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  • 思い出フォト 158 〜喜びも悲しみも幾歳月 〜石狩灯台、御前崎灯台〜

    石狩灯台北海道石狩市浜町昭和32年公開の映画【喜びも悲しみも幾歳月】灯台守の夫婦が職務を通じて様々な困難と悲しみに遭遇しながらも、最後は新婚の娘夫婦を灯台から見送る結末を描いた名作です。石狩灯台は、佐田啓二さん演じる有沢四郎と高峰三枝子さん演じる有沢きよ子が待望の二人の子を授かる赴任先の灯台で、実物は白と黒の縞模様だったものを、劇中のカラー作品に応える形で紅白模様に塗り替えられた経緯があります。御前崎灯台静岡県御前崎市御前崎御前崎灯台は、映画最終版のシーンで、有沢夫婦の長女、雪野が夫とともに赴任するエジプトへ向かう際、有沢夫婦が見送る灯台として描かれました。思い出フォト158〜喜びも悲しみも幾歳月〜石狩灯台、御前崎灯台〜

  • 歴史紀行リバイバル 31 ビルマゆかりの碑 (特別編19)

    浜名湖ビルマゆかりの碑静岡県浜松西区舘山寺町大草山28日、東南アジアのミャンマー【旧ビルマ】の中部の都市マンダレー付近を震源とするマグニチュード7.7の巨大地震が発生しました。阪神・淡路大震災の強度がマグニチュード7.3だったことから、今回の地震がいかに大きなものだったのかは、何度も震災に見舞われている日本には想像がつきます。現在のミャンマーは軍事政権で、反政府軍事組織が攻勢をかけている中での今回の災害ということで、まともに国主導の救助活動が機能するのかは微妙なところです。その軍事政権下のミャンマーですが、2016年、ミャンマー(旧ビルマ)においてクーデターが発生し、アウンサン・スーチー氏ら、民主派の国会議員らも拘束され、軟禁状態となりました。ある程度進んでいた民主化は軍事政権により再び破綻し、スーチー氏...歴史紀行リバイバル31ビルマゆかりの碑(特別編19)

  • 歴史紀行 89 ‐ 2 比企氏一族の墓 〜鎌倉 妙本寺 比企氏邸宅跡 2

    比企氏一族の墓神奈川県鎌倉市大町妙本寺20年の配流時期に絶えず仕送りで助け続けた乳母、比企尼の大恩に報いる様に源頼朝は尼の甥の比企能員を重用し、嫡子頼家の乳母には能員の妻と比企尼の娘を充てることで、北条政子の生んだ頼家は、乳母が比企氏に連なる血縁が務め、まるで比企の血を引く源氏の嫡子のように育てられます。やがて、頼朝は頼家の妻に比企能員の娘〜若狭局を迎えるように指命することで、比企氏との結び付きを一層強くします。頼朝は、北条氏とも繋がりを蔑ろにはせず、側近で正妻の無かった政子の弟、義時が想いを寄せていた比企氏一族の比企朝宗の娘(姫の前)との間を仲介し、婚姻させることで北条、比企。両氏を血縁で結び、幕府政権の双璧にしようと期待します。1195年(建久6年)2月頼朝は二度目の上洛をします。目的は、平家が焼失さ...歴史紀行89‐2比企氏一族の墓〜鎌倉妙本寺比企氏邸宅跡2

  • 葵の国紀行 22 まつり近づく…

    静岡に本格的な春の到来を告げる静岡まつり。今年の静岡まつりは4月4日、5日、6日の3日間ということで、いよいよ1週間前となりました。葵の国紀行22まつり近づく…

  • 歴史めぐり 街物語 12 ‐ 5 ④ 東京都 品川区

    鈴ヶ森刑場跡東京都品川区南大井2丁目天一坊事件②若き紀伊徳川家徳川光貞の四男、新之助。後の8代将軍徳川吉宗です。家老加納将監に養育された新之助は、加納家の侍女、沢ノ井を懐妊させ、沢ノ井が宿下がりの際に新之助は書付と葵御紋の短刀を持たせました。いつか名乗り出す際の証拠の品としたのか、新之助は、いずれ子を生んだ沢ノ井を側室にと考えたのかは定かではありません。沢ノ井は故郷の平沢村へ帰り、男児を出産しますが、産後の肥立ちが悪く、間もなく母子ともに亡くなりました。沢ノ井の母は、藩に娘の死を名乗り出すことはせず、平沢村でひっそりと暮らします。その後、新之助は江戸、紀伊藩邸住まいとなった折りに当時の将軍〜徳川綱吉に目通りが叶い、越前に3万石を拝領する幸運を手にします。新之助には破格ともいえる強運が次々と訪れます。紀伊和...歴史めぐり街物語12‐5④東京都品川区

