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薦相[婁師德の德]-----------------------------田舎の農夫然とした風貌の宰相婁師德の単調な奏議が続いている。次ぎに並ぶ狄仁傑は苛々していたが、則天皇帝の信任に厚い仁傑にとっても先任の宰相を遮ることはできない。「この無能の愚図め」と何度内心ではつぶやいたことだろう。「こんな無能を陛下はいつまで宰相にしておくつもりなのか」やっと師德の上奏が終わり、のそのそと退出していった。仁傑のテキパキとした上奏が終わると、則天は聞いた「師德は有能と思うかな?」仁傑は「辺境の司令官程度ならよいかもしれませんが、宰相には値しません」「師德は人を見る目があると思うかな?」「あるとは到底思えません、属吏程度の評価ならできるでしょうが」則天はニャリと笑って言った。「卿を是非とも宰相にすべきだと推薦したのは...薦相[婁師德の德]
渭水の盟[太宗の恥辱]---------------------武德九年七月、父の高祖皇帝を恫喝して退位させ、強引に即位した皇太子世民[太宗]のもとに急報が入った。突厥頡利可汗・突利可汗が百万と号する大軍で侵攻してきて渭水に迫ってきていた。突厥の使節執失思力は「可汗は属国の帝が許可も得ず即位したことに激怒されています」「また皇太子建成や齊王元吉を殺害し、高祖皇帝を廃位した事に異議をとなえておられます」と高飛車に言い放った。皇太子・齊王殺害は太宗側の一方的な襲撃であり大義は無い。また高祖は進んで地位を譲ったわけではなく、武将尉遅敬德の武力による威嚇に脅えた結果である。そのため朝廷の人心は太宗に決して好意的ではないのだ。「まずいな、戦うわけにはいかないし、その戦力も今はない」と太宗は判断し、思力に皇居を預け、...渭水の盟[太宗の恥辱]
回心[忠武節度使周岌の帰服]--------------------------「まさか行かれるのではありますまいね」「節度使様ご招待だ、行かないわけにはいかんだろう」「いくら節度使とはいえ、いまは黄巣に降った賊です」「いけば殺されることも考えられます」「いや周岌の心はわかっているよ」忠武監軍楊復光の館は緊張に包まれていた。節度使周岌は黄巣の侵攻時に率先して降り、忠武節度使を安堵されている。しかし唐の監軍たる復光を拘束するのでもなく放置していた。そして昨日、急に使いを寄越し招待をかけてきた。「彼は唐に帰順したいのだよ」「巣の勢力は弱まってきたと思っている」「岌が立場を変えやすいようにしてやるだけさ」酒宴が始まった。復光はさかんに往事の事を語り、岌に昔を思い出させた。やがて岌は泣きながら言った「皇帝のご恩は...回心[忠武節度使周岌の帰服]
裏切り[朱全忠の成立]--------------------------「降ってもはたして受け入れてくれるかな」「俺の評判は極めて悪いし」と溫「そんな事をいっている場合ですか」「敵軍はどんどん増えているのに、こちらにはろくに援軍はきません」「孟楷どもが殿を讒言しています。もう生命が持つかという問題です」と側近の謝瞳が叫んだ。援軍を頼むために京師の黄巣のもとに派遣されが、まるで取り合ってもらえなかった怒りで顔が真っ赤である。官軍に対する最前線の華州城では不穏な空気がただよっていた。「河中の王重栄から密書がきています」「都監の楊復光からもです。奴らも焦っているのです。」「官軍につくなら今です」と部下達はすっかりその気になっている。「しかしなあ・・・・、俺ではな・・・」ひとかけらの土地もなく、農奴としてこき使...裏切り[朱全忠の成立]
