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  • 1010回 アチャコの京都日誌 新天皇国紀 62回

    ⑧戦う天皇ゆかりの寺院蘆山寺光格天皇の実父閑院宮典仁親王の陵墓がある。写真蘆山寺正門筆塚紫式部歌碑「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月影この紫式部の歌碑はいつでも見る事が出来る。」京都市上京区寺町通広小路上がる山号日本廬山宗派天台宗単立創建良源本尊阿弥陀三尊像正式廬山天台講寺現在の京都御所の東側の寺町通には、同志社会館(新島襄邸跡)や梨木神社、清浄華院、清荒神など重要スポットが多い。その一つ廬山寺は「源氏の庭」でも有名だ。紫式部の邸宅跡とされ源氏物語執筆の場でもある。また境内奥の墓地には秀吉の京都改造政策の一つ、御土居跡を見る事が出来る。寺の創建は平安初期で比叡山中興の祖である良源(元三大師)が作った与願金剛院と、鎌倉時代に法然の弟子が宋の廬山に因み作った廬山天台講寺が合併したもので...1010回アチャコの京都日誌新天皇国紀62回

  • 1009回 あちゃこの京都日誌 61回 新天皇国紀

    ⑦譲位後の院政と追号・諡号その③松平定信「寛政の改革」・この章の最後に象徴的エピソードを書く。光格天皇譲位後、文政10年(1827年)に将軍家斉が太政大臣に昇進している。その時の仁孝天皇の「御内慮書」が残っている。それには、「徳川家斉の文武両面にわたる功労はぼう大である。」とし、将軍在位40年に及ぶあいだ、「天下泰平を維持し、将軍の徳はくまなく行き渡っている。」と称え、その功績を理由に、武官の長である征夷大将軍に加えて、「文官の長である太政大臣に任じたい。」とした主旨を書いている。歴史上はじめて生前に幕府将軍職と太政大臣をともに給わるという栄誉である。これを見れば、誰が読んでも朝廷が幕府に申し入れ、それを受け入れた結果としか思えない。しかし、近年の研究で事実は、将軍家斉が天皇・上皇に「おねだり」したもので...1009回あちゃこの京都日誌61回新天皇国紀

  • 1008回 あちゃこの京都日誌 60回 新天皇国紀 記念号

    ⑦譲位後の院政と追号・諡号続き桓武天皇光格天皇光孝天皇など白河天皇清和天皇冷泉天皇など・光格天皇の本当の最後の戦いは、天皇号である。ここでは諡号と追号、天皇号と院号を理解せねばならない。まず、桓武とか光格、光孝というのは、諡号であり生前の功績を称えた言わば美称である。一方、追号は、醍醐・冷泉など天皇に因む地名などをつけたもので美称ではない。例外的に、崇徳や安徳のように怨念を生む懸念があった場合には特別な尊号を贈った例がある。しかしいずれも院号であり天皇ではない。村上天皇を最後に子の円融院からは、単に院号を贈っている。その後この時(光格)まで、諡号も天皇号もなかったのである。我々は便宜的に、後醍醐天皇とか後水尾天皇とか言っているが、当時では後醍醐院、後水尾院と言っていた。その意味では極位にありながら、国民の...1008回あちゃこの京都日誌60回新天皇国紀記念号

  • 1007回 あちゃこの京都日誌 59回 新天皇国紀

    ⑦譲位後の院政と追号・諡号白河上皇が始めた「院政」・光格天皇は、文化14年(1817年)に譲位し上皇となった。すでに47歳となっていたが、さらに23年間、院政を行う。光格天皇の復古活動の締めくくりは、院政の復活だった。しかし、平安の昔に白河上皇が始めた「院政」であるが、正しくは院庁(いんのちょう)を設けて朝廷政治の主たる決定権を発揮するものである。ただ、光格院政は全く違うものであった。現代に例えると、以前の院政は「代表取締役会長」のようなもので、社長は引退したものの会長室ですべての施策は決定するものである。一方、光格上皇の院政は、「代表権のない相談役」と言うべきだろう。重要事項については天皇から相談を受けるが、成人した子である仁孝天皇があくまでも朝廷政治の主導権をもっていた。ただ、在位が長く圧倒的存在感の...1007回あちゃこの京都日誌59回新天皇国紀

  • 1006回 あちゃこの京都日誌 新天皇国紀 58回

    ⑥朝儀復興と文化的継承への戦い天下万民を先とし京都蘆山寺話を本題に戻す。このように光格天皇の即位直後の3事件を通じて、天皇が幕府と対等の関係を獲得していく過程がよく分かった。つまり天皇の戦闘能力の向上とも言える。一つ象徴的なエピソードを書く。当時、松平定信の「寛政の改革」の『節約令』は朝廷にも影響していた。しかし、「この節、御省略の儀仰せ出さる。」と、ある公家の日記に書かれてあるように、幕府に関係なく朝廷では光格天皇の判断で倹約に努めていた。従って寛政2年、幕府の指示が来た時も関白始め側近は、「恐れ多い」として伝えなかった。翌寛政3年になって幕府から一定の成果が出て余剰が発生したとして、「給物(たまわりもの)」を配ると言って来た時、これを聞いた光格天皇は、「幕府の指示で倹約したのではない。」と、激怒し「会...1006回あちゃこの京都日誌新天皇国紀58回

  • 1005回 あちゃこの京都日誌 57回 実録小説 爆笑必死

    ⑤架空実録小説「相談役一件」ここまでの話を現代の会社組織にあてはめて見た。登場人物①有限会社朝廷社長光格専務輔平社長実父典仁相談役後桜町(女性)②株式会社徳川社長家斉常務定信社長実父治済成り上がりだが老舗の徳川株式会社は、前政権で一代で急成長した太閤株式会社を乗っ取り、あろうことか日本最古の伝統的な有限会社朝廷を買収し子会社とした。古代からの巨大財閥への影響力や重要な伝統と文化を担う(有)朝廷は、権威はあるが権力はなく生産性は全くない。つまり赤字経営が常態化しているのだ。朝廷の財政は(株)徳川が担っているが、芸能や儀式に精通した朝廷からは、財閥の継続と権威向上の為、次々に要求が来る。幕府にとって誠に難しい対応が続いている。一方、徳川も創業時の勢いはなく売り上げ低迷と、創業家の無駄遣いが過ぎて倒産の危機を迎...1005回あちゃこの京都日誌57回実録小説爆笑必死

  • 1004回 あちゃこの京都日誌 56回 新天皇国紀

    ④尊号一件天皇の願いは叶わなかったが戦いは大勝利?実父閑院宮典仁親王子光格天皇(親子共々、すこぶる人柄のいい人だった。)尊号事件とは、光格天皇の実の父君である閑院宮典仁親王が、天皇の実父でありながら天皇経験者ではないので朝廷での席順が、古来より三公(※)の下であり、さらに、「禁中並公家諸法度」によってそのように定められていた。これを解決するためには、禁中並公家諸法度の改定か典仁親王に尊号を贈るしかなかった。尊号とは、太上天皇の事で、普通は譲位した後の天皇に与えられる。因みに天皇にならず尊号を贈られた例は2例しかなく、承久の時代の後高倉院(守貞親王)が、子の茂仁親王が後堀河天皇になったことで贈られた例(第1章参照)と、南北朝時代に後崇光院(貞成親王)が、後小松天皇の猶子となり子の彦仁親王が後花園天皇となった...1004回あちゃこの京都日誌56回新天皇国紀

  • 1003回 あちゃこの京都日誌 新天皇国紀 55回

    ③寛政度御所再建思想的背景という武力を徐々に備えて行った写真御所天明8年(1788年)御所千度参りの翌年に、京都中心地で大火事があった。後に天明の大火(団栗焼け)と呼ばれる火事で、御所は全焼する。その御所を、財政上の理由から小規模の再建で済まそうとする幕府に、平安時代の古式に則って大規模に再建したいという朝廷の意向が対立した。結果は、朝廷の主張通りになった件である。ここから光格天皇が戦う相手として、老中松平定信が重要な人物として登場する。「寛政の改革」の推進者として緊縮政策を進める彼は、御所造営については小規模で臨時的仮御所程度に留める意向であった。関白鷹司輔平との交渉を通じて以下の2点が明確になる。それは、天皇がいよいよ自らの考えを積極的に発言し、親政の第一歩を歩みだしたという事だ。さらに、天皇の朝議復...1003回あちゃこの京都日誌新天皇国紀55回

  • 1002回 あちゃこの京都日誌 新天皇国紀 54回

    光格天皇の闘い②御所千度参り「千度参り」「お百度を踏む」というと、特定の神仏に「百度」参詣して祈願し「ご利益(ごりやく)」の実現を一層強く願うものだ。平安末期から始まった参詣形態らしく、始めは「毎日百度(百日)」参ったが、後には「一日に百度」参る形式になったらしい。一度二度より百度参ることで、「信仰心の篤さ」と「祈願の切実さ」を訴える。その事で、神仏の加護をさらに確実なものにしたいとの願いである。「御所千度参り」とは、それが「御所(天皇)」を神仏に見立てて、「百度参り」よりもさらに強力な「千度参り」として出現した事件である。天明の大飢饉を発端にした米の高騰から、「打ちこわし」や「一揆」が全国的な広がりを見せる中、天明7年(1787年)6月頃、どこからともなく、誰が言うともなく当初100人ほどが御所の周りを...1002回あちゃこの京都日誌新天皇国紀54回

  • 1001回 あちゃこの京都日誌 やすらい祭(京都の奇祭)

    京都北部、今宮神社の「やすらい祭」を見学して来た。「花鎮めの祭」と呼ばれる祭りが京都に多い。桜の散る時期は気候が暖かくなり昔から疫病が流行りだす。昔の人は、散る花片に乗って疫病が広まるのだと信じた。これをむしろ花の持つ生命力や神通力で鎮めるため、疫病の根源すなわち厄病神などを桜や椿で飾った花傘を依代にしてこれらを集め、今宮神社の疫社に封じ込めるお祭りである。この傘の中に入ると一年間の厄を逃れることができると伝わる。明らかに祇園祭と同じ考え方のお祭りである。途中、現代では「蜜」だと言われそうだが、参拝者は赤い傘の下に入って無病息災を願う。保存会の方たちの大人から御老人まで、赤い衣装をまとい、鉦や太鼓を打ち鳴らし赤毛や黒毛の赤熊をつけた子鬼や大鬼たちがざんばら髪を振り乱して踊りつつ神社に行進してくる。小学校1...1001回あちゃこの京都日誌やすらい祭(京都の奇祭)

  • 第1000回 記念号 百寺巡礼番外 「寂光院」を訪ねる

    遂に、1000回を迎えた。999回の自由記述を振り返るにつけて「人間の業」をつくづく感じる。「生老病死」が、人間の根元的「苦」である。にも拘らず、人は「勝負」「貧富」「嫉妬」「地位」「学歴」「美醜」など生死にかかわらず悩むのか。京都の歴史に登場する権力者は、高貴な生まれで若くして健康的ですぐには死なない人ばかり「生老病死」からは程遠いにも関わらず、満足せず権力や富にこだわり悩む。むしろ莫大な富や強大な権力を持った者ほど悩みが深い事が分かった。先日、ある本にサラリーマンの一番幸せな年収は、800万ほどだと書いてあった。個人差はあるのだろうが、それ以下だと不満があり、それを越えると減収のリスクに怯えるのだそうだ。年収1億を超える役員・経営者などの苦悩・怯え・不安は、想像に余りある。歴史上の武将・天皇・摂関家の...第1000回記念号百寺巡礼番外「寂光院」を訪ねる

