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2019/07/09

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  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    第12話のこの有名なキリストのセリフは私の青春の大事な哲学でした。この意味を考えるのに何十年もかかりました。今は、この言葉ゆえの安心感にみたされていますが、当時の私はこの言葉の意味を探るのにわざわざお金をかけて海外の学会、メキシコ、アメリカ、イギリス等の学会に足をのばします。思索し命をかけて探究する人生は面白い!自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    死ぬ時は、覚悟を決めれば、それ相応の落ち着きが出るのは私も海外の事故や暴動の際に経験していますが、十字架上で、今から共に死んでいく隣のキリストに「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われた人は本当に幸せだなあ、と私はしみじみと思います。同じ死に際に、キリストにこう言われた人の人生は何と幸せ者、羨ましい限りです。この人の人生はテロリストとか強盗とか言われていますが、真実は果してどんな人生だったのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    公衆の面前で恥をかかされ侮辱された経験をお持ちですか?第10話はそんな話です。私の事例は大した話ではないのですが、大学病院で徹夜の治療が終わり疲労困憊して中央線で居眠りしていると、誰かが今の若いものは恥をしらないと会話しているのが耳にぼんやりと、聞こえだしてきました。老人に席も譲らない、けしからん、と隣の人と話しているようす。おれは剣道4段、体を鍛えていて強いんだ、とも言うのも聞こえてきます。そろそろ目が覚めた私は、ひょっとして私が特別席に座りこんでいて、段々と混んできているのかもしれない、と確認して窓を見ると、私が座った席は特別席でした。私が40代頃の経験です。あ、寝たふりをした奴が目を覚ました、とその人は叫びます。しまった、自分の事だった、と私は思い、急に恥ずかしくなり、降りる必用のない駅で降りようと...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自分が無実の罪で死刑台に向かう、私はそんな体験が無いので何とも理解出来ませんが、歴史上の人物で、自分の事でななく、周囲の人々の幸せを心底願う人物も案外いるようです。自分が体験しないのに、語るのは少々気がひけますが、想像するだけでもぞーっとする、そんな場面の時でも、周囲の人々の事を気遣いながら死んでいく人物もいるようです。第8話はそんなキリストの物語ですが、考えてみれば、私の身近にもいました。臨終のときに、自分のことよりも子供たちの将来の幸福を苦しい息の下から語り続けた母親と父親の事を考えて、改めて親の愛に感謝しました。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    私は何回も恩人を裏切り、そして生き延びてきたような気がします。私に期待して援助してくれた沢山の先輩、しかし、色々の事情で道を変えて生きねばならない環境でもありました。その良心の呵責について今、再考すると、もし、あの時、先輩の期待を優先していたら、私は事故死していたし、病気になっていたでしょう。沢山の事例を今、どう解釈したらいいか、結論が出ませんが、天国で再会した時、多分、許してくれているのを確信します。生き延びる事が、案外、最大の十字架なので、人生の折々に、必死で生きてきた自分を、そろそろ許したあげようとも考えています。この十数年は何とも幸せで沢山の仲間に恵まれ、生き甲斐支援活動が自分の生き甲斐ともなり、家族、知人、恩人たち、そして神様に感謝です。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    十字架の道行くの第7話は、こんな事を私に思いださせました。正しい事をしたのに何故、世間は自分を叩くのか?20-50代くらいの時に、このような正義感に苦しんだ事のない人生は少々、問題があるかもしれません。正しいと信じて事をなす、しかし、世間は認めてくれない、この悩みがある人生と、そうでない人生は再考の余地があります。誰でも正義感というものがありますが、その正義感はどこからくるかといえば、魂から来ている、と言われています。段々とその正義感も世間から、もまれていく内に儚く消えていくようです。正義、正義と叫んでいると周囲がその人を排除していくからです。その人に相応しい正義の発露の姿を悟るのでしょう。どれが良い、悪い、は言えません。表題の言葉は、キリストが十字架を背負い、倒れ、もう疲れ果てた時に、つぶやいた言葉らし...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人生の途上で恥を受けている最中に私に手をさしのべてくれた恩人を思い出しています。恥を受けた原因が私の至らぬ所から生まれた場面であろうがなかろうが関係なく辱を感じている最中に、堂々と私の味方となり共に世間に立ち向かってくれた人々、その人々を今、想い出しています。十字架の道行・第6話にベロニカという女性がキリストに汗と血を拭う為に布を差し出す場面がそれです。私のベロニカには男性も女性もいますが、特に30-40代にかけての男ざかりでは海外を含め見も知らぬ人々がそうでした。冷戦時代のモスクワのあの神父さん、文化大革命での逃亡劇でのあの農夫の方、今は、もうこの世にいませんが、こうして私は生き残り、今、本当に幸せな日々を送っています。恩人たちに感謝。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人間は無意識に事件に巻き込まれたり巻き込んで生きていきます。人にしばしば見られる現象ですが、自分をさしおいて人を咎める現象がありますが、自分の理想の領域から人を批判してしまう現象は互いに戒めたいところです。私も今まで随分と人を巻き込み迷惑をかけましたし、巻き込まれて困り果てました。第5話はたまたまシモンという人がキリストが十字架を背負い疲れ果てて倒れた現場にいたばかりに、その十字架を背負わせられた事件がありました。キリストも、あーあ、申し訳ないなあ、と思ったでしょうし、シモンも、ああ、馬鹿馬鹿しい、運が悪いなあ、と感じた事でしょう。後日談ですが、このシモンという人は信徒になったそうです。ゴルゴダの丘で磔にされ死んでいったキリストに何かを感じたのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    第4番目に出てくる「十字架の道行」の場面は自分の息子が十字架にはりつけにされ、苦しんだ後に息を引き取るのを見守る母親の心境を考えさせられる場面です。聖母マリア様のこの場面は絵画、音楽でも表現されている場面です。この出来ごとの解釈を私は無駄にしたくありません。贖罪と復活の思想があるので私は自分の成育史での罪悪感や周囲の人々へ迷惑をおかけした咎の意識から解放されて元気に明るく生き抜いていますが、この贖罪の思想を信じるかどうかは人類一人一人の自由意思の問題なのですが、この成育史上の咎の意識だけは信仰の領域で哲学や科学では解決できません。息を引き取るときに素直に神様に自分の魂をゆだねて死んでいってほうしいなあ、と親友達に心の底で願っています。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    身体が病気でも健康な精神を所持している場合もあれば、精神が多少参っていても身体は病気ではない、という事例は沢山あります。しかし出来れば身心共に健全でありたいものですが、人生、なかなか、そううまくいきません。有難い事に私の周囲には多少、いろいろありましても明るく元気な人が多く、私は本当に幸せです。いつも何かに挑戦しつつ元気に生きている人々に囲まれている私は、どうその喜びを報いたらいいものか、と思索を巡らせます。ですから私が人々の生き甲斐に興味を持ちあちこちで勉強会をするエネルギーも案外、この感謝からうまれてくるのかもしれません。短い人生を益々こうした明るく元気な人々と手を携えて生きて生きたいものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    同じ信仰でも「神様は愛そのもの」と信じている人は案外少ないようです。信じる度合いは測りがたいのですが愛だと信じている人と交際すると、生きる事がとても楽になり楽天的というか不安が消失していくのを感じます。この人はどうして楽天的で心配がないように見えるのかなあ、と観察すると神様の愛情を深く信じているので、身辺の森羅万象の解釈が極めて明るいのです。人生に生起する沢山の問題は経済問題、人間関係、どれもこれもそう変わらないのですが、いつも希望を失わず、多少辛い事があっても、それは試練だと解釈して、避けることなく正面から堂々と取り組んでいきます。神様の愛を信じて生き抜いている人との交際はとても元気になります。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    家族同志、心から仲良く心の交流が出来る人々は本当に幸せです。二人だけの世界も幸せでしょうが、家族同志が付き合い、交流の後、何とも幸せな気分になれる人生は最高かと思います。愛がある世界はこの世の天国ですが、何故かそういう人々はいるようでいないようです。ある家族は何故、こうした幸運に恵まれるのでしょうか?答えは求めているからでしょう。求めていればいつか必ずそうなるのが人間の世界だと信じたいものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    日々十字架を背負い、人々との愛に生きる事が幸せへの道、と言われますが、これはどういう意味なのでしょう?自分から十字架を求めなくても日々十字架ですから、辛いこと、哀しい事、嫌な事があれば、自分なりに堂々と戦い生き抜く事が大事で、泣き寝入りしたり変な我慢をすることだ、と勘違いしている人が多いようです。十字架を背負うのはあまり良い事ではなく、身の丈に合う十字架ならいいのですが、身分不相応で気障な十字架を偽善者のように負う見苦しさは避けたいものです。