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庸晃
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2022/08/03

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  • 私個人のメモリアル⑪

    勝手きままな解釈は許されない(2006年4月4日)春霧のなかにて見えぬ敵愛す庸晃神戸市垂水区の塩屋地区は海と山に囲まれ、この狭い地を国道が走る。海から山へと霧が這い上ってゆく。この中にいると自分自身の存在さえままならぬことになることがある。不安感と妙な寂しさ、それに自信さえ失くす。そこに見えぬ敵の存在さえ意識してしまう。でもその敵おも愛さなければ生きてゆけないのが現在なのかもしれない…そんな風に思った。小説を書くということは不安や寂しさを誰もが共有することなのかも知れない。考えあぐねて第26回新風社出版賞に応募した。いま第1次予選通過の知らせを受ける。第21回そして第23回と応募し出版奨励作品になった。3253人の応募の中からであった。出版すれば町の書店に並び売れているかもしれなかったが私はそれをしなかっ...私個人のメモリアル⑪

  • 私個人のメモリアル⑩

    伊丹三樹彦先生の偉業…青玄クラブ(2006年7月10日記述)灼熱の心はいまも「句座」むかし庸晃ふーぅと思いつき家を飛び出していた。何時の日にかと思っていたのだが阪急電車塚口駅より南西へ歩いていた。或る思いがあり、もしやそこに青春の何かがあり心を揺り動かしてくれるものがあるのではないかと思っていた。歩くこと10分そこで私は佇むことになる。「青玄クラブ」・・・伊丹三樹彦先生が成した偉業をもう一度この目で確認したかったからで、勿論いまはその場所はあとかたもないが私の目の中にはある。クラブは塚口さんさんタウンから西へ500メートル下ったところ、栗山というところにあった。文化住宅の二階で階段を上がってゆくと四畳半と六畳のふた間の部屋があり、夜となく昼となく青玄人の誰かがいつも四、五人はいた。以下「三樹彦俳句の純粋性...私個人のメモリアル⑩

  • 神戸新聞読者文芸 小説部門入選作品

    予想屋…哲ちゃん(2017年12月4日朝刊掲載)児島庸晃哲ちゃんの目から一粒二粒と大粒の涙が落ちる。落とすまいと顔をあげて哲ちゃんは涙を堪えた。春の青空は何処までも澄みきっている。天を仰いでいた哲ちゃんは俯いてしまったのだ。俯くまいと思う哲ちゃん。再び天を仰ぐ。哲ちゃんは泣いていた。阪神電車の甲子園駅を下車、南へ十五分ほど歩くと円形の屋根が見える。甲子園競輪場である。哲ちゃんはこの競輪場の予想屋である。一レースから最終レースまでの勝利車券を予想して、客に売る仕事である。嗚呼、これで終わったよ、と哲ちゃんは呟く。五十年も続いた甲子園競輪場最終レースの優勝者の決まった瞬間であった。車券の売り上げが減ってきて赤字が増え競輪開催が廃止になる。いま哲ちゃんは来し方、行く末をしみじみ考えていた。哲ちゃんは勝者も敗者も...神戸新聞読者文芸小説部門入選作品

  • 俳句作品は作者自身の心花

            上手な俳句と良い俳句の違い…どのように理解するのか児島庸晃これは実例であるが先日俳句仲間との会話のなかでのこと。長年俳句を作り続けていると、だんだん句が悪くなってきたような感じがするとの会話が話題になっていたのを、私はいま思い出していた。そのときはそれほど気にもしないで聞いていたのであるが、日数を重ねるにしたがって俳句仲間の言葉が私の俳句世界の核心のことのように、とても重みのある言葉のようになり、いろいろと脳裏にへばりつき離れない言葉になってしまった。それは何かと言えば…長年俳句を作り続けているとだんだん句が悪くなってきたような感じがする…の言葉だった。そして長年経験を積み重ねてゆけば良い俳句にならなければとも思っていた。しかし私自身も、現実にはそれほど優れた秀作とは言える句にはなってはい...俳句作品は作者自身の心花