  • 999回 あちゃこの京都日誌 1000回記念号 百寺巡礼番外 「寂光院」

    7年ほど以前。アキレス腱断絶をした。家から一歩も出られない日々の中で「ブログ」を発見した。すでに時代遅れであるとは認識していたが、毎日何かの文章を書くことをノルマとした。「京都百寺巡礼」や、「逆順で見る平安の天皇」などは清書し本にした。特に、「京都百寺巡礼」はすでに3千冊に迫る自費出版の中では突出した売れ筋だ。一方、「俺にも言わせろ」や、「上方芸人史」「昭和の株屋」など駄作・失策も多かった。現在は、天皇の皇位継承問題に考察を加えている。1000回の記念の今回・次回は、百寺巡礼の番外編を書く。それは、大原「寂光院」である。寂光院は、当然お勧めしたい寺ではあるが、100寺に選ばなかった。理由は20年以上前に放火による本堂と本尊の地蔵菩薩の焼失があった寺で、そこから立ち直って見事復元するまでは見学できなかった。...999回あちゃこの京都日誌1000回記念号百寺巡礼番外「寂光院」

  • 998回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」53

    第4章光格天皇皇室史上最大の危機?①傍系からの天皇「不測の天運」による即位光格天皇衣奈塚(上京区清荒神)江戸時代の天皇は、108代後水尾天皇以降、幕末の121代孝明天皇まで、皆さんは何人の天皇をご存知だろうか。この間、皇室は「禁中並公家諸法度」に縛られて幕府の言うがままに、細々と血統を継いで来た。従って、庶民とは関係なく御所奥深くに政治的には全く無意味であったというのが定説だ。しかし、江戸時代の天皇の課題は、応仁の乱から戦国時代に多くを失った宮中における「朝議」の再興への戦いであった。「大嘗祭」という天皇即位時の新天皇の神秘性を獲得する為に欠かせない大変重要な儀式でさえ、実に1466年以来200年以上途絶えていた。なんとか貞享4年(1687年)になって東山天皇により復活した。しかし、これは十分なものではな...998回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」53

  • 997回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」52

    ⑧付録天皇ゆかりの京菓子中村軒「麦代餅」麦代餅後水尾天皇の項で書いた八条宮智仁親王は、「桂離宮」の造営で有名だ。後水尾天皇は叔父である智仁親王の「桂離宮」を参考にして、「修学院離宮」を造ったのであろう。智仁親王は、正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。後陽成は譲位してこの弟に即位をさせたかったのだが、智仁親王は以前豊臣秀吉の猶子となった事があり徳川から拒否されたのである。その後、八条宮家(桂宮家)を創設したのだが、政治的な苦労が多く。晩年は離宮造営に没頭したのである。その桂離宮のすぐ南、八条通りと桂川の交差する西南角にある「中村軒」の「麦代餅」を紹介したい。店先には、峠の茶屋風に吹き流しのれんがかかっている。ガラス張りのカウンターには、紅白饅頭やお餅に加え、赤飯や粽などの定番のものが並んでいる。また、...997回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」52

  • 996回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」51

    ⑦天皇ゆかりの寺院戒光寺後水尾天皇の身代わり写真戒光寺丈六さん戒光寺丈六さん東山区泉涌寺山内町29正式名泉山戒光律寺別称丈六さん宗派真言宗泉涌寺派本尊釈迦如来開基浄業戒光寺は、泉涌寺参道の第一山門から数分歩けば左手に見える。筆者は何度も見逃してしまったので、注意して訪問したい。拝観寺ではないので本堂に上がるには勇気がいる。古いガラス扉を開けると巨大な釈迦如来像が迎えてくれる。鎌倉時代に運慶・湛慶の親子が彫った丈六の像である。2023年3月現在、本堂は大屋根の改修で覆いが掛かっている。ご住職にお伺いしたところ一年かかって間もなく完成との事、改修前の瓦は江戸時代初期の当地への移転当時のもので瓦自体が歴史を物語っている。丈六とは仏の正確な身の丈である一尺六寸(4.85m)の仏像の事だ。当初は大宮八条にあり、洛中...996回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」51

  • 995回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊿

    ⑥お二人の晩年京都洛中にはお二人のゆかりの寺院・神社は数多い。修学院離宮後水尾上皇は、譲位した後は健康も回復したのか、魅せられたように自由に活動している。一番目立つのは修学院への行幸である。岩倉、幡枝御所を中心に離宮建設場所を求めてしばしば訪ねている。平安の昔、嵯峨天皇が、嵯峨野に隠棲の地を定め、後に門跡寺院である大覚寺という官寺を建設したのと同じ構想をもっていた。慶安4年(1652年)、徳川家光が没すると独断で「落飾」し法皇となった後水尾は、この地を仏道の拠点と考えていたのかも知れない。寺院の建設は実現しなかったが、現在も見学希望者の絶えない「閑放の地」を立派につくりあげた。修学院御幸の時は、必ず東福門院を伴っていた。この徳川和子について、前出の熊倉功夫氏『後水尾天皇』には、「むしろ庶民にこそ受け入れら...995回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊿

  • 994回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊾

    ⑤東福門院和子との関係恐ろしや高貴な「血の戦い」東福門院ここで、後水尾天皇の皇子・皇女を、お相手ごとに羅列する。A~G7名の方々から36名のお子様を生ませておられる。もちろん記録に残るものに限られる。腫物に悩まされるもののすこぶる健康な天皇が、多くのお子を成すのは大変結構な事だ。高貴な方達の重要な役目の一つが「生殖活動」である事は何度も書いて来た。しかし、不自然ではないか。健康な男子であれば生殖に最適な年齢は、10代後半から20代前半である。ところがおよつ御寮人事件の四辻与津子との間の2名以外には、20代のみならず譲位するまでは、その中宮徳川和子との間しか子がいない。女性に興味の薄い天皇ではない。上皇となって多くのお子を作っている事から見ても晩年までお元気でいらっしゃる。まことに不思議なことだ。幕府に遠慮...994回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊾

  • 993回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊽

    ④春日の局遂に幕府に宣戦布告した。イメージ従来からの通説では、差し迫った事情というのは、天皇の腫物による「鍼灸治療問題」だと言われている。腫物とは、腫瘍のことで民間では、「でんぼ・おでき」とも言う。現代なら外科手術で切除できるが、良性のものでも熱や痛みを伴ったりすると命の危険を伴い厄介なものだった。当時は、針灸がよく効くとされたが、玉体(天皇の体)には鍼灸はタブーとされた。従って、譲位して自由な身となって治療を受けたかったというのだ。後水尾天皇は、基本的にはとても健康だったのだが、腫物ができやすい体質だったらしく、よほど悩ましい状況だったのだろう。因みに、叔父の八条宮智仁親王が同じ病で死去している。しかし、最近の研究ではそれは、譲位する「口実」であり、便宜的な理由でしかないという見方が有力だ。やはり本当の...993回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊽

  • 992回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊼

    ③紫衣事件朝幕の力関係は幕府優先が確定した。さらに後水尾天皇の君主意識を傷つける事件が起こる。「紫衣事件」である。僧侶が身に着ける法衣・袈裟の色に紫を使う事は最高の地位を現わすものだ。古来より朝廷が許可を出す。当然、朝廷の大きな収入源でもあった。ところが、慶長18年(1613年)の「勅許紫衣法度」と慶長20年(1615年)の「禁中並公家諸法度」で、幕府はみだりに朝廷が授けることを禁じた。ところが、後水尾天皇は従来通り十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていた。そして幕府は、なんと寛永4年(1627年)になって、法度違反だと多くの勅許状を無効にした。当然、幕府の突然の強硬な対応に朝廷は強く反対した。この事件の不思議なのは、最初の「法度」から14年、「禁中並公家諸法度」からは12年たってから何故ここで問題となっ...992回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊼

  • 991回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊻

    ②およつ御寮人事件青年天皇の恋心を踏みにじられ幕府への敵愾心が。晩年の家康後水尾天皇の最初の戦いは、女性問題である。徳川家康は生きている間に、幕府政権を盤石にする為の二つの大きな仕事が残っていた。一つは豊臣氏の抹殺である。関ケ原の戦いの結果、一大名の地位に成り下がった豊臣秀頼だったが、反徳川勢力の象徴的存在である事は間違いなかった。秀頼・淀君に対して、戦乱で荒廃した京都の巨大寺院の再建を促して、その膨大な財力を削ぐよう仕向けたりした。それでも心配で仕方ない。遂に、方広寺の梵鐘の銘文にイチャモンをつけて戦いを仕掛けた。大阪冬の陣・夏の陣である。方広寺の梵鐘そして、もう一つの仕事は、徳川家から朝廷への「入内」である。自らの孫娘を天皇の后にすることで外祖父の地位を獲得することである。藤原摂関家の手法と同じだ。秀...991回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊻

  • 990回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊺

    ・後水尾天皇子後水尾天皇父後陽成天皇①父子不仲即位そのものを希望していなかった。時代は一気に戦国から江戸時代初期に飛ぶ。後醍醐天皇以降の天皇は武士たちの権力争いからは遠ざかり文化・伝統の継承に専念した。専念せざるを得なかった。しかし皇室の経済基盤は大きく損なわれ即位そのものを経済的理由から断念した天皇もいた。前天皇が崩御すれば「践祚」するのだが、前天皇の大喪の儀と新天皇の即位式は、膨大な資金がかかる。もはや皇室には古式に則った儀式を行う経済力は無かったのだ。信長の父、信秀が御所の筑地塀修復に資金を出したところあたりから天皇家の権威を求める動きが見受けられる。後陽成天皇の第3皇子が第3章の主役は政仁(ことひと)親王、以下後水尾天皇という。その生誕の頃は、勇者が戦い続けた戦国時代の終焉を目前にした慶長元年であ...990回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊺

  • 989回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊹

    ⑥後醍醐の失敗「王朝時代の終焉」イメージ遂に後醍醐天皇の「失敗」について書かねばならない。ここでは兵藤裕己氏『後醍醐天皇』(2018年)を参考にする。まず、兵藤氏は時代を俯瞰するならば建武政権は、「王朝の歴史物語の終焉」だと述べている。ここまでは天皇を中心とした公家の権力闘争を軸に、それぞれの派閥に豪族であったり武士集団が離合集散して来た。「薬子の変」から始まった平安時代の戦乱は、しばらく平和な時代を経て、「保元・平治の乱」を境に頻繁に起こる。その後の平家滅亡から承久の変に至る戦乱もすべて王朝内の権力闘争や閨閥闘争が関わって来た。源平合戦も公家の代理戦争が発端だという。雅(みやび)であるはずの王朝物語がしばしば戦乱の原因を作ってしまっていたのだ。しかし、後醍醐天皇の失敗以降は、完全に武士が主役であり「応仁...989回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊹

  • 988回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊸

    ⑤高氏との関係「尊氏の人物像と後醍醐との関係」尊氏とされる肖像足利尊氏は、天皇から後醍醐天皇の諱である「尊治」の一文字を下賜されて「尊氏」と名乗った。従って、建武政権当初の二人は良好な関係であったことは間違いがない。鎌倉で幕府を倒したのは新田義貞だが、倒幕の第一功労者は尊氏その人であった。しかし、歴史的に尊氏の評判は最悪だ。幕府執権の北条家の一族に連なる足利家は、北条得宗家に次ぐ待遇を受けていた名門であった。しかも源義家を源流に持つ源氏の総帥でもあった。(そのあたりは諸説あり怪しいが)要するに北条家を除くと一番幕府に近い家柄のはずだったのだ。それが裏切ったのだ。足利家菩提寺「鑁阿寺」に残っていた※「願文」には三代後には天下を束ねると書いてあり尊氏がその三代目であったとか、当時の征夷大将軍は宮将軍(皇族から...988回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊸

