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2022/08/03

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  • 感情…それが文芸である

    私達の心には…襞(ひだ)…がある。その襞に多くの物がひっかかる。その時の感触を、私達は…感情…と呼んでいるのではないかとも私は思う。物事に共感するとそれそのものが自分自身の経験と重ね合わさる。そのことによって初めて生まれる感情…それが文芸である。あらゆる文芸の中で最も強く端的に表に出てくるのが短詩系である。その短詩系の中において緊張感を伴うのが俳句である。この5・7・5の定型では無駄な言葉は許されない。ここには臨場感や緊迫感がこめられていなければ読者の心を呼び込むことは出来ないのだ。心の襞に物事が触れた瞬間の新鮮な感動。それが俳句の最も大切な瞬間なのである。多くの俳人は物事に感動する心を忘れている。感動するって…どんなことなのか?日々の生活や日常の出来事にどれだけの感動を覚えることがあるのだろうか。考えて...感情…それが文芸である

  • 感動は『ああ』という叫びである

    山口誓子は「俳句・その作り方」において書いている。「感動が先立たねばならぬ。感動は『ああ』という叫びである。事物と出会って、思わず『ああ』と叫ぶその叫びから、俳句は生まれる。俳句の感動は事物の上にではなく、事物と事物との結合の上に成立する」。ここには『感動』がなければいくら上手い結合がなされていても、それは報告にすぎない。『寄物』の心がなされていても『感動』の心が伝わらなければ俳句作品にはならない。それゆえに『寄物陳思』を誓子は諭している。私達は日々の多忙に追い回されて、物事に接し、物事を心に取り入れていても殆ど感動すと言う心にはなっていないのが現状ではないかとも私は思っている。よく俳句が作れない、と言う言葉を聞く。それは物事に感動することが出来なくなっている事を作者自身が心得ていないからだろうと私には思...感動は『ああ』という叫びである

  • 俳句における潜在意識とは

    心の準備と言えば、目視に際し潜在意識を発見することかもしれないと思うことが私にはある。目視とは作者の目に最初に飛び込んでくる事柄でもあるが、作者にとっては一番に興味をひくことでもある。何故興味を引くのか。その事柄は作者の体験したことや出会ったことである。ふとしたことでそれらを思い出す。新しい体験ではなく作者の思い出の中にあるもの…それを潜在意識と言う。炎天を槍のごとくに涼気すぐ飯田蛇笏第八句集「家郷の霧」より。この句は昭和29年69歳の時の句である。蛇笏は飯田龍太のお父さん。「雲母」の初代主宰者。私がこの句を知ったのは高校時代でまだ伝統俳句の全盛期であった。何が私の心に飛び込んできたのかと言えば、「槍のごとくに涼気」の比喩であった。この比喩は作者の体験に基づくもので、そこに住みつき日々体に染みついたもの。...俳句における潜在意識とは

  • 潜在意識を顕在意識に変革させた俳人…

    実感の重みと言えば、そこには必ずと言っていいほど潜在意識を内包している作者の意志が色濃くある。その潜在意識を顕在意識に変革させたのが次の句である。あやとりのエッフエル塔も冬に入る有馬朗人俳句総合誌「俳壇」2005年8月号より。作者は「天為」主宰者。元東京大学総長、元文部大臣。ここにある作者の抒情は句の発想においての思考の中に顕在意識→連想→潜在意識の心の流れがとても強くある。作者の見えている光景を、ただ単に見ているだけなれば、何の感情などは発生しないのだが、作者が興味をもつに至った見えている光景には感情が生まれる。このとき作者の心には潜在意識があっての興味が生まれる。この句の場合には「あやとり」の目視より「エッフエル塔」の発想がなされている。「あやとり」の動作により出来上がるまでの過程の中に、幼い頃お母さ...潜在意識を顕在意識に変革させた俳人…