  • 歴史めぐり 街物語 12 ‐ 5 ③ 東京都 品川区 3

    鈴ヶ森刑場跡東京都品川区南大井2丁目天一坊事件①徳川幕府中興の祖、8代将軍吉宗。吉宗の御落胤を称する怪僧が大岡越前守忠相により素性を暴かれ、鈴ヶ森刑場で処刑されました。徳川吉宗は、紀伊和歌山藩2代藩主徳川光貞の四男として生まれました。吉宗の父、光貞はある日、湯殿の下働きをする女中〜お由利に手を出し懐妊させました。お由利〜家臣、巨勢(こぜ)利清の娘とするも、実際は百姓の娘とも、利清が巡礼者の娘を養女にしたとも詳しい素性は不明。お由利はその後、男児を出産〜後の八代将軍となる吉宗です。吉宗の幼名は源六、後に新之助を名乗ります。時代劇〜暴れん坊将軍〜で吉宗は、貧乏旗本の三男坊〜徳田新之助を称しますが、この和歌山時代の下地があるからでしょうね。藩主の四男ということで、吉宗は後継者とは見られず、家老の加納将監〜(暴れ...歴史めぐり街物語12‐5③東京都品川区3

  • 歴史めぐり 街物語 12 ‐ 5 ② 東京都 品川区 ②

    鈴ヶ森刑場跡東京都品川区南大井2丁目3代将軍家光亡き後の幕府転覆を狙った慶安事件から30年あまり…鈴ヶ森刑場では、大火で焼け出された町娘が恋人に逢いたいが為に、自宅に放火をして捕らえられ、火あぶりとなったお七の【八百屋お七事件】がありました。八百屋お七事件の経緯時代は犬公方こと、5代将軍徳川綱吉政権下の天和2年(1683年)の暮れに江戸、駒込(現在の東京都豊島区)付近より発生した天和の大火により、焼け出された多くの人々と共に、八百屋を営む親子が寺に身を寄せました。八百屋の娘、お七は、避難生活を送るうちに、寺小姓の若者〜生田庄之助と恋仲となります。避難生活は辛いものであっても、恋い焦がれた庄之助と寺で過ごすお七は、つかの間の幸せの日々だったことでしょうが、春にはお七の親か営む店が再建され、一家は寺を引き払う...歴史めぐり街物語12‐5②東京都品川区②

  • 歴史 今日の出来事 1185年3月24日(治承4年4月25日) 壇ノ浦の戦い 平家滅亡

    1185年3月24日治承4年4月25日壇ノ浦の戦い平家滅亡1185年3月24日治承4年4月25日、本州最西端の長門国(現在の山口県下関市)赤間関~壇ノ浦で源氏と平家による最後の戦いが繰り広げられました。源義経像安徳天皇入水碑平家は源義経の率いる源氏の軍に敗れ、幼帝安徳天皇は二位尼に抱かれて入水し崩御。平清盛によって絶大な権力を有して君臨した平家は、清盛の没後、4年あまりで滅亡しました。平家一門の墓歴史今日の出来事1185年3月24日(治承4年4月25日)壇ノ浦の戦い平家滅亡

  • 歴史めぐり 街物語 12 ‐ 5 東京都品川区 5

    鈴ヶ森刑場跡東京都品川区南大井2丁目鈴ヶ森の由来鈴ヶ森は、この地域一帯に振ると鈴の音の様な音が鳴る鈴石と呼ばれる石が産出されるとも、慶長5年(1600年)徳川家康が関ヶ原の戦いに赴くべく出陣した際、最初の休憩時に利用してもらおうと用意した茶屋において、暖簾に客の到来を知らせる鈴を付けたことが始まりとも言われ、茶屋を用意して徳川家康に目通りした庄司甚右衛門は、後の吉原遊廓を設立する元北条氏家臣でした。鈴ケ森刑場最初の罪人〜丸橋忠弥時代は移り、3代将軍徳川家光が重篤にあった慶安時代に東海道沿いのこの地に罪人を処刑する刑場が設置されました。土地の由来から鈴ヶ森刑場とされ、間もなく徳川家光が逝去すると、幕府転覆計画が露見します。軍学者由比正雪による幕府転覆計画〜慶安事件です。2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光の時...歴史めぐり街物語12‐5東京都品川区5

