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2022/10/30

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  • 東部バリ・クサンバの伝統塩田 文字数:1004

    バリ通の中でも「通中の通」しか知るまい、東部バリ・クサンバの伝統塩田。ぱっと見ただけでは、古びた小屋と素朴な木の板が並ぶ風景にすぎない。だが、この木枠に張られたヤシの幹と藁の構造、それを傾けて一滴一滴、太陽と風だけで塩を結晶化させていくこの方法は、バリで数百年続く「手づくりの塩」の現場である。この地に降る雨は少なく、しかし黒い火山灰の砂は熱をよく吸い、蒸発を促す。男たちは天秤で汲んだ海水を肩に担ぎ、この砂浜に何度も撒き、それを一晩かけて天日で乾かし、再び集めて濾し、天日干しのこの木枠に移す――**「塩は、天と地のあいだで生まれる」**という言葉がそのまま形になったような製塩法である。日本の能登にも揚浜式という手法があるが、それと酷似しているのも面白い。海から生きるために塩を採る方法は、どこの文化にもあった...東部バリ・クサンバの伝統塩田文字数:1004

  • テンガナン──観光と閉鎖のはざまにて 文字数:2376

    テンガナン──観光と閉鎖のはざまにてサヌールやウブドから日帰りで訪れる観光客にとって、テンガナンは静かな風情のある「バリの原風景」として映る。アタ製品、風葬のトルニャン、壁画のような伝統布グリンシン。そのどれもが「希少な文化」としてカメラのレンズに収まる。だが、そのレンズの向こう側に、私の意識は引っかかる。この村には、日常のように牛が繋がれ、人々は伝統衣装で穏やかに歩く。しかし、1343年にマジャパヒトの将軍ガジャ・マダに侵攻され、追いやられるようにしてこの地に移った先住バリ人、バリアガの子孫たちにとって、それは「自ら守ってきた壁」のなかでの暮らしでもある。政府が閉じ込めたのではない。しかし、村人たちの多くは外と交わることを避け、他のバリ人たちさえ距離を置く。この静けさは、孤立の静寂でもある。婚姻もまた、...テンガナン──観光と閉鎖のはざまにて文字数:2376

  • 沐浴の刻──魂の洗礼を受けに行く 文字数:2211

    沐浴の刻──魂の洗礼を受けに行くティルタ・エンプルの聖なる泉に立つと、過去にどれほどの人々がこの水に頭を垂れたかを思う。インドネシア、ヒンドゥー、バリ──どの言葉も意味を超え、ただひたすらにこの水の流れが、人を受け入れ、洗い、許してきた。前回訪れた時は、まだ覚悟ができていなかった。他人の宗教に足を踏み入れることへのためらい、我が身の穢れを見つめる勇気のなさ。言い訳はいくらでもあった。だが今回、私はサロンを巻き、胸に手を当て、静かに、あの列に並んだ。「仏教徒でしょ?」「ここはヒンドゥーの聖域だよ?」そんな声が内面で囁く。しかし、本当の神性というものは境界を持たない。信じる形が違っても、人の「赦されたい」という祈りに耳を塞ぐような存在ではないはずだ。私は水の下で、幼い日の記憶、犯した過ち、言えなかった感謝、す...沐浴の刻──魂の洗礼を受けに行く文字数:2211

  • 水の声を聴く──バリの泉にて 文字数:3123

    水の声を聴く──バリの泉にて日本では一度も見たことがない。いや、記憶のどこにも見当たらない。これほどまでに澄んで、深く、そして濃い水。バリの郊外、足元をすくうように広がるこの泉は、目ではなく皮膚で見る水だった。呼吸に沁みるような冷たさが、確かにそこにあった。青と緑の密やかな階調。水草は水に浮かぶ音楽のように、小さな魚たちは無言の交差点のように揺れている。陽光は反射するのではなく、染み入るのだ。水というよりも、透明な森。気配に近い液体がここでは呼吸している。日本の湧水が「涼」だとすれば、このバリの水は「聖(ひじり)」だ。見ているうちに、自分の輪郭が水に溶けていくような気がした。透明であるということは、何も隠さないということではない。すべてを抱いて、見せて、なお語らないということだ。この水はきっと、どこかで神...水の声を聴く──バリの泉にて文字数:3123

  • サマサマの女神──バリに眠る仏教の影 文字数:3943

    サマサマの女神──バリに眠る仏教の影雨に洗われ、風に磨かれ、この像は何百回もの季節を見送ってきたのだろう。胸元には苔が染み、手にした杯には雨水がたまる。それはヒンドゥの神には異質だと私には思えた。まるで、バリという島に残された仏教の余香を湛えているかのようだった。バリ語の日常語に「サマサマ」という言葉がある。誰かに「ありがとう(テレマカシ)」と告げると、返ってくるのがこの「サマサマ」。日本語で言えば「どういたしまして」だが、その語源を知ったとき、私は言葉の奥行きにひとつ震えた。「サマ(sama)」──サンスクリット語で「平等」という意味。その名詞形は「サマター(samata)」。日本語の「平等(びょうどう)」もそこから来ている。だから仏典では「へいとう」とは読まない。**呉音の「びょうどう」**が選ばれる...サマサマの女神──バリに眠る仏教の影文字数:3943

  • 駆け落ちのふり──バリの結婚という演劇 文字数:4477

    駆け落ちのふり──バリの結婚という演劇「マデが結婚するんですよ」ビラのスタッフが笑顔でそう教えてくれたとき、私は少し驚いた。俺はビラの宿泊客だよ、それでも、「ぜひ来てください」と言われたら行くしかない。案内役は同僚のワヤン。細い山道を抜け、見つけづらい村を探して、ようやくたどり着いた。庭先にはマデがいた。戦士のような装束、バリス風の肩掛け、腰にはクリス(短剣)。照れ笑いを浮かべながら新婦と並ぶ彼は、どこか舞台の上にいる俳優のようだった。バリの婚礼には演劇性がある。それは神に捧げる儀式であり、同時に村という観客への物語でもある。ワヤンが教えてくれた。結婚にはいくつもの形式があると──授かり婚(できちゃった婚)入り婿婚(花婿が花嫁の家に入る)予約婚(将来を見越して合意する)そして、駆け落ち婚──駆け落ち婚とい...駆け落ちのふり──バリの結婚という演劇文字数:4477