  • 俳句の感情表現とは

    普段の日常生活の慣らされた習慣の中で物事をよく見届けるのは、よほど心の中を純白していなけば見えてはこない。物事は心には飛び込んではこないもの。俳句の感情表現は心が無で白くなけれは、本心は表には出てきにくいもの。それらは直情表現になり、全ては説明言葉になる。俳人個々の信条は私言葉になり、真実感がない作り言葉になる。内心が無色透明だからこそ、すべてを目にする俳人の心に受け入れられるのである。俳句言葉は作者自身の存在感を正面で受け止めた瞬間の純粋感である。ここには感覚としての無色透明な気持ちを感じさせてもくれる。だが、疲れた心を真っ白の心へと変革する過程で心を磨き損ねると作者自身、自分自身を見失ってしまうこともある事を考えねばならない。自分自身が純白へと抜けきれないで命を絶った俳人もいることを私は思い出していた...俳句の感情表現とは

  • 心を無色透明にしておかねばならない…俳句の心

    俳句は無心の心の在りようが作者本人に宿っていなければ、一句の受け入れは出来てはいなかったのではないかと何時も私はこれまで思ってきた。私自身の心を無色透明にしておかねばならないことは、1970年当時の時代性にあった。感情表現をする時、如何に心を無にしていることが、目視に際し大事であるかを当時の事として知る。無心の心でなければ、周辺の物事を目視しても何も感じないのである。心が汚れていれば何も感じなくなる。目視しても何も心には入ってこないのである。私の記憶に強烈に残る一句がある。空賊遠く鏡中泳ぐ平和な髪児島庸晃私の句集『風のあり』より、1970年頃だったか。よど号ハイジャック事件が起こった。その背景にあったのが魔女重信房子の存在だった。その事件をラジオの臨時ニュースで聞く。その時の句である。この時代は若者の自殺...心を無色透明にしておかねばならない…俳句の心

  • 俳句には二つの『何故』がある

    それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある。上記の言葉は「青玄」主宰、伊丹三樹彦が私に語った言葉である。この言葉は私が社会へ飛び出した20代前期の頃である。現実社会の中で、その現実についてゆけず悩んでいた趣旨の句に対しての時の文言であった。それぞれの俳句に含まれる『何故』とは何なのか。どうして「何故」が『何故』を生むのか。白寿を前にして亡くなった伊丹三樹彦が残してくれた文言に改めて深い重さを受け取っているのである。そこで俳句における『何故』を考察検証しようと思った。本来の「何故」は物事に対して疑問を感じたときに思う謎ときの言葉なのである。そしてもうひとつの『何故』はその疑問が解けたとき、納得できたときの回答のことばなのである。17音律の一句の中には常に「何故」と『何故』を表現する二つの俳句言...俳句には二つの『何故』がある

  • 俳句表現の話し言葉と書き言葉

    昭和三五年頃のことである。俳句の散文化現象である。この頃は俳句の勃興期であり、また乱立の時期でもあった。有季・無季。超季・自由律・多行形式(三行書き)とその表現においても乱立の時期である。この頃俳句を日常の感覚、感情で受け取り、その緊張感をそのまま俳句の中へ導入しようと立ち上がる俳人がいた。俳句を日常の話し言葉として捉えその緊張感の重さをもって一句としたのである。当時この俳句手法は散文の一部のように思われ歓迎されなかった。だが当時の若者には、この感情の緊張感は受け入れられる。若者には俳句の良さが浸透されてゆく。このように俳句が現代化されてゆく。自らを俳句現代派と称した。この現象は関西俳壇からであった。その存在を強烈にアピールする俳人がいた。伊丹三樹彦である。ひとりぼっちの泊灯ね寒いわお父さん伊丹三樹彦この...俳句表現の話し言葉と書き言葉

  • ヌーベルバーグ時代の俳句…ふたたび(再掲載)

    目視して物を受け取る時、その感覚は意味で受け取っているのではなかろうか、と思う時がある。それらは頭で判断していると思われているのだろうか。だが、実際は情感で物を見ているのである。俳句が意味の句の表現になってしまうのは、その意味が頭の中に残ってしまっているからである。俳句は情感の支えがしっかりしていなければ、ただの言葉でしかなくなる。俳句は意味で作ってはならないのである。俳句が説明になってしまう理由でもある。私の二〇代初めの頃、映画の世界にヌーベルバーグ(新しい波)と言う新しい表現の実感直感のフランス映画が、日本の若者の心を捉えていた。その代表的映画は、「勝手にしやがれ」。ジャン=リュック・ゴダール監督。ジャン=ポール・ベルモンド主演。その映画とは町の中をただひたすらに歩いて行くだけのもの。ベルモンド主演の...ヌーベルバーグ時代の俳句…ふたたび(再掲載)

