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温泉クンの旅日記 https://blog.goo.ne.jp/onsendaisuki-gogo

温泉巡り好き、旅好き、堂社物詣好き、物見遊山好き、老舗酒場好き、食べ歩き好き、読書好き・・・ROMでけっこうご覧あれ!

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2019/12/28

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  • 浜松城庭園、松韻亭でお茶

    <浜松城庭園、松韻亭でお茶>和服の妙齢女性によってしずしずと運ばれてきたのは、お菓子と<煎茶>だった。(えっ!抹茶じゃなくて煎茶なの!)育ちが悪いせいか、緑茶系なら寿し屋で出てくるような大きく厚めの湯呑に入れた、熱々でたっぷりの「アガリ」こそが最上。抹茶ならともかく、適温でちょびっとの煎茶が主役なんて、とてもとてもなのだ。思わず、救いを求めて先客のカップル二組を見まわしてしまう。ねえねえ、これを飲んでいるうちに抹茶が届くんだよね?心の声に反応したのか、<残念だったね>と若いカップルのほうの男が首をかすかに振った。年配カップルのほうの男性は眼できっぱり言う。<うんにゃ、見たとおりの煎茶だ。抹茶を待っても金輪際来んぞ。潔くあきらめよ!>とばかり、まるで病を宣告する御典医のようにきっぱり頷いた。この日いつもの趣...浜松城庭園、松韻亭でお茶

  • 続々・わたしの京都旅

    <続々・わたしの京都旅>奥深い京都の“虜(とりこ)”になっちまった旅好きってヤツは、案外身の周りに多いものだ。「アレッ!Nさんって今日休み?」「今週は夏休みです・・・たぶん・・・ですが、また京都に行ったのでは」旅といえば京都しか知らないって、いったいなんなの。京都より西方面の恋人と長距離恋愛かも。疑心暗鬼の同僚女性は、なんかいろいろ言いたげである。そういえば、Nさんの京都好きを知ってからも、なぜか一度も京都話をする機会はなかったな・・・。俗に江戸「八百八町」、大坂「八百八橋」、京都は「八百八寺」というが、京都については八百八寺では利かない。前に「東本願寺別邸、渉成園(1)」でこう書いた。『京都府にある神社仏閣数だが、寺で3,000余、神社で1,700余の約4,700あるという。京都市内に限っても、寺で約1...続々・わたしの京都旅

  • ブログ引越の経過報告(3)

    <ブログ引越の経過報告(3)>「ああ、なんか懐かしい!いろいろと山ほど思いだすなあ・・・」あんなこともあった、たしかあのときは旨いコンビーフサンドを・・・などと想い出が溢れだす。おっと、いけない!1本の記事編集にいちいち感傷的になっている場合ではない。とにかく「1700本」もあるのだ。“千里の道も一歩より”というが、一里は約4キロだから千里は4,000キロ。四国遍路が一周1,400キロとして千里はそれを約3回分、千七百里(1700本)は6,800キロ、四国遍路が約5回も廻ることになる。とりあえず「テーマ分け」の収納作業を優先して、消えた「ハッシュタグ」については次の段階に先送りとして今回は題名から連想できるものだけハッシュタグを付けることにした。アメブロの管理画面によると、始めたころの時点での全体ブログラ...ブログ引越の経過報告(3)

  • 京都・八幡、翡翠な紅葉アーンド流れ橋(2)

    <京都・八幡、翡翠な紅葉アーンド流れ橋(2)>わたしは、けっこうな橋好きである。“天草五橋”や“角島大橋”などの近代的な橋もいいが、祖谷の“かずら橋”、岩国の“錦帯橋”、津軽の“鶴の舞橋”など、周りの絶景に溶け込むように存在する圧倒的に美しくて、両の脚で歩いて渡れる橋も大好きだ。(ここで、時代劇を撮るのだな・・・)と、前に静岡の島田にある、長さ約900メートルの木橋「蓬莱橋」にいったとき思った。しかし、待てよ。島田は、撮影所のある東京や京都からいかにも遠すぎる。役者や撮影スタッフの移動だけでも、費用対効果がかなり悪い。日帰りも無理そうだ。予算充分な映画のロケならまだしも、毎回の予算が限られる連続ドラマでは使いにくい。きっと撮影所の近くのどこかに別なロケ地があるに違いない。ずっと気になっていたら、ローカルニ...京都・八幡、翡翠な紅葉アーンド流れ橋(2)

  • ブログ引越の経過報告(2)

    <ブログ引越の経過報告(2)>「おっ、スゲエ!『画像』も『記事リンク』も見事に丸ごと引越しできとるわい!」更新予約記事も無事引越完了。ただ、記事のジャンル分けはなくなり丸ごとひとつになっていて、ハッシュタグも消えている。引越し先は、知人のブログが確かあるらしいという希薄な理由だけでアメブロに決めた。(なにしろ、ラーメンかカレーかみたいなどっちでもOKの『二択』なのだ)gooブログの設定画面そっくりの内容でアメブロにブログの開設をやっつけて、4月最終週の始めに転居先のアメブロに引越しの申込と記事データのアップロードを終えた。その週末、つまり5月2日に「インポート完了報告」のメールを受信、さっそく確認したのだった。待ち時間の間、画像の引越しができない場合を想定してブログの画像フォルダーから試験的にサンプルをダ...ブログ引越の経過報告(2)

  • 京都・八幡、翡翠な紅葉アーンド流れ橋(1)

    <京都・八幡、翡翠な紅葉アーンド流れ橋(1)>「これはまた・・・思いがけぬところで、目が覚めるような“美人”に出逢うとは・・・」それも量的にだが、“仰山”ではなく、京都弁でいう“しょうびん(翡翠=ちょっぴり、ささやか)”な美人(紅葉)だ。ぎょーさんのキレイどころ(紅葉)に逢いたいなら、嵐山、嵯峨野などの<名所>とか東福寺、永観堂など<名刹>があるが、こういうあまり人に知られぬ穴場てぇのもあるのだ。目指している「流れ橋」まで、京阪電車の最寄駅「石清水八幡宮」からは約6~7キロ、歩くと2時間近く掛かる。別段、歩くのは苦にならず大好きだが、無駄歩きは厭だ。1時間に1本走っている「京阪バス」を使うことにした。30分ほどバスに揺られ、バス停「上津屋流れ橋」で降り、木津川方向をだいたい見当つけて歩いていたら、この神社...京都・八幡、翡翠な紅葉アーンド流れ橋(1)

  • ブログ引越の経過報告(1)

    <ブログ引越の経過報告(1)>gooブログサイトが2025年11月18日を以てサービス終了して閉鎖されるとの案内にわたしが気が付いたのは4月14日だった。gooで開設されているブログの数は約320万、全部が稼働しているとも思わぬし休眠ブログ多いはずで、それでも少なくとも200万ブログぐらいに影響する。さて、どうするか。思案したが、思いきって止めてしまうというという選択を別にすれば選択肢は二つだ。1)ゼロから他のサイト(例えばNote)で再出発する。2)gooブログが勧める「アメブロ」か「はてな」へ引越しする1)の案の「Note」だが更新予約機能が有料だったことと、gooブログで長い間投稿した記事の山(アーカイブ)に未練がやはりたっぷりあって、断念。gooサイトでアーカイブ記事を検索閲覧できるのも、11月1...ブログ引越の経過報告(1)

  • 読んだ本 2025年3月と4月

    <読んだ本2025年3月と4月>江戸の日本橋から京の三条大橋までの、東海道五十三次の全長は約500キロ、これを昔の人は十二泊十三日で歩いた。女性でも十五日ぐらいで、だそうだ。三大難所(箱根峠、薩埵峠、鈴鹿峠)に加え大井川の川越もある東海道を、毎日40キロのほぼフルマラソンの距離を、女性でも30キロを、薄い草鞋でペタペタ歩いたわけでなんとも凄い。図書館の本棚を背表紙を眺めながらぶらぶら歩いていると、(あれっ!“久住昌之”・・・ってたしか「孤独のグルメ」の原作者だったな・・・)「野武士、西へ」という本を手に取り、パラパラと立ち読みしてみると、野武士(久住のこと)が東京・日本橋から西の大阪・高麗橋までの、東海道プラス大和街道などを使った“区切り打ち”の歩き旅の本だったので興味を覚えて借りることにした。なにしろ、...読んだ本2025年3月と4月

  • 京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(4)

    <京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(4)>北側の一角にある紅葉の小さな庭園だが、調べると、「中和園」という名の庭らしいことは漸くわかった。ただそれ以上の詳しいことはわからない。(この見事な紅葉を、どうして寺の「売り」にしないのだろう・・・)めくるめくような紅、朱、伝統色だけでも100種類を超えるという赤色の氾濫だ。。周囲に人の目がないなかで受けた感動に、顔の表情がほどけ、純真無垢だった子どものころの笑顔に戻ってしまう。「萬福寺はどうだった?」ともしも訊かれたら、「紅葉が凄く綺麗だったよ!」と、即答できる。たっぷりの自信を持ってである。中和園の奥まで行ったが、開山堂は見当たらないので、回廊を天王殿まで戻った。これで長い回廊を完全に一周したわけだ。三門のほうを見渡しても、他の観光客は見当たらない。まあ、まだ朝...京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(4)

  • 京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(3)

    <京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(3)>萬福寺の明様式の伽藍には、匂欄や敷石、窓などに異国情緒があり、時代劇での唐人寺や、長崎や香港マカオの情景のロケ地に用いられる。伽藍群を結ぶ長い回廊も、七福神ののぼり旗をとっぱらい並ぶベンチを片づけて、南蛮渡りの葡萄酒とグラスを載せた異国ふうの卓と椅子を置けば、長崎市中の屋敷のカットを容易に撮れる。回廊を使った撮影は、現代物のドラマでも鮮やかに記憶に残る、雰囲気たっぷりのシーンになる。シーン画像には回廊を主体に、伽藍はチラリで異国情緒を控えめにする。実のところわたしを萬福寺に引き寄せたのは、数年前に観た「ジェラシー」というサスペンスドラマで、京都の蔵元の入り婿役「本田広太郎」が愛人である銀座のブティック店主役「とよた真帆」と密会したのが、ここの回廊で忍び逢う二人の印...京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(3)

  • 京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(2)

    <京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(2)>天王殿の前で、すこしだけ思案する。(ここからは、回廊を右回りに進むとするか・・・)萬福寺は、七堂伽藍である諸堂が明朝様式で配置され、中国風の建築様式が特徴である。伽藍は、そのすべてが屋根つきの回廊で「口の字」状に結ばれており、雨天の際でも問題なく<法式>を執り行うことができるようになっているのだ。ところで、京都などを寺社巡りする際にきっと役立ちそうなので、長くなるが書いておく。日本の「禅宗」は三つに分類される。「栄西禅師」が開いた<臨済宗(りんざいしゅう)>、「道元禅師」と「瑩山(けいざん)禅師」の両禅師が開いた<曹洞宗(そうとうしゅう)>、「隠元禅師」が開いた<黄檗宗(おうばくしゅう)>である。臨済宗の信者数は約100万人、妙心寺派や建長寺派など14の宗派に分か...京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(2)

  • 京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(1)

    <京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(1)>古都は難読な駅名がけっこう多くて、切符購入や駅員にものを尋ねる時など、旅人はそれなりに苦労する。JR奈良線「黄檗(おうばく)」駅の簡素な改札口を出て、目の前の宇治街道(府道7号線)を伏見桃山方向に少し戻り、右側の住宅街のなかの細い路地をくねくねと抜けると、そこに突然といった感じで「萬福寺」があった。ホームページのアクセス案内に「駅から徒歩5分」とあったが、まさにその通りだった。「山門か?」異国の匂い(雰囲気)がぷんぷん漂う門で、山門にしては思ったより小さい。あとで分かったが、この門は「総門」だった。中央の屋根を高くし、左右を一段低くした、中国門の<牌楼(ぱいろう)式>を用いており「漢門」とも呼ばれたそうだ。「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら参道をクランク...京都・宇治、異国情緒の「萬福寺」(1)

  • 京菓子、阿闍梨餅のこと

    <京菓子、阿闍梨餅のこと>京都土産のわたしの定番といえば、ベタだが「八ツ橋」と「生八ツ橋」だろう。他には、しば漬、じゃこ山椒、千寿せんべい、みたらしバターサンドといったところ。昭和の子ども時代、駄菓子屋や縁日の屋台で売っていたニッキ棒やニッキ飴などすっきりした香りと爽やかな味の駄菓子類は、とても懐かしい。岐阜の郡上八幡でよく買う「桜間見屋(おうまみや)」の肉桂玉なんか自分用の土産としては最高だ。ところでだが、京菓子で「阿闍梨餅(あじゃりもち)」って、知ってはる?なんでも、江戸(東京)風の菓子を「上菓子」に対し、京都で修行した職人が京都で作る和菓子のことを「京菓子」というンやて。創業安政3年(1856年)という軽く150年を超す超老舗の京菓子司「満月」の二代目が、90年以上前の大正期に開発した半生菓子だ。し...京菓子、阿闍梨餅のこと