  • 987回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊷

    ④建武の新政「狂気の政権だったか。」後醍醐天皇さて、今回のテーマは「いかに皇統をつないだか」である。従って、何故後醍醐は倒幕にこだわったかを書いて来たが、その前に「建武政権」と「足利高氏」について考えなければその真相にたどり着けない。まず、建武の新政のイメージというものは、「後醍醐天皇が、時代に合わない非現実的な施策を独裁的に行った。」「公家に厚く武士に薄い論功行賞だった為、武士に不満がたまった。」という政治的な批判や、「怪僧文観をそばに置き妖術を駆使した異形の天皇だった。」というのも代表的印象だろう。これはやはり、『太平記』の影響が大きいと思われる。この「太平記史観」により、後醍醐は三種の神器を保有する正当な君主であるが、暗愚で不徳の天皇で自らの血統で皇室を独占したいと考えた。それを必死に支える「忠臣」...987回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊷

  • 986回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊶

    幕府の実情元寇以降の幕府衰弱と各名門家の分裂イメージさて、この間の幕府の事情を確認する。承久の変で完全に朝廷を抑え込んだ幕府だったが、鎌倉時代の中ごろに、結果として幕府滅亡に至る大事件が起こった。「元寇」である。文永11年(1274年)の文永の役、弘安4年(1281年)の弘安の役である。まさに、後嵯峨天皇から後深草天皇を経て亀山天皇に至る「両統迭立」の起因となった時点と重なる。幕府を揺るがす「萌芽が二つ」芽生えた時期であったのだ。元寇は、「神風」をもって守ったが、我々現代の人間は、その後元が衰弱することを知っている訳だが、当時の鎌倉幕府にとっては最大の政治課題が、「九州の防備」となった。外敵に対する備えは、内戦と違って勝者はいない。従って、論考行賞(ご褒美)がない。御家人たちは疲弊するのみであった。さらに...986回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊶

  • 985回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊵

    ②倒幕の必要性後醍醐の倒幕計画に時間の猶予がなくなっていた。さて、大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統の花園天皇から譲位されたが、大覚寺統内部では、後醍醐の異母兄の後二条天皇の皇子(邦良)へのつなぎの天皇と考えられていた。(系図①参照)従って、当時後醍醐は「一代(限り)の主」と言われた。政治的野望のある後醍醐天皇にすれば、自らが地位にあるうちに天皇親政を成し遂げる為には、持明院統に戻すわけにはいかず、その背景には幕府の存在が大きく立ちはだかり、必然的に「倒幕」が現実的になって来るのである。そのあたりを、森茂暁氏『後醍醐天皇』から詳しく見る。系図を参考に理解したい。まず亀山上皇だが、この方は非常に魅力的な方であったようで、両親に可愛がられ兄の後深草から譲位をされて践祚した。本来なら天皇になれなかったはずであるが...985回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊵

  • 984回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊴

    第2章後醍醐天皇①時代背景両統迭立までの経緯後醍醐天皇の登場までの鎌倉時代は前章と重複するが、承久の変以降の皇統の変遷から見る。後鳥羽上皇の御謀反(倒幕計画)の失敗で、当然鎌倉幕府は皇位の継承に関して神経質になった。後鳥羽上皇は隠岐へ遠島となり、皇子である土御門、順徳の両上皇も島流しとなる。ただ、お二人の皇子の立ち位置はかなり違ったものだった。積極的に倒幕計画を推進した弟順徳(佐渡へ遠島)に対して、兄土御門は終始関りがない。それでも土御門は自ら遠島を申し出て土佐に流され、その後阿波に移されている。さて、変の後の天皇を誰にするかは、慎重に検討された。まず、順徳の皇子ですでに即位していた仲恭天皇は廃止(九条廃帝・承久廃帝とも言う)し、高倉天皇の血統にまでさかのぼりその孫にあたる後堀河天皇を即位させた。ところが...984回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊴

  • 983回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊳

    次回は、以降それぞれのケースで問題点など整理すると、男系男子日本の国体を維持するために考えた大原則である。唯一血統を即位の条件にし神秘性を保ってきた。男系とは父親を遡ると天皇に辿り着くとする。ならば、さかのぼるのは何代目まで許すのか?継体天皇は応神天皇の6世の子孫である。時代を経て江戸時代後期の光格天皇は東山天皇の4世である。このあたりが限界である。親子でなければ、あとはほとんどが親の親(つまりは孫)か、親の兄弟(叔父・めい)の関係性がほとんどである。悠仁親王殿下が御健康に成人いただきご結婚後、無事男子をももうけることを望むが、年齢的に男系男子を残すことの出来るは殿下一人であることを考えるとあらゆる事態を想定せねばならない。ただ、現在でも戦後臣籍降下した3世・4世の元皇族男子はいらっしゃる。しかし、それら...983回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊳

  • 982回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊲

    コラム箸休め女性天皇と女系天皇最近、愛子さまの人気が急上昇している。女性天皇も「良し」とする識者も多い。そこで男系男子とそれ以外のケースを整理して論じたい。現在の皇室のケースで分かりやすく書いて行く。上記の図を参考にしてもらいたい。男系男子父親をたどれば天皇に繋がる男子である。これは皇位継承権のある方たちなので順に書くと、第1位秋篠宮様第2位悠仁親王殿下第3位常陸宮様のお三方である。継承資格のある方が3名であるが年齢的には2名しかいないのが現状だ。もちろん上皇陛下と今上陛下は当然にして男系男子だ。当然この方たちが誰と結婚しようが生まれた男子は男系男子である。男系女子父親をたどれば天皇に繋がる女性の方たちで愛子さま始め眞子さま佳子さまなど天皇家や宮家に生まれた女王たちである。もちろんその方たちが男系男子の皇...982回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊲

  • 981回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㊱

    7.着眼点の2最近、鎌倉幕府の成立の年代がいつなのか議論になったが、一方、そもそも鎌倉時代の名称についても疑問が呈されている。奈良時代・平安(京都)時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と時の政権のあった場所で時代の名称を決めて来た。しかし、鎌倉時代に政権の中心が鎌倉にだけあったのか?幕府と言っても3代までで、その間京都の朝廷の権威・権限は明確に存在した。しかも4代目以降の将軍は宮家から招へいしたもので北条政権はその権威の下で執権として政治をしたに過ぎない。後鳥羽上皇以降、ほとんど実権はなく後継天皇も自ら決められない皇室になってしまったが、まだまだ無視できない権威を備えていたのだ。さらに鎌倉幕府の京の出先機関である六波羅探題の存在も大きく、鎌倉にだけ政権の中心地があったように解釈する鎌倉時代という呼称は実...981回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㊱

  • 980回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉟

    6.着眼点の16.着眼点の1乱後の事後処理も速やかに行われた。3上皇の配流はすでに書いたが、さらに順徳上皇の子である今上天皇(仲恭天皇)は廃された。即位した事も消された為、九条廃帝とも言われる。仲恭と諡号されるのは明治になってからだ。義時は次期天皇を後鳥羽の兄である守貞親王の皇子茂仁親王とした。後堀河天皇である。従って、守貞親王は天皇を経ず、「治天の君」になる。後高倉院という大上天皇の尊号を送られる。歴史上初めての事態だ。別項「光格天皇尊号一件」で重要な先例となるので覚えておきたい。これにて、保元の乱以来の「武者の世」の到来を告げた時代は、大きな画期を迎える。義時・泰時の親子は、「御成敗式目」を制定し法の支配も強め武家社会の安定に努める。この頃には、平家合戦の記憶も遠くなりこの70年に及ぶ戦乱の犠牲者を悼...980回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉟

  • 979回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉞

    5、後鳥羽の君主意識権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもの。鎌倉殿では、尾上松也がハマった。ここでどうしても確認しておかねばならないのが、後鳥羽上皇の君主意識である。ここは、本郷和人氏『承久の乱』に分かり易く書いている。同書「第5章後鳥羽上皇の軍拡政策」の中で、後鳥羽と義時の国家観の違いを説明している。まず、後鳥羽は、「伝統的な国家観」を持っていたとしすべての頂点に皇室がいて、貴族には政治、寺社には文化・宗教、武家には治安維持というように役割分担があり、それを「権門」といい、相互補完しながら最終的には天皇を支えるという事だ。さらに、貴族には大臣・武士には将軍・僧侶には僧正というように権威を与えるのが天皇であり、征夷大将軍もその例外ではない。それに対して、義時の国家観は、在地領主の為の...979回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉞

  • 978回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉝

    3,事件の経緯(発端)後鳥羽上皇は武家及び幕府を朝廷の支配下に置きたかっただけ。事件は、「乱」なのか「変」なのか、単に「合戦」なのか。合戦には違いないが、「変」というと偶発的・短期的なもので、本能寺は「変」である。「乱」は、計画的に準備された戦乱であり戦争に近い。だから応仁の「変」とは言わない。しかし「乱」には反乱の意味合いもある。従って、戦前までは上皇が反乱するのはおかしい、逆賊はあくまでも北条義時であるという「皇国史観」に基づいて「承久の変」と言っていた。しかし、現在教科書には「乱」を採用している。従って、上皇の謀反と言う異常事態なのである。さて、承久元年(1219年)1月、雪中の鶴ケ岡八幡宮で、3代将軍実朝が暗殺される。それをきっかけに遂に時代が大きく動く。以下、坂井孝一氏『承久の乱』をもとに経緯を...978回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉝

  • 977回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉜

    2,源家と皇室不倫・不貞・略奪・そして兄弟親子の殺し合いなどなんでもあり。鎌倉市HPよりここで平家討伐以降の源氏一族の推移を確認する。(昨年の鎌倉殿13人に詳しく描かれた。)源平合戦において、実働部隊を率いて平家を滅亡に追いやったのは義経・範頼の兄弟である。特に、義経は時代のヒーローとなったが、兄頼朝の誤解(讒言による)を受けて奥州平泉で討たれた。範頼も遂には、猜疑心の強い頼朝の前には生き残れなかった。そして頼朝自身も急死する。その後は、源氏一族内の混乱が続く。まず、2代将軍頼家は独断専行が過ぎ御家人達(これが13人)に無理やり権限をはく奪され、それに不満を持った頼家は、自らの乳母の一族である比企家を頼りに実母政子の北条家と対立する。遂には、頼家自身も北条一族を中心にした勢力に追われて殺される。頼家の同母...977回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉜

  • 976回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉛

    ②後鳥羽上皇後鳥羽天皇1神器無き即位白河上皇以降、しばらく院政の時代が続き、「治天の君」(天皇の父で真に権力を持つ上皇)を争う戦いもあり、それに乗じて武士が台頭する。遂には、平安末期、平氏が皇位継承に口をはさみ「安徳天皇の誕生とその悲劇」を生む。そして、この章の主役後鳥羽天皇の登場になる。筆者は、後世に名を残す天皇は、何らかのコンプレックスを持っているのではないかと思う。よく調べると即位の経緯が単純ではなく、複雑な事情を背負っている場合が多い。尊成親王(後の後鳥羽天皇)も、誕生時には天皇に即位する可能性はなかった。それどころか仏門に入る運命だった。長い間戦乱の無かった平安時代は、「平将門の乱」を経て、その後、「保元・平治の乱」で完全に武士の世の中に変化して行く。それは何事も武力で解決する闘いの歴史だ。最初...976回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉛

  • 975回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉚

    ③時として、金銭欲・権力欲・性欲、3欲の絶倫天皇が現れる待賢門院イメージ皇位継承について考えている。その為には、金銭欲・権力欲・性欲は必要だ。特に、性欲は直接的に後継者を多く作ることになるので最低条件である。白河天皇以降は、73代堀河天皇―74代鳥羽天皇―75代崇徳天皇と、順調に皇位が親から息子に引き継がれているようだが、崇徳天皇の母君は、待賢門院(璋子)で、もちろん鳥羽天皇の皇后なのだが、しかし、実父は曾祖父白河天皇と言われている。性について、おおらかな昔の話とはいえ、自分の寵姫を孫である鳥羽帝に差し出した。それだけでも現代では考えられないが、その後にも関係を続けたのである。その待賢門院(藤原璋子)は絶世の美女と言われ、幼少から白河院の手元で育てられ、慈しみ。そして女?にされたのである。その璋子を密かに...975回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉚

  • 974回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉙

    ここまでの着眼点②兄弟相続がまだあたりまえの時代意外なことに、醍醐天皇から後三条天皇までの11人の天皇で、親子相続なのは2例しかない。甥への継承が3例あるので、5例は次世代につないでいるが、なんと兄弟・従兄弟への継承が6例もある。藤原摂関家の思惑が原因だが、古代に多くみられる兄弟相続の習慣が強く残っていたと考えられる。古い歴史では、親子相続では末子相続が主流だった。現代でも末っ子が一番可愛いもので、もしその母が異なると晩年の父親は当然、あとからもらった奥さんとの子を一番可愛がる。現代でも企業の後継者争いなどでは、本妻の子とお妾の子で骨肉の争いになる事件は多い。しかも寿命の極端に短い古代では、相続させる時点で一番若い子に託すのが当たり前の発想だったのかも知れない。その後、兄弟相続が主流になって、長子相続へと...974回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉙

  • 973回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉘

    その4ここまでの着眼点摂関家からの権力の奪還外祖父とは、天皇の母の実家の父の事で、藤原氏の戦略は自らの娘を積極的に天皇家に送り込むことである。現代でも、お母さんの実家のじいちゃんが一番可愛がってくれるのである。当然、全部の皇子が天皇になるとは限らないし、必ず男子をもうけるとも限らない。従って、複数の娘を多岐にわたって皇室に送り込み婚姻関係を結んでいく。数打てば当たる戦法だ。しかし、藤原氏はそんな甘くはない。自分の娘の子(当然男系男子)を皇位につける為には、積極的に政治闘争を仕掛け、時には陰謀も辞さない。多くの場合政敵を無実の罪に陥れた。要は、汚い手を使って来たのだ。ただ、後三条天皇の母は藤原道長の孫だが、父は後朱雀天皇なので、外祖父に藤原氏はいない。さらに、後三条天皇の中宮や后に道長・頼通に繋がる有力な藤...973回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉘

  • 972回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉗

    その3白河天皇の登場「強い生命力が皇室の条件」藤原氏が考案した政権を牛耳る手法は、天皇の母方の祖父になることだった。天皇の父は天皇だから、后に自らの娘を送り込んで外祖父になる。しかし、それに対抗する手法があった。つまり天皇の実の父親、即ち上皇ならもっと力が発揮出来るはずだ。それが「院政」だ。天皇が早々に幼い息子に譲位し継続して権力を維持する。白河天皇の以前にも例はあるが、院庁を構え明確な意図を持って、しかも長期に亘ったのが白河上皇が最初なので、歴史上「院政の開始」としている。現代でも社長が引退後も会長や相談役となって権力を維持することを、「院政だ。」と言われる。決して良い意味に使われない言葉だ。この後、天皇よりも上皇が力を持ち、複数の上皇がいると、最も力を持っている上皇を、「治天の君」というようになる。要...972回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉗

  • 971回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉖

    その2後三条天皇の登場「院政の始まり」壮年期になって満を持して登場した後三条天皇は、次世代を切り開くように次々と親政により政治の実績を積み上げた。代表的なものは、荘園整理令だ。藤原頼通の政権時代に急激に拡大した摂関家所属の荘園は、タックスヘブンの様相を呈していた。これは正に摂関家を外戚に持たない天皇にしかできない改革である。次は、焼失したままの大極殿の再建だった。三条天皇時代に内裏が焼けたことで、道長が「それは天皇の徳の無さ」といじめたことは書いたが、当時はどの天皇の時代も、必ずと言って良いほど内裏が罹災した。徳の無さというより、落雷への知識不足であり、むしろ官僚貴族たちの管理面の甘さだった。後三条天皇は、大極殿の復活のみならず大規模に内裏全体の再建を命じた。その財政基盤を確立する為に、宣旨枡を制定し全国...971回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉖

  • 970回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉕

    ①71代後三条天皇~72代白河天皇天皇の逆襲、院政を確立するその1藤原摂関家全盛期へこの節では、天皇家の政治復権を果たした親子を見て行く。前節で書いたように、光孝・宇多天皇親子の血統が本流となり皇位継承がなされたが、次代の醍醐天皇の母の藤原胤子以降、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条・三条とすべて藤原摂関家の娘が天皇の母となる。そして、後一条・後朱雀天皇の母は有名な藤原道長の娘彰子で、後冷泉の母も道長の娘の嬉子でありここにおいて藤原全盛期を迎える。その次の天皇で今回取り上げる後三条天皇は、宇多天皇以来170年ぶりに母が藤原氏ではなく皇女(三条天皇の子)である。つまり、藤原氏を外戚としない天皇が登場したのである。しかし話はそう簡単ではない。藤原摂関家(北家)は前節で紹介した基経・忠平以降も数々の陰謀を仕掛け...970回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉕

  • 969回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉔

    ⅲ臣籍降下後の復帰宇多天皇さて、宇多天皇は、皇室から離脱し一般貴族からの即位という前代未聞の継承だった。ただ、自らの子には皇位を継承させない意思を表明していた先代光孝天皇はすべての子供(26名)を源氏姓を与え臣籍降下させていた。自らの思い通り後継者を決めたい藤原の総帥基経への気遣いであった。その一人、源定省(さだみ、後の宇多天皇)は、以前、陽成天皇の時代には天皇の侍従をしていた。現在なら、宮家に生まれた男子が皇室を離脱(臣籍降下)して、民間人として宮内庁に一般職員として天皇や皇后の身辺にお仕えしていたところが、その後突然に天皇なったようなものである。従って、陽成上皇との関係は微妙で、『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と嫌味を込めて言ったという逸話が残っている。しか...969回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉔

  • 968回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉓

    その4ここまでの着眼点ⅰ狂気とされる天皇陽成天皇と和歌政権が変わった時、新政権はその正当性を強調したい為に前政権の最後の権力者を貶める。源頼朝が政権を奪った平氏の最後の棟梁平宗盛や、鎌倉幕府の最後の執権北条高時、さらに信長が滅ぼした最後の将軍足利義昭など、いずれも統治能力に欠けるイメージが強い。天皇家でも、武烈天皇や陽成天皇などそうと思われる天皇は何人かいらっしゃる。今回の陽成天皇は、退任後かなりの長壽であった事、奇行、蛮行は20歳までの血気盛んな青年期だけだった事、文徳・清和・陽成の系統への復活の可能性もあった事など、総合的に考えるとおよそ人格に異常のあった方には思えない。退位当時、皇統が変わってしまうとは思ってもいなかったが、別の血統が正統となった為に、後世「奇行の帝」と言われてしまったのだ。ⅱ皇統を...968回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉓

  • 967回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉒

    その3宇多天皇への継承へ宇多天皇しかし、光孝天皇は在位3年で崩御する。つなぎの天皇だったので、即位後自らの親王たちをすべて臣籍降下させていた。あくまでも前天皇の文徳・清和天皇の系統が正統とみなされていたので、自ら権力に邪心がない事の証だった。すなわち、藤原基経は自分の娘佳珠子所生の清和天皇の第七皇子で、貞辰親王(さだときしんのう)に継がせるつもりだった。基経の野望と言うよりは、世間の見方も、光孝天皇の子に天皇を継がせる意見はなかった。しかし、予定より早く光孝が崩御したので、仕方なく臣籍(皇室の配下である公家)にいた源定省(みなもとさだみ)を急遽親王の身分に戻し、皇太子とした。異例中の異例で誕生した。宇多天皇である。ただ、新天皇に基経は強烈な「恫喝」で臨む。それを「阿衡の紛議」という。しかし、基経は事件後、...967回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉒

  • 966回 あちゃこの京都日誌 俺にも言わせろ!!

    俺にも言わせろ!多様性とは何か?様々な意見があって良いのではないか?・同性婚に反対する意見をすべて封じるような風潮には納得出来ない。首相秘書官の発言は確かに差別?的な発言に聞こえる。しかしこれほどの大騒ぎする事だろうか。しかも「オフレコ」条件下での発言らしいではないか。マスコミのモラルは問われないのか。これは、「同性婚や夫婦別姓が至極当然で反対する人間を逆に差別する。」ことにならないか?意見の多様性から言えばそれらの問題に違和感を持つ人たちも多くいるのである。そのような人たちの多くは意見を公には言わない。一方、デモやマスコミでは大々的に取り上げて盛り上げる。あたかも世論の太宗が同事案へ賛成かの如く見える。それは違う。我々世代だけではなく男女の夫婦単位で同じ姓を名乗り子供を育む家庭の形が基本だと考えている人...966回あちゃこの京都日誌俺にも言わせろ!!

