ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
このことが京都に伝わったところ、この資朝の息子国光の中納言が、その頃は阿新殿と言って十三歳でいらっしゃったが、父が囚われ人となった時から仁和寺あたりに隠れておられたけれども、父が討たれると聞いて、「もはや何のために命を惜しむことがあろうか。父とともに斬
今上帝のご謀反の事が露見して後、帝の位はすぐに持明院殿の方に移るだろうと、近習の人々や若い女房に至まで喜び合っていたのだが、土岐が討たれた後も、いっこうにその沙汰がない。今また俊基が鎌倉に呼び下されたけれども、御位についてはどういう措置がなされるという
人は止めても旅の憂さを止めてはくれぬ逢坂の、関の清水のもとで袖を涙でぬらし、山路を越えた末に打出浜に出て、沖を遙かに見渡せば、湖に漕ぎ出していく舟に浮き沈みする我が身が思われ、馬の踏みならす瀬田の唐橋を渡って、行き交う人に会いながら近江路を行き、畝をな
俊基朝臣は、先年土岐十郎賴貞が討たれた後、召し捕らえられて鎌倉までお下りになったが、さまざまに申し開きされた事がもっともと認められて、赦免されておられたが、またこの度の二人の白状によって、陰謀の企てはもっぱらこの人にあったと書かれていたので、七月十一日
昔、天竺の波羅奈国に、戒定慧の三つの学問を兼ね修められた一人の僧がおられた。国の代表的な高僧として、帰依し仰ぎ見ることはあたかも釈迦が悟りを開いたときのようであった。 ある時、その国の王様が法会を行うことがあって、懺悔法要の導師としてこの僧を招かれた。
二人の使者は帰参して、あの僧たちが祈った本尊と護摩壇の様子を絵図に描いて報告する。俗人の見て分かるものではないので、佐々目の賴禅僧正をお招きしてこれをお見せになると、「間違いない調伏の法だ」と申されたので、「それならばこの僧たちを拷問せよ」ということで
同じ年六月八日、幕府の使者は三人の僧たちをお連れして関東に下る。 あの忠円僧正と申し上げるのは、浄土寺慈勝僧正の門弟として、「十題判断」の試験の合格者で、叡山に並ぶ者のない学者である。 文観僧正と申し上げるのは、元は播磨国法華寺にいた僧だったが、壮年
また、二条中将為明卿は、歌道の達人であって、月の夜や雪の朝、和歌の批評会などに呼ばれて、宴に参加することが空くときがないほどだったので、さしたる嫌疑のない人だったけれども帝のお考えを尋ねるために召し捕らえられて、斉藤某にお預けとなった。 五人の僧たちの
「事の漏れ安きは、禍ひを招くなかだち」であるので、大塔宮(護良)のお振る舞いや、宮中での調伏の法が行われていることは、一々幕府に聞こえてしまっていた。相模入道は大変怒って、「困ったことにこの君がご在位の間は、天下は静まるまい。結局は帝を承久の変に習って
そもそも元亨以後、帝は愁え、その臣下は辱めを受けて、世の中に全く落ち着いたときがない。こうした時を選んで、今、南都北嶺への行幸は、帝のどんなお考えからであろうかと察するに、近年相模入道は、その振る舞いがこれまでの不義を超えるものだった。東国の野人達は幕
元徳二年(一三三〇年)二月四日、行事職の弁別当万里小路中納言藤房卿をお呼びになって、「来月八日、東大寺と興福寺に行幸したい。早速供奉の者たちに申しつけよ」と言い出されたので、藤房は昔の例を調べて、供奉の衣装、道中の行列をお決めになる。佐々木備中守(時信
すぐに万里小路大納言信房卿を勅使として、この告文を関東へお下しになる。 相模入道は秋田城介を使って告文を受け取り、その場で開封しようとしたのを、二階堂出羽入道満蘊が厳しく諫めて、「天子が武人に対して直接告文を下されたことは、異国にも我が国にもまだその
七月七日、今夜は牽牛織女の二つの星が、かささぎが橋を渡して一年の思いを解き放す夜なので、王朝人の風習として竹竿に願いの糸を掛け庭先に果物を並べて、七夕の祭りを行う夜であるが、世の中が騒がしい折なので、詩歌を供える風流人もなく、管弦を奏する楽人もいない。
土岐と多治見が討たれて後、帝のご謀反の一部始終があらわになったので、鎌倉の使者長崎四郎左衛門泰光と南条次郎左衛門宗直の二人が上洛して、五月十日、資朝、俊基両人を召し捕り申し上げる。 土岐が打たれた時、生け捕りの者は一人もなかったので、白状は決してなかろ