  • 京都・伏見、時代劇の聖地「松本酒造」

    <京都・伏見、時代劇の聖地「松本酒造」>近鉄京都線の「桃山御陵前」駅の改札を出て、すぐ前のゆるやかな大手筋通りの坂道を右に曲がり下っていく。あとはまっすぐの一本道だ。目の前に現れた京阪本線の踏切と商店街に、見覚えがあった。踏切を渡る時に左を見ると、これも記憶にある「伏見桃山」駅のホームだった。たしか一年前、伏見大手筋商店街の途中を左に折れて、月桂冠大倉記念館に行ったのだった。月桂冠の裏手にある酒蔵を見たとき、わたしが求める聖地も必ずこの近くにある、と確信したものだった。おっ!松本酒造だ。徒歩15分くらいだった。酒造の規模のわりに意外に質素な表門である。この塀沿いに、大手筋通りをもうすこし川方向に進めば、たぶん右側に見えてくる・・・はずである。松本酒造は通常非公開で見学などできないが、わたしには問題ない。(...京都・伏見、時代劇の聖地「松本酒造」

  • 京都・四条大宮、まるき製パン所のハムロール

    <京都・四条大宮、まるき製パン所のハムロール>主役のロースハムと、脇役の千切りキャベツがぎっしりわんさと、バターを塗ったコッペパンに挟んである。「これが一番人気のハムロールか・・・」これではハムロールというより、キャベツロールじゃないか。疑心暗鬼でとりあえずひと口食べ、眼を剥いた。なんと想像をはるかに絶して、とびきりに旨いのだ。一番人気も頷けた。噛みしめた瞬間、唐突にだが高校生のころ食べた、千切りキャベツを挟んだ絶品の「ハムトースト」を思いだしてしまう。そのハムトーストを出す<コーヒースタンド>は、横浜駅ビルの高島屋寄りの地下にあった。ハムだけでなく、適量のひたひたになった千切りキャベツが挟まれたハムトーストがとんでもなく旨かった。二度目に行ったときには、解明しようとじっくり味わって食べた。マヨネーズとマ...京都・四条大宮、まるき製パン所のハムロール

  • 読んだ本 2025年1月と2月

    <読んだ本2025年1月と2月>ガラケー携帯からスマホに変わっても、待受画面にはあいかわらず、愛猫の写真を一途に使い続けていた。スマホの待受画面には「ホーム」と「ロック画面」と二通りあることに、遅まきながら最近、やっと気がついた。ということは、その両方ともに、知らぬ間にだがわたしは愛する“ニャンコ”に設定していたようだ。ふむ、そうか。ロック画面だけでも、この“隠し目付”役の<超ド級>、厳しい眼力の看視みたいな視線から逃れようと、奈良・東大寺の大仏様に変えてみた。(これは・・・けっこういいではないの!)<招き猫>に<大仏>とはなんとも縁起が良さそう。すぐにでも幸運が舞い込みそうだ。・・・ならば、浮き浮きする旅気分のときのための待受画面もあったらいいのでは、と思いつく。独り旅だから、すこしは寂しい。旅の御伴に...読んだ本2025年1月と2月

  • 京都・河原町、山の家でドライカレー

    <京都・河原町、山の家でドライカレー>(この辺だったはずだが・・・よし、ここだ)見当をつけていた、四条通りにある「藤井大丸」の真裏あたりで、目当ての大衆食堂「山の家」をみつけた。どうやら“中休み”は取らないようで、営業中である。コロナのころだが、四条駅近くの烏丸通にある、「ツインのシングルユース」が片手(五千円)で泊まれたビジネスホテルをよく利用した。その際、祇園四条方面への往復に歩いた近道で何度か見かけて、気にはなっていた店なのである。「山の家」は創業70年を超える、地元客に愛される老舗食堂だ。店内に入ると、まずは各テーブルに置かれている灰皿に目を奪われる。さりげなく見回すと時間帯のせいか独り客が多い。奥に進み、厨房ちかくの二人席に腰を降ろした。独り男性客がすぐ近くの四人席に座り、メニューも見ずに「瓶ビ...京都・河原町、山の家でドライカレー

  • 京都、白川の畔を歩く(3)

    <京都、白川の畔を歩く(3)>さあて、と。漸くお待たせの祇園白川あたりの話となった。「祇園」は、かつて“祇園社”と呼ばれていた「八坂神社」の門前町であったことから付けられた名称で、京都を代表する花街である。その祇園の中を流れる、白川に架けられているのが「巽橋」で、その名はすぐ近くにある「辰巳神社(辰巳大明神)」に由来する。新橋通と四条通を結ぶ路地(切り通し)の起点にある白川に架かる、橋長は7.5メートル、幅員は3.1メートルの鋼桁橋である。文政12年(1829年)に“木橋”が架けられ、その後“土橋”となり、昭和32年(1957年)に、現在の橋に架け替えられた。石畳の舗装と木製の高欄、そして町家が並ぶ、祇園の風情と調和して京都といえば祇園白川を思い浮かべる方も多い。定番の観光スポットとして多くの観光客が訪れ...京都、白川の畔を歩く(3)

  • 京都、白川の畔を歩く(2)

    <京都、白川の畔を歩く(2)>平均台のような「一本橋」のすぐ下流、知恩院の「古門前橋」のところには「親水テラス」が設えてある。知恩院の「古門」だが、その名の通り古く、桃山時代の建築である。この親水テラスで、夏の夕暮れに、浴衣姿の女性が脚の先を浸して水遊びする・・・なんて、いかにも一幅の絵になりそうである。それと、5月の中旬から6月上旬にかけてだが、一本橋付近では源氏ボタルが飛び交うという。運がよければ観られるだろう。白川の流れに沿って、下流に進む。祇園が近づくと、川沿いの風景も柳はなくなるが、少しずつ華やかな雰囲気になってくる。辰巳神社への曲がり角の一本前で、ここからでも行けるだろうと右に曲がったのだが、神社方面の路がみつからない。戻るのも癪である。(待てよ。ここの路地って一見「袋小路」にみえるが、「辻子...京都、白川の畔を歩く(2)

  • 京都、白川の畔を歩く(1)

    <京都、白川の畔を歩く(1)>京都を舞台にしたドラマは、なんとなく気になって観てしまう。たとえば、今でもBSで再放送している「京都迷宮案内」。内容はヒューマンミステリーというが、どちらかというと人情譚といった感じ。<京都日報>の本社社会部遊軍記者・杉浦恭介役で、「橋爪功」がジツに味のある演技を見せてくれる。ロケも京都名所だけでなく劇中で実在の飲食店を使うことが多く、昼から呑める酒場「京極スタンド」もそこで知った。試しに行ったらすっかり気に入ってしまい通うようになった。もっとも最近は、大衆料金のせいなのか、大勢の外国人観光客も訪れるようになってしまい、ちょっと足が遠のいている。地下鉄東西線の東山駅の出口上がり、すぐの「古川町商店街」に入る。アーケードの天井からパステルランタンが吊り下げられた、レトロな商店街...京都、白川の畔を歩く(1)

  • 紅葉ギリセーフ! 山科・毘沙門堂(3)

    <紅葉ギリセーフ!山科・毘沙門堂(3)>この山科の天台宗の古刹だが、寺の起こりは飛鳥時代に遡り、「文武天皇」の勅願で「行基」によって開かれたという。寺伝によれば、大宝3年(703年)に上京区の相国寺の北に創建された「出雲寺」が起こりと伝えられている。延暦年間に「最澄(伝教大師)」が自ら作った<毘沙門天>を安置したことから、「毘沙門堂」と呼ばれるようになる。平安末期以降、度重なる戦乱で荒廃してしまうが、天台宗の僧•「天海」とその遺志を継いだ弟子の「公海」により、江戸時代の寛文5年(1665年)に現在の山科の地に再建された。その後「後西天皇」の皇子.「公弁法親王」が入寺し、以来、皇族や摂関家の子弟が門主を務める「門跡寺院」となった。宸殿前の庭には春の絶景となる、樹齢150年ほどの<枝垂れ桜>がある。「勅使門」...紅葉ギリセーフ!山科・毘沙門堂(3)

  • 紅葉ギリセーフ! 山科・毘沙門堂(2)

    <紅葉ギリセーフ!山科・毘沙門堂(2)>江戸時代に再建された本殿は、日光東照宮と似た建築様式で、東照大権現(徳川家康)も毘沙門天とともに祀られている。本尊の毘沙門天像は「伝教大師最澄」が、延暦寺に安置するための<釈迦・薬師・阿弥陀>の三尊を作った余材で作り、「桓武天皇」に献上されたものと伝わっている。単独の像としても祀られる七福神の一柱「毘沙門天」は、仏教世界を守る四天王の一尊でもあり、北方を守護する「多聞天(たもんてん)」の名でも広く知られている。時代物好きなら毘沙門天とくれば上杉謙信だ。戦国武将の「上杉謙信」は<毘沙門天>を戦いの神として尊崇し、自らを毘沙門天の化身と信じ、自らの軍を「降魔の軍」とみなし、軍旗には毘沙門天の頭文字「毘」の一字を旗印に用いていた。そして春日山城に「毘沙門堂」を建立し日々読...紅葉ギリセーフ!山科・毘沙門堂(2)

  • 紅葉ギリセーフ! 山科・毘沙門堂(1)

    <紅葉ギリセーフ!山科・毘沙門堂(1)>「♪もしかしてェ~、♪もしかしてェ~」思わず口ずさんでしまった。なんか・・・もしかしたら・・・紅葉に間に合っちゃったかも。京都の紅葉時期はたいがい、11月23日(勤労感謝の日)からいいとこ翌月の初旬までとしたもんだ。それを過ぎればシーズンオフで、宿賃が滅法手ごろになるのだ。訪問した今日は、とっくに過ぎて12月中旬、嵯峨野あたりでも気まぐれの樹を数本みかけるぐらい遅い。いつも悪し様に罵られるけど、今回に限っては“地球温暖化”さまさまだ。(ありついた定食の茸ご飯が、シメジからいきなり松茸に格上げされたような途轍もないラッキーなことだわい、この紅葉は!)しこたま唄いこんだカラオケデュエット曲だから、独りなのについつい身体が勝手にクネクネと振りが付き、よせばいいのにステップ...紅葉ギリセーフ!山科・毘沙門堂(1)

  • 寒川神社と素ラーメン(2)

    <寒川神社と素ラーメン(2)>鳥取砂丘を見にいくという口実で、鳥取市役所の食堂まで“素ラーメン”を食べにいったことがある。あの素ラーメン(スラーメン)は、モヤシと蒲鉾と葱が載っていてけっこう豪華版だった。わたしは気が付かなかったが、麺類受取口でセルフの無料天かすをガサッと投入すれば、さらに“たぬきラーメン”にまで格上げできたのだった。何故、蕎麦屋には締めに“かけそば”とか“かけうどん(素うどん)”があるのに、なんでラーメン屋に“素ラーメン”というものがないのだろう。謎だ。そう思っていたら、鳥取にあると知ったからだ。人間関係を円滑に保つには、優先順位を慎重に考えることと、そうして時には器用に本音と建前の使い分けることが必要だ。たとえば青森へ旅するために休暇を申請するとき、上司に「青森はどの辺へ行くの?」と訊...寒川神社と素ラーメン(2)

  • 謹賀新年 2025年

    <謹賀新年2025年>新年あけましておめでとうございます本年も皆さまのご多幸とご健康を心からお祈り申しあげますいまなんらかの事情で旅できない人にはあのころそのころの懐かしい記憶や気持ちや情景を一瞬でも呼び起こせればといまも旅する人には「そこ行ってみたい」みたいなという一抹の旅情を掻きたてられればとただただ願っています本年もなにとぞご愛顧のほどよろしくお願い申しあげます2025年1月1日温泉クンps:記事「『おもうわよ』は、まだ早い」で書きましたように、諸事情が一段落し、暢気な温泉・酒場ネタを再開できるまで、盛大きばりますのでなにとぞよろしくお願いいたします→「『おもうわよ』は、まだ早い」の記事はこちら謹賀新年2025年