  • 965回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」㉑

    その2藤原基経との関係(光孝天皇の登場)藤原北家の当主は冬嗣、良房と続きその子に適当な子がいなかったのか、甥である基経を養子とし全権を委ねた。この時、藤原氏の総帥はその基経であるが、彼は、養子に乞われたこともあり極めて優秀であった。ただ、直系の後継者でなかった為か、何かにつけて自らの権威を強化することに異常な執念を燃やした。生まれながらのぼんぼんではなかったのだ。これが、陽成・光孝・醍醐と3代の天皇にわたり確執を生む。しばしば辞任をほのめかして、政権に揺さぶりをかけて天皇を脅した。古来、高い地位に就くときは儀礼的に「辞退」することが美徳とされた。しかし、彼は本当に出仕を辞めてしまうことがあったという。つまり「自分がいなければ何も出来ないでしょう?」と、言わんばかりに天皇に圧力をかけて来たのだ。中でも、陽成...965回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」㉑

  • 964回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑳

    本編257代陽成天皇~59代宇多天皇綱渡りの継承劇その1狂気の天皇陽成天皇歴史には、狂気の王がしばしば登場する。権力を握ってから狂気化する場合、狂気なるものが王権を持ってしまった場合、さらに狂気なる振りをすることで自らの命を守る場合など、色々ある。しかし、勝者が残す歴史は王統の変更(政権の交代)があれば必ず前政権の最後の王者を貶めて記録される。それは、新政権の正統性を強調したい為に行われる歴史書の鉄則だ。陽成天皇もそのケースである。しかし、宮中における殺人事件(自ら犯行を疑われている)など、史実に基づく真実も多く「若気の至り」どころではない激しいもので、相当荒れた性格であったらしい。何せ生後2か月で皇太子、そして9歳で即位したのだからその素質を見極めて天皇になったのではない。父の清和天皇同様、藤原氏の庇護...964回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑳

  • 963回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑲

    その4皇位継承の基本形「皇位は奪わない」この時代重要なことは、「皇位は奪わない」ものにした事だ。藤原氏はいつでも天皇家を滅ぼし自らの一族に皇位を奪うことも出来た。しかし、天皇家の神秘性を利用しその実権のみを奪い取る方が、合理的で権力と財力を得るには上策であることに気づく。これは世界にも例がない日本固有の権力形態となって行く。皇位は奪うのではなく天皇の権威を利用して、権力(実権)を得るのである。天皇は男系男子という限られた制約の中で継承していくが、藤原氏は増殖を繰り返し政権の中枢のみならず、荘園制度を利用して地方政治にも根を張り、和歌や雅楽などの文化にまで支配が及んで行く。もちろん中国のような王朝交代時の徹底的文化破壊は起こらなかった為、文化・伝統芸能などの伝承が間断なく続いた功績は絶大である。藤原家と皇室...963回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑲

  • 962回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑱

    その3薬子の変「平安時代の本格的始まり」イメージ薬子の変とは、桓武天皇の子平城天皇(上皇)が弟の嵯峨天皇に対して、再び皇位を狙い奈良の平城京に都を戻すとして謀反を企てた政変である。しかし、経緯を見るとここには皇位継承の難しさが垣間見える。事件のキーウーマンは、藤原薬子(女性)である。長岡京造営の責任者で暗殺された藤原式家の種継の娘で、その娘の珠名を平城天皇の妃として送り込んでいた。しかし、自分が尚侍として天皇の身辺を世話するうち、あろうことか娘より母である薬子の方が寵愛を得る。現代の美魔女というところか。男というのは若いうちは熟女の魅力には勝てない時期があるものだ。さらに薬子の弟である藤原仲成も重用される。藤原四家のうち、南家は仲麻呂(恵美押勝)の乱で衰退し、京家は強力な人材がなく、北家と式家の権力対立の...962回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑱

  • 961回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑰

    その3藤原氏の陰謀「他氏排斥のドロドロ」藤原氏家紋「下り藤」この後、「この世をば、我が世と思う。望月の・・・。」と、藤原氏の全盛期を迎えるその素地は、この時代に出来た。始祖中臣鎌足が藤原姓を賜り、その子不比等を経て、北家・式家・南家・京家と4兄弟が皇室と複雑に絡み合い、同族間で争い、最終的にほぼ北家が藤原摂関家として天皇以上の権力を把握する。しかし、その権力奪取の歴史はあまりにも暗部が多く解明されない点も多い。以下に陰謀を疑われる事件を列挙して見た。敗者の多くが、怨霊やそれに準じる形で手厚く祀られていることから多くが仕組まれたものと思われる。しかも、権力を得ても天皇家を滅ぼさず、天皇家のパラサイトとなり権力の甘い汁を吸い続ける手法を取った。世界史にもあまり見受けられない巧妙で陰湿な例である。しかも平安時代...961回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑰

  • 960回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑯

    その3桓武天皇の即位・しかし、またまた大事件が起こる。新都工事責任者の側近中の側近である藤原種継が暗殺された。三都の位置関係当然反対派の仕業と疑われた。しかも桓武天皇の弟で次期天皇の早良親王の関与が疑われた。捕らえられた早良親王は、無実を訴え長岡の乙訓寺で食を絶ち憤死する。結果、本邦最大級の怨霊となる。その怨霊を恐れて新都建設を断念せざるを得なくなる。怨霊が政治を動かしていた時代だ。冤罪で死んだ高貴な方の地位が高ければ高いほど強い怨霊となるのだ。後日、崇道天皇と追号するがそれでもおさまらず長く祟りをなした。遂に長岡を捨てて山城の地に都建設を託す。現在の平安京である。そこは四神相応の地であった。しかし、筆者が思うのは桓武天皇の功績は、何と言っても子沢山だと思っている。多くの皇子・皇女を作り、姓を与えて臣籍降...960回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑯

  • 959回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑮

    その3桓武天皇の即位桓武天皇この章の主役桓武天皇は、このようなドロドロした激動の奈良王朝の中で誕生する。父の光仁天皇(白壁王)は皇位継承から全く無縁の人であった。親王(天皇直系)でもない王(皇族の子)の身分からの即位は当時珍しく、その子山部王(後の桓武天皇)の母は、高野新笠という渡来人でありせいぜい官僚としての出世を望む程度であった。父の即位以前、天皇は、天武天皇系で繋いでいたが、すでに書いたように称徳天皇の弓削道鏡御宣託事件があり、(それを救った和気清麻呂、筆者は清麻呂は万世一系の皇族と日本国にとっての大恩人だと思っている。)大混乱にあった為、天武系ではなく天智天皇系に次期天皇を探す事となった。その為、政治的意欲の無い60歳の光仁天皇に大命が下った。そして、皇后は井上内親王で、伊勢斎宮より復帰して皇后と...959回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑮

  • 958回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑭

    その2光仁天皇の即位「新しい皇統の確立」その光仁天皇即位にも、やはりひと騒動あった。天武天皇系の智努王(民間に臣籍降下し文屋浄三)を推す吉備真備一派と、白壁王(光仁天皇)を推す藤原氏一派との対立が始まる。白壁王は、天智天皇の孫だが后が天武系の聖武天皇の皇女(井上内親王)だったので中立の立場と思われた。しかもすでに62歳と高齢で酒好きの政治的野心の無い人物とみなされたようだ。決着は、藤原氏の陰謀体質そのものの、称徳天皇の「遺宣」(天皇の遺言)を偽作するという奇策?であった。加えて反対派への武力での威圧もあり、なんとか白壁王の即位で光仁天皇の誕生となった。当時の藤原氏は北家の永手、式家の良継らが主流で、一族挙げての策略であった。当然、道鏡の放逐と和気清麻呂の復権も成功した。しかし、后の井上(いがみ・いのうえ)...958回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑭

  • 957回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑬

    本編の1⃣49代光仁天皇~50代桓武天皇ドロドロの奈良王朝からの独立その1時代背景「貴種を守る為の闘いの果てに」継体天皇以降、皇室は皇族内で貴種(血統)を守る為に必死に戦った。ただ、皇室内の男系男子で繋ぐという合意が出来つつあったが、まだ豪族の力が大きく、蘇我氏、物部氏、大伴氏などの有力豪族との折り合いを付けながらであった。一方、皇室内では同族婚姻を繰り返し血の濃い身内で皇位を守って来た為、男系男子の原則を守ることは出来たが、権力の確立が十分でない中、奈良時代末期には、皇位継承者が壮年に達しない場合は女性天皇も登用しその歴史を繋いでいる。例えば、欽明天皇のお后で35代皇極天皇は、途中弟の孝徳天皇(軽皇子)に譲るものの実子である中大兄皇子の成長を待って譲っている。中大兄皇子とは、大化の改新を経てすでに実権を...957回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑬

  • 956回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑫

    その5継体天皇の意味継体天皇以降は女系天皇?継体天皇の皇位継承は、現代の皇位継承議論の大いに参考になる。継体が応神天皇から5世隔てた子孫であるとされたことから、当然、地方の有力豪族による王朝交代説が疑われている。しかし重要なのは天皇の血筋であることが天皇の条件であったことだ。記紀の記載に非現実的な記載があることは否定できない。しかし、王朝(皇室)はその後を考えて最大限の努力をしている。それは、王妃だ。継体もその子の安閑天皇・宣化天皇もともに王妃には、2代前の仁賢天皇の皇女を迎えている。つまり男系ではないが、女系(天皇の実子である女性)で繋ごうと必死の策をとっている。結果、宣化天皇との間に生まれた石比姫命と継体のもう一人の子である欽明天皇とが結婚し男子(敏達天皇)を産んでいる。ややこしい話だが、女系では見事...956回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑫

  • 955回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑪

    その4継体天皇の登場「皇統が変わる時前天皇を貶める歴史改ざんは当たり前?」武烈天皇ここまでで、古代から男系男子で繋ぐ「万世一系」の原則を確認しつつ、女性天皇で危機を乗り越えて来た事実を書いた。ダイバシティーを先取りする皇室の歴史が分かった。さて、河内王朝(百舌鳥古墳群の辺り)の最後の天皇である武烈天皇は、誠に勇ましい尊号だが、「悪逆非道」の天皇と言われている。これは、中国にある辛酉革命の考え方で、「王朝の最後は徳の無い大王だったので、仕方なく次は有徳の大王が新王朝を立ち上げた。」ことにしたのである。例えば、北条幕府最後の執権北条高時、足利幕府最後の将軍義昭など、政権交代にはよくある話で、特に創作の多い「日本書紀」の記載はそのまま信じられない。現代の財務省始め高級官僚の公的文書改ざんなど可愛いものだ。さらに...955回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑪

  • 954回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑩

    その3古代の人間性「その前に、古代の性の営みについての表現」これから天皇家の皇位継承を通じて皇室の先進性を見て行くのだが、古代での性についての表現について書きたい。そもそも男女神であるイザナギ・イザナミ尊の夫婦の営み(セックス)で日本の国が誕生した。最初、女性神であるイザナミ尊から誘ったために水子が産まれたので、今度はイザナギ尊が誘ったら多くの神たちが産まれたとされている。つまりセックスは男から誘うのが正しいと教えている。漢字で表記すると、伊弉諾・伊弉冉は「誘い誘われ」とも読める。なお、イザナミ尊の死の原因が火の神である我が子の誕生により「ホト(女性器)」にやけどを負ったことになっている。神話には女性器を神秘的なものとし、しばしば登場する。女性器のような割れ目のある岩や木の幹を神が宿るものとして信仰の対象...954回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑩

  • 953回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑨

    その2皇室権力を確たるものにする為、殺戮が繰り返された。「その為後継者もいなくなり、事実上の女性天皇が継いだ。古代も女性が国を助けたのだ。」現在の定説では、雄略天皇(河内王朝)は、「倭の五王」の讃・珍・済・興・武の内、最後の倭王武とされている。昭和53年に話題となった埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣が検証の結果、西暦471年のものと判明し「ワカタケル大王」の実在が判明し、関東地域まで朝廷(大王)の支配が及んでいたことも分かった。画期的大発見は、、当時、一大古代史ブームを呼んだ。記紀では「悪行の主なり」と、暴君の極みであるように書かれていて、戦国時代の信長を彷彿とさせる天皇なのだが、前時代を否定し新時代の幕開けを演出したある種の英雄でもある。(そのあたり日経連載小説「ワカタケル」池澤夏樹氏著に詳しい)自ら...953回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑨

  • 952回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑧

    第1章雄略天皇~継体天皇その1大古の昔は、130年以上生きた天皇が何人もいた。?「昭和天皇は最長寿ではなかった。神の話から人間の話へ」天皇の初代は、神武天皇だが、このあたりは神話の世界と重なりかなり歴史的真実とは考えにくい。特に、2代綏靖から9代開化までは、「欠史八代」と言われていて実在は疑わしい。何しろ皆さん御長寿でいらっしゃる。この間、長寿番付け1位は、孝安天皇137歳、2位孝霊天皇128歳、3位初代神武天皇127歳、以下孝元天皇116歳、孝昭天皇114歳、開花天皇111歳、綏靖天皇84歳、懿徳天皇77歳、安寧天皇67歳。なんと昭和天皇の89歳が史上最高年齢と思っていたのに、である。古代では、現在のようなストレスはなく天変地異もなく、また環境問題もまだなく有害物質に侵されることも無かった為か?しかし、...952回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑧

  • 951回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑦

    ⑧現代に繋がる安定的皇位継承の問題点現在、今上陛下よりお若い天皇皇位継承権を持つ方は、皇太弟(皇嗣殿下)である秋篠宮殿下とそのお子様の悠仁親王殿下のお二人である。これで次世代まで皇位継承は安泰だという方もいる。しかし、お二人しかいらっしゃらない、このことが最大唯一の問題だ。言うのも憚れるが、万が一の場合は皇統断絶の危機が現実問題となっている。そこで女性天皇や女系天皇の議論がある。しかし、女性天皇と女系天皇の違いなど十分に理解されていない事や、歴史上女性天皇がどのような経緯で即位されたかなどの検証も不十分と言わざるを得ない。父親を遡れば必ず天皇に繋がるという我が国固有の男系男子による皇位継承は、女性天皇でも必ず父親(祖父)は天皇であった。両親とも天皇であれば良いが、そのお子(女帝は未婚が基本)は天皇になって...951回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑦

  • 950回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑥

    ⑦皇室復古の闘い徳川の時代になると、家康の定めた「禁中並び公家諸法度」により厳しく皇室の権力を制限されつつも、108代後水尾天皇は皇后(徳川和子)の徳川家の財力と、自らの長寿(85歳)を武器に皇室の復興に取り組む。しばらく後水尾上皇の時代が続き、晩年に出来た子の112代霊元天皇(79歳)も長寿を全うし数々の復興の試みを行った。しかし、その後は早世の天皇が続き、遂に118代後桃園天皇の時代に皇統断絶の危機を迎える。ただ、113代東山天皇の時代に新井白石の提言により新たに親王宮家(閑院宮家)を創設し危機に備えていたり、途中、女性天皇を挟むことで天皇位の空白をうめるなど様々な英知を集結していた。女性天皇とは117代後桜町天皇のことで、116代桃園天皇の早い崩御により甥の118代後桃園天皇の成長まで皇位をつないだ...950回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑥

  • 949回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」⑤

    ⑤皇位継承の決定権が武家に委ねられた結果の両統迭立御嵯峨天皇2系統迭立へ次に、鎌倉時代後期の両統迭立から南北朝戦乱へと時代も注目だ。ここまで見て来たように親子相続をしているうちは良いが、兄弟相続を行えば必ずその後は「兄の子(皇統)」か「弟の子(皇統)」かで必ず争いは起こる。しかし、88代後嵯峨天皇の場合は後継者を自ら決められない事情があった。82代後鳥羽上皇の承久の乱の記憶がまだ残る頃だった為、幕府が主導して幕府に反乱の意思が薄かった皇子の血統から後嵯峨天皇を選んだ為、自らの二人の子のどちらの血統に継いでいくかが決められなかったので、幕府に委ねたのだ。皇室が自ら後継を決められない事態になっていた。この結果、2系統交互の皇位継承と定めた。大覚寺統、持明院統の両統迭立の始まりだ。しかも幕府自体も元寇を挟んで北...949回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」⑤

  • 948回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」④

    ③天皇は相応の年齢と素養を求められた。男系男子を旨とする何とか嫡子相続を主体に考えようとするが、やはり直系の皇子が幼少なら即位は認められず、例えば天武天皇の皇太子草壁皇子は25歳とは言えまだ十分ではないとの事で、皇太后の鵜野が称制(後の摂政)で補助し結果的にはその草壁皇子が早世したたため甥の軽皇子(文武天皇)7歳の成長を待つ間、その鵜野が女帝持統天皇となっている。その文武天皇即位時には、意見が分かれ、「神代より以来、子孫相承」と基本理念に関わる宣言をし争いを収めたという。また、母が皇族ではない聖武天皇(藤原氏出身)あたりから、生母が皇族以外でも、その皇子・皇女が天皇の直系であれば皇位を継承できるとなった。その後、永く藤原氏が天皇の外祖父の地位を利用して皇室を牛耳る素地が出来て行く。④皇室最大の危機を乗り越...948回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」④

  • 947回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」③

    序章皇位継承の経緯①神話の時代は、親子相続が原則で順調に継承した。令和の即位の礼その前にまず大雑把に皇位継承の歴史を振り返る。太古の日本は、今から13000年くらい前から2300年くらい前までの縄文時代を経て、約2000年前の弥生時代中期以降になって、多くの豪族の中から九州高千穂あたりに大きな勢力を貯えていた者たちが、何らかの理由で東征して大和地方に拠点を移した。その勇敢な豪族が大和政権を営み、その初代の統治者こそが神武天皇ということになっている。『古事記』には、神倭伊波礼比古命(かむやまといわれひこのみこと)。『日本書紀』では、始馭天下天皇(はつくにしらすすめらみこと)とされその後、諡号の神武天皇が贈られる。その時、九州に残った同じ豪族の一部が当時の中国の魏と交流したのが、邪馬台国と考えられる。その女王...947回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」③

  • 946回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」②

    皇位継承の筆者統計より初代神武天皇本文に入る前に、126代今上陛下までの皇位継承の130例(南北朝の北朝含む)をすべて調査して見た。その結果、親から子への継承が一番多いのは当然だが、67例で半分ほどに過ぎないことが分かった。これを第1子かそれ以外かを見れば色々な事情が見えてきそうだが、正規なお后からの御子以外は記録に不明なものが多く詳細な調査は断念した。次は、兄弟間の継承例が26例で次に多い。これは兄から弟へが24例を占めるが、4件が兄へ継承している。古代の24代仁賢天皇は弟の顕宗天皇からが初見だが。33代推古天皇(本邦初の女性天皇)と117代後桜町天皇(現在最後の女性天皇)はそれぞれ弟の崇峻天皇、桃園天皇の早世により急遽次代へのつなぎの為の即位であった。また、71代後三条天皇も弟からの継承だがこれは本編...946回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」②

  • 945回 あちゃこの京都日誌 新シリーズ「新天皇国紀」①

    「新天皇国紀」新天皇国紀皇室は現代にいたるまで如何に皇位を継承して来たか。前書き平成の上皇陛下の生前退位を経て早4年が経ちました。この間、皇室(皇統)の存続について議論の必要性が言われています。そこには早急に解決すべき二つの大きな問題(課題)があります。まずは、最重要課題である皇位継承問題があります。現在、皇位継承権者が僅か3名でこれでは天皇制の存続が危ういというものです。そして、膨大な皇室関係の仕事(行事)を受け持つ皇族の方の人員減少問題です。内親王殿下など女性皇族の方々は結婚とともに皇室を出て民間人になることになっているので、日本赤十字社の名誉総裁など数々の福祉関係団体の役職やスポーツ関係団体、文化事業の各種団体など皇族のお出ましが不可欠な仕事が多くあります。しかし、このままではその担い手が不足すると...945回あちゃこの京都日誌新シリーズ「新天皇国紀」①

  • 944回 あちゃこの京都日誌 光格天皇研究 ⑩

    終章終わりに分かったこと、分からなかったこと。主たる参考書籍分かったこと分からなかったこと(今後の課題)・光格天皇は早い時期から御親裁を行っていた。・3事件を通じて、徐々に光格天皇の自立の経緯が分かった。・前期の光格天皇の政治的成長には、鷹司輔平と松平定信が重要な役割を担ったこと。・特に、定信の歴史的な見解については、研究が進み定説に変化があること。・天皇の自立に従って、輔平とは決別した。同様に、家斉の成長と共に定信も老中を辞任した。・後桜町上皇は、終始一貫光格天皇の和歌など文化活動と政治的自立の助言者であった。・実父閑院宮典仁親王と実母大江磐代は、具体的発言は残っていないが、非常に温和な思いやり深い人物であった。・朝廷・皇室は、儀式・儀礼を通じて、一般庶民と今よりはるかに身近な存在であった。・後桜町天皇...944回あちゃこの京都日誌光格天皇研究⑩

  • 943回 あちゃこの京都日誌 光格天皇研究 ⑨

    ※重要な第6章を飛ばしたので、追加訂正する。第6章光格天皇時代の君主意識☆光格天皇の政務開始次に、光格天皇の君主意識を藤田氏の研究を中心に検討する。『光格天皇』(同氏ミネルヴァ書房2018年)では、天皇16歳の天明6年には早くも新嘗祭の復古再興などいくつかの朝議の再興に取り組んでいて、武家伝奏を自ら招き「内密の叡慮」「思召」を伝えている。その事で、主導性や強い意思と粘り強さを見る事が出来る(33頁)としている。また、天明8年に鷹司輔平が松平定信に送った書状には、桜町天皇以降、女帝の時もあり摂政の時代が長く、関白の時も天皇が幼かったり虚弱だった為、実質摂政に近かった。ところが光格天皇は、当時の関白の九条尚実が病気であった為、「早くから朝廷政務の処理に慣れ、一二の近臣らが意見を申し上げているであろうが、(中略...943回あちゃこの京都日誌光格天皇研究⑨

  • 942回 あちゃこの京都日誌 光格天皇研究 ⑧

    第7章続き☆幕府と朝廷の茶番光格上皇の後、仁孝天皇へその後の朝幕関係を象徴するエピソードとして面白い論文がある。これも藤田氏の著書『泰平のしくみ』(岩波書店2012年)から紹介しておく。光格天皇譲位後、文政10年(1827年)天皇は仁孝天皇だが、将軍家斉が太政大臣に昇進している。その時の仁孝天皇の「御内慮書」が残っている。それには、「徳川家斉の文武両面にわたる功労はぼう大である。」とし、将軍在位40年に及ぶあいだ、「天下泰平を維持し、将軍の徳はくまなく行き渡っている。」と称え、その功績を理由に、武官の長としては大将軍に任じられ、さらに「文官の長である太政大臣に任じたい。」とした趣旨を書いている。歴史上はじめて幕府将軍職と太政大臣をともに生前に給わるという栄誉である。そして、これを見れば、誰が読んでも朝廷が...942回あちゃこの京都日誌光格天皇研究⑧

  • 941回 あちゃこの京都日誌 光格天皇研究 ⑦

    第7章研究の総括ここまで光格天皇の前半について論じて来た。ここで箸休めの話を書きたい。光格という諡号についてだ。尊号・追号とも言うが、格調の高い良い名ではないか。因みに、諡号に「光」がつく天皇には共通点がある。光仁天皇・光孝天皇などが分かりやすいが、奈良時代末期の光仁天皇は桓武天皇の父で、弓削道鏡事件で有名な称徳天皇(女帝)の後を継いだ天皇だ。天武天皇系から天智天皇系に皇統が変わる一大変化の節目をつないだ天皇だ。また平安中期の光孝天皇も陽成天皇の突然の退位を受けて3代さかのぼりすでに55歳の高齢で急遽即位した天皇だ。いずれもその後は両天皇の皇統で安定する。つまり新しい皇統につないだ天皇、言い換えれば皇統の断絶を救った天皇なのだ。中国にも「光」のつく皇帝には同様の意味合いがあったようで、媒質を必要とせず、真...941回あちゃこの京都日誌光格天皇研究⑦

