すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x
「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z
倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z
8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。
「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」
q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。
何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。
ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。
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すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
10月1日。晴れ。八ッ場ダム建設で廃線となった「吾妻線」沿線(「川原湯温泉駅」~「岩島駅」)を歩きました。一時の暑さもおさまった感のする一日。家を出たときは雨がポツポツ、しかし、高崎付近あたりでは、すっかり晴れ渡ってきます。沿線の田んぼも稲刈りが進み、秋の田園風景。約ひと月ぶりの「吾妻線」です。今回、「八ッ場ダム」から「岩島駅」(「川原湯温泉駅」の一つ渋川駅寄り)まで歩く予定です。「川原湯温泉駅」に12時ころ到着。前回同様、今回も小生一人、下車。八ッ場ダムまで歩きます。思ったよりも汗をかきました。※「八ッ場ぐるりんバス」12:06発のバスを利用すれば、わずか8分ほどで八ッ場ダムに着きます。無理して歩く必要はありません。旧線路が眼下に見えます。エレベータで下まで降り、通路を歩くと、一気にダム下に。この橋から...a
高麗川駅に近づきます。住宅と田畑と。緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。畑が広がっています。「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。八高線は当駅を境に八王子方面が電化、高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。※川越線埼玉県の県庁所在地であるさいたま市か...z
しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x
「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z
倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z
8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。
「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」
q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。
何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。
ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。
白岡市のマンホール。抽象的な「家族」を中央に配置。その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。「篠津一号橋」。「星川」。星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。けっこうな回り道。「蓮田白岡環境センター」。右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。上流に橋が見えてきます。橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?ところが、どこを見渡してもいません。親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。園内には、風鈴が涼しそうな音色を響かせています。足下には木漏れ陽。炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。そしてザクロの実が一つ。朝顔展の準備が始まっています。売店には「氷」の旗が。この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。アゲハチョウの姿が(↓)。遠くにスカイツリー。今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになる...7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)
7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。「八幡橋」方向。かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな?と「さくらロードガーデン」。川べりも歩けそうです。左手に解説板があります。「茅野(かやの)の渡し」。現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました渡しは対岸の二軒...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
「東北新幹線」。白岡町(白岡市)の表示が。※「白岡市」白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。交通面では、都心まで40分程度...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