  • 笑う火葬──バリ、タバナンにて 文字数:1995

    笑う火葬──バリ、タバナンにて「葬儀に来ないか」とスタッフに誘われた。タバナン出身の、陽気でよく働く女性だ。「俺、ファミリーじゃないけどいいのか?」と尋ねると、笑って「全然問題ない」と言う。それがバリだ。着いてすぐ、異様なまでに明るい空気に包まれた。それは観光地の陽気さではなく、内側から溢れる光のような明るさ。女たちは笑い合い、少女ははにかみながらもカメラの前に立つ。その場にいた誰かが言った。「今、終わったばかりよ。火葬。」え?と思う。だって、みんな笑っているじゃないか。ついさっき、大切な人を火にくべたばかりだろう?けれど、それがバリなのだ。彼らにとって**死は終わりではなく、「送り出し」**だ。火葬とは、悲しみの頂点ではなく、魂を天に帰すセレモニーのクライマックスなのだ。笑っていい。笑うべきなのだ。その...笑う火葬──バリ、タバナンにて文字数:1995

  • 金の鏡に立つふたり──クタの完璧な夕暮れ 文字数:1781

    金の鏡に立つふたり──クタの完璧な夕暮れ夕陽が水平線にかかると、世界はその重みを受け止めるために、一度すべてを黙らせる。音もなく、風もなく、まるで空間全体が「祈り」に変わったかのような時間。空と海と砂浜が同じ色になるとき、この世の輪郭が曖昧になる。それを私たちは「美しい」と呼ぶ。けれど本当はそれは、すべての境界がいったん融けて、魂が自由になる瞬間なのだ。その中心に立っていたのが、このふたりだった。何も語らず、何も急がず、ただ金色の鏡の上に立つふたりの姿は、この日の完璧さを証明するために配置された静かな奇跡だった。影が長く伸びて、ふたりの輪郭はもう少しで地平線に届きそうだった。この世のものではない何かが、すべてをやさしくなぞっていく。完璧な夕暮れとは、空や海の色のことではなく、そこに“ひと”が佇む理由がある...金の鏡に立つふたり──クタの完璧な夕暮れ文字数:1781

  • 清水の記憶──バリの片隅にて 文字数:1660

    清水の記憶──バリの片隅にてクタの喧噪を離れ、サヌールの波の音を背にして郊外へと抜けると、世界は音を消していく。そこで、ふと出会ったのがこの流れだった。水は澄み、ゆるやかに石をなでながら流れている。川というには細く、用水路というにはあまりに清らか。水面に竹の葉が落ち、そのまま何も語らずに沈んでいく。それだけの時間が、どれほど尊いか。その流れに一頭のバリの牛がいた。濃いベージュ色をした、小ぶりな牛。骨ばっているようで、どこかしなやかな佇まい。牛は音を立てずに水を飲んでいた。それは生きるための行為というより、風景とひとつになるための儀式のように見えた。その瞬間、私はなぜか、「永遠」という言葉を思い浮かべた。何ひとつ特別ではない光景。けれどそれが、この島の深層にあるリズムだったのだ。誰もが見過ごす場所に、誰もが...清水の記憶──バリの片隅にて文字数:1660

  • ピトンと遊ぶ子──バリの現実は夢を超えて 文字数:1705

    ピトンと遊ぶ子──バリの現実は夢を超えて最初にこの写真を見たとき、一瞬、心が跳ねた。「危ない」と思う前に、何かがざわつく。常識という名の膜が破れる音がした。バリでは、巨大なパイソンを「ピトン」と呼ぶ。呼び方が違うだけで、その存在の輪郭がやわらぐ。ここではピトンは恐怖ではなく、親しみと物語の対象なのだ。草の上にゆるやかに横たわるピトン。その上に、小さな幼児が、何のためらいもなくまたがっている。無邪気でもなく、好奇心でもなく──あたかも、それが「遊具」であるかのように。そしてその背後では、父親がまるで我が子が初めて自転車に乗ったときのような笑顔を浮かべている。その顔が、すべてを語っている。バリでは、蛇と人のあいだに、文化の溝がない。神話の中にも、儀式の中にも、蛇はいる。「悪しきもの」ではなく、「力のあるもの」...ピトンと遊ぶ子──バリの現実は夢を超えて文字数:1705

  • 神の降臨タイム──クタ、光と闇の交錯点 文字数:1751

    神の降臨タイム──クタ、光と闇の交錯点夕陽はもう、語る言葉を持たない。ただ沈んでいく。光のゆりかごに揺られながら、一日の終わりを海に差し出していく。ここはクタの浜。俗のすべてを受け入れてきた海岸でありながら、今日だけは、いや、この瞬間だけは、祈りの場と化している。人々の影が長く伸び、祈る者たちの輪郭が闇の中に沈む。見えているのは姿ではない。魂の意図だけが残っている。天と地の間に立つペンジョール(竹飾り)は、空から降りてきた神の通路。今このとき、神はきっと、誰にも気づかれぬほど静かに降りてきた。波は何も知らないふりをしている。しかし、それでも心を撫でるように寄せては返す。世界がいったん、洗い流されていく時間。闇と光が、互いの境界を譲り合っている。人はこうして、たった数分の「神の時間」のために、日々の泥をかぶ...神の降臨タイム──クタ、光と闇の交錯点文字数:1751

  • 銀の浜──バリの犬と、光と、祝福の時間 文字数:1622

    銀の浜──バリの犬と、光と、祝福の時間その日、海は銀に染まっていた。夕暮れ時、太陽はまだ沈まぬ位置にありながら、空と海を静かに冷たく照らしていた。バリの夕暮れは、黄金か銀か、どちらかになる。それは天の気まぐれなのか、あるいは見ている者の心の色かもしれない。銀の日は、ときに異様だ。あらゆる輪郭が和らぎ、色彩は消え、世界はひとつの光沢に包まれる。この世のはずなのに、この世のものではない美しさ。そんな瞬間に、二匹の犬が浜を駆けていた。ただ走っていた。理由もなく、命のままに。砂の上を軽やかに跳ね、波打ち際をぬうように疾走していた。彼らはまるで、この銀の世界が自分のために用意されたかのように、完璧なタイミングで光の中を走っていた。人がどう努力しても手に入れられないような、純粋な自由がそこにはあった。犬が幸福そうに走...銀の浜──バリの犬と、光と、祝福の時間文字数:1622