どうして食べていけるか、その苦労は大変な苦労で、生き抜く事がすでに十字架だ、という人々を私は大勢知っています。周囲の人々といかに仲良く明るく元気に生き抜くか、という考え方が人々と愛に生きる、という事でしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    平家物語を読んでいますと武士が死を迎える時、もはやこれまで、と正しい判断をして堂々と死んでいく武士と、判断上はまだ生き延びれるとあばれますが、見苦しくばたばたして死んでいく武士が見られます。この往生際の判断は現代の私たちにも通じますが、自分の死にぎわは、堂々とさっぱりと美しく死にたいものです。現実吟味力がきちんと働いてくれるといいいのですが、果しして自分の死は、どんな風に終わるのでしょう?キリストという人の死に際は壮烈ですが考えさせられる死に方です。改めて私は「信仰の弱い私を助けて下さい」としか祈れないようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    心を病んだ人の特色は、とにかく直ぐ救われないと機嫌が悪いのです。正常な状態では、この事例は相当勉強しないと駄目だな、と分かりますが心を病んでいる時はせっかちに直ぐ、直して下さいと嘆願します。急いで助けに来て下さい、と祈るこの十字架の道行という祈りはだれが制作したのでしょうか?病んだ人類の気持ちを実によく理解した人が作成したのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    このカトリツクの伝統的なお祈りは何時頃から人類社会に生まれたのか知りませんが、とても面白いお祈りです。心理療法で時々使用されたのですが、どんな時かと言いますと、精神病者の苦悩が理解出来ない時に、この祈りを自分が患者さんだと想定して祈りつつ、患者さんの苦しみを理解する為に、応用させていただいたのです。宗教家に怒られるかもしれませんが、この祈りほど、人の苦悩を救う祈りはありませんでした。苦しむ人の叫びは旧約聖書にも沢山ありますが、本人の立場で苦しみを訴え、かつ、同時に、何かを悟らせる手法としては、この祈りは優れたものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    なんで今頃、持統天皇なのか、とお考えでしょうが、この女性を調べていくと、実に面白いのです。例えば彼女が生まれた時が大化の改新です。天智天皇の娘としてこの世に生をうけますが、蘇我系の母親は陰謀により天智天皇に嫁がされたようなところがあり、そのうち、母方の祖父は罪がないのに父親である天智天皇に殺されていきます。この時代・飛鳥奈良時代は日本人の原型が形成された時代で、古事記、日本書紀、万葉集と、とても大切なものが生まれています。汚れと禊、この思想は今でも現代を支配していますし、和の精神を大事にする思想も現代に生きています。この女帝の時代は暗殺、陰謀、謀略と凄まじい歴史がありますが、逞しく生き抜くこの女帝の生命力は現代のよわよわしい男女が学習したい逞しさを教えてくれていますので、時々、彼女の話を書いてみます。生き...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    心が自由な状態の、どのケースが自分にとっての最大の自由度か、という意識がありますと、大分、生きる事が楽になります。私の場合は色々ありますが、海外での飛行機事故での体験がそれに該当します。胴体着陸の突入時に複雑な心の体験(恐怖感、短い人生を恨む感情等)をしますが、その後、諦めの感情が湧き出し、さらにその後には遂に来た死の覚悟、そして、全てを神様にゆだねた時の心の自由度が、最高の自由感、自由度でした。この爽やかな自由感は、この後にも先にもありません。この自由感が我が人生での、その事件以降の尺度になっています。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    会話をしていますと、この方は何と頑固な人だろう、こんなに心が固定していたら、息も出来ないのでは、と感じてしまいます。私も時々、頑固だなあ、と言われますが、頑固と言われた場面を分析すると、相手の言う事を私が素直に聞かない場合とか、相手の思い通りにならない場合のようです。さて、自分の心に絞り込んでみます。つまり自己分析をしてみますが、私は自分の心が今、自由かどうか識別がつきます。つかない場合もありますが、平安感がある時は自由ですし、機嫌の良い時も自由です。逆に不安感にみちみちている時、怒り狂いたくなる時は心は不自由でストレスがどんどん蓄積していくのを感じます。不安感になると、身体が心を安定させようと防衛機制が働きだします。この防衛機制が働きだすと益々ストレスが蓄積されていきます。悪循環です。頑固な自分の時は非...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    数年前の話ですが、l那須の某所に勉強会で出かけましたが新白石から黒磯行きに乗ろうと待っていますと職員が来て、数名のお客にカラスがレールに石を、いつものように数個載せた為、15分くらい遅れます、と挨拶にきてくれました。可笑しいなあ、と笑いましたが、その後、事故にならずに助かった、感謝だと思い直しました。カラスに聞かないと真実は分かりませんが、私は今後、たびたび出かける場所なので、どうしたらいいかなあ、と思いました。その常習のカラスが元気に生きている限り、この遅れは時々あるかもしれませんし、JRの対策を待つしか私としては手のうちようもなく、覚悟だけはしておこうと思いました。私を迎える駅では、いつもの担当の方が迎えに来ていますので、その都度、遅刻を電話で知らせます。大事にいたらないといいのですが!自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    生きる喜びは大脳の領域の深い部分にありますが成育史のありようで相当捻じ曲げられています。倫理学、医学、心理学をきちんと勉強し、どこが捻じ曲げられているかを学問の知識からあぶり出す必要があります。その一つに意識の混濁、つまり赤ちゃんの状態と成育史で相当捻じ曲げられた要因をあぶり出す心理療法をしていきます。赤ちゃんの時代は遺伝学を除き、実に素直な喜びですが、成育史がそれを色々と複雑に育てあげています。70億の人類は環境が全部違いますので、それぞれの喜びが違い、捻じ曲げられ方も違います。その人に合う修正作業をしつつ、健全な生きる喜びを本人に意識化してもらいます。ブログでは説明が難しいのですが、プロセススケールの7つのポイントで検討していく、という手法があることを意識しておいて下さい。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    私にはとても信じられない「生きる喜び」もありました。生きる喜びの内容を調べると、犯罪的なもの、異常なもの、いろいろです。健全な喜び、病的な喜びを、どう識別するかは難しい問題ですが、その所属社会での常識も識別の一つでしょうが、病理論から言う識別は普通は「プロセススケール」を使います。テキスト:生き甲斐の心理学、の第3章です。:自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    色々の困難に遭遇し、もう駄目だと思いつつも、なんとか努力して「生きていて本当に良かった」と臨終のときに思えたら、その人生は素晴らしいと思います。このような事例もいいのですが、出来れば、今、生きる喜びを感じたいものです。生きる喜びは苦難を乗り越える時も感じますし、愛する人と一緒の時も感じます。しかし、この生きる喜びは案外、危険なものもあり、健康な生きる喜びもあれば、健康でないものもあります。そのあたりを思索してみましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    成育史が違うので心の自由のありようも人により全部違います。生き甲斐の心理学では自分の心が平安感、友好的感情、健康感、幸福感、統御感を感じているかどうかを、識別として使用していますので、この幸福曲線を感じている状態のことを心の自由の状態、と定義しています。逆に、不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱の状態のときは非常に防衛機制が働いている状態なので心が不自由な状態、と定義しています。この基本状態を基準に話を進めます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    「心の自由」って何だろう?今から色々と考えてみたい。もともと心が自由,という意識そのものが相当違いますので、生き甲斐の心理学が学ぼうとする講義内容は案外難解です。私が言う心の自由とこのブログを読んでくださる方の心の自由は、どのような違いがあるのでしょうか?それぞれの成育史での最大の心の自由について思索を深めていきます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人が美しいと感じる理由は確かに学問の対象になります。赤ちゃんが嬉しい時は手足をばたばたさせて喜びを表現します。幼稚園児も美しいと感じたら素直に表現します。世界にその理由を書いた本は無数にあり私も沢山読みましたが、それなりに納得はしますが、何かもう一つ不満でした。難しい理由を読めば何か深い勉強をした満足感はありますが、ふーんと思う程度でした。赤ちゃんから高齢者まで、美しいと感じる理由をいちいち理論的に理解し追求する必要も無いわけで、感動は感動として素直に感じ取ればそれで十分なのですが、最終的に私が納得した理由は人間が所持している魂に触れたからだ、という神学論でした。魂は永遠不変なもの、老いることもなく、病むこともない、愛そのもで、真善美そのものに近いもの、臨終と共に、身体から離脱していく知的生命体である、と...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    sさんの臨終での表情と天国への旅たちへの喜びを体験した私は、何故、こんなに感動し、かつ、その死を美しいと感じたのか、今でもよく分かりません。母や父の死はひたすら哀しく泣いていましたので私は何と冷たい人間なのだろうとも思いました。他人の死だから、そう感じたのだろう、とも思いました。しかし、正直、その臨終の場面では医師も看護師も感動しているのです。