  • 読んだ本 2024年11月と12月

    <読んだ本2024年11月と12月>「破れ星、燃えた」は「破れ星、流れた」に続く二巻目の、脚本家“倉本聰”の自伝だ。ある年、倉本聰はNHKと喧嘩別れみたいな形で大河ドラマ「勝海舟」を突如降板、札幌に逃避してしまう。札幌ススキノで無頼の日々をおくるが、やがて北海道に“終の棲家”にする理想の地を探し始める。中標津、根室など一年半かけて北海道を廻り、積丹の美国に決まりかけたが、土地が岩盤で水が出ないことで、また振り出しの“ゼロ”に戻る。「フラノって知ってるかい?」ある晩、ススキノで知り合った見知らぬ書道家が一つの地名を持ち出した。それが、富良野という地との運命的出逢いだった。森の中に山小屋を建て、富良野に移住した。『わが家につながる森の林道に大きな岩が顔を出していて尖ったその角がジープの車輪を傷つける。取り除こ...読んだ本2024年11月と12月

  • 寒川神社と素ラーメン(1)

    <寒川神社と素ラーメン(1)>太鼓状の石橋と、檜造りの、明神鳥居と呼ばれる大きな「三の鳥居」・・・年間約200万人に及ぶ参拝者が訪れるという、相模國一之宮「寒川神社」である。御影石造りの太鼓橋は「神池橋」で神様がお渡りになる橋といわれている。橋の下の水の流れも、右手にある神池も、思い切り濁っていた。今日は東海道線の茅ヶ崎で、相模線に乗換え、寒川駅で降りた。ホームから改札口に向かう階段に「寒川神社の最寄り駅は『宮山駅』です」としつこい程あったが、あえて完全無視して寒川駅を起点として歩くことにしたのだ。ちなみに寒川神社までの距離は、寒川駅から約1.5キロで徒歩20分くらい、次駅の宮山駅からは約600メートル、徒歩7、8分だ。寒川神社参拝が目的であるなら、宮山駅の利用をお薦めする。「三の鳥居」をくぐり、ゆるやか...寒川神社と素ラーメン(1)

  • 奈良、東大寺・二月堂へ(6)

    <奈良、東大寺・二月堂へ(6)>「え、前回の二月堂(5)の記事で終りじゃないの?」「ナニィ~、この上まだ引っ張るの?」まあまあ、そういわず付き合ってほしい。くだくだとした能書きは読まずに飛ばし、画像だけでもみてくれればと。「大仏殿(1)~(4)」と「二月堂へ(1)~(6)」の10の記事で、東大寺のオオドコロをほぼほぼ網羅しているのだから、ね。書いているこっちも南大門から大仏殿、二月堂をみたあたりで、たっぷり東大寺は満喫満足。肩からガックリ“力”が抜けてしまったのである。でもでも、頑張ってあと少しだけ廻るぞ。四月堂の東側にある大きなお堂が「東大寺法華堂(三月堂)」である。「三月堂」は、東大寺の法華堂の異称で、旧暦の3月に法要が行われることからその名が付けられた。『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)か...奈良、東大寺・二月堂へ(6)

  • 奈良、東大寺・二月堂へ(5)

    <奈良、東大寺・二月堂へ(5)>二月堂は天平勝宝4年(752年)に「良弁」の弟子「実忠」によって創建されたが、寛文7年(1667年)に失火により焼失してしまう。現在の堂宇は寛文9年(1669年)に再建されたもので、正面7間、奥行10間に及ぶ大建築である。急な斜面の上にあって、京都の清水寺と同じ「舞台造(懸造)」になっている。堂の北側から回廊に上がる。「この回廊を、錬行衆が燃え盛る『籠松明』を持って駆け抜けるわけか・・・」『二月堂縁起』によれば、修二会の創始者・実忠(じっちゅう)は、笠置の山中で目にした天界の菩薩たちの法要に感動し、人間界でも行いたいと願い出たが、「天界の速い時間の流れに追いつくために走って法要を行う」と誓ったことで、これを行うことを許されたという。しかし、通常の松明で重さ40キロと、小柄な...奈良、東大寺・二月堂へ(5)

  • 奈良、東大寺・二月堂へ(4)

    <奈良、東大寺・二月堂へ(4)>掟破りのようだが、二月堂北側の階段に吸い寄せられるように向かってしまった。本来の順路としては、南側にある「青石壇(あおいしだん)」と呼ばれている石段を使って二月堂へ昇り、参詣した後に北側にある茶屋で休憩してから北側階段を使って降りてくる正規なルートだそうだ。北側の階段は屋根付きで「登廊」と呼ばれ、修二会(しゅにえ)で選ばれた「練行衆(れんぎょうしゅう)」が参籠宿舎から二月堂へ上堂する際に通る通路である。遠くから登廊を発見してしまったわたしは、瞬時に、ついこの前に行った<長谷寺の登廊>を思いだし懐かしくなったのだ。ところで、わたしの登廊の評価だが、長谷寺のほうが上である。登廊の石段を昇りつめると、大きくて立派な手水鉢があった。たしか正式な「手水舎」は、南側の青石壇を昇ったとこ...奈良、東大寺・二月堂へ(4)

  • 地名の話

    <地名の話>「あなたの京都観光の秘訣を教えて!」と問われれば、簡潔にこう指南したい。「歩くに限る」と。もっとも「歩く」と言っても、立てた観光プランのスタート目標地点までの移動は、地下鉄とか叡電(えいでん)・嵐電(らんでん)、バスを活用するのだ。たとえ車で京都に来たとしてもそいつを使わず宿に置いておくのがベストである。もしも連れがいるのなら、脚に自信がない連れはちょいと困る。脚に問題なしでもヘンに気合いが入った新品のパンプスや厚底サンダルは厳禁、京都では履き馴れた靴と歩きやすい服装は必須である。それと移動する道沿いに手ごろな飲食店のないところもあるので、連れが正確な腹時計を持っていたりすると、とにかく往生してしまう。生意気なようだが、わたしの腹時計は<通常モード>から<観光モード>へと便利に切り替えられるの...地名の話

  • 奈良、東大寺・二月堂へ(3)

    <奈良、東大寺・二月堂へ(3)>「あの鹿・・・って、ひょっとしてオンナのコ?」鹿のヤツがこちらをみていないうちに石段の右端をそぉーっと昇っていたのだが、突然、“角”がないのに気がついた。なんだ、そうか。しかも若そうで、歳の頃なら女子高校生の、お嬢チャンってとこか。それなら鉄拳制裁は中止、懐いてきたら「よーし、よしよし」とムツゴロウ式熱烈ハグでもしてやるか。「ゲッ!なんだなんだ、ここが溜まり場かよッ!」右手の空き地に、鹿がグループで屯している。まるで、コンビニの駐車場に坐り込む不良たちみたい。しかも、不良少年(オス)のグループではない。オンナ(メス)、お姐チャンばっかしじゃんか!まるでハーレム・・・。そういえば、朝一番の南大門あたりで逢ったのもメス鹿ばっかりだったなと思い返す。あとで知ったが奈良公園内では圧...奈良、東大寺・二月堂へ(3)

  • 奈良、東大寺・二月堂へ(2)

    <奈良、東大寺・二月堂へ(2)>残念ながら猫の子一匹にも出逢えず、猫段を登り詰めた。そういえば、鹿も、猫段入口の堀で一頭見かけたきりだ。「あれが鐘楼か・・・随分とまあ立派なもんだ」天空に聳える豪放な「鐘楼」は、東大寺復興に足跡を残した「重源上人」を継いだ「栄西(えいさい/ようさい)禅師」が、承元年間(1207~1211年)に再建したものである。重源の「大仏様」に、栄西が禅宗様的要素を加味した鐘楼である。鐘楼につられた梵鐘は東大寺創建当初のもので、天平勝宝4年(752年)に鋳造されたといわれ、その後、延久2年(1070年)と永長元年(1096年)に地震のため墜落し、また延応元年(1239年)には龍頭が切れて転落したが、いずれもすぐに修理されたことが修理銘によって判明している。梵鐘だが、高さ3.86メートル、...奈良、東大寺・二月堂へ(2)

  • 読んだ本 2024年9月と10月

    <読んだ本2024年9月と10月>親族の病気平癒を願って、願掛けで禁酒をしている。(もちろん、温泉も絶っている)願掛けは「断ち物」といって、自分の好きなものを絶つことにより<願い>がより強力となるという。人生でいままでに禁酒したのは、人間ドックの肝機能の数値が悪くて、入院か禁酒かの選択を緊急に迫られてのものが1回だけ、期間はわずか1ヶ月だった。そんなわたしが、昨年は禁酒期間6ヶ月を既に達成していて、今年もそれ以上を目指している。自分のための願掛けと違い、他人のためなので、禁酒の意思は不思議と滅法固いのだ。ところで、他人の<酔態>は容易にわかるが、さて自分のはどうかというと、これが難しい。信頼できる飲み仲間の言に、たよらざるを得ない。曰く、日本酒を飲むと豹変する、オマエはしつこくてくどくなる、という。そうい...読んだ本2024年9月と10月

  • 奈良、東大寺・二月堂へ(1)

    <奈良、東大寺・二月堂へ(1)>奈良の神社仏閣の人気ベスト5のうち、「東大寺・大仏殿」で3つ制覇した。さて次は、残す2つの内の第5位「東大寺・二月堂」を訪れることにしようと、大仏殿の中門を出て、東側を囲う塀沿いを猫段方面に曲がってすぐのことだ。(あれっ、なんだ・・・アレは?)大仏殿での興奮状態を醒ますようにゆっくり歩いていると、右手の斜面の平らになっているところに、それを見つけたのだ。「ひょっとして、あれが東大寺七重塔の『相輪(そうりん)』かな・・・」京都・東寺の五重塔を見に行ったときの記事でこう書いた。『近すぎて見えないが、塔の一番上にある金属製の部分は相輪(そうりん)と呼ばれ、下から露盤・伏鉢・請花・九輪・水煙・竜舎・宝珠で構成されているそうである。』京都・東寺の五重塔と比べ東大寺の方は七重塔なので、...奈良、東大寺・二月堂へ(1)

  • 奈良公園・鷺池、浮見堂

    <奈良公園・鷺池、浮見堂>奈良公園の「鷺池(さぎいけ)」に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)の、八角堂形式(六角形)の堂が「浮見堂」である。浮見堂のある場所は、春日大社の“飛火野(とびひの)”の隣にあたる処だ。水面に映る美しい佇まいで人気を集める観光スポットで、春は桜、夏の燈花会、秋には紅葉、冬は雪景色と、四季の自然を感じることのできる水辺の憩いの場所である。堂の建物は、1916年に建てられ、1966年に修復、1994年に再建された。滋賀・堅田の琵琶湖畔に建つ、千年以上の歴史がある満月寺の「浮御堂」とは同じ名だがまるで違う。『(オォー、これが近江八景「堅田の落雁」で名高い「浮御堂」か・・・)江戸後期の浮世絵師「歌川広重」によって描かれた、彼の代表作の一つである名所絵『近江八景』をネットで観るにおよび、俄然、浮御...奈良公園・鷺池、浮見堂

  • 奈良、春日大社を駆け足参拝(2)

    <奈良、春日大社を駆け足参拝(2)>「オォー、なんかニュース画像で見慣れている楼門がみえてきたぞ!」石段の先の二階建ての「南門」は春日大社の南回廊にあり、表参道を歩いて回廊内に入る時に潜る「春日大社の正門」のような門で、高さは12メートルあり、春日大社最大の楼門である。平安時代中期頃、藤原氏の長者や摂関による春日詣が始まった際の“参向門”とされた。腕時計を確認すると、バスを使った甲斐もあったのだろう、16時だった。燈籠が並ぶ回廊を通り、「御蓋山浮雲峰遙拝所」や中門前まで進み参拝し、「藤浪之屋」も拝観できる<特別参拝>の受付時間の終了時刻でなんとか間に合いそうだが、今日のわたしは<駆け足参拝>なので関係ない。次回に訪問したときには特別参拝をしてみたい。さあてと、一般の参拝所はどこだろうか。たいていは、楼門か...奈良、春日大社を駆け足参拝(2)

  • 奈良、春日大社を駆け足参拝(1)

    <奈良、春日大社を駆け足参拝(1)>「どうやら、これが春日大社の表参道らしいな・・・」JR奈良駅前から循環バスに乗り、バス停「春日大社表参道」で降りて、ちょっと歩いたところで左手に伸びている参道をみつけた。バスを使ったことで、30分くらい時間を節約できたはずである。春日大社の境内は広く、神山を含めて約30万坪で、東京ドーム22個分に相当する。ここへ来るまでのバスの車窓からすっかり見慣れてしまった人懐っこい鹿たちが、この参道にも、参道沿いの両脇にも、当たり前のようにたくさんいる。(急げば、春日大社をなんとか参拝できそうだな・・・)午後遅い時間の奈良駅到着だったが、そう思い、ホテルにチェックインし荷物を置いて身軽になるとすぐに行動したのだ。奈良駅周辺での観光予定は、明日の“東大寺”大仏殿と二月堂がメインであっ...奈良、春日大社を駆け足参拝(1)