  • 私個人のメモリアル⑨

    梅の季に思う(2006年3月12日記述)梅の村ハープ奏での雨になり庸晃今日は朝から雨の一日になった。春になる前には雨が多く、そして雨の後には寒くなる。体の調子がガタガタと崩れる。頗る悪い。…こんなとき気分を良くしようと「雨」に目をむけても自分自身を勇気付けてみたくなる。雨に「ハープ」を奏でさせ「梅」を見る。果たして気分は良くなるものか。この鬱のまま或る俳人を思い出していた。赤尾兜子…或る時期より鬱を抱え込み自死する。毎日新聞の記者でもあった兜子はその定年より鬱になる。大雷雨鬱王と会うあさの夢兜子昭和49年作。この句の前後の事を知る私にはその所作に怖さを感じていた。「渦」の同人でもあった私は、当時第三イメージ論を持ち出し語る兜子に凄いパワーを感じていた。物には…指示されるものと、指示するものがあり、この両者...私個人のメモリアル⑨

  • 私個人のメモリアル⑧

    風船忌(2006年3月17日記述)海霧のとどまる午前春来たる庸晃JR山陽神戸線須磨駅を過ぎるあたりから海と出会う。右に淡路島、左にかすかに霞む和歌山県、そして新設の神戸空港はこの海にある。毎年この時期になると海霧が発生して真っ白になる。海水の温度が低いのに空気中の温度が高くなり水蒸気が発生して真っ白になる。海の霧である。春の訪れである。梅の季節から桜の開花へと人の心を繋ぐのであろう。この頃になると人は野や山、そして郊外へと心の旅に出る。でもその春を心の内に秘め俳句と必死に闘い、やがて結核に打ちのめされ彼の世へと旅立った男の居たことはあまり知られてはいない。ねむい春日の触手肺から腐る僕純男街は桜の季節で行方不明の僕純男無思想の歯で噛む林檎鉄の硬さ純男冬日は父性の温さで白い孤児の家純男肺に積った商戦の塵場末灯...私個人のメモリアル⑧

  • 神戸新聞読者文芸 小説部門入選作品

    中継カメラは見た児島庸晃(2015年12月7日朝刊掲載)中継現場は、都会の真ん中。電車の駅より歩いて三分…。テレビから流れるニュースキャスターの息詰まる声。現場周辺は交通規制が行われ、たくさんの人たちで溢れている。不思議な声がしているんです。何の声でしょうか…。現場のアナウンサーは、更に部屋の奥へと入って行き声を強めた。ちょっと見たところ何の変わりようもないような住宅街の真ん中。どうしてこんなところで、こんな不思議な現象が起こっているんでしょうか…。テレビ画面は大きく部屋全体が映し出されている。何処を見ても畳の部屋全体の風景である。時間が流れ経過してゆくだけである。アナウンサーはさらに奥へと入って行き、部屋の全てを見せようと歩いた。報道カメラの機材が担ぎ込まれ、部屋に置かれた。ここは七十年前に西宮市鳴尾の...神戸新聞読者文芸小説部門入選作品

  • 私個人のメモリアル⑦

    リレー俳句のみなさんと嵯峨野に遊ぶ(2008年11月2日記述)秋霖の竹林瞳あけておく庸晃まっすぐに天へ伸びた竹の林をゆっくりゆっくりと歩き柿落舎へ向かっている私たち15人の探訪をしている間も雨の音はやむことはなかった。まさに秋霖である。天龍寺の庭を抜け北門より竹林へと通じる細い道にはその足音のかそけき音を耳に残す。秋霖は静かに道を濡らした。見あげては竹の垂直に並ぶ姿に風の来ては音を作る。今しがた私たちは嵐電嵐山駅に集合してこの道を歩いているのである。関東、関西とを結ぶふれあいを京都・嵯峨野で行うべく柿落舎へと歩く。浦川聡子さんを代表とするリレー俳句人…15人。私はこの人たちとは初対面であった。竹林の薄暗くやや寒むの中を柿落舎に着き、10月26日、今日のために用意されていた句会場の座敷へと向かい投句の準備を...私個人のメモリアル⑦

