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  • 998回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」53

    第4章光格天皇皇室史上最大の危機?①傍系からの天皇「不測の天運」による即位光格天皇衣奈塚(上京区清荒神)江戸時代の天皇は、108代後水尾天皇以降、幕末の121代孝明天皇まで、皆さんは何人の天皇をご存知だろうか。この間、皇室は「禁中並公家諸法度」に縛られて幕府の言うがままに、細々と血統を継いで来た。従って、庶民とは関係なく御所奥深くに政治的には全く無意味であったというのが定説だ。しかし、江戸時代の天皇の課題は、応仁の乱から戦国時代に多くを失った宮中における「朝議」の再興への戦いであった。「大嘗祭」という天皇即位時の新天皇の神秘性を獲得する為に欠かせない大変重要な儀式でさえ、実に1466年以来200年以上途絶えていた。なんとか貞享4年(1687年)になって東山天皇により復活した。しかし、これは十分なものではな...998回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」53

  • 997回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」52

    ⑧付録天皇ゆかりの京菓子中村軒「麦代餅」麦代餅後水尾天皇の項で書いた八条宮智仁親王は、「桂離宮」の造営で有名だ。後水尾天皇は叔父である智仁親王の「桂離宮」を参考にして、「修学院離宮」を造ったのであろう。智仁親王は、正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。後陽成は譲位してこの弟に即位をさせたかったのだが、智仁親王は以前豊臣秀吉の猶子となった事があり徳川から拒否されたのである。その後、八条宮家(桂宮家)を創設したのだが、政治的な苦労が多く。晩年は離宮造営に没頭したのである。その桂離宮のすぐ南、八条通りと桂川の交差する西南角にある「中村軒」の「麦代餅」を紹介したい。店先には、峠の茶屋風に吹き流しのれんがかかっている。ガラス張りのカウンターには、紅白饅頭やお餅に加え、赤飯や粽などの定番のものが並んでいる。また、...997回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」52

  • 996回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」51

    ⑦天皇ゆかりの寺院戒光寺後水尾天皇の身代わり写真戒光寺丈六さん戒光寺丈六さん東山区泉涌寺山内町29正式名泉山戒光律寺別称丈六さん宗派真言宗泉涌寺派本尊釈迦如来開基浄業戒光寺は、泉涌寺参道の第一山門から数分歩けば左手に見える。筆者は何度も見逃してしまったので、注意して訪問したい。拝観寺ではないので本堂に上がるには勇気がいる。古いガラス扉を開けると巨大な釈迦如来像が迎えてくれる。鎌倉時代に運慶・湛慶の親子が彫った丈六の像である。2023年3月現在、本堂は大屋根の改修で覆いが掛かっている。ご住職にお伺いしたところ一年かかって間もなく完成との事、改修前の瓦は江戸時代初期の当地への移転当時のもので瓦自体が歴史を物語っている。丈六とは仏の正確な身の丈である一尺六寸(4.85m)の仏像の事だ。当初は大宮八条にあり、洛中...996回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」51

  • 995回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊿

    ⑥お二人の晩年京都洛中にはお二人のゆかりの寺院・神社は数多い。修学院離宮後水尾上皇は、譲位した後は健康も回復したのか、魅せられたように自由に活動している。一番目立つのは修学院への行幸である。岩倉、幡枝御所を中心に離宮建設場所を求めてしばしば訪ねている。平安の昔、嵯峨天皇が、嵯峨野に隠棲の地を定め、後に門跡寺院である大覚寺という官寺を建設したのと同じ構想をもっていた。慶安4年(1652年)、徳川家光が没すると独断で「落飾」し法皇となった後水尾は、この地を仏道の拠点と考えていたのかも知れない。寺院の建設は実現しなかったが、現在も見学希望者の絶えない「閑放の地」を立派につくりあげた。修学院御幸の時は、必ず東福門院を伴っていた。この徳川和子について、前出の熊倉功夫氏『後水尾天皇』には、「むしろ庶民にこそ受け入れら...995回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊿

  • 994回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊾

    ⑤東福門院和子との関係恐ろしや高貴な「血の戦い」東福門院ここで、後水尾天皇の皇子・皇女を、お相手ごとに羅列する。A~G7名の方々から36名のお子様を生ませておられる。もちろん記録に残るものに限られる。腫物に悩まされるもののすこぶる健康な天皇が、多くのお子を成すのは大変結構な事だ。高貴な方達の重要な役目の一つが「生殖活動」である事は何度も書いて来た。しかし、不自然ではないか。健康な男子であれば生殖に最適な年齢は、10代後半から20代前半である。ところがおよつ御寮人事件の四辻与津子との間の2名以外には、20代のみならず譲位するまでは、その中宮徳川和子との間しか子がいない。女性に興味の薄い天皇ではない。上皇となって多くのお子を作っている事から見ても晩年までお元気でいらっしゃる。まことに不思議なことだ。幕府に遠慮...994回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊾

  • 993回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊽

    ④春日の局遂に幕府に宣戦布告した。イメージ従来からの通説では、差し迫った事情というのは、天皇の腫物による「鍼灸治療問題」だと言われている。腫物とは、腫瘍のことで民間では、「でんぼ・おでき」とも言う。現代なら外科手術で切除できるが、良性のものでも熱や痛みを伴ったりすると命の危険を伴い厄介なものだった。当時は、針灸がよく効くとされたが、玉体(天皇の体)には鍼灸はタブーとされた。従って、譲位して自由な身となって治療を受けたかったというのだ。後水尾天皇は、基本的にはとても健康だったのだが、腫物ができやすい体質だったらしく、よほど悩ましい状況だったのだろう。因みに、叔父の八条宮智仁親王が同じ病で死去している。しかし、最近の研究ではそれは、譲位する「口実」であり、便宜的な理由でしかないという見方が有力だ。やはり本当の...993回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊽

  • 992回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊼

    ③紫衣事件朝幕の力関係は幕府優先が確定した。さらに後水尾天皇の君主意識を傷つける事件が起こる。「紫衣事件」である。僧侶が身に着ける法衣・袈裟の色に紫を使う事は最高の地位を現わすものだ。古来より朝廷が許可を出す。当然、朝廷の大きな収入源でもあった。ところが、慶長18年(1613年)の「勅許紫衣法度」と慶長20年(1615年)の「禁中並公家諸法度」で、幕府はみだりに朝廷が授けることを禁じた。ところが、後水尾天皇は従来通り十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていた。そして幕府は、なんと寛永4年(1627年)になって、法度違反だと多くの勅許状を無効にした。当然、幕府の突然の強硬な対応に朝廷は強く反対した。この事件の不思議なのは、最初の「法度」から14年、「禁中並公家諸法度」からは12年たってから何故ここで問題となっ...992回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊼

  • 991回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊻

    ②およつ御寮人事件青年天皇の恋心を踏みにじられ幕府への敵愾心が。晩年の家康後水尾天皇の最初の戦いは、女性問題である。徳川家康は生きている間に、幕府政権を盤石にする為の二つの大きな仕事が残っていた。一つは豊臣氏の抹殺である。関ケ原の戦いの結果、一大名の地位に成り下がった豊臣秀頼だったが、反徳川勢力の象徴的存在である事は間違いなかった。秀頼・淀君に対して、戦乱で荒廃した京都の巨大寺院の再建を促して、その膨大な財力を削ぐよう仕向けたりした。それでも心配で仕方ない。遂に、方広寺の梵鐘の銘文にイチャモンをつけて戦いを仕掛けた。大阪冬の陣・夏の陣である。方広寺の梵鐘そして、もう一つの仕事は、徳川家から朝廷への「入内」である。自らの孫娘を天皇の后にすることで外祖父の地位を獲得することである。藤原摂関家の手法と同じだ。秀...991回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊻

  • 990回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊺

    ・後水尾天皇子後水尾天皇父後陽成天皇①父子不仲即位そのものを希望していなかった。時代は一気に戦国から江戸時代初期に飛ぶ。後醍醐天皇以降の天皇は武士たちの権力争いからは遠ざかり文化・伝統の継承に専念した。専念せざるを得なかった。しかし皇室の経済基盤は大きく損なわれ即位そのものを経済的理由から断念した天皇もいた。前天皇が崩御すれば「践祚」するのだが、前天皇の大喪の儀と新天皇の即位式は、膨大な資金がかかる。もはや皇室には古式に則った儀式を行う経済力は無かったのだ。信長の父、信秀が御所の筑地塀修復に資金を出したところあたりから天皇家の権威を求める動きが見受けられる。後陽成天皇の第3皇子が第3章の主役は政仁(ことひと)親王、以下後水尾天皇という。その生誕の頃は、勇者が戦い続けた戦国時代の終焉を目前にした慶長元年であ...990回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊺

  • 989回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊹

    ⑥後醍醐の失敗「王朝時代の終焉」イメージ遂に後醍醐天皇の「失敗」について書かねばならない。ここでは兵藤裕己氏『後醍醐天皇』(2018年)を参考にする。まず、兵藤氏は時代を俯瞰するならば建武政権は、「王朝の歴史物語の終焉」だと述べている。ここまでは天皇を中心とした公家の権力闘争を軸に、それぞれの派閥に豪族であったり武士集団が離合集散して来た。「薬子の変」から始まった平安時代の戦乱は、しばらく平和な時代を経て、「保元・平治の乱」を境に頻繁に起こる。その後の平家滅亡から承久の変に至る戦乱もすべて王朝内の権力闘争や閨閥闘争が関わって来た。源平合戦も公家の代理戦争が発端だという。雅(みやび)であるはずの王朝物語がしばしば戦乱の原因を作ってしまっていたのだ。しかし、後醍醐天皇の失敗以降は、完全に武士が主役であり「応仁...989回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊹

  • 988回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊸

    ⑤高氏との関係「尊氏の人物像と後醍醐との関係」尊氏とされる肖像足利尊氏は、天皇から後醍醐天皇の諱である「尊治」の一文字を下賜されて「尊氏」と名乗った。従って、建武政権当初の二人は良好な関係であったことは間違いがない。鎌倉で幕府を倒したのは新田義貞だが、倒幕の第一功労者は尊氏その人であった。しかし、歴史的に尊氏の評判は最悪だ。幕府執権の北条家の一族に連なる足利家は、北条得宗家に次ぐ待遇を受けていた名門であった。しかも源義家を源流に持つ源氏の総帥でもあった。(そのあたりは諸説あり怪しいが)要するに北条家を除くと一番幕府に近い家柄のはずだったのだ。それが裏切ったのだ。足利家菩提寺「鑁阿寺」に残っていた※「願文」には三代後には天下を束ねると書いてあり尊氏がその三代目であったとか、当時の征夷大将軍は宮将軍(皇族から...988回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊸

  • 987回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊷

    ④建武の新政「狂気の政権だったか。」後醍醐天皇さて、今回のテーマは「いかに皇統をつないだか」である。従って、何故後醍醐は倒幕にこだわったかを書いて来たが、その前に「建武政権」と「足利高氏」について考えなければその真相にたどり着けない。まず、建武の新政のイメージというものは、「後醍醐天皇が、時代に合わない非現実的な施策を独裁的に行った。」「公家に厚く武士に薄い論功行賞だった為、武士に不満がたまった。」という政治的な批判や、「怪僧文観をそばに置き妖術を駆使した異形の天皇だった。」というのも代表的印象だろう。これはやはり、『太平記』の影響が大きいと思われる。この「太平記史観」により、後醍醐は三種の神器を保有する正当な君主であるが、暗愚で不徳の天皇で自らの血統で皇室を独占したいと考えた。それを必死に支える「忠臣」...987回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊷

  • 986回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊶

    幕府の実情元寇以降の幕府衰弱と各名門家の分裂イメージさて、この間の幕府の事情を確認する。承久の変で完全に朝廷を抑え込んだ幕府だったが、鎌倉時代の中ごろに、結果として幕府滅亡に至る大事件が起こった。「元寇」である。文永11年(1274年)の文永の役、弘安4年(1281年)の弘安の役である。まさに、後嵯峨天皇から後深草天皇を経て亀山天皇に至る「両統迭立」の起因となった時点と重なる。幕府を揺るがす「萌芽が二つ」芽生えた時期であったのだ。元寇は、「神風」をもって守ったが、我々現代の人間は、その後元が衰弱することを知っている訳だが、当時の鎌倉幕府にとっては最大の政治課題が、「九州の防備」となった。外敵に対する備えは、内戦と違って勝者はいない。従って、論考行賞(ご褒美)がない。御家人たちは疲弊するのみであった。さらに...986回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊶

  • 985回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊵

    ②倒幕の必要性後醍醐の倒幕計画に時間の猶予がなくなっていた。さて、大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統の花園天皇から譲位されたが、大覚寺統内部では、後醍醐の異母兄の後二条天皇の皇子(邦良)へのつなぎの天皇と考えられていた。(系図①参照)従って、当時後醍醐は「一代(限り)の主」と言われた。政治的野望のある後醍醐天皇にすれば、自らが地位にあるうちに天皇親政を成し遂げる為には、持明院統に戻すわけにはいかず、その背景には幕府の存在が大きく立ちはだかり、必然的に「倒幕」が現実的になって来るのである。そのあたりを、森茂暁氏『後醍醐天皇』から詳しく見る。系図を参考に理解したい。まず亀山上皇だが、この方は非常に魅力的な方であったようで、両親に可愛がられ兄の後深草から譲位をされて践祚した。本来なら天皇になれなかったはずであるが...985回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊵

  • 984回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊴

    第2章後醍醐天皇①時代背景両統迭立までの経緯後醍醐天皇の登場までの鎌倉時代は前章と重複するが、承久の変以降の皇統の変遷から見る。後鳥羽上皇の御謀反(倒幕計画)の失敗で、当然鎌倉幕府は皇位の継承に関して神経質になった。後鳥羽上皇は隠岐へ遠島となり、皇子である土御門、順徳の両上皇も島流しとなる。ただ、お二人の皇子の立ち位置はかなり違ったものだった。積極的に倒幕計画を推進した弟順徳(佐渡へ遠島)に対して、兄土御門は終始関りがない。それでも土御門は自ら遠島を申し出て土佐に流され、その後阿波に移されている。さて、変の後の天皇を誰にするかは、慎重に検討された。まず、順徳の皇子ですでに即位していた仲恭天皇は廃止(九条廃帝・承久廃帝とも言う)し、高倉天皇の血統にまでさかのぼりその孫にあたる後堀河天皇を即位させた。ところが...984回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊴

  • 983回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊳

    次回は、以降それぞれのケースで問題点など整理すると、男系男子日本の国体を維持するために考えた大原則である。唯一血統を即位の条件にし神秘性を保ってきた。男系とは父親を遡ると天皇に辿り着くとする。ならば、さかのぼるのは何代目まで許すのか?継体天皇は応神天皇の6世の子孫である。時代を経て江戸時代後期の光格天皇は東山天皇の4世である。このあたりが限界である。親子でなければ、あとはほとんどが親の親(つまりは孫)か、親の兄弟(叔父・めい)の関係性がほとんどである。悠仁親王殿下が御健康に成人いただきご結婚後、無事男子をももうけることを望むが、年齢的に男系男子を残すことの出来るは殿下一人であることを考えるとあらゆる事態を想定せねばならない。ただ、現在でも戦後臣籍降下した3世・4世の元皇族男子はいらっしゃる。しかし、それら...983回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊳

  • 982回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊲

    コラム箸休め女性天皇と女系天皇最近、愛子さまの人気が急上昇している。女性天皇も「良し」とする識者も多い。そこで男系男子とそれ以外のケースを整理して論じたい。現在の皇室のケースで分かりやすく書いて行く。上記の図を参考にしてもらいたい。男系男子父親をたどれば天皇に繋がる男子である。これは皇位継承権のある方たちなので順に書くと、第1位秋篠宮様第2位悠仁親王殿下第3位常陸宮様のお三方である。継承資格のある方が3名であるが年齢的には2名しかいないのが現状だ。もちろん上皇陛下と今上陛下は当然にして男系男子だ。当然この方たちが誰と結婚しようが生まれた男子は男系男子である。男系女子父親をたどれば天皇に繋がる女性の方たちで愛子さま始め眞子さま佳子さまなど天皇家や宮家に生まれた女王たちである。もちろんその方たちが男系男子の皇...982回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊲

  • 981回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊱

    7.着眼点の2最近、鎌倉幕府の成立の年代がいつなのか議論になったが、一方、そもそも鎌倉時代の名称についても疑問が呈されている。奈良時代・平安(京都)時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と時の政権のあった場所で時代の名称を決めて来た。しかし、鎌倉時代に政権の中心が鎌倉にだけあったのか?幕府と言っても3代までで、その間京都の朝廷の権威・権限は明確に存在した。しかも4代目以降の将軍は宮家から招へいしたもので北条政権はその権威の下で執権として政治をしたに過ぎない。後鳥羽上皇以降、ほとんど実権はなく後継天皇も自ら決められない皇室になってしまったが、まだまだ無視できない権威を備えていたのだ。さらに鎌倉幕府の京の出先機関である六波羅探題の存在も大きく、鎌倉にだけ政権の中心地があったように解釈する鎌倉時代という呼称は実...981回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊱

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