  • 退屈な花の、名誉回復の一枚──ブーゲンビリア再考 文字数:1756

    退屈な花の、名誉回復の一枚──ブーゲンビリア再考ブーゲンビリアには、どこか“便利な美しさ”がある。道ばた、公園、塀越しの家。南国にいれば、ほぼ毎日どこかで出会う花。それゆえに、ありがたみを失っていた。「ああ、またか」「鮮やかだけど、飽きる」「実は葉っぱなんだよな」そう思っていたことを、私は認めざるを得ない。しかし、今日のこの写真は違った。まるで舞台照明を浴びた女優のように、ブーゲンビリアが紫のドレスをまとって、堂々とこちらを見返してきたのだ。葉の陰から差し込む光が、花びらを透かし、ただの色ではなく、深度を与えていた。背景の玉ボケすら、まるで後光のように花を囲み、「ねえ、わたしってこんなにきれいだったのよ」とでも言いたげだった。日常に埋もれた美は、ときに“再発見”を要求してくる。このブーゲンビリアは、その再...退屈な花の、名誉回復の一枚──ブーゲンビリア再考文字数:1756

  • 失われかけた海の色を探しに──ヌサペニダにて 文字数:2027

    失われかけた海の色を探しに──ヌサペニダにてバリ島に暮らしていても、もうこの色に出会うことは少なくなった。あの頃、浜辺に近づけばすぐに目に飛び込んできた海の色。深いのに澄んでいて、まるで空の記憶が水に溶けたような青。だが近年、ビーチは人と建物で満ち、海は少しずつその色を曇らせてきた。それでも、どこかには残っているはずだと信じて、私は船に乗った。向かった先は、ヌサペニダ。岩に穿たれたアーチの向こう、崖の下に現れたのは、まさに**“忘れかけていたあの色”**だった。波の白さが際立つほど、青は深く、風が通り抜けるたびに、その青が少しだけ揺れた。私は言葉を失って、ただ見ていた。この色は、生き物のように生きている。人の目に触れないところで、人の時間の流れとは別のリズムで、潮の音とともに呼吸をしている。だからこそ、こ...失われかけた海の色を探しに──ヌサペニダにて文字数:2027

  • 天空にて──バリの凧揚げ大会を見上げて 文字数:1611

    天空にて──バリの凧揚げ大会を見上げて空を見上げることは、ときに祈りに似ている。バリ島のとある午後。凧揚げ大会の日、空には赤白の機影がいくつも浮かんでいた。どこかミサイルにも似たかたち、しかし表情は凛々しく、それはむしろ“逆重力の神々”に思えた。勇壮。遠くから聞こえる掛け声と、手元の風を読む真剣な眼差し。それは戦でも祭でもある。のどか。足元では子供が飴をしゃぶり、老女が笑って見守っている。風はただ、平等に吹く。少し命懸け。大凧をあげる者たちは、高台や屋根の上にのぼり、糸が切れれば、凧は墜ちる。落ちるのは凧だけとは限らない。けれどそのすべてを含んで、空のうえの凧たちは、解き放たれている。風の導くままに、けれど決して千切れないように。これは風との共演であり、重力から一時だけ逃れた者たちの舞いなのだ。見上げてい...天空にて──バリの凧揚げ大会を見上げて文字数:1611

  • バリ風のパイプオルガン 文字数:1619

    バリ風のパイプオルガンこの浜に並んだ小舟たちを、ただの漁船と見なすには、あまりに整っている。白く、滑らかに磨かれた船体。空に向かってすっと立ち上がる色彩の旗。赤、青、白――そのリズムはまるで、音階を持った風の管。ここはバリの浜辺。けれど目を閉じれば、たしかに聴こえてくる。風が弾く、海のオルガン。波が押し寄せるたびに、船体が軋み、帆が震え、風の通り道が音を生む。水平線の先からやってきた光が、その音に呼応するように海面を撫で、空の雲さえも音符のように並ぶ。一艘の船が沖に浮かんでいる。その姿はまるで、今しがたこのパイプオルガンから送り出された音のようだ。バリには楽器が多い。ガムラン、ケチャ、リンディック。けれど、この浜辺の船たちもまた、一日を締めくくる夕暮れのための音楽隊だったのかもしれない。誰もそれを聴いたと...バリ風のパイプオルガン文字数:1619

  • 雨上がりのジュプン──聖の気配を帯びて 文字数:1645

    雨上がりのジュプン──聖の気配を帯びて花は、濡れているときに最も静かになる。とくに雨上がりのジュプンは、どこか洗い清められたような、神前の静けさを湛えている。この朝、私はふと足を止めた。いつも見ているはずのジュプンが、まったく違う花に見えたのだ。水滴が、白い花弁の端に並ぶ。一粒、二粒、そっと触れればすぐ落ちてしまいそうなほどの軽さ。そのすべてが、「今しかない」という時間の密度をまとっていた。光が花弁の奥に入り込み、黄色い中心にわずかに漂う温もりが、まるで人の胸の奥の炎のようだった。それは燃えあがるのではなく、ひそやかに、けれど確かに灯るもの。この花は、いま「聖」だった。バリではジュプンは神前に捧げられる花。けれどその「聖性」は、寺院ではなく、こうして雨のあとに、ひっそりと地上に降りてくる。この一枚は、それ...雨上がりのジュプン──聖の気配を帯びて文字数:1645

  • 歓喜のかたち──バリのエロス、ネカ美術館にて 文字数:2178

    歓喜のかたち──バリのエロス、ネカ美術館にてたぶん、見過ごす人も多いだろう。木洩れ日の差し込むホールの片隅、若い男女が馬にまたがっている。微笑ましくすらあるその構図を、ただの「乗馬像」と思って通り過ぎるかもしれない。けれど目を凝らしてみれば、この馬の背には、ただの乗馬ではない何かが宿っている。女は男にしなだれかかり、男はその腰をしっかりと支えている。馬は、まるで生きているかのように前脚を高く掲げ、全身に緊張をみなぎらせている。これは、単なる騎乗ではない。生命の歓喜が、乗馬という比喩を通して表現された瞬間なのだ。バリの彫刻において、エロスは決して禁忌ではない。それは宗教と性と自然がいまだ分かたれていない時代の、根源的な力の顕現として、当たり前のように存在している。この彫像が語っているのは、「愛」ではない。も...歓喜のかたち──バリのエロス、ネカ美術館にて文字数:2178

