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  • NEXT HISTORY PLACE 歴史紀行 特別編 42‐8 226事件

    帝国陸軍刑務所刑場跡【226事件慰霊碑】東京都渋谷区宇田川町渋谷税務署前ぼくは2月生まれです。昭和11年2月に勃発した226事件は、誕生月に発生した歴史的大事件として記憶から消えることはありません。なんとか2月中の2月26日に記事を完遂するつもりでいましたが、嬉しいことながら本業が繁忙期で、帰宅は毎日21時過ぎな為に、ずれにずれ込みました。次の記事で、226事件へ迫る背景を書きたいと考えています。NEXTHISTORYPLACE歴史紀行特別編42‐8226事件

  • 思い出フォト 157 静岡市 美和桜

    静岡市の安倍川沿いの美和地区2月には、早咲きの桜が見頃になります。思い出フォト157静岡市美和桜

  • 偉人の言葉 29 東郷平八郎 〜皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ〜

    東郷平八郎像神奈川県横須賀市三笠公園東郷平八郎〜皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ〜1905年、明治38年5月27日日露戦争日本海海戦に先立ち、連合艦隊司令長官の東郷平八郎が旗艦三笠において訓令した言葉です。勝利により日本国の繁栄を呼ぶか、廃墟を招くか、この戦いにかかっている。より一層の努力をせよ…という意味合いです。偉人の言葉29東郷平八郎〜皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ〜

  • 歴史 今日の出来事 2月26日 昭和11年(1936年) 226事件勃発

    帝国陸軍刑務所刑場跡(226事件慰霊碑)東京都渋谷区宇田川町1936年昭和11年2月26日226事件勃発昭和11年2月26日の早朝、2日前より記録的な大雪に見舞われていた東京で、日本を揺るがす大事件が起こりました。東京、麻布の陸軍第一師団第一歩兵連隊と第三歩兵連隊。それに赤坂の近衛歩兵第三連隊の青年将校に率いられた約1400名が政府要人を襲い、岡田啓介首相、斎藤実(まこと)内大臣、高橋是清大蔵大臣、鈴木貫太郎侍従長らを襲撃しました。斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監は即死。主犯格の安藤輝三率いる部隊に襲撃された鈴木貫太郎侍従長は重傷を負うも、後日一命を取り留め、岡田啓介首相は義弟で秘書の松尾伝蔵が首相を女中部屋の押入れに隠した後に襲撃隊により庭に引き立てられ、首相になりすましたことで間違え...歴史今日の出来事2月26日昭和11年(1936年)226事件勃発

  • 歴史 今日の出来事 2月25日 延喜3年 2月25日(903年3月26日) 右大臣 菅原道真 大宰府で無念の死

    菅原道真公像東京都八王子市初沢みころも公園高尾天神社暦の上では立春も過ぎましたが、まだまだ寒いこの季節が日本の受験、入試の季節で、受けられる方は大変な思いをされていると思います。これから私立中学や高校、大学、それに就職活動が本格的に動き出し、受験生や親御さんなどには特に篤い崇敬を受けるのが学問の神様として知られる菅原道真公を祭神とする全国に大小一万にも及ぶ天満宮、天神社てす。古代大和政権の時代から王家に任えていた朝臣の菅原氏は、道真の祖父の古人が学者として芽を出し、孫の道真は、わずか11歳にして漢詩を創るなど、頭角を現し、その実力で朝廷内の世界でのし上がりました。学識もあり仕事でも手腕を発揮してきた道真はやがて宇多天皇の目にとまり、蔵人頭に引き立てられ、やがて次代の醍醐天皇にも信認篤く、ついには右大臣まで...歴史今日の出来事2月25日延喜3年2月25日(903年3月26日)右大臣菅原道真大宰府で無念の死

  • 歴史 今日の出来事 2月24日 昭和33年(1958年) 2月24日 タロ ジロら樺太犬、昭和基地に置き去り

    樺太犬タロとジロの像名古屋市港区ガーデン埠頭1958年昭和33年2月24日、日本の第二次南極観測隊が悪天候のため越冬を断念し、タロとジロら樺太犬15頭を置き去りにして昭和基地を退去しました。取り残された樺太犬達の生存は絶望視されましたが、タロとジロの兄弟犬は極寒の南極を奇跡的に生き抜き、再び南極昭和基地に戻った隊員たちに発見されました。タロ(剥製)ジロは南極で病死。タロは日本に帰国して札幌市北大植物園で飼育され、穏やかな晩年を過ごし、14歳7ヶ月の天寿を全うしました。歴史今日の出来事2月24日昭和33年(1958年)2月24日タロジロら樺太犬、昭和基地に置き去り