  • 俳人は一体何のために俳句を作っているのか

    昭和の句も、昭和後期に入ると、目視の心はより深く象徴的に物事を静かに鎮静させて、読者の想像を期待しているかの表現に変革する。物音は一個にひとつ秋はじめ藤田湘子句集「一個」昭和59年より。「秋はじめ」の素直な心の在りようをそのまま俳句言葉にしているのであるが、ここには偽りのない寂しさが私には迫るように心を動かせて強く響いてくるのである。その具体的事実は「物音は一個にひとつ」の言葉より理解出来た。作者は「物音」に耳を傾けて聞いているのだが、ここにも作者の真剣な心の動作の本物感がある。それは俳句言葉「一個にひとつ」なのである。つまり一個一個の動くときに発生する音を克明に心で記述しているのであろう。これから到来する秋の一抹の寂しさを物音より感じ受け取っているのです。この表現に…人間の心を感じる言葉…が強く存在。そ...俳人は一体何のために俳句を作っているのか

  • 俳句の一句が成立するまでの過程とは…再掲載

    最近になってのことだが良い句には、作者独自の思考の形があるのではないかと思うことが私には多くなってきた。そのように思うようになった根拠には、人間本来の底に棲みついている、潜在意識としての姿が心にあってその一つ一つが感情をコントロールしているのではないかと私は思う。その感情が、普段は隠され目には見えてはいないのではないかと。その心を呼び起こす行動・動作が顕在意識によって目覚め、それらの具体的な「物」が目視することにより眼前に見えてくるのだろう。その「物」の引き出しは連想を重ねて広がるのではないのか。…私なりの理論である。つまり一句が完成するには顕在意識↓連想↓潜在意識を経ているのではないかと。良い句だと思える俳句に巡り合えた瞬間の感想は顕在意識↓連想↓潜在意識を経ていることだったのではないのかとの検証を得た...俳句の一句が成立するまでの過程とは…再掲載

  • 俳句における感情とは

    私達の心には…襞(ひだ)…がある。その襞に多くの物がひっかかる。その時の感触を、私達は…感情…と呼んでいるのではないかとも私は思う。物事に共感するとそれそのものが自分自身の経験と重ね合わさる。そのことによって初めて生まれる感情…それが文芸である。藁塚に一つの強き棒さされ平原静塔総合俳句誌「俳壇」2005年8月号、時代をとらえた俳句表現特集より。作者は和歌山県出身の精神科医。その評論の中で「俳人格」を述べた俳人でもある。この句、作者は何に感動したのであろうか。実にその感動は単純である。「強き棒」の俳句言葉である。作者の心の状態が素直である。この素直な状態を成していられるのは、作者自身が純粋であるから…。この純粋になりきれているからこそ物事がよく見える。俳句の中に強く「人間性」をこめての心の在りようが「強き棒...俳句における感情とは

  • 俳句におけるパーパスとは…(再掲載)

    最近になって世の中を賑やかにする言葉がある。その言葉に私は緊張した。パーパス(存在意義)と呼ばれる言葉である。もともとは企業の人々によって生み出された言葉なのだが、大変重要なことである。その企業の存在理由を明示して社員の存在する理由を問うものであった。その社員の価値感として働く意欲を盛りあげるものでもあった。「何のために、我社は存在するのか」という問いの答えが、パーパスなのである。それでは私達文芸人は、このパーパスをどのようにとらえればいいのか、と思考する私の存在があった。何のために俳句を作っているのだろうかであると私は考える。それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある。上記の言葉は「青玄」主宰、伊丹三樹彦が私に語った言葉である。この言葉は私が社会へ飛び出した20代前期の頃である。現実社会の...俳句におけるパーパスとは…(再掲載)