  • 940回 あちゃこの京都日誌 光格天皇研究 ⑥

    第5章光格天皇を囲む人たち光格天皇の周囲を囲む人たちを紹介する。松平定信以外は皇室に連なる御親族の方たちである。筆者はどの方もみんな人格・教養において別格の存在感があると思っている。特に、後桜町天皇は現在で最も最近の女帝であるが、献身的な指導・訓育を光格天皇に対して行っている。現代にいたる日本の皇室の最大の功労者と称えて良いと思う。閑院宮典仁親王典仁親王光格天皇の実父である閑院宮典仁親王については、「典仁親王」若松正志(『歴史読本』819号2007年)と、「閑院宮家の創設」若松正志(『日本の宮家と女性宮家』所功編新人物往来社2012年)から見て行く。親王は、享保18年(1733年)に、閑院宮初代直仁親王の第2王子として生まれた。異母兄弟は多いが、そのうち7歳下の異母弟淳宮は、五摂家の一つ鷹司家を相続した関...940回あちゃこの京都日誌光格天皇研究⑥

  • 939回 あちゃこの京都日誌 光格天皇研究 ⑤

    第4章前期3事案の総括光格天皇光格天皇の前半生の3大事件をまとめた。明治維新の尊王の動きにつながる幕府と皇室の変化の兆しが見事に浮かび上がった。しかも、それが傍系からの即位であった天皇がきっかけとなっている。皇室でも将軍家でもそして現代の企業経営者でも多くみられる「傍系の改革力」は侮れない。改革は、よそ者・若者・変わり者と、よく言われるが皇室にも例は多い。「不測の天運」に導かれたのは、後鳥羽天皇や後白河天皇・後醍醐天皇もその例であり神に選ばれ改革の寵児である。しかし、これほど見事に正確にしかも時代を見通した天皇は他に知らない。典仁親王しかも70歳まで長寿を誇るこの天皇だが、ここまでで25歳前後とまだまだ先は長い。現代ではまだ社会人のスタートを切ったばかりの若者だ。実父典仁親王や叔父の鷹司輔平の存在、そして...939回あちゃこの京都日誌光格天皇研究⑤

  • 938回 あちゃこの京都日誌 光格天皇研究 ④

    第3章の②尊号一件の経緯☆定信と輔平の関係・尊号一件の決着寛政4年の尊号一件の真っただ中の10月にも定信は、輔平に対して京都の情勢について、「いかがの御模様にてあらせられ候事か、」と、訪ねる書状を送っていて、輔平は、天皇においては是非に行われたしと思っている訳でもない。正親町前大納言と広橋前大納言の両名は雷同。帳本人は中山前大納言でことのほか強く勧めている。仙洞御所にも余り預かり聞かず。という返書を送っている。ただし蘇峰は、「輔平の言い分は、江戸に配慮したもので、主上の思し召しは一番強く、このような仕儀になったのは、中山一人の責任ではない。」と述べている。そして決着は、10月22日の所司代より定信への書状の中に、「追々禁裏へ仙洞より御幸これ有る御沙汰(中略)尊号の御事は、いよいよ御延引相成り申すべき御事の...938回あちゃこの京都日誌光格天皇研究④

  • 937回 あちゃこの京都日誌 光格天皇研究 ③

    第3章の①尊号一件の経緯☆尊号事件の発端閑院宮典仁親王尊号事件とは、光格天皇の実の父君である閑院宮典仁親王が、天皇の実父でありながら朝廷での席順が、古来より三公(※)の下であり、さらに、「禁中並公家諸法度」によって定められていた。これを解決するためには、禁中並公家諸法度の改定か典仁親王に尊号を贈るしかなかった。尊号とは、太上天皇の事で、普通は譲位した後の天皇に与えられる。因みに天皇にならず尊号を贈られた例は2例しかなく、承久の時代の後高倉院(守貞親王)が、子の茂仁親王が後堀河天皇になったことで贈られた例と、南北朝時代に後崇光院(貞成親王)が、後小松天皇の猶子となり子の彦仁親王が後花園天皇となったことにより贈られた2例のみである。光格天皇は、前例があることを理由に執拗に幕府に対して尊号宣下を許可するよう迫っ...937回あちゃこの京都日誌光格天皇研究③

  • 936回 あちゃこの京都日誌 光格天皇研究 ②

    光格天皇の胞衣塚京都市上京区第2章・寛政度御所再建の経緯ここから2つの事件を追いかけるが、その経緯を最も詳しく伝えている文献としては、以下に紹介する徳富蘇峰の『松平定信時代』を取り上げる。そして、その先行研究(通説)へ疑問を呈する様々な研究成果をさらに見て行く。☆松平定信登場「寛政度御所再建」とは、御所千度参りの翌年の天明8年、後に「天明の大火」と言われる大火事で焼失した御所を、小規模の再建で済まそうとする幕府に、平安時代の古式に則って大規模に再建したいという朝廷の意向が対立したが、交渉の結果朝廷の主張通りになった件である。そこには、松平定信が重要な人物として登場する。『松平定信時代』(徳富蘇峰著平泉澄校訂講談社学術文庫1983年)(徳富蘇峰脱稿大正14年1925年)の冒頭に蘇峰は、「予はもし今日の日本に...936回あちゃこの京都日誌光格天皇研究②

  • 935回 あちゃこの京都日誌 光格天皇研究 ①

    「光格天皇とその時代」論文掲載令和2年2月8日序章令和の新しい時代が始まり4年が経つ、その間多くの研究者が「天皇」「皇室」についてコメントしている。中でも、光格天皇については、現皇室の直系の祖であるという事からしばしば話に出て来る。しかし、江戸時代の天皇については、始まりの後水尾天皇と、幕末の孝明天皇のお二人は印象深いが、途中はあまりイメージがわかない。そこで、この度、光格天皇を研究することで江戸時代における天皇・皇室について自分なりの理解を得たいと思った。☆光格天皇登場本論に入る前に、光格天皇登場までの時代背景を簡単におさえる。後陽成天皇が子の後水尾天皇に譲位したのが、慶長16年(1611年)であり江戸時代の天皇の歴史はここから始まる。「禁中並公家諸法度」の発布が、慶長20年(1615年)である。その後...935回あちゃこの京都日誌光格天皇研究①

  • 934回 あちゃこの京都日誌 俺にも言わせろシリーズ 若者・よそ者・変わり者

    ある会社のある会議の風景第2話社長が突然言い出した。「会社を変えるのは『若者』『変わり者』『よそ者』だ。」今日の会議はそれぞれの議題の最初の意見は、これらの者に聞きたいと、言い出した。明石常務串本専務早速、「さすが淡路社長、いいアイデアですね。私もそう思ってました。」と、串本専務。明石常務も鳴門取締役もみんな、社長の意見に感動する。中には泣いている幹部もいた。今日の議題は、「社員の満足度アップ」についてだ。左門君社内で変わり者で通っている左門君が、指名された。今でも牛乳瓶の紙のふたを収集するという年季の入った変わり者である。「私は、社内にラグビー部をつくるのが良いと思います。」一同「・・・・。」左門君「ラグビーは道徳心を重んじるわが社の社風にも合います。そして試合が終われば『ノーサイド』というのが良いです...934回あちゃこの京都日誌俺にも言わせろシリーズ若者・よそ者・変わり者

  • 933回 あちゃこの京都日誌 俺にも言わせろシリーズ 若者・よそ者・変わり者

    ある会社のある会議の風景第1話社長が突然言い出した。「会社を変えるのは『若者』『変わり者』『よそ者』だ。」今日の経営会議はそれぞれの議題の最初の意見は、これらの者に聞きたいと、言い出した。ここは阪神・阪急ホールディングス株式会社。それではと、最初の議題。・来年の株主総会について指名された入社3年目の櫛本君。「総会は甲子園球場で開催は如何でしょう。」と、提案。今年から阪神・阪急HDの有力子会社の阪神タイガースのオーナーは初の阪急出身者が務める。タイガースファンの間には不安の声が多い。そこで甲子園球場のグランドで株主総会を行うことで安心してもらう。しかも岡田新監督のもと「アレ」を目指す聖地甲子園で行う意味は大きいと、主張したのだ。「ええ提案や。」しかし社長の横山やすし「アレって何や?」と。一同固まる。アレ知ら...933回あちゃこの京都日誌俺にも言わせろシリーズ若者・よそ者・変わり者

  • 第932回 あちゃこの京都日誌 京都の紅葉 ⑤ 蓮華寺

    蓮華寺に紅葉を見に行った。所在地京都府京都市左京区上高野八幡町1山号帰命山宗派天台宗本尊釈迦如来開山実蔵坊実俊開基今枝近義中興寛文2年(1662年)別称洛北蓮華寺街道沿いだが、注意していないと見逃す。崇道神社のすぐとなり。右手に土蔵が見える。今年の紅葉の季節。そこは上高野にあり、大原に繋がる通称「鯖街道(国道367号線)」沿いにある。その先には近年有名になった瑠璃光寺など名所は多い。この寺は加賀前田藩の家臣、今枝民部近義が再建し寺の整えたものである。近義が蓮華寺を造営したのは、その祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられている。蓮華寺形灯籠として知られる細長い灯籠が特色の池泉回遊式庭園が見どころ、「基礎は六角で蓮弁がつき、竿は丸竿で中央部が膨らむ独特の形をして」おり、茶人たちに好まれたという。冬の庭園。...第932回あちゃこの京都日誌京都の紅葉⑤蓮華寺

  • 第931回 あちゃこの京都日誌 京都の紅葉 ④ 上醍醐

    上醍醐を10年振りに行って見た。結論は、「なかった」のである。10年以上前に西国33か所巡りの番所として訪ねた。最初の1度は下醍醐(国宝五重塔がある場所)から果敢に登山をしたこともある。前回は、醍醐山の後方、山科方面から迂回をし横峯峠まで車でショートカットしラストの数百メーターを登って行った。そのルートを目指したが、建造物は無かった。しかし後日ネットで検索したら近年登山した人たちのブログを複数発見した。建造物は存在するのである。30分ほど山中をさまよった小生は何をしていたのか。クマやイノシシの襲撃リスクを感じながらの恐怖体験だった。看板に従い上醍醐方面に登山道を登る。この先は、ロープを頼りに急激な勾配の場所もあり10分ほどで息が上がる。行きつ戻りつ結局もとに戻り出直すことにした。実際はこのような伽藍の配置...第931回あちゃこの京都日誌京都の紅葉④上醍醐

  • 第930回 あちゃこの京都日誌 京都の紅葉③ 日向大神宮

    京都検定の1級を保有しながら再度の合格(マイスター)を目指して受験しました。超難問が10ほどあって、15の不正解が許容される1級ですが、過去問とテキスト掲載の問題は落とせません。小生のように分かっていても不注意が多い軽薄な受験者には合格は難しい。案の定、答え合わせの結果、不合格が判明。しかもテキスト範囲からも多く不正解となり絶望しました。超難問は捨てると、7~8は捨てることになる。あと、7~8のテキスト範囲か過去問を漢字を正確に書けるかが条件だ。年齢による老化を考えると限界か。引退の危機だ。趣きのある参道さて、日向大神宮へ行って来た。5条通りの大谷廟越えてバイパスの将軍塚への入り口を見逃し、山科の蹴上から逆走し進入した。以前、車で探ったが辿り着かず断念したことがある。やっと見つけたが、霊気漂う山肌にそれは...第930回あちゃこの京都日誌京都の紅葉③日向大神宮