  • 歴史紀行 89 比企一族の墓 鎌倉 妙本寺〜比企氏邸宅跡

    比企氏一族の墓神奈川県鎌倉市大町妙本寺鎌倉幕府重臣たる比企能員を排出した比企氏は、源頼朝にとって大恩人たる一族でした。能員の養母〜比企尼は、頼朝の乳母を務め、また、頼朝が伊豆へ配流となった後も何かと仕送りを続けること20年、頼朝を生活面で頼朝が関東の王となり、やがて平家を滅ぼすことで武家の頂点に君臨すると、それまでの大恩に報いることを考えた時、比企能員を盛り立てることに繋がりました。これにより比企氏は、頼朝の妻〜政子の北条氏と双璧をなす重臣の一族となります。政子が幕府の次代を担う頼朝の嫡子、頼家を生んだ時、生んだ屋敷は比企氏の邸宅で、さらに頼朝は頼家の乳母に比企氏の血を繋げる様に比企尼の次女を選んで絆を結びます。比企氏とのこの強い絆が頼家に刻まれたことが彼の悲劇に繋がることになります。2に続きます。歴史紀行89比企一族の墓鎌倉妙本寺〜比企氏邸宅跡

  • 歴史 今日の出来事 3月22日 1925年(大正14年)3月22日 ラジオ放送開始

    NHK放送センター東京都渋谷区神南2丁目【あ〜、あ〜、聴こえますか?。…あ〜、あ〜、聴こえますか?。…JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。……】今から100年前の今日日本の公共放送は、京田武男アナウンサーのこの呼びかけで始まりました。1925年(大正14年)3月22日、東京・芝浦の東京高等工芸学校の図書室に設置された日本放送協会仮放送室から第一声が発せられました。この後、NHKの前身である東京放送局は1925年(大正14年)6月に愛宕山(東京・港区)に鉄筋コンクリート造りで新局舎が完成し、7月12日に3放送局の先陣を切って、出力1キロワットで本放送を開始しました。フジテレビ本社ビル東京都江東区台場現在、日本のラジオ局は67局、テレビ局に至っては、172局と拡大し、去年フジテレビで発覚した大ス...歴史今日の出来事3月22日1925年(大正14年)3月22日ラジオ放送開始

  • 歴史 今日の出来事 3月21日 承和2年(835年)3月21日 弘法大師 空海 入定

    弘法大師空海像京都市南区東寺(教王護国寺)835年承和2年3月21日、弘法大師空海入定今から1189年前のこの日、真言宗を開いた弘法大師空海が高野山で入定しました。空海の生涯弘法大師空海は、奈良時代末期の774年宝亀5年、四国の讃岐国多度津(現在の香川県善通寺市)で、生まれました。幼名は眞魚(まお)、郡司(地方役人)の父を持ち、兄二人が夭折したために、眞魚は後継ぎとして育てられますが、眞魚は早くから仏門に入ることを強く意識し、15歳の頃、長岡京の儒学者の叔父を訪ね、叔父から論語や漢籍などを学びますが、書物の学びに飽き足らず、吉野や生まれ故郷の四国で山林での修行も行いました。四国の土佐室戸岬の御厨人窟(みくろど)の洞窟内での修行の間、眞魚の眼前には、空と海だけが広がっていた体験から、空海を名乗ることにしたと...歴史今日の出来事3月21日承和2年(835年)3月21日弘法大師空海入定

  • 歴史めぐり 街物語 12 ‐ 4 東京都 品川区 4

    品川神社東京都品川区北品川3丁目品川神社の起源は、文治3年(1187年)、平家を滅ぼし、その後、自身に対する危険分子とした源義経を都から追いやった源頼朝が安房国の洲崎明神(現在の千葉県館山市)に鎮座する洲崎神社の天比理乃命(あめのひりのみこと)を武蔵国荏原郷(えばらごう)現在地〜東京都品川区北品川に迎え、海上交通の安全祈願成就を祈られたのを創始とします。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(一三一九)に二階堂道蘊公が宇賀之売命〜うがののみこと(お稲荷様)を、さらに室町時代になると、文明十年(1478年)に初期の江戸城を築城した太田道灌が素盞鳴尊〜すさのおのみこと(天王様)をそれぞれ勧進しお祀りしました。慶長5年(1600年)、徳川家康が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼と...歴史めぐり街物語12‐4東京都品川区4

