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浦和のたぬき
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2020/05/18

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  • 正覚寺の聖観音

    正覚寺は戦国時代真っ只中天文15年に岩槻城主配下の武将が一族の菩提を弔う為阿弥陀仏を奉安したのに始まるという其の後、安政の大地震や関東大震災で倒壊・再建を経て今日に至っているとの事ここで目を引くのは木像聖観音像舟形光背を含めて一木彫りの秀れたものだ天明2年の浅間山大噴火と荒川大洪水により傷ましい姿で流れ着いたものという右手は施無毘印(せむいいん)、左に蓮華のつぼみを持つ境内に安置された現代の聖観音(子育て観音)とを並べてみる現代技術により細工されたほうに美しさは一歩も二歩も譲るのは否めないがその深い味わいにおいては木像に軍配が上がるようだ現代品がその味を出すことがあるとしたら数百年の後の事だろう今は偶然流れ着いた木像物をこうして保管、閲覧に供してくれるお寺さんに感謝を伝えたいそれにしても炎天下、既に若干の「割れ...正覚寺の聖観音

  • さいたま市緑区中尾 氷川神社

    氷川神社は大宮を中心に、埼玉県および東京都下、神奈川県下におよびその数は280数社を数えるとのこと御祭神は素戔嗚(すさのお)尊ほか2柱と、まぁ蘊蓄を語るとそのようになるのだがここはどうだろう果たしてこれが神社と言えるのだろうか折角来たのだからと覗いては見たがもちろん鳥居も参道も無く民家の敷地内のよう本殿も賽銭箱も障子の中らしいお札が欲しければ一声かければ頂けるらしいのだがそこまでする気力もなし夏の日盛り締め切られひっそりとした室内は声かけるには勇気がいりそう門前の狛犬が石工の名も建立年月も不明ながら暑さにもめげず迎えてくれるなかおひかわじんじゃさいたま市緑区中尾さいたま市緑区中尾氷川神社

  • パロディ? 五百羅漢

    いつ果てるとも知れぬ見えないコロナウイルスとの闘いおまけにこの暑さ気が狂わないうちに笑い飛ばすも果報を寝て待つのも良し君達は真面目過ぎるよそうやって励んでるといつか反動で・・・でも少し変たまにゃ不真面目にするのも良いじゃないですか明日からまた頑張れば一瞬の暑気払いは数百の石造との出会いで~~~~とは言え暑いですな鳳琳山長興寺(かすみがうら)で数百のこういった石造物に出会ったパロディ?五百羅漢

  • 市立浦和博物館

    浦和博物館は小さな博物館合併により市内にはもう一つの博物館があるのだがこじんまりしたこちらを私は好むなんとなく身近に感じられるのだ目下休館中改装のためだそうだがコロナ故とは書いてないがこの際にとの事か建物は明治時代の師範学校を復元したもの1878年の建築洋館風でこれが中々いい正面は当時のものを保存・移築している建物自体も資料としての価値がある館内展示物も地元密着型で我が家近くの史跡見沼通船掘の閘門の模型をはじめ往時の浦和宿絵図、師範学校時の資料などがあり、興味深いが今は入館できない外回りの史跡も乏しいのだがわずかに二本の石造物が目を引くいずれも市内にあった修験寺林院にあったものこの寺が足立百不動の起点を示すものらしい残念ながら王林院は明治維新により廃寺となった模様こうした史跡の残る寺院が維新の為廃寺になったのは...市立浦和博物館

