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  • 980回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉟

    6.着眼点の16.着眼点の1乱後の事後処理も速やかに行われた。3上皇の配流はすでに書いたが、さらに順徳上皇の子である今上天皇(仲恭天皇)は廃された。即位した事も消された為、九条廃帝とも言われる。仲恭と諡号されるのは明治になってからだ。義時は次期天皇を後鳥羽の兄である守貞親王の皇子茂仁親王とした。後堀河天皇である。従って、守貞親王は天皇を経ず、「治天の君」になる。後高倉院という大上天皇の尊号を送られる。歴史上初めての事態だ。別項「光格天皇尊号一件」で重要な先例となるので覚えておきたい。これにて、保元の乱以来の「武者の世」の到来を告げた時代は、大きな画期を迎える。義時・泰時の親子は、「御成敗式目」を制定し法の支配も強め武家社会の安定に努める。この頃には、平家合戦の記憶も遠くなりこの70年に及ぶ戦乱の犠牲者を悼...980回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉟

  • 979回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉞

    5、後鳥羽の君主意識権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもの。鎌倉殿では、尾上松也がハマった。ここでどうしても確認しておかねばならないのが、後鳥羽上皇の君主意識である。ここは、本郷和人氏『承久の乱』に分かり易く書いている。同書「第5章後鳥羽上皇の軍拡政策」の中で、後鳥羽と義時の国家観の違いを説明している。まず、後鳥羽は、「伝統的な国家観」を持っていたとしすべての頂点に皇室がいて、貴族には政治、寺社には文化・宗教、武家には治安維持というように役割分担があり、それを「権門」といい、相互補完しながら最終的には天皇を支えるという事だ。さらに、貴族には大臣・武士には将軍・僧侶には僧正というように権威を与えるのが天皇であり、征夷大将軍もその例外ではない。それに対して、義時の国家観は、在地領主の為の...979回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉞

  • 978回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉝

    3,事件の経緯(発端)後鳥羽上皇は武家及び幕府を朝廷の支配下に置きたかっただけ。事件は、「乱」なのか「変」なのか、単に「合戦」なのか。合戦には違いないが、「変」というと偶発的・短期的なもので、本能寺は「変」である。「乱」は、計画的に準備された戦乱であり戦争に近い。だから応仁の「変」とは言わない。しかし「乱」には反乱の意味合いもある。従って、戦前までは上皇が反乱するのはおかしい、逆賊はあくまでも北条義時であるという「皇国史観」に基づいて「承久の変」と言っていた。しかし、現在教科書には「乱」を採用している。従って、上皇の謀反と言う異常事態なのである。さて、承久元年(1219年)1月、雪中の鶴ケ岡八幡宮で、3代将軍実朝が暗殺される。それをきっかけに遂に時代が大きく動く。以下、坂井孝一氏『承久の乱』をもとに経緯を...978回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉝

  • 977回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉜

    2,源家と皇室不倫・不貞・略奪・そして兄弟親子の殺し合いなどなんでもあり。鎌倉市HPよりここで平家討伐以降の源氏一族の推移を確認する。(昨年の鎌倉殿13人に詳しく描かれた。)源平合戦において、実働部隊を率いて平家を滅亡に追いやったのは義経・範頼の兄弟である。特に、義経は時代のヒーローとなったが、兄頼朝の誤解(讒言による)を受けて奥州平泉で討たれた。範頼も遂には、猜疑心の強い頼朝の前には生き残れなかった。そして頼朝自身も急死する。その後は、源氏一族内の混乱が続く。まず、2代将軍頼家は独断専行が過ぎ御家人達(これが13人)に無理やり権限をはく奪され、それに不満を持った頼家は、自らの乳母の一族である比企家を頼りに実母政子の北条家と対立する。遂には、頼家自身も北条一族を中心にした勢力に追われて殺される。頼家の同母...977回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉜

  • 976回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉛

    ②後鳥羽上皇後鳥羽天皇1神器無き即位白河上皇以降、しばらく院政の時代が続き、「治天の君」(天皇の父で真に権力を持つ上皇)を争う戦いもあり、それに乗じて武士が台頭する。遂には、平安末期、平氏が皇位継承に口をはさみ「安徳天皇の誕生とその悲劇」を生む。そして、この章の主役後鳥羽天皇の登場になる。筆者は、後世に名を残す天皇は、何らかのコンプレックスを持っているのではないかと思う。よく調べると即位の経緯が単純ではなく、複雑な事情を背負っている場合が多い。尊成親王(後の後鳥羽天皇)も、誕生時には天皇に即位する可能性はなかった。それどころか仏門に入る運命だった。長い間戦乱の無かった平安時代は、「平将門の乱」を経て、その後、「保元・平治の乱」で完全に武士の世の中に変化して行く。それは何事も武力で解決する闘いの歴史だ。最初...976回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉛

  • 975回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉚

    ③時として、金銭欲・権力欲・性欲、3欲の絶倫天皇が現れる待賢門院イメージ皇位継承について考えている。その為には、金銭欲・権力欲・性欲は必要だ。特に、性欲は直接的に後継者を多く作ることになるので最低条件である。白河天皇以降は、73代堀河天皇―74代鳥羽天皇―75代崇徳天皇と、順調に皇位が親から息子に引き継がれているようだが、崇徳天皇の母君は、待賢門院(璋子)で、もちろん鳥羽天皇の皇后なのだが、しかし、実父は曾祖父白河天皇と言われている。性について、おおらかな昔の話とはいえ、自分の寵姫を孫である鳥羽帝に差し出した。それだけでも現代では考えられないが、その後にも関係を続けたのである。その待賢門院(藤原璋子)は絶世の美女と言われ、幼少から白河院の手元で育てられ、慈しみ。そして女?にされたのである。その璋子を密かに...975回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉚

  • 974回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉙

    ここまでの着眼点②兄弟相続がまだあたりまえの時代意外なことに、醍醐天皇から後三条天皇までの11人の天皇で、親子相続なのは2例しかない。甥への継承が3例あるので、5例は次世代につないでいるが、なんと兄弟・従兄弟への継承が6例もある。藤原摂関家の思惑が原因だが、古代に多くみられる兄弟相続の習慣が強く残っていたと考えられる。古い歴史では、親子相続では末子相続が主流だった。現代でも末っ子が一番可愛いもので、もしその母が異なると晩年の父親は当然、あとからもらった奥さんとの子を一番可愛がる。現代でも企業の後継者争いなどでは、本妻の子とお妾の子で骨肉の争いになる事件は多い。しかも寿命の極端に短い古代では、相続させる時点で一番若い子に託すのが当たり前の発想だったのかも知れない。その後、兄弟相続が主流になって、長子相続へと...974回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉙

  • 973回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉘

    その4ここまでの着眼点摂関家からの権力の奪還外祖父とは、天皇の母の実家の父の事で、藤原氏の戦略は自らの娘を積極的に天皇家に送り込むことである。現代でも、お母さんの実家のじいちゃんが一番可愛がってくれるのである。当然、全部の皇子が天皇になるとは限らないし、必ず男子をもうけるとも限らない。従って、複数の娘を多岐にわたって皇室に送り込み婚姻関係を結んでいく。数打てば当たる戦法だ。しかし、藤原氏はそんな甘くはない。自分の娘の子(当然男系男子)を皇位につける為には、積極的に政治闘争を仕掛け、時には陰謀も辞さない。多くの場合政敵を無実の罪に陥れた。要は、汚い手を使って来たのだ。ただ、後三条天皇の母は藤原道長の孫だが、父は後朱雀天皇なので、外祖父に藤原氏はいない。さらに、後三条天皇の中宮や后に道長・頼通に繋がる有力な藤...973回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉘

