一乗谷城 日本100名城 No.37 福井県福井市城戸ノ内町、三万谷町 戦国時代に越前国を治めた戦国大名・朝倉氏の本拠地の城。15世紀中頃に朝倉孝景により築かれ、朝倉氏5代約100年にわたり、越前支配の政治・文化の中心地となった。東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害。標高473mの
続日本100名城 No.103 場所 青森県青森市浪岡大字浪岡五所...
東北・西北海道100名城(5)―弘前城、浪岡城 - 日本100名城
弘前駅前の宿で一夜を明かし、朝一番で朝食を頂いて7時前、昨夜も訪れた弘前城へ向かう。昨夜は大雨だったが、今朝はすっきりとした青空だ。築城主である津軽為信の銅像のある広場から外堀を渡る。7年前に訪れた時はここに桜の花筏ができていたものだが、今年は桜が散るのが早かったせいか、水面に花びらは殆ど無かった。
弘前城 日本100名城 No.4 青森県弘前市下白銀町 南部氏に臣従していた津軽(大浦)為信は豊臣秀吉から南部氏に先駆けて領土を安堵され、関ヶ原の戦いでは東軍について弘前藩の藩主となる。1603年、為信が鷹岡に築城を開始し、子の信枚に引き継がれて1611年にほぼ完成。以後、弘前藩津軽氏の居城となる。
根城 日本100名城 No.5 青森県八戸市根城 南北朝時代の1334年、陸奥国司として陸奥国に下向した南朝方の武将・北畠顕家と共にこの地に来た甲斐国の南部師行が築いた城。南朝方の根本となる城という願いから「根城」と名付けたといわれる。以降、北奥羽の地で南部氏が勢力を築く契機となる。南朝が劣勢になる
東北・西北海道100名城(4)―根城、弘前城 - 日本100名城
岩手県・二戸駅を出発したいわて銀河鉄道の列車は、県境を越えて青森県に入ったすぐ先の目時駅から、青い森鉄道へと乗り入れる。目時から30分弱で、列車は終点駅の八戸に到着した。八戸は、以前青森巡りをした時には列車の乗り継ぎのみだったので、街に出るのはこれが初めてとなる。八戸駅からバスで向かった城が、根城(
九戸城 岩手県二戸市福岡城ノ内 戦国時代に南部氏の一族である九戸氏が三方を河川に囲まれた要害の地に築城し、居城とした、総面積34haの広大な城。1590年、家督争いのあった南部家の当主・南部信直と奥州仕置を行う豊臣政権に対して九戸政実が反旗を翻し、九戸城に籠もり戦うが鎮圧されるという、「豊臣秀吉によ
盛岡城 日本100名城 No.6 岩手県盛岡市内丸 16世紀末、南部氏がこの地に拠点を移して築いた、盛岡藩の藩庁となった城。東北では珍しい総石垣で築かれる。江戸幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされたが、1842年に12代利済により「天守」に改称された。1871年、 廃
東北・西北海道100名城(3)―盛岡城、九戸城 - 日本100名城
岩手県盛岡市の盛岡駅前で一夜を明かし、早朝から早速、盛岡城(100名城 No.6)を目指す。随分前に訪れたことがある城だが、100名城スタンプはまだだ。途中、北上川に架かる開運橋を渡る。ここからは天気がよければ岩手山を見渡すことができるのだが、残念ながら山の頂は雲に覆われていた。盛岡城へは盛岡駅から
秋田城 続日本100名城 No.107 秋田県秋田市寺内大畑 奈良時代に築城され、平安時代にかけて大和朝廷の出羽国における拠点となった古代城柵で、渤海国との外交や北海道・津軽地域の蝦夷(えみし)との交流などの機能を担ったという。804年の秋田郡設置・河辺府移転に伴い停廃されるが、その後も878年の元
脇本城 続日本100名城 No.106 秋田県男鹿市脇本脇本七沢外 14世紀に鎌倉北条氏派の武士が、男鹿半島付け根の日本海に面する丘陵上に築いた山城。室町時代の15世紀、陸奥国・出羽国の北部に勢力を及ぼしていた安東氏の安東政季が入って以降、安東氏が蝦夷地支配と交易の拠点とした。東北地方最大級の広さ1