日差しが強くなってきます。木々があるので、歩くのにはちょうどいい。ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。次の橋に近づきます。振り返る。この先には運動公園はなさそう。広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。「新今宮橋」。下流方向。上流方向。大きくて見事なサボテン。水管橋。蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。「今宮橋」・今宮けやき通り。下流方向。上流側から橋を望む。川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。これがけっこう長い。この付近から白岡市入り。対岸に東北新幹線。この付近の今昔。(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。(現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
運動広場が続いています。パークゴルフ?それともグラウンドゴルフ?この先、公園ではどこもゴルフを楽しんでいます。河川敷なので大雨なのでは水没する可能性も。両の島水門。橋が見えてきます。「荒川橋」。JR宇都宮線・鉄橋。白岡駅方向。「椿山住宅地」。川沿いの緑地・公園へ。この公園の土手際には、様々な花が咲き誇っています。知らない名前の花たちが、色鮮やかに。素敵なおうち。「新荒川橋」。少し河川敷から離れて進みます。キウイがたくさん実る棚の下を抜け、河川敷に。この公園でもゴルフを楽しむ人たちの姿。元荒川の流れ。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
「川島久伊豆神社」脇の解説板。「元荒川の水はどこから来るの?」「久伊豆神社めぐり」。「宮前橋」。下流方向。上流方向。左に向かうと、JR宇都宮線「蓮田駅」に出ます。蓮田市のマンホール。蓮田市の木「ハナミズキ」のカラーデザイン。橋のたもとに「元荒川」解説板。元荒川(もとあらかわ)元荒川は、熊谷市から南東に流れ、白岡市で野通(やどおり)川を、蓮田市で星(ほし)川を合わせ、吉川町で古利根(ふるとね)川(中川)に合流する、長さ約六〇キロメートルの一級河川である。現在県中央部を流れる荒川(あらかわ)は古来しばしば流路を変え、県東部地区低地を乱流していた。江戸時代初期の荒川は、現在の元荒川の流路を本流とし、一部は分流として現在の綾瀬(あやせ)川の方にも流れていた。このため沿岸一帯はしばしば大きな水害を受けたので、関東代...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
カルガモ親子は、どうしているか?7月15日。曇り空の下、向島百花園にでかけました。訪問客もチラホラ。静かな園内。さぎそう。花がシラサギの姿によく似ています。※サギソウは、日本各地の日当たりのよい低地の湿地に生える球根性のランです。親株から走出枝(そうしゅつし、ランナー)を伸ばして、その先端に翌年の球根をつくります。3~5枚の細長い葉を根元近くにつけ、中心からまっすぐに茎を伸ばして、先端に1~5輪の花を咲かせます。花は純白で唇弁(しんべん)の先端が3つに割れ、その左右の裂片には多数の深い切れ込みがあって、その形は白鷺を思わせます。冬は球根だけになって冬越しします。おみなえし(女郎花)。ききょう(桔梗)。「秋の七草」(お好きな服は)の二つ。ところで、カルガモは?池の中で泳いでいるのは、親鳥とあと1羽。残りはど...向島百花園。さぎそう・おみなえし・ききょう。・・・カルガモ・オナガ。・・・そして我が家のソウタ。富士山遠景。
草刈りを行った後なので、歩きやすい。次の橋まではけっこう歩きます。右手には一面、田んぼが広がります。川面。この付近の今昔。(現在)。自然堤防が舗装道路に。(1880年代)。幅広い流路。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/c7/4c114c6731f6273b5cc2499ebfd1ef50.jpg">東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
突き当たりで右折し、すぐ左折します。草むらの向こうの道は、かつての貨物線の跡になっています。(現在)○が上の写真のところ。破線の緑道がかつての貨物線跡。「三井東圧(当時)」からの貨物線があります。(「今昔マップ」より)この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍基地の中心。東西にかなり広がっています。○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。(「今昔マップ」より)※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。「千葉県立茂原樟陽高等学校」。この学校も敷地もかつての基地の敷地。※農業学科と工業学科を併置する専門高等学校。来た道を振り返る。「文教通り」。道の両側には、茂原市立茂原中学校や住宅地が続きます。「萩原東公園」。茂原海軍航空...JR外房線「大網」~「茂原」。その6。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
静かな落ち着いた家並みが続きます。土蔵。来た道を振り返る。右は、宗延寺。「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。竹藪の向こう?付近を歩き回り、見つけることができました。農家の一角に。森の中に隠れるようにあります。住宅の裏手。掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(HardenedAircraftShelter)と呼ばれる。(「Wikipedia」より)・・・掩体壕について太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始...JR外房線「大網」~「茂原」。その5。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