  • 浦和 三峰秋葉両社

    所用があって浦和に出る日頃から気になっていながらいつでも行けるからと参拝を怠っていた小さな社を観る駅前徒歩2分百貨店の裏側つい見落としそうだ偏額の一部が損傷しているが「三峰秋葉両社」と読める両社は三峰神社と秋葉神社の合祀の意眷属の「狼」繋がりなんだと、勝手に思案周辺町内で『高砂三峯講』があり今も三峰詣でが続いていると聞くが真偽は?鳥居に明治三十九年と刻まれているがその時の旦那方の奉納によるものだろう「講」参加者の芳名が刻まれているこれは近年のもの元は駅前にあったものが再開発や百貨店の進出で立地が二転,三転し、この地に安住して40年余り地元の方以外は殆ど見向きもしないようだがこうした街中の寺社は大切にしたいものそう言う私も初めての訪問駅至近時々拝みに来よううらわみつみねあきばりょうしゃさいたま市浦和区浦和駅近く浦和三峰秋葉両社

  • 三室の北向き地蔵

    北を向き立ちすくす地蔵尊一般には南を向くべきなのだがその名も北向き地蔵全国に北向きの地蔵は400体あるとの説もあるのだが希少であるのは間違いない俗に「王者南面す」と言われ王侯は北を背にして南を、家臣は北を向くという奈良の大仏も南面だそれにならえば尊い地蔵尊も南向きが妥当な線一方、北向き地蔵は南側に立って民衆とともに北を向いて世の中を見ているとの説もあり北向きのほうが地蔵の御利益も期待できるともいう家庭内の神棚も仏壇も南面し、仏や先祖を下座に置くのは無礼だとの気遣いを示すのが一般だが単なる迷信からか古い伝統からかその辺はわからないところでこの地蔵はどんな由来があって北を向いているのだろう「道路事情?」「風水」をおもんぱかって?一編の説明もない教えてもらいたいところだみむろのきたむきじぞうさいたま市北授記通り三室の北向き地蔵

  • 見知らぬ鳥居 発見

    道の向こうについぞ見かけぬ神社・鳥居を見出す新たな発見こんなところに見知らぬ神社があったかな俺がその存在をしらぬ神社なんてこの辺りをボーっとして歩いていたから見落としたのかな今頃気づくなんて不思議な事よ付近は造成し、住宅がぽつぽつと建ち始め一変した所ではあるが立派な鳥居だがなぜ今まで気が付かなかったんだろう「国家鎮護住吉分社」と読めるここで気づかなければいけなかったのだが・・。小さな社を覗くこれと言って変わったことはなくどこにもある神社の社だふと振り返るそうだったのかがってん・がってん我ながらなんと迂闊な事よつい、いまさらながらの我が身の愚かさに笑いがこみあげて現場を後にする後方には某、神道系の宗教団体の建物がある何の記載もないが間違いなかろう団体の神社分社だったんだ今まで知らず通り過ぎてきたがそれでよかったん...見知らぬ鳥居発見

  • 赤山街道の庚申塔

    赤山街道は関東郡代としてこの地の開発にあたった伊奈氏の拠点赤山陣屋に物資の輸送を主目的として設けられた江戸期からの街道その街道を幾分北に寄った辺りに「さるまん塚」と呼ばれる庚申塔があるその名の由来は諸説あるも実態は明らかではない2mを優に超す石像である精緻に彫られた石塔で寛保2年に建立現在は個人の所有のようである塔身の右側には「東ハ赤山道」、左側には「西ハ大宮道」の文字が刻まれている彫られた像に興味をひかれるがそれを述べるには我が知識が不足しているので別の機会に譲りたい赤山街道近くにはもう一点やはり興味深い庚申塔がある青面金剛を二体並べたものだが彫も深く優れたものと思うも説明はどこにもない側面と背面にはそのあたりを記載してあるようだが判読できなかったこのあたり庚申塔が随所に見られ研究の対象としては面白そうだがす...赤山街道の庚申塔

  • 三室 東漸寺

    東漸寺・とうぜんじと読むらしい『漸』は物事が少しづつ前に進むことで『東漸』は仏法が印度から中国を経て東の我が国に根づきつつある事を意識しての事か開山が安土桃山時代とあるからそんな思いからの命名かと勝手に推理してみる残念ながら今は無住の小さな寺院それでも清潔に保たれているのは檀家のご尽力か御婦人方が交代でそれにあたっているのかなも我が推察鰐口が市の文化財と後から知ったが公開されていないのか記憶にないもっともこの暑さの中幾分ボケが始まった我が記憶力だあてにはならない裏に回って日陰でしばらくの休憩、水補給後短時間で退散みむろとうぜんじさいたま市緑区三室三室東漸寺

