ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
いつもの行幸とうって変わって、鳳輦は数万の武士に囲まれ、公卿殿上人は粗末な駕籠、輿、馬にやっとのことで乗せられて、七条通を東へ七条河原を北へ、六波羅へと急がされなさるので、見る人聞く人は、涙し心を痛めたのだった。 悲しいことよ、昨日は紫宸殿の玉座にお座
この時あちらこちらで生け捕られなさった人々は、まず一宮中務卿親王、第二宮妙法院尊澄親王、峰僧正春雅、東南院僧聖尋、万里小路大納言宣房、花山院大納言師賢、按察使大納言公敏、源中納言具行、侍従中納言公明、別当左衛門督実世、中納言藤房、宰相季房、平宰相成輔、
そうしている内に、燃え広がる火は東西から風に吹かれて、その煙が皇居にかかったので、主上を初めとし申し上げて、皇子たち、公卿や殿上人は皆素足の格好でどこへという当てもなく足に任せて落ちてお行きになる。この人々は、初めの二百mほどは主上をお助け申し上げて前
そこから上はそれほど険しいところがなかったので、あるときは葛の根に取り付き、あるときは苔の上に爪を立てて、四時間ほど苦労して、塀の際まで着いた。ここで一息入れてそれぞれ塀を乗り越え、夜の巡視が通った後をつけて、まず城中の様子を探った。 面の門、西の坂の
この時、備中国の住人陶山藤三義高と小見山次郎なにがしは六波羅の求めに応じて、笠置の城の寄せ手に加わって、木津川を隔てて陣を取っていたが、東国の大軍勢が近江に着いたと知らせを受けて一族郎党を集めて言うには、「お前たち、どう考えるか。これまで数日の合戦に、
こうして日数を経ていた間に同月十一日、河内国から六波羅へ早馬を立てて、「楠兵衛正成という者が帝方になって挙兵したところ、近隣の者たちで志ある者は同調し、志のないものは東西に逃げ隠れている。すぐに国中の民家を襲って兵糧のために調達して運び、自分の館の上に
やや暫くして城門の上のある櫓から、狭間の板を押し開けて名乗って、「三河国の住人足助次郎重範、恐れ多くも天下を治める帝から頼まれ申して、この城の表門を守っている。前陣に進んできている旗は、美濃、尾張の人々の旗と見るが、誤りか。帝のおわす城なのだから、六波
昨日の合戦で帝方が勝ったという話が広まったので、「各地の軍が馳せ参じて面倒なことになると困る」というので、検断職の二人は宇治で四方の手分けを決めて、九月二日、笠置の城へ兵を進める。 南の手勢は五畿内五か国の兵を向けられる。その数七千六百余騎、光明山の後
そうしているうちに、主上が笠置寺に居を定められて近国のお味方の軍が付き従っているということが六波羅に伝えられたので、叡山の衆徒もまた力を得て六波羅へ攻め寄せることがあっては困ると、佐々木判官時信に近江一国の軍勢を付けて大津に向けられる。これでもなお少数
勅使が宣旨を持って楠の屋敷に出向き、事の子細をお伝えになると、正成は弓矢を取る者の面目は、これ以上のことはないと思ったので、是非の思案をすることもなく、まず忍んで笠置へ参上した。主上が万里小路中納言藤房卿を通して、「幕府討伐の事では正成を頼みに思ってい
元弘元年八月二十七日、主上が笠置寺へ行幸なさって、本堂を皇居となさる。初めの一、二日のころは、幕府の威を恐れて参上し仕える人は一人もなかったが、叡山東坂本の合戦で六波羅勢が敗れたと伝わると、当寺の衆徒を初めとして近国の兵達があちらこちらから馳せ参じる。
十 主上臨幸実事に非ざるに依って山門変儀の事 付けたり紀信が事 ~3~
そもそも今回帝が本当に叡山に臨幸なさったのではなかったことによって、衆徒の気持ちがたちまちに変わったということは、ひとたびは事が成らなかったのだが、よく事の次第を考えると、これは帝としてのお考えの浅くないところから出たものであった。 昔、秦が滅んで後、
十 主上臨幸実事に非ざるに依って山門変儀の事 付けたり紀信が事 ~2~
妙法院と大塔宮とは、その夜までずっと八王子におられたが、これでは身が危険だと、ひとまず落ち延びて、帝の御行方を知りたいとお思いになったので、二十九日の夜半の頃に、八王子に篝火をたくさん焚いてまだ大勢が立て籠もっているように見せて、戸津の浜から小舟をお出
十 主上臨幸実事に非ざるに依って山門変儀の事 付けたり紀信が事 ~1~
山門の衆徒は唐崎の合戦に勝って、幸先よしと喜び合うことは並一通りではない。こうして西塔を皇居と定められたことは、東塔にとっては面目を失ったように思われた。 寿永の昔、後白河院が叡山をお頼りになった時も、まず横川へお上りになったけれども、すぐに東塔の南谷