私ばかりではないのです。何故でしょう?自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人の臨終は、その人の全体を現わすようです。イギリスの終末治療で遭遇した日本人のsさんは戦後貨物船でイギリスに渡り成功を目指しますが病に倒れ若くして終末治療を受けていた折に私と遭遇します。ご縁があり洗礼を受けられましたが、その信仰の力に私は衝撃を受けました。私は風邪で熱が出てると気が小さいので大騒ぎをしますがsさんは激痛が来ても顔色を変えずむしろ何かに、その苦痛をささげているような喜びの表情さえ浮かべているのです。本人に聞かないと分かりませんが、そんな事は誰も聞きません。苦痛を神様に捧げているような感じを私は受けました。息を引き取る数分前でも小さな声で生きてこれたことを感謝していました。そして自分は今から憧れ続けていた天国へ旅立つと確信を持って、その喜びを私に伝えるのです。このような信仰の力を私は初めて体験...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    皆様もそうでしょうが沢山の死にゆく人々のうわごとを聞いてきました。昔、親しい神父さんとビールを飲んでいる時に、私が臨終のときに昔の恋人の名前を呼びそうだといいましたら、同じ名前でなくて残念だね、と冷やかされました。幼稚園時代のガールフレンドから始まり、それぞれ名前が違うわけで、臨終のときは誰の名前を言いながら死んでいくのでしょうね?今から修行して臨終のときは「神様」と本気でうわごとを言いたいものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自分の心の流れゆく先を天国だと思えばそう感じてくるし地獄だと想えばそう感じる理由は何だろう?暗いと思えば暗いし明るいと思えば明るい。「記憶は嘘をつく」という名作がありますが、お読みになりましたか?1997年第2版の本を私は愛読しています。大脳での想いが人を左右するし、大脳の記憶は案外、いい加減だというお話。講談社、作者はジョン・コートルさん。自分の大脳を盲信すると悲劇に襲われますので注意しましょう。色メガネをかけるとそう見える話ですが、心の世界は本当に不思議な世界です。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    最近の私は領土問題を吹きかけられた時は、その問題は政治家に任せていきましょう、と無理をしてでも、その話題を避けます。あえて楽しい話題、平和を築く話題をするように努力しています。もうこれ以上、領土問題を庶民の私が議論しても空しいばかりだからです。平和構築に命をかけることはやぶさかではありませんが、政治外交の尻馬に乗る危険を感じたからです。現実をどう解釈するか、は私の自由ですから、皆さまも現実をどう解釈するかは他人に侵害されないようにして生きていきましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    時々買いに行くパン屋さんのおばさまは、とても元気で明るい女性です。年のころは50代?目が合いますと心から二コリとして下さいます。その眼差しは慈眼に満ちていて、人間に深い関心があるまなざしです。他の職員も、食べていく為の仕事として礼儀正しくはしていますが、あまり人間が好きで無い人が、そのパン屋さんで働いていると、この方は夕方ともなると、疲労感を感じるだろうな、と辛くなります。本人に聞いてみないと正確なところは分かりませんが、いきいきと生きている人と、そうでない人とは現実を吟味する力が多少あれば誰にでも分かるものです。その体格の良いおばさまにお客の声がかかるので忙しそうですが、それでも親切にお客をさばいている姿にほれぼれします。パン屋の仕事が大好きなようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    その理由は「現実吟味力」があったからです。生き延びてきた今の自分を褒めてあげましょう。褒める力が生命力なので自分も他者も褒めてあげないと人減は駄目になります。おだてが上手、という事もあるでしょうが、誠実に、素直に自分と他者を見ると、本当に可愛くなります。弱い人間、不安が本質の人間であることを意識しましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    生き甲斐の心理学を勉強していきますと長い人生での自分の現実吟味力がいかに低かったか思い知らされるので、ついつい修行してこの現実吟味力を高めようと決意します。この修行は学徒としては謙遜な態度で素敵な心構えなのですが、ここでは赤ちゃんから高齢者まで、また、学問があろうが無かろうが、どんな人間にも自然に備わっている現実吟味力を再確認したいのです。赤ちゃんは空腹な自分を吟味して意識化して泣きだします。危険な状況になれば普通の人は危険だ、と意識出来ます。これがここで言いたい現実吟味力です。自分に現実吟味力が無いと思うと自信喪失ですが、人間誰にでも備わっている現実吟味力を信じると、それなりに見えてくるものがあります。自分が本来、所持している現実吟味力を一度、素直に信じて生きてみましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    意思あるところに道あり。これも古代からの名言です。さてどこに流れたいか、という答えはいかがでしたか?自分の人生の流れゆく先を、どうしたいか?心理療法の仕事を長年していますと殆どの人は諦めています。運命にはさからえない、と。そうかもしれませんが、ここで道が分かれています。運命にはさからえない、と意思する人は、そのような人生を歩いています。意思があれば苦しみが同時に発生しますが、いきいきと明るく元気に歩いています。さてどの領域を優先して考えていきましょうか?比較宗教学とか比較文化学では、この問題を3つに分類して思索します。魂の領域(宗教学)、成育史(生き甲斐の心理学)の領域、身体の領域(基礎医学)の3つです。この3つの領域での「流れゆく先」を一つ一つ思索していきます。楽して手に入れようと思う人は無理でしょう。...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人は考えた通りの人間になる、とは古代から伝わる名言ですが、100パーセントその通りだとは言えないものの、案外、経験的に、その通りだ、と思います。自分の人生が何処へ流れていくか、という問いかけも重要ですが、この古代からの名言を並列的に考えると、どこに流れるか、という前に、どこへ流れたいかという自問自答をしてみたいと思います。どこへ流れたいですか、と質問すると殆どの人が即答出来ません。何故でしょうね?皆さまも明日まで楽しみながら思索して下さい。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自分は将来、何処に流れていくのだろう?と、ふと思います。あまり将来を考えるのも過剰反応を起こしてエネルギーの浪費をするもの考えものです。そうかと言いましてぼーっとして、その問題を避けて通るのも人生を駄目にしていきます。時々は立ち止まり、流れゆく先に想いをはせるのも人生を刺激して、マンネリズムの弊害に陥るのを防げるかもしれません。惰性で生きる事はとても恐ろしい事です。流れゆく先を明るくしておくか、暗いもののままにしておくかは、やはり本人の責任です。この流れゆく先について暫く考えます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    何かを信じて見えてくるものは沢山ありますが、信じた結果、戦争をしかけたり、暴力をふるったりするのは、多分、異常な信じ方でしよう。信じた結果、人を大事にする、平和を愛する、戦争を防ぐ、法治国家での犯罪を減らす、暴力を否定し平和構築に専念する、という結果ならば、その信じ方は健全でしょう。信じる力は強いだけに、この信じて見えてくるもの、見えなくなるもの、をキチンと勉強してもらいたいものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    歴史をより正確に学ぶ事も楽しいのですが全国各地に散在する伝説もまた楽しいものです。私が疎開していた越後の山奥に面白い話がありました。第二次世界大戦が終わり疎開した所に伝わる民話です。その民話はいつ生まれたのかわかりませんが多分、江戸時代にはすでにあったと思われます。その村の民話ですが、大変貧しく食べるものも困っていた家族がいました。5人の妹と弟がいましたが、優しい一番人上のその娘は、あまりにも貧しい自分の家族の生活振りを何とか助ける為に村の北側にある山の中の小さいけれども底なし沼に行きます。その沼の神様に祈り、自分はこの身をあなた様にささげるので、この沼のほとりに毎日、ご飯を沢山、沼の岸辺に置いて下さいと、大きな石を胸にいたいて飛び込みます。沼の神様はあわれにおもい毎日、大きな大きなおにぎりを一つだけ沼の...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    大部前の話ですが、江ノ島の腰越で勉強会をしていた頃、富士山と江の島が実に美しく良く見えた会場でした。江ノ島と富士山が見えると、人生が何とも楽しくなります。NHKの大河ドラマは世間が何といいましょうとも、私は毎回、興奮して楽しく拝見させていただいています。NHKならではの楽しい番組がありました。それは伝説なのですが、高知県越知町の横倉山確証記の中にあるお話でした。壇ノ浦で入水した安徳天皇が生き延びて、その越知で28歳まで生きていた伝説の話です。草薙の剣が出ていたりします。もうひとつ、宮崎県椎葉の話です。平家追討に出かけた那須大八郎が平家の落ちのびて隠れ住んでいる椎葉に行く、そこでたまたま会う平家の姫様・鶴富姫と恋に落ちて、そこに住み着く話でした。何とも興奮するお話でした。ギリシャ神話にしても世界各地に散在す...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    色々と心配な日本国の行く末ですが、さあ、何が大事なことだろう?国際間の問題、経済の問題、人間関係の問題と山積していますが、ここで一番大事な事は人間の中に潜む魂の定義のようです。人種が違い、国がちがっても、人間が持つ魂は愛そのものであることを信じてみましょう。