  • 浜辺にて、死者を送る人々と出会う──サヌール、午後五時 文字数:2685

    浜辺にて、死者を送る人々と出会う──サヌール、午後五時バリでは、午後五時がちょうどいい。陽はまだ残り、風は涼しくなりはじめ、海もひとやすみしている。私は毎日のようにこの時間に浜へ向かう。強い日射に晒されないように、という理由もあるが、なにより、この時間帯のビーチにはどこか「神の背中」が見えるような静けさがある。今日、砂のうえに立つ竹の祭壇が目に入った。女性たちが白い衣をまとい、手にはバナナの葉で作られた供物。儀式が始まる直前の、張り詰めたような、けれどどこか和やかな空気。私は一人の白衣の老人に声をかけた。「こんにちは。これは何のセレモニーですか?」彼は静かに答えた。「palebon──一月前に亡くなった方を海に還すための儀式です」海に還す。それは土に返すのとは違う、バリの死生観だ。海とは、終わりであり、始...浜辺にて、死者を送る人々と出会う──サヌール、午後五時文字数:2685

  • 砂と空のあいだで 文字数:1313

    砂と空のあいだでそれは、空手だったのかもしれない。あるいはダンスか、ストリートの武術か。だがそんな分類は、もう意味をなさなかった。青年たちが裸足で砂を踏みしめ、リズムもなく、合図もなく、唐突に宙返りをはじめる。彼らの年齢は、おそらく16から20。未来にまだ明確な形がないことを、逆に自由として使いこなせる年頃だ。なかでも、ひとりの黒い服の青年の宙返りが、私の目を奪った。高さ、放物線の形、着地の静けさ。それは練習というよりも、自己という存在を、一度、地上から離してみようとする試みだった。彼の背中は、ほんの一瞬、空と垂直になった。脚が空を蹴り、髪が軌跡を描き、その姿を、まわりの仲間たちが黙って見守っていた。言葉はいらない。砂と空のあいだで文字数:1313

  • 黄昏の漁 文字数:1572

    黄昏の漁砂がまだ温もりを残しているうちに、彼は浜辺へと現れる。一本の竿と、ゆるやかな歩み。ただそれだけを連れてくる。彼は漁夫ではない。生活のためでもなければ、戦いでもない。──これは、遊びだ。だが、その“遊び”は、日々の何かを洗い流すように、黄昏の海へと吸い込まれていく。釣果は、ないに等しい。日によっては魚篭に一尾か二尾、あるいはボウズ。それでも彼は、海に背を向けない。沈む太陽が海面を染め、潮風が声を失いはじめるとき、彼はなおも、静かに竿を握っている。釣り糸の先にあるのは、魚ではないのかもしれない。それは、一日の終わりに自分を戻す場所であり、何も得なくても、すべてを受け取っているような時間。誰に見られるでもなく、何かを証明するでもなく。ただ、海と黄昏に身を預けて、今日という日を、すこしずつ手放していく。見...黄昏の漁文字数:1572

  • 風と打ち合う午後──ピンポンテニスの記憶 文字数:1722

    風と打ち合う午後──ピンポンテニスの記憶かつて、バリのビーチでは、ピンポンテニスが大流行だった。テニスボールの黄色が、砂のうえでひときわ鮮やかに跳ねる。卓球ラケットを一回り大きくしただけの、簡素なバットが風を切る音。でも、その音には、潮騒にも似た、土地の呼吸が混じっていた。ルールはない。審判もいない。あるのは、ひとつのボールと、ふたりの人間の“今”だけだ。追い風に乗せて、ぐっと振る。返されたボールが、夕陽を裂いて戻ってくる。それだけのことに、なぜか心がほどけていく。肩の力が抜け、笑い声がひとしずく、風に乗る。その声を聴いたカップルが、ふらりとラケットを手に取る。そうして、いつの間にかこの浜辺には、即興のコートがいくつも生まれていた。試合ではなく、対話。競技ではなく、戯れ。勝者のないスポーツ。あの頃のバリに...風と打ち合う午後──ピンポンテニスの記憶文字数:1722

  • 遊びのはじまり

    遊びのはじまりクタの夕暮れ。日が傾き、風がやさしくなると、砂はすこし冷たく、やわらかくなる。親たちは笑い、子供たちは沈黙する。──なぜなら、彼らはいま、“遊びのなかへ還って”いるから。手のひらで掬う感触、指のあいだからこぼれ落ちる粒子、湿った砂がかたちになり、くずれ、また、つくられていく。小さな子の熱中ぶりは、まるで宇宙の最初の粒子にふれているかのようだ。遊びは、彼らにとっての祈りであり、まだ言葉を持たぬ詩である。そこに、大人の時間はない。教える声も、急かす影もない。ただ、波打ち際に沈む太陽と、夢中の背中だけが残る。それは、どんな芸術よりも、静かで、美しく、強いものだと思った。遊びのはじまり

  • タナロットの緑と白 文字数:1322

    タナロットの緑と白タナロットへ向かったのは、陽がまだ傾ききらない午後だった。黒く削られた溶岩の岩盤に、ひそやかな命が息づいていた。──それは、緑のコケ。まるで記憶の上澄みだけがそこに降り積もったような、柔らかな光を帯びた緑。波が届かぬ一瞬の間にだけ、海の沈黙がそこに根を下ろす。その奥で、白い波が砕ける。激しさと清冽さをまとった飛沫が、空気を切り裂くように立ち上がる。緑と白。静と動。湿った祈りと、炸裂する怒り。それらが混じり合わず、けれども拮抗しながら、同じ画面のなかに息をひそめている。それが、タナロットの本当の姿だと思った。ここでは、すべてが“神聖である”というよりも──すべてが“均衡である”ということが、神聖なのだ。タナロットの緑と白文字数:1322

  • ありふれた蓮

    ありふれた蓮バリでは、蓮は珍しくない。寺院の脇、ホテルの池、道端の甕──どこにでも咲いている。だから人は、それを見ても足を止めない。香りを気に留めることもない。ただ背景のひとつとして、通り過ぎる。けれど、私はこの一輪を見たとき、何かが背中をつたって、立ち止まってしまった。白い花弁の内側で、黄金色の中心がまるで光をたたえている。葉に落ちた水の輪郭まで、まるで時間の底から浮かび上がったように澄んでいた。それは、信仰の名を借りない神聖だった。誰にも気づかれず、しかし揺らぐことなく、この場所に咲くためだけに存在していた。人にとってはありふれていても、この花には、「今ここで開いたこと」こそが奇跡なのだ。ありふれた蓮

