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「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き https://taiheiki.blog.jp

「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」

『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】  に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。

いかるのうた
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2021/01/03

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  • 五 長崎新左衛門尉意見の事 付けたり阿新殿の事 ~2~

    このことが京都に伝わったところ、この資朝の息子国光の中納言が、その頃は阿新殿と言って十三歳でいらっしゃったが、父が囚われ人となった時から仁和寺あたりに隠れておられたけれども、父が討たれると聞いて、「もはや何のために命を惜しむことがあろうか。父とともに斬

  • 五 長崎新左衛門尉意見の事 付けたり阿新殿の事 ~1~

    今上帝のご謀反の事が露見して後、帝の位はすぐに持明院殿の方に移るだろうと、近習の人々や若い女房に至まで喜び合っていたのだが、土岐が討たれた後も、いっこうにその沙汰がない。今また俊基が鎌倉に呼び下されたけれども、御位についてはどういう措置がなされるという

  • 四 俊基朝臣再び関東下向の事 ~2~

    人は止めても旅の憂さを止めてはくれぬ逢坂の、関の清水のもとで袖を涙でぬらし、山路を越えた末に打出浜に出て、沖を遙かに見渡せば、湖に漕ぎ出していく舟に浮き沈みする我が身が思われ、馬の踏みならす瀬田の唐橋を渡って、行き交う人に会いながら近江路を行き、畝をな

  • 四 俊基朝臣再び関東下向の事 ~1~

    俊基朝臣は、先年土岐十郎賴貞が討たれた後、召し捕らえられて鎌倉までお下りになったが、さまざまに申し開きされた事がもっともと認められて、赦免されておられたが、またこの度の二人の白状によって、陰謀の企てはもっぱらこの人にあったと書かれていたので、七月十一日

  • 三 三人の僧徒関東下向の事 ~3~

    昔、天竺の波羅奈国に、戒定慧の三つの学問を兼ね修められた一人の僧がおられた。国の代表的な高僧として、帰依し仰ぎ見ることはあたかも釈迦が悟りを開いたときのようであった。 ある時、その国の王様が法会を行うことがあって、懺悔法要の導師としてこの僧を招かれた。

  • 三 三人の僧徒関東下向の事 ~2~

    二人の使者は帰参して、あの僧たちが祈った本尊と護摩壇の様子を絵図に描いて報告する。俗人の見て分かるものではないので、佐々目の賴禅僧正をお招きしてこれをお見せになると、「間違いない調伏の法だ」と申されたので、「それならばこの僧たちを拷問せよ」ということで

  • 三 三人の僧徒関東下向の事 ~1~

    同じ年六月八日、幕府の使者は三人の僧たちをお連れして関東に下る。 あの忠円僧正と申し上げるのは、浄土寺慈勝僧正の門弟として、「十題判断」の試験の合格者で、叡山に並ぶ者のない学者である。 文観僧正と申し上げるのは、元は播磨国法華寺にいた僧だったが、壮年

  • 二 僧徒六波羅へ召し捕る事 付けたり為明詠歌の事 ~2~

    また、二条中将為明卿は、歌道の達人であって、月の夜や雪の朝、和歌の批評会などに呼ばれて、宴に参加することが空くときがないほどだったので、さしたる嫌疑のない人だったけれども帝のお考えを尋ねるために召し捕らえられて、斉藤某にお預けとなった。 五人の僧たちの

  • 二 僧徒六波羅へ召し捕る事 付けたり為明詠歌の事 ~1~

    「事の漏れ安きは、禍ひを招くなかだち」であるので、大塔宮(護良)のお振る舞いや、宮中での調伏の法が行われていることは、一々幕府に聞こえてしまっていた。相模入道は大変怒って、「困ったことにこの君がご在位の間は、天下は静まるまい。結局は帝を承久の変に習って

  • 一 南都・北嶺行幸の事 ~2~

    そもそも元亨以後、帝は愁え、その臣下は辱めを受けて、世の中に全く落ち着いたときがない。こうした時を選んで、今、南都北嶺への行幸は、帝のどんなお考えからであろうかと察するに、近年相模入道は、その振る舞いがこれまでの不義を超えるものだった。東国の野人達は幕

  • 一 南都・北嶺行幸の事 ~1~

    元徳二年(一三三〇年)二月四日、行事職の弁別当万里小路中納言藤房卿をお呼びになって、「来月八日、東大寺と興福寺に行幸したい。早速供奉の者たちに申しつけよ」と言い出されたので、藤房は昔の例を調べて、供奉の衣装、道中の行列をお決めになる。佐々木備中守(時信

  • 八 資朝・俊基関東下向の事 付けたり御告文の事 ~3~

    すぐに万里小路大納言信房卿を勅使として、この告文を関東へお下しになる。 相模入道は秋田城介を使って告文を受け取り、その場で開封しようとしたのを、二階堂出羽入道満蘊が厳しく諫めて、「天子が武人に対して直接告文を下されたことは、異国にも我が国にもまだその

  • 八 資朝・俊基関東下向の事 付けたり御告文の事 ~2~

    七月七日、今夜は牽牛織女の二つの星が、かささぎが橋を渡して一年の思いを解き放す夜なので、王朝人の風習として竹竿に願いの糸を掛け庭先に果物を並べて、七夕の祭りを行う夜であるが、世の中が騒がしい折なので、詩歌を供える風流人もなく、管弦を奏する楽人もいない。

  • 八 資朝・俊基関東下向の事 付けたり御告文の事 ~1~

    土岐と多治見が討たれて後、帝のご謀反の一部始終があらわになったので、鎌倉の使者長崎四郎左衛門泰光と南条次郎左衛門宗直の二人が上洛して、五月十日、資朝、俊基両人を召し捕り申し上げる。 土岐が打たれた時、生け捕りの者は一人もなかったので、白状は決してなかろ