魂は病むこともなく老いることもなく臨終と共に身体から離脱する知的生命体である、という魂論を信じてみると、人類のそれぞれの成育史と身体は70億とおり存在しているので成育史と身体は戦争を好むかもしれませんが魂は互いに愛しあうことを求めています。この魂を信じれば、何とか平和構築の機会を発見出来そうです。中国、韓国の人々の魂を信じて何とか平和構築の道を探し、平和憲法を大事にしながら、その布石に命をかける時が今の日本人に求められているようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    大部前になりましたが、NPO法が改正され役員の任期及び代表権などの登録で法務局を訪問しました。とても親切な係官がいて楽しく勉強しながら遂行できました。世の中にはこんな親切な人もいるものだなあ、と感激しました。さてこうして難しい法務局の登記も完了したからには、あとは、世の中で生き甲斐を求めている人々に役立つ勉強会を全国で展開したいものだと考えながら帰宅しました。生き甲斐の心理学は何の為にこの人生を生きねばならぬのか、押し付けでななく、その人が考えている、その答えを、世界的な理論を使用しながら、その答えを本人にあぶり出してもらう勉強会を展開しています。自分で自分の答えをこのテキストを使用しながら勉強するのはとても楽しいものです。さて、その親切な係官は私たちは、私たちの会報を見ながら素敵な仕事をされていますね、...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    持統天皇をめぐるケースレポートを私たち専門コースの講座生徒は書かねばなりません。何故かと言いますと日本人のアイデンティティーを研究していかないと、この国の人々の生き甲斐を理解することが不可能だからです。万葉集は西暦759年に生まれ現代日本人の美意識を形成しているのが和歌です。そのような飛鳥、奈良時代の精神文化を学ぶ必要があります。この持統天皇は大化の改新の年に生まれは波乱万丈の人生を送り、天皇として最初に火葬された方です。鉄の女と言われたこの天皇を色々と勉強していくと、その時代が面白く学べます。この方に焦点を当てて日本人の性格形成を調べると現代の日本人が理解出来ます。心理療法の理論は西洋で生まれていますので、大和人の個性の美と病理を混濁することを防ぐ為です。比較文化をキチンと学ばないと現代日本人のストレス...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    沢山の親しい人々の死を見てきたわけですが、何とも凄い場面を体験しました。その方は私の心理療法でかかわったかたですが、若い頃から暗い道を歩んでこられ刑務所にも何回か入ったかたです。その方はカトリツクのシスターで看護師の某さんの影響もあり洗礼を受けました。最初は何故、こんな自分は天国へいけるんだ、そんなインチキな洗礼はありえないと侮蔑していましたが、死んだあとの事を考えるとメメントモリという言葉を照れながら言うようになります。かっての仲間が病院を訪問すると、その人が「メメントモリ」という言葉を口にするので、皆、なんじゃそれは、と笑いだすので、人を選んで、その言葉を口にしている姿が忘れられません。色々あって最後は本気で自分の生涯を愛である神様にゆだねたようです。そして最後にこんな自分を天国に招待してくれた神様が...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    メメントモリという意味は「自分の死を想え」という意味ですが決して暗い言葉ではありません。明るく元気に生きる為の言葉です。死という概念が暗い哲学ならば憂鬱になりますが、死を明るく解釈している哲学もありますので、出来れば死を天国への通過儀礼と解釈する哲学を選らんで欲しいものです。この言葉は何回も聞いていましたし、大体の意味も分かりますが、体験的に解釈するのと、頭だけで理解しているのとでは、そうとう違います。その方の臨終は何とも明るいのです。小さな声ですが、今から真っ直ぐ天国に直行出来る喜びに満ち溢れているのです。本当に驚きました。信じている人の力強さを生まれて初めて目の前にしました。この場面は生涯、忘れられません。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    苦しい仕事上のトラブルに巻き込まれ、今後、どうしたらいいのか、私が所属しているコミュニティも上司も私も、どうしていいか、本当に分からない場面に遭遇した時、生きる事自体が嫌になる場合がありました。誰にでもある経験です。自分はこれからどうなるのだろう?と想い悩みます。現実吟味力が試される時です。この厳しい現実をどう吟味するか、その力が試されたわけです。解決方法を誰も知らない場合、担当の私が、どう吟味するか、が最後の生き抜く道なわけです。悔いのない選択が迫られた時、私の選択はこれは神様の試練だ、でした。全力を尽くしたわけですから、あとは愛である神様にゆだねたのです。裁判になりましたが、堂々と法廷で闘い、そして勝ちました。そんな状況まで自分を追い込んだ私の個々の現実吟味力に問題があったようです。初期動作の現実吟味...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    中学時代、私は混乱していました。その混乱感の原因は友達が居ない事からくる愛の孤独感でしたが、小学時代は転校につぐ転校で、更には終戦の混乱による世間の混乱でしたが、そんな事は中学一年生の私には理解出来ませんでした。解決することなく大人になりましたので、具体的な事は記憶にありませんが、私の大脳は、その混乱感だけは、しっかりと覚えていたようです。心理学で学位を取得しても成育史での混乱感は解決していません。大人になり難しい仕事をするようになると、大脳は何故か、中学時代のあの、慌てる少年の大脳に私を追い込みます。複雑な事件に巻き込まれると異常なほど私は慌てます。そんな時、恩師がイメージ療法を教えてくれました。イメージは人を理屈抜きで安心させるようです。良いほうにも、悪いほうにも、イメージ療法は応用出来るので、要注意...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    本屋に行きますと魂とは、という本がありすぎて困ります。下記の定義を疑いながら、これから、あれこれ研究していくと残された自分の人生の正中線がずれません。私が信じている定義は「魂とは永遠不変のもので、老いることもなく、病むこともない、愛そのものでもあり、自由意思をもち、感覚も理解出来る、そして臨終と共に身体から離脱していく知的生命体である」と長年、考え、そして信じています。さて、皆様、万とある魂の定義をギリシャ神話、古事記、旧約聖書、新約聖書、ケルト文化、インド神話、マヤ文明、その他無限の定義を楽しみながら学習して下さい。この勉強は何とも楽しく、人生を豊かにします。定義を学ぶ時、人に恐怖感を与えるものは偽物です。人々に安心感と愛を与え、人々を幸せにする定義以外は本物ではありません。どんな偉い学者が物知り顔で言...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    もともと自分の身辺の森羅万象を見る場合、自分の魂が見ているんだとしたら、今更、魂が存在するかどかの論証は空しくなります。古代の人々は現代人のように科学信仰(証明しないかぎり信じない)という思想はありませんでした。証明出来ないものを信じる傾向のある人を侮蔑する傾向です。愛などというものは科学で証明できません。人を憎んでいるにもかかわらず本人が愛しています、と嘘を言えば、それを証明出来るでしょうか?親の愛を疑えば、全てがうっとおしいものになります。このように世界で一番、人を幸せにしてくれるものは愛なのですが、愛の世界は信じる世界でもあります。魂の存在を信じるには、魂の存在を信じて見えてくるもの、見えなくなるものを研究するに限ります。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    最近ブームの「魂は存在するか?」という本が店頭に沢山並べられています。今も昔も、その時代の求める形で世界的に流行する課題ですが、信じて見えてくる世界なので、科学で答えられると思うところに落とし穴があるようです。信じてみえてくるものが魂の世界、神の愛の世界なので、この視点(信じて見えてくるもの、信じて見えなくなるもの)という比較宗教学の世界を学問として学んで欲しいなあと思います。魂は存在すると信じると何が見えてきますか?この領域を現実吟味力でどう判断するか、思索してみましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    悔いのない人生をシュミレーションするのは非常に難しいのですが、その理由は多分、あまりにも身辺が激しく変化していく現実に触れるからでしょう。想定外、という言葉が一時流行し、その余りにも不責任な感じに嫌気がさして、最近では「想定外」という言葉を使用する人は信頼されなくなりました。具体的なシュミレーションを描くには条件が激変するので、結局、シュミレーションは危険視されてきます。例えば選挙目当ての政党の約束のようなものです。臨機応変に巧みに生き抜く必要性に迫られ出しています。この臨機応変の智恵がまた難しいのです。外交官になりたい、政治家になりたい、先生になりたい、官僚になりたい、までは何とか描けますが、試験の成績を見ると自信喪失。さてどんなアイデンティティーの統合をすればいいのか、この現実吟味力を発揮してみましょ...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    現実の解釈は案外難しいようです。贔屓目(ひいきめ)という言葉は理性的な人でも陥いる世界です。自分が可愛いのでだれでも現実を贔屓目に解釈するものです。現実の解釈をどう冷静に分析したらいいのでしょうか?私も、誰でも、この解釈が正しく出来れば戦争も喧嘩も激減んしますし愛し愛される関係も上手くいくはづです。神の摂理という哲学的な視点と現実を神学者はどう見ているのでしょうか?一度、尊敬する神父さんに質問してみて下さい。とても意味深い回答があると思います。現実を健全な現実吟味力で解釈出来れば、いかに身辺に天国が存在しているかが理解出来ます。この世は天国か地獄か、一度、楽しみながら思索してみて下さい。愛そのものである全知全能の神様が存在しているとすると、この現実は神の愛と深い関係があるはづです。