  • 歴史 今日の出来事 2月24日 ロシア ウクライナ侵攻開始 3年

    京都市役所前友好の小路ウクライナ首都キーウ市モニュメント普段、海外の問題には記事に触れない様にしていますが、この侵略戦争は許し難いこともあり、周年単位ではありますが、触れています。2022年2月24日あの蛮行が始まり、今日で3年が経ちました。プーチンが思い描いたであろう数日以内の首都陥落〜ゼレンスキー大統領の国外逃亡〜親ロシアのウクライナ新政権移譲…ウクライナの頑強な抵抗は、ヨーロッパ諸国の軍事支援を呼び込み、さらにアメリカも兵器の支援を開始。ロシアによるウクライナ全土侵攻は完全にご破産となり、ロシア陸軍にとってウクライナ領内は戦車と兵士の墓場となる始末。止めるに止めれぬ侵攻作戦の継続にロシアの経済破綻も目前かと見てましたが、しぶとい有り様。アメリカ、トランプ大統領が返り咲きとなり、この問題に本格的に介入...歴史今日の出来事2月24日ロシアウクライナ侵攻開始3年

  • 天皇陛下 65歳の御誕生日 会見全文 2

    天皇陛下水問題については、安全な飲み水や衛生の問題はもとより、水道交通、さらには気候変動や水にまつわる自然災害などといった国民生活や、地球規模での課題に深く関わる問題など、様々な側面があります。昨年の能登半島地震では、津波による被害や長時間の断水が発生した他、その後の復旧・復興への歩みを進める中で、豪雨災害が発生したことで、複合災害、二重被災と呼ばれるような大変な状況が生じました。昨年、現地をお見舞いのために訪れた際には、津波や豪雨災害で流出した家屋や、一部が流された橋、海底の隆起によって被害を受けた漁港などを目の当たりにし、被災された方々の置かれた状況の厳しさや、自然災害の恐ろしさを改めて感じました。また、昨年の英国訪問中に、テムズバリアを訪れる機会を得、高潮被害の防止などについて理解を深めることができ...天皇陛下65歳の御誕生日会見全文2

  • 天皇陛下 65歳の御誕生日 会見全文 1

    天皇陛下天皇陛下は本日23日、65歳の誕生日を迎えられました。それに先立ち記者会見を行い、陛下として戦後80年を迎える思い。そして、雅子様、愛子様のご家族への思いなども語られ、記者会見の全文を掲載いたします。天皇陛下〜今回の誕生日で私は65歳になりますが、戦後80年という年月を考えると、私が生まれる15年前までは戦争の時代であったということになります。両親である上皇上皇后両陛下は、幼少時を戦争とともに過ごされたわけで、日本において80年間平和の時代が続いていることをありがたいことと思います。先の大戦においては、世界の各国で多くの尊い命が失われたことを大変痛ましく思います。わが国の人々についても、広島や長崎での原爆投下、東京をはじめとする各都市での空襲、沖縄における地上戦、硫黄島や海外での激しい戦いなどで、...天皇陛下65歳の御誕生日会見全文1

  • 思い出フォト 156 富士山の日

    2月23日は語呂合わせで富士山の日になります。夏の富士山伊豆の国市葛城山から富士山静岡空港展望デッキから景勝地日本平から飛行機内から日本平夢テラスから清水市街地と富士山思い出フォト156富士山の日

  • 歴史紀行 特別編 42 ‐ 7 226事件 7 陸軍二大派閥

    帝国陸軍刑務所刑場跡(226事件慰霊碑)東京都渋谷区宇田川町陸軍二大派閥大日本帝国陸軍は建軍以来、江戸時代の旧長州藩出身者が陸軍首脳をはじめ、優先して陸軍の重要ポストに就いていたことから名付けられていた【長州閥】。建軍当初からドイツやフランスに近代軍略を学び、多くの犠牲を払いながら勝利した日清、日露戦争から15年あまり、陸軍士官学校を優秀な成績で卒業して武官として第一次世界大戦の戦場を見た3人の将校がいました。永田鉄山長野県出身小畑敏四郎高知県出身岡村寧次東京府(都)出身いずれも士官学校16期生の同窓で、陸軍の将来を嘱望された16期三羽烏とも呼ばれました。地続きの国境を接したヨーロッパが主戦場となった第一次世界大戦は、陸軍の作戦と兵器の充実が重要視され、何より勝敗が国家の存亡に直結しかねないため、総力戦と...歴史紀行特別編42‐7226事件7陸軍二大派閥