農道の先には、外房線の踏切。振り返る。単調な歩道歩き。ほぼ直線。長生郡市広域市町村圏組合章。制水弁。国道の西側の低山の麓に民家が並び、東は広く開け、田園地帯が広がっています。沿道には、自動車販売などの大型店が連なっています。前方に「腰当」交差点。※地名は「こし(抉じ)・あて(洪水)」で豪雨後に洪水の危険性のある川沿いの浸食地という意味。(「未知の駅艘ふさ」HPより)ここを左折し、外房線をくぐります。来た道を振り返る。強い日差しのもと、けっこう疲れた!歩行者専用道。右手に外房線の鉄橋。「阿久(あく)川」。下流方向。この付近の今昔。(現在)旧道は一部消滅し、橋を越えた後に復活。(1880年代)「至本納駅道」とあるのが「房総東往還」。「大多喜天然ガス」マンホール。大多喜ガス㈱の前身、「大多喜天然ガス」のマンホー...JR外房線「大網」~「茂原」。その4。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
「子安神社(橘樹神社の摂末社)」。本納(宿)へ向かいます。街道筋らしい町並み。高台をバックに家並みが続きます。先に「曲尺手(かねんて)」が見えてきます。※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。振り返る。ここも「曲尺手」になっています。※「曲尺(かねじゃく)」。来た道を振り返る。バス停「本納駅入口」。ここも曲尺手の名残りか?看板建築。看板建築とは,主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた建築様式である。具体的には,木造2階建ての店舗兼住宅で,建物の前面を垂直に立ちあげ,モルタルや銅板,タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した建物をいう。その装飾の多くは...JR外房線「大網」~「茂原」。その3。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
『Googleマップ』で、「伊南房州通往還(※「房総東往還」)」と記されている道を進みます。バス停「永田駅入口」。すばらしい槙の垣根が続きます。垣根を立派にしつらえた、おうちが目立ちます。満開のコスモス。右に旧道が。奥に森が広がります。来た道を振り返る。もとの道に戻ります。里山風景。気が付いたら足元に「茂原市」の標石。茂原市に入りました。豪華な長屋門。刈入れを終えた田んぼが広がります。飛び去るシラサギ(↓)。外房線。鋭角に折れる旧道へ。合流するところに、「妙藏寺」石柱。顕本法華宗に属するお寺。この付近の今昔。(現在)〇が残された旧道。(1880年代)本道として機能している。この後、「本納宿」に入っていきます。JR外房線「大網」~「茂原」。その2。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
外房線「大網駅」。今回は、茂原駅まで歩くことに。川沿いの前回歩いた道(「房総東往還」)。この道を歩くことに。この付近の今昔。(現在)外房線沿いに南下するのが「房総東往還」。(1880年代)太く記された道が「房総東往還」道。この時期は、いったん「大網宿」に入り、東金~大網と続く道に合流し、南下していたようです。短い距離ですが、右に旧道があります。「病院」脇の道。合流。大網白里市のマンホール。太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。左右に田園風景が広がります。外房線が遠くに。「がまの穂」が密生。ガマとはガマ科ガマ属の植物で6月から8月にきりたんぽやソーセージ、フランクフルトに似た茶色の花を咲かせます。これをガマの穂と呼びます。ガマの葉は最大で150cmから200cmにもなるほどの...JR外房線「大網」~「茂原」。その1。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
初冬の園内。11月12日(日)。曇り空。一気に冬の気配。薄着ではかなり肌寒い。そんな中、向島百花園へ。菊花展が開かれています。丹誠込めた菊の盆栽。真ん中の作品は、「村のお祭り」。それぞれ凝った作品がずらり。鉢植えも置かれています。まだ時期が少し早そうですが。職人さん達の丹誠込めた菊がたくさん。地植えの野菊。こんぎく。のこんぎく。・北海道と沖縄を除く全国に分布するキク科の多年草。ヨメナと共に、いわゆる「野菊」と呼ばれるキクの代表。葉はヨメナと同じように食用になり、味もよく似る。別名をコンギク、ナンヨウシュンギクという。・日向を好み、田んぼの畦道、山道あるいは林の縁などの開けた場所に多い。根はいわゆる地下茎であり、横に広がって群生する。・野に咲く紺色の菊という意味合いでノコンギクと命名されたが、花の色は白~薄...向島百花園。菊花展。盆栽造りと野菊と・・・。のこんぎく。りんどう。ぶっそうげ。
大網方向へ。切通しの下り坂。けっこう車の行き来が多く、急なカーブが続く中、スピードも出てるようで、路端を歩くのはちょっと恐い!眼下に民家。眼下の左右が開けてくる。右に下る道が旧道?※「Googleマップ」では「大網街道」と表示されている。房総らしい谷戸、田園風景。振り返る。北方向。南東方向。今度は上り坂。右奥に「圏央道」の橋脚。南方向。「大網白里市」に。千葉市から大網白里市へ。「圏央道(千葉区間)」をくぐる。北方向。この右手に旧道?来た道を振り返る。この付近。「県道20号(現大槻街道)」から分かれた旧道があるはずですが、ちょっと不明。この川沿いに大網駅へ。大網白里市のマンホール。太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。前方に「大網駅」。西側方向。※この川沿いが「房総東往還」道...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その4。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