  • 私個人のメモリアル⑥

    純粋俳句を求めて児島庸晃何故にいまも俳句を作すのであろうか。…そう思ってひとり静かに珈琲を飲んでいた。真昼の我が家。秋の日差しが部屋に置かれる午後。私の心が最も純粋になれる時間でもある。身も心もばらばらになってゆく私を、私なりに、それも密かに私を取り戻す。すべての心が浄化されてゆく時間である。謂わば句を作るに一番相応しい私になれている時間なのである。そして私は、畳に置かれた秋日を瞳に入れながら、亡母を思い出していた。けしきがあかるくなってきた母をつれててくてくあるきたくなった母はきっと重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだろう これは八木重吉の詩である。この詩のタイトルは「母をおもう」。そのときである。私には思ってみたこともない或る思いが目覚めていた。純粋性とは、人間の美しさとは、私は私自身に問いかけてい...私個人のメモリアル⑥

  • 神戸新聞読者文芸年間賞(短歌部門)

    2011年神戸新聞文芸年間賞短歌部門最優秀賞受賞児島庸晃「神戸新聞文芸」2011年の最優秀賞の発表が12月26日にあり、短歌部門の最優秀賞に私(児島庸晃)の次の作品が新聞紙上に掲載されました。車椅子少女に沙羅の花は照るその純白の一分一秒この作品は12月19日に掲載された特選作品でした。選者は尾崎まゆみさんです。選者は塚本邦雄氏の門下で1991年短歌研究新人賞を「微熱海域」で受賞された方です。以下は尾崎まゆみさんの選評です。年間最優秀賞は、今年1月から12月までの特選短歌が対象となる。私がこの欄を担当したのは10月からなので、米口實氏が選ばれた特選の作品もじっくりと読ませていただき、児島庸晃さんの「沙羅の花」を選んだ。児島さんは、この三カ月、毎月目を見張るような作品を寄せられて、気がついたら特選に二度も選ん...神戸新聞読者文芸年間賞(短歌部門)

  • 俳句は一行のコピーではないのだが…

                俳句の本質を分析する(2020年6月2日記述)児島庸晃昨今の句会の現状は、何人かが集まってその場所で行われる句会も、インターネットを使っての句会も、最高点句と言われるものは、挙ってキャッチコピーに類するものが多くなった。何故だろう。社会一般を通じて、新聞も街の看板も、必ず目立つようなコピーが大きく人目を惹く。そして人を吃驚させるような奇抜なものまである。いろんなアイデアを工夫してのコピーがある。先日も、昼寝と言う文字を印象づける意味もあってだろうが、昼寝の字そのものが横向きに書かれていて、人体そのものが横になって眠っているような感覚になる。これも一種のキャッチコピーなのである。俳句の世界でも、このキャッチコピーに等しいものもある。例えば、♀・♂、↓・∞、♭、など。このような記号を音...俳句は一行のコピーではないのだが…

  • 私個人のメモリアル⑤

    認知症つらつら(2006年3月6日記述)痴呆と知り痴呆受け得ぬ眼には春庸晃先日朝のことであるが勤務先の防災センターへ70歳過ぎであろうおばあちゃんが飛び込んで来て「お掃除に来たんだけどわからないの」と言う。「お掃除をする場所は」と聞くと「それがわからないのよ」とおばあちゃん。防災関係以外の飛び込みの人はいくらもあるがこんな話はなかった。どうやらもじもじとしていて戸惑うばかり。同じことをくりかえし話は尽きない。聞けば自分自身の名前もわからず認知症なのだろうと知る。そのときふーっと頭に浮かんだ事がある「何処のどなたさまでしたか」と聞く私の母の事だった。今年99歳になる母は施設にいて食事だけは活発で誰にも負けないらしいのだが、その他はさっぱり。私を見ていても全くの他人であった。何とも言えない寂しさに、そしてむな...私個人のメモリアル⑤