  • 瀬ケ崎 三島神社

    三島神社はもともとは隣接する東泉寺の境内社であったようだ室町時代初期に東泉寺の中興開山・玄性が現・静岡の三島大社から分祀を受け境内に社を建立したのが始まりのようだ明治時代に国策により寺と切り離されたりしたがその後変遷を経て現在の姿に至っているとの事祭神は事代主大神恵比寿様である御神徳としていくつか掲げられているが其のうち「家内安全」「無病息災」に期待して念入りにお参りして帰ろうかいまさら「縁結び」はお断りしようかせがさきみしまじんじゃさいたま市浦和区瀬ケ崎瀬ケ崎三島神社

  • 瀬ケ崎東泉寺

    天台宗比叡山延暦寺末、開創は天長六年(西暦829年)というから大変な古刹だ開基は慈覚大師円仁中興開山玄性とと伝えられる本尊は阿弥陀如来像で、加持祈祷の仏様は不動明王いずれも気まぐれな訪問者は参観が叶わないのはいかにも残念石仏も豊富だ六地蔵の座像も珍しい石像の摩耗具合からかなり古いと思われる大乗妙典一千部供養塔が気になる解説がないので独断で解釈する大乗妙典とは、私たち衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる経典で一般には妙法蓮華経つまり法華経それを一千回読誦したことを記念して石塔を建てたようだ詳しくは知らないが恐らくは膨大な量の経典なのであろう法華経を66回書写し、一部ずつを66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者を「六十六部」というが大変な苦行だったらしいそれに匹敵か或いはそれ以上の苦行なのだろう『修業』とはなんとも恐...瀬ケ崎東泉寺

  • 浦和 蓮昌寺

    前回の訪問からだいぶ年月が経つ20年以上も昔の事になろうか山門に狛犬が~~との覚えしかない再訪によって古い記憶がよみがえるかと思ったが一向に浮かんでくるものはない寺院に狛犬がと不思議に思ったものだが今回、落ち着いて眺めると開山300年を記念して昭和15年に建立されたとの記載があるざっと80歳狛犬の世界ではまだまだ若輩古色を帯び存在感を増すまでにはこの先百年以上が必要だが。。。山門の上に陣取り辺りを睥睨する姿は中々のもの頑張って貰おう百年も二百年も日蓮さんの寺院だからだろうがどこかしら静寂な緊張が漂うようなな気分我れ日本の柱とならむ我れ日本の眼目とならむ我れ日本の大船とならむあらうれしあらうれし南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えさせ給日蓮さんを信じ頼ってみようか憂き多いいまの世情を何とかして貰えるならまぁそれが出...浦和蓮昌寺

  • 守光院から思いは達磨寺に飛んで

    さいたま市太田窪護国山守光院を観る曹洞宗の名刹である涼む所とてないがひととおり参拝を済ませる‥…そこで。。曹洞宗・禅宗・黄檗宗と想像は進み深い魂胆もなくダルマさんに思いがおよぶそこから更に先日、参観の機会を得た高崎の少林山達磨寺に思いは飛ぶ夏の午後のひと時コロナ禍ではあるは想像をめぐらすのになんの障害はない恐らくはいつか見た『立達磨』の像が頭の片隅にあっての事かおびただしい程のダルマさんの数だったなとその情景が目に浮かぶ達磨大師はインドの高僧布教のため中国に渡ったのが何と百歳過ぎの頃という没年は明らかではないが120歳とも「七転び八起」とか120歳は無理でも今、しばらくは転んだり起きたりしながら人生を楽しみたいものだ本来の守光院を忘れ想像や思い出にふけってしまったが達磨大師のお導きと広いお心で、ご容赦願おうかだ...守光院から思いは達磨寺に飛んで