東北・西北海道100名城(2)―脇本城、秋田城 - 日本100名城
秋田駅からJR男鹿線(男鹿なまはげライン)に乗車し、小さな無人駅・脇本駅で下車。脇本駅から徒歩で25分、途中訪れたなまはげの館から7分程度で、目指す城・脇本城(続100名城 No.106)の入り口に到着した。ここから「天下道」と呼ばれる急登を上がった先が目指す縄張りだ。坂を上った先にある史跡脇本城跡
久保田城 日本100名城 No.9 秋田県秋田市千秋公園 江戸時代初期に秋田に転封された佐竹義宣によって神明山の上に築かれ、以後、出羽久保田藩佐竹氏の居城となった城。石垣は殆ど無く堀と土塁を巡らした城で、天守閣は当初から建造されなかった。明治に入り、戊辰戦争時に久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して新政
東北・西北海道100名城(1)―久保田城 - 日本100名城
2023年のゴールデンウィークは、東北・西北海道の100名城・続100名城制覇を目指して旅をすることにした。但し、いずれも道県も以前じっくり訪れたことがあり、来訪済みの城(100名城のスタンプはいずれも未取得)もある。今回は城以外の観光はほぼスルーした、城に特化した旅となった。スタート地点は、秋田。
「ブログリーダー」を活用して、カズ@憧れの大地さんをフォローしませんか?
一乗谷城 日本100名城 No.37 福井県福井市城戸ノ内町、三万谷町 戦国時代に越前国を治めた戦国大名・朝倉氏の本拠地の城。15世紀中頃に朝倉孝景により築かれ、朝倉氏5代約100年にわたり、越前支配の政治・文化の中心地となった。東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害。標高473mの
越前大野城 続日本100名城 No.138 福井県大野市城町 1575年、越前一向一揆を平定した恩賞として織田信長から越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近が、最初に居城とした戌山城の近くの亀山に築いた平山城。1580年に竣工し、2層3階建ての大天守や2層2階の小天守などが建てられた。その後、
この日は朝一番で福井市から東へ。2つの名城を目指す。まずは、越前大野城(続日本100名城 No.138)。越前一向一揆を平定した恩賞として織田信長から越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近が亀山に築いた平山城だ。登城する前にまず、亀山の南西すぐ隣にある戌山を、国道158号線のトンネルわきから登
七尾を出発して1時間40分のほぼ13時、JR七尾線~IRいしかわ鉄道線の列車は金沢に到着した。石川県の名城は(奥まで入っていなかった七尾城は別として)私の最初の名城巡りの旅で既に攻城を済ませていたので、当初の予定では今回は金沢も素通りして福井まで向かう予定だったのだが、先ほど七尾城の駐車場でボランテ
早朝7時すぎ、前日午後10時に東京・新宿を出発した夜行バスが富山、金沢を経由して石川県の七尾駅前に到着。6年前に訪れて以来の再訪――今回はここを起点として主に福井の名城を巡る旅になる。この街で目指す城の登城口近くまで行ってくれるバスまで1時間ほどあったので、駅近くのコンビニエンスストアでパンを買って
米子城 続日本100名城 No.169 鳥取県米子市久米町 15世紀に山名宗之によって米子の中海に近い飯山に築かれた砦が始まりとされる。1591年、豊臣政権下で西伯耆の領主となった吉川広家が中海の良港に隣接した湊山に築城を開始し、四重天守を築く。関ヶ原の戦いの後に広家が岩国に国替えとなった後は中村