  • 私個人のメモリアル④

    我が母…102歳で天寿を全う(2009年5月9日記述)初夏われに散華のごとき骨ぞ母庸晃初夏の日差しの中に尼崎市営弥生ヶ丘斎場は白光していた。何年か前に新設された火葬場は一際目立つ大きな建造物になっていた。ここへは二回ばかり来た事はあるがとても美しいとは言いがたいものではなかった。ところが今、目の前に見る光景は実に美しい。私たちはつい先ほど葬儀を終え、母の亡骸とともに車を止めたのだ。私はこの敷地に踏み込むや何となく明るい気持ちになっていた。亡骸を火葬するにはと思いもっと暗いイメージをもっていた。だが、それまでの咳き込むような涙目は、もう誰の眼にもなかった。…思うれば兄より母の様態が急変している事実を耳にしたのは4月28日であった。医師よりみなさんに最後のお別れを、早くして置くようにとの話しであった。そのとき...私個人のメモリアル④

  • 俳句におけるアイロニーことばとは…

                       俳句は意味で作ってはならない児島庸晃  目視して物を受け取る時、その感覚は意味で受け取っているのではなかろうか、と思う時がある。それらは頭で判断していると思われているのだろう。だが、実際は情感で物を見ているのである。俳句が意味の句の表現になってしまうのは、その意味が頭の中に残ってしまっているからである。俳句は情感の支えがしっかりしていなければ、ただの言葉でしかなくなる。俳句は意味で作ってはならないのである。…俳句が説明になっしまう理由でもある。  鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし三橋鷹女句集「白骨」昭和27年より。鷹女の個性が最もよく出た句なのではあるが、心理表現の極みが言葉に惑わされているのではないだろうかと言うのが私の不満なのである。…と言うのはこの言葉「愛は奪うべし」...俳句におけるアイロニーことばとは…

  • 河川敷の哲ちゃん

    神戸新聞読者文芸小説部門入選作品(2004年3月8日朝刊掲載)児島照夫(庸晃)冷たい雨の日だった。「お願いだから死なせてくれ」。私の手を掴み必死に懇願する男。名前は哲ちゃんと言う。足首にくくりつけるコンクリートブロックを抱え水の深みに入ろうとしたしていた哲ちゃん。その時、私の手を振りほどき水に飛び込んでいった哲ちゃん。水面から首だけが出た姿を私は必死な目で追った。それから一年半が経っていた。自殺未遂を経た哲ちゃんの行方を私は探して歩いた。近畿はもとより四国や九州へも飛んだ。やっとのことで居場所が分かる。そこはこの武庫川公園の河川敷であった。河川敷はスポーツ公園ということもあってか人々は賑やかな声を出している。でも誰も哲ちゃんの事は知らない。私は心に残る一年半ほど前の思い出を呼び起こしていた。…あの水鳥はい...河川敷の哲ちゃん

  • 癒しのこころで俳句する

                           俳句を作っている意義           児島庸晃  毎日の生活のなかで他人の言葉に傷つき、社会から疎外された時、私たちはどうして自分自身を復旧回復させているのだろうか。ときどき思うことがある。私たちの青春はフォークソングに身を投じ音楽喫茶に群がっていた。いまでは喜多郎のシルクロードのテーマ―音楽に惹かれ、姫神や富田勲の演奏に我を忘れて浸る。ここには安らぎと癒しの心が強くあり、…そうして自分自身を慰めているのであろうか。このようなとき、俳句することの意義や意味はいったいなになんだろうと思う。もっと素晴らしい社会参加があるのではないかとも。もっと良い生き方があるのではないかとも。  でも、私たちは俳句を書いてゆくことの持続性を思い、日々努力している。その魅力とは...癒しのこころで俳句する

  • 心にあたたかい驚きを…それはメタバース

                         俳句本来のあり方とは…を問う 児島庸晃  いま現実社会は何を信じ、何を頼りに生きてゆけばいいのか。社会そのものが混沌、汚れきって真面目に生きるに辛い毎日。政治の中心にいる人たちですら、国民を騙す時代。私の心が壊れないことを願った。あれもこれも人の心が壊れていて人間の価値観が問われる時である。いまこそ文芸は心を正す時。いまこそパーパス(存在意義)を真剣に考えなければばらない。何故文芸に関わっているのか。純粋な心で、自分自身の心を壊してはいけない。時代はアメリカ資本主義が世界へ浸透しようとする時代。世界は人間の勝手により心が壊れてゆく社会。日々の生活の中で本来の人間の心を真に維持してゆくのがどれほど大切なことなのか。俳句の中における人間性とも言えるその原点を率直に反省...心にあたたかい驚きを…それはメタバース

