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  • 1009回 あちゃこの京都日誌 61回 新天皇国紀

    ⑦譲位後の院政と追号・諡号その③松平定信「寛政の改革」・この章の最後に象徴的エピソードを書く。光格天皇譲位後、文政10年(1827年)に将軍家斉が太政大臣に昇進している。その時の仁孝天皇の「御内慮書」が残っている。それには、「徳川家斉の文武両面にわたる功労はぼう大である。」とし、将軍在位40年に及ぶあいだ、「天下泰平を維持し、将軍の徳はくまなく行き渡っている。」と称え、その功績を理由に、武官の長である征夷大将軍に加えて、「文官の長である太政大臣に任じたい。」とした主旨を書いている。歴史上はじめて生前に幕府将軍職と太政大臣をともに給わるという栄誉である。これを見れば、誰が読んでも朝廷が幕府に申し入れ、それを受け入れた結果としか思えない。しかし、近年の研究で事実は、将軍家斉が天皇・上皇に「おねだり」したもので...1009回あちゃこの京都日誌61回新天皇国紀

  • 1008回 あちゃこの京都日誌 60回 新天皇国紀 記念号

    ⑦譲位後の院政と追号・諡号続き桓武天皇光格天皇光孝天皇など白河天皇清和天皇冷泉天皇など・光格天皇の本当の最後の戦いは、天皇号である。ここでは諡号と追号、天皇号と院号を理解せねばならない。まず、桓武とか光格、光孝というのは、諡号であり生前の功績を称えた言わば美称である。一方、追号は、醍醐・冷泉など天皇に因む地名などをつけたもので美称ではない。例外的に、崇徳や安徳のように怨念を生む懸念があった場合には特別な尊号を贈った例がある。しかしいずれも院号であり天皇ではない。村上天皇を最後に子の円融院からは、単に院号を贈っている。その後この時(光格)まで、諡号も天皇号もなかったのである。我々は便宜的に、後醍醐天皇とか後水尾天皇とか言っているが、当時では後醍醐院、後水尾院と言っていた。その意味では極位にありながら、国民の...1008回あちゃこの京都日誌60回新天皇国紀記念号

  • 1007回 あちゃこの京都日誌 59回 新天皇国紀

    ⑦譲位後の院政と追号・諡号白河上皇が始めた「院政」・光格天皇は、文化14年(1817年)に譲位し上皇となった。すでに47歳となっていたが、さらに23年間、院政を行う。光格天皇の復古活動の締めくくりは、院政の復活だった。しかし、平安の昔に白河上皇が始めた「院政」であるが、正しくは院庁(いんのちょう)を設けて朝廷政治の主たる決定権を発揮するものである。ただ、光格院政は全く違うものであった。現代に例えると、以前の院政は「代表取締役会長」のようなもので、社長は引退したものの会長室ですべての施策は決定するものである。一方、光格上皇の院政は、「代表権のない相談役」と言うべきだろう。重要事項については天皇から相談を受けるが、成人した子である仁孝天皇があくまでも朝廷政治の主導権をもっていた。ただ、在位が長く圧倒的存在感の...1007回あちゃこの京都日誌59回新天皇国紀

  • 1006回 あちゃこの京都日誌 新天皇国紀 58回

    ⑥朝儀復興と文化的継承への戦い天下万民を先とし京都蘆山寺話を本題に戻す。このように光格天皇の即位直後の3事件を通じて、天皇が幕府と対等の関係を獲得していく過程がよく分かった。つまり天皇の戦闘能力の向上とも言える。一つ象徴的なエピソードを書く。当時、松平定信の「寛政の改革」の『節約令』は朝廷にも影響していた。しかし、「この節、御省略の儀仰せ出さる。」と、ある公家の日記に書かれてあるように、幕府に関係なく朝廷では光格天皇の判断で倹約に努めていた。従って寛政2年、幕府の指示が来た時も関白始め側近は、「恐れ多い」として伝えなかった。翌寛政3年になって幕府から一定の成果が出て余剰が発生したとして、「給物(たまわりもの)」を配ると言って来た時、これを聞いた光格天皇は、「幕府の指示で倹約したのではない。」と、激怒し「会...1006回あちゃこの京都日誌新天皇国紀58回