  • 歴史 今日の出来事 2月22日 1467年2月22日(応仁元年1月18日) 応仁の乱勃発

    応仁の乱勃発地碑上御霊神社京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町794年延暦13年、大和国(現在の奈良県奈良市)にあった都が京に移る平安遷都が成されました。時の帝桓武天皇は、この時期続発する疫病や天災は、非業の死を遂げた弟・早良親王(さわらしんのう)の怨霊にあると考え、親王の無念を鎮めるため御霊として祀ったのが御靈神社(ごりょうじんじゃ・上御霊神社)の始まりです。以来、不遇のうちに亡くなった高貴な身分の人を祀り、橘逸勢や吉備真備など八柱が増祀されました。応仁の乱足利尊氏が室町幕府を開幕して100年あまり、幕政はすでに市井の民の暮らしなど考えることも無くなり、管領や侍所所司を拝命した有力守護大名による合議制の体裁をとっていましたが、守護大名の家督を得ることが莫大な権力を有することから、争う側は他家を味方に...歴史今日の出来事2月22日1467年2月22日(応仁元年1月18日)応仁の乱勃発

  • 歴史 今日の出来事 2月21日 治承4年 (1180年) 2月21日 言仁親王 践祚、安徳天皇即位

    安徳帝御入水之処碑山口県下関市みもすそ川町治承4年2月21日(1180年3月18日)平清盛の孫にあたる高倉天皇の第一皇子・言仁(ことひと)親王が3歳で践祚して第81代天皇となる安徳天皇に即位されました。この半年後には、伊豆蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が挙兵、源平合戦が始まります。安徳天皇の在位は5年あまり、壇ノ浦の戦いで敗れた平家と運命を共にします。歴史今日の出来事2月21日治承4年(1180年)2月21日言仁親王践祚、安徳天皇即位

  • 思い出フォト 155 長嶋茂雄ランニングロード

    読売巨人軍長嶋茂雄ランニングロード静岡県伊豆の国市吉田プロ野球で巨人軍V9時代の四番打者として大活躍した長嶋茂雄さんが今日89歳のお誕生日を迎えました。おめでとうございます!野球人にして89歳、この語呂合わせも霞むくらいスポーツマンとして偉大な方です。【我が巨人軍は永久に不滅です】この言葉は、読売巨人軍【巨人】で四番打者を務めた長嶋茂雄さんが引退試合の後のスピーチで発したもので、昭和のプロ野球史に残る名言だと思います。以下、長嶋茂雄選手による引退試合スピーチ全文です。長嶋茂雄〜昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、今日まで17年間、巨人並びに長嶋茂雄のために、絶大なるご支援を頂きまして、誠にありがとうございました。皆様から頂戴致しましたご支援、熱烈なる応援を頂きまして、今日まで、私なりの野球生活を続けて参り...思い出フォト155長嶋茂雄ランニングロード

  • 歴史めぐり 街物語 11‐ 9 静岡県掛川市 9

    龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんだいゆういんたまや)掛川古城のあった子角山に築城されたこの霊屋は、徳川将軍家も4代家綱の時代の1656年(明暦2年)掛川藩主北条氏重が徳川家光の霊牌を祀るべく建立した瓦葺きの華麗な造りで、これは、後継ぎに恵まれなかった北条家が無嗣改易を逃れるべく建立したとも言われます。下総国岩富藩、1万石の小藩主ながら、母方が徳川家康の異父、久松氏に連なる家柄のため、譜代大名並みに扱われ、氏重は最終的に掛川藩主として落ち着きます。氏重の掛川藩主としての統治は10年に及び、その以前に遠江国、掛川の隣である久野藩を21年にわたって治める等、この地方に深く根付いた藩主でしたが、生まれた子はすべて女児のために嫡子後継ぎに恵まれずに死去、無嗣断絶で改易となりました。氏重の長兄、正光は甲斐武田旧臣の保科...歴史めぐり街物語11‐9静岡県掛川市9

  • 静岡市 ガンダム立像 設置を要請へ

    18日の静岡新聞朝刊に夢踊る記事が掲載されました。静岡市、ガンダム立像設置を働きかけ。現在のバンダイホビーセンター夏に新工場が本格稼働する静岡市のバンダイホビーセンターは、一般開放もされるらしいので、見学が楽しみです。こちらは東京、台場の等身大ユニコーンガンダム静岡市ガンダム立像設置を要請へ