  • 京都・七条堀川通、西本願寺

    <京都・七条堀川通、西本願寺>東本願寺から西本願寺へはかなり近い。歩いて10分くらいである。東本願寺の北側を廻りこみ、花屋町通をしばらく歩いてから、南に2本ほど入った細い十字路を折れて、西に進む。仏具屋も多く、どうやら門前町らしい。「いったいなんだ、この建物は?」風情のある町家が多いなかで、完全に浮いたハイカラな建物だが、「本願寺伝道院」とあった。僧侶の育成道場として使われているらしい。元は生命保険の社屋として建てられ、その後様々な使用を経て、現在に至ったとのことだ。門前町を抜けて堀川通に出て、信号を渡れば、秀吉ゆかりの「お西さん」こと西本願寺だ。趣きのある正門、「御影堂門」から寺内に入る。西本願寺は通称で、正式名称は「龍谷山本願寺(りゅうこくざんほんがんじ)」。東本願寺と同様、こちらも境内参拝は無料だ。...京都・七条堀川通、西本願寺

  • 京都・七条烏丸通、東本願寺

    <京都・七条烏丸通、東本願寺>「『お東さん』は、家康ゆかりの寺なんだな・・・・。しかしここの山門もデカイなあ!」木造建築の山門としては世界最大級、二重門としては日本一の高さと言われている東本願寺の「御影堂門(ごえいどうもん)」だ。なお、東本願寺は通称で正式名称は「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」、愛称は「お東さん」という。JR「京都」駅からは徒歩7分くらい、と近い。正直言って、京都駅のすぐ近くにある東本願寺と西本願寺には、露ほども行ってみたいと一度も思ったことはなかった。ところが、本願寺が二つに別れた理由を知るに至って、急に興味を持ってしまい訪れてみたのだ。(拝観料が無料というのもあるけどね)それは、織田信長と「石山本願寺」との争い(1570年~1580年)まで遡る。「石山(上町台地=現在の大阪城付近)...京都・七条烏丸通、東本願寺

  • 京都・伏見、醍醐寺「伽藍」(2)

    <京都・伏見、醍醐寺「伽藍」(2)>伽藍エリアに入ってからは徐々に、折り畳み傘を打つ雨の手ごたえが強くなってきている。「もう、金堂と五重塔の拝観は果たしたし、このへんで戻っちゃおうか」との迷いも出るが、「雨が降っているときは虹を探そう。暗いときには星を探そう」というオスカー・ワイルドの言葉を思いだし、わたしも“虹もふくめた景観”を探して挫けず先に進むとしよう。「不動堂の堂内には「不動明王」を中心に五体の明王が安置されている。堂前の「護摩道場」では、修験道の<柴燈護摩>が焚かれ、世界平和など様々な祈願を行っている。「祖師堂」は、慶長10年(1605年)に座主「義演」により建立されたもので、「弘法大師・空海」と、その孫弟子で、醍醐寺を開創した「理源大師・聖宝」とが祀られている。「日月門」は、下醍醐「大伝法院」...京都・伏見、醍醐寺「伽藍」(2)

  • 京都・伏見、醍醐寺「伽藍」(1)

    <京都・伏見、醍醐寺「伽藍」(1)>「さて、三宝院の次は五重塔と金堂だ!」三宝院を出ると、桜の馬場を左手に見える「西大門(仁王門)」に向かった。しとしとと降る雨はいっこうに熄む気配がない。西大門の両脇の仁王像は帰りに拝観することにして、受付で券を提示し、まっすぐ延びた路を、水溜りを避けて歩く。伽藍エリアまではクランク状の路になっている。突きあたりで振り返ると、後続する独りの客が門のところに見える。さすがにこの天気で観光客も少ないようだ。短い直線の路があり、そこを左折するとあとは真っ直ぐになる。右手に寺の総鎮守の社「清瀧宮」がみえたが、寄り道しないで進む。「あれが、『金堂』だ・・・」堂内には本尊の「薬師如来」像、それに日光・月光及び四天王像が安置されている。醍醐寺の中心となる金堂は、醍醐天皇の勅願により創建...京都・伏見、醍醐寺「伽藍」(1)

  • 読んだ本 2024年7月と8月

    <読んだ本2024年7月と8月>ここのところPCのユーチューブで、ショパンの「ノクターン(第2番変ホ長調作品9-2)」をよく聞いている。わたしと同じく猫好きだったピアニスト「フジコ・ヘミング」のやつ。なにしろ猫を24匹飼っていたそうだから。フジコ・ヘミングといえば「ラ・カンパネラ」、でないところもいいでしょ。アメリカのピアニスト「カーメン・キャバレロ」がポピュラー寄りにアレンジした「トゥー・ラブ・アゲイン」は映画「愛情物語」で使われ、大ヒットしたあの曲である。「間違えたっていいじゃない。機械じゃないんだから」そう言うフジコ・ヘミングが歩行器を使って辿りつき、弾きはじめるピアノはあくまでも力強く、そこはかとない「矯め」があって心に響く。「あ、“アンダンテ・カンタービレ”・・・」高校時代、「こっそり煙草でも吸...読んだ本2024年7月と8月

  • 京都・東山、「空也の寺」に立寄り(2)

    <京都・東山、「空也の寺」に立寄り(2)>空也上人が持っている、鹿の角が先に付いている杖にはこんなエピソードがある。空也上人は鹿を可愛がり、その鳴声をこよなく愛していた。ところが、「平定盛」がその鹿を射殺してしまったために深く悲しみ、その毛皮で衣を作り、角を杖の頭につけて念仏を唱え歩いた。そのことを聞いた「定盛」は悪業を悔いて、一宇の寺を創建し、「空也」を開山とし、自ら第二世になったということが、「空也堂(中京区蛸薬師通り)」という寺の縁起に記されているそうである。空也上人は念仏により庶民を教化するだけでなく、険しい道の往来の邪魔になる岩を削って平らかにしたり、井戸を掘ったり、橋を架け、野辺に捨てられた遺骸を火葬にして弔い、市中で乞食をしては貧民に与え、囚人を供養し、孤児を慰め、病人を救い、そして鉦をたた...京都・東山、「空也の寺」に立寄り(2)

  • 京都・東山、「空也の寺」に立寄り(1)

    <京都・東山、「空也の寺」に立寄り(1)>「この近くに<空也(くうや)の寺>があったはずだな・・・」京阪電車の「清水五条」駅から、東大路通りにある「清水道」バス停に向かって歩いているときに思いついた。たしか・・・寺の名は「六波羅蜜寺(ろくはらみつでら)」。スマホで地図検索してみると近いし、途中だ。歩いて10分かからない。軽い下見気分で寄っていこう。「なぜ、口から6体の仏像が出ているんだろう?なぜ、こんなにも粗末な衣で痩せっぽちなんだろう・・・」まるでカメレオンが発射した長い舌、みたいなのに載る仏像群・・・「そうだ京都、行こう」の、<空也上人>立像に対する、そんな問いかけからスタートするキャンペーンCMを観たことが一度でもあるなら、あの画像を忘れられないに違いない。口から小さな仏様が6体出てくるというこのユ...京都・東山、「空也の寺」に立寄り(1)

  • 京都・鹿ヶ谷、法然院

    <京都・鹿ヶ谷、法然院>歩きだしたばかりの、銀閣寺へ続く“哲学の道”をすぐに山側に逸れるように小さな橋を渡り、閑静な住宅街を抜ける短い坂を昇りつめる。目の前に、鬱蒼と茂った緑のなかに「総門」の石段があった。(今まで、どうやら飛ばして観光したらしいな・・・)銀閣寺からずっと南、東福寺あたりまでの東山側一帯の寺はかなり訪れていたのだが、ここは初めてだ。洛東の鹿ヶ谷(ししがたに)にある「法然院」は、東山の支峰「善気(ぜんき)山」の山麓に建つ、小さいけれど名刹である。法然が、弟子の「住蓮」や「安楽」とともに六時礼讃法要を勤めた草庵の旧跡で、延宝8年(1680年)知恩院第38代門主「万無(ばんぶ)上人」が再興した。名刹の正式名は「善気山(ぜんきさん)法然院萬無教(ばんぶきょう)寺」と号し、別称には「本山獅子谷法然院...京都・鹿ヶ谷、法然院

  • 『おもうわよ』は、まだ早い

    <『おもうわよ』は、まだ早い>かつては罪人の流刑地だった、鳥も通わぬといわれた遠い「八丈島」からさらに70キロ離れた孤島「青ヶ島」には、『おもうわよ』という別れの言葉があるそうだ。万葉集の東歌(アズマウタ)方言とほとんど同じの青ヶ島方言で「サヨウナラ」の意味である。「オモウ」は「思う・想う」を意味し、語源的には、ある特定の人の「オモ(面・貌・顔)」を、「オモ(重)たく」想い浮かべることから生じたそうだ。別れのとき、愛しい人のことを、懐かしい人のことを、強く「オモウ」から「おもうわよ」なのである。つまり、「離れていても、あなたのことを気にかけています、思っていますからね」という意で、親しい人と別れるときに使う「じゃあね」とか「あばよ」などと比べて、心がこもったとても美しい言葉だ。昨年はよんどころない諸事情(...『おもうわよ』は、まだ早い

  • 京都・左京区、永観堂(2)

    <京都・左京区、永観堂(2)>永観堂の「御影堂(みえいどう)」は大正元年(1912年)に再建された、比較的新しい総欅造りの宗祖「法然」を祀る堂で、本尊を安置する「阿弥陀堂」よりも規模が大きい。“御影堂”とは、寺院の開基・開山や宗祖の像を安置した堂塔で、奈良時代頃から開山の没後に敬慕の心を込めて建立されるようになった。そのため御影堂は「祖師堂(そしどう)」とか「開山堂」などとも言われている。永観堂の御影堂は過去何度も再建された。応仁の乱で焼失した後、1497年に「後土門天皇」によって再建され、その後1600年と1912年にも再建がなされたのである。(驚いたなぁ・・・なんとなくセットにしちゃった「法然院」と、ちゃんと“法然つながり”になっとるやないかい!)この御影堂(大殿)だけでも、永観堂に寄った甲斐があった...京都・左京区、永観堂(2)

  • 京都・左京区、永観堂(1)

    <京都・左京区、永観堂(1)>京都市営バス86号線を使って「岡崎公園動物園前」停留所で降り、15分くらい歩いて「永観堂」に到着した。浄土宗・西山禅林寺派の総本山「禅林寺」の創建は平安時代(853年)、第7世住職「永観(ようかん)律師」の名にちなみ「永観堂」と通称されている寺院である。ただし、今日では読みは普通に「えいかんどう」でいい。境内には、3000本のイロハモミジやオオモミジなどの楓(カエデ)の木があり、古来より「秋はもみじの永観堂」と呼ばれる人気の紅葉名所だ。(ウッ、なんだよ!いままで誰もいなかったのに・・・。)もう、後ろ姿一人くらいで手を打つしかない。総門の少し先の、拝観受付のある「中門」の前で写真をまずは一枚撮ろうとしていたのだが、折悪しく、ほぼ同時のタイミングで外国人観光客の一団が到着してしま...京都・左京区、永観堂(1)

  • 京都・丹波口、みやこ食堂(2)

    <京都・丹波口、みやこ食堂(2)>西本願寺北側の花屋町通を、西に向かってぐんぐん歩く。迷うことはない、いわゆる一本道である。(着いた・・・)日を置かずに「みやこ食堂」を再訪したのには理由がある。前回に壁に貼られたメニューを見まわしているときに、「焼めし」という短冊メニューに目を奪われたのだ。ありふれた「炒飯」でなく、気どって「ピラフ」でもない、「焼めし」とはジツに懐かしいグッと来るメニューじゃないか。早めの夕食だろうか、ふた組ほどの先客がいた。多少でも客がいたほうが、こちらも気が楽で落ち着ける。どうやら先客のひとり客は鍋焼きうどん、話好きそうな年配女性の二人客は中華そばの注文のようである。「お酒と、冷や奴を」顔を見覚えているらしく、燗しますかとも訊かれなかった。あまり待つこともなく熱燗と、3分の1丁ほどの...京都・丹波口、みやこ食堂(2)

  • 京都・丹波口、みやこ食堂(1)

