新高山城 続日本100名城 No.173 広島県三原市本郷町本郷 鎌倉時代に、現在の広島県三原市本郷の沼田川東岸に建てられた小早川氏の居城・高山城の副塁として、対岸(西岸)の山に建てられた山城。戦国時代、毛利元就の息子・小早川隆景が小早川家を継いで、新高山城を拡張して本拠とする。1596年、隆景は本
三原城 続日本100名城 No.172 広島県三原市城町 戦国時代、毛利元就の子・小早川隆景が現在の広島県三原市の沼田川河口エリアに築いた水軍施設が始まり。織田信長の中国攻めの際は毛利輝元がここに本陣を置く。豊臣秀吉に服従後、隆景は福岡に封ぜられるが、子の秀秋に家督を譲って三原城を隠居城とする。隆景
福山城 日本100名城 No.71 広島県福山市丸之内 江戸時代初期、現在の広島県福山市に封ぜられた譜代大名・水野勝成が西国外様大名への牽制に築いた城。層塔型5重6階の天守が建てられ、一国一城令発布後に築かれた最後の大規模近世城郭となる。水野氏の後も松平氏、阿部氏と譜代大名が治めた。明治の戊辰戦争で
東広島100名城―福山城、三原城、新高山城 - 日本100名城
岡山3日目。岡山の100名城・続100名城は前日までに制覇していたが、岡山には、広島県東部の三原まで4200円で3日間列車乗り放題の「岡山ワイドパス」というお得な切符があり、初日、2日目と、この切符で城巡りをしてきた。東広島にもこの切符で行くことができる城があるので、この日はそちらを目指すことにする
鬼ノ城 日本100名城 No.69 岡山県総社市奥坂、黒尾 岡山県総社市の、標高400mの鬼城山(きのじょうさん)に、大和朝廷によって7世紀後半に築かれた古代山城。倭(日本)の防衛のために築かれた施設の1つだが、史書に記載が一切無く具体的な歴史は不明。周囲を土塁で囲み、要所に石垣(特に屏風折れの石垣
備中高松城登城を達成し、備中高松駅から吉備線(桃太郎線)で1つ総社駅寄りの服部駅に移動する。小さな無人駅を出るとすぐ、次に目指す鬼ノ城(100名城 No.69)を確かに見ることができた。(直線距離で)4㎞先の鬼城山の上に...しかも服部駅からの標高差は350m。中間地点の砂川公園までは平坦に近いが、
備中高松城 続日本100名城 No.171 岡山県岡山市北区高松 備中松山城を本拠に備中を治めていた戦国大名・三村氏の命で石川氏が築いた城。1575年の備中兵乱で石川氏が三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、三村氏から毛利氏に臣従した清水宗治が城主となる。1582年、織田信長の家臣・羽柴秀吉の中国攻
備中松山城 日本100名城 No.68 岡山県高梁市内山下 岡山・高梁の臥牛山(松山)の山頂近くに秋庭氏が鎌倉時代に建てた城をベースに、戦国時代、三村氏が拡張する形で築いた山城。江戸時代初期、水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になる。戦に備えて築かれた「詰の城」で常用はされず、江戸時
岡山100名城(2)―備中松山城、備中高松城 - 日本100名城
朝一番の7時半前に伯備線の列車に乗り込んで岡山駅を出発。武家屋敷で有名な倉敷を経由(既に過去に2度訪れていたこともあり今回は通過)して、8時18分、備中高梁駅に到着。時間によっては登城口までバスもあるのだが、この時間帯は生憎バスが無く、2㎞弱の道を歩いて向かう。駅を出発して程なくして、目指す備中松山
津山城 日本100名城 No.67 岡山県津山市山下 室町時代中期に山名忠政が築いた鶴山城が原型。一度廃城となるが、1603年に津山藩主に封ぜられた森忠政(織田信長家臣・森可成の六男)が、13年の歳月をかけて今の形に築いた城。4重5階地下1階の層塔型天守のほか、櫓、城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ
岡山城 日本100名城 No.70 岡山県岡山市北区丸の内 戦国時代に岡山の地を支配した宇喜多直家が居城とし、息子の秀家が継ぐが関ケ原の戦いで西軍につき敗れて八丈島に流され、その後を関ケ原の戦いで西軍を寝返り東軍を勝利に導いた小早川秀秋が入る。しかし秀秋が死去し小早川家が断絶したため池田輝政の次男忠