  • 今日いち-2025年3月18日

    年度末目前…書きたい記事は有れど、時間が無さすぎる。今日いち-2025年3月18日

  • 歴史紀行 88 源 頼朝 墓所

    源頼朝墓所神奈川県鎌倉市西御門源頼朝落馬の地神奈川県藤沢市辻堂1丁目源義経への討伐から10年後のことです。天才児の末弟義経。忠実な弟だった範頼。天下草創に用済みとなった弟二人を葬った鎌倉幕府初代将軍の源頼朝。その後順調に見えた頼朝の武家支配も、突如暗転します。建久8年(1198年)12月27日義弟の稲毛重成の妻(北条政子の妹)の追善のために、相模川に架けた橋の供養での帰路、現在の藤沢市辻堂付近で落馬(発病とも)し、鎌倉に運ばれました。頼朝は即死こそ免れたものの、意識の戻らぬ重篤の状態が続きました。建久9年(1199年)1月11日、落馬から2週間、突如として覚醒、意識を回復した頼朝は、朝廷に対して上洛する旨の手紙を書かせ、床の間で出家をした後、間もなく意識混濁となり、ついに蘇生することはありませんでした。武...歴史紀行88源頼朝墓所

  • 歴史紀行 乗物 編 1 ‐ 2 旧帝国海軍 連合艦隊旗艦 三笠 2

    旧帝国海軍連合艦隊旗艦三笠神奈川県横須賀市稲取町三笠公園日露戦争(1904年〜1905年)において、日本の戦勝を決定付けた日本海海戦。当時、農民の暴動が頻発する隣国である朝鮮の自主独立を支持する日本と、朝鮮は属国であるという主張の清国(後の中国)の対立がきっかけとなり、日清戦争が勃発したのが1894年、明治27年のことで、欧米諸国が大国〜清国の勝利を想定していたものの、いざ開戦となると、日本の圧勝に終わり、日本は戦後賠償として朝鮮の北西に位置する清国の遼東半島の割譲を受けました。遼東半島は内陸に目を向けると満州へ通じる大陸の入口という地理的に重要な場所で、東南アジアから東へ植民地を伸ばしてきたイギリス、フランスと、大陸を南下して遼東半島を狙うロシアの思惑が一致し、三国がこの割譲は平和的に有害であると難癖を...歴史紀行乗物編1‐2旧帝国海軍連合艦隊旗艦三笠2

  • 歴史紀行 乗物 編 1 旧帝国海軍 連合艦隊旗艦 三笠

    旧帝国海軍連合艦隊旗艦三笠神奈川県横須賀市稲岡町三笠公園ぼくが歴史記事を書く際の行動は、対象の時代、人、場所にまず注目します。そして可能な限り現地に赴き、史跡等を撮影し、周囲を歩いてみます。帰宅した後(或いは探索前)は関連書籍を読み漁り、その時代、出来事の西暦と共に元号に間違いは無いか【これを間違えると台無しです】…あとは稚拙ながら思うまま文章にして掲載という流れです。Gooブログに引っ越し、記事を書く様になってきてから何年にもなりましたが、まだ何か足りないな…と感じるようになりました。それが乗り物なんです。ちなみに今日は、東京、新橋〜台場あたりを巡って日帰りで帰って来ました。行きは始発のJR電車〜帰りは東京駅八重洲口から高速バスでした。現代人にとっても乗り物は、通勤、通学、買い物等に至る上で生活する上で...歴史紀行乗物編1旧帝国海軍連合艦隊旗艦三笠

  • 今日いち-2025年3月15日

    ぼくの歴史記事は、主に人と場所に焦点を当てて書くことが多いのですが、違う視点から捉えられないか?と以前から考えていました。その違う視点の記事をまとめ中です。今日いち-2025年3月15日

  • ZARD ヒストリーメモリアル 18 サヨナラは今もこの胸にいます

    ZARD16thシングル【サヨナラは今もこの胸にいます】1995年8月28日リリースZARDヒストリーメモリアル18サヨナラは今もこの胸にいます

  • 歴史めぐり 街物語 12 ‐ 3 東京都 品川区 3

    東海寺東京都品川区北品川3丁目沢庵宗彭(たくあんそうほう)沢庵和尚は但馬国の当主、山名祐豊の重臣、秋庭綱典の次男として生まれました。この山名家は近親に応仁の乱の西軍の総大将〜山名宗全を輩出する室町幕府内の名門でした。山名家の重臣の次男坊として将来を嘱望されるも、但馬国は東から織田、西から毛利と拡大する両家の狭間に置かれ、生き残りを賭けた領国経営を続けるも、当時、信長家臣の羽柴秀吉に攻められ、滅亡となりました。山名氏滅亡後に秋庭族は流浪の身となり沢庵は出家、仏門に入りました。臨済宗の総本山、大徳寺で修行僧となり、その聡明潔白さから次第に多くの人々に支持され、大徳寺住持になります。1599年、慶長4年豊臣政権末期に石田三成が佐和山城内に創建した母の菩提寺、瑞嶽寺に沢庵が師事した薫圃が入るため同行し、翌年の関ヶ...歴史めぐり街物語12‐3東京都品川区3