  • 俳句の本物とは何なのか

                         私性の句体を再思考    児島庸晃  日々の生活の中で本来の人間の心を真に維持してゆくのが、どれほど大変なことなのか。春日が私に囁きかけてくる部屋の隅でその日差しを見詰めていた。そしてその傍に置かれた新聞を見詰めていた。その新聞の連日の見出しに心が縛られていることに、自分自身が壊れてゆかない事を願った。戦争は未だに終わってはいなかったのだ。昭和20年に戦争は終了している筈なのに…。かって観たイタリア映画の記憶が蘇る。その題名は「ひまわり」。第二次世界大戦後の心の傷が人間不信を呼び起こし男女の心が徐々に離れてゆく、そのような1970年のイタリアの反戦映画でした。大戦後のウクライナでの撮影であったことを思いだしての日々。多数の戦死者が埋葬された広大な土地、キーウより南...俳句の本物とは何なのか

  • 私個人のメモリアル

               俳句に支えられて…(2006年6月9日記述)父の日の父の貧乏子に詫びる庸晃毎年六月の第三日曜日は父の日である。長男の電話があるまでは全くこの日を忘れていた。プレゼントは何が良いかとの電話であった。取り立ててもらうものは何もない。考えてみれば…65歳になるまで働きずめであった。いまもそうなのだが働いておれる元気を嬉しいとも思う私であった。ただ働くことだけを考えなければ生きてゆけない時代でもあった。長男が生まれ、そして妻と喜んだその時、町には「神田川」の歌がながれていた。そしてそしてあのチエリッシュの優しい澄みきった声の歌が耳の奥で鳴る。「白いギターにかえたのは何か理由があるのでしょうか」その歌の曲名は白いギター。昭和48年、長男二歳のとき。みんなみんな貧乏であった。長男の誕生祝いに白い...私個人のメモリアル

  • 私個人のメモリアル

    芭蕉に学べ(2006年6月1日記述)あじさいへかげりもつ僕ちかづけぬ庸晃紫陽花…この奥深く怪しげな色香をもつ花。実に見事な大きな盛り上がりを見せ私達にいろんな楽しみを広げてくれる。この武庫川河畔にも二株だけだが見ることができた。まだ咲き始めではあるがやや青みが濃ゆい。この花は土地の環境に左右される花。酸性の土壌では青系、アルカリ性では赤系、とか。全く自己のポリシーを持たぬ花なのだ。咲き終わり枯れるまでには七回も花の色を変えるとか。よって別名「七変化」とも季語にはある。しばらく見とれていた私だったがややこしい縺れ現象が脳裏にあった。このポリシーのない花はなんと句を作るときのいまの俳壇の現象を思い起こすに至るきっかけとなっていたのだ。ある句会では人気を得て話題になっても、別の句会へともってゆけば同じ句であって...私個人のメモリアル

  • 俳句印象派の集団

                     昭和35年当時の若者俳句の現実を探る   児島庸晃  俳句表現は理屈にならないこと…理屈で表現しない事である。感覚には理屈はない。人の心にも理屈はない。理屈は人間が考え出した勝手な思考。だから表現された言葉に好き嫌いが起こる。これは表現言葉が純粋でなければならない理由でもある。その純粋性の表現を趣旨として表現していた若者集団がいた。その若者集団を生み出すことに必死に専念し指導していた俳人がいた。伊丹三樹彦である。既成俳壇とは異なる思考を基本として日々研鑽していたのが俳句結社「青玄」であった。  主宰者三樹彦は、その純粋性の俳句の基本を、当時の既成俳壇の中では当然とされていたその俳人の経歴重視の姿勢についての純粋な批判言葉を「青玄」一二九号に述べている。  …例えば俳人間で...俳句印象派の集団

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