世間が乱れている頃なので、謀反を企てた者たちが連れ去ることがあっては困ると、前日二十七日の午前十時頃に、持明院ご自身と東宮のお二人が六条殿から六波羅の北の方に御幸なさる。お供の人々は今出川前右大臣兼季公、三条大納言通顕、西園寺大納言公宗、日野前中納言資
唐崎の浜というのは、東は湖でその水際が崖になっている。西は深田で馬の足も立たない。戦場になっているところは、平らな砂浜が遙かに続いていて、道が狭い。背後を突こうと思ってもできず、中に閉じ込めようと思ってもできない。だから、衆徒も寄せ手も、お互いに先陣に
そこに、何ものとは分からないが、見物衆の中から、歳十五、六の髪を唐輪に結った子供が、麹塵の胴丸鎧に大口袴の股立ちをたくり上げて、金造りの小太刀を抜いて、快実に走り掛かり、冑の鉢をしたたかに三、四回打った。快実がきっと振り返ってこれを見ると、歳十六ほどの
坂本では、かねてから打ち合わせをしていたことなので、妙法院と大塔宮の二人の門主が、夕方から八王子山へお上りになって御旗を揚げられると、ご門徒の護正院の僧都祐全、光坊の阿闍梨玄尊を始めとして、三百騎、五百騎がここかしこから馳せ参じたので、一夜のうちに軍勢
尹大納言師賢卿は、帝が内裏をお出になった夜、三条河原までお供申し上げたが、大塔宮から様々に命じられた事があったので、行幸を装って山門に上り、衆徒の心をも探り、また軍勢を集めて合戦せよとおっしゃったので、師賢は法勝寺の前から帝の礼服を着て、帝の輿に乗り替
あらかじめ用意していたのであろうか、源中納言具行・按察使大納言公敏・六条少将忠顕が三条河原で追いつき申し上げる。ここからはお車はやめて粗末な張り輿に乗り換えさせ申し上げたけれども、急のことで輿を持つ者もいないので、大膳大夫重康、楽人豊原兼秋、随身秦久武
二人の使者が都に着いて、まだ文箱も開かぬ先に、どうして漏れたのだろうか、「この度の幕府の使いの上洛は、主上を遠国にお遷しし、大塔宮を死罪にし申し上げるためだ」と、延暦寺で明らかにされたので、八月二十四日の夜に入って、大塔宮からひそかにお使いを立てて帝に
嘉暦二年の春の頃、南都興福寺の中で、大乗院禅師房と大和一円の六方衆と呼ばれる主要な末寺との間に確執があって、合戦となった。金堂・講堂・南円堂・西金堂がたちまちに戦火のあおりで焼失した。 また、元弘元年、叡山山門東塔の北谷から戦いが始まって、四王院・延命
奥方は、助光を待ちうけていて、弁殿の成り行きを聞かれることの嬉しさに人目も憚らず御簾から外に出て迎え、「どうでしたか。弁殿はいつ頃都にお上りになるとご返事か」とお訊ねになるので、助光はぽろぽろと涙をこぼして、「すでにお斬られになってしまいました。これ
この朝臣が長年使っていた侍に、後藤左衛門尉助光という者がいる。主人の俊基が捕らえられた後、奥方にお付きして嵯峨の山奥で忍んで暮らしていたのだが、俊基が鎌倉に下されたということを聞いて、奥方が堪えられないほど思いに沈み、嘆き悲しんでおられるのを見申し上げ
俊基朝臣はなかでも謀反の中枢の人なので、遠国に流すまでもなく、早々に鎌倉で斬り申すべきだと決定される。この人には多年の念願があって、法華経六百部を自分で読誦なさっていたが、あと二百部残っていたのを、「六百部を全て誦み終わるまでの命をお待ちくださって、そ
夜はまだ深く、港のほうに行って舟に乗らねば本土に着けないだろうと夜道をたどりながら海岸の方に行くうちに、夜ももう次第に明け離れて、隠れてたどる道もないので、身を隠そうと日暮れを待って麻や蓬の茂った中に隠れていると、追手と思われる者たちが百四、五十騎散ら
ある夜、雨風が激しく吹いて、宿直の郎等たちも、皆主殿から離れたところに寝ていたので、今こそ待っていた好機だと思って、本間の寝所の方を密かに伺うと、本間の運がよかったのか、今夜はいつもの寝所を替えてどこにいるのか分からない。また控えの間に灯りが見えたので
五月二十九日の日暮れに資朝卿を牢からお出し申して、「長く湯にも入っておられませんから、行水をお使いください」と申すので、ついに斬られる時になったのだとお思いになり、「ああ情けないことだ。わが最期の様を見るために、はるばると尋ね下ってきた幼子を一目も見
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下