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2019/07/09

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  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    神が存在するかどうかの問題は人類の永遠の課題ですが比較宗教学・比較文化では存在論としての信ぴょう性はその筋の学者にお任せしています。その代わりキリスト教、仏教、ヒンズー教、イスラム教等の信徒を統計的、臨床的に洞察しつつ何を見ているか、神仏をどう見ているか、その信じ方のありようを洞察して「信じて見えているもの、見えないもの」を学問として理解しようと努力しています。例えば私の場合、カトリツクの三位一体の愛である神を信じた時に見えた親の愛は、信じる前のものと相当違いました。高校時代に洗礼を受けましたが煩い親の干渉が何とも言えない深い親の愛として理解出来ました。何気ない散歩の途中に見るアリの大群が自然の摂理という美しいものに変身しました。身辺の悲劇の奥にある意味を考えるようにもなり、過去の歴史の解釈も激変しました...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    大部前、ここで紹介しましたエリアーデの「世界宗教辞典」をお読みになると分かりますが、地球に存在している色々の宗教を良いとか悪いとかいう視点で見ようとはしていません。学問としてその宗教の姿を把握しようと努力している精神がこの世界宗教辞典から読みとれますし、何故、その地方にその宗教が必要であったか、という疑問への答えもキチンと書かれています。このようにこの比較宗教学・比較文化の視点は「信じて見えてくるもの、信じて見えなくなるもの」という視点から捕らえようと努力しています。高天原という概念はその国の権力の中枢がどんな所から生まれてきたかを国民に理解させ統治、管理、正中線を見せようとしていますし、えびす神社の「商売繁盛、ささもってこい」はめちゃくちゃにもうけるのもいいが、キチンと感謝しなさいよ、と錯乱をいさめてい...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    数年前、京都の「えびす神社」を参拝しましたが、その途中、にぎやかな楽典が聞こえだしました。その音楽を耳にすると、踊りだしたい気分になるのです。その衝動に驚いた事があります。インドの何とかというリズムに触れた時も身体が自然に踊りだして困りました。どの民族にも、どの人にでも、或リズムに触れると魂と身体が異常なほど、陽気になり、祈りと踊りが混在してくるのです。その時、聴きました「えびす神社」の「商売繁盛、ササもってこい」という言葉にも深い意味があるようです。商売が繁盛してお金が出来たら御酒をとどけよ、と私は勝手に解釈していますが、商売が繁盛した時に御酒を届けますが今は貧しい私を豊かにしてください、とも解釈出来ます。その人の成育史は、その人の身辺に生起する森羅万象からくる五感に触れた時、その解釈は、その人を幸せに...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    松本清張さんの最後の小説「神々の乱心」は実に面白い。私の推測ですがどうも乱心したのは大正期、昭和初期の皇室関係者の事らしく、某を巡る政治事件のようです。有名な大事件2・26の背景や満州での大連阿片事件も絡み私の世代では皇室に対して少々畏れ多い感じの小説で、ここまで書くのかなあ、大丈夫なのかなあ、と心配になる内容でした。しかしこの小説は奥が深く政治学者の某先生が解説の本を書くくらい複雑で難しい歴史を実に明快に書いた松本さんならではの推理小説なのです。昭和史発掘、清張通史、などの名作を書かれた小説家の最後の遺品なので私も相当気をいれて読みました。現代に生きる私たちがそろそろ意識化しておかないと本当の平和構築が難しくなる時代だなあ、とも思いました。戦争の恐怖は子供でも知っていますが、その戦争を生むまでの陰の歴史...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    太極拳の仲間との会話です。年齢は関係なく、太極拳が自分に大きな生き甲斐を与えているのを知り感動しました。さて太極拳を愛する身心ともに元気な方が大勢おられたせいもあるのですが、持病があっても病気の話は一切出ませんでしたが、生きるよろこびを追求する情熱に感動しました。好奇心が強く、それぞれが大好きな分野の勉強を楽しみ、かつ、この太極拳には、義務感からではなく強い興味に揺り動かされて精進している集団です。色々の哲学や宗教をもった人々の会合でしたが、共通の趣味である太極拳の仲間達が繰り広げるこの雰囲気に、こんなひびの幸せもあるのだなあ、と感謝しつつ帰宅した一日でした。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    あちこち日本国内を旅しますと古い神社に必ずそこに祭られている神々の名前が厳かに書かれています。