  • 俳句は発想力

    その感性は一句の出来具合を決めることにもなる。…それが想像力なのである。それにはアイデアの施しがいる。号令が解除されない蟻の烈堀節誉「歯車」389号より。この句には発想力の転換がある。目視力の素晴らしさも際立っているのだが、その基本になっているのが発想力である。この句での思いつきは普通の目視ではなく、作者独自の心の転換がなされている。「蟻の烈」の目視での発想が「号令」をかけられ直進しているのだろうと思う作者の目視がある。これは「蟻の烈」より「号令」へと連想を呼び起こしているのである。これが作者のアイデアなのである。そしてそれは「解除されない」ままの「号令」なのだろうと、発想の転換がされている。こういう発想の変革は、数多いる俳人の中においてもされてはいない。新しい発想の魅力は読者の想像を広げて心へ染み入る。...俳句は発想力

  • 俳句の本物とは「私」の生き方

    俳句には思想が込められていて、そこには個々人の生き方が存在する。若者はその生き方の良い部分を個人に引き付けて取り入れるもの。かっての「青玄」青春俳句が…そうであった。この若者たちの根底には個々人の若者の生き方の主張があったのだ。次のそれぞれの句を見ていただきたい。戦争ははじまりませんよ手籠にねぎ中永公子ラ・タラッと階段雪の青年待ってます坂口芙民子唇吸われるも孤独石階の白い傾斜山下幸美嫉妬が黙らすコーヒーカップの底の白諧弘子恋ふたつレモンはうまく切れません松本恭子春の宵は黒いビロード母と腕組む穂積隆文朝は思考研ぎにだ便器に座りに行く児島庸晃(照夫)これらの俳句には時代を背負った思想が力強くある。ここには日々を生きる生き抜くための時代の感覚が鋭く発信されていた。まだこの頃は(昭和40年前後)俳句には自然諷詠が...俳句の本物とは「私」の生き方

  • 言葉が機能化していなければ俳句ではない

    俳句の発想において実感の強い句は、その句自身が説明言葉のように思われてしまうが、そうではない句もある。月光にいのち死にゆくひとゝ寝る橋本多佳子句集「海燕」(昭和15年)この句は実感そのものが読者の感情をピークへ導くように作られた俳句である。何よりも句における作者のいま居る位置がはっきりと確認できることがこの句のポイント。言葉が説明言葉にはならなかった。作者がどの位置にいて、何にポイントを置いているのかは「死にゆくひとゝ寝る」の俳句言葉で表現されているので、いまそこにあることを作者は目でしっかりと見ている。ここには作者の思いは言葉としてはないが、情感は読者に繋がる。表現された言葉は機能していると言える。言葉の機能化は説明言葉にならないことだが、この句には真実感・緊張感がある。発想とは新しい思考にもとずくもの...言葉が機能化していなければ俳句ではない

  • 一般大衆の哀歓を昭和ロマンにした俳人下村槐太

    昭和は言葉の引き出しをいっぱい保持出来た時代であった。それだけに人間の心が豊かな時代であったと言えるのだろう。精神的なものが取り残され物質だけが進んだ歪んだ日本の姿。世の中に批判的な心をもって生活している人には生きるのが大変な思いをする。アウトサイダーな人間をつくっていく時代。それが今の日本の姿である。そして平成の俳句も…。昭和の俳人は心の何処かに、すこしでも持つ事の出来る楽しみを託した夢を魔法にしていたのかもしれない。昭和は未来へ向かって俳句を革新させる俳人たちでいっぱいだった。ここには生活に魔法をかける言葉で溢れていたのだ。そのずーっと昔に大正ロマンがあったように、昭和にも、それに匹敵するロマンがあった。時代は戦争と言う、とてつもない暗いイメージが思い出されるが、人の心は夢を求めて生活をしていた。私は...一般大衆の哀歓を昭和ロマンにした俳人下村槐太

  • 俳句における助詞の使い方

    助詞の中でも、いろんな要素の多い使い方をされて複雑なのが、副助詞である。代表的なものには「は、こそ、も、さえ」。普段は見慣れているのだが、俳句としてのこれらの言語は実際の場合は使うのが難しい。使い方や使う場所を誤ると単なる散文になってしまう。それはあまりにも日常語であるから…。そのような中にありながらも私の脳中に眠り続けている句がある。お訣れは夜行バスにて参ります勝又千惠子句集『夜行バス』より。句集名にもなっている俳句である。「歯車」の代表として大変な苦労をされた鈴木石夫先生の、その死去に際しての心溢れる気持ちの句である。この句の副助詞は「お訣れは」の「…は…」である。ここでのこの「…は…」は強調の心を込める気持ちとして使われている。本来は「…は…」には三つ使い方がある。他と区別する意味、繰り返しの意味、...俳句における助詞の使い方