大網駅まで再開。下り坂。下りきったら、左折して上り坂を。けっこうな坂道。右に曲がると、落ち着いた家並みに。奥に「天満宮」。振り返る。突き当りを右折し、下り坂に。大網街道の右手にあすみが丘池。この付近の今昔。(現在)下りきって「現大網街道」に合流。(1880年代)大網への旧道は曲がりくねっている。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)正面に「昭和の森」。千葉市昭和の森千葉県千葉市緑区にある都市公園(総合公園)である。名称に公園はつかない。敷地面積は約100haと千葉市内最大規模の公園であり、広場、遊び場、キャンプ場、野球場、テニスコート、サイクリングコース、ウォーキングコース、展望台、アウトドア施設、宿泊施設等多くの施設がある。園内には遺跡も保存されており、荻生道遺跡は県指定史跡に指定されている。公園は一部...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その3。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
槙の垣根。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。畑地が広がる。外房線を望む。線路沿い、藪の中の廃墟。保存木「タブノキ」。「大木戸新田」交差点。この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。コスモス。この付近には旧線路跡があるようです。右手には住宅地が広がります。緩やかな坂道を下り、左折します。上り坂を土気駅へ向かう。地下道を抜けて駅の反対側に。土気駅ホーム。駅舎下のベンチで休憩。「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線の駅である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。駅名は周辺の地名に由来する...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その2。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
「誉田駅」。今回は(も)、ゆっくり目のスタート。「大網駅」まで。距離としては短いですが、アップダウンがありそう。前回歩かなかった旧道を振り返る。それに続く旧道を歩くことに。誉田駅を望む。住宅地を進む。「県道20号(大網街道)」に合流。跨線橋を渡る。外房線に沿って進む。「誉田IC」。千葉県道67号生実本納線(おゆみほんのうせん)千葉市緑区から茂原市に至る、主要地方道である。かつては、一部区間が千葉県道路公社が管理していた有料道路の千葉外房有料道路であったが、2023年(令和5年)2月1日に全線無料開放された。東京・千葉方面と外房方面を連絡する道路のうち、千葉県道20号千葉大網線(大網街道)の慢性的な交通渋滞緩和のために建設された。事業費は、約234億円。(「Wikipedia」より)左右に畑地が広がる。大き...JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その1。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)
槙の垣根。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。畑地が広がる。外房線を望む。線路沿い、藪の中の廃墟。保存木「タブノキ」。「大木戸新田」交差点。この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。コスモス。この付近には旧線路跡があるようです。右手には住宅地が広がります。緩やかな坂道を下り、左折します。上り坂を土気駅へ向かう。地下道を抜けて駅の反対側に。土気駅ホーム。駅舎下のベンチで休憩。「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線の駅である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。駅名は周辺の地名に由来する...z
鎌取駅前の賑やかな通り。「房総東往還」(大網街道)は、駅の反対側を進みますが、当方は、この道を「誉田駅」に向かいます。線路方向を望む。「大木戸」。※「木戸」=人間や物品の出入りを管理するのが目的で、城下や宿場内外の境界に設置された関所。道の反対側に「都川防災調整池」が広がります。直線道路をけっこう歩き、やっとここで「大網街道」に出会います。野田十字路。旧道に復帰。大きなおうちが目立つ。「中宿」バス停。旧道らしい道筋。土蔵。左手に「五日堂」。日浄上人他僧俗五名処刑殉難之霊跡。日浄は折伏布教して家康に弾圧された日経の弟子で、日経亡き後、関東一円の法華経の普及に努めましたが、幕府の弾圧を受けて信徒と共に斬首に処されました。この五輪塔は、高田村の源右衛門が日浄の供養のために造り、当時幕府の目を恐れて土中に埋めてい...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その4。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
坂道を振り返る。旧家の雰囲気。一方でモダンなおうちも。落ち着いた家並み。「北生実上宿」信号。この付近は、「北小弓城」下の町ということに。生実城(おゆみじょう)は、千葉市中央区生実町にあった日本の城。北生実城・北小弓城(きたおゆみじょう)とも言われる。近世以降は生実藩の陣屋(生実陣屋)がおかれた。千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城(南生実城)を築き、重臣原氏に守らせていたが、1517年(永正14年)に足利義明(小弓公方)にこれを奪われた。その後、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦に勝利した後北条氏方の原氏は、敗死した足利義明から領地を取り戻し、新たに北に2キロメートルほど離れた生実町(北生実)に城を築いて、ここを本拠地とした。同時に「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えた...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その3。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