その文章の中に「高天原」という言葉が出てきますと、人によっては、フン、と侮蔑的に解読する人がいるようですが、この高天原、という意味はイギリスでは「日本における権力の中枢を高天原」という、と教えられました。古代史でいう「高天原」を権力の中枢機関ととらえると案外楽しく勉強出来るのです。権力の中枢から、その地へ派遣された人、と解釈すると面白いのです。各地に現存している古い神社の社伝は正確な歴史学を気にする人々にとって笑いの対象となったりしていますが、ギリシャ神話にしてもエジプトの神話にしても、その深い意味、特に精神性を理解しないと目を疲労させるだけの書物となります。これから高天原という言葉、概念に触れた時、是非、権力の...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    1995年、ロンドンでのイギリスの大学関連学会での話ですが「もしエリアーデの世界宗教辞典という本が出なかったら、この学問の世界で思索しようとする学徒は相当、混乱していったろうなあ」と学会後の親睦ワインパーティーでの話です。それほどエリアーデは世界の人々に愛され尊敬されています。例えば彼が書いた日本の「神道」の頁を見た読者は非常に驚きます。その造詣の深さ、説明の正確さ、整理された文章は驚きです。古事記、日本書紀の説明はとても簡潔で美しいのです。私の心と人生を豊かにして下さったエリアーデを想いつつ、今から日本文化に潜在する世界共通の魂論からの話を京都の旅や奈良の旅を念頭にしつつ気楽に書いていきたいと思います。追記:比較宗教学がイギリスで発達した理由の一つは大英帝国イギリスの政治性とキリスト教を視点の中心に置い...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    3Vの法則という面白い原理があります。visualize,verbalize,vitalizeのvを言います。ヴィジョンを描く、言葉にしてみる、行動する、の意味ですが、長い人生の間に棚から牡丹餅、という珍しい幸運もありますが、それとても、平素、心の底で、そうありたいという願いを祈りのように唱えているから実現するのです。私は海外で色々の事故や事件に巻き込まれて人生を生き抜いてきましたが、心の底で人生最後の海外旅行は、こんな人々と楽しい旅をしたいなあ、と思っていましたが、そんな虫の良い旅はまずは無いだろうなあ、とも考えて生きてきました。どんな条件かと言いますと、同じ信仰を持った人、家族、魂を刺激しうっとりさせるフランスかイギリスの古い土地をのんびりと数名で旅行をしたい、そんな夢を持ち続けていました。大震災の年...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    どんなに厳しい環境と現実を迎えても人類にはそこを生き抜いていく知恵が必ず備わっています。但し錯乱すると、その現場を生き延びる事は難しくなります。恐怖感、憎悪、嫉妬等沢山の激しい感情が湧き出しますと、その人の心の自由を保持しようと大脳が働きだし、その激しい感情を防衛し、自由な心を保持しようと防衛機制という精神作用が働くのですが、それを知らないで、ひたすら感情に振りまわされますと現実吟味力を喪失して破滅していきます。飛行機事故で胴体着陸した体験は強烈ですが、自分を謙遜にしたようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    古代の治水がうまく出来ない時代は、川が勝手に流れ民を苦しめました。京都の鴨川、揚子江、アマゾン、インダス等、そのように私達人間もセルフコントロールをうまくしないと、川の流れのように最終的に何処に流れていくのか分からないまま漫然と生きていくこととなります。せめてどこに流れていきたいか、その行く先だけはイメージしたいものです。例えば信仰の場合は天国に直行したいなあ、という激しい願いを私は持っています。どこに流れて生きたいか、幸せな国に流れつきたいと思えば人間はそうなるようです。そんな話を以前テレビでお話しましたら意外の大きな反応がありました。自分は無宗教派だと名乗りながらもホモサピエンスの歴史は「あの世」がきになるものです。そんなときは祖先のお墓詣りを時々してみると思わぬ気づきに恵まれるようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    イギリスの大学の研究室には世界各国から集まった青年達がいました。プロフェッショナルサイコセラピストという学位を取る為です。しかし自信を持つ青年は一人もいません。教授は「自分は草原の小さな儚い草の一本」に過ぎないと思っていた青年達に元気を与える為にドーヴァー海峡の軍事要塞だったトンネル(第二次世界大戦の時、チャーチルがここでドイツのロケット爆弾を避けつつ指揮にあたった場所。手術室の隣が食堂だったり、戦死者を一時的に置く広い霊柩室があったり、人によっては亡霊を見る場所。暗い惨めな印象がありました)に案内した後、君達は草原の中の大木だ、というお話をしてくれました、そうして青年達が持つ個性の美を草原の中の大木に例えながら自信を持たせようと努力して下さいました。