  • 鳩ヶ谷氷川神社の 笑う少女

    氷川神社御成街道を西に入った高台に鎮座し、創立は応永元年(1394年)と伝わる御祭神は須佐之男命鳩ケ谷総鎮守らしくたくさんの末社もあるのだがけれど我が心を捉えたのはそれら神々ではない一体の『像』笑う少女の像作者も建立念も不明或いはどこかに記載あったも知れぬが其れはどうでも良いただひたすらに屈託ない少女が必死に笑いをこらえる姿に見とれたこんな時勢だがこらえることはない大声で笑っていいんだ心の憂さを忘れて少し恥ずかしいけどくすりとあっはっはっと・・・・。この坊やのように無心に泣くも良し弁天様が見てる・・気にすることありません誰にも遠慮なんかいらないのです憂いこと多い世の中だけど笑ってくださいすっかり忘れたが少しふとり気味の狛犬もなかなかの貫禄お陰でしばし暑さを忘れることができたそお言えば俺もひさしく笑ってないなはと...鳩ヶ谷氷川神社の笑う少女

  • 越谷浄光寺の五智如来

    五智如来とは、密教で五智(5つの知恵)を5体の如来にあてはめたもののことだそうだが中に釈迦如来を含めたり含めなかったりわかりにくい解らないながら当山五智如来堂前の案内板にしたがうことにすると大日・薬師・阿弥陀・阿〇如来(〇は門の中に人を三っ書く)・釈尊の五立像五智如来と称され五つの『智』を授ける仏とし江戸時代農民信仰の的となったとされる当寺の立像は享保年間に江戸鋳物師太田駿河守の作と伝わり五月八日の縁日には眼病や安産祈願に信者が殺到したと伝わる訪問日は一転しての雷鳴と豪雨の中暫く本堂階段でやむのを待ったが待切れず雨中での撮影ぼんやり写真はご容赦を乞うあと三,四十分待てばは後の後悔順・不動雨中を歩き駅前で喫茶タイム日頃の信心不足かこの時雨は上がり陽光さえもじょうこうじ埼玉県越谷市北越谷越谷浄光寺の五智如来

  • 越谷香取神社の狛犬たち

    骨董市と安産祈願の神社とは認識していたが骨董市は過ぎ(毎月第2土曜日)戌の日でもない今朝方急に思い立ったからとは言え何とも半端な日の訪問だが狛犬それも江戸期のがたくさんあったっけとの記憶を頼りに出かける安産も骨董も今の俺には必要ない狛犬を追いかけることに専念するも。暑さボケは自分だけでなくカメラにも伝染したよう調子外れのピンボケばかり不調写真で相済まぬことながら折角だご覧頂くそれにしても狛犬の多い事!!鳥居近くに彫が浅いが江戸期は宝暦10年耳が垂れている石工は不明参道に吽の顔は補修かもしれない江戸期安永9年越谷村半兵衛本殿前狛犬の出来はいいのだが写真の出来は!?文化8年松伏八左衛門拝殿前吽は手を伸ばしようよう撮った天保6年石工不明灯篭を背負って重さにうんざりしてるよう阿吽にはなってないこの日も安産祈願やら若いご...越谷香取神社の狛犬たち

  • 浦和 二七市場

    六斎とは仏教上の用語で「月に6日の戒を持して身をつつしむべき日」のことで六斎市とはこの日にちなみ月のうち6回定期的に開かれた市で中世から続く我が街浦和では二の日と七のつく日に「二七市場」が開かれたその場所がここで今は史跡が残りその地は慈恵稲荷神社に引き継がれている六斎日の風習は県下に残っており先日、歩いた鳩ケ谷では三,八のつく日が相当するようで今は、小さな社にその面影を残しているその名も「市神社」いちのかみしゃと読ませる通り掛りの人も立止るではなし忘れられたよう鳩ケ谷市神社慈恵稲荷神殿因みに県下に残る六斎は蕨(一,六)与野(四,九)大宮(五,十)これを全て回れば常にいつかどこかの「市」の開催を辿ることができるこれと言った遊びの少なかった当時の人、まして現代人に較べればはるかに健脚あるいはそんなことに精を出した人...浦和二七市場