  • 歴史 今日の出来事 3月14日 慶応4年(1868年)3月14日 江戸無血開城 決定

    西郷隆盛像勝海舟像西郷隆盛、勝海舟第二回交渉1868年慶応4年3月14日3月14日の第二回交渉では、勝から前日の降伏条件に対する回答が提示されます。徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。徳川慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に新政府に引き渡す。城内居住の者は、城外に移って謹慎する。江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。これらの回答は、以前に山岡鉄舟に提示された条件に対する全くの骨抜きであり、事実上、新政府からの要求を拒否した格好に等しいものでしたが、西郷は旧知の勝海舟、勝を引き立ててきた大久保一翁を信頼して、翌日に迫った江戸城総攻撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検...歴史今日の出来事3月14日慶応4年(1868年)3月14日江戸無血開城決定

  • 歴史めぐり 街物語 12 ‐ 2 東京都 品川区 2

    東海道品川宿本陣跡東海道品川宿東京都品川区品川宿東海道は、1601年、慶長六年、関ヶ原の戦いに勝利して事実上の天下人となった徳川家康が、江戸から五街道〜東海道、中山道、甲州街道(甲州道中)、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、の各街道の本格的な発足に先がけ、まず、東海道の整備を命じて始まりました。江戸、日本橋から京、三条大橋【現在の東京都中央区日本橋〜京都市東山区】まで、五十三の宿場町(五十三次)、現在の距離にして約490キロありました。東京都心では国道1号、15号(第1京浜)の多くの部分が旧東海道と並走する格好となります。品川宿本陣跡品川区北品川2丁目品川区立聖蹟公園品川宿は街道の起点となる日本橋から最初の宿場町で、旅人の見送りと出迎えの双方の人々が集う江戸の玄関口として大いに賑わいました。北品...歴史めぐり街物語12‐2東京都品川区2

  • 歴史 今日の出来事 3月13日 1868年 慶応4年3月13日 西郷隆盛、勝海舟 会見の日

    西郷隆盛、勝海舟会見の日1868年慶応4年3月9日の駿府城下での幕臣山岡鉄舟の命がけの談判と西郷隆盛の決断により、勝海舟は江戸での西郷との会見の約束を取りつけました。第一回交渉1868年慶応4年3月13日、新政府による東征軍が江戸八王子と板橋に軍勢が到着したこの日、勝海舟は田町の薩摩藩江戸藩邸に入り、西郷隆盛と会見を行います。初日のこの日は、西郷が山岡鉄舟に示した恭順している徳川慶喜の処遇の確認などが行われ、両者の本格的な会見は、翌日に持ち越されました。歴史今日の出来事3月13日1868年慶応4年3月13日西郷隆盛、勝海舟会見の日

  • 歴史 今日の出来事 3月12日 1823年 3月12日(文政6年1月30日) 幕臣 勝 海舟 誕生

    勝海舟像静岡県島田市宝来町3月12日1823年3月12日(文政6年1月30日)幕臣勝海舟誕生3月12日は幕末、江戸無血開城の立役者、勝海舟が生まれた日になります。1823年文政6年、旗本勝小吉の長男として生まれた勝海舟は、剣術に励むも蘭学や西洋兵学も学び、ペリー来航以来幕府が広く海防への意見を求めたところ、提出した意見書が老中首座の阿部正弘や海防掛の大久保一翁の目に止まり、世に出るきっかけとなりました。遣米使節として咸臨丸に乗り、初の太平洋横断に成功してのアメリカ視察。帰国後は軍艦奉行、脱藩浪士の坂本龍馬を弟子にし、神戸海軍操練所を設立する等しましたが、操練所が反幕府勢力となることを危惧した幕府により罷免され、操練所も閉鎖となり、閉職、蟄居の身となりますが、幕府は再び勝海舟を必要とします。1868年慶応4...歴史今日の出来事3月12日1823年3月12日(文政6年1月30日)幕臣勝海舟誕生