松江城 日本100名城 No.64 島根県松江市殿町 関ヶ原の戦いで東軍に与し戦功のあった堀尾忠氏が、隠岐・出雲を得て松江藩が成立。当初は月山富田城に入城したが、山城で交通の便が良くなかったため、1607年に末次城のあった宍道湖畔の亀田山に松江城を築き始め、1611年に完成。現存する天守もこの時築
今回の名城巡りの旅も最終日。松江駅近くの宿で1泊して、朝一番でこの街の名城を目指す。その途中、この街が誇る城の前に、この街が誇る湖のわきを通る。隣接する日本海から海水が混ざり込む汽水湖・宍道湖だ。ここで育つシジミや白魚などが島根の名物になっている。宍道湖から大橋川に湖水が流れ込む地点に架かる宍道湖大
月山富田城 日本100名城 No.66 島根県安来市広瀬町富田 鎌倉幕府の御家人である佐々木義清が築城し、その子で富田を名乗った義泰ら富田氏が本拠とした、現在の島根県安来市の月山(標高184m)上の山城で、日本五大山城の一つとされることもある。戦国時代には戦国大名・尼子氏の本拠地となり、天然の地形を
浜田城 続日本100名城 No.170 島根県浜田市殿町 島根・浜田の標高68mの独立式丘陵に築城された平山城。北部を松原湾、東部を浅井川、南部・西部を浜田川に囲まれ、天然の堀としている。大坂の陣の功績により浜田に入封した古田重治により1620~1623年にかけて築かれ、浜田藩の藩庁が置かれる。古田
島根県浜田氏の浜田駅近くの宿で一夜を明かし、朝一番で徒歩圏内にある名城を訪れる。浜田城(続100名城No.170)は江戸時代、大坂の陣の功績により浜田に入封した古田重治により1620~1623年にかけて築かれた。浜田川と松原浦に囲まれた、標高68mの独立式丘陵・亀山に築城された平山城である。浜田城資
津和野城 日本100名城 No.66 島根県鹿足郡津和野町後田 津和野盆地の南西部に横たわる標高367mの霊亀山に築かれた山城。鎌倉時代の元寇の後、沿岸防備のためこの地に赴任した吉見頼行が築いた三本松城が始まり。戦国時代、大寧寺の変で大内義隆を滅ぼした陶晴賢に対して吉見氏が挙兵。三本松城で1554年
萩で迎えた早朝。もう一度城下町を散策した後、萩バスセンターを8時42分に発つ高速バスで新山口駅へ移動する。次は山口県を出てすぐの島根県津和野が目的地だが、事前にスケジュールを組んでいた時、ちょうどいいタイミングでいい列車が出ていることに気づき、予約が取れる初日にすぐ挑んだのだが、ゴールデンウィーク(
萩城 日本100名城 No.75 山口県萩市堀内 関ヶ原の戦いで西軍の総大将に就いて敗軍の将となり、周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる居城として1604年に築いた城。指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と指月山山頂にある山城(詰丸)で構成されている。堀に面して望楼型
予定より1本早いバスで、山口市から日本海沿岸の萩へ向かう。元の予定のバスで行った場合、次の城へは萩の旧城下町内を歩くかシェアサイクルを使うかだったのだが、萩へのバスが1本早くなったことで次の城まで行ってくれる萩市内のコミュニティバスの時間にちょうどよくなった。小ぶりなバスに身を委ねて悠々と、萩城(1
大内氏館・高嶺城 山口県山口市 続日本100名城 No.174 大内氏館は、室町時代に建造された、周防国・長門国を本拠とした大内氏の居館。領土の拡大とともに増築が繰り返され、空堀と土塁により守りが固められた。高嶺城は毛利軍の進軍に備え、大内義長が大内氏館の詰めの城として1556年、標高338mの鴻ノ
山口駅から次の城へ700mほど近づいた場所にある宿で一夜を明かし、朝一番で城攻めに出掛ける。今回目指すは、大内氏館・高嶺城(続100名城No.174)。室町時代、周防国・長門国を本拠とした室町幕府の重臣・大内氏の平地と山の拠点である。まずは標高338mの鴻ノ峰に1556年、大内義長により築城が開始さ