  • 助詞は言葉に意味を肉付けする言語である

    助詞は言葉に意味を肉付けする言語である。格助詞・接続助詞・副助詞・終助詞とその使用する場所によって使い分けられる。その中で最も沢山使用されているのが格助詞。天界への各停羊雲の駅魚川圭子合同句集『阪神心景』より。この句の格助詞は「へ」。ここでの「へ」は連用修飾語であり、「へ」の後にくる言葉につながり、そのつながった言語を強調している。この句の場合は「各停」です。つまり作者の主張したい意味がここに置かれていることが読者には理解できる。俳句言葉「天界」は「へ」の使用にて「各停」を修飾していることになる。俳句そのものが説明言葉にはなってはいない。大切な作者の意思としての意味を含んでいるのです。充分な想像がイマージュできて印象が心に残る。目視で得られた俳句言葉「羊雲の駅」の感覚受け取りが無理なく心を擽る詩情へと真実...助詞は言葉に意味を肉付けする言語である

  • 現代語使用の工夫に新鮮な文体を見せた句…伊丹公子

    JR神戸線を走り更に西へ眼を向けていると海峡が。明石海峡である。明石大橋の下を大型の船舶が通過してゆく。ここは軍艦が行き来していた終戦までの海上があったのだと思う時、ある日の伊丹公子の姿を思い出していた。火のついた受話器軍艦が見える部屋公子処女句集「メキシコ貝」より。1993年9月10日、牧羊社より発行されたこの句集は俳句界にあっては画期的な出来事であった。何よりも感覚が従来の俳句感では到底表現出来得ない内容をもっていて、しかも詩情の深い内容が現実と絡みあった真実によるもので決して作り物ではない本物俳句であった点において他を許さなかったものでした。この頃関西からは前衛俳句の兆候が現れ始めていたころでした。女性俳句といえば八木三日女さん率いる「花」の全盛期であったように思います。ちなみにその作品「満開の森の...現代語使用の工夫に新鮮な文体を見せた句…伊丹公子

  • 俳句は感覚で理解する

    思考をどのようにして察知すのかと思うのだが、それは感覚である。人間には五感があるのだ。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。そのうち俳句は視覚の部分が殆んどである。これらの部分より、俳句は感覚で理解するのである。青空に茫々と茫々とわが枯木金子兜太『現代俳句年鑑』二〇一七年版より。この句の俳句言葉の素晴らしさは「茫々と」。しかも二回使ってのリフレインである。日常でありながら、作者は日常の風景としては受け取ってはいない。日常の風景を作者自身の心象風景として感受。つまり、俳句言葉としての「茫々と」なのである。そこにはぼんやりとしてはっきりすっきり見えてはいない現実の景色なのだが、俳句言葉となると「茫々と」なのだ。このように感受することが俳句言葉なのである。ここには作者ならではの感覚があり、この身に迫ってくる厳しい寂しさ...俳句は感覚で理解する

  • 「事」俳句の正当性を示す俳人…坪内稔典

    「事」俳句とは。聞きなれない言葉かもしれない言葉。文章表現には「正述心緒」と言う方法がある。この「正述心緒」と言うのは俳句では誰も試みてはいないし斬新な短詩形の道であった。つまり、景物を媒介せず、心を直接表したものであり、作者の心の中で演出、演技されていたのだ。それが「事」俳句であった。前衛俳人阿部完市以後、多くの俳人が「正述心緒」の方向へ心を切り替えてゆく。「事」俳句の正当性を示し堂々と俳壇の王道を歩み始めるのである。その中から忽然と次の句が俳壇を賑やかにし騒がしく君臨する。三月の甘納豆のうふふふふ坪内稔典この作品、私は作者とは「青玄」時代を共にしてきただけに凄い変貌ぶりには吃驚。もともと俳句よりも愛媛県川之石高校時代は現代詩の優秀な詩人であったので、ここに表現されている一行詩的発想は理解出来ていた。こ...「事」俳句の正当性を示す俳人…坪内稔典