午前10時前、羽田空港からのJAL便で岡山に到着。今回の城巡りは岡山と、東広島の8城を目指す。リムジンバスで岡山駅へ。駅近くの宿に大きな荷物を預け、岡山市コミュニティサイクル「ももちゃり」を活用して早速、1つ目の城・岡山城(100名城 No.70)へと向かう。岡山城は戦国時代、宇喜多直家・秀家親子、
大垣城 続日本100名城 No.140 岐阜県大垣市郭町 美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、1535年に創建されたと伝えられる。戦略上重要な地点であったため、戦国時代には争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り変わる。賤ヶ岳の戦いの後は羽柴秀吉配下となり、池田恒興・輝政親
玄蕃尾城 続日本100名城 No.140 福井県敦賀市刀根、滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬 福井県と滋賀県境の柳ヶ瀬山の尾根上に築かれた山城。織田信長の死後、羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦い(1583年)において、柴田勝家の本陣が置かれた。曲輪・櫓台・土塁・虎口・空堀・土橋など保存状態が良好で、当時
佐柿国吉城 続日本100名城 No.139 福井県三方郡美浜町佐柿 戦国時代、若狭国と敦賀国の国境の「城山」に、武田氏重臣の粟屋勝久が築いた山城。越前国の朝倉氏の度重なる来襲を退け、「難攻不落の城」として称えられた。1570年、朝倉攻めに向かう織田信長率いる3万の軍勢を迎え入れ、木下藤吉郎、徳川家康
琵琶湖周辺100名城(5)―佐柿国吉城、玄蕃尾城、大垣城 - 日本100名城
小谷城登城を達成し、河毛駅に戻って北陸本線で更に北へ向かう。近江塩津で列車を乗り継ぎ、滋賀県を越えて福井県へ。敦賀で小浜線に乗り換え、今度は西へ進む。美浜駅で下車。駅に併設された観光案内所でレンタサイクルを借りて、線路沿いに東へ20分進む。次に目指すは、佐柿国吉城(続100名城 No.139)。戦国
小谷城 日本100名城 No.49 滋賀県長浜市湖北町伊部 16世紀前半、北近江の国人・浅井亮政が小谷山(伊部山)上の尾根に建てた山城。以後浅井3代の居城となり、3代目の長政は織田信長の妹・市を妻に迎え、茶々、初、江の3姉妹を産んだ。しかし1570年、信長が越前朝倉家を攻めた際、長政は信長に反旗を翻
彦根城 日本100名城 No.50 滋賀県彦根市金亀町 徳川家康の重臣・井伊直政が関ヶ原の戦いの後、石田三成の旧領・近江国佐和山に封じられ、その死後に家督を継いだ井伊直継の下、琵琶湖に面した彦根山(金亀山)に、1603~1622年にかけて築かれた城。以後多くの大老(井伊直弼など)を輩出した譜代大名・
琵琶湖周辺100名城(4)―佐和山城、彦根城、小谷城 - 日本100名城
米原で一夜を明かし、早朝から2日目の琵琶湖周辺100名城巡りに繰り出す。まずは、昨日時間が無くスキップした、東海道線で西へ1駅の彦根へ。彦根と言えば――の名城の前に、彦根駅の近くにもう一つ、100名城にも続100名城にも数えられていないが、戦国の名将ゆかりの名前の通った城があるので、まずそちらに行く
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七尾を出発して1時間40分のほぼ13時、JR七尾線~IRいしかわ鉄道線の列車は金沢に到着した。石川県の名城は(奥まで入っていなかった七尾城は別として)私の最初の名城巡りの旅で既に攻城を済ませていたので、当初の予定では今回は金沢も素通りして福井まで向かう予定だったのだが、先ほど七尾城の駐車場でボランテ
早朝7時すぎ、前日午後10時に東京・新宿を出発した夜行バスが富山、金沢を経由して石川県の七尾駅前に到着。6年前に訪れて以来の再訪――今回はここを起点として主に福井の名城を巡る旅になる。この街で目指す城の登城口近くまで行ってくれるバスまで1時間ほどあったので、駅近くのコンビニエンスストアでパンを買って
米子城 続日本100名城 No.169 鳥取県米子市久米町 15世紀に山名宗之によって米子の中海に近い飯山に築かれた砦が始まりとされる。1591年、豊臣政権下で西伯耆の領主となった吉川広家が中海の良港に隣接した湊山に築城を開始し、四重天守を築く。関ヶ原の戦いの後に広家が岩国に国替えとなった後は中村