教養[玄宗の幽閉]--------------------------「くそ、馬鹿にしやがって」李輔国は顔を真っ赤にしてつぶやいた。肅宗を擁立し、飛ぶ鳥を落とす勢いの輔国である。自分の前では宰相も将軍も頭を下げ、顔色をうかがうところが興慶宮の玄宗上皇のもとに行くと、成り上がりの田舎者扱いだ。玄宗の周りは優雅な側近達が取り巻き、教養のない輔国には理解できないやりとりが続く「誰が安禄山の乱を鎮定したと思っているんだ」「軍政のことなら俺が一番理解しているんだ」と輔国は腹立たしかった。肅宗の元に戻ると「上皇様の側近達は、帝を廃して復位をねらっています」と奏した。「まさかそんなことはあるまい」と肅宗「帝の即位は変則でした。上皇様はともかく、側近達は不満に思っています」たしかに禄山の乱に敗走の途中、側近達によって擁立...教養 [玄宗の幽閉]
佞臣[鄭注立身]--------------------------「監軍殿より、厳重注意してもらえませんか」「あの鄭注という奴には、がまんできません」「なぜあんな奸物を、節度使殿は近づけるのかわかりません」「上には媚へつらい、下には徹底的に傲慢になるやつです」「わかった、李愬殿に注意してみよう」武寧監軍王守澄はうなづいた。そして愬の所に赴くと、聞いてきた注の悪い噂をつげて諫言した。「名将といわれる殿ですが、文臣をみる目はなかなか甘いようですな」「いや、そう言われるが注は奇才で捨てがたい人材ですよ」「奸物ほどそういうものなのです。追放された方がよい」「そうですかな、明日、注を監軍殿の所に行かせます、一度話を聞いてやってください。その上で問題があるなら追放もしかたがありませんな」「まあ話ぐらいは聞いてやりま...佞臣 [鄭注立身]
時代錯誤[宦官が支える唐末]--------------------------「懷ごときに割ける土地はないぞ」「しかし、かりにも彼は陛下の舅ですぞ」「時勢を考えろ、一兵・一銭でも欲しいという時に、あいつは、前のうすら馬鹿のほうがましだったな」うすら馬鹿とは僖宗皇帝のことである。「朝廷の威光が通る方鎭なんていくらもないのだぞ」観軍容使楊復恭(宦官)はあきれてしまっている。京師の貴族どもは現実がまるでわかっていない。そして今の昭宗もだ。傀儡が皇帝のつもりでいる。唐の威光は京師近辺の山間十数州にしか及ばない。ただひたすら禁軍を再建しようとしている復恭にとって穀潰しの貴族が、皇帝の義父であるというだけで節度使を要求してくる事など信じられなかった。「帝の強いご意向です」「わかったわかったあの黔中節度使にでもしてや...時代錯誤[宦官が支える唐末]
功臣[李泌、德宗の猜疑を諫める]--------------------------貞元三年六月、德宗はついに念願であった陝虢観察使李泌を宰相に任用することになった。そして泌は李晟・馬燧・柳渾とともに入見した。德宗は泌に「肅宗より歴代の皇帝は、卿が宰相にふさわしいと思っていた。朕は今やっと任用することができた。そこで卿が仇と思うもの、恩を返したいと思うものを朕が処置してやろう」泌は「李輔國や元載など仇はすでに誅されました。恩ある者達はすでに栄達しているか零落しています。もう報いようもありません」「それでも少しは報いたいと思うものもいるだろう」「それより臣は陛下にお願いがございます」「されは何かな?」「陛下が功臣を疑い排斥されませんように。李晟・馬燧達は国家に大功があります。しかし誣告・讒言をするものは常に...功臣[李泌、德宗の猜疑を諫める]
皇太子の役割とは[視膳問安]--------------------------貞元の末、徳宗皇帝は老い、人事は停滞し姑息な政策が続いていた。現状に飽き足らない少壮官僚達は皇太子[順宗]の周囲に集まり議論を重ねていた。「特に宮市の件は深刻です、宦官どもの押し買いに民の不満は大きいのです」「殿下、殿下から直接陛下に申し上げていただけませんか」「そうだな、民の切実な願いだからな」と太子「よろしくお願い致します、さすがは殿下だ」と若手官僚達が喜ぶ。しかし待詔の王叔文だけはずっと沈黙していた。やがて官僚達は下がっていった。太子はいつもは多弁な叔文が黙っているのが気になっていた。「おまえはこのことに反対なのか」叔文は答えた「宮市の件に異論があるのではございません」「太子が陛下に建言されるのを危ぶんでいるのです」「太...視膳問安[皇太子の役割]