  • 俳句を作るのに実感は共通の認識

    俳句を作るのに実感が、どれほど大切であるのかはそれぞれの俳人の共通の認識であることは承知の事実である。しかしこの実感がなされるのにテクニックは必要としないことはあまり知られてはいない。何故ならば作者自身が受け取った感覚は素直な作者自身の情感だからである。へんな技巧を労すると実感そのものが壊れてしまい出来上がった句そのものに情感が残らないからである。そこには素直な俳句言葉がなくなっているのである。次の句を見てもらいたい。父と母正座していた敗戦日広瀬孝子「歯車」342号より。この句のどこを見ても技巧らしき工夫はない。だが作者の受け取った実感は、読者に充分に伝達されている。それも目に見えるようにその時の表情まで実感出来ている。その心を象徴する俳句言葉が実感の強さまで伴ってあり、それゆえの作者の心情まで理解出来る...俳句を作るのに実感は共通の認識

  • モンタージュ理論俳句とは

    このモンタージュ理論なるものは無声映画の時代にロシアで起こった映画表現理論だった。「戦艦ポチョムキン」の中で使用された編集理論なのである。1925年に製作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画。映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインに代表されるヨーロッパ型のモンタージュの中での理論。その映画シーンとは。乳母車が石段を下る場面で、その表現において、乳母車・石段・乳児と交互にスクリーン一杯にカットバックでだぶらせてゆく手法。これをモンタージュ編集とも言うのである。このそれぞれの大写しの表情が重なって緊張感の重みを目いっぱいだすものだった。ずーと後になって日仏合作映画、アラン・レネ監督「ひろしまわが恋」にも使われていた。原爆投下の広島の街の景色に、愛し合うふたりの身体がオーバーラップで重なってゆくモンタージュ編...モンタージュ理論俳句とは

  • 俳句を書き続けていることの大切さ

    そういえば俳句を長く書き続けていることの大切さと言えば、何だろうと思っていると以前に感銘を頂いた句を思い出していた。私の頭の中にまだ残っていた。草笛を吹いている間は大丈夫高橋悦子第9回現代俳句協会年度作品賞「シュトラウス晴れ」より。この句は口語発想の形式なのだが、日常語使用の口語体でのものではない。それは心の取り入れが散文化されてはいないからだろう。その根拠は、日常生活意識ではない行動に伴って表れる感情の変化が普段の行いとは異なったものとして発想されているからである。分かり易い表現をすれば心が浄化されているからなのである。その俳句言葉とは「吹いている間」。この俳句言葉は作者自身が自分自身へ向かって確認して心を浄化させている言葉なのである。ここには人間としてのあるべき生活意識態度が汚れてはいないこと、そのこ...俳句を書き続けていることの大切さ

  • 真面目に生きている自己を正す俳句言葉

    俳句の純粋性が俳句を長く作り続けてゆくことに如何に大切であるかを思わせてくれる。…だが自分自身を俳人の心として保持してゆくことの難しさは、作者本人が一番よく知っている。大変なことことなのだ。人間に生まれたことを花に告ぐ和田悟朗句集『人間率』(平成17年8月)より。この句は作者自身が自分自身に向かって素直になれる心の程を句に作したのだと私は思った。いろんな場でいろんな句を求めてきた過去に戻してもこれ程率直に自分の真心を正直に見つめた俳句を私は読んだ事はない。これぞ人間の純粋性を「花に告ぐ」だったのだ。作者本人の何時もの詩精神の発露であったのだろう。そして「花に告ぐ」の言葉はソロピース(個体)言葉へと発展する過程での自分自身の苦しみを抜けきった状態でもあったのだろう。人間本人に生まれたことへの感謝の気持ちであ...真面目に生きている自己を正す俳句言葉