  • 波の子たち 文字数:1827

    波の子たち沖から吹く風が、まだ濡れた耳をやさしくなでていく。遠くで波が崩れ、その音が空気のすみずみまで震わせる。私は立ち止まる。けれど、その海へ向かって、子供たちは迷いなく踏み出していく。誰に教わったのでもない、それは、血と骨に沁みこんだ呼吸のようなもの。この海とともに生まれ、この波とともに育った子らの動きには、ひとつの宗教にも似た厳かさがある。小さな体を引きずるようにして板を抱え、彼らは波に背を向けず、むしろ、波の奥に何かを見ている。それは遊びではない。ただの競技でもない。──それはきっと、まだ言葉を持たぬ祈りであり、まだ文字にならぬ航海日誌だ。波が迫る。白く、荒く、叫ぶように。だが彼らは逃げず、しなる。一瞬、波と少年の影がひとつになる。そこには、都市の子らにはない、自然の中に自分を沈める誇りがある。私...波の子たち文字数:1827

  • 凧を運ぶ少年たち 文字数:1044

    凧を運ぶ少年たち向こうから、少年たちが大きな凧を抱えてやってくる。風はまだ弱く、海は静かに光っている。それでも彼らの歩みに、ためらいはない。彼らの背中には、ただ凧があるのではない。バンジャール(共同体)の名誉が、小さな肩に乗せられているのだ。手作りの木枠と布。何日もかけて仕上げた戦いのしるし。その凧が、まもなく空に放たれる。声援と太鼓と、そして誇りとともに。凧揚げ大会とは、ただの遊びではない。これは彼らなりの“式典”であり、空に向かって何かを誓う、ささやかながら真剣な、祈りのかたちなのだ。凧を運ぶ少年たち文字数:1044

  • 雨の夜、木々が語る 文字数:1250

    雨の夜、木々が語る雨季は、やはり雨が降らなければ始まらない。ここ数日、ようやく本格的な雨が降り出した。ベランダの明かり越しに見える庭は、椰子の葉が濡れて重たく揺れ、ブーゲンビリアの赤がしっとりと深まり、キョウチクトウの白が闇の中でかすかに光っていた。ジュプンの枝先から、雨粒がぽとり、ぽとりと落ちる。その音が、まるで木々の小さな囁きのように響く。「よく、持ちこたえたね」「乾季の六ヶ月、長かったね」そんな声が、確かに聞こえてくる気がする。まだバケツをひっくり返すような豪雨ではない。それでもこの雨には、確かな“雨季の手触り”がある。しみ込んでいく大地。プールに満ちていく清水。あらゆるものが、待っていたものにようやく出会えたと告げている。写真を撮ったとき、私はカメラの奥にある音を聴いていた。──木々が静かに、けれ...雨の夜、木々が語る文字数:1250

  • 虹の予感 文字数:989

    虹の予感それはまるで、空がひとつの決意を固めたかのようだった。午後のバリ。屋根瓦を打ち鳴らすほどの激しい雨が、突然訪れ、そしてあっけなく去っていった。雨脚が遠のいたのと入れ替わるように、白い陽光が静かに壁を照らし出す。湿った空気はまだ地表にまとわりついているというのに、光はすでに次の景色を描きはじめていた。屋上にあがると、風がひとすじ、顔を撫でてゆく。見上げれば、そこには、──空のあいだにかかる一本の橋。それは七色などという安易な言葉では収まりきらない、見えそうで見えない、触れようとすれば消えてしまうような、**“記憶の向こう側”に通じる階(きざはし)**だった。虹は、ただそこに在った。言葉もなく、証明もなく。それでも、こちらに向かって、何かを告げているようだった。虹の予感文字数:989

  • 赤い背中の演者──スカーレットバック・フラワーペッカー 文字数:1489

    赤い背中の演者──スカーレットバック・フラワーペッカー彼はまるで、自らを見せに来たかのようだった。いつものようにカメラを構えて庭を眺めていた朝。ひときわ鮮やかな色彩が、葉陰からふいに現れた。小さな体、真っ赤な背中、黒い翼、白い腹。色彩のコントラストは強いはずなのに、姿勢と表情にはどこか静かな品格があった。フラワーペッカー。花をついばむ小鳥。けれどこの日は、彼の興味は花よりも、レンズの向こうにあったようだ。なんと、撮りやすい枝に10分もとどまり、右向き、左向き、時おりこちらを向く。ポーズも距離も、すべてが完璧だった。これはもはや、偶然ではない。**「撮ってもらうことをわかっていた」**としか思えない振る舞いだった。その赤い背中は、燃えているわけでも、誇っているわけでもない。ただ、その色でいることを引き受けて...赤い背中の演者──スカーレットバック・フラワーペッカー文字数:1489

  • 黄色い頭の訪問者 文字数:1485

    黄色い頭の訪問者今朝、庭の木に小さな鳥がやってきた。頭が黄色く、身体はややくすんだ茶色。百舌鳥ほどの大きさで、少し慎重に、けれども迷いなく枝にとまった。目が合ったような気がした。けれど、向こうはこちらなど気にも留めていなかったのかもしれない。しばらく葉のあいだを見渡して、何かを確かめて、あっけなく、飛び立っていった。この木には獲物がない。たぶんそう判断したのだろう。だが、こちらにとっては、十分に“獲物”だった。黄色い頭が緑のなかで瞬いたその一瞬、空の上から何かの判断が下されたような、そんな不思議な感覚が残った。たぶんあの鳥は、何百本もの木をまわるうちの一つとして、この庭の木にも立ち寄っただけだったのだろう。けれど、選ばれたような気がした。たった数秒でも、この木が誰かの足場になったこと。その事実が、なぜだか...黄色い頭の訪問者文字数:1485

  • アグンがくっきり見えた朝──乾季のはじまりに 文字数:1237

    アグンがくっきり見えた朝──乾季のはじまりに乾季が来る――そう確信できたのは、この朝のアグン山の輪郭を見たときだった。薄い朝焼けに包まれながら、アグン山はまるで墨絵のように輪郭を際立たせていた。霧もなく、雲も邪魔せず、ただそこに、静かに屹立していた。バリに長くいるとわかる。この山がここまではっきりと見える日は、そう多くはない。たいていは薄靄に隠れて、その存在を感じるだけの日がほとんどだ。けれど今朝は違った。空気の透明度が違う。風の乾き方が違う。葉の揺れ方までもが、昨日までとは違っている。この山は、ただの山ではない。季節の表情を、最もはっきりと顔に出す存在だ。そして今日、アグンは言っていた。「乾季が始まる」と。アグンがくっきり見えた朝──乾季のはじまりに文字数:1237