    <京都・丹波口、みやこ食堂(1)>・・・・ところで『黄そば(きぃそば)』っちゅう食べものをご存じでっか?早い話、茹でた中華麺にうどんの出汁をかけたもんで、<黄そば>っちゅうのは近畿地方のソウルフードでんねん。メニューにうどんと中華そばがあれば、たいていの食堂で「黄そば」は食べられますわ。(この、いかにも昭和風の佇まいなら、もしかしてアレがあるかも・・・)先ほどチラリと見かけたときに、そう感じた。よし、入ってみるとしよう。とっくに昼を過ぎた中途半端な時間帯なので、客は誰もいなかった。適当な卓を選び座ると、壁にあるメニューに素早く目を走らせる。うどん、中華そば、丼もの、定食・・・オッとビールだけでなく酒もあるぞ・・・それにコロッケも。メニューにアレはなかった。「とりあえず酒と、それとコロッケも」つい勢いで酒を...京都・丹波口、みやこ食堂(1)

  • 京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(3)

    <京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(3)>気が逸っていた庭園の写真だが、庭師が独り居たくらいで余計な人物抜きのヤツが撮れた。それなりに満足できたので、ここらで肩の力を抜いて、本堂にゆったりと向かう。本堂脇前にある「酒づくしの庭」は、苔と白砂で、秀吉の千成瓢箪の馬印ならぬ「瓢箪徳利」と「盃」を表現している。本堂だが、本尊が「快慶」作の弥勒菩薩であるため、別名「弥勒堂」といわれている。脇仏として向かって右に宗祖「弘法大師」、左に開祖「理源大師」が安置されているとのこと。また、本堂の裏には護摩壇があることから「護摩堂」とも呼ばれている。本堂から、純浄観の裏側を通って「奥宸殿」へ、戻るように進む。裏側にも庭園から池の水が引き入れられて、左手には奥宸殿が、正面には江戸末期に作られたという小さな茶室「松月亭」だ。松月亭の...京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(3)

  • 読んだ本 2024年5月と6月

    <読んだ本2024年5月と6月>「くそっ!どんだけ待っても無人になる瞬間がこねえわ!」嵐山の竹林の小径にある「野宮(ののみや)神社」の、正面に建つ鳥居は「黒木の鳥居」と呼ばれ、樹皮が付いたままの「椚(クヌギ)」の木で組み建てられている。両袖を囲うのは、「黒文字(クロモジ)」の木を束ねた「小柴垣」である。日本最古の鳥居様式と伝えられており、紫式部による『源氏物語』の第十帖「賢木」の巻にも登場するのだ。押し寄せる人波は、圧倒的に外国人観光客が多い。ずっと構えてシャッターチャンスを狙っているのだが、いい加減、鳥居をあきらめることにした。野宮神社は、縁結びや子宝、学問などさまざまな祈願ができる神社として人気がある。恋愛成就のご利益もある最強の神社としても、カップルたちや、特に女性に大人気だそうだ。(いずれ・・・ま...読んだ本2024年5月と6月

  • 京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(2)

    <京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(2)>まだ傘の花も咲いていないようだし、では、太閤が設計したというご自慢の庭とやらをじっくりと拝見しようじゃないか。「ほぉー、素晴らしい!これを秀吉が作庭したのか・・・」目の前の中島二つだが、樹齢600年以上といわれる五葉松が覆っている手前のが「亀島」。その右隣が「鶴島」で、すぐ左の石橋が鶴の首にあたり、いまにも五葉松の鶴が飛び立とうとしている躍動感を表しているそうだ。池の向こう岸の樹林のなかに、醍醐寺全体の復興に尽力した秀吉の恩に報いるために豊臣秀吉を祀る社、「豊国大明神」が建立された。(ジツに変化に富んだ庭園なので、桜の木が少なくても充分に良さそうだな・・・)三宝院のどこかに移し植えたとしても、庭園は、実際に桜は少ないのかもしれない・・・。慶長3年(1598年)、<醍醐...京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(2)

  • 京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(1)

    <京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(1)>豊臣秀吉が「醍醐の花見」といわれる大規模な花見を開催したことで有名な、醍醐寺の「総門」は、奈良と京都を結ぶ旧奈良街道に面して建っていて、下醍醐、上醍醐と続く広大な寺への入り口となっている。本日は残念ながら桜にはまだまだ早く、あいにくの雨だ。だが、一度は来てみたかった寺なのでへこたれることも一切なく、云いようもない嬉しさのほうが勝っている。(やっぱりバスを利用すればよかったか・・・)醍醐寺は、京都市営の地下鉄東西線の醍醐駅から徒歩10分ということで“軽い”と考えていたのだが、実際には低いがひと山越す、登り下りの路だったため倍の時間を要してしまったのだ。総門から境内に入ると、左側に三宝院、まっすぐな広い道は「桜の馬場」と呼ばれ、正面にはみえるのが西大門(仁王門)だ。桜の馬...京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(1)

  • 二条城前、喫茶チロルと神泉苑(2)

    <二条城前、喫茶チロルと神泉苑(2)>「神泉苑(しんせんえん)」は、平安京大内裏に接して造営された「禁苑」であった。「禁苑(禁園ともいう)」とは、皇居の庭、天皇のための庭園だ。現在は東寺真言宗の寺院で、本堂「利生殿」の本尊は聖観世音菩薩である。法成就池(ほうじょうじゅいけ)のほとりには「増運弁財天」が祀られ、こちらは財宝を授けてくれるそうだ。他には鎮守稲荷社もあるようだ。(「禁苑」というわりには、いやにせせこましいなあ・・・)神泉苑はかつて広大な池に船を浮かべて、天皇たちが船遊びや釣り、放隼(隼狩り)、桜の花見、詩宴など宮中行事や宴遊が盛んに行われていたという。かつての敷地は現在の30倍と広大であったが、それを徳川家康が二条城を築くために潰されたわかり、なるほどと納得する。神泉苑といえば、雨乞い・祈雨修法...二条城前、喫茶チロルと神泉苑(2)

  • 二条城前、喫茶チロルと神泉苑(1)

    <二条城前、喫茶チロルと神泉苑(1)>桜でも紅葉の季節でもないので、銀閣寺に向かう“哲学の道”はとても静かな雰囲気に包まれていた。(ああ、なんかこう、無性にトーストが食べたくなってきやがった・・・)哲学の道は、哲学者西田幾多郎が毎朝この道を歩いて思索に耽ったそうだが、頭が空っぽでお花畑なわたしには、まあせいぜい“トースト”ぐらいの食い物が浮かぶのが関の山。でも贅沢な京名物の“いもぼう”なんぞが浮かばぬのが、可愛いかも。哲学の道沿いには喫茶店やカフェなどいくつかあるのだが、店先のメニューは観光客目当てのモノばかりだった。店に入れば、バカ高い観光客向け値段のトーストがあるかもしれないが、なかった場合を考えると代替案もなく二の足を踏む。哲学の道ではその昔、突然、“抹茶”を飲みたくなって、あろうことか正式っぽいお...二条城前、喫茶チロルと神泉苑(1)

  • 京都・嵯峨、愛宕念仏寺(2)

    <京都・嵯峨、愛宕念仏寺(2)>山門を入ると、すぐに階段路をあがるのだが、そのすぐ目の前の斜面から、羅漢像が並んでいた。わたしが羅漢に多少でもハマり始めてしまったのは最近で、箱根の寺に行ったときからだ。境内にある羅漢たちは、すべて参拝者たちの手によって作られたもので、それぞれが想いを込めて彫りあげて奉納されたものだそうだ。ところで<愛宕寺>を「あたごでら」でなく「おたぎでら」と読むのはなぜか。そしてもうひとつ、寺の名は<愛宕寺>なのに<愛宕念仏寺>と呼ばれるのはなぜなんだろうか。どうしても気になって調べてみた。「愛宕(おたぎ)寺」だが、もとは奈良時代に現在の東山松原通の地、六波羅蜜寺の近くに建てられたと伝わる古刹で、当時この地を「山城国・愛宕郡(おたぎごうり)」と言っていたために「おたぎ」と名付けられた。...京都・嵯峨、愛宕念仏寺(2)

  • 京都・嵯峨、愛宕念仏寺(1)

    <京都・嵯峨、愛宕念仏寺(1)>山城国と丹波国の国境、愛宕山(あたごさん)の山頂に建つのは「愛宕(あたご)神社」で、その参道の山麓入口に建つこの寺は「愛宕念仏寺」である。「愛宕念仏寺」の読みだが「あたごねんぶつじ」ではなく、「おたぎねんぶつじ」と読むからややこしい。すぐ前にある京都バスの停留所も「愛宕寺前(おたぎでらまえ)」と読む。停留所へいき、バスの時刻表の、本数少ない帰りの候補時間を頭に刻みこむ。今回はこの寺にある、千二百躰ともいわれる石造の羅漢を観賞しに訪れたのだ。参道入口の「愛宕念仏寺」から「愛宕神社」へは、徒歩で90分から120分掛かる。しかも当然のことだが、山頂への山路だからきつい。愛宕神社には、あの長谷川平蔵も参詣に訪れている。『平蔵は、忠吾をつれての、愛宕山・参詣をおもいたった。愛宕山は京...京都・嵯峨、愛宕念仏寺(1)

  • 京都・東山、東福寺(3)

    <京都・東山、東福寺(3)>「もォー、ここまで出かかっているんだけどなあ・・・」見覚えのある<本坊庭園(方丈)>に向かって足を運びながら、呟いてしまう。紅葉の東福寺を初訪問した時期について、前回、こう書いた。『JR東海が「そうだ京都、行こう。」キャンペーンを開始したのが約30年前の1993年の秋だから、訪れたのはたしかそれよりずっと前だったはずだ。』三門を覚えていなかったことで記憶力の自信喪失に陥り、とことん凹んでしまったわたしとしては、ここでなんとか己の失地回復を図りたい。「ずっと前」などと曖昧模糊でなく、もう少し時期を追求して突き止め、せめて一縷の望みとしたい。(自己満足したいだけじゃねーの)観光客の動向に気を使って、「通天橋」絡みの写真に人を映り込ませないのはひと苦労するのだが、まあまあの画像が撮れ...京都・東山、東福寺(3)

  • 京都・東山、東福寺(2)

    <京都・東山、東福寺(2)>(さてさて、久しぶりの通天橋だぞ・・・)思わずスキップしたくなってしまう。わたしにとって東福寺といえば、通天橋(つうてんきょう)なのだ。ひとつだけ残念なのは、<青もみじ>にもまだ二カ月ほど早い時期だということである。(ここ、ここ!)中央あたりには、渓谷を一望できる、見晴らしのいい“張出し舞台”のような部分がある。東福寺の境内を、東西に横切るように流れる渓谷が「洗玉澗(せんぎょくかん)」である。正面右手奥に見える屋根が、臥雲橋だ。洗玉澗には一筋の川が流れており、その上に「東福寺三名橋」とよばれる<臥雲橋(がうんきょう)>、<通天橋>、<偃月橋(えんげつきょう)>の3つの橋が架かっている。駅から歩いてくると一番目の、最も下流に架かっている橋である<臥雲橋>は、境内ではなく公道の間に...京都・東山、東福寺(2)

  • 読んだ本 2024年3月と4月

    <読んだ本2024年3月と4月>1月末から突然、インスタグラムで俳句をスタートさせちゃった経緯は次の通りである。友人を通じて、「インスタグラムで俳句を始めたいので、ぜひ指南していただきたい」との依頼があった。他人に指南など、まだインスタグラム歴が1年に満たないわたしなのだが、友人の手前もあって無碍にお断りもならず、時間を(そこそこたっぷり)戴けるのならばの条件付きで引き受けてしまったのだ。早い話が、いずれやってみようと思っていて、「きっかけ」待ちだったのだ。いくつかのアプリを検討した結果「Phonto(フォント)」という無料アプリを使ってみることにした。ところが、こいつ(アプリ)が悪さをするのである。充電中に、警告音が鳴って、見ると「スマホにゴミが溜まっているから、至急に掃除しないと大変なことになるぞ!」...読んだ本2024年3月と4月

  • 京都・東山、東福寺(1)

    <京都・東山、東福寺(1)>藤原氏の嫡流である関白「九条道家」は、嘉禎2年(1236年)、法性寺の寺域に新たな寺院の建立を発願し、静岡茶の始祖としても知られる聖一国師「円爾弁円(えんにべんねん)」を開山として、建長7年(1256)に寺院を完成させた。そして、「東大寺」と「興福寺」を範にとって一文字ずつもらい「東福寺」と名付けたのである。(東福寺にも、こんな立派な『三門』があったとは・・・)京都で、立派な山門といえば、まずは知恩院と南禅寺だろうと思っていたのだ。なんてこったい!東福寺には何度も来ていたのに・・・まるで覚えていなかったと軽いショックを受ける。自分は記憶力のいいほうだと秘かに思っていたのにと、なんとも情けなくなる。もっとも、経験上、<コイツの記憶力はほどほどだな>と思わせたほうが、世渡りがけっこ...京都・東山、東福寺(1)