  • 現実共生社会の中での心の回復…俳句は

    俳句的思考は人生共生の中で如何に生きて行ったのかを見事に実証したのが次の句である。社会生活で疲れ果て、そのことが故に生存意識への生き様を魅せる。コスモスに青空帰郷のシャッポ脱ぐ伊丹三樹彦「関西俳誌連盟年刊句集」平成元年版より。作者の故郷は兵庫県三木市。幼少時を過ごした三木市は神戸市より北へ延びるローカル線神戸電鉄が走る。電鉄三木駅で下車、今も自然の残る長閑な緑が広がる町。そこには「コスモス」畑が自然を豊かに魅せて広がる。青年時代を神戸市で仕事に専念、その後俳句界の大改革へと率先して立ち上がる。その時の伝統派俳人との強烈な抵抗阻止に耐えた俳人としての心の苦しさは如何ほどのものであったのだろう。この気持ちを察するに、「帰郷のシャッポ脱ぐ」の俳句詩語は共生の意識より自力してゆく心の浄化であり、人間再生の仕草、ま...現実共生社会の中での心の回復…俳句は

  • 俳句は一過性の共鳴であってはならない

    そもそもキャッチコピーは文芸とは何の関りもないものだった。広告の世界のことで人の気持ちを心のままに伝え、多くの大衆の心を引き込むことなのである。相手に届けたいメッセージを凝縮した言葉がキャッチコピーなのである。俳句言葉と通じ合うのは相手に届けたいメッセージの凝縮言葉だからなのであろう。だが、俳句との基本的に相違しているのは、キャッチコピーには真実感が薄くて本物の心が感じられず薄っぺらさが、言葉そのものの緊張感を弱めてしまうのである。キャッチコピー言葉には思いつきの部分から言葉を深めているので、それ以上の人の心を深めて入ってはこない。人の心への入り口で言葉の重みが止まってしまう。そのように思っても何故、句会での最高点句になるのだろう。それは一瞬の言葉の閃きにあり、強烈に目立つ言葉を俳句の中心に置き心憎い程に...俳句は一過性の共鳴であってはならない

  • わが思い出の神戸…北野坂(再掲載)

    この文書は読者の要望があり再び掲載します。神戸は坂の街である。元町より下山手通り、中山手通り、山本通りを斜めに横切るとこのあたりより坂の道に出る。更に先へと坂を上ると北野町に出る。洋風建築のテラスがまぶしく輝く。風見鶏のある館が目に届く。かって私はここへ何回も鬱を棄てに来た。はるかぜにとびのる構え風見鶏庸晃人間関係に疲れ果て現実の社会にもついて行けず、身も心もボロボロになったとき一人きりの時間を求めて佇んでいた。20代後半の青春期をこの坂道を歩くことによって心を癒していたのだった。この思い出の坂道を今ゆっくりと上り、眼前の海原を見ている。今しがたまで覆われていた霧はいつか姿を消していた。青い海が、そして坂の上に暖かくある春林が私をかっての青春へと誘う。死んでもいいなど云い合う霧笛のおおんおん芙民子坂口芙民...わが思い出の神戸…北野坂(再掲載)

  • 俳句結社「青玄」青春俳句をふりかえって

    俳句には思想が込められていて、そこには個々人の生き方が存在する。若者はその生き方の良い部分を個人に引き付けて取り入れるもの。かっての「青玄」青春俳句が…そうであった。昭和43年4月28日。全国から若者が京都に集結された。新人サークルの全国大会であった。当時の国鉄京都駅前には胸にプラカードをつけた俳句集団が闊歩し、道行く人の目を驚かせた。胸にまといついた俳句スローガンを世間へ見せつけたのだ。「俳句現代派・青玄」2メートル程もある横断幕に書き込まれた言葉に、道行く人は唖然とした。「今日までの俳句を古流と呼ぶ」…横断幕に書かれたスローガンは道行く人を吃驚させた。若者の胸より吊るされたゼッケンの言葉はその大半は伊丹三樹彦の青玄前記である。当時の国鉄京都駅前でのビラ配りを若者は必死で行なった。これまで俳句を市民に直...俳句結社「青玄」青春俳句をふりかえって

  • 固定観念もしくは固定概念を棄てる俳句の法則

    アイデアの施しが一句の成否を遂げるのに、どれほど重要であるかを考える時、ここに大切な基本があるのではないかと私が思い出してから、やっとその思考判断が出来る事柄が解ってきた。私たち俳人はずーっとこれまでの過去の引例に拘り過ぎていたのではないかと私自身も思ってきた、やはり過去の俳句作品に私自身も拘り過ぎていたようにも思う。…固定観念を棄てること。そして、一句の中に異質のものを施すこと、異質のものを組合すことが、想像力におけるアイデアを生み出す基準ではないかと思うようになった。今までに例を見ない俳句作品を作る術のように思えてきたのである。ではどうして固定観念もしくは固定概念を棄てるのかなのである。その方法として…連想…の意識を強めること。物には既に決まった意味なり意識がある。これらの持つ価値観を…連想…により別...固定観念もしくは固定概念を棄てる俳句の法則