  • 歴史紀行 特別編 42 ‐ 6 226事件 6 一夕会

    旧帝国陸軍刑務所刑場跡(226事件慰霊碑)東京都渋谷区宇田川町昭和3年6月4日満州で対日軍閥政治指導者、張作霖を爆殺した帝国陸軍の満州部隊〜関東軍による謀略は、その事件の報告と、関係者を軍法会議にかけると約束したにも関わらず、軽微な処罰で終わらせたことをめぐって昭和天皇を激怒させた田中義一内閣が総辞職、田中義一首相に至っては、辞職から三月も経たないうちに狭心症を発症させて急死するという衝撃的な事件でした。この首相という肩書きのみならず、元長州藩士で、帝国陸軍出身でもあった田中義一の死は、明治時代から帝国陸軍に連綿と受け継がれてきた長州閥の終焉を意味していました。同じ頃、強大だった藩閥勢力に対抗しうる力も組織も持ち合わせていなかった中堅以下の将校や下士官たちが国を憂うあまり、国策や軍の在り方について語り合う...歴史紀行特別編42‐6226事件6一夕会

  • 歴史めぐり 街物語 11 ‐ 8 静岡県 掛川市 8

    高天神城跡静岡県掛川市上土方嶺向高天神を制する者は遠江を制す。高天神城は標高132メートルの鶴翁山に築かれ、さほど高くはないものの、鶴翁山全域が急峻、堅牢な山間に天然の曲輪と堀に守られた要害として恐れられ、まさに難攻不落の城でした。三日月井戸夏季には金魚が放されています。源平合戦の折、土方次郎を名乗る者が鶴翁山に砦を築いたとされ、戦国時代に入ると、今川家重臣の福島正成が城代を務めました。1568年、今川が滅亡した後は、三河から進出した徳川家と甲斐から南下した武田家との間で激しい争奪戦が繰り広げられました。大河内政局石牢1574年、天正2年武田信玄の襲来には耐えた高天神城でしたが、武田勝頼による武田二度目の襲来時に城主の小笠原信興が降伏、徳川の軍監として入城していた大河内政局は降伏を拒否して石牢に入れられま...歴史めぐり街物語11‐8静岡県掛川市8

  • NEXT HISTORY PLACE 歴史めぐり 街物語 8

    この城を征した者が遠江を制すそう言い伝えられた城が掛川にありました。まとめ次第掲載いたします。NEXTHISTORYPLACE歴史めぐり街物語8

  • 今日いち-2025年2月16日

    この写真を撮るべく、片道約20キロを走りました。たかが一枚…されど一枚…。歴史探索の醍醐味なり。今日いち-2025年2月16日

  • 歴史めぐり 街物語 11 ‐ 7 静岡県 掛川市 7

    潮騒橋静岡県掛川市国安【歴史めぐり街物語】の記事も100本目となりました。今回はまだ比較的浅い歴史ですが、橋を取り上げました。掛川の最南端、遠州灘を見渡す国安砂丘から菊川の河口に架かる珍しいデザインの橋があります。潮騒橋と名付けられたこの橋は、太平洋岸自転車道(千葉県から和歌山県までを結ぶ日本最長の自転車専用道路)を兼ねた静岡県内の浜松御前崎自転車歩行者専用道路橋で、1995年(平成8年)に開通し、今年で開通30周年を迎えます。菊川の河口潮騒橋は、長さ232メートル、幅3メートル、河口からの高さは9.5もあり、これは菊川河口からの大東マリーナから船舶を通航させるためでもあります。景観にも特徴的な橋のデザインもこれには理由があり、4径間連続上路式PC吊床版橋という聞き慣れない世界的にも珍しい形式の橋で、よく...歴史めぐり街物語11‐7静岡県掛川市7

  • 歴史紀行 87 ‐5 源 範頼 墓所 5

    源範頼墓所静岡県伊豆市修善寺寿永3年(1184年)10月、源頼朝より、3万もの大軍を預けられた範頼は鎌倉を発ち、京から中国、九州へと渡り、平家に味方する勢力の切り崩しにかかります。瀬戸内海に強い勢力を持つ平家に対して兵糧、馬の欠乏に苦しむ範頼は度々進軍を留めざるを得ずにいましたが、大軍進軍の効果もあり、平家方だった豊後国(現在の大分県)の豪族、緒方惟栄を味方に引き入れたことにより船団の確保に成功すると、範頼は軍勢を九州に上陸。筑前国(現在の福岡県)葦屋浦で戦いに勝利して大宰府を押さえたことにより平家の退路は絶たれたことになります。葦屋浦の戦いから10日あまり、四国、屋島の戦いで平家が源義経に敗れると、逃れるべき九州の地は既に源氏に抑えられ、残るは平知盛が死守していた長門国(現在の山口県)の彦島のみでした。...歴史紀行87‐5源範頼墓所5