神仏の愛を信じると見えて...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    現在感じているストレス(不安感、怒り、身体症状、欝、錯乱)は恐るべきものでなく自分が幸福になる為の指針である、という考え方に気づいた人は幸いです。この考え方に統合された人はどんな厳しい現実を迎えても幸せになるでしょう。ストレスは理想と現実のギャップですので、理想が高いほど、ストレスも高いのです。ストレスを見れば、その理想と現実が把握できるわけです。理想の内容を現実吟味力で分析するとストレスを半減出来ます。慌てずに理想を追求しよう、と思えばストレスも半減します。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    現実吟味力を爽やかに明るく発揮して日々逞しく生きたいのは人間の憧れです。応用解釈は後にして、先ず理論をマスターしていきましょう。昨日に続き、下記の視点を生き甲斐の心理学では大事にしていきます。5:自分の問題なのか、相手の問題なのか、混濁していると現実吟味力は発揮されません。この混濁しやすい領域としては、6;理想と現実の混濁、7:思考・感情・行動のバランスが乱れている時、8:心が乱れに乱れ、抑圧、抑制、感情転移、合理化、退行、昇華等の14の防衛機制が病んでいる時、9:プロセススケールが底辺の時、10:信じているものにより、見えるものが違ってきます。以上、10の視点を検討していくと、患者さんの生育史を参考に的確な心理療法が可能となります。昨日と今日の事を、もう少し、わかりやすく解説していきます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自分の身辺に「現実吟味力」が著しく低い人はいませんか?学問の専門家でも、芸能人でも、政治家でも、どんな職業の人でも、私も環境によっては人の事はいえませんが、とにかく現実吟味力は重要な人生課題です。何故、そうなるか、理論的には明確なのですが、訓練と修行をしないと上手になれません。理論からの視点を書き出してみます。1:自分は何の為にいきているか?これが明確でないと、現実吟味力が低下します。以下、それぞれ欠落していると低下する視点を書き出しますと、2:生き甲斐とは何か、3:自分の魂と生育史と身体を大事にしているか、4:過去の問題なのか現在の問題なのか、将来の問題なのか?この続きは明日書きます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    大部前の話ですが、私の大好きな源氏物語、徒然草、平家物語でお馴染みの京都の船岡山に遂に行く事が出来て私は本当に幸せものだと感じたことがあります。ラジオ、テレビの番組、心のともしびの録画で1年間、京都に通いました。今更、とお笑いでしょうが、のんびりと優雅に一人で憧れの場所に立つ事がききました。大徳寺から船岡山公園に向かい平地を歩いて、階段をほどほどに上りました。どうしてこんな平地なのに山、なのか不思議でした。公園の小さな頂きに到着して南を見て驚きました。眼下に京都全体が展望できるのです。しかも南側は断崖。成程、と納得。大徳寺あたりはすでに山にあったのを今更、驚いたのは私くらいかも。船岡山の歴史をもう一度勉強しなおしてみます。小さな旅でしたが何と大きな感動を貰えたことか!旅は人生を新鮮にするものだ、と改めて感...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    フロイトにしてもエリックバーン、エリクソン、ロジャースにしても色々と調べていくと結構の大変人です。変人という評価は人により相当違いますが、私のことも友人の或人は、紳士だという人、少し個性的だ(ほんとは変人といいたいようです)、明るいが急に無口になる人だ、と評価は様々です。行動の特異性を明るく解釈出来るようになると、その独自の行動個性が本人に良き道を暗示する自然治癒力であることが分かります。場合により天からの恵み、幸福へのシグナルである場合があることを、しっかりと知っておきましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    友達と楽しく行動していても突然、ああ、一人になりたい、と感じてしまうと、私は時々、その場から逃げ出す変な行動をしていました。これは幼稚園時代から大学を卒業するまでありました。このさりげなく一人になりたいと、その場から逃げ出せばいいのですが、無理にそこにいると沈黙をしていたり周囲と中々馬鹿なことが言えなくなったりしたものです。そういう自分は大きな組織では生きていけない自分を意識化していきます。大きな組織から離脱出来た30代後半で、自分は何と幸せだろうと思いましたし、精神的な貴族だ、とも感じました。人にはそれぞれ個性がありますので、その一人になりたい、という強い想いを大事にする為には生きていける職業を選べる力をつけておかないと無理です。若い頃にこの個性に気づけば、それぞれの個性的な道が選択出来ます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    カールロジャースという学者の「パースナリティ理論」をご存知でしょうか?四谷のサンパウロ社で販売しているユースフルライフ研究所・植村高雄監修「生き甲斐の心理学」140頁に命題1から19までの有名な命題が列挙されています。勉強していませんと解読は難解ですが、分かりやすく言えば自分以外は全部驚きの対象であること、自分を中心に世界を解釈していくこと、自分は自分を大事にしていく必要があること、などがきちんと書かれています。是非、愛読下さい。さて自分を大事にする意味とは3つあります。自分は何の為に生きているのか、自分の生き甲斐は何か、自分は自分の魂(宗教学)、生育史(心:生き甲斐の心理学)、身体(基礎医学、基礎生物学)です。生涯をかけてのんびりと誠実に自分以外は全て驚きの対象であることを勉強してみて下さい。自分がいか...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自分の行動のどこを変だと思うのか、その分析からスタートします。色々のケースがありますが、生育史の影響を100パーセント受けているので、その人が変だと意識化するのに、相当時間がかかります。変でないとおもうイメージを聴くと、その変でないというイメージのほうが変な場合が多いのです。さて変な事例と変でない事例をノートに書き出してみて下さい。その上でお話します。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    「自分の行動が変なんです」と言う大人に会うと、そうかなあ、と瞬時身構えます。しかしどうみても穏やかな目をしているし、きちんとした発言をするし、変な行動をする人には見えません。確かに恐ろしい行動をしている人で、変な行動をしている自分を告白する大人には、病院とか刑務所ではしばしば体験しましたが、日常生活で、自分の行動は変だ、と言う人は案外、真面目すぎる善人に多いような気がします。眼差しが澄んだ人なので、いろいろ安心して聞いていくと、子供時代、両親、親戚から変だと言われているのですが、その周囲のほうが変な場合が多いようです。ですから子供時代、大脳にインプットされたセルフイメージをもう一度、再考したほうが良さそうです。この問題について考えていきます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    どんな人でも、ふと惰性で生きているなあ、と哀しく思う事があります。毎日、意欲まんまんで生き抜く人は疲労困憊して心不全で死んでしまうでしょう。だらだらしたり、泣いたり喚いたり文句をぶつぶつ言うのが生身の人間です。いつも明るく爽やかに生きる事は不可能です。しかし、意欲の無い人を見ていると連鎖反応を起こし、こちらまで元気がなくなります。出来れば明るく元気な人とお付き合いしたい、と思います。惰性で生きる事も極めて大事で、その良い例は良い習慣をつけた惰性ならば、周囲をも自分をもいきいきとさせてくれるかもしれません。どこまでが惰性で、どこからが意欲なのか、少し考えてみましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    劣等感、挫折感が強いと自分を信じる力が弱くなると言われています。自分を信じなさいと先輩に言われても、そう簡単にやすやすと自分を信じられたら苦労はありません。自分を信じられない理由がその人の生育史に存在しているからです。さて自分を信じた場合のメリットは沢山あるのですが、その一番大きな良さは自分のインスピレーションとか直感をある程度、信じられる人でしょう。この話を公の場で言うと何となく馬鹿にされるので人々はあまり口にしませんが、人生の経験を積んでいく内に、それぞれが内心、その正確さに気ついてきています。咄嗟の交通事故を避ける為にあれこれ哲学していたら車にはねられてしまいます。このように大半の人々が直感で生き延びているにもかかわらず、それでもなお、自分の直感を信じようとしません。インスピレーションの正確さを一度...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    仲の良い友人・知人との楽しい会話のさなかでも、自分が知らない世界の話題に周囲が盛り上がり出すと、人は少々、慌てるものです。慌てないで楽しめる場合と慌てる場合の違いはなんでしょうか?平素、勉強したいこと、興味のあること、の場合に人は慌てる傾向があります。全く関心が無い話題でも、話す人がイキイキと楽しそうに話し出すと、これは面白そうだなあ、と心がひかれていきます。知ったかぶりの話ですと、うんざりして早く切り上げてくれないかなあ、とイライラしてきます。もし自分の知らない話題で周囲が盛り上がった時、その話題で慌てる自分が居た場合、何故か、その理由を分析すると、思わぬ幸福を掴む事が出来ます。自分が教養がないから、そこから来る劣等感だ、などと簡単に解釈しな事です。本当にどうでもいい話題の場合は人は慌てないように出来て...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    子供の頃、家庭で「あなたは変な子ね}と言われて育てられた大人が今でも、心底、自分は変だと思っている事例が非常に多いのは何故でしょう?それくらい幼児時代での周囲の大人の発言は、その子を生涯支配します。