  • 埼玉・熊谷、星渓園とフライ焼そば

    <埼玉・熊谷、星渓園とフライ焼そば>(あと、開店まで50分か・・・)腕時計をみて思わず呟く。熊谷駅から“熊谷桜”が咲く石上寺に行く途中で発見した、“行田フライ”が食べられる(ついでになんと缶ビールとか缶酎ハイも呑めちゃって、もしかしたらスパスパ喫煙できるかもの)ゴキゲンな食堂である。“星渓園”でけっこう時間を潰したはずなのに、まだ小1時間も待たねばならないとは・・・。石上寺のすぐ隣にある“星渓園(せいけいえん)”は、慶応から明治にかけて熊谷市の発展に功績を残した“竹井澹如(たけいたんじょ)”翁が設けた別邸である。「玉の池」を中心に木や竹を植え、名石を集めて回遊式庭園をつくられている。昭和初期、この地を訪れた“前大徳牧宗”禅師が、この別邸を「星溪園」と命名した。その後、昭和25年に熊谷市が譲り受け、市の名勝...埼玉・熊谷、星渓園とフライ焼そば

  • 埼玉・熊谷、石上寺の熊谷桜

    <埼玉・熊谷、石上寺の熊谷桜>JR熊谷駅の北口(正面口)を出たところで、スマホの地図で進行方向を確認し、おおまかな略図を頭に叩きこむ。駅前ロータリーに設置してあるブロンズ像は、地元の武将「熊谷直実(くまがいなおざね)」だ。今日の目的地である「石上寺(せきじょうじ)」へは、最寄駅の秩父鉄道・上熊谷駅から徒歩5分とのことだが、JR熊谷駅からでも徒歩10分強足らずと知り、わたしは迷わず熊谷駅からの歩きのほうを選択したのだ。(あいかわらず歩くのが好っきやのォー)「おっ、ここだ!」石上寺(せきじょうじ)は真言宗智山派の寺で、山号は「星河山」、本尊は「千手観音」である。(間に合わなかった、かな・・・)山門を入って一見したところ、桜は盛りをとうに過ぎているようだった。本堂前の階段の昇り口のところに、「熊谷桜葉桜になりま...埼玉・熊谷、石上寺の熊谷桜

  • 栃木、鹿沼名物のニラ蕎麦

    <栃木、鹿沼名物のニラ蕎麦>“渡良瀬橋のついで”という名目のもと、ついに訪れた「新鹿沼」駅。栃木には、佐野の「大根そば」、鹿沼の「ニラそば」、日光市や栃木市の「寒晒しそば」、栃木東部の「八溝そば」など、いろいろな蕎麦があるのだがわたしが最も興味が持ったのはニラそばだった。ニラそばの誕生については、どうやら次のような経緯だそうだ。『鹿沼市は戦後、ニラの栽培が盛んになった。鹿沼では客人が来たときに蕎麦を打ってもてなし、客人が帰った後に、栽培したニラを茹でて蕎麦と一緒に家族で食べるようになったことからニラ蕎麦が誕生したと言われている。約40年前に鹿沼市にある蕎麦屋で商品化され、その後提供店舗が増えていった・・・。』つまりは客人が食べて減った蕎麦を、ニラで混ぜて増量したのだろう。あえかな香りの蕎麦に、ニンニクに近...栃木、鹿沼名物のニラ蕎麦

  • 『♪渡良瀬橋』の聖地巡礼(2)

    <『♪渡良瀬橋』の聖地巡礼(2)>こちらの八雲神社は、立派な手水舎もあって、なんか安心した。こうでなくっちゃ。帰ってからよくよく調べてみると、足利には5つの八雲神社があり特定されていないため、訪れた観光客の混乱にならないように「足利市観光協会」は、格式も規模もある「足利公園近くにある八雲神社」を歌詞の“八雲神社”と暫定的に決めたのだという。(頼むぜ、こちとらはホント混乱しちまったよ)「八雲(やぐも)神社」は、貞観11年(869年)に清和天皇の勅定により「素盞嗚男命(すさのおのみこと)」他二神を祀ったのが始まりという。主祭神の素戔嗚尊は、開運厄除の神として知られる。八雲神社には、平将門の乱の際には「藤原秀郷」が戦勝祈願し、前九年の役および後三年の役の際には「源頼義」と「源義家」が戦勝祈願している。平成24年...『♪渡良瀬橋』の聖地巡礼(2)

  • 『♪渡良瀬橋』の聖地巡礼(1)

    <『♪渡良瀬橋』の聖地巡礼(1)>森高千里の曲であるという「渡良瀬橋」を初めて聴いたのは、ずいぶん昔の、たしか送別会だったか、歓送迎会だったと思う。一次会の出席者の殆どが二次会のカラオケにも出席して、誰もが退職者に敬意を表して進んで唄ってくれて、幹事のわたしを喜ばせた。渡良瀬橋で見る夕日をあなたはとても好きだったわきれいなとこで育ったねここに住みたいと言った電車にゆられこの街まであなたは会いに来てくれたわ私は今もあの頃を忘れられず生きてますふだん控えめな同僚女性が選んで唄ったその曲だが、唄い方がうまかったせいか、わたしの脳裡に歌詞が鮮やかに情景を紡ぎだし、「渡良瀬橋」と「八雲神社」の固有名詞とともに心にくっきり残ったのである。「えっ、ここが、あの『渡良瀬橋』で唄われた『八雲神社』なの?」あまりにも侘びしす...『♪渡良瀬橋』の聖地巡礼(1)

  • 奈良、東大寺・大仏殿(4)

    <奈良、東大寺・大仏殿(4)>本尊の大仏と両側の脇侍を、構図も考えずにパシャパシャと撮り終えて、たっぷりの満足感に包まれた。「たしか足立美術館も撮影フリ―だったな・・・」島根の安来にある「足立美術館」を訪ねた記事の中でこう書いた。『「庭園もまた一幅の絵画である」これは創設者の言葉である。美術館といえば、イコール撮影禁止が常識だがここの庭園は撮影が許可されている。太っ腹でなんとも素晴らしい。千葉の猫の美術館に続いての撮影フリーだ。もっとも来館する客の数が半端ではなく多いので、人を入れずに写すのが大変そうだが。』たいていどこの神社仏閣では建物内部は撮影禁止ばかりで、ましてや本尊の仏像は肉眼での観賞だけに限られるのに・・・。東大寺金堂でのこの<撮影OK>も、きっと人気寺社ベストテン1位押し上げに貢献しているに違...奈良、東大寺・大仏殿(4)

  • 奈良、東大寺・大仏殿(3)

    <奈良、東大寺・大仏殿(3)>大仏を格納している「大仏殿」は、間口約57メートル、奥行約50メートル、高さ約48メートルで、世界最大級の木造建築である。(さあショー・タイムだ!)いよいよその大仏殿に足を一歩踏み込む。「えっ、嘘だろ!みんな写真を撮ってるじゃんか!?」ついつい、素っ頓狂な声をだしてしまう。周りの観光客が次々と振りむいたので、慌てて口を噤んだ。信じがたいが、ここって写真を撮っていいンだ!ただしフラッシュは誰も使っていないようだ。嬉しくてついハイテンションになってしまう。東大寺金堂の本尊である<大仏>は、正式名称は「盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)」といい、親しみを込め「奈良の大仏さん」とも呼ばれ、お釈迦さまの身長を10倍して無限大の宇宙を表現したものとされている。大仏像の高さは15メートル近...奈良、東大寺・大仏殿(3)

  • 読んだ本 2024年1月と2月

    <読んだ本2024年1月と2月>1月末から突然、インスタグラムで俳句をスタートさせちゃいましたが、この経緯は次回に。昨春にインスタグラムを始めたせいでか、なんとなーく訪問者数が増えた気がする。「フォローワー」も「いいね」の数もあいかわらず<極少>、「コメント」に至ってはいつもゼロのブログなのだが、週1回更新なのに1週間の訪問者数が5000人を超えることがけっこうあるのだから、なんかニンマリとしてしまう。ネットの世界が気まぐれなのは承知のうえで、一喜一憂のせめて“一喜”ぐらいさせていただくわい。旅する前の下準備では、目的地(神社仏閣や名物の店など)へのマップ、アクセスと営業時間などは調べるが、それ以外の予備知識は持たずに旅をする。そんでもってはンで記事を書く段階で、後追いになるが、詳しく調べるのが「流儀」な...読んだ本2024年1月と2月

  • 奈良、東大寺・大仏殿(2)

    <奈良、東大寺・大仏殿(2)>(まさか、正門の“南大門(なんだいもん)であんなに時間食うとは思わなかったな・・・)そういえば、京都・東寺の方は同じ字だけれど読みが“南大門(みなみだいもん)”だったな・・・いろいろと難しいのォ。あの、はるか真正面に見えるのが大仏殿だろう。ほんとうに真っ直ぐの、これこそ大仏一直線である。歩いていると、やがて、右側に池がみえてきた。「鏡池(かがみいけ)」である。池に、柄の付いた鏡のような形の小島があり、そのことから「鏡池」という名前が付けられた。島には音楽・智恵・財物の女神、弁財天を祀る厳島神社が建っていて、池には天然記念物の「ワタカ」という珍しい魚が生息しているそうだ。穏やかな池の水面をみててハタと気がつき、慌てて引き返し、池の畔から「中門」と後ろの「大仏殿」を、池越しのショ...奈良、東大寺・大仏殿(2)

  • 奈良、東大寺・大仏殿(1)

    <奈良、東大寺・大仏殿(1)>京都府の神社仏閣数「約4700」まではいかないが、奈良県も約1800ヶ所の神社と、約1400ヶ所の寺、計「3200」の神社仏閣と、予想通り多い。(因みに全国で1番神社仏閣が多いのは愛知県で、約7800ヶ所)ところで奈良の神社仏閣の人気ベスト5だが、1位「東大寺」、2位「長谷寺」、3位「法隆寺」、4位「大神神社」、5位「東大寺・二月堂」だそうだ。いや~、参詣を主目的にとしてわたしが既に訪れた2ヶ所(長谷寺と大神神社)ともランクインしているとはなんとも嬉しい限りだ。「あそこに見える、どデカイ門が南大門だな・・・」時計をみると、もうすぐ朝の8時だ。東大寺の拝観時間は、春から秋(4月~10月)が朝7時半から、晩秋から早春(11月~3月)が朝8時からとなっている。南大門前へとつづく参道...奈良、東大寺・大仏殿(1)

  • 京都・九条、東寺(2)

    <京都・九条、東寺(2)>「桜が咲いたころなら、この構図の五重塔も、なかなかいいンでないかい!」おっといけない。五重塔はそろそろ切りあげて、前後してしまうけども、本堂を参拝せねば。いくらなんでも、五重塔だけで東寺を後にするわけにはいかない。よし、金堂に向かおう。延暦15年(796年)に東寺が創建され、最初に工事がはじめられたのが「金堂」である。以後600年以上、威風堂々とその姿を残していたが文明18年(1486年)に焼失し、現在の建物は、あの関ヶ原の合戦後に落慶したものだ。金堂は東寺の本堂で、宋の様式を取り入れた“天竺様”と“和様”を組み合わせた建物で、屋根の中央の切り上げは、東大寺大仏殿や平等院鳳凰堂にも見られる形だそうである。金堂前は弘法市のため撮影できず、後ろ姿の画像はやむを得ない。金堂の内部には、...京都・九条、東寺(2)

  • 京都・九条、東寺(1)

    <京都・九条、東寺(1)>京都のランドマークといえば、すぐ思い浮かぶのは<京都タワー>ともうひとつ、東寺の<五重塔>だろう。大阪以西への出張のとき、京都駅を新幹線が出るとすぐ左側に見えてくる塔が東寺の五重の塔だ。それを往復で、何度も何度もみた。その、京都らしいひとつの風景を瞬間に胸に刻みつけ、いつか訪れてみたいなと思うほんの滴(しずく)ほどの“念望”をその都度持ったのはわたしだけだろうか。(駅からも近いし、この際行ってみるか・・・渉成園も訪れたことだし、な)東寺は京都駅八条口をでれば、歩いても15ほどしかかからない。歩くのが大の苦手だったり、灼熱の猛暑日やひどい雨模様の日なら、近鉄の京都線でひと駅先の「東寺駅」で降りれば距離を半分節約できる。平安建都の際に、都の南玄関「羅城門」の東に作られた「東寺」は、正...京都・九条、東寺(1)