多治見の宿所には小串三郎左衛門範行を先頭として、三千余騎で押し寄せた。多治見は一晩中酒を飲んで酔って、前後不覚に臥せっていたが、鬨の声に驚いて、「これは何事か」と慌て騒ぐ。そばに臥せっていた遊女が、物慣れた女だったので、枕元の鎧を取って着せて、上帯を強
そうしている内に、夜が明けて元徳元年(一三二九年)九月十九日の午前六時頃、軍勢が雲霞のごとく六波羅にはせ参じる。 小串三郎左衛門範行、山本九郎時綱が北条氏の紋の入った旗を賜り、討手の大将を承って六条河原へ討って出て、三千余騎を二手に分けて、多治見の宿所
その妻は賢い人だったので、朝早く起きてじっとこの事を考えてみると、帝のご謀反が不首尾だったならば、頼みに思う夫はすぐに処罰されるに違いない、もし幕府が滅んだならば、わが親族は誰も生き残れないだろう、それならばこのことを父利行に話して、左近蔵人を内通者に
謀反に加わった土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行斉藤太郎左衛門尉利行の娘と結婚して、深く愛していたが、世の中がいよいよ乱れて合戦が起こったならば、千に一つも討ち死にしないということはあるまいと思ったので、早くも名残が惜しかったのであろうか、ある夜寝覚めの
この韓昌黎というのは、晩唐の末に出て、学識才知の優れた人だった。詩は杜子美、李太白に肩を並べ、文章は漢、魏、晋、宋の中で傑出している。昌黎の甥に韓湘という者がいる。これは学問もたしなまず、詩篇にもかかわらず、もっぱら道教の仙人の術を学んで、何事も無為自
この頃、美濃国の住人土岐伯耆十郎賴貞と多治見四郎次郎国長という者がいた。ともに清和源氏の子孫として、武勇の誉れが高かったので、資朝卿はさまざまの縁をたどって、接近され、朋友としての交際がすでに浅くなかったけれども、これほどの大事を簡単に教えたりするのは
元亨二年(一三二二年)の春の頃から、中宮(禧子)の懐妊の御祈りということで、諸寺・諸山の貴僧・高僧に命じて、さまざまの大がかりな修法や秘法を行わせられる。 中でも、法勝寺の円観上人と小野の文観僧正の二人は、特別な勅命を受けて皇居に壇を構えて中宮のお側に
[現代語訳] 後宮に皇妃が多く、皇后の他に帝の寵愛を受けている官女は大変に多かったので、宮様が次々にお生まれになって、十六人もいらっしゃった。 中でも、第一の宮尊良親王は、御子左の大納言為世卿の娘、贈従三位為子を母としていらっしゃった方を吉田内大臣定房公
その頃、阿野中将金廉の娘に、三位殿の局と申し上げた女房が中宮の御方にお仕えしていたが、帝は一度ご覧になって、他と異なるご寵愛を覚えられた。帝の全てのご寵愛が一身に注がれたので、後宮の全ての美女は顔色がないがごとくであった。三夫人、九嬪、二十七の世婦、八
[現代語訳] 文保二年(一三一八年)八月三日、後西園寺太政大臣実兼公の御娘が、皇妃の位に就いて、弘徽殿にお入りになった。この家で女御をお立てになることがすでに五代であったが、これも承久以後、北条氏が代々西園寺家を大事にされたからで、一家の繁栄はすっかり天下
[現代語訳] そもそも四境七道の関所は、国の厳しい定めを天下に示し、また、非常の時に備えるためのものである。ところがこの度、壟断の故事のごとく利を図って商売往来の難儀、年貢運送の妨げになるということで、大津・葛葉の関の他はことごとく各所の関をおやめになる。
[現代語訳] 承久元年(一二一九年)以来、親王・摂関家から世を治め民を安んずることのできる貴族を一人、鎌倉にお下し申し上げて、征夷将軍と仰いで、臣下の武士は拝趨の礼を尽くした。 同じ三年、初めて洛中に一族の中の二人を据えて、両六波羅と称して西国の行政を行
さて、我が国の天皇の始め神武天皇から九十五代の帝後醍醐帝の御代にあたって、武家の家臣相模守平高時という者がいた。この時、お上は主君としての徳に背き、臣は臣の礼を失ったのであった。このことから、国内は大いに乱れ、一日も穏やかな日がなくなった。狼煙が天にた
初めに また、このブログを始めます。 今回は『太平記』を読んでみます。 私の中で、鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の滅亡までの日本史は、その前後が比較的一本道に見えるのに対して、全くの動乱の時代で色の違う糸が絡み合っているように思えています。後醍醐
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下