  • 第929回 あちゃこの京都日誌 「竈媚」

    曼殊院(まんしゅいん)は、京都市左京区にある天台宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。開山は是算(ぜさん)。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる。国宝の黄不動、曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する。紅葉の名所である。その曼殊院の庫裏入口にこのような扁額がありました。「ビソウ」と、読みます。竈(かまど)に媚(こ)びると言う意味です。・さてこれをどう理解するか。ネットで調べれば色々出てきますが、単純に理解すれば、やはり人間というものは生きていることを感謝すべきと思います。「生きてるだけで丸儲け。」とは、明石家さんまの名言です。もとは師匠の笑福亭松之助の言葉です。「生きてるだけで丸儲け。」なら、「健康であれば大儲け。」ですね。...第929回あちゃこの京都日誌「竈媚」

  • 第928回 あちゃこの京都日誌 京都の紅葉② 真如堂

    今年の京都の紅葉は、例年になく綺麗という声は多い。今日は、眞正極楽寺「真如堂」の写真を紹介いたします。真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、浄土寺真如町にある。山号は鈴聲山(れいしょうざん)。本尊は阿弥陀如来。通称は真如堂(しんにょどう)。左京区の黒谷の金戒光明寺と隣接していて、近くには「哲学の道」や「永観堂」など紅葉の名所が集中している地域です。ここも金戒光明寺も普段は人もまばらでゆっくりお参りが出来ます。いずれも靴を脱いで本堂にあがって御本尊に手を合わせるだけなら無料です。この時期、真如堂は奥の庭園や三井家の廟堂などを公開している。また、境内には洛陽観音33か所巡礼の札所、新長谷寺や重要な塔頭寺があり、また本堂前には「日本映画発祥の石碑」がある。日本映画の父、牧野省三が監督をし撮影した「本能寺合戦」の...第928回あちゃこの京都日誌京都の紅葉②真如堂

  • 第927回 あちゃこの京都日誌

    先日、京都に宿泊した時に早朝散歩を試みた。今年の京都の紅葉は近年では一番美しいとの評判である。夏の酷暑もほどほどだった事や順調に気温が下がった事が原因と思われる。ただ、私は紅葉の気持ちに立って、「コロナ禍で久しぶりに多くのお客様に来てもらえる。」ので、「厚化粧しました。」と。右手に御所。今出川御門を入って南方向を目指す。御所の鬼門方向の角は、猿が辻と呼ばれて鬼門封じの猿が置かれている。昔、夜な夜な出歩き騒ぐので今は、金網で囲われている。建春門。東側の唯一の御門。御所は、南面の建礼門(けんれいもん、正門)ここから葵祭の御列が始まる。北面の朔平門(さくへいもん、北門)、この東面の南寄りに建春門(けんしゅんもん、東門)、西面の南寄りにある宜秋門(ぎしゅうもん、西門)が四方の正門。西面には宜秋門の北に清所門(せい...第927回あちゃこの京都日誌

  • 緊急 俺にも言わせろ! 安倍追悼を妨げるのはやめてくれ。

    俺にも言わせろ。国葬と統一教会問題。あれっ?安倍元首相の暗殺事件の警備体制が問題だったのではないか。「死人に鞭打つ」のは「王朝交代がある大陸の文化」だ。日本が誇る哲学は、「惻隠の情」なのだ。不幸な死に方をした貴人を貶めない。歴史には日本の根本理念の例が山ほどある。みんなが普通に手を合わせる神社のほとんどが暗殺された貴人や謀略で死に追いやられた人の魂を祀っている。一般の人でも死ねば決して貶めない。それが根本だ。それがどうした。国葬儀の是非?そもそも世論調査する案件なのか。選挙で選ばれた国会の与党・政府が決めた施策すべて国民世論を問うか?国民世論がすべての判断基準において正しいか。我々はその自信がないので選挙で選んだ議員たちに一定の判断を委ねる。国民栄誉賞について世論調査したことがあるか?天皇の大喪の礼の賛否...緊急俺にも言わせろ!安倍追悼を妨げるのはやめてくれ。

  • 925 新シリーズ 令和に巡る京の神社 第35番 岩屋神社

    第35番岩屋神社所在地京都府京都市山科区大宅中小路町67主祭神天忍穂耳命栲幡千々姫命饒速日命社格等旧郷社創建仁徳天皇31年山科区は平安京の歴史の中では、洛中からは遠く離れて時を刻んできた。都の権力闘争の激動から逃れて太古のむかしからの歴史を伝えている。岩屋神社はその典型的遺産であり神話の時代の信仰を守って来た。古代の日本人は、大木や巨岩に神が宿るとした。原始信仰の形態だ。こちらの御神体は、本殿背後の山腹に奥之院にある岩屋殿と呼ばれる陰陽2つの巨巌である。このようなものを磐座(かむくら)と言うが巨岩をあくまでも神の依代(神が拠りどころとする)と考えるか、はたまた神そのもとして奉ることもある。なお、道祖神として女性器・男性器の形をした木や岩を子孫繁栄の神とするなど、古代の性へのおおらかさにも興味が尽きない。そ...925新シリーズ令和に巡る京の神社第35番岩屋神社

  • 924 緊急 俺にも言わせろ! 惻隠の情

    ワシにも言わせろ。昨今の安倍首相暗殺事件以降の、左翼系マスメディアの論調に対しては黙っておれない。日本の伝統・文化の破壊には耐えがたい危機感を持つ。日本の根本理念にはいくつかの普遍の教えがある。「惻隠の情」は、その中でも重要な一つだ。中国(儒教)から渡来した言葉だが、日本では色々な場面で使う徳目の一つで、今回の場合「死人に鞭打つ」として最も恥ずべき行為なのだ。思想信条においての違いや論争は自由に行う。これが民主主義、そこにもルールはあるが発言の自由は保証される。しかし、ひとたび相手が不幸な死を迎えた時は、故人の功績のみ称えるのが、「惻隠の情」である。それが礼儀・礼節である。遺族が悲しみに沈んでいる喪中において、相手の批判を行うのは「死人に鞭打つ」という最も愚かしい行為であるはずだった。一方、惻隠の情を伝え...924緊急俺にも言わせろ!惻隠の情

  • 923 新シリーズ 令和に巡る京の神社 第34番 地主神社(清水寺内)

    第34番地主神社所在地京都府京都市東山区清水1丁目317主祭神大国主命素戔嗚命奇稲田姫命足摩乳命手摩乳命など創建不詳例祭5月5日(地主祭り)余りにも有名になっているので、違うルートでお参りする方法を紹介する。通常、清水寺に拝観料を払って清水の舞台を鑑賞し、その奥の「地主神社」に向かうのが通常だ。あたかも地主神社の拝観料込みのように思うが、実は、神社は無料で行ける。因みに、清水寺も舞台以外は無料である。今回は、歌中山清閑寺方面からのルートをお伝えする。5条通り東大路を山科方面へ東に向かうと峠の手前に将軍塚などに向かう三叉路がある。ここまではバスやタクシーが便利だ。歩いて行くなら東大路のやや南の渋谷通りから登って行く。地主神社から奥の院を眺める。三叉路を左に折れると見えてくる。清閑寺は高倉天皇の悲恋の物語「小...923新シリーズ令和に巡る京の神社第34番地主神社(清水寺内)

  • 922 新シリーズ 令和に巡る京の神社 第33番 出世稲荷神社(左遷された?)

    第33番出世稲荷神社参道所在地京都府京都市左京区大原来迎院町148主祭神宇迦之御魂命創建天正15年(1587年)例祭4月8日稲荷社出世の象徴である神社が、左遷された。このような神社を紹介する。誰でも知っている出世頭と言えば、太閤さん豊臣秀吉。彼は稲荷信仰が篤く、天下平定の象徴として営んだ聚楽第の中に、稲荷社を勧請して祀った。時の天皇(後陽成天皇)が行幸した折にここに参拝し正式に「出世稲荷」と号した。そのままのネーミングである。聚楽第は甥の豊臣秀次の滅亡とともに破却されたが、稲荷社は残った。当時の所在地は現在の千本通二条あたり、旧の平安京の応天門のあった場所とされる。明治以降も訪れる人は多く、秀吉にあやかって出世や事業の成功を祈った。近代になり千本通が映画館や芝居小屋などの繁華街になった為、牧野省三や尾上松...922新シリーズ令和に巡る京の神社第33番出世稲荷神社(左遷された?)

  • 921 新シリーズ 令和に巡る京の神社 第32番 新日吉神社

    第32番新日吉神社所在地京都府京都市東山区妙法院前側町451-1主祭神日吉山王七神後白河天皇社格等旧府社創建永暦元年(1160年)本殿の様式流造例祭10月16日全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である日吉大社より山王七社(上七社)を勧請した。目的は後白河上皇が院政をする法住寺殿の鎮守社とする為である。同時に、平清盛から贈られた蓮華王院(三十三間堂)を鎮守寺。新熊野神社をその鎮守社としている。新日吉は「いまひえ」と読む、新熊野も(いまくまの)と読む。しかし今熊野観音寺も(いまくまの)と読むが(今)と書く。さらに日吉大社は(ひよし)と読むが、今日吉は(いまひえ)と読む。東京に行くと、日枝神社と書く。いずれも比叡山麓を源流にする山王信仰の流れである。ここまで、比叡、日枝、日吉と、いずれも(ひえ...921新シリーズ令和に巡る京の神社第32番新日吉神社

  • 920 新シリーズ 令和に巡る京の神社 番外 未踏の寺院 阿弥陀寺

    番外古地谷阿弥陀寺三門所在地京都府京都市左京区大原古知平町83山号光明山宗派浄土宗本尊阿弥陀如来創建年慶長14年(1609年)開基弾誓別称古知谷阿弥陀寺文化財木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)京都の名のある寺院はほぼ訪ねた。行かない寺行けない寺は、辺境にあり厳しい登山道の先にある場合、地図でも場所が確認できず行けていない場合、拝観日が限定されていてその日に行けていない場合など理由はいくつかある。しかし、明確な理由もなく行かないお寺もいくつかある。実は、人に言えない理由なのだが「怖い」という寺がある。今回、天気が良いので行って見た。天気が良ければ訪れる人が多く「怖さ」が紛れると思って意を決して行くことにした。参道古知谷阿弥陀寺は京都北部大原の里のさらに北端にある。平安の昔、弾誓(たんぞう)上人が生きながら成仏したミ...920新シリーズ令和に巡る京の神社番外未踏の寺院阿弥陀寺

  • 919 新シリーズ 令和に巡る京の神社 番外 未踏の寺院 志明院

    番外志明院所在地京都市北区雲ケ畑出谷町261山号岩屋山院号志明院宗派真言宗系単立本尊不動明王創建年白雉元年(650年)開基役行者正式名岩屋山金光峯寺志明院未踏の寺院を訪ねるのは、独特の感情がわく。市内にある重要寺院はほぼすべて訪問して来た。郊外にある余り大きくなく知名度も低い寺院を探しながら行くのは格別の興奮を覚える。例えば、左京区北の果ての峰定寺(ぶじょうじ)や、京都府南部の金胎寺などは修行の場であり、余人の訪問を拒んできた。大原の北端にある阿弥陀寺(古知谷)は弾誓上人の入滅の地であった。(ミイラとなった上人を安置している。)さて、こちら志明院も修行の岩場である。北区も奥に広い区域である。雲ケ畑の地名の通り雲上にある集落の趣きである。そこは鴨川の源流を訪ねる事になる。上賀茂神社を越えて西賀茂を横目に奥へ奥へ車...919新シリーズ令和に巡る京の神社番外未踏の寺院志明院

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