  • 東本願寺別邸、渉成園(3)

    <東本願寺別邸、渉成園(3)>渉成園の敷地は綺麗な正方形に近く、一辺が100間(約189メートル)だったので、俗に「百間屋敷」とも言われていた。東本願寺の飛地境内に渉成園が造られたきっかけについては、こんなエピソードがある。秀吉が残した西本願寺には立派な庭園(飛雲閣庭園や虎渓の庭)があったのにも関わらず、東本願寺にはなかった。これでは徳川家の面子(メンツ)がつぶれてしまう。負けず嫌いの徳川家(?)としては秀吉の造った西本願寺の庭園に負けじと、東本願寺に庭を造ることになったという。<石川丈山が趣向を凝らして作庭したという「丹楓渓(たんぷうけい)と印月池の間を進み、向岸の縮遠亭のある北大島に渡る木造橋「回棹廊(かいとうろう)」に辿りつく。紅葉の季節に丹楓渓を再訪してみたいものだ。廊橋は桧皮葺切妻造唐破風屋根に...東本願寺別邸、渉成園(3)

  • 東本願寺別邸、渉成園(2)

    <東本願寺別邸、渉成園(2)>(ちょっと面白い、個性的な建築物だな・・・)園林堂の前にある「傍花閣(ぼうかかく)」だ。「花の傍にある館」という意味で、園では“要”の位置を占めている。門のようでもあり、高見台のようでもあり、禅宗の三門と呼ぶ楼門に似ている。左右側面に階段がある、ユニークな形の建物で、階上には四畳半の部屋がある。その部屋の窓を開けて、園内の桜の木を愛でながら茶を愉しめる。「閬風亭(ろうふうてい)」は南端にある大書院。印月池を臨み、東山の丘陵地帯を背景にした景色を眺めることができる南端の広間がある、渉成園の中で最も大きな客殿だ。ゆるやかな屋根の、寄棟造桟瓦葺で銅板葺の軒を深く出して、実に穏やかで悠然たる外観だ。なお、閬風亭は江戸時代後期の「安政の大火(1864年)」で焼失し、翌年に再建された。「...東本願寺別邸、渉成園(2)

  • 東本願寺別邸、渉成園(1)

    <東本願寺別邸、渉成園(1)>京都府にある神社仏閣数だが、寺で3,000余、神社で1,700余の約4,700あるという。京都市内に限っても、寺で約1,700、神社で約800、合わせて2,500あるので、年に100カ所を無鉄砲に巡ったとしてもたっぷり25年掛かる。堂社物詣マニアも観光客も、それぞれ「訪れる寺社を選ぶ」のに悩みひと苦労するのは必至である。つまり堂社物詣において訪れる目標“数”は持つのは烏滸の沙汰といっていい。京都には着いたのは午後2時前だった。京都駅の近くにとった宿泊予定のホテルのチェックインタイムは午後3時である。さて、どうしようか。よし、まずはともかく、背中のザックをホテルに預けるとしよう。たいていの京都のホテルは、観光客が到着したときから出発するまでの間、快く荷物を預かってくれる。京都タ...東本願寺別邸、渉成園(1)

  • 謹賀新年 2024年

    <謹賀新年2024年>新年あけましておめでとうございます本年も皆さまのご多幸とご健康を心からお祈り申しあげます―長崎・平戸、千里ヶ浜―いまなんらかの事情で旅できない人にはあのころそのころの懐かしい記憶や気持ちや情景を一瞬でも呼び起こせればといまも旅する人には「そこ行ってみたい」みたいなという一抹の旅情を掻きたてられればとただただ願っています本年もなにとぞご愛顧のほどよろしくお願い申しあげます2024年1月1日温泉クン謹賀新年2024年

  • 読んだ本 2023年11月と12月

    <読んだ本2023年11月と12月>「やっと、“鬼レンチャン投稿”を完了したぞ!」週に一回更新のブログに加えて、インスタグラムの投稿をスタートしたのが今年の春、3月15日である。そしてある日、ご挨拶代わりに、全国の都道府県の画像の投稿することを思いついた。(仕事だけで行った沖縄を除く、46都道府県)人間、何事も目標を持つのが大事というこっちゃ。ついに、11月30日、242投稿、492画像で、無事完了。12月からはゆっくりペースの投稿に変更しちゃったのだ。ブログの長い文章にほとほと厭気がさすようなら、くれぐれも「温泉クンのインスタ」のフォローをお願いしますね。「念仏寺にいく前に、ちょっとだけ寄り道していきましょう。この先にまだ紅葉している見ごろの樹があるので」嵐山方面から来た人力車の車夫が、路地を曲がりなが...読んだ本2023年11月と12月

  • 京都・京田辺、酬恩庵一休寺(2)

    <京都・京田辺、酬恩庵一休寺(2)>酬恩庵一休寺を訪れるのであれば、脚力に自信があってもバスの使用(二名以上ならタクシー奮発するのもいいかも)をお薦めする。新田辺駅から1.5キロ、徒歩25分というが最短経路をとった場合であり、路を間違えると丘陵地なのでけっこう悲惨なことになる。間一髪で逃して、長い待ち時間ができたとしても辛抱したほうが賢い。歩いて、しかも路を間違えてしまったわたしはとんだ大失敗。江戸時代の文化人・「石川丈山」が終の棲家として建てた「詩仙堂」を訪ねた記事で、わたしはこう書いた。『丈山は小堀遠州、本阿弥光悦、松花堂昭乗、林羅山らとともに江戸時代初期の「寛永文化」を支えたひとりで、『渉成園(東本願寺)』や『酬恩庵(一休寺)庭園』、洛北の『蓮華寺庭園』などの作庭に関わったという。丈山の関わりのある...京都・京田辺、酬恩庵一休寺(2)

  • 京都・京田辺、酬恩庵一休寺(1)

    <京都・京田辺、酬恩庵一休寺(1)>京都の南、京田辺にある臨済宗大徳寺派の寺院「酬恩庵一休寺」の総門である。「酬恩庵」は、1288年から1293年の間に禅の道場として草創されたのが始まりであるとされているのだが、1330年前半の兵火にあい衰退してしまう。1456年に、禅僧として名高い<一休宗純>によって再興され、宗祖の恩に報いるという意味を込めて「酬恩庵」と名づけたと伝えられている。いまでは「一休寺」と呼ばれ広く親しまれている。一休は81歳で大徳寺住職となったときも、ここ酬恩庵を居として通われ、88歳で亡くなるまで晩年を過ごした。境内に建てられた廟所(宗純王廟)に埋葬されている。総門をくぐってすぐ左に、一休禅師墨蹟碑「諸悪莫作、衆善奉行(悪いことはするな、よいことをせよの意)」の石碑があった。一休さんの書...京都・京田辺、酬恩庵一休寺(1)

  • 京都・東寺通、殿田食堂のうどん

    <京都・東寺通、殿田食堂のうどん>(さあて、そろそろホテルに戻ってチェックインでもするか・・・)東本願寺の別邸「渉成園」の観光をサクッとすませ、門を後に歩きだす。京都駅の構内を通り抜け、ホテルへ向かっていると、なんか小腹が空いてきた。それに喉も乾いている。移動の電車の中でおにぎり二個を食べたきりであった。そうだ!先ほどチラリと見た店にいってみるとしよう。まずはホテルに荷物を預けにいくのに往復したとき、客が次々に吸い込まれていく蕎麦屋らしき店があったのだ。(ここだ!殿田というのか・・・)あとで調べると、この店は昭和38年(1963年)創業の老舗食堂「殿田食堂」だった。店に入り、腰を降ろしメニューを手にとった。冷たい麺類を探すがぜんぜんみつからない。悩んでいるのをみかねたのか、人気メニューをいくつか奨めてくれ...京都・東寺通、殿田食堂のうどん

  • 奈良・桜井、長谷寺(4)

    <奈良・桜井、長谷寺(4)>奈良県にかつてあった「榛原」と言う地名を「はいばら」と読み、現在でも駅名として残っている。この榛原の読みがなかなか覚えられない。しょうがない、「はいばら、はいばら、はいばら」と呪文のように唱えて脳に擦り込むしかないか。榛原の由来だが、かつて「榛の木(はんのき=カバノキ科の落葉樹)」がこの辺りに自生していたらしい。桜井市の「長谷寺駅」の隣駅である宇陀市の「榛原駅」に到着すると、計るように駅前で行儀よく待っていた送迎バスに吸い込まれるように乗りこんでしまい、あれよあれよという間に本日の宿「美榛苑(みはるえん)」に運ばれた。チェックイン手続きを済ませ、部屋の鍵をもらったとたん“ただの温泉バカ”の素に戻ってしまい、部屋に荷物を置き、電光石火で浴衣に着替えるとタオルを引っつかみいつもどお...奈良・桜井、長谷寺(4)

  • 奈良・桜井、長谷寺(3)

    <奈良・桜井、長谷寺(3)>長谷寺だが、”奈良大和路の花の御寺”といわれるほど、四季折々の花が季節ごとに異なる表情を見せてくれるのも魅力となっている。冬から春にかけては冬桜、蠟梅、椿などや、長谷寺の代名詞という7000株の牡丹が咲き誇る。また、吉野と並ぶ1000年来の桜の名所でもある。夏は初瀬山の新緑、そして山内のいたるところに3000株のアジサイが色とりどりに咲き乱れる。秋には楓やイチョウの木々も色づき、萩、彼岸花、金木犀など秋を代表する花々が見頃になるそうだ。花だけではなく寺内には長谷六坊や開山堂、五重塔とかのいろいろ見どころもあるようだ。もとより本日のわたしの目的は本堂参拝のみ、寺内の見どころや花のことなど一切考慮の外だが、観光を兼ねて参拝するのなら調べてから訪れたほうがいい。稲妻形に折れ曲がる登廊...奈良・桜井、長谷寺(3)

  • 奈良・桜井、長谷寺(2)

    <奈良・桜井、長谷寺(2)>平安時代から長谷寺(西国8番)は、京都の清水寺(西国16番)、滋賀の石山寺(西国13番)と並んで「三観音」の一角とされ、人々から絶大な信仰を受けていた。枕草子や蜻蛉日記、更科日記などにも、長谷寺への参拝について載っていて、時の権力者である「藤原道長」も参拝したと言われている。下廊と呼ばれる長い階段を昇り詰めると、直角に右に折れる中廊の階段が延びていた。(ここから右に延びる登廊は、少しは短かそうだ・・・)中廊を昇ると、左に直角に延びる最後の上廊である。息が切れてきたが、ここはもう一気にいくしかない。長い階段制覇には、とにかく“こんぴら参り”の経験が役に立つ。(やった!登廊を登りきったぞ)広場のような正面に「愛染堂」が、そして左手に目指した本堂があった。少し休んで息が整うのを待った...奈良・桜井、長谷寺(2)

  • 奈良・桜井、長谷寺(1)

    <奈良・桜井、長谷寺(1)>参拝メインで観光は少なめと決めたこの日、大神神社の次の目的地は長谷寺であった。三輪からJR万葉まほろば線に乗り、次の桜井駅で近鉄線に乗換えて長谷寺駅まで行くつもりが、三輪駅での長い待ち時間を利用して調べたら、桜井駅から長谷寺参道口というところまで桜井市のコミュニティーバスが出ていることを知った。コミュニティーバスなどまだ一度も乗ったことがないのでぜひとも体験してみたい。桜井駅に着き速足でバス乗り場を探し、運よく、一時間に一本あるかないかの少ない本数のバスに飛び乗って、参道口のバス停まで行けたのであった。スマホの道案内どおりの道順を辿り、急坂を大汗かいて登り、下っていくと左側に長谷寺があった。「ん!?」よせばいいのに振り返って、参道商店街をみつけて愕然とする。しまったァーッ!なん...奈良・桜井、長谷寺(1)

  • 奈良・三輪、大神神社 (3)

    <奈良・三輪、大神神社(3)>(ここ大神神社に、わたしは“呼び出された”気がしてならない・・・)仏縁ならぬ神縁だろう・・・拝殿に向かって歩きながら、強く思う。今まで気にならなかった“ある神社”のことが急に気になりだしたり、行きたくなったりすることがあるそうだ。奈良の大神神社も、参拝する人は“神社に呼ばれる”と言われており、呼ばれた人が参拝することが多いという。“呼ばれる”神社はどこの神社からでもというわけでなく、限られていて、伊勢神宮や天河神社などいくつかあるそうだ。拝殿で参拝し、係累の病気平癒、家内・知人・そして自身の息災と幸運を時間をかけて真剣に祈念した。大物主神は国造りの神様であり、医薬や方除など生活全般の守護神として知られ、大神神社は金運や縁結び、病気平癒や交通安全など数多くのご利益があるという。...奈良・三輪、大神神社(3)