  • 972回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉗

    その3白河天皇の登場「強い生命力が皇室の条件」藤原氏が考案した政権を牛耳る手法は、天皇の母方の祖父になることだった。天皇の父は天皇だから、后に自らの娘を送り込んで外祖父になる。しかし、それに対抗する手法があった。つまり天皇の実の父親、即ち上皇ならもっと力が発揮出来るはずだ。それが「院政」だ。天皇が早々に幼い息子に譲位し継続して権力を維持する。白河天皇の以前にも例はあるが、院庁を構え明確な意図を持って、しかも長期に亘ったのが白河上皇が最初なので、歴史上「院政の開始」としている。現代でも社長が引退後も会長や相談役となって権力を維持することを、「院政だ。」と言われる。決して良い意味に使われない言葉だ。この後、天皇よりも上皇が力を持ち、複数の上皇がいると、最も力を持っている上皇を、「治天の君」というようになる。要...972回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉗

  • 971回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉖

    その2後三条天皇の登場「院政の始まり」壮年期になって満を持して登場した後三条天皇は、次世代を切り開くように次々と親政により政治の実績を積み上げた。代表的なものは、荘園整理令だ。藤原頼通の政権時代に急激に拡大した摂関家所属の荘園は、タックスヘブンの様相を呈していた。これは正に摂関家を外戚に持たない天皇にしかできない改革である。次は、焼失したままの大極殿の再建だった。三条天皇時代に内裏が焼けたことで、道長が「それは天皇の徳の無さ」といじめたことは書いたが、当時はどの天皇の時代も、必ずと言って良いほど内裏が罹災した。徳の無さというより、落雷への知識不足であり、むしろ官僚貴族たちの管理面の甘さだった。後三条天皇は、大極殿の復活のみならず大規模に内裏全体の再建を命じた。その財政基盤を確立する為に、宣旨枡を制定し全国...971回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉖

  • 970回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉕

    ①71代後三条天皇~72代白河天皇天皇の逆襲、院政を確立するその1藤原摂関家全盛期へこの節では、天皇家の政治復権を果たした親子を見て行く。前節で書いたように、光孝・宇多天皇親子の血統が本流となり皇位継承がなされたが、次代の醍醐天皇の母の藤原胤子以降、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条・三条とすべて藤原摂関家の娘が天皇の母となる。そして、後一条・後朱雀天皇の母は有名な藤原道長の娘彰子で、後冷泉の母も道長の娘の嬉子でありここにおいて藤原全盛期を迎える。その次の天皇で今回取り上げる後三条天皇は、宇多天皇以来170年ぶりに母が藤原氏ではなく皇女(三条天皇の子)である。つまり、藤原氏を外戚としない天皇が登場したのである。しかし話はそう簡単ではない。藤原摂関家(北家)は前節で紹介した基経・忠平以降も数々の陰謀を仕掛け...970回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉕

  • 969回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉔

    ⅲ臣籍降下後の復帰宇多天皇さて、宇多天皇は、皇室から離脱し一般貴族からの即位という前代未聞の継承だった。ただ、自らの子には皇位を継承させない意思を表明していた先代光孝天皇はすべての子供(26名)を源氏姓を与え臣籍降下させていた。自らの思い通り後継者を決めたい藤原の総帥基経への気遣いであった。その一人、源定省(さだみ、後の宇多天皇)は、以前、陽成天皇の時代には天皇の侍従をしていた。現在なら、宮家に生まれた男子が皇室を離脱(臣籍降下)して、民間人として宮内庁に一般職員として天皇や皇后の身辺にお仕えしていたところが、その後突然に天皇なったようなものである。従って、陽成上皇との関係は微妙で、『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と嫌味を込めて言ったという逸話が残っている。しか...969回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉔

  • 968回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉓

    その4ここまでの着眼点ⅰ狂気とされる天皇陽成天皇と和歌政権が変わった時、新政権はその正当性を強調したい為に前政権の最後の権力者を貶める。源頼朝が政権を奪った平氏の最後の棟梁平宗盛や、鎌倉幕府の最後の執権北条高時、さらに信長が滅ぼした最後の将軍足利義昭など、いずれも統治能力に欠けるイメージが強い。天皇家でも、武烈天皇や陽成天皇などそうと思われる天皇は何人かいらっしゃる。今回の陽成天皇は、退任後かなりの長壽であった事、奇行、蛮行は20歳までの血気盛んな青年期だけだった事、文徳・清和・陽成の系統への復活の可能性もあった事など、総合的に考えるとおよそ人格に異常のあった方には思えない。退位当時、皇統が変わってしまうとは思ってもいなかったが、別の血統が正統となった為に、後世「奇行の帝」と言われてしまったのだ。ⅱ皇統を...968回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉓

  • 967回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉒

    その3宇多天皇への継承へ宇多天皇しかし、光孝天皇は在位3年で崩御する。つなぎの天皇だったので、即位後自らの親王たちをすべて臣籍降下させていた。あくまでも前天皇の文徳・清和天皇の系統が正統とみなされていたので、自ら権力に邪心がない事の証だった。すなわち、藤原基経は自分の娘佳珠子所生の清和天皇の第七皇子で、貞辰親王(さだときしんのう)に継がせるつもりだった。基経の野望と言うよりは、世間の見方も、光孝天皇の子に天皇を継がせる意見はなかった。しかし、予定より早く光孝が崩御したので、仕方なく臣籍(皇室の配下である公家)にいた源定省(みなもとさだみ)を急遽親王の身分に戻し、皇太子とした。異例中の異例で誕生した。宇多天皇である。ただ、新天皇に基経は強烈な「恫喝」で臨む。それを「阿衡の紛議」という。しかし、基経は事件後、...967回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉒

  • 966回 あちゃこの京都日誌 俺にも言わせろ!!

    俺にも言わせろ!多様性とは何か?様々な意見があって良いのではないか?・同性婚に反対する意見をすべて封じるような風潮には納得出来ない。首相秘書官の発言は確かに差別?的な発言に聞こえる。しかしこれほどの大騒ぎする事だろうか。しかも「オフレコ」条件下での発言らしいではないか。マスコミのモラルは問われないのか。これは、「同性婚や夫婦別姓が至極当然で反対する人間を逆に差別する。」ことにならないか?意見の多様性から言えばそれらの問題に違和感を持つ人たちも多くいるのである。そのような人たちの多くは意見を公には言わない。一方、デモやマスコミでは大々的に取り上げて盛り上げる。あたかも世論の太宗が同事案へ賛成かの如く見える。それは違う。我々世代だけではなく男女の夫婦単位で同じ姓を名乗り子供を育む家庭の形が基本だと考えている人...966回あちゃこの京都日誌俺にも言わせろ!!

  • 965回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉑

    その2藤原基経との関係(光孝天皇の登場)藤原北家の当主は冬嗣、良房と続きその子に適当な子がいなかったのか、甥である基経を養子とし全権を委ねた。この時、藤原氏の総帥はその基経であるが、彼は、養子に乞われたこともあり極めて優秀であった。ただ、直系の後継者でなかった為か、何かにつけて自らの権威を強化することに異常な執念を燃やした。生まれながらのぼんぼんではなかったのだ。これが、陽成・光孝・醍醐と3代の天皇にわたり確執を生む。しばしば辞任をほのめかして、政権に揺さぶりをかけて天皇を脅した。古来、高い地位に就くときは儀礼的に「辞退」することが美徳とされた。しかし、彼は本当に出仕を辞めてしまうことがあったという。つまり「自分がいなければ何も出来ないでしょう?」と、言わんばかりに天皇に圧力をかけて来たのだ。中でも、陽成...965回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉑

  • 964回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑳

    本編257代陽成天皇~59代宇多天皇綱渡りの継承劇その1狂気の天皇陽成天皇歴史には、狂気の王がしばしば登場する。権力を握ってから狂気化する場合、狂気なるものが王権を持ってしまった場合、さらに狂気なる振りをすることで自らの命を守る場合など、色々ある。しかし、勝者が残す歴史は王統の変更(政権の交代)があれば必ず前政権の最後の王者を貶めて記録される。それは、新政権の正統性を強調したい為に行われる歴史書の鉄則だ。陽成天皇もそのケースである。しかし、宮中における殺人事件(自ら犯行を疑われている)など、史実に基づく真実も多く「若気の至り」どころではない激しいもので、相当荒れた性格であったらしい。何せ生後2か月で皇太子、そして9歳で即位したのだからその素質を見極めて天皇になったのではない。父の清和天皇同様、藤原氏の庇護...964回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑳

  • 963回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑲

    その4皇位継承の基本形「皇位は奪わない」この時代重要なことは、「皇位は奪わない」ものにした事だ。藤原氏はいつでも天皇家を滅ぼし自らの一族に皇位を奪うことも出来た。しかし、天皇家の神秘性を利用しその実権のみを奪い取る方が、合理的で権力と財力を得るには上策であることに気づく。これは世界にも例がない日本固有の権力形態となって行く。皇位は奪うのではなく天皇の権威を利用して、権力(実権)を得るのである。天皇は男系男子という限られた制約の中で継承していくが、藤原氏は増殖を繰り返し政権の中枢のみならず、荘園制度を利用して地方政治にも根を張り、和歌や雅楽などの文化にまで支配が及んで行く。もちろん中国のような王朝交代時の徹底的文化破壊は起こらなかった為、文化・伝統芸能などの伝承が間断なく続いた功績は絶大である。藤原家と皇室...963回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑲

  • 962回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑱

    その3薬子の変「平安時代の本格的始まり」イメージ薬子の変とは、桓武天皇の子平城天皇(上皇)が弟の嵯峨天皇に対して、再び皇位を狙い奈良の平城京に都を戻すとして謀反を企てた政変である。しかし、経緯を見るとここには皇位継承の難しさが垣間見える。事件のキーウーマンは、藤原薬子(女性)である。長岡京造営の責任者で暗殺された藤原式家の種継の娘で、その娘の珠名を平城天皇の妃として送り込んでいた。しかし、自分が尚侍として天皇の身辺を世話するうち、あろうことか娘より母である薬子の方が寵愛を得る。現代の美魔女というところか。男というのは若いうちは熟女の魅力には勝てない時期があるものだ。さらに薬子の弟である藤原仲成も重用される。藤原四家のうち、南家は仲麻呂(恵美押勝)の乱で衰退し、京家は強力な人材がなく、北家と式家の権力対立の...962回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑱

  • 961回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑰

    その3藤原氏の陰謀「他氏排斥のドロドロ」藤原氏家紋「下り藤」この後、「この世をば、我が世と思う。望月の・・・。」と、藤原氏の全盛期を迎えるその素地は、この時代に出来た。始祖中臣鎌足が藤原姓を賜り、その子不比等を経て、北家・式家・南家・京家と4兄弟が皇室と複雑に絡み合い、同族間で争い、最終的にほぼ北家が藤原摂関家として天皇以上の権力を把握する。しかし、その権力奪取の歴史はあまりにも暗部が多く解明されない点も多い。以下に陰謀を疑われる事件を列挙して見た。敗者の多くが、怨霊やそれに準じる形で手厚く祀られていることから多くが仕組まれたものと思われる。しかも、権力を得ても天皇家を滅ぼさず、天皇家のパラサイトとなり権力の甘い汁を吸い続ける手法を取った。世界史にもあまり見受けられない巧妙で陰湿な例である。しかも平安時代...961回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑰

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