私は草原の中の柳だ、というイメージをその時以来、持ち続...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人は何かを考え、湧いてくる感情を処理しながら目的に向かって行動しています。今、人類は80億くらいいますが、それぞれの環境の中で、それぞれに相応しい思考と感情と行動のバランスを保持しないと人は破壊していきます。アフリカの少年兵のバランスの仕方とニューヨークのビジネスマンのバランス、精神病棟でのバランスは環境により全部違います。明るく元気に逞しく生き抜くバランスは80億通り存在しています。皆様のバランスとは?自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人前で堂々と振る舞える行動と、こそこそと人前では見せられない行動をとるのが生身の人間の常なのですが、案外、この裏の行動には貴重な意味が潜在しています。世間の常識を気にする人間ですので、自分もこの行動は裏の行動だなあ、と自信がなく、こそこそした感じとなります。しかしこの裏の行動を意識すると、その行動はその人の個性の美を天が暗示している貴重なシグナルである場合があるのです。例えば一人になりたくて、そーっと隠れるように部屋に姿を隠す子供を親はしばしば変な子、と非難します。しかし、その子は将来、有名な詩人になりました。目立ちがりやの変な子が有名な俳優さんになりました。変だと言われても変だ、と思わないで、一度、それは職業選択でも、生き甲斐の選択でも、何らかの意味がある行動なので、自己肯定しつつ変な自分の中に天命を見...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    嫉妬心は生身の人間が死ぬまで持ち続ける感情ですが、この嫉妬心を抑圧すると人は心の状態も生活も変になっていきます。消そうとしたり抑圧して見ないように努力するのも人間の美しい営みの一つではありますが、人間の心の仕組みを知っておくと無駄な努力をせず、無駄なストレスを感じないで爽やかに明るく元気に生き抜いていけます。湧き出す嫉妬心のエネルギーは強烈なので、そのエネルギーを転用して別な方向に向けるのです。例えば人に言えない嫉妬心がむくむくと湧きだしたらこれは変な嫉妬心(病的な嫉妬心)だから仕事で発散しようと決意し、かつ、その嫉妬心の理由、つまり理想と現実のギャップが嫉妬心なので、キチンとその理想(こうあってほしい、こうあるべきだ、という成育史上の想い)と現実を比較考察しつつ、その嫉妬心の原因を理性的に一応意識化して...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    生き甲斐の心理学では時々、慈眼と邪眼、という言葉を使います。少々、どきっとする言葉なのですが、人々が幸せに生きる為には、どうしても通過しなければならない概念なのです。皆様の周囲に良い人なのに何故か基本的な部分で人を信用していない人がいませんか?にこにこしていても最終的に人を信じていない人の疑い深い眼差しを邪眼といいます。この邪眼があるとその目つきで見られるとぎょっとして理由の分からない不安感と不快感に襲われ、何か自分が相手に失礼な事をしてしまったのかなあ、と自信喪失状態になります。この自分の邪眼に気付いた人が勇気を奮い起して相手を信じる努力を開始した人がいました。眼差しは正直です。犬や猫、その他の動物は必ず人間の目を見つめて判断しているように、目は正直に物を語りますので、その人は修行する内に段々と眼差しが...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    幼い時、幸せな雰囲気が突然、哀しい雰囲気や環境に激変すると、幸せな時間を避ける傾向が生まれます。誰もが、そうなる訳ではありませんが、両親が交通事故で亡くなると残された子供は幸福であればあるほど、幼いながらに、その突然の幸福状態崩壊を無意識の内に感じ取っているので、何となく幸福感から意識的に逃れる変な習慣を身につけてしまいます。私の幼少時代、幸せな家族団欒の後、父親が軍艦に帰っていく寂しさを体験したことが、しばしばあり、この変な習慣を意識化した後、初めてどう対処したらいいか気付いた話をテレビ第16回目で語りました。いわゆる幸福病、と呼ばれる話です。新しい愛、新しい幸せを自分から逃す人々は案外沢山いるのです。この世の天国も地獄も解釈一つでそうとう変わります。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    日々の生活の中で本音を語ると周囲とぎくしゃくする事があります。しかし深層心理の中では案外ストレスは蓄積しません。逆に社交を大事にして相当本音から離れた会話をしますと、表面は穏やかですが、深層にはストレスが相当、蓄積して、悔いだらけの人生を送る羽目になります。その方の環境により、この有り様は違ってきますが、長い人生の視点では偽りの自分、本物の自分というスタンスは幸福、不幸を歴然と形成していきますので、一度、偽りの自分、本物の自分という視点から自分の人生を反省してみましょう。