セルフイメージは周囲からインプットされていくものなのです。本当に変なのは周囲、というケースがあるのですが、純情可憐な幼児時代は周囲の大人の発言を素直に受け入れますので、自分のセルフイメージを一度、疑いましょう。自分は変だ、と今でも考えている大人の皆様は是非、変なのは周囲だったのでは、と疑わないと、その呪縛は永遠に続くかもしれません。自信をもって一度、変なのは、あの頃の周囲の大人だ、と再考証して欲しいものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    考え方(思考)を変えると感情と行動もそれに応じるかのように変化していきます。例えばボトルの中の水が半分あります。ああ、もう半分しかないと思考すれば不安感が増加し慌てて数本のボトルを買う(行動)人がいるかもしれません。まだ十分、水はあると解釈する人の感情は案外、平然としていて平安感があり、無駄な買い物はしません。このように思考が案外、感情と行動を支配していますので、考え方を時々点検してみましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    日本文化の中ではとかく感情を低くみる傾向があるかもしれません。湧き出す感情を理性に比較して低くみる人もいますが、まてよ、と考えたほうが良さそうです。湧き出す感情はそんなに程度が低いのでしょうか?とんでもありまん。解釈の程度が低いのです。解釈を偽善的にではなく、自然なその人に合う知性的な解釈が出来るようになれば、その湧き出す感情が天からの智恵だとわかるでしょう。例えば街で自分のお好みの美しい女性を見ます。さてあなたはどんな解釈をしますか?美しい解釈、次元の低い解釈、この解釈の内容についても色々の意見があるでしょう。一度、湧き出す感情の解釈を自然体の中で、どう解釈するのがいいのか考えてみて下さい。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人は誰でも理想に生きようとします。心身ともに明るく爽やかに元気に生きているのならば健全ですが今の時代は死にそうな顔をして暗く切なく理想を追求するのは少々問題があるかもしれません。昔はそうせざるをえない戦争の時代もありましたが、現代の日本では死にそうな苦しい顔をしてまで理想を追求するのは少しまずい気がします。理想を追求する困難と苦労は存在しますが、死にそうな暗い顔をしながら生きていくと、誰も近寄らなくなります。人が近寄らない雰囲気があれば協力は得られず成功の機会は激減します。愛される存在でないと一人では何も出来ないからです。もう一度、理想を生きるその自分の姿を鏡に写しながら見直すと周囲が明るくなり協力者も増え理想が達成しやすくなるかもしれません。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    異常行動といいましても色々ありますが、ここでは「意に反する行動をしてしまう自分」を見つめて見ましょう。昔、ロンドンとウイーンで在留邦人の自殺防止活動をしていました。年に一度、程度ですが、しかるべき人を支援するという形で面談するのですが、病院のように治療の部屋だけの面談でなく、某団体と行動を共にする、という活動もありました。辛い現実に触れる度に実力を越えた関わり方をしてしまう自分が大嫌いになります。つまり自己資金を出してまで何故、支援活動をする必要があるのか、と悩むわけです。自分の大事なお金を使用してまでの支援活動は異常ですが、その事に気づかない時期があったわけです。大義の為、信念の為、正義の為、愛の為等の理由で、意に反する異常行動が自分を破壊していきました。しかし今から思えば、これも人生体験であった、と言...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    思考と感情と行動がバランスが良いと、なぜ、悩みが半減するか?その理由を生き甲斐の心理学では基準を身体に求めています。赤ちゃんから高齢者までいちいち理屈で生きてはいません。赤ちゃんは空腹になれば泣いてお母さんに意思表示します。それと同様にバランスが悪ければ身体が自動的にストレスを感じます。その人の環境に合わせてストレスの内容は当然違います。都会に住んでいる人、大自然の山奥で炭焼きをしえいる人のバランスは違いますように、その人の環境でバランスのベストのとりかたは違います。赤ちゃんは素晴らしとり方をします。赤ちゃんはほどほどの量で満足して眠りますが、大人は食べ過ぎ、または少なすぎ、等で赤ちゃんのようにほどほどの満足(バランス)が下手なようです。考え過ぎ、感じ過ぎ、行動のし過ぎ、をチェックすると悩みが半減します。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    懐かしい神父さんの夢を見ました。その神父さんとは長いお付き合いがあり毎年山中湖で親しい或る家族とも合流し幸せな時を過ごします。その神父さんは、近所の山荘に夏、勉強に来ているスロベニア出身の神父さんです。彼は某大学の国際部の哲学と英語の教授もしていましたが魂の友人というか兄貴みたいな関係ですが、私が心から敬愛している神父さんでもあります。ビールも少々飲んでいるので互いにお口もなめらか。当時88才のその神父さんは山中湖を今でも1時間は泳いでいますし、60代でも山中湖を対岸まで泳ぎ更に平野方面へと三角形、合計3-4時間は泳ぐ人でもあります。心身ともに頑強で思考と感情と行動のバランスの良さという点では我人生でこれ以上の人物にお会いした事はありません。語学は天才に近く若い頃は潜水艦の艦長が夢だったそうで戦争の実体験...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    若い頃からこの曲をどれほど聴いたことだろう?何時聴いても飽きないのが不思議です。多分、私の魂がこの曲で小躍りして喜んでいるのでしょう。この曲を聴くと、どんな苦境にあっても生きようという気になるのが不思議です。私は幸せ者です。しかし不思議なもので、人により生涯愛し続ける好きな1曲が全部違う所がまた面白いのです。五感と体感を震え上がらせる感動が人により違う所が人類の偉大なところ。皆様の魂を震え上がらせる好きな曲を是非、教えて下さい。真面目にその意味を思索したくなりました。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    時々立ち止まり自分を省みる必要があると言われていますが、具体的にどんな事だろう?なにかに夢中で取り組んでいる姿も美しいし、羨ましく思う人もいることでしょう。日記とかメモを書く習慣があれば、その立ち止まる意味を喜びとして考えておられるでしょうが、中にはメモすら書かずに生活していると、この立ち止まりの喜びを知らないかもしれません。静かに読書をする人、森を散歩する人、道端の野草に目が行く人、他人の哀しさを思えるひと、そのような人々は立ち止まる意味と重要性に気づいています。自分の事だけを考えている人はこの立ち止まる喜びを案外、知らないかも。心休まる静かな音楽も大事なようです。何の為に立ち止まるか、それは悔いのない人生を歩む為に時々、自分の思考と感情の処理方法と行動を見ながら自己実現への道を模索するためだろうなと思...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    毎日が暑くて生きる事が面倒だ、と思う人もいるようです。そういう発言を聞くと、こちらも哀しくなり連鎖反応が起きてきますが、ここで巻き込まれないように必死の人もいることでしょう。「我」を確立していない人は多分、その「邪念」に振り回されるかもしれません。邪念といいましたのは生きる喜びが人間本来のものなのですが、何らかの事情で生きる事が嫌になった、という事情も非難は出来ませんが分類上は邪念と言われる範囲の思想です。生きる喜びとは何だろう、と祈りつつ思索していると、必ず、その人に相応しい答えが意識化されてきます。答えは他者からは生まれません。本人独得の生育史から生まれてくる答えでないと、価値がないのです。答えが何故見えないかという理由はストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、欝、錯乱の5つ)が、その答えを見えなくして...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    時々立ち止まり自分を省みる必要があると言われていますが、具体的にどんな事だろう?なにかに夢中で取り組んでいる姿も美しいし、羨ましく思う人もいることでしょう。日記とかメモを書く習慣があれば、その立ち止まる意味を喜びとして考えておられるでしょうが、中にはメモすら書かずに生活していると、この立ち止まりの喜びを知らないかもしれません。静かに読書をする人、森を散歩する人、道端の野草に目が行く人、他人の哀しさを思えるひと、そのような人々は立ち止まる意味と重要性に気づいています。自分の事だけを考えている人はこの立ち止まる喜びを案外、知らないかも。心休まる静かな音楽も大事なようです。何の為に立ち止まるか、それは悔いのない人生を歩む為に時々、自分の思考と感情の処理方法と行動を見ながら自己実現への道を模索するためだろうなと思...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    悩みがある時、人はそれぞれのやり方で、色々の解決方法を考えますが、自分の「思考・感情・行動のバランス」に及ぶ人は案外少ないかもしれません。思考が理想に走りすぎている場合が多く、身体が警告しているのに、その警告に気づかないまま日常生活をおくっているわけです。思考が理想に突出していると身体がたまらない、と警告してくれるのですが、どこに現れるかといいますと、感情の乱れとして現れます。感情の乱れにまだ気づかないと行動の乱れとなって現れます。この思考と感情の関係を知らないと自分を不幸に導いていきますので、この関係を意識化しておきたいものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    案外簡単なようで難しいのが自分自身の心の中の「平安感」と「不安感」の識別です。人生で大事なものは「愛」ですがその愛も、平安感と不安感の揺らめきの中に存在しているので平素、愛と平安感と不安感を意識しておかないと生きる喜びが明確化してきません。ややこしいようですが、一度、愛と平安感と不安感の事例を自分の生育史の中から意識化しておくと楽しい人生が益々楽しくなるでしょう。