  • 読んだ本 2023年9月と10月

    <読んだ本2023年9月と10月>いまではもうひと昔前の話だよといわれそうだが、北海道・道東の知床あたりを車で走らせていると、運よくエゾシカと出逢うことがあった。森の中で、いきなり“ビキニ美人のボンドガール”に出くわしたようなものだ。(古くさいけどジツにわかりやすい表現)舞いあがってしまって、ただただ目を見開き、胸をときめかせながらも思わずブレーキペダルを踏みこみ、車を止めてカメラを探してしまう。奈良では、鹿は神の使いとして手厚く保護されている。朝の通勤で忙しいなか、でかい面して、ゆっくり堂々と車道を横断しているのを見守らなければならない。奈良は鹿天国なのだ。最初は珍しいものだから可愛いなどと思っているが、だんだん麻痺している。広大な奈良公園だけでなく、東大寺、春日大社、興福寺と、どこへいってもウジャウジ...読んだ本2023年9月と10月

  • 奈良・三輪、大神神社 (2)

    <奈良・三輪、大神神社(2)>三輪駅は出口が一カ所しかなく、いったん南側(神社とは逆側)に出てから商店街を抜けて参道に入り、万葉まほろば線の線路を渡らないと大神神社には行けない。書くと長そうだが、なに徒歩で10分とはかからず、意外と近い。ひっそりと建つ、大神神社の一ノ鳥居。ふつうは三輪駅からは最短距離で二ノ鳥居に向かうので、周囲はまったくの無人だ。わたしは作法にほんのちょっとだけ拘り、ちょいと遠回りしたのだった。今回は寄らなかったが、近くに建つ「大鳥居」は昭和59年(1984年)の昭和天皇のご親拝記念と御在位60年を奉祝して建立、昭和61年(1986年)に竣工された鳥居だ。高さが32.2メートル、柱間は23メートルにも及び、その材質は耐候性鋼板で、耐久年数はなんと千三百年と言われる堅牢で立派な鳥居だそうだ...奈良・三輪、大神神社(2)

  • 奈良・三輪、大神神社 (1)

    <奈良・三輪、大神神社(1)>朝の奈良駅・・・。(こっち側にもないようだな。まあ、あきらめるとするか・・・)喫煙者に厳しそうな京都駅でも、その気で探せば構内とすぐ外に九カ所くらい設置してある喫煙所だが、奈良駅ではどうしてもみつけることができなかった。JR「万葉まほろば線」王寺行きの電車がホームに入線してきた。奈良駅から、和歌山線に接続する大和高田市の高田駅までを結ぶ鉄道路線である「桜井線」は、2010年から「万葉まほろば線」という愛称がもっぱら使用されている。これに乗って、奈良から三輪まで行くつもりである。所要時間は24分、ごく短い旅路だ。奈良駅を出ると、難読な名前だが妙に記憶に残りそうな名の駅がしばらく続く。まずは、京(平城京)の果て(終わるところ)に由来する「京終(きょうばて)駅」。次に「帯解(おびと...奈良・三輪、大神神社(1)

  • 京都・宇治、平等院鳳凰堂(2)

    <京都・宇治、平等院鳳凰堂(2)>涼しげなミストをたっぷり浴びながら、お目当ての鳳凰堂へ急ぐ。撮影するなら順光になる午前中がお薦めで、午後からは逆光になり、シルエット写真や夕日バックの写真を狙うほうがいいらしい。「お、見えてきたぞ!」子どものころから見なれた10円玉の裏側と、まったく同じ図柄の光景が目の前に出現した。昭和26年(1951年)に、この特徴ある、日本の代表的な文化財「鳳凰堂」が10円硬貨に選ばれたのだ。10円玉に刻印された鳳凰堂だが、ジツは改修前の明治のものであり、中堂の基礎部分が石垣のようにブツブツだが、実物はツルっとしているそうだ。と、これは細かすぎて肉眼ではよくわからず、どうでもいいか。旅先の天気はどうにもままならない。朝の天気で思い立った日帰り旅を別として、まさに運否天賦である。どこま...京都・宇治、平等院鳳凰堂(2)

  • 京都・宇治、平等院鳳凰堂(1)

    <京都・宇治、平等院(1)>JR宇治駅に着いたのは、予定通りの丁度8時だった。早朝に起きて、昨日買い求めて冷蔵してあった志津屋の<ふんわりオムレツサンド>を食べてから、平等院の拝観が8時半からのため、かなりの時間を潰したのだった。ところで、玉子の価格の高騰もあるのだろうがオムレツサンドの600円は美味しいが、ちと高い。看板商品の<京かるね>と<ペッパーかるね>の2個でも510円なのだから。横浜から車で中国・九州などの西方面へいくときに、ネックとなるのが<名・京・阪・神>だ。名古屋から京都、大阪、神戸までを、未明のうちに一気に抜ければ、あとは旅がぐっと楽になる。いつだったかの九州旅で、浜名湖サービスエリアで軽く仮眠のはずが、きつい仕事終わりの出発のためか思ったより眠ってしまった。京都に入って名神高速が混雑し...京都・宇治、平等院鳳凰堂(1)

  • 岐阜・大垣、中華そばと水まんじゅう

    <岐阜・大垣、中華そばと水まんじゅう>旅先でメシを食うなら、観光客目当ての店は避け、できるだけ地元客で繁盛している店を選ぶのがベストだ。もちろん、長時間利用となる呑むほうの酒場でも同じである。繁華な商店街というより静かな住宅街といったなかの、すこし奥まった場所にあった「朝日屋」。店前のスペースが駐車場なので、遠くからは容易にはみつけにくい。(やれやれ、ついに見つけたぞ!」三度目の挑戦で<ようやく>である。いつものように地図を頭に叩き込んだまではいいが、駅の逆側を探しまわってしまったのが、一度目。地下鉄でもないのにとんだドジぶりだ。中途半端にスマホのナビを頼って、あと一歩のところで「こんな住宅ばかりの場所にあるわけがないだろ!」と勝手に疑心暗鬼に陥り断念したのが二度目だった。このままでは3年目に入ってしまう...岐阜・大垣、中華そばと水まんじゅう

  • 滋賀・堅田、浮御堂(2)

    <滋賀・堅田、浮御堂(2)>とても小さな浮御堂なので、すぐに裏側に出てしまった。たしか、広重の浮世絵「堅田の落雁」は、この沖合あたりから浮御堂を描いた構図だった。湖のこの方角は、雄琴温泉とか大津方面であろう。浮御堂への湖上の架け橋を戻ると、岸辺で振り返って、浮御堂の風景を脳裡にしっかりと刻み込んだ。浮御堂の手前にある、入母屋造の三間堂の「観音堂」は満月寺の本堂で、内部には本尊木造<聖観音座像>を安置している。残念ながら後で知ったのだが、ここの内部の立派な天井画をぜひとも鑑賞したほうがよかったらしい。楼門のそばに、五月雨に濡れた浮御堂の美しさを詠んだ「阿波野青畝(あわのせいほ)」の向碑が立っていた。五月雨の雨垂ばかり浮御堂青畝は山口誓子や山口素十、水原秋桜子らとともに「ホトトギスの四S」と称された昭和初期の...滋賀・堅田、浮御堂(2)

  • 滋賀・堅田、浮御堂(1)

    <滋賀・堅田、浮御堂(1)>(どうやら着いたようだな・・・)左手に、海門山満月寺の山門らしきものがみえた。やれやれ、首に巻く乾いてしまったタオルで顔の汗を拭う。前に、おごと温泉に泊まったとき、ホテルから浮御堂までは約4キロ、徒歩では1時間くらい掛かるとフロントで言われ、「そんな遠いのかよ!」といったん諦めた。江戸後期の浮世絵師「歌川広重」によって描かれた、彼の代表作の一つである名所絵『近江八景』をネットで観るにおよび、俄然、浮御堂へ行ってみたくなったのであった。今日は堅田(かたた)駅から歩いたのだが、距離で1.7キロ、ざっと20分は掛かった。山門(楼門)は扉のない竜宮造りで、その漆喰塗りのしっかりとした基部をもつ姿をみて、規模の差こそあれ佐賀の武雄温泉街のシンボルの楼門を思いだしてしまった。(オォー、これ...滋賀・堅田、浮御堂(1)

  • 川越・喜多院の五百羅漢

    <川越・喜多院の五百羅漢>千二百年近い歴史があり、「川越大師」の別名を持つ、天台宗の寺院「喜多院」。正式には「星野山無量寿寺(むりょうじゅじ)喜多院」という。現在の「喜多院」という名を称するようになったのは徳川家康のころよりで、「南光坊天海」が住職として寺に入ってからである。天海僧正は、家康の懐刀といわれるほど信頼をえて、家康・秀忠・家光の三代にわたり顧問役をつとめた。天海は生年不詳、長命な人物で謎が多い。そして、明智光秀も生年不詳、天海とほぼ同時代に生きた人物だったことから、「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」という、<光秀=天海>説を唱えるものがでてきた。さらには、徳川秀忠の「秀」は光秀の「秀」を、徳川家光の「光」は光秀の「光」をとったとか。まあ、歴史とは、義経=成日思汗(ジンギスカン...川越・喜多院の五百羅漢

  • 読んだ本 2023年7月と8月

    <読んだ本2023年7月と8月><ねえーねぇー、インスタグラム投稿の『鬼レンチャン』に挑戦してるじゃんか!>超“どアップ”で出たな、化けネ・・・じゃなかった、海ちゃん。まったく、こいつは厭なタイミングで痛いところに爪を立ててきやがる・・・。なんてったってインスタグラム、一眼レフなどを使用した高解像度の撮影機材プラス最新加工技術を駆使した「映え写真」の群れのなかに、こちとらは、「写るんダス」みたいなお手軽馬鹿チョンデジカメのスナップ写真だからな。まあ、皆さんの”映え写真”もたっぷりコストを掛けてるだろうけど、わいの”スナップ写真”だって移動&宿泊諸経費がしこたま掛かっておるわいな。<あいかわらず、無尽蔵の情熱量なんだね。ビートルズの「エイト・ディズ・ア・ウィーク」みたいな(週8クラスの)暴走ぶりで、怖いくら...読んだ本2023年7月と8月

  • 京都・一乗寺、詩仙堂(3)

    <京都・一乗寺、詩仙堂(3)>さすがに、ここは永平寺の末寺である。『永平寺の修行の中心は座禅であるが、回廊掃除などの作務(さむ)も「動の座禅」といわれる。』と前にも書いたとおり、詩仙堂は建物と庭の、どこもかしこも掃除がいきとどいていて気もちいい。哲学者サルトルが言う通り、「掃除は芸術」なのだ。詩仙堂を訪れるなら、とくに春(5月下旬)の皐月と、秋(11月下旬)の紅葉は格別である。紅葉は例年、11月上旬ごろからヤマモミジやイロハモミジ、オオモミジ、カキなどが色付きはじめ、11月中旬から下旬ごろにかけてが<見頃>となる。詩仙堂の記事(1)で、『丈山は16歳で徳川家康に武将として仕え、大坂夏の陣で功名を立てた後、徳川家を離れ90歳で没するまで文化人として清貧の日々をおくった。』と、さらりと書いたが、大坂夏の陣に参...京都・一乗寺、詩仙堂(3)

  • 京都・一乗寺、詩仙堂(2)

    <京都・一乗寺、詩仙堂(2)>詩仙堂だが、1986年(昭和61年)に英国王室チャールズ皇太子と故ダイアナ妃が訪問されたことでも有名で、堂内にはその際の記念写真も飾られている。(詩仙堂の堂内は撮影が禁止されているので、ご注意を)外履きのサンダルを穿いて庭に降りる。さあて、ここからは撮影が自由にできる。しかも独り占めでの満喫、ときたもんだ。詩仙堂の中心となる建物は「凹凸窠(おうとつか)」と呼ばれる。なんでも、「でこぼこした土地(山の斜面)に建てた住居」という意味だそうで、実際に回遊式庭園をたっぷり散策すると、なるほど斜面の土地だと納得する。堂上の<楼>の部分は「嘯月楼(しょうげつろう)」といい、玄関の上の三階部分で、建物の中から紅葉が眺められるそうだ。右手遠くに見える建物は茶室「残月軒」だろうか。庭の周りには...京都・一乗寺、詩仙堂(2)

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