  • 歴史 今日の出来事 3月12日 1818年 3月12日(文政元年2月6日) 北海道命名の父、松浦武四郎 誕生

    松浦武四郎像3月12日1818年3月12日北海道命名の父、松浦武四郎誕生北海道は、元々蝦夷地(えぞち)または~蝦夷島(えぞがしま)と呼ばれ、古くは飛鳥時代に阿倍比羅夫が蝦夷(えみし)征討のために上陸し、鎌倉幕府に追われる身となった源義経と一行が奥州平泉で藤原泰衡に急襲され、実は平泉から逃れ、北海道に流れ着いたという伝説は、北海道の至るところに伝わります。さらに戦国時代に数々の計略の末に成り上がった若狭武田氏に繋がる蠣崎(かきざき)氏が道南地域に盤居して、豊臣秀吉~徳川家康といった時の絶対権力者に巧みに近づいて気にいられて大名格となり、松前氏と改名し北海道での地位を確立し、その支配を幕末まで続けました。その松前氏が支配する蝦夷地を江戸時代の後期、一人の松前藩の医師の下僕が渡って来ました。松浦武四郎でした。松...歴史今日の出来事3月12日1818年3月12日(文政元年2月6日)北海道命名の父、松浦武四郎誕生

  • 歴史 今日の出来事 3月11日 天正10年(1582年)3月11日 甲斐 武田氏滅亡

    設楽ケ原決戦場跡3月11日武田勝頼自刃~甲斐武田氏滅亡~1582年天正10年3月11日この日、先代信玄公の時代より戦国最強を謳われた甲斐武田氏が次代、勝頼の代で滅亡しました。数多くの重臣を失った長篠設楽ヶ原の戦いの大敗から7年、崩壊の道を進んでいた甲斐武田氏。武田滅亡のきっかけは、この戦い以降、有能な重臣を失った後の家臣、領民らの動揺に加え、多くの国境を守るために多額の防衛費を猛烈な重税を課したことにより領主は苦しみ、それらを支える領民は更に苦しむという三重苦に晒される甲斐、信濃の有り様にありました。決定打は、領国の防備に不安を覚えた末の新城〜新府城築城でした。天正10年1月末、信濃の武田親族衆木曽義昌が新府城築城に永年の重税と兵の徴発に耐えかねた末に織田信長に通じたことでした。激怒した武田勝頼は、甲斐の...歴史今日の出来事3月11日天正10年(1582年)3月11日甲斐武田氏滅亡

  • 歴史 今日の出来事 2011年 平成23年 3月11日 東日本大震災

    今年もあの日を迎えました。震源から遠い東京でもビルの壁が落下する激しい揺れその後、震源に近い太平洋岸の宮城、岩手、福島の東北3県はもちろん、北海道南部から青森まで死者を出し、あのドス黒い津波は瞬く間に海岸の街々を襲いました。あの日の時間帯、ぼくは歩道を歩いていたところ、妙な違和感に苛まれました。当時は携帯に緊急通報の機能も無く、帰宅した後でテレビで知り、違和感は揺れによるものだと気付きました。そして福島では原発事故。本日未曾有の震災から14年を迎えました。改めまして東日本大震災によりお亡くなりになられた方々の御悔やみと被災された方々への御見舞いを申し上げます。天皇陛下(現、上皇陛下)におかれましては、震災後の2011年3月16日に国民に語りかける録画放送を行われました。ここに国民に語りかけたお言葉を全文掲...歴史今日の出来事2011年平成23年3月11日東日本大震災

  • 歴史 今日の出来事 3月10日 1945年 昭和20年 3月10日 東京大空襲

    関東大震災、東京大空襲慰霊碑東京台場海浜公園1945年昭和20年3月10日東京大空襲は、太平洋戦争で大都市東京に暮らす民間人の多大な犠牲者を出し、無差別の爆撃が行われました。3月10日午前0時7分、ミーティングハウス2号作戦と命名された米軍のB-29爆撃機300機以上が作戦に参加、爆撃には、建物破壊より、火災を広げる焼夷弾を用いたことにより、まだまだ木材を多用した日本家屋の多かった東京の下町で逃げ惑う多くの人々が巻き込まれました。最終的に死者は11万人を超えたとされ、一夜にして通常爆撃による犠牲者は最大のものでした。永代橋隅田川隅田川は、避難する人々が炎を避けるために殺到したものの、水面は火災による焼死者、水中に飛び込んだ後の溺死者などで溢れたといいます。歴史今日の出来事3月10日1945年昭和20年3月10日東京大空襲