  • 歴史 今日の出来事 2月14日 天慶3年2月14日(940年3月25日) 平将門 敗死

    将門塚東京都千代田区大手町天慶3年2月14日(940年3月25日)平将門、敗死左遷され、怨念を抱いて世を去った菅原道真の様に、死後怨霊として日本中を恐怖に陥れた武将が平将門です。将門塚は、平安時代中期に同族間での所領争いを発端に、その武勇で戦いに勝ち続け、やがて新皇と称して関東一円を支配した平将門の首を祀る塚とされる場所です。将門は、鎮守府将軍平良将の子で、左大臣藤原忠平に仕える身でしたが、918年延喜18年、上洛しても思う様に出世が叶わず、失意のうちに関東に戻ります。帰国した将門は、伯父の平国香らが父、良将の領地を勝手に簒奪していたことに怒り、戦いを挑んで敗死させ、違領を奪い返しました。以来、将門は同族間の戦いを繰り広げうちに朝廷の任官した国府をも攻略し、ついには自らを新皇を称して関東一円を支配したこと...歴史今日の出来事2月14日天慶3年2月14日(940年3月25日)平将門敗死

  • 歴史 今日の出来事 2月13日 1219年(建保7年)2月13日 源 実朝 暗殺

    鶴岡八幡宮神奈川県鎌倉市雪ノ下1219年(建保7年)2月13日鎌倉幕府3代将軍源実朝が甥の公暁により暗殺され、源氏嫡流の血筋が絶えました。初代将軍の源頼朝の急死により、2代将軍となった頼家の就任は、頼家の乳母を輩出した比企氏と、頼朝の正妻である政子の北条氏との間に御家人同士の熾烈な争いを生み、頼家が病に倒れ、昏睡状態となったことを契機に、北条氏が比企氏を滅ぼしました。やがて頼家が昏睡から回復するも、北条氏にとって用済みの頼家は将軍職を廃され、修善寺に幽閉された後、殺害されます。3代将軍に擁立されたのは、正妻政子の妹、阿波局が乳母を務め、北条氏との繋がりが強い頼朝の次男で頼家の弟の実朝でした。3代将軍の実朝の治世は源氏の将軍として最長のものとなりましたが、殺された頼家の遺児、公暁は僧となって京に居ましたが、...歴史今日の出来事2月13日1219年(建保7年)2月13日源実朝暗殺

  • 歴史 今日の出来事 2月12日 慶長8年1603年 2月12日 徳川家康 征夷大将軍宣下 江戸幕府開府

    江戸城跡(現、皇居)東京都千代田区千代田豊臣秀吉が天下統一を果たし、徳川家康は豊臣政権の大老職に就き、ナンバー2の立場となり、江戸入府後も奥州一揆の鎮定に、上洛を経て文禄の役への対策で九州肥前名護屋へ赴くなど、政務で多忙の日々を送ります。家康の留守を関東一円に配置した譜代家臣が他家へ睨みを効かせ、江戸城は大規模な改修も必要とせず、徳川家の経営は江戸の町の開発に勢力をかけることが出来ました。関ヶ原の戦い豊臣秀吉没後、徳川家康は、上洛してこない上杉家を謀反の疑いから討伐する目的で江戸に下向すると、石田三成ら豊臣政権の吏領家臣、毛利、宇喜多、島津といった西国大名が家康弾劾を大義名分に決起し、やがて関ヶ原の戦いの発端が生まれます。江戸に戻った家康は、約一月、味方を含めた全国の諸大名に手紙を発して陣営の構築に腐心し...歴史今日の出来事2月12日慶長8年1603年2月12日徳川家康征夷大将軍宣下江戸幕府開府

  • 歴史 今日の出来事 紀元前660年 2月11日 神武天皇 御即位 2

    神武天皇御像静岡県焼津市焼津焼津神社橿原神宮奈良県橿原市久米町金鵄と大和平定宇陀を平定し、吉野を巡幸する神日本磐余彦のもとには、多くの土豪らが帰順し、大和の国を目指しました。そして生駒山の戦いで苦戦した長髄彦の軍と戦います。長髄彦の軍勢は強く、神日本磐余彦の軍勢も苦戦していました。すると、黒雲が空を覆い、あたりも暗くなり、叩ききつけるように雹(ひょう)が降り出してきました。そして神日本磐余彦の弓の先に一羽の金色の鳶が止まり、燦然と輝きはじめます。長髄彦軍の兵たちは、稲光りによって目を射られてしまい、ついに降参しました。長髄彦の主君の饒速日命(にぎはやのみこと)は、長髄彦に天神の御子である神日本磐余彦にお仕えするように諭しましたが、長髄彦は改める気持ちのないことを知り、やむなく長髄彦を討ちました。長髄彦を討...歴史今日の出来事紀元前660年2月11日神武天皇御即位2