松江城 日本100名城 No.64 島根県松江市殿町 関ヶ原の戦いで東軍に与し戦功のあった堀尾忠氏が、隠岐・出雲を得て松江藩が成立。当初は月山富田城に入城したが、山城で交通の便が良くなかったため、1607年に末次城のあった宍道湖畔の亀田山に松江城を築き始め、1611年に完成。現存する天守もこの時築
今回の名城巡りの旅も最終日。松江駅近くの宿で1泊して、朝一番でこの街の名城を目指す。その途中、この街が誇る城の前に、この街が誇る湖のわきを通る。隣接する日本海から海水が混ざり込む汽水湖・宍道湖だ。ここで育つシジミや白魚などが島根の名物になっている。宍道湖から大橋川に湖水が流れ込む地点に架かる宍道湖大
月山富田城 日本100名城 No.66 島根県安来市広瀬町富田 鎌倉幕府の御家人である佐々木義清が築城し、その子で富田を名乗った義泰ら富田氏が本拠とした、現在の島根県安来市の月山(標高184m)上の山城で、日本五大山城の一つとされることもある。戦国時代には戦国大名・尼子氏の本拠地となり、天然の地形を
浜田城 続日本100名城 No.170 島根県浜田市殿町 島根・浜田の標高68mの独立式丘陵に築城された平山城。北部を松原湾、東部を浅井川、南部・西部を浜田川に囲まれ、天然の堀としている。大坂の陣の功績により浜田に入封した古田重治により1620~1623年にかけて築かれ、浜田藩の藩庁が置かれる。古田
島根県浜田氏の浜田駅近くの宿で一夜を明かし、朝一番で徒歩圏内にある名城を訪れる。浜田城(続100名城No.170)は江戸時代、大坂の陣の功績により浜田に入封した古田重治により1620~1623年にかけて築かれた。浜田川と松原浦に囲まれた、標高68mの独立式丘陵・亀山に築城された平山城である。浜田城資
津和野城 日本100名城 No.66 島根県鹿足郡津和野町後田 津和野盆地の南西部に横たわる標高367mの霊亀山に築かれた山城。鎌倉時代の元寇の後、沿岸防備のためこの地に赴任した吉見頼行が築いた三本松城が始まり。戦国時代、大寧寺の変で大内義隆を滅ぼした陶晴賢に対して吉見氏が挙兵。三本松城で1554年
萩で迎えた早朝。もう一度城下町を散策した後、萩バスセンターを8時42分に発つ高速バスで新山口駅へ移動する。次は山口県を出てすぐの島根県津和野が目的地だが、事前にスケジュールを組んでいた時、ちょうどいいタイミングでいい列車が出ていることに気づき、予約が取れる初日にすぐ挑んだのだが、ゴールデンウィーク(
萩城 日本100名城 No.75 山口県萩市堀内 関ヶ原の戦いで西軍の総大将に就いて敗軍の将となり、周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる居城として1604年に築いた城。指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と指月山山頂にある山城(詰丸)で構成されている。堀に面して望楼型
予定より1本早いバスで、山口市から日本海沿岸の萩へ向かう。元の予定のバスで行った場合、次の城へは萩の旧城下町内を歩くかシェアサイクルを使うかだったのだが、萩へのバスが1本早くなったことで次の城まで行ってくれる萩市内のコミュニティバスの時間にちょうどよくなった。小ぶりなバスに身を委ねて悠々と、萩城(1
大内氏館・高嶺城 山口県山口市 続日本100名城 No.174 大内氏館は、室町時代に建造された、周防国・長門国を本拠とした大内氏の居館。領土の拡大とともに増築が繰り返され、空堀と土塁により守りが固められた。高嶺城は毛利軍の進軍に備え、大内義長が大内氏館の詰めの城として1556年、標高338mの鴻ノ
山口駅から次の城へ700mほど近づいた場所にある宿で一夜を明かし、朝一番で城攻めに出掛ける。今回目指すは、大内氏館・高嶺城(続100名城No.174)。室町時代、周防国・長門国を本拠とした室町幕府の重臣・大内氏の平地と山の拠点である。まずは標高338mの鴻ノ峰に1556年、大内義長により築城が開始さ