どんな時に不安になり、どんな時に平安になり、どんな時に愛をしみじみと感じるか、その傾向は人により全部違います。自分の傾向を楽しみながら思索しておきますと、これから「もの想う秋」を巧みに乗り越えていくことでしょう。暑い夏が終わる頃から人は憂鬱になります。秋は四季の中で、人生を豊かにまとめていく重要な季節です。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    思考、感情、行動のバランスが良いと、確かに自分の精神衛生がよくなります。その3つのどれかが突出したりしてバランスが悪いとストレスがたまります。3つのバランスを大事にする哲学を持たないと、人は自信をもって生活出来なくなります。よく自分の理想人物、尊敬する人物を語る人がいますが、それは自由なのですが、その理想から相手を批判したり裁いたりする人が多いので困ります。自分をさておいて、他者を批判する、のでは困るのです。理想と現実の混濁、自分と他者の混濁が精神病の始まりですが、自分が悔いのない幸せな人生を送る為には、どうしても、このバランスを真剣に真面目に考えないと、本当の幸せは手に入りません。まず倫理・道徳も大事なのですが、心を明るく爽やかん生きる為に、思考と感情と行動のバランスを意識しつつ、そのバランスのチェツク...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    時々立ち止まり自分を省みる必要があると言われていますが、具体的にどんな事だろう?なにかに夢中で取り組んでいる姿も美しいし、羨ましく思う人もいることでしょう。日記とかメモを書く習慣があれば、その立ち止まる意味を喜びとして考えておられるでしょうが、中にはメモすら書かずに生活していると、この立ち止まりの喜びを知らないかもしれません。静かに読書をする人、森を散歩する人、道端の野草に目が行く人、他人の哀しさを思えるひと、そのような人々は立ち止まる意味と重要性に気づいています。自分の事だけを考えている人はこの立ち止まる喜びを案外、知らないかも。心休まる静かな音楽も大事なようです。何の為に立ち止まるか、それは悔いのない人生を歩む為に時々、自分の思考と感情の処理方法と行動を見ながら自己実現への道を模索するためだろうなと思...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    考えている事が美しく善良で真理に繋がるような哲学者でも、感性が何となく汚く、曲折している、しかも、行動ときたら、奇妙な徘徊をする、そんな人もいます。中々、思考・感情・行動の3本柱が誰が見ても、ほほう、と感心するような人物はいません。生涯に2-3人、遭遇した事がありますが、私にはそう見えても、他者は、え?何故、あなたはそう思うのですか、と聞かれた経験があります。この思考と感情と行動のバランスは人間の理想かもしれません。皆様は、どう思いますか?理論的には「思考と感情と行動のバランスが良いと、人は幸福曲線を歩み、バランスが悪いとストレス曲線を歩く」と言われています。このあたりを暫く書いてみます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    変人だと諦めて生きてきたaさんでしたが、私の話を聞いていく内に、ひょっとして、変なのでなく天才なのでは、と気づきました。気づいたaさんはフランスにいきなり飛んで行き好きな料理の勉強を始め、今は新潟県でケーキ屋さんをして30年。こんな人生もあるのです。変だと思えたaさんはラッキーです。奇人変人とは誰が定義するのでしょう?それよりも、自分が変だと思った場合、ひけめや劣等感で生きる事は馬鹿馬鹿しい事なので、是非、素直に自分の意識の中に変な自分を意識した時、その変なものの中にこそ、自分の才能、興味、生き甲斐があるかもしれない、と思って下さい。変だと思い込ませた周囲が変な場合が大半です。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    変な自分を素直に認めると、人間は大きな悟りを得ていきますが、認めないと、いつまでも奇人変人で生きる羽目になります。変な事を言う人だなあ、と思うかみしれませんが、こういうことです。深層心理の世界では自分以外はすべて驚きの対象なのです。品の良い言葉に還元すれば、それを個性の美と言い換えることも出来ますが、殺人魔、変質者も沢山いますので、一概に個性の美とは言いません。ここでは意識して「自分は変だ」と思う人を対象に書いていきます。確かに色々あるでしょうが、一番恐ろしい解釈が変でないのに変だと思い込んで哀しい劣等感のまま生活する事例です。環境により、特に親が自分の事を変だ、と言い続けた結果、沢山の個性の美が抹殺されている事例は多すぎます。ですから今まで、変だと思い込んでいる自分を一度、温かく優しく、まてよ、これは自...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人生には沢山の良いこともありますが、哀しい出来事を見ざるを得ない事もあります。その一つにお金持ちの男女がデパートで、ちょっと失礼、という盗難事件が時々新聞に出る事があります。この原因はほぼストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、欝、錯乱の5つ)の発散の1形態と言われていますが、とても哀しい生身の人間の姿です。無意識に近い病理現象なので、治療には時間がかかります。解決の方法は自分のストレスの実態を把握し、その答えを自分の中から見つけ解決していく以外、方法はありません。若いお嬢さん達でも冷蔵庫の中のものを食べていく病気も同じ原因です。何とか早く解決して一度しかない人生を明るく元気に爽やかに生き抜いていきましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    「引かれ者のの小唄:刑場に連行され、打首になる人が強がって小唄を謡う例え」ですが、今の私も大袈裟なようですが、そのような傾向に気づきだしました。どういう事かといいますと、悔しいけれど、そろそろ年齢を配慮して物事を考えなさい、というささやきを最近感じだしました。運動不足だからと、年齢を考えずに昔鍛えた合気道をしたりする自分をいさめています。心臓の動機がすさまじくびっくりしました。「寂しくとも今の年齢を配慮しないのは天に逆らうこと」となることを考えなさい、と神様がささやいているのを素直に受け止める必要があるようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    その日の京都も暑い一日でした。この暑さの中で河原町三条から京都市役所の裏側から下御魂神社を経て京都御所の南まで歩き、更に熊野神社、京都大学病院、キャンパスを散策し、小山の中にある吉田神社のあちこち、さすが、このまま興味津々で歩いたら、倒れるかな、と予感したので無理に自分を抑え休憩。10時40分に歩きだし、気づいたら1330分、お昼ご飯もいただいていない自分に驚きました。固執障害と誤解されそうですが、いつもはこうではないのです。京都の魅力があまりにも大きいので、自然とそうなってしまいました。今日も元気な自分に驚いています。顔の表情もいきいきしていて、人間の底力を感じています。お金の計算等、嫌な仕事ですと、30分もすると疲労感を感じますが、好きだと疲労感がないのが不思議です。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    2012年代、テレビ録画の為に毎月京都に通っていました。翌日は今までの人生のご褒美として大好きな神社仏閣を訪問する事にしています。伏見稲荷、御霊神社、興福寺、北野天満宮などなど。私は何と幸せ者だろうと感謝しています。鴨川を散歩すると大きな鷺がいたり、錦小路を歩くと錦天満宮が道真公の父君の屋敷跡だ、との説明文に遭遇したりすると楽しくなります。高瀬川の歴史を想いながら歩いていると由緒ある歴史の史跡にあったりすると興奮の連続です。京都がアメリカの爆撃に遭わずに済んだ事を感謝しつつ歩いています。欧米の歴史も楽しいのですが、飛鳥奈良京都の歴史を改めて勉強したいと思います。平安京時代に生きていた私の直系の母は、どんな生活をしていたのかなあ、と勝手な空想を描く程に、益々京の都が大好きになりました。直系の母はお姫様だった...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人は見たくない感情が湧き出すと相当慌てます。これが普通なのですが、自分に限り、こんな見苦しい感情が湧くなんて、許せないと叫びます。私も慌てるほうですが、慌てる人間が大好きです。この自分に限りこんな見苦しい感情が湧くなんて信じられない、と何度、思ったことでしょう。感情を抑圧すると人は、どんな逞しい人でも破壊していきます。旅館の経営者の知人が笑いながら冗談めいた発言をしていました、それは警官、先生、司法裁判関係者の団体旅行を受け入れるのは嫌いだと。何故かといいますと,その筋のお客さんは、平素のストレスを抑圧している人々が多く、その種の人々は,宴会で発散する、その姿が嫌なのだそうです。感情を抑圧せず昇華する方法と智恵を自分流で見出し湧き出す感情の激しさを抑えないで活用する方法を見つけたいものです。湧き出す感情は...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    今年も宜しくお願いいたします。2024年が平和の時代の幕開けとなりますように祈りつつ。さて、職業柄、感情の取り扱いは日常の業務ですが、一番哀しいのが、湧いてくる感情全てを憂っとおしいと考えている人がいることです。感情は人生の最大の宝物なのに何故か嫌いなようです。生き抜くエネルギが感情なのですが、その理由が分からないようです。感情は確かに激しいものですが、この湧き出す感情をどう昇華するか、そのコツを学ぶのは案外難しい事なのかもしれません。感情を抑圧するのが一番危険なので転嫁するか、昇華するか、その手法を是非、学習していきましょう。喜怒哀楽の感情が湧き出し人は健全な証拠。真善美とは何か、五感とは何か、湧き出し喜怒哀楽は宝物、ただ、その湧き出し感情の解釈を、出来れば、健康的に、明るく、楽しく、爽やかな日々となる...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    家庭はどこでもそれなりに色々ありますが、とても面白いメールが知人からきました。