  • 歴史 今日の出来事 3月9日 慶応4年 3月9日 幕臣 山岡鉄舟、西郷隆盛と会見

    西郷、山岡会見の地碑静岡市葵区御幸町3月9日慶応4年(1968年)3月9日西郷隆盛、幕臣山岡鉄舟と会見西郷隆盛は、幕末維新の功労者の維新三傑とも称される人物です。一方の山岡鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と称され、幕末動乱の中で徳川家の窮地を救うべく奔走し、ついには目前となった新政府軍の江戸総城攻撃を参謀として駿府に来ていた西郷隆盛に談判して中止させることに成功しました。1868年慶応4年1月3日、前年の大政奉還によって天下の政権を返上した徳川家の息の根を止めるべく、薩摩藩や長州藩それに岩倉具視らを中心とした公卿を加えた倒幕派による王政復古の大号令【クーデター】によって新政府を樹立、さらに、それまで江戸での放火、略奪等の挑発を耐え続けていた幕府も開戦を決意します。ここで京都で勃発したのが鳥羽伏見...歴史今日の出来事3月9日慶応4年3月9日幕臣山岡鉄舟、西郷隆盛と会見

  • 歴史めぐり 街物語 12 ‐ 1 東京都 品川区 1

    坂本龍馬像東京都品川区東大井京浜急行(京急)立会川駅北浜川児童遊園前東京都品川区…東京湾の品川埠頭からは品川駅周辺の高層ビル群を望め、観光に目を移すとクルーズ船が発着して湾岸エリアを周遊でき、なお、日本橋を起点に東海道最初の宿場町がこの品川で、歴史ある魅力のある街です。源平時代一ノ谷、屋島、壇之浦で平家に勝ち続け、ついに滅ぼした源義経。戦国時代後期桶狭間の戦いで約10倍の兵力差を覆した織田信長。信長の覇業を継ぎ、天下統一を果たした豊臣秀吉。戦乱の芽を摘み、江戸に幕府を開き250年もの泰平の世を築いた徳川家康。日本史上、歴史の転換期には様々な英雄が登場、活躍する場面を思い起こします。その中で、土佐の一介の下級郷士の家に生まれ、剣の道に夢を見い出して旅立ち、彼が姉に宛てて出した手紙の言葉の如く、【日本を洗濯し...歴史めぐり街物語12‐1東京都品川区1

  • 歴史紀行 87 ‐ 6 源 範頼 墓所 6

    源範頼墓所静岡県伊豆市修善寺平家滅亡後、海中に沈んだ宝剣〜草薙剣を半年間にわたり捜索した範頼でしたが、結局は見つけ出すことはできず、鎌倉へ帰還することになります。共に平家と戦った義経は頼朝に鎌倉入りを許されず、虚しく京へ戻り、その後、刺客を送られる始末。その後、奥州平泉へ逃れた義経頼朝は、先代の藤原秀衡の死去に伴い平泉の主となった藤原泰衡を再三に渡り脅し、ついには義経と従者もろとも襲撃して滅ぼしました。兄弟であっても一度疑いの目を持った者には容赦しない頼朝の姿勢に範頼は肝を冷やします。1193年(建久3年)頼朝が征夷大将軍に任じられた翌年に範頼に大事件が起こります。1194年(建久4年)5月頼朝は、関東の主だった御家人衆を集め、富士の裾野で大規模な狩り〜【富士の巻狩り】を挙行します。この巻き狩りは、御家人...歴史紀行87‐6源範頼墓所6

  • 歴史めぐり 街物語 11 ‐ 11 静岡県 掛川市 11

    旧掛川偕楽園御茶室静岡県掛川市日坂偕楽園…世にいう偕楽園とは、岡山の後楽園。金沢の兼六園。そして水戸の偕楽園と、三大名園のことを指しますが、かつて掛川にも偕楽園という名の名園がありました。掛川偕楽園…1805年、文化2年。江戸時代後期の掛川藩主、太田資順(すけのぶ)は、苦しい生活の中においても、領民には憩いの場を訪れ、少しでも安らぎの一時(ひととき)を過ごしてもらいたいと、掛川城の南西の南西郷、久保沢の地域に庭園を造営しました。その庭園は、孟子の故事にちなみ〜古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よく)楽しむ〜という言葉を引用し、偕楽園と名付けました。奇しくも幕末に度々名を轟かせる水戸徳川家の烈公こと、徳川斉昭公(徳川最後の将軍…慶喜公の実父)が同じ故事において偕楽園を造営してみせます。ただ...歴史めぐり街物語11‐11静岡県掛川市11

