花期間は主に4月~5月で、花茎を伸ばして穂状に花を咲かせます。花色は青紫、紫、白など中心ですが、そのほかに黄色い花を咲かせる種もあります。品種によっては耐寒性が劣るものもあるので、置き場所の移動ができる鉢やコンテナ植え向きですが、一般に出回っているストリクタとその園芸品種なら簡単な霜よ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その4。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その3。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

    左に入る旧道。住宅が続く。長生村のマンホール。中央に村章「ち」を図案化した規格型。長生村のマンホールには、九十九里浜の荒波と鶴、亀をデザインした汚水管マンホール蓋があるようですが、見つけられませんでした。(「」より)実にめでたい絵柄です。左に竹藪が。藪の向こうに、病院の看板。「南洲会長生クリニック」。まさか「藪医者」というわけではないでしょうが。駐車場には車がたくさん。※松尾芭蕉の門人である俳人の森川許六が1706年に編んだ『風俗文選』では、汶村による『藪醫者ノ解』において、「養父」(やぶ)が語源とする説が述べられている。それによると、但馬国の養父に住んでいたという評判の名医が語源であり、本来は名医を指す言葉であったという。現在の養父に当たる兵庫県養父市は、その名声を悪用して「養父医者の弟子」を騙る者が現...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その3。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

  • 本格的な冬を間近に。「向島百花園」。菊展。一気に色づく木々。

    11月25日(土)午後。晴れ。それぞれネーミングがすてきです。イチョウもすっかり黄ばみ、足元には落ち葉が。枯れすすき。ということでもう少し冬支度が始まる頃に訪問する予定です。本格的な冬を間近に。「向島百花園」。菊展。一気に色づく木々。

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

    「長生村」に入ります。「房総横断道路」。長生村(ちょうせいむら)長生村は、千葉県の房総半島九十九里浜に面し、東京から約60キロ、千葉市から約30キロの距離にあり、昭和28年11月3日に八積村、高根村、一松村の3カ村が合併して誕生しました。現在の村域は、東西7.4キロ、南北6.0キロで、面積は28.25平方キロ。太平洋の黒潮による影響を受けて、年間を通して温暖な気候です。交通は、西部から南部にかけて国道128号とJR外房線が縦貫しており、村内には八積駅があります。千葉駅までは普通電車で約45分、東京駅までは茂原駅からの特急利用で約1時間と、周辺都市への利便性に恵まれた距離にあります。産業は、温暖な気候と平たんな地形を活用して、稲作や野菜栽培、酪農などのほか、九十九里浜での沿岸漁業を中心に発展してきましたが、...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

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