歩き始めると、すぐ左手に古い建物。「旧生浜(濱)町役場庁舎」。解説板。旧生浜(おいはま)町は、現在の中央区から緑区にまたがる地域にあった町です。1889(明治22)年に北生実(おゆみ)・南生実・浜野・村田・有吉(ありよし)の5か村が合併して生実浜野村となり、1925(大正14)年に生浜村に改称しました。1928(昭和3)年の町制施行により生浜町が生まれました。生浜町の誕生を機に、1932(昭和7)年に建てられたのがこの旧生浜町役場庁舎です。生浜町は1955(昭和30)年に千葉市へ編入されましたが、この建物は生浜支所・生浜地区市民センターとして1992(平成4)年まで使用され、長く地域の人々に親しまれてきました。木造2階建てフランス瓦葺き、市内に残る昭和初期の洋風建築で、1階は役場、2階は議場になっていまし...JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その2。(「伊南房州通往還・房総東往還」を歩く。)
JR内房線「浜野駅」今回から「房総東往還」を歩くことにします。伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)は千葉県千葉市中央区浜野から外房を通り館山市北条に至る街道である。茂原市までの一部は「茂原街道」と「大網街道」として構成されている。別称は「房総東往還」である。千葉県の外房の大部分を通っており、現在は県道14号と国道128号が当街道に沿う形で建設された。しかし、元禄地震・関東地震(関東大震災)などの東京湾地下の相模トラフ巨大地震や慶長地震などの房総沖地震、千葉県東方沖地震などにより隆起・沈没、樹木の倒壊、地質が軟弱のため土砂崩れが起こるなどしたため道順は度々変化している。また、正確な成立年は不明である。なお、「伊南」とは中世の上総国夷隅郡に作られた荘園である伊南荘に由来する。当街道は江戸時代には確立...JR内房線「浜野」~外房線「誉田(ほんだ)」。その1。(「伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)・房総東往還」を歩く。)
運転席から。中央道(大月~河口湖~山中湖)。桂川。相模川(さがみがわ)の上流・山梨県内の呼称。富士山の伏流水を水源とする忍野八海、山中湖に源を発する。由来については、かつて都留市東桂から富士吉田市明見、鐘山へと続く流域に桂の大木が茂っていたことに因む説や都留郡のつるが蔓葛(つる)と転記され、蔓葛(かづら)の読みから桂へ転記されたとする説[石割山の石割神社の桂の神木に因む説などがあり、定かではない。リニア実験線。右手後方に「山梨県立リニア見学センター」があります。・・・<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/02/1ec9c8221708c05260e2b8ca23caad46.jpg">JR東海が強引に進める東京・品川―愛知・名古屋間を走らせるリニ...ローカル私鉄の旅。51。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その7。
「都留文科大学前」駅に近づいてきます。大学キャンパスは右手奥に広がります。1953年(昭和28年)に山梨県立臨時教員養成所として発足し、1955年(昭和30年)に都留市立都留短期大学に、さらに1960年(昭和35年)に4年制の都留市立都留文科大学となった。東日本エリアの公立大学で唯一の教員養成系大学であり、卒業生の多くが教職に就いている。とりわけ創設以来、小学校教員養成に力を注いできた。人口約3万人の地方小都市である都留市が大学運営を行っている市立大学である。2009年(平成21年)に公立大学法人へ移行し、2013年(平成25年)に創立60周年を迎えた。都留市の中心部である谷村は、江戸時代に興譲館という郷学が設立されるなど、教育・文化を重視する風土があり、県立臨時教員養成所の誘致や短期大学への移行は市民の...ローカル私鉄の旅。50。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その6。
木造の格子仕立て。遠ざかる富士山。木に隠された!「道志」方向。「月光寺(げっこうじ)」。「下吉田」。ブルートレインなど客車や貨車が陳列。開業当時は貨物の取扱を行っていた駅でした。駅前にはロータリーもあり、駅舎は建築当時、東洋一の建造物と言われていた名古屋駅を模して建てられました。周辺にはアヤメの群生地で有名な新倉山もあります。また平成21年7月18日(土)に、工業デザイナーの水戸岡鋭治氏デザインによる駅舎に生まれ変わりました。今回のリニューアルでは、下吉田駅が開業した当時の新しさと驚きを再び感じ取れるよう、レトロな味わいを生かしつつ、21世紀モダンの駅に生まれ変わることをコンセプトに、天井画を大胆に配置した吹き抜け、富士の稜線をイメージしたベンチ、センターテーブルが配されたコンコース等、今までの駅には見受...ローカル私鉄の旅。49。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その5。
「富士山駅」から。晴天の下での富士山。河口湖へ向かう外国人多し。「富士山(ふじやま)ビール」がずらり。駅舎と重なる。構内のお土産屋さんもにぎやか。「大月」まで「富士山ビュー特急」で戻ることに。3号車自由席運賃+400円。※「1号車は料金も設備も別格。元の車両は、JR東海が小田急新宿駅への直通特急「あさぎり」号で使用していた371系。JR東海での運行終了に伴い、富士急行が譲渡を受けて、同社の2000系「フジサン特急」の老朽化引退の後継としてデビューしました。富士急行ではこれ以前に、2014年から小田急の「あさぎり」号で活躍していた20000形ロマンスカーも中古導入しており、かつて「あさぎり」号で活躍した2車種が、再び富士山麓で競演する姿が見られるようになりました。(この項、「」HPより)この電車はスイスの列...ローカル私鉄の旅。48。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その4。