岩国城 日本100名城 No.74 山口県岩国市横山 山口一帯を支配していた毛利氏は関ヶ原の戦いで西軍に与して敗軍の将となり、徳川家康に内通していた毛利一門の吉川広家は毛利氏の存続に奔走する。広家はその後岩国領の領主に3万石で封ぜられ、領内の横山に岩国城を築く。麓に平時の居館となる「土居」と、標高2
広島城の攻城を終えた私は、昼前にJR山陽本線の普通列車に乗り込んで西へ向かい、広島・山口の県境を超えて2つ目の岩国駅で下車。岩国市内を流れる錦川までバスで移動して、江戸時代に創建された5連の木造アーチ橋・錦帯橋に行き着く。その錦帯橋の背後に聳える、標高216mの横山の山頂に天守閣が見える。あれが今回
広島駅近くの宿で1夜を明かして、この日も早朝から広島城(100名城No.73)を目指す。前日は北西からアプローチしたが、今回は南東からアプローチ。ここから反時計回りで裏御門跡などを経由して堀(かつての内堀)の周りをぐるりと1周して、この日も表御門から入城して、昨日じっくり見られなかった場所を見て回る
広島城 日本100名城 No.73 広島県広島市中区基町 戦国時代に広島を支配下に置いた毛利氏は、それまでの山間部の居城・吉田郡山城から瀬戸内海沿岸への移転を決め、1589年、毛利輝元は太田川下流域の五箇村に広島城の築城を開始し、1591年に入城。1592年に天守が建てられ、1599年に完成するが、
郡山城の攻城を終えて、バスとJRを可部駅で乗り継いで、広島市内に戻る。新白鳥駅で下車して、歩いて15分ほどで、堀に囲まれた広島城(100名城No.73)が見えてきた。広島城は、山城で交通面の不便さがあった郡山城から毛利輝元が移転先として広島の平地に建てた平城だ。しかし輝元は築城後すぐに関ヶ原の戦いで
延岡城 続日本100名城 No.195 宮崎県延岡市東本小路 天下を統一した豊臣秀吉の命で延岡の地に赴任した高橋元種が1603年、 五ヶ瀬川と大瀬川の中州にある延岡山に築城した平山城。元種が改易された後は有馬氏、三浦氏、牧野氏が城主を務める。有馬氏の代の改修で1655年、天守代用の三階櫓が築かれるが
宮崎・延岡駅前で一夜を明かし、今回の城巡りの旅の最終日を迎える。最後に巡る城は、延岡城(続100名城 No.195)。天下を統一した豊臣秀吉の命で延岡の地に赴任した高橋元種が1603年に築城し、その後有馬氏、三浦氏、牧野氏、内藤氏の居城となった城だ。延岡駅から延岡城へは、歩いても20分強。朝の8時前
佐土原城 続日本100名城 No.196 宮崎県宮崎市佐土原町上田島 14世紀半ば頃、伊東氏の一族田島休助により田島城として建てられる。戦国時代、本家筋の伊東氏が田島氏を滅ぼして入城する。1536年、田島城は焼失し、1543年、跡地に新しく鶴松城として建てられる。その当時の城主・伊東義祐は飫肥の島津
宮崎県日南市飫肥からの列車で12時16分、宮崎駅に到着。次の城へのアクセス方法は幾つかあったが、天気が朝の飫肥から続く比較的強い雨だったことがあって、私は大きなボストンバッグを抱えてウロウロしないで済むよう、宮崎駅のコインロッカーに荷物を預けて宮崎駅⇔城をバスで往復する方法を採った。宮崎駅西口から2
飫肥城 日本100名城 No.96 宮崎県日南市飫肥 南北朝時代に土持氏が築城したのが始まりとされる。戦国時代、島津氏と伊東氏との間で飫肥を巡り80年にわたる争奪戦が繰り広げられ、1567年、伊東義祐が一度は飫肥城を手に入れて子の伊東祐兵に飫肥の地を与えるが、1572年、伊東氏は木崎原の戦いに敗れて
夕方6時前、鹿児島・志布志から乗車したJR日南線の列車が宮崎・日南市の飫肥駅に到着。駅から歩いて街中に向かうと、川の手前で「是より飫肥城城下町」という石碑が出迎えた。そう。この街で目指す城は飫肥城(100名城 No.96)だ。ここ飫肥の地は戦国時代、島津氏と伊東氏との間で争奪戦が繰り広げられ、一時は
志布志城 続日本100名城 No.197 鹿児島県志布志市志布志町帖 鹿児島県東部の志布志湾に面した志布志の山に築かれた内城・松尾城・高城・新城の4つの城郭の総称。築城年代は不明だが、南北朝時代には内城と松尾城が存在していた。12世紀から救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝付氏が入れ代わり立ち代わり