  • 歴史 今日の出来事 紀元前660年 2月11日 神武天皇 御即位

    神武天皇御像静岡県焼津市焼津焼津神社本日、2月11日は建国記念の日です。我が日本国の誕生日ということになります。紀元前660年2月11日、初代天皇となる神武天皇が数々の苦難を乗り越え、大和国橿原宮で御即位されました。初代天皇で在らせられる神武天皇は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御孫で天孫降臨により地上に降りた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の3代目にあたり、神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)といいます。皇后は、事代主神(大物主神)と玉櫛媛との間に生まれた媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)皇后といいます。九州、日向国(現在の宮崎県地方)の高千穂宮で誕生された神日本磐余彦は、瓊瓊杵尊が天照大神から受けた天業恢弘(てんぎょうかいこう〜互いに争うことのない、永遠に困窮しない...歴史今日の出来事紀元前660年2月11日神武天皇御即位

  • 歴史めぐり 街物語 10 ‐ 6 静岡県 掛川市 6

    十九首塚静岡県掛川市大池十九首塚史跡公園平将門は、同族の所領争いを発端に戦いを拡大させ、ついには関東一円を支配下におき、自らを新皇を名乗り出したために、朝廷から討伐される身となり、過去、将門に討たれた平国香の子、平貞盛、縁者の藤原秀郷に将門は討たれました。平将門を討ち取った藤原秀郷は、京都に凱旋する際、将門以下の一族郎党の首級を持って一路西上して京に向かっていました。そして遠州のこの地に到着した時に、京都から首実検のために派遣された勅使が到着します。秀郷は勅使を出迎え、川に近いここで持参した将門主従19名の首実検を行いました。ところが首実検が済むと、勅使は将門と郎党の首を打ち棄てるように命じました。将門主従は、朝廷に対して激しい恨みを持つ者の首なので、京に持ち込むことはならぬという理由でした。それに対して...歴史めぐり街物語10‐6静岡県掛川市6

  • 今日いち-2025年2月9日

    ZARD35周年記念アルバム先ほど届きました。聴きながらゆっくり過ごします。今日いち-2025年2月9日

  • 歴史めぐり 街物語 10 ‐ 5 静岡県 掛川市 5

    小夜の中山~静岡県掛川市佐夜鹿~小夜の中山は、東海道の金谷宿と日坂宿の間の峠道のことで、古くから、箱根峠や鈴鹿峠と共に、東海道の三大難所として知られ、また長い傾斜の続く約1里(約4キロ)の道のりは、歌枕として古今集や勅選集などで歌われ、鎌倉時代初期に西行法師が詠み新古今和歌集に入れられました。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」この歌は、西行が源平合戦の折り、平重衡の兵火により灰塵に帰した東大寺再建のために東国へ砂金勧進の旅路で読んだ歌碑などがあり、また、江戸時代の俳聖~松尾芭蕉も奥州に赴く過程で、【道のべの木槿(むくげ)は馬にはくはわけり】~現釈~道端に咲いたムクゲの花が馬にパクリと食われてしまったよ~と野ざらし紀行で素朴な句を詠んでいます。1335年建武3年の中先代の乱では、北条時行...歴史めぐり街物語10‐5静岡県掛川市5

  • 台場 シンボルプロムナード公園 冬の花々

    東京台場フジテレビ本社前数々の女性の人権軽視すっかり大炎上のイメージが定着した痛いテレビ局〜フジテレビのある台場1月期の月九ドラマ〜119エマージェンシーコール〜は中々良いドラマだと思うだけに残念な気持ちです。巨大ショッピングモール〜ダイバーシティプラザTOKYO〜シンボルプロムナード公園台場シンボルプロムナード公園冬の花々

  • ZARDヒストリーメモリアル 17 愛が見えない

    ZARD15thシングル愛が見えない1995年6月5日リリース作詞坂井泉水作曲小澤正澄編曲葉山たけし愛が見えない歌詞あの頃は楽しかった仲間も多くてたわいもなく何時間も話してた遊びの帰りいつも終電に乗り遅れたね懐かしいなあのドーナツ屋さん朝一番の始発で帰る私はひどい顔出かけていく時の私とは別人の顔このごろ逢えばケンカばかり一緒に居すぎかな愛が見えない今の時代都会(まち)はみんな急ぎ足できっと誰もが孤独なのにあなたも私もそれを見せない!一人で生きて行くほど強くないくせに時々独りになるのが好きになる一番肝心な貴方(ひと)に何故優しくできないの?他の人には気を使うのに電話を切ったのはどっちが先私が先「もう別れよう」と言い出したのはあなたが先夢を捨てるのが大人なら大人になんかなりたくない愛が見えないもうこれ以上あな...ZARDヒストリーメモリアル17愛が見えない