  • 1005回 あちゃこの京都日誌 57回 実録小説 爆笑必死

    ⑤架空実録小説「相談役一件」ここまでの話を現代の会社組織にあてはめて見た。登場人物①有限会社朝廷社長光格専務輔平社長実父典仁相談役後桜町(女性)②株式会社徳川社長家斉常務定信社長実父治済成り上がりだが老舗の徳川株式会社は、前政権で一代で急成長した太閤株式会社を乗っ取り、あろうことか日本最古の伝統的な有限会社朝廷を買収し子会社とした。古代からの巨大財閥への影響力や重要な伝統と文化を担う(有)朝廷は、権威はあるが権力はなく生産性は全くない。つまり赤字経営が常態化しているのだ。朝廷の財政は(株)徳川が担っているが、芸能や儀式に精通した朝廷からは、財閥の継続と権威向上の為、次々に要求が来る。幕府にとって誠に難しい対応が続いている。一方、徳川も創業時の勢いはなく売り上げ低迷と、創業家の無駄遣いが過ぎて倒産の危機を迎...1005回あちゃこの京都日誌57回実録小説爆笑必死

  • 1004回 あちゃこの京都日誌 56回 新天皇国紀

    ④尊号一件天皇の願いは叶わなかったが戦いは大勝利?実父閑院宮典仁親王子光格天皇(親子共々、すこぶる人柄のいい人だった。)尊号事件とは、光格天皇の実の父君である閑院宮典仁親王が、天皇の実父でありながら天皇経験者ではないので朝廷での席順が、古来より三公(※)の下であり、さらに、「禁中並公家諸法度」によってそのように定められていた。これを解決するためには、禁中並公家諸法度の改定か典仁親王に尊号を贈るしかなかった。尊号とは、太上天皇の事で、普通は譲位した後の天皇に与えられる。因みに天皇にならず尊号を贈られた例は2例しかなく、承久の時代の後高倉院(守貞親王)が、子の茂仁親王が後堀河天皇になったことで贈られた例(第1章参照)と、南北朝時代に後崇光院(貞成親王)が、後小松天皇の猶子となり子の彦仁親王が後花園天皇となった...1004回あちゃこの京都日誌56回新天皇国紀

  • 1003回 あちゃこの京都日誌 新天皇国紀 55回

    ③寛政度御所再建思想的背景という武力を徐々に備えて行った写真御所天明8年(1788年)御所千度参りの翌年に、京都中心地で大火事があった。後に天明の大火(団栗焼け)と呼ばれる火事で、御所は全焼する。その御所を、財政上の理由から小規模の再建で済まそうとする幕府に、平安時代の古式に則って大規模に再建したいという朝廷の意向が対立した。結果は、朝廷の主張通りになった件である。ここから光格天皇が戦う相手として、老中松平定信が重要な人物として登場する。「寛政の改革」の推進者として緊縮政策を進める彼は、御所造営については小規模で臨時的仮御所程度に留める意向であった。関白鷹司輔平との交渉を通じて以下の2点が明確になる。それは、天皇がいよいよ自らの考えを積極的に発言し、親政の第一歩を歩みだしたという事だ。さらに、天皇の朝議復...1003回あちゃこの京都日誌新天皇国紀55回