きっと新たな生き甲斐が見つかるとおもいます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自然に湧きだしてくる自分の感情を恐れて、見ないように抑圧してしまうケースがあります。本来、湧き出してくる感情は生命の源のようなエネルギーがありますから、そんな勿体ない事はしないで、湧き出してきた感情を正しく解釈するとが必要です。湧き出してきた感情を否定することなく、その意味を考える習慣をつけていくと、湧き出す感情は天の恩寵かもしれないと、気付く事があります。その湧き出してきた貴重な感情の意味を考えていくと、人生が大きく拓け、豊かな感情生活、楽しい人生を送る事が出来ます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    天来の個性も、本人や周囲がその処し方を知らないと、変わり者扱いされて悩むこととなります。本人の個性の美なのか、病理なのか、その判断は大変難しく心理療法の分野では時々プロセススケールを使用します。この種の専門の勉強をしませんと識別は難しいのですが、それだけに折角の個性の美を本人も周囲も駄目にしていきます。人は悪いところを平然と気楽に口にしますが、良い所、美しい個性を誠実に見出し、それを育てる親も先生も、周囲の人も、案外いないのです。ここで注意したい点は、周囲が自分を否定してきても、まてよ、これは案外、天来の個性の美なのかもしれない、と疑う事が必要なようです。自分は変な人間だと簡単に思わず、明るく元気に生きるために、変だと言われても、ひょうっとして、それは個性の美なのかもしれない、と考えてみて下さい。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人間は凄惨な場面に遭遇し、辛い事を自分の五感で体験すると、それを癒すのはやはり自分の五感でしかありません。南米で政治暴動にまきこまれ目の前で身近な人が目の前で亡くなるという体験もしました。その折の硝煙の香り(嗅覚)、凄惨な場面(目からの視覚からくるもの)、人の死の叫び(聴覚からくる心の傷)等を癒すには、やはり同じ五感で感じる美しいもの、心地よい香り、暖かい触角で癒さないと人は立ち上がれません。信仰の神様の愛すらも疑うともはや切ない状態に陥ります。この時、チリの友人の山荘での親切さを生涯、忘れません。感謝、感謝でした。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人間の自問自答で一番辛い質問がこの「生きる目的」かもしれません。80億の人間が一人一人この生きる目的が明確であれば果してどんな歴史が展開されていくでしょう?私の推測ですが、明確であれば今日の平和も文化も学問も、こんなに発展していないと思います。疑問だらけの人生ゆえに、人は悩み、苦しみ、何かを追求していくのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    私達はそれぞれ、家庭や社会の環境の中でさまざまな方に愛されて育ちます。思い出しただけでほのぼのとする幼い頃の風景を「愛の原型」とか「愛の原風景」と定義しています。厳しい現実を生き抜いていく時、この暖かい思い出は生き抜くエネルギーになっています。この貴重な愛の原型を大切にしながら生き抜いていきたいものです。私が幼い頃、葉山の自宅の二階で三浦半島に立てこもりアメリカと一戦しようという海軍の大佐クラスの密談で、私の父親が反対し軍刀で切られそうな場面を私の母の一案で私も協力して、その悲劇を防いだ思い出があり、その折の母の優しさが私の愛の原型の一つを創りました。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    周囲の人々から見ると、資産や健康や家族に恵まれているのに、本人は不幸だ、と嘆く人が身近にいませんか?この場合、幸福という概念について二つに分けて思索させると簡単に解決する場合が多いのです。「幸福の条件」と「幸福感」の違いについて説明していきます。幸福の条件とは希望する収入、結婚の条件等を言います。幸福感とは理屈でなく感覚的に感じる感情の世界の事です。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    私達日本人は飛鳥奈良時代から万葉集などで読み取れる独特の美しい感性をはぐくんできた民族です。平安時代の源氏物語、その後の武道、茶道、平家物語でみられる、もののあわれ、わびさび、幽玄美、甘えの構造などの精神構造もありますが、その民族独特の愛の孤独感を案外、西洋の心理学は病理として処理する傾向がありますが、民族独特の精神文化を、そう簡単に病理扱いされたらかないません。民族の良さを信じつつ生き甲斐の心理学を考えていきたいと思います。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    怒りの感情の裏側には、必ず優しい友好的な感情が存在しています。ですから体が震えるような怒りの感情の裏側には聖パウロのように愛ゆえの深い優しさが存在しています。