  • 新井宿 宝蔵寺

    毎年のお盆に『墓施餓鬼』と言われる全国的にも珍しい行事が行われれらしい施餓鬼とは餓鬼道に落ち成仏できずに俗世をさまよう無縁仏たちに食べ物を布施して供養するという仏教の儀式一般にお盆の時期に行われる当寺では盆14日の夕暮れ時に檀家が集まり自分たちのお墓に提灯を飾り各々お線香を焚くとご住職が一つ一つ墓石の前に来て、鈴を鳴らし読経をして回る住職の供養が終わると檀家は散会、帰宅するとの事だ本来はこの時期ご僧侶が檀家の一軒一軒家廻って施餓鬼をするのだがここではこうした風習が今でも行われているようだこの時期、古い行事が従前どおり行われるかは聞き洩らした続けてほしい行事だ因みに私の菩提寺では毎年、寺院に檀家が集まり僧侶の供養後、施餓鬼塔婆を受けて墓参し塔婆を建てるようにしているがこの時期だ供養時の集まりはなく各々が塔婆を受け...新井宿宝蔵寺

  • 御成街道新井宿 氷川神社

    日光御成道は、中世以来の鎌倉街道中道を前身とする、歴代徳川将軍が神君家康公の命日に日光東照宮を社参する際に通行した街道だ江戸を立ち、川口宿で昼食をとり鳩ケ谷,大門を経て夜に岩槻に到着し一泊しこの先幸手で日光街道に合流日本橋からから幸手迄およそ13里その間に新井宿の名は見えないここには本陣も脇本陣もないそれなのに街道沿いの一寒村が宿でもないのに「新井村」がいつ『宿』を付け「新井宿」を名乗るようになったのかは未調査新井宿氷川神社は街道に面し子日神社と対峙している沿道のからくり時計街道から見た氷川神社氷川神社本殿境内社稲荷神社御成街道新井宿氷川神社

  • 新井宿 多寶院

    道の両側に、神社と寺が相対峙している所子日神社に隣接する多寶院を観る隣接するといっても両所を隔てるものはなく自由往来往ったり来たりする足立百不動尊28番札所真言宗豊山派無住荒廃した感じが我が好みに合致街道に面し不動堂が施錠されてないので覗く一体の不動明王石像が安置されている赤い百日紅の花を光背代わりにまだ新しい観音像が美顔を見せている境内の石造物を観て廻る年代不詳ながら江戸期と思われるいくつかの石像を楽しむ日盛りの中遮るものもない境内にいたたまれず道路向こうに逃げるとするあらいじゅくたほういん川口市新井宿新井宿多寶院

  • 子日神社の狛犬

    東西新井村の社寺が街道を挟み対峙西側に西新井村の鎮守氷川明神と別当宝蔵寺東側に東新井宿村の鎮守子聖権現(現子日神社)と別当多宝院寺社巡りには極めて都合よく並びたっているが狛犬マニアが初めに目に付くのがこちら子日神社旧暦10月最初の子の日に祭礼を行ったのが名の起こりという少し太めが気になるところだが身構えた姿は堂々と威厳があって中々のもの近寄ってみようこわもてをクローずアップするも毛並みも深くよくできている何もそこまで詳しく観察する必要はないのだが狛犬好きとはそんなものなのだ当社は脚、下半身に御利益があるとかで草履やスリッパの寄進があるようだ私も以前奉納したが御利益は・・・?神頼みだけでなく精進しなきゃダメなのかさてそこまで見た所で次に向うと、言ってもお隣と道路向こうだが・・・ねのひじんじゃ川口市新井宿子日神社の狛犬