  • 1002回 あちゃこの京都日誌 新天皇国紀 54回

    光格天皇の闘い②御所千度参り「千度参り」「お百度を踏む」というと、特定の神仏に「百度」参詣して祈願し「ご利益(ごりやく)」の実現を一層強く願うものだ。平安末期から始まった参詣形態らしく、始めは「毎日百度(百日)」参ったが、後には「一日に百度」参る形式になったらしい。一度二度より百度参ることで、「信仰心の篤さ」と「祈願の切実さ」を訴える。その事で、神仏の加護をさらに確実なものにしたいとの願いである。「御所千度参り」とは、それが「御所(天皇)」を神仏に見立てて、「百度参り」よりもさらに強力な「千度参り」として出現した事件である。天明の大飢饉を発端にした米の高騰から、「打ちこわし」や「一揆」が全国的な広がりを見せる中、天明7年(1787年)6月頃、どこからともなく、誰が言うともなく当初100人ほどが御所の周りを...1002回あちゃこの京都日誌新天皇国紀54回

  • 1001回 あちゃこの京都日誌 やすらい祭(京都の奇祭)

    京都北部、今宮神社の「やすらい祭」を見学して来た。「花鎮めの祭」と呼ばれる祭りが京都に多い。桜の散る時期は気候が暖かくなり昔から疫病が流行りだす。昔の人は、散る花片に乗って疫病が広まるのだと信じた。これをむしろ花の持つ生命力や神通力で鎮めるため、疫病の根源すなわち厄病神などを桜や椿で飾った花傘を依代にしてこれらを集め、今宮神社の疫社に封じ込めるお祭りである。この傘の中に入ると一年間の厄を逃れることができると伝わる。明らかに祇園祭と同じ考え方のお祭りである。途中、現代では「蜜」だと言われそうだが、参拝者は赤い傘の下に入って無病息災を願う。保存会の方たちの大人から御老人まで、赤い衣装をまとい、鉦や太鼓を打ち鳴らし赤毛や黒毛の赤熊をつけた子鬼や大鬼たちがざんばら髪を振り乱して踊りつつ神社に行進してくる。小学校1...1001回あちゃこの京都日誌やすらい祭(京都の奇祭)

  • 第1000回 記念号 百寺巡礼番外 「寂光院」を訪ねる

    遂に、1000回を迎えた。999回の自由記述を振り返るにつけて「人間の業」をつくづく感じる。「生老病死」が、人間の根元的「苦」である。にも拘らず、人は「勝負」「貧富」「嫉妬」「地位」「学歴」「美醜」など生死にかかわらず悩むのか。京都の歴史に登場する権力者は、高貴な生まれで若くして健康的ですぐには死なない人ばかり「生老病死」からは程遠いにも関わらず、満足せず権力や富にこだわり悩む。むしろ莫大な富や強大な権力を持った者ほど悩みが深い事が分かった。先日、ある本にサラリーマンの一番幸せな年収は、800万ほどだと書いてあった。個人差はあるのだろうが、それ以下だと不満があり、それを越えると減収のリスクに怯えるのだそうだ。年収1億を超える役員・経営者などの苦悩・怯え・不安は、想像に余りある。歴史上の武将・天皇・摂関家の...第1000回記念号百寺巡礼番外「寂光院」を訪ねる

  • 999回 あちゃこの京都日誌 1000回記念号 百寺巡礼番外 「寂光院」

    7年ほど以前。アキレス腱断絶をした。家から一歩も出られない日々の中で「ブログ」を発見した。すでに時代遅れであるとは認識していたが、毎日何かの文章を書くことをノルマとした。「京都百寺巡礼」や、「逆順で見る平安の天皇」などは清書し本にした。特に、「京都百寺巡礼」はすでに3千冊に迫る自費出版の中では突出した売れ筋だ。一方、「俺にも言わせろ」や、「上方芸人史」「昭和の株屋」など駄作・失策も多かった。現在は、天皇の皇位継承問題に考察を加えている。1000回の記念の今回・次回は、百寺巡礼の番外編を書く。それは、大原「寂光院」である。寂光院は、当然お勧めしたい寺ではあるが、100寺に選ばなかった。理由は20年以上前に放火による本堂と本尊の地蔵菩薩の焼失があった寺で、そこから立ち直って見事復元するまでは見学できなかった。...999回あちゃこの京都日誌1000回記念号百寺巡礼番外「寂光院」

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