  • 曇天の子牛──バリ島、七時すぎの空 文字数:1454

    曇天の子牛──バリ島、七時すぎの空冷たい風が吹いていた。バリの朝とは思えないほど、空は重く、空気は冷えていた。まるで季節が、知らぬ間にひとつ余分に進んでしまったような感覚。午前七時をすぎたころ、厚い雲の向こうにぽっかりと穴が開いた。その形が妙にリアルだった。小さな角と、丸い胴。ふわふわとした子牛のかたちに、私は目を奪われた。ほんの束の間、水平線のうえがにわかに明るくなり、天から細い光の筋が降りた。それは劇的ではなかった。天啓というほどの輝きでもなかった。けれど、曇りつづけた日々のなかに射す“わずかな可能性”のような光だった。冷たさのなかにある、柔らかいユーモア。それを雲が、空が、示してくれたように思えた。バリの空はいつも明るいわけじゃない。ときにこうして、雲のあいだから笑いかけてくることもある。この朝の空...曇天の子牛──バリ島、七時すぎの空文字数:1454

  • 完璧に整った朝──サヌールのサンライズ 文字数:1629

    完璧に整った朝──サヌールのサンライズ朝の海に行こうと思ったのは、ただの気まぐれだった。まだ暗く、空には輪郭のない雲がいくつか浮かんでいた。コーヒーを飲み終えるころ、水平線のあたりがうっすらと染まり始めた。そのとき私はまだ知らなかった。この朝が、記憶に残る“整いすぎた夜明け”になることを。やがて、太陽はまるで合図に従うように、左右対称にひらいた雲の割れ目から顔を出した。雲は翼のようにひろがり、光は扇状に天を刺す。海はそのすべてを静かに受け止め、波音だけが規則正しく岸辺を打っていた。完璧だった。自然が設計図でも引いたかのように、すべての要素が「いまここにあるべき姿」で存在していた。朝焼けはつねに美しい。けれどここまで“整っている”と、それは美しさではなく、祝福のように感じられる。こんな朝に立ち会えたことが、...完璧に整った朝──サヌールのサンライズ文字数:1629

  • クタビーチが黄金色になるとき 文字数:1480

    クタビーチが黄金色になるときそれは毎日訪れるはずの時間なのに、なぜか一度も同じに見えたことがない。午後の終わり、太陽がゆっくりと海に近づいてくると、クタビーチは突然、金色の記憶のような風景に変わる。光は波に砕けて、無数の線となり、それがまた砂の上に映っては、静かに溶けていく。どこかの誰かの笑い声が遠くで聞こえる。けれどこの光の中では、それすらも波音と同化してしまう。海が黄金に変わるのではない。わたしたちの目が、心が、この瞬間だけ何かを赦しはじめるのだ。濡れた砂の上に映る光は、かつて自分が見逃した何かをそっと照らしているようで、言葉にすることをためらわせる。何もしていないのに、何かを終えたような安堵感がある。クタビーチが黄金色になるとき、人は誰でも、すこしだけ詩人に近づく。それは旅の魔法ではなく、ただ「光を...クタビーチが黄金色になるとき文字数:1480

  • 空に描かれた一本の線──バリの凧 文字数:1408

    空に描かれた一本の線──バリの凧見上げた空に、それはいた。白と黒のボーダーを纏い、細く、長く、ただそこに漂っていた。風を受けて動いているはずなのに、どこか「静止したまま」のようにも見える。そういう存在感の凧だった。凧というのは、空を切り裂くものかと思っていた。勢いよく、風を捉えて、上へ上へと昇っていくもの。けれどこの凧は違った。空の中に一筆を引くように、ただ、優美にそこに“在る”というふるまいだった。白と黒。単純な配色が、空の青さを引き立てている。奇抜さではなく、品のある静けさ。それはどこか、バリ島の祭りに使われる正装布「ポレン・チェッカ」にも似ていて、祝祭と祈りのあいだにある美意識のように思えた。この凧を見上げながら、風とたわむれるというより、風に敬意を払っていた気がした。人の手が放ったものでありながら...空に描かれた一本の線──バリの凧文字数:1408

  • オレンジ色の瞬間──クタビーチにて

    オレンジ色の瞬間──クタビーチにてこの瞬間を撮らせてくれて、ありがとう。バリ島のクタビーチ。ただの観光地だと割り切っていた場所に、こんなにも深い光が沈んでいくとは、知らなかった。陽が落ちる直前の太陽は、まるで「今この場にいるすべての人に均等に光を渡したい」とでも言うように、優しく、厚く、そして惜しみなく照らしていた。パラソルの下では、カップルが会話を交わし、家族連れが静かに砂を感じ、ある男が、肩に食器を掲げて歩いてゆく。誰もが沈黙しているように見えるのに、それぞれの物語が確かに進行している。この写真には、一日の終わりに訪れる“共有された沈黙”が写っている。それは決して悲しみではなく、ただ「今日が終わる」ということの受け入れのような、やわらかい感情だった。夕陽はただ沈むだけではない。人々の影を長くし、時間の...オレンジ色の瞬間──クタビーチにて

  • 空を渡る4羽の影──サヌール湾にて 文字数:1416

    空を渡る4羽の影──サヌール湾にてグンカンドリの名を初めて知ったとき、その響きがどこか軍艦のようでおかしかった。けれどその名は、彼らの飛ぶ姿を一度でも見れば、すぐに腑に落ちる。鋭くのびた翼、空気を切るような軌道、そしてどこか誇り高いような孤高さ。あれはたしかに、空の艦隊だった。以前に見たのは1羽だった。朝の静かな時間に、ふらりと現れて、しばらく旋回して、また去っていった。それだけの出来事が、なぜか強く印象に残っていた。けれど昨日は違った。なんと4羽が、連れ立って現れたのだ。風を測るように、空をなぞるように、彼らは長くサヌール湾を回遊していた。ときに間隔を広げ、ときに重なるようにして、まるで風の譜面を読むように空を描いていた。ただそれだけのことが、一日の記憶の中心になった。大きな鳥が、悠々と飛ぶ姿には、人の...空を渡る4羽の影──サヌール湾にて文字数:1416