  • 地主不詳の神社

    持ち主不在の「空き家問題」近隣の迷惑から行政が乗り出して・・・とは時々、報道で目にするがそれも相手が神社では役所も手が出せない様恐らく近隣の住民も宗教の事ゆえ不平はあっても文句が出せないのかここ三峰神社はそんな所のようだ数十年前から地主が解らないらしいそれにしては清掃されているし、しめ縄だって。。。。ひとえに町内会の方たちのご尽力のようだなんだ寂しい神社だななんて気楽に訪ねては罰が当たりそう賽銭箱の前には狼が息をする為の三つの穴の開いたご「眷属守護板」があったらしいがなくなっていたか見落としたか不明小さな神主も地主も不在のこんな神社を訪ね歩くのもコロナ散歩ならではの事地主不詳の神社

  • 天神雷鳥社

    田島御岳神社は伏見天皇の御代永仁3年(鎌倉時代)御創建されたと伝わる古社当社にて根本修行したと伝わる普寛行者が木曽御嶽山開山の途中道に迷ったのを頂上まで道案内したと伝わる雷鳥を神使として「天神雷鳥大神」を祀っているそのため天神雷鳥・首から上が鶴で胴体が雷鳥が随所にみられる境内の天神雷鳥社ここでは珍しや黄金の狛犬までも見られるが、しかし朱塗りの拝殿はじめなんとも派手、派手な境内の景色になじめず早々に退散した天神雷鳥社

  • わからないこと

    解らないことは無理に詮索や調査することはないこれが我が処世術みたいなものであったはずなのだがどうもすっきりしないものにぶつかると眠れないことも。。。その一つが川口金山神社(川口神社の境内社)の『八咫烏』神武天皇東征の際道案内したと神話が伝える三本足のカラスで日本サッカー協会のシンボルマークだ目的に向かって前進との意味合いかだがそれがなぜここに??深いわけはなく多分、単純なことなのだろうと思うも金山神社鋳物の神様ご祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)神武東征との関わり合いは見つけられない八咫烏を名乗る秘密結社があると知るが触れたくないし、当神社とは無縁だろうわからないことその2はこれ浦和調・調神社(つきのみや)に正体不明の石像が古そうだが単に汚れているだけかもしれないどこの誰の像かとの説明は一切ない境内社の稲荷...わからないこと

  • 浦和大在家 八雲社の狛犬

    ひと頃狛犬にほれ込んで北海道から九州の果てまで評判を聞きつけては狛犬行脚をした事があるそんな頃近隣で一番の傑作狛犬は?と、問われると躊躇することなくこれこそがと答えていたまずはご覧いただこう石工の名も建立年月も解らない・・・が、毛並みの彫の深さ、構図の良さ等々から「高い芸術性を感じる」と評価する人もいる私もそう思う生憎今日は持ち合わせのカメラでの片手どり芸術性までは伝えられないが真夏のこの時期強い陽射しの中だったり木立に遮られたり残念な点多々あるが私自身はほぼ20年ぶりの対面をすっかり堪能したもう一度よく見てみようクローズアップと横からと前からと白昼堂々沈黙のモデルにポーズを要求まるで惚れ込んだモデル嬢のポートレートを撮影するように性能の良いカメラと三脚を用意して写真日和の季節での再会を心にして帰る浦和大在家八雲社の狛犬

  • 浦和 成就院(上寺)

    浦和常盤成就院創建年代は不詳文献に玉蔵院末本尊弥陀を安ずとあるらしい明治4年に一旦廃寺となるも平成2年に復興山号は御殿山ご本尊は地蔵菩薩昔、この辺りの風習で3地区に分けこの辺りを「上」と呼んだ事から(上寺)御殿山は現在の常盤公園将軍の鷹狩りの際の仮御殿があったことからの名前北足立八十八ヶ所霊場の内87番、浦和不動堂との呼び名もあるらしい訪問時(昨日)は工事車両にふさがれ充分な参拝・撮影とならなかったのが残念浦和成就院(上寺)

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