  • 歴史 今日の出来事 2月7日 寿永3年(1184年)2月7日 一ノ谷の戦い

    源義経像元暦元年/寿永3年2月7日(1184年3月20日)一ノ谷の戦い。源義経ら源氏軍が「鵯越(ひよどりごえ)の奇襲」により平氏に圧勝〜平家を討伐せよ〜以仁王の令旨により、全国の源氏に向けて発せられた令旨により、源氏勢力の先駆けとなった源義仲(木曽義仲)の勢いと奇策に翻弄された平家軍は、倶利伽羅峠の戦い以来連敗を喫し、ついには都落ちとなって九州に逃れました。ただ、入京した義仲の軍勢の乱暴狼藉が目に余り、次第に支持を失い、平家も態勢を立て直すと備中、水島の戦いで義仲軍を破りました。後白河法皇は義仲を見限り、鎌倉の源頼朝を頼ることを察知した義仲に幽閉される事態となります。後白河法皇による密使により立つ意志を固めた頼朝は、弟の範頼と義経を召します。宇治で義仲を破り、さらに頼朝の派遣した軍勢は京に入りました。11...歴史今日の出来事2月7日寿永3年(1184年)2月7日一ノ谷の戦い

  • 歌碑 1 ‐ 4 ZARD 負けないで 4

    ZARD負けないで歌碑神奈川県横浜市緑区ZARD…1990年代を代表するボーカルユニットですが、ZARDという名称自体は、英語辞書を調べても意味は出てきません。プロデューサーである長戸大幸氏が命名した【ZARD】という言葉には、初めてベンツに乗った時の記憶の中に、HAZARDランプが深く印象に残ったそうです。そこから一文字外し…【AZARD】…もう一文字外し…【ZARD】…ZARD…というのは、トカゲを表す【LIZARD】魔法使いを表す【WIZARD】吹雪を表す【BLIZZARD】そして危険を表す【HAZARD】どの言葉も何処か敬遠されるだろう意味合いを持ち、坂井泉水が足を踏み入れるロックの世界が持つ退廃的、反体制的なイメージにピッタリじゃないか?という感覚から来たものでした。このロックのイメージが強いバ...歌碑1‐4ZARD負けないで4

  • 歴史めぐり 街物語 10 ‐ 4 静岡県 掛川市 4

    事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)静岡県掛川市八坂東海道の宿場町日坂宿は、難所である峠道の小夜の中山の西の宿場町として、江戸方面からは小夜の中山を越えた直後の宿場として栄えました。日坂宿の街道沿いに、京の清水寺を創建した坂上田村麻呂がこの地に神社を建立した記録が残ります。平安時代創建と伝わる事任八幡宮は、征夷大将軍〜坂上田村麻呂が東征の折り、桓武帝の勅を奉じて本宮山より遷座す…という延喜式927年の神明帳にあります。事任八幡宮御由緒より~佐野郡己等乃麻知神社とあるはこの社なり古代より街道筋に鎮座遠江に座す願いことのままに叶うありがたき言霊の社として朝廷を始め全国より崇敬されしことは平安朝の「枕草子」に記載あるを見ても明らかなり「世が貴族社会より武家社会に移るや八幡信仰が一世を風靡し康平五年(1062)源...歴史めぐり街物語10‐4静岡県掛川市4

  • 歴史紀行 87 ‐ 4 源 範頼 墓所

    源範頼墓所静岡県伊豆市修善寺範頼、源氏本隊を指揮元暦元年(1184年)1月、木曽義仲を近江に破って鎌倉に凱旋した範頼に頼朝は、ついに平家を討つ時が来たと総勢6万の大軍を預けて送り出し、京で義経に1万の軍勢を分け、範頼の本隊は福原(現在の神戸市)に舞い戻った平家軍を東から討つべく京から摂津を目指します。義経は京から北西の丹波へと迂回し、三草山の戦いで平家軍を破り、ここで土肥実平に大半の軍勢を預けて南下、あの鵯越を目指します。範頼の大軍は鎌倉の大手軍として、京から西国街道を進軍、福原、一ノ谷に陣取る平家軍と生田で激突します。福原の平家軍はおよそ10万…生田に進軍した範頼の大手軍とは2倍の兵力差がありましたが、義経の軍勢から分かれた土肥実平の隊が福原の西、明石口から攻め込み、挟み撃ちにします。東西からの挟撃に忙...歴史紀行87‐4源範頼墓所