  • 何も起こらない風景が好きだ

    何も起こらない風景が好きだこの写真を見返すたび、なぜだか心がほどけていく。地味で、色もくすんでいて、まるで湿った午前中の記憶のようだ。それなのに、何かがひっそりとここに宿っている。蓮の花が一輪だけ、迷いなく咲いている。ほかの花はまだ蕾か、あるいは終わったあとのようで、水面には静けさが満ちている。風もなく、音もない。背景のヤシの森は、視線を受け止めるのではなく、こちらの気配に気づかないまま、存在している。そんな他人のような無関心が、かえってこちらを安らかにする。この写真には「出来事」が写っていない。でもそれが、今の自分にとってはありがたい。何も起こらない風景は、心にとって、何かを整えるための静かな部屋なのだ。必要以上に語らない風景。何も起こらない風景が好きだ

  • バリで決まってるラン

    バリで決まってるランバリ島の庭先には、ときおり妙に「決まっている」花がある。このランもそのひとつだ。細い茎が、まるで意志をもって空間を選び取るように伸び、その先に、いくつもの花が軽やかに揺れている。色は派手すぎず、構えもせず、ただ自然に「ここに咲くべきだった」という顔で佇んでいる。決まっている、と思う。いや、決まってしまっている。周囲の木々や風の流れ、光のかすかなにじみ──すべてのバランスの中に、この花は「置かれている」のではなく「登場している」のだ。こういうランは、なにかを語るわけではない。目立とうともしない。ただその場の調和に寄り添いながら、見られることを知っている。ランは、飾られるときよりも、こうして自然に「決まっている」瞬間がいちばん美しいのかもしれない。バリには、そのことを静かに教えてくれる風景...バリで決まってるラン

  • 白い鳥の沈黙──バリ島にて、ジャラッ・プティと出会う 文字数:1841

    白い鳥の沈黙──バリ島にて、ジャラッ・プティと出会うその鳥を初めて見たのは、ある静かな午後だった。バリ島の奥深く、苔むした囲いのなかに彼はいた。全身が白い。目のまわりと尾の先だけ、青く染まっていた。あまりに静かで、あまりに小さく、あまりに美しかった。私はしばらく、その場から動けなかった。ジャラッ・プティ。現地ではそう呼ばれているらしい。正式にはカンムリ・シロムク(BaliStarling)。バリ島にしか生息しない、世界で最も希少な鳥のひとつ。目の縁にだけ青をたたえたその姿は、まるで「見ることを許された精霊」のようだった。決して大声で鳴かず、ただそこに“在る”ということだけで、風景に意味を加えていた。鳥を見ているはずなのに、私は「静けさ」を見ていた。20センチほどの身体は、まるでこの島が長い時間をかけて育ん...白い鳥の沈黙──バリ島にて、ジャラッ・プティと出会う文字数:1841

  • モーツァルトの朝──8月11日、6時20分 文字数:1078

    モーツァルトの朝──8月11日、6時20分夜の帳がほどけていく。空に、最初の一筆が差し込まれる。淡く、ためらいがちに、けれど確かな意志で。この朝の空には、音がある。聴こえてくるのは、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲。たとえば第3番、第5番──そのどれでもよい。音は風に乗って、雲の色をすべらせていく。ピンクの旋律が、青の余韻の上を優しく舞う。木々は低音を響かせる通奏低音。空は独奏者。そのすべてがひとつの協奏になって、まだ誰も目覚めぬ世界をやわらかく起こしていく。これは偶然に出会えた協奏曲の、視覚による演奏だった。モーツァルトの朝──8月11日、6時20分文字数:1078

  • ワーグナーが鳴った空

    ワーグナーが鳴った空その瞬間、空がひとつの劇場になった。サヌールの空に、クタの方向から黄金の光が溢れ、重くうねる雲がゆっくりと舞台を変えてゆく。そのすべての動きに、あのワーグナーの序曲がぴたりと重なった。旋律は空を切り裂き、金管の高まりが雲の縁を照らし出す。弦はさざめくように風をなぞり、打楽器は遠雷のように胸の奥を震わせる。音は鳴っていなかった。けれど、空がそれを演奏していた。この日、この刻、この劇場でしか起こりえない、完璧な演出だった。ワーグナーが鳴った空

  • 兎が見えた夜 文字数:2650

    兎が見えた夜月を撮ろうとすると、いつも真っ白になる。見たままには、どうしてもならない。目には黄色く、兎が見えるのに、カメラはそれを知らない顔で、ただの白い光球を映し出す。けれどその夜、少し雲が流れた。薄くかかる雲が、光をやわらげてくれた。そしてそこに、兎がいた。雲は、月を撮るためにそこにいたのかもしれない。あるいは、兎の姿を見せるためだけに生まれてきたのかもしれない。人がどうにかしようとしてもできなかったものが、ふとした偶然によって叶えられる。自然がときおり見せてくれる、ささやかな奇跡。今夜の写真には、兎がいる。それだけで、満たされた気がする。兎が見えた夜文字数:2650

  • 「12月の花」から火焔樹へ──名前のなかの記憶 文字数:1498

    「12月の花」から火焔樹へ──名前のなかの記憶バリでの滞在を始めたころ、赤く咲き誇る大樹を見上げて「これは何の花か」と尋ねた。バリ人は少し考えてから、穏やかに言った。「12月の花だよ」なんと詩的な名だろうと思った。その言葉には、植物の分類や種名ではなく、季節の体感としての名付けがある。私はそれ以来、この赤い花を「12月の花」と心の中で呼び続けてきた。けれど昨日、プールサイドで偶然その正体を知った。「これは火焔樹だよ」と。ああ、知っている。名前だけはずっと昔から記憶にあった。物語のなかで、あるいは詩の行間で、その名は何度も現れていた。ただ、それがこの花だったとは知らなかった。私の中で、「火焔樹」はずっと抽象のままだったのだ。12月の花。火焔樹。名が違えば、記憶のかたちも違う。ひとつの木にふたつの名前があり、...「12月の花」から火焔樹へ──名前のなかの記憶文字数:1498

  • 残照の輪郭 文字数:942

    残照の輪郭日が沈みきったあとの空には、まだ、色が残っている。昼と夜のあいだに滞留する光、それを人は「残照」と呼ぶけれど、その名のとおり、何かが“残っている”気がする。輪郭を失いはじめた空に、大木たちは静かに浮かびあがる。風も、音も、言葉もないが、その黒いシルエットは何かを伝えようとしている。それは記憶かもしれないし、まだ語られていない物語の入り口かもしれない。けれど、それに近づくには、ただ、黙って、見るしかない。残照の輪郭文字数:942