  • 俳句には表言葉と、裏言葉があ…俳人宮川三保子

    句集「黄砂」拝受。ありがたく感謝の気持ちをこめて読ませて頂きました。一句集にするまでの、纏め上げる苦心、苦労の果てに出来上がったであろう一冊を思うと、私の心も緊張してしまいました。何よりもその一句一句は三保子さんの心を存分に尽くした句であろうと私は思って、できるだけ丁寧に読みたいと思ってしまったからです。「私」の存在の必要性が、一句の中に色濃く滲み出ている詩情をとても強く感じました。詩情といっても、実に具体的に、克明に表現されていて、それぞれが三保子さんそのもの姿として一句一句の中に表示されているのではないかと…。次の句にはそのことがよくわかりました。花合歓やわが魂を提げておく宮川三保子身の内の芯までゆるむ春の雨宮川三保子この二句には観念語は含まれていませんよね。物事を受け止めるのに観念で進めてはいません...俳句には表言葉と、裏言葉があ…俳人宮川三保子

  • 老いを見つめ続ける桂信子の一句

    常に死を見つめ、生を見つめ、老いを見つめ続ける桂信子の生前の一句。水に浮く蛾が生きていて西日さす桂信子句集「新緑」の中の句である。主宰誌「草苑」、昭和45年作である。ここには心情を素直に表出する信子がいる。見つめている対象を自分自身に引き付け、引き寄せ、身体に取り入れくぐらせる信子がいる。これほど全てを純粋に見つめる信子とは…当時私は何時も句会で見ていた信子像とはすこし違うものをこの句から感じていたのだ。細かい神経を句座においても使い頭を深々と下げて室内に入ってくる姿には謙虚な必然を感じていた。だがこの句は信子自身の身体を潜り抜けてしまった後には非情なまで突き離して見つめる信子に変身しているのではないかと思った記憶である。このことは「草苑」第11号(昭和46年1月号)の自解にも伺えるのだが、「過去・未来」...老いを見つめ続ける桂信子の一句

  • 「何故」が『何故』を生む

    それぞれの俳句に含まれる『何故』とは何なのか。どうして「何故」が『何故』を生むのか。伊丹三樹彦が白寿を前にして亡くなり、三樹彦が残してくれた文言に改めて深い重さを受け取っているのである。そこで、今回は俳句における『何故』を考察検証しようと思った。本来の「何故」は物事に対して疑問を感じたときに思う謎ときの言葉なのである。そしてもうひとつの『何故』はその疑問が解けたとき、納得できたときの回答のことばなのである。17音律の一句の中には常に「何故」と『何故』を表現する二つの俳句言葉が存在する。この「何故」にはパーパス(存在意義)があるのだ。ここには作者の存在する理由があった。この理由そのものの存在にこそ俳人としての価値観がある。杭打って一存在の谺呼ぶ伊丹三樹彦この句は青玄合同句集12(2005年11刊)に収録され...「何故」が『何故』を生む

  • 俳句…分ち書き導入前後の内外部情

    この文章は「青群」59号に掲載されたもの(令和3年12月1日発行)切株はじいんじいんとひびくなり富澤赤黄男新興俳句時代にも個人としては分ち書きは行われていた。その頃の結社やグループとしてではない。ただ言えることはそのことの程の確固たる意味はなっかたようです。その頃は一字空きまたは空けと言う呼び方のようでした。語呂合わせのように、舌に転がせていて読み、切りやすいところで切っていたようです。神野紗希さんは「切株」の句について次のように語っている。「ひろびろとした大気の中で思い切り呼吸する」ための、小さな小さな風穴なのかもしれない。この空白を抜けて、切株のひびきは、無限に広がってゆく。上記のように述べているのだが、このことは…一字の空白を置くことは、ブレス(呼吸)をするための息継ぎなのだろうとのこと。だが、この...俳句…分ち書き導入前後の内外部情

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