  • 歴史 今日の出来事 2月4日 治承5年 2月4日 平清盛 死去

    治承5年閏2月4日(1181年2月19日)元太政大臣平清盛死去平安時代後期、武家の身分ながら、天皇家、朝廷内の権力闘争を巧みに利用して昇殿の地位を獲て、保元、平治の2度の乱に勝利して権力を手中にし、平家一門の繁栄を築いた平清盛がこの日亡くなりました。白河、鳥羽、崇徳、後白河と歴代天皇と渡り合い、やがて朝廷内の権力を掌握した清盛は太政大臣にまで上り詰め、この世の春を謳歌するも、権力者の驕りから生まれた小さな綻びは、民と寺社勢力、それに同朋だった武家をも恨みの対象に平家、とりわけ一門への反発を生み、治承四年の夏には、かつて平治の乱の戦後処理で伊豆に流した源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵、孫の維盛を派遣して討伐に向かうも富士川の戦いで大敗。大和で僧兵鎮圧を任せた五男、重衡に至っては焼き討ちにより東大寺、興福寺といっ...歴史今日の出来事2月4日治承5年2月4日平清盛死去

  • 歴史めぐり 街物語 10 ‐ 3 静岡県 掛川市 3

    晴明塚静岡県掛川市大渕昨年、1年間にわたって放送された大河ドラマ〜【光る君へ】主人公のまひろこと、後の紫式部が時の権利者〜藤原道長との生涯をかけた出世と源氏物語、それに二人のラブストーリーを絡めた物語でした。物語の序盤からこの時代を生きた陰陽師〜安倍晴明も登場し、藤原道長の出世にも手を貸す役割を演じていました。清明塚静岡県の南部、御前崎市と浜松市を結ぶ国道150号の掛川市大渕町付近から南への小路へ入ると、1000年の昔、京の都の陰陽師、安倍晴明が津波を防いだという言い伝えのある晴明塚があります。平安時代、京の都で高名な陰陽師、安倍晴明がこの地方を訪れた際に高波の被害が絶えず、作物もろくに育たずに困るこの地方の民に請われ、晴明は祈祷を始めることにしました。晴明は小豆色の石ばかりを集めて積み上げて塚を作り、祈...歴史めぐり街物語10‐3静岡県掛川市3

  • 歴史めぐり 街物語 10 ‐ 2 静岡県 掛川市 2

    掛川城御殿静岡県掛川市掛川掛川城天守からは御殿が良く見下ろせます。天守の城が戦時、戦うための施設であることは重要ですが、大名、藩主において最も大切なことは、平時において如何に領国を安定した経営を行うか…でした。御殿は儀式、幕府からの公式な対面など、式典や藩主、重臣らによる通常の政(まつりごと)といった政務を行う藩庁(現在で例えば県庁の様な地方行政)の役割りを果たしました。掛川城御殿は、江戸時代も幕末に入るペリー来航(嘉永6年)の翌年、1854年、安政元年に発生した安政東海大地震により倒壊した後に再建された七つの棟からなる書院造りの建築様式で、各部屋大小の差はあれど、畳を敷き詰め、襖により仕切られています。玄関三の間報刻の大太鼓江戸時代幕末期の安政時代に城下に刻限の時を知らせる時報の役割りを果たした。二の間...歴史めぐり街物語10‐2静岡県掛川市2

  • 歴史めぐり 街物語 10 ‐ 1 静岡県 掛川市 1

    掛川城静岡県掛川市掛川掛川城を街のシンボルとする地方都市〜掛川市は、基幹産業は茶を主力とする農業ですが、昭和時代にNEC、資生堂、YAMAHA、SUZUKI、パナソニック、ユニ・チャームといった大手企業が次々と進出して企業城下町の側面もあり、飛躍的に人口が増加しました。掛川城街のシンボリックキャッスルである掛川城は、戦国時代前期の1497年、明応6年頃に駿河の守護大名今川義忠が重臣朝比奈泰煕(やすひろ)に遠州(遠江)支配の拠点として現在の天守閣から東部にある子角山(ねずみ山)に築かせました。足利将軍家の縁戚である駿河守護の今川氏の領国経営は拡大化し、やがて子角山の掛川城では手狭となり、西部の龍頭山に新たな掛川城が築城されました。今川時代の掛川城は譜代重臣の朝比奈氏が子孫代々務め、孫の朝比奈泰朝が城主のとき...歴史めぐり街物語10‐1静岡県掛川市1

  • NEXT HISTORY PLACE 歴史めぐり 街物語 掛川市

    月末繁忙で記事投稿が停滞してました。まとまり次第、投稿いたします。NEXTHISTORYPLACE歴史めぐり街物語掛川市

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