  • 七 頼員回忠の事 ~4~

    多治見の宿所には小串三郎左衛門範行を先頭として、三千余騎で押し寄せた。多治見は一晩中酒を飲んで酔って、前後不覚に臥せっていたが、鬨の声に驚いて、「これは何事か」と慌て騒ぐ。そばに臥せっていた遊女が、物慣れた女だったので、枕元の鎧を取って着せて、上帯を強

  • 七 頼員回忠の事 ~3~

    そうしている内に、夜が明けて元徳元年(一三二九年)九月十九日の午前六時頃、軍勢が雲霞のごとく六波羅にはせ参じる。 小串三郎左衛門範行、山本九郎時綱が北条氏の紋の入った旗を賜り、討手の大将を承って六条河原へ討って出て、三千余騎を二手に分けて、多治見の宿所

  • 七 頼員回忠の事 ~2~

    その妻は賢い人だったので、朝早く起きてじっとこの事を考えてみると、帝のご謀反が不首尾だったならば、頼みに思う夫はすぐに処罰されるに違いない、もし幕府が滅んだならば、わが親族は誰も生き残れないだろう、それならばこのことを父利行に話して、左近蔵人を内通者に

  • 七 頼員回忠の事 ~1~

    謀反に加わった土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行斉藤太郎左衛門尉利行の娘と結婚して、深く愛していたが、世の中がいよいよ乱れて合戦が起こったならば、千に一つも討ち死にしないということはあるまいと思ったので、早くも名残が惜しかったのであろうか、ある夜寝覚めの

  • 六 無礼講の事 付けたり玄恵文談の事 ~2~

    この韓昌黎というのは、晩唐の末に出て、学識才知の優れた人だった。詩は杜子美、李太白に肩を並べ、文章は漢、魏、晋、宋の中で傑出している。昌黎の甥に韓湘という者がいる。これは学問もたしなまず、詩篇にもかかわらず、もっぱら道教の仙人の術を学んで、何事も無為自

  • 六 無礼講の事 付けたり玄恵文談の事 ~ 1

    この頃、美濃国の住人土岐伯耆十郎賴貞と多治見四郎次郎国長という者がいた。ともに清和源氏の子孫として、武勇の誉れが高かったので、資朝卿はさまざまの縁をたどって、接近され、朋友としての交際がすでに浅くなかったけれども、これほどの大事を簡単に教えたりするのは

  • 五 中宮御産御祈りの事 付けたり俊基偽って籠居の事

    元亨二年(一三二二年)の春の頃から、中宮(禧子)の懐妊の御祈りということで、諸寺・諸山の貴僧・高僧に命じて、さまざまの大がかりな修法や秘法を行わせられる。 中でも、法勝寺の円観上人と小野の文観僧正の二人は、特別な勅命を受けて皇居に壇を構えて中宮のお側に

  • 四 儲王の御事

    [現代語訳] 後宮に皇妃が多く、皇后の他に帝の寵愛を受けている官女は大変に多かったので、宮様が次々にお生まれになって、十六人もいらっしゃった。 中でも、第一の宮尊良親王は、御子左の大納言為世卿の娘、贈従三位為子を母としていらっしゃった方を吉田内大臣定房公

  • 三 立后の事 付けたり三位殿御局の事~2

    その頃、阿野中将金廉の娘に、三位殿の局と申し上げた女房が中宮の御方にお仕えしていたが、帝は一度ご覧になって、他と異なるご寵愛を覚えられた。帝の全てのご寵愛が一身に注がれたので、後宮の全ての美女は顔色がないがごとくであった。三夫人、九嬪、二十七の世婦、八

  • 三 立后の事 付けたり三位殿御局の事~1

    [現代語訳] 文保二年(一三一八年)八月三日、後西園寺太政大臣実兼公の御娘が、皇妃の位に就いて、弘徽殿にお入りになった。この家で女御をお立てになることがすでに五代であったが、これも承久以後、北条氏が代々西園寺家を大事にされたからで、一家の繁栄はすっかり天下

  • 二 関所停止の事

    [現代語訳] そもそも四境七道の関所は、国の厳しい定めを天下に示し、また、非常の時に備えるためのものである。ところがこの度、壟断の故事のごとく利を図って商売往来の難儀、年貢運送の妨げになるということで、大津・葛葉の関の他はことごとく各所の関をおやめになる。

  • 一 後醍醐天皇御治世の事 付けたり武家繁盛の事~2

    [現代語訳] 承久元年(一二一九年)以来、親王・摂関家から世を治め民を安んずることのできる貴族を一人、鎌倉にお下し申し上げて、征夷将軍と仰いで、臣下の武士は拝趨の礼を尽くした。 同じ三年、初めて洛中に一族の中の二人を据えて、両六波羅と称して西国の行政を行

  • 一 後醍醐天皇御治世の事 付けたり武家繁盛の事~1

    さて、我が国の天皇の始め神武天皇から九十五代の帝後醍醐帝の御代にあたって、武家の家臣相模守平高時という者がいた。この時、お上は主君としての徳に背き、臣は臣の礼を失ったのであった。このことから、国内は大いに乱れ、一日も穏やかな日がなくなった。狼煙が天にた

  • 初めに

    初めに また、このブログを始めます。 今回は『太平記』を読んでみます。 私の中で、鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の滅亡までの日本史は、その前後が比較的一本道に見えるのに対して、全くの動乱の時代で色の違う糸が絡み合っているように思えています。後醍醐

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