鹿児島市から次の名城がある志布志へ。同じ鹿児島県とはいえ、鹿児島は薩摩半島、志布志は大隅半島の太平洋側と結構離れている。しかもこの区間は1987年に国鉄志布志線が廃線となって以降、鉄道でアクセスしようとすると宮崎県南部の都城、宮崎、日南を経由とかなりの遠回りになってしまう。従ってバスでの移動というこ
前日に鹿児島城を滑り込みセーフで訪れてスタンプを頂き、下の城は一応巡ったが、上の城、即ち城山は訪れていない。鹿児島中央駅前の宿で一夜を明かし、この日の朝一番で巡ることにした。城山は、元は上山氏の居城であった上山城が建てられていた山だ。上山城は上山氏が島津氏に押されて退去すると廃城となるが、島津氏によ
鹿児島城 日本100名城 No.97 鹿児島県鹿児島市城山町 元は上山氏の居城であった上山城跡である、鹿児島湾と桜島を望む城山の麓に、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、それまでの居城だった内城に代えて、1601年より島津忠恒(家久)により築城される。以後明治の廃藩置県まで、島
知覧城 続日本100名城 No.198 鹿児島県南九州市知覧町永里 平安時代末にこの地の郡司・知覧忠信が城を構えたのが始まりとされる。室町時代、足利尊氏の下文により島津忠宗の三男・佐多忠光が領主となり、伊集院氏の配下となった一時期を除き佐多氏が代々治める。標高170mのシラス台地上に築かれた広大な山
午前10時少し前、羽田からの日本航空便が鹿児島空港に到着。今回は鹿児島と宮崎の100名城・続100名城を巡る。空港から鹿児島中央駅に移動してこの日の宿に荷物を預け、バスで薩摩半島南部にある南九州市知覧へ向かう。これから向かう城へは中郡バス停で下りるのが最短だが、せっかくなので1つ手前の武家屋敷入口バ
川越城 日本100名城 No.19 埼玉県川越市郭町 室町時代、関東管領・上杉氏と古河公方の対立の中、1457年に扇谷上杉氏の上杉持朝が家宰の太田道真、太田道灌父子に築かせた城。「道灌がかり」と呼ばれる連郭式縄張りで築かれた。16世紀には後北条氏に攻められ、1537年、後北条氏に奪取される。その後は
鉢形城 日本100名城 No.18 埼玉県大里郡寄居町鉢形 荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁上の天然の要害に1476年、関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春によって築かれた城。1564年、小田原の後北条氏の北条氏邦が入城。氏邦により整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となる。その強固さゆえに武田信
埼玉・嵐山町の菅谷館、杉山城を訪れた後、東武東上線で更に北上。寄居駅で下車して少し歩く。やがて大きな川に行き着く。荒川だ。南岸は切り立った断崖になっている。この断崖の上に建つのが鉢形城(100名城 No.18)だ。鉢形城は戦国時代に山内上杉氏の家臣・長尾景春によって築かれ、のちに入城した小田原の後北
杉山城 続日本100名城 No.119 埼玉県比企郡嵐山町杉山 鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置して築かれた城。郭とそれに伴う堀や土塁のほか井戸跡などの遺構が残る。城主や築城年代についての記録は無く、後北条氏の時代のものと推測されてきたが、21世紀に入ってからの発掘調査により、戦国時代
菅谷館 続日本100名城 No.120 埼玉県比企郡嵐山町菅谷 比企丘陵中央の都幾川の畔に築かれた、鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠の館だったとされる城址。その後15世紀後半に至るまでの変遷は記録に無く、戦国時代に入り1488年、菅谷原で山内上杉家と扇谷上杉家が争い(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉
2024年ゴールデンウィークの前半最終日。終日自由に使えたので、日帰りで埼玉の名城を巡りに出かけた。埼玉は戦国時代に山内上杉・扇谷上杉・古河公方が三つ巴の争いを行うが、最終的には小田原の北条氏(後北条氏)が関東を平定した――という歴史背景を予め知っておくと、この後が分かり易い。東京・池袋駅から東武東