  • 夜にだけ咲く香り──セダップ・マラムと朝の気配 文字数:1420 写真未完

    夜にだけ咲く香り──セダップ・マラムと朝の気配早朝、まだ空に光が満ちきらぬうちに目覚めて窓を開ける。空気はひんやりとしていて、そこに何かが混じっている。言葉にしにくい、でもたしかに感じる香り。柔らかく、淡く、どこか懐かしいような薫香が漂ってくる。花の匂いにちがいない。けれど、どの花かはわからない。その香りは、朝日が昇りきる前にふと消えてしまう。光が空を染めるころには、もはや空気はただの空気に戻っている。もしかすると、香りそのものが夜の間だけ放たれているのかもしれない。あるいは、人が活動を始めるとき、わたしの感覚がその微細な変化に気づかなくなるのかもしれない。香りが消えるのではなく、わたしがもう感じられなくなるだけ――そんな気さえする。バリではときおり「セダップ・マラム」と呼ばれる白い花を買ってテーブルに挿...夜にだけ咲く香り──セダップ・マラムと朝の気配文字数:1420写真未完

  • 曇天のあとに笑う空──バリ、11月の帳尻 文字数:1175

    曇天のあとに笑う空──バリ、11月の帳尻2013年11月27日。バリの空は朝から重かった。湿気を含んだ雲が垂れこめ、まるで日本の梅雨が南国に迷い込んだような一日だった。外に出る気にもなれず、薄暗い部屋でぼんやりと時間が過ぎていく。バリにもこんな日があるのだ。晴れ渡る空ばかりがこの島の顔じゃない。けれど、ずっとこの空のまま終わるのか――と、ふと窓の外に目をやったとき、それは起こっていた。空がいきなり、機嫌を直した。分厚い雲の向こうから、火を灯したような夕焼けが現れた。オレンジとピンクが、灰色の空を内側から焦がしてゆく。沈む太陽の気まぐれに、空が思い出したように笑いだしたのだ。この夕焼けは、一日じゅう感じていた不快感を一瞬で打ち消すようにして、美しかった。まるで「今日も悪くなかっただろう?」と空が肩を叩いてく...曇天のあとに笑う空──バリ、11月の帳尻文字数:1175

  • 車の「後ろ姿」文字数:3127

    バリ島を旅していて、私が好きなのは車の「後ろ姿」だ。道路の脇に咲くプルメリアも、海に沈む夕陽も、それはそれで美しい。けれどバリの道路を面白くしているのは、走る車たちの「お尻」に貼られた言葉たちである。たとえばこの一台。観光バスの名は《Die9.Symphonie》。そう、あの「第九交響曲」である。ドイツ語のまま。もう堂々と、間違いようのないクラシック。「なぜバリ島の観光バスがベートーヴェン第九なのか?」と問うこと自体が野暮だろう。たぶん名付けた人は、かつて「歓喜の歌」に人生の何かを重ねたのだ。あるいは、高尚な響きにうっとりしていただけかもしれない。だがその背後に張られた「Mercedes-Benz」のエンブレムと、「adiputro」という車体メーカーのロゴが並ぶ姿は、どこかシュールで、神々の島における音...車の「後ろ姿」文字数:3127

  • 白昼の月──バリにて 文字数:717

    白昼の月──バリにて午後1時半。太陽は中天を過ぎ、空は青さを深めていた。その青のただなかに、気づかれまいとするかのように、月がひっそりと浮かんでいた。白雲に身を紛らせ、声もなく。日本で見たことのある月とは、何かがちがっていた。それは旅の空にだけあらわれる、記憶と呼べぬほどの感情の、輪郭だった。白昼の月──バリにて文字数:717

  • 一瞬の美しさ 文字数:601

    一瞬の美しさ日が沈むというより、空が静かに色を変えるだけの日だった。屋根と木々が黙って見守るなか、空は、誰にも気づかれないほど優しく染まっていく。時計の針とは別の速度で流れる時間のなかに、美しさは、ほんの一瞬だけとどまった。それに気づける人だけが、きっと何かを受け取っている。一瞬の美しさ文字数:601

  • アグンに沈む──父と息子の時間 文字数:719

    アグンに沈む──父と息子の時間言葉は交わされていなかった。ただ、三つの背中が並び、アグン山にゆっくりと視線を注いでいた。夕なずむ空の下で、山は沈黙のまま、彼らを包みこんでいた。父の背中を真似るように、小さな肩が海を見ていた。その瞬間、山は、何かを伝えていた気がする。遠く声にはならないものを、たしかに。アグンに沈む──父と息子の時間文字数:719

  • ロンボク遠く、秋のかけら──乾季の朝に 文字数:609

    ロンボク遠く、秋のかけら──乾季の朝に夜の名残をわずかに抱きながら、朝が静かに森の向こうから立ち上がる。バリにはないはずの秋の気配が、高い雲に滲んでいた。黄金色に染まる水平線の、その先に、ロンボクの島影がかすかに揺れている。それは、遠くの季節がほんのひととき差し込んだ光だったのかもしれない。ロンボク遠く、秋のかけら──乾季の朝に文字数:609

  • 沈んだあとに──クタの青の記憶 文字数:487

    沈んだあとに──クタの青の記憶沈む太陽を見逃した代わりに、そのあとに残る静かな青を見つけた。街の灯が海面に滲み、砂は空を映す鏡になる。日が沈んだあとの海こそ、言葉を持たない祈りのように美しい。沈んだあとに──クタの青の記憶文字数:487

  • 鳥の眠る椰子──バリ、夕刻の習わし 文字数:731

    鳥の眠る椰子──バリ、夕刻の習わし夕暮れが近づくと、椰子の影に鳥たちが波のように押し寄せる。群れは静かに増殖し、まるで空が黒く染まってゆくようだ。音に驚いて舞い上がり、またすぐに舞い戻る。同じ行動をするということ、それがこの小さき者たちの、夜を生きのびる術。やがて静寂が下りてくる。数千の羽音が消え、椰子の葉陰に眠りが根をおろす。鳥の眠る椰子──バリ、夕刻の習わし文字数:731

  • 偶然の羽音──サヌールの朝に 文字数:571

    偶然の羽音──サヌールの朝に目覚めとともに、窓辺に見知らぬ気配。鶯色の、森の奥から来たかのような鳥。透明なアクリルに気づかず、空を信じて羽ばたく。世間を知らぬその無垢さに、手のひらでそっと包んだ羽は、まだあたたかい。もう一羽、スズメが冷蔵庫の後ろから。こんな偶然が重なることもあるのか。一日が始まる前に、小さな命が、部屋を通り過ぎていった。偶然の羽音──サヌールの朝に文字数:571

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