自分の家でも、家族でごたごたした時「先に爆睡したほうが勝ち」と言う考え方がいつの頃からか、全員が気づき、多少、喧嘩をしても、眠る時は互いに信頼する習慣が出来たそうです。良い家庭だなあ、と思いました。何か小さな諍いをしても、眠る時は、全員が互いを信頼する習慣ができた、という話です。小さな信頼感が大きな幸福を呼び寄せた話に感動しました。案外、信頼する力は正比例して自分の幸福感を増加させるようです。信頼する力は自分を幸せにするという哲学は正しいようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    テキスト「生き甲斐の心理学」の第1章を書き出したのが2007年。人生って、どうしてこんなにも早く流れていくのでしょう?毎日が充実していますが、まだまだやりたい事だらけです。臨床心理学の本は山程ありますが目指す到達点が「自己実現」と明確に掲げる本が何故、あまりないのでしょう?不思議でなりません。精神病等で10年以上も入院していた患者さんが自分の生き甲斐をしつこく迫るセラピストの私に遭遇し、不思議な顔をされていたのをふと、思い出しました。毎日、薬を呑む、病理、病理と言われている部分への対処療法の人生が何と10年も続いていたのです。一枚の枯れ葉が病棟の窓の外に風に吹かれて流されていく瞬間の会話が彼を病棟から出してくれたのです。残された自分の人生を枯れ葉のようにしては勿体ない、と感じた彼は、これからの自己実現を楽...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    大河ドラマ「平清盛」を見ていると死に際の見苦しい人物が出てきます。自分があの立場になれば、もっと見苦しい死に方をするだろう、とは推察出来るのですが、それでも「あ、あ、何と往生際の悪い人だろう」と軽蔑している自分もいます。死ぬ時は美しく死にたいものだと思いますが、居直りの美学はどうしたら習得出来るのでしょう?日常生活でも爽やかに居直る友達を見ますが、きわめてさっぱりと乗り越えていくあの人は何を考えているのでしょう?多分、推測ですが美しいもの、汚いもの、に敏感なのでしょう。何が美しく汚いか、その人により基準が違うので何とも言えませんが、もう一度、この辺りの美学を考えてみたくなりました。自分にとって美しいものを再点検しながらも自分の美意識を大事にしたいと思います。そうしないと多分、爽やかで美しい居直りは永久に出...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    生き甲斐の心理学では、将来は確実にわかると考えています。あれ、と思うでしょうが、こういう意味です。将来の具体的な事件とか生育史上の出来事は神ならぬ身ゆえ、分かるはづがありませんが、分かる事があります。それは過去の生育史で体験した「幸福曲線:平安感、友好てきな感情、健康感、幸福感、統御感の5つ」と「ストレス曲線:不安感、怒り、身体症状、欝、錯乱の5つ」。これは死ぬまで繰り返しある、という確信です。ですから自分の人生を恐ることなく明るく元気に生きていく為に、この感情をそれぞれ予測し、今から勉強しておこうとしているわけです。覚悟をしてこの合計10の感情を思索していると、自分の人生への覚悟が固まり、あまり、がたがたしなくなります。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    あの人は独善的だ、とはしばしば言われる言葉ですが、はて、生き甲斐の心理学の定義はどうなつているかと言いますと「自己肯定・他者否定」の思想に所属した思想の一つと定義しています。人が生き抜く為に必要な思想ではありますが、共存共栄を図れる場面でも、それでも、「自己肯定・他者肯定」しない人を世間では独善的人間だ、と定義しているわけです。中々難しいことです。共存共栄、フィフティフィフティ、とも言われる思想を品良く行動しないと顰蹙を買うようです。この生活習慣は訓練で獲得出来ますが訓練しないと中々上手く流ないようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    眼差しの話が続きます。私がいつも不思議に思うこと、それは何らかの事情で周囲の人々を暖かい気分で眺める時は人が何となく集まるのですが、そうでない時は人が近寄らないのです。こんな事を意識出来る時は心に余裕がある時なのでしょう。何かを悩んでいる時は眼差しはどうも暖かい光を出していないようです。最近来なくなりましたがマンションの階段で遭遇するカラスがそうでした。私が機嫌の良い時、すれ違う時、お早うと言うと、カアーと鳴いて逃げないのですが、機嫌が悪いと目が合った途端に無言で飛んでいきます。気の流れと眼差しと深い関係がありそうです。面白い事に、悩みがあっても周囲の人を信じているときは、暖かい眼差しをしているらしく、人は集まりますから、悩みが多少あっても周囲の人を信じる眼差しがあれば,少しは暖かい眼差しがありので、人が...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    迷信だとか、あまり深刻に考えないで読んで下さいませ。人間修行を積んだ人がこの記事を読めば、くだらないなあ、と思うかもしれませんが、難しい哲学や宗教や学問的な研鑽をつめば出来るでしょうが、心の中に蓄積したドロドロした嫌なものを、なんらかの簡単な方法で処理する方法を大抵の人々は求めています。世界中で内緒に人に知られずになされているのが1000円程度の直系2センチくらいの水晶玉です。これを両手でくるくると回しながら自分の汚れと悩みを吸い取ってくださいと祈るのです。この習慣は世界各地で密やかに行われています。もんもんと一人で悩むよりは、この数千年行われている方法を気楽に盲信しないで楽しく行うと案外、何かを悟るものです。そして時々、太陽の光にあてると水晶玉に蓄積した汚れが全部流しさられるそうです。しかし太陽の光にあ...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人を信頼しようかなあ、と思うこと自体が物凄く大事な思想のようです。はなから人を信頼するなど考えてもみない人が多いからです。この「全く信用しないと決意」をしている人で、眼差しが澄んでいる人に、いまだ私は遭遇したことはありません。殆どが疑わしい目付きをしています。私自身、時々、そんな視点で自分の眼差しを点検して生きてきましたが、周囲に疑惑を感じている時の自分の眼差しは気のせいもあるのでしょうが美しくありません。心が澄んでいるかいないか、を点検すると案外、幸福感が湧き出してくる経験が多いので、一度、そんな視点で鏡を見る事をお薦めします。暇人だなあ、などと思わないで自分の幸せの為に是非、挑戦してみて下さい。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人を信頼する、という思考は案外勇気が要ります。身近な事例としては家族の中の対立があっても睡眠の時は豪快に眠る人がいて、その周囲の家族は頭に来ている、という事例でした。色々聴いてみると、その豪快に眠る人は、眠る時は、周囲の家族を信頼するそうです。そうすると安心して眠られますと断言していました。賢い人だなあ、と感動した思い出があります。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人生の或時期、生活の必然から台灣の恩人の為にも自分の為にも手がけた事のない海運業の仕事をした事があります。なにせ生まれて初めての仕事なので英文の海運契約書(1万トン級の貨物船を借りて荷物を探す仕事)の勉強を数ケ月でこなして、そしてスタートしたのですが、考えてもみない世界でしたので私も、私の顧客筋も大混乱。そんな酷い状況が数年続きました。私が顧客筋に行くと、あ、また、あの訳の分からない新人が来たぞ、と皆、私を無視して相手にしてくれません。本当に馬鹿みたいな日々が続きます。大学病院では、先生、先生と言われた生活から何だか訳のわからない職業に飛び込み一隻分の貨物船の荷物を日本の大商社から探す仕事は大変でした。しかし、この時、変な自分を変でない自分だ、と言い聞かせる為に、私のプライドを保持するために、段々と独善的...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    信じる喜びは日常生活での小さな事からしか体験出来ません。いきなり大きな信じ方をした為に人生を棒にふることがあるからです。この人をどの程度信じるかは、その人の智恵と現実吟味力が必要だからです。人が信じられないと言い切る人は、生身の人間の有り様を研究する程度が低いのでしょう。神様を信じる程度と人間を信じる程度が同じでは話になりません。裏切りに合う人を観察していると、この生身の人間の真実を余りにも知らないからです。信じても裏切られ、また、信じて裏切られる、この繰り返しはしばしば小説のテーマですが、人生の全てを自分の責任にして生きていくと周囲の人の小さな親切に涙することがあります。人生は全て自分の責任だと思った瞬間から世界が変わるます。考え方を変えて病気になる人、考え方を変えて元気になる人、自分が生き抜く環境で、...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    周囲の人々を信じない人がたまにいます。何故、日常生活で必然的に付き合う必要のある人々を信じないのか?その理由を聞くと、それなりの理由を話してくれます。必然的に付き合う必要のある人々とは家族、夫婦、友人、知人、近所の人々、職場の人々のことです。疑い深い人間の眼差しを「邪眼」といいますが、この邪眼は人生の途上で私も経験しました。何らかの理由で疑い深くなると人の眼差しは確かに邪眼となり澄んだ感じがしなくなります。何故、このように成るのか、理由ははっきりしません。一度、鏡を見てみましょう。人生の途上で、自分の目が澄んでいる時と、透明感がなく何となく疑い深い目付きになる場合の違いを思索してみましょう。周囲の人々も邪眼の人を避けます。澄んだ目付きの人と付き合いたがります。何故でしょう?このある程度信じ合う度合いの調整...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

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