  • 歴史めぐり 街物語 11 ‐ 10 静岡県 掛川市 10 ③

    川坂屋静岡県掛川市日坂太田与七郎源重吉の子孫、斎藤次右衛門が日坂宿で旅籠屋【川坂屋】を始めたのが、寛政年間の頃(1785年〜1800年)で、時代は徳川幕府11代将軍〜徳川家斉の時代でした。上段の間(一の間)川坂屋は、日坂宿で問屋場(宿場で幕府や大名、公用の役人のために人馬の用立て、飛脚の代行を行う役割を持つ、現代のレンタカーや旅行業者の様な役割り)を担っていた斎藤次右衛門により始められた旅籠屋で、時代は町人主導の寛政文化が華やいだ頃で、次右衛門は宿の建築にあたり、江戸より腕利きの大工棟梁を呼び寄せて創り上げた精巧な木組みと細かな格子により彩られた床の間付きの上段の間を設けるなどして他の旅籠と差別化をはかり、また、当時、庶民の邸宅等では使用禁制の檜材をふんだんに用いることで格の高さを演出しました。このため、...歴史めぐり街物語11‐10静岡県掛川市10③

  • 歴史めぐり 街物語 11 ‐ 10 静岡県 掛川市 10 ②

    川坂屋静岡県掛川市日坂関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は翌年に東海道に宿場駅制度を設置し、日坂は江戸から東海道、25番目の宿場町となります。関ヶ原の戦いから15年慶長20年(1615年)、徳川家康は大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させて戦国乱世を終わらせ、泰平の世を築きました。この大坂夏の陣の戦いにおいて深手の傷を負い手当てを受けた太田与七郎源重吉という徳川方の武将がいました。与七郎は江戸への帰還をやめ、そのまま日坂の住人となり、生涯を終えました。旅籠屋〜川坂屋は、与七郎の子孫〜斎藤次右衛門が始めました。現存する川坂屋の建物は、宿場の殆どが焼失した嘉永五年(1852年〜ペリー来航前年)に発生した【日坂宿大火】後に再建されたものです。川坂屋は日坂宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の...歴史めぐり街物語11‐10静岡県掛川市10②

  • 歴史めぐり 街物語 11 ‐ 10 静岡県 掛川市 10 ①

    川坂屋静岡県掛川市日坂箱根、鈴鹿、小夜の中山…この三つはそれぞれ急峻な峠を擁することから、東海道の三大難所と呼ばれました。小夜の中山久遠寺小夜の中山山頂に創建された久遠寺は、奈良時代に行基菩薩が造営したと伝わります。平安時代には、清少納言が日坂に隣接する古社、事任八幡宮を歌に詠み。八幡太郎源義家が庶子、横地太郎と父子の対面を果たし。高名な歌人で僧侶の西行法師は生涯に二度、小夜の中山を往復。二度目の往復では、平重衡の焼き討ちにより灰燼に帰した東大寺の再建のために鎌倉への勧進の旅でした。小夜の中山の西の峰に位置する日坂宿は、古来から小夜の中山を越える人、越えてきた人、それぞれを受け入れる集落として貴重な役割を果たしました。1600年(慶長五年)、新領へ帰国後、上洛に応じない会津の上杉景勝に叛心ありとして討伐す...歴史めぐり街物語11‐10静岡県掛川市10①

  • 歴史紀行 特別編 42 ‐ 8 226事件 8 二大派閥 統制派 皇道派

    帝国陸軍刑務所刑場跡(226事件慰霊碑)東京都渋谷区宇田川町昭和初期日本の国土を守り、日本の利益の為に大陸への拡大路線に深く関わった陸軍。大局的に見ると、陸軍の目的は同じであるものの、内部では凄まじい派閥争いが始まりました。まず、陸軍の高級士官らを中心に、国会、政府と連携を強化し、冷静に国際情勢を見極め、欧州列強に対抗することが国防に繋がることを提唱〜ヨーロッパで駐在武官を務めた永田鉄山が中心となり、主要メンバーに石原莞爾、東條英機らが集まる軍の規律と統制を尊重した【統制派】と、天皇忠誠を誓い、天皇親政による直接統治を目指し、政党や官僚制度は腐敗の温床となるため排除し、軍事力を積極的に行使して発展させるべきと主張〜陸軍を皇軍と言って憚らない陸軍教育総監部長の荒木貞夫が中心となり、永田鉄山と袂を分かった小畑...歴史紀行特別編42‐8226事件8二大派閥統制派皇道派

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