人の身体は神の神殿だと言われているように怒りの反対には必ず友好的な感情が存在している事を信じると人生に希望が生まれてきます。どんな場合でも解決策はあるゆです。安心して生きていきたいです。自分の悩みを気楽に語り合える友達が大切ですが、これがまた案外難しい。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    数年前ですが、或る或学校の父母会を対象とした「生き甲斐の心理学」の勉強を開始しました。中学一年生のお父さんとお母さんから高校三年生及び卒業生徒の父母様が対象でしたが、どんな新しい方が参加してくださるか、とても楽しみでした。人生は本当に面白く、かつ、厳しいものですが、この勉強会では、これからどんな困難が押し寄せてこようとも逞しく明るく爽やかに生き抜いていく知恵を心理療法的な視点から学び合いたいと思っていました。人間の出会いは非常に神秘的で深い意味が、そこに潜在しているようで、人との出会いは私には神との出会いのような気がします。一期一会とはよく言ったものです。どの勉強会もそうですが人々の個々の生育史の軌跡はどれも同じものは一つもなく、それぞれが個性的で美しいものです。その美しさに気づかない人が多いのは残念です...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    日々の生活の中で感じる不安感をばねに逞しくその不安感を利用して自分の理想を達成していく逞しい人と、逆にその不安感に支配されて挫折していく人が居ますが、この違いはどこから来るのでしょうか?また不安感を意識化出来た人はその反対側に平安感が近づいてきている、という仮説をご存じでしょうか?不安感と平安感は同じもので兄弟なのです。不安感が解決すると、その人にとっての本当の平安感が、すーっと現れます。本当の厭らしい不安感は、そのカオスの世界に漂う事例なのです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    私達はストレスを感じる、としばしば口にしますが、その実体を知る人は少ないようです。自分が朝、目が覚めて夜、寝るまで、具体的に何がストレスなのか、時々明確にしないと身体症状が出る場合があります。その人の成育史で培われた理想(こうありたい、あらねばならない、という想いを生き甲斐の心理学では理想の領域と定義しています)と現実のギャップがストレスなので、このギャップはきちんと聴いていかないと他者にはわかりません。ストレスの実態をしるのに薬は不要。薬で、どんどん健康を害している方々が多すぎます。成育史で無意識につけた危険な思想を再点検し、今の悩みはどんな理想と現実のギャップから生まれているか、気楽に点検してみましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人生を楽しくする薬なんてありません。しかし楽しく生きるコツはあるようです。難しい事を考える前に、どうしても実行しておかねばならない5つのポイントがあります。十分な睡眠、ほんわか気分、歌と踊り、遊び、自分の生き甲斐と目的の5つです。私の体験談を通して、テレビ「心のともしび」第4回目(1991年11月10日)で語りましたら意外と好評でした。この言葉は、どなたか忘れましたが、確か、有名な精神科医の先生だったような記憶があり、この言葉で私は救われています。33年前の話ですが、この素晴らしい言葉はホモサピエンスの大脳の組織を知り尽くした大先生の言葉だなあ、と改めて、この先生に感謝しています。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自分を大切にする、とはどんな事でしょうか?世界の比較宗教学を学ぶと共通した3つの項目に出会います。自分の魂を大事にする(死んだらどうなるのか、を含めた信仰の領域)、自分の成育史を大事にする(良い思い出も悪い思い出も大切に扱う解釈の方法を自分の成育史を通して学習していく)、自分の身体を大事にする(健全な健康を保持する)、この3点、とても重要な点のようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    毎日の喜怒哀楽はとても大切な感情で、この感情の変化を楽しみ、かつ、生き甲斐とする芸術家、音楽家、絵描きさん、作家もいるくらいです。感情の変化は意思と関係はありますが、身体が身辺の森羅万象に応じて対応する素晴らしい人間の機能です。この感情の推移を観察する余裕が、自分の生き甲斐とは何かを模索する上でも良い薬となります。10年も病棟に生活した人が窓の外の森の四季折々を和歌と俳句に託して詠む生活を生き甲斐とした事で、退院していかれました。このような奇跡に近い現象も人間には起きるものですが、それもこれも自分の生き甲斐とは何かを追求し、意識化した賜物です。こんな話を私の体験談を通して、テレビ、ラジオの「心のともしび」で語りましたら大きな反響があり、感動した記憶があります。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

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