和解[魚朝恩と郭子儀]--------------------------唐朝の主力軍を握る郭子儀と、親衛軍を握る宦官の魚朝恩、宰相の元載は互いに牽制し対立関係にあった。代宗皇帝は対立させ、しかも破綻させないという困難なバランスを保つ必要があった。大暦四年正月、郭子儀が河中より入朝してきた。そこで代宗は朝恩に歓迎の宴を催させることにした。「朝恩など信用できるものですか、お行きになるのは・・・どうかと思いますが」「どうしても行かれるならば、少なくとも精鋭200騎はお連れください、そして予備として・・・騎を即応で待機させます」子儀の屋敷では家臣達が口々に諫めていた。宰相元載は二者の結託を懼れ、「朝恩が子儀を謀殺しようとしている」という噂を広く流させていたのである。しかし子儀は「皇帝の命がないのに私を殺そうとす...和解[魚朝恩と郭子儀]
破約[吐蕃の背信]--------------------------貞元三年閏五月辛未朝廷に德宗皇帝と武臣宰相李晟・馬燧と宰相張延賞・柳渾が朝していました。この日は長らく侵攻を続けてきた吐蕃宰相尚結贊と副元帥侍中渾瑊が、平涼で會盟し和約を結ぶ予定の日でした。德宗が「今日で戦役が終わる、平和が来る、めでたいことだ」と笑顔を示した。会盟支持派の燧「まことに」と応じ、延賞も同じた。しかし反対派の渾は「吐蕃は信用出来ない蕃族です。なにごとも起きなければいいと心配しています」と洩らした。晟もまたそれに同じた。血相を変えた德宗が「書生の渾になにがわかる。晟まで同調しおって」と激怒し、早々に朝は終了した。夕刻、邠寧節度使韓游瓌から急報が入った。「吐蕃は盟約を破り、渾瑊の行方はわかりません。將士の大半は死んだもようです...破約[吐蕃の背信]
入貢[李泌と浙江節度使韓滉]--------------------------興元元年の十一月德宗皇帝は李晟の働きで反していた朱泚を伐ち、なんとか京師を回復したが、まだまだ淮西吳少誠・河中李懷光反しており情勢は不安定だった。そして德宗の動揺と不安に乗じて諌官達による誣告・中傷が頻発した。「浙江東西節度使韓滉は兵を集め石頭城を修築しています。これは極めて怪しい動きです」韓滉は斜陽の唐朝に多量の浙江の米穀を送ってくれた忠臣であったが「淮南の陳少游は裏切っている、浙江の韓滉までが裏切れば財政破綻だ、反乱鎮圧どころではない」と全てに疑心暗鬼になった德宗には心に突き刺さるものがあった。親任厚い謀臣の左散騎常侍李泌は「どうして貢献を続けている滉殿を疑うのですか、浙江を賊から守っているのは彼の力です。石頭城修築も治安...入貢[李泌と浙江節度使韓滉]
復讐[専殺は不可]--------------------------「ならんと言われるのか!!」河東節度使李載義は怒りに震えて喚いた。三年前の太和五年正月、幽州節度使であった載義は、信用していた後院副兵馬使楊志誠の突然の裏切りによって逐われた。それだけならよくあることである。しかし志誠は載義の妻を犯し、部下やその家族を虐殺したのであった。京師に逃げた載義は、朝廷にはそれまで忠義を尽くしていたので山西節度使として拾われ、その後河東節度使へ転任してきた。自立した志誠は朝廷に対して不遜な態度を示していたが、今。志誠もまた軍乱に逐われて京師へ逃亡して来るという。載義はその途次を襲い怨みをはらそうとしていたのだ。「志誠は不忠とはいえ朝臣です。法の裁きがなければ殺してはなりません」と使者が言う。「きゃつがしたことへ...復讐[専殺は不可]