岩国城 日本100名城 No.74 山口県岩国市横山 山口一帯を支配していた毛利氏は関ヶ原の戦いで西軍に与して敗軍の将となり、徳川家康に内通していた毛利一門の吉川広家は毛利氏の存続に奔走する。広家はその後岩国領の領主に3万石で封ぜられ、領内の横山に岩国城を築く。麓に平時の居館となる「土居」と、標高2
広島城の攻城を終えた私は、昼前にJR山陽本線の普通列車に乗り込んで西へ向かい、広島・山口の県境を超えて2つ目の岩国駅で下車。岩国市内を流れる錦川までバスで移動して、江戸時代に創建された5連の木造アーチ橋・錦帯橋に行き着く。その錦帯橋の背後に聳える、標高216mの横山の山頂に天守閣が見える。あれが今回
延岡城 続日本100名城 No.195 宮崎県延岡市東本小路 天下を統一した豊臣秀吉の命で延岡の地に赴任した高橋元種が1603年、 五ヶ瀬川と大瀬川の中州にある延岡山に築城した平山城。元種が改易された後は有馬氏、三浦氏、牧野氏が城主を務める。有馬氏の代の改修で1655年、天守代用の三階櫓が築かれるが
宮崎・延岡駅前で一夜を明かし、今回の城巡りの旅の最終日を迎える。最後に巡る城は、延岡城(続100名城 No.195)。天下を統一した豊臣秀吉の命で延岡の地に赴任した高橋元種が1603年に築城し、その後有馬氏、三浦氏、牧野氏、内藤氏の居城となった城だ。延岡駅から延岡城へは、歩いても20分強。朝の8時前
佐土原城 続日本100名城 No.196 宮崎県宮崎市佐土原町上田島 14世紀半ば頃、伊東氏の一族田島休助により田島城として建てられる。戦国時代、本家筋の伊東氏が田島氏を滅ぼして入城する。1536年、田島城は焼失し、1543年、跡地に新しく鶴松城として建てられる。その当時の城主・伊東義祐は飫肥の島津
宮崎県日南市飫肥からの列車で12時16分、宮崎駅に到着。次の城へのアクセス方法は幾つかあったが、天気が朝の飫肥から続く比較的強い雨だったことがあって、私は大きなボストンバッグを抱えてウロウロしないで済むよう、宮崎駅のコインロッカーに荷物を預けて宮崎駅⇔城をバスで往復する方法を採った。宮崎駅西口から2
飫肥城 日本100名城 No.96 宮崎県日南市飫肥 南北朝時代に土持氏が築城したのが始まりとされる。戦国時代、島津氏と伊東氏との間で飫肥を巡り80年にわたる争奪戦が繰り広げられ、1567年、伊東義祐が一度は飫肥城を手に入れて子の伊東祐兵に飫肥の地を与えるが、1572年、伊東氏は木崎原の戦いに敗れて
夕方6時前、鹿児島・志布志から乗車したJR日南線の列車が宮崎・日南市の飫肥駅に到着。駅から歩いて街中に向かうと、川の手前で「是より飫肥城城下町」という石碑が出迎えた。そう。この街で目指す城は飫肥城(100名城 No.96)だ。ここ飫肥の地は戦国時代、島津氏と伊東氏との間で争奪戦が繰り広げられ、一時は
志布志城 続日本100名城 No.197 鹿児島県志布志市志布志町帖 鹿児島県東部の志布志湾に面した志布志の山に築かれた内城・松尾城・高城・新城の4つの城郭の総称。築城年代は不明だが、南北朝時代には内城と松尾城が存在していた。12世紀から救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝付氏が入れ代わり立ち代わり
鹿児島市から次の名城がある志布志へ。同じ鹿児島県とはいえ、鹿児島は薩摩半島、志布志は大隅半島の太平洋側と結構離れている。しかもこの区間は1987年に国鉄志布志線が廃線となって以降、鉄道でアクセスしようとすると宮崎県南部の都城、宮崎、日南を経由とかなりの遠回りになってしまう。従ってバスでの移動というこ
前日に鹿児島城を滑り込みセーフで訪れてスタンプを頂き、下の城は一応巡ったが、上の城、即ち城山は訪れていない。鹿児島中央駅前の宿で一夜を明かし、この日の朝一番で巡ることにした。城山は、元は上山氏の居城であった上山城が建てられていた山だ。上山城は上山氏が島津氏に押されて退去すると廃城となるが、島津氏によ