切り捨て[宋申錫と文宗皇帝]--------------------------太和五年二月、神策都虞候豆盧著は左神策軍中尉王守澄[宦官]に、宰相宋申錫が文宗皇帝の弟漳王湊を奉じ、即位させようとしていると告発した。実は文宗が宋申錫と謀議して、宦官達の勢力を削り、特に王守澄を除こうとしたことへの先制攻撃であった。謀議は京兆尹王璠が守澄に寝返ったことからバレていたのだ。宦官達は謀臣鄭注の案に従い、直接文宗は攻撃せずに、申錫の罪として作り上げたのだ。守澄はなにもかも知った上で「我々があなたを立てたように、申錫は漳王を立てようとしているのです」と詰め寄ると。若い文宗はたちまち動揺し「朕はなにも知らぬ、申錫はなにを考えているのか」としらをきった。守澄はただちに神策軍を派遣し申錫一族を誅殺してしまおうとした。ところが...切り捨て[宋申錫と文宗皇帝]
復位[崔胤のクーデーター]--------------------------「くそ!おもしろくもねえ」「宦官どもが正統な帝を幽閉するなんて許せるのか!!」場末の飲み屋で左神策指揮使の孫徳昭が今夜も喚いていた。時は光化の末、唐朝もすっかり衰えて京師付近にしか勢力が及ばない。それでも昔の余光のおかげで地方の節度使からの献納はまだまだ馬鹿にならない。政府が混乱しているのに乗じて、徳昭も甘い汁をすこしは吸ってきた。「多少の余得がないと、兵隊業なんてバカバカしくてやってられねえ」もともとは鹽州地方からの出稼兵ぎである徳昭は禁軍の將の誇りや、忠義心などはさらさらないのだ。ところが先頃、宦官劉季述達が酒乱の昭宗皇帝を幽閉し、太子を立てて政権を握った。それだけなら、徳昭達にはどうでもいいのだが、一味の宦官王仲先が規律を...復位 [崔胤のクーデーター]
殿上の食事[張韶の乱]--------------------------「お前と俺は殿上で食事をすることになっているんだ」「よせやい、俺はしがない職工だぜ、お前もただの占い師じゃないか」「いや、本当の話だ。俺の占いがよくあたるってことは知っているだろう」長安の下町の一隅で、卜者蘇源明と染坊供人張韶の会話である。当時若い敬宗皇帝は、ポロや狩猟だと騒ぎ、政務など放り出し遊び回っていた。その馬鹿さ加減は長安中に広まっていた。「殿上での食事といゃあ、まるで皇帝様じゃねいか」「あんなうすのろ馬鹿に皇帝が勤まる時代だ」「そういえば韶はちょっとした男だしな」「韶が皇帝になるんじゃないのか」と染工仲間や無頼達は無責任に騒いだ。「いっちょう、世間を騒がしてやろうじやないか」「韶が皇帝なら、俺たちも貴族ぐらいになれるんだ」...殿上の食事 [張韶の乱]
牽制[宦官達と昭義節度使劉従諫]--------------------------李訓が宦官幹部を除こうとした甘露の変で、宦官仇士良達は事件の責任がない王涯等を含め宰相五人をすべて殺害した。その後も麾下の禁軍を暴れ回らせ出動させ、文宗皇帝や官僚達を威嚇し専権を極めた。新任の宰相李石・鄭覃らは武力をもたず制することができなかった。開成元年三月、昭義軍節度使劉従諫は使者を送り文宗に問うた「甘露の変に李訓等は責任があると聞いております。しかし王涯ら三相に罪ありとは聞いておりません。涯らがなぜ誅されたのか罪名をお伺いしたい」従諫は王涯と親しく、恩義を感じていたため、その殺害に憤っていたのだ。士良ら宦官達は日頃の威勢はどこへやら、まずいことになったと顔を見合わせていた。「従諫は近隣の諸鎮とともに入朝して直接お伺い...牽制[宦官達と昭義節度使劉従諫]
醜貌[盧杞を懼れる郭子儀]--------------------------盧杞は宰相懐慎の孫、安史の乱の忠臣である奕の子である。すこぶる有能であり德宗に認められ将来の宰相と目されていた。建中年間のある日、杞は帝命をうけ病気の郭子儀を見舞った。「杞が来る、準備はできておるか」「はっ、殿様。料理も舞姫達も・・・万全です