鹿児島城 日本100名城 No.97 鹿児島県鹿児島市城山町 元は上山氏の居城であった上山城跡である、鹿児島湾と桜島を望む城山の麓に、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、それまでの居城だった内城に代えて、1601年より島津忠恒(家久)により築城される。以後明治の廃藩置県まで、島
知覧城 続日本100名城 No.198 鹿児島県南九州市知覧町永里 平安時代末にこの地の郡司・知覧忠信が城を構えたのが始まりとされる。室町時代、足利尊氏の下文により島津忠宗の三男・佐多忠光が領主となり、伊集院氏の配下となった一時期を除き佐多氏が代々治める。標高170mのシラス台地上に築かれた広大な山
午前10時少し前、羽田からの日本航空便が鹿児島空港に到着。今回は鹿児島と宮崎の100名城・続100名城を巡る。空港から鹿児島中央駅に移動してこの日の宿に荷物を預け、バスで薩摩半島南部にある南九州市知覧へ向かう。これから向かう城へは中郡バス停で下りるのが最短だが、せっかくなので1つ手前の武家屋敷入口バ
川越城 日本100名城 No.19 埼玉県川越市郭町 室町時代、関東管領・上杉氏と古河公方の対立の中、1457年に扇谷上杉氏の上杉持朝が家宰の太田道真、太田道灌父子に築かせた城。「道灌がかり」と呼ばれる連郭式縄張りで築かれた。16世紀には後北条氏に攻められ、1537年、後北条氏に奪取される。その後は
鉢形城 日本100名城 No.18 埼玉県大里郡寄居町鉢形 荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁上の天然の要害に1476年、関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春によって築かれた城。1564年、小田原の後北条氏の北条氏邦が入城。氏邦により整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となる。その強固さゆえに武田信
埼玉・嵐山町の菅谷館、杉山城を訪れた後、東武東上線で更に北上。寄居駅で下車して少し歩く。やがて大きな川に行き着く。荒川だ。南岸は切り立った断崖になっている。この断崖の上に建つのが鉢形城(100名城 No.18)だ。鉢形城は戦国時代に山内上杉氏の家臣・長尾景春によって築かれ、のちに入城した小田原の後北
杉山城 続日本100名城 No.119 埼玉県比企郡嵐山町杉山 鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置して築かれた城。郭とそれに伴う堀や土塁のほか井戸跡などの遺構が残る。城主や築城年代についての記録は無く、後北条氏の時代のものと推測されてきたが、21世紀に入ってからの発掘調査により、戦国時代
菅谷館 続日本100名城 No.120 埼玉県比企郡嵐山町菅谷 比企丘陵中央の都幾川の畔に築かれた、鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠の館だったとされる城址。その後15世紀後半に至るまでの変遷は記録に無く、戦国時代に入り1488年、菅谷原で山内上杉家と扇谷上杉家が争い(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉
2024年ゴールデンウィークの前半最終日。終日自由に使えたので、日帰りで埼玉の名城を巡りに出かけた。埼玉は戦国時代に山内上杉・扇谷上杉・古河公方が三つ巴の争いを行うが、最終的には小田原の北条氏(後北条氏)が関東を平定した――という歴史背景を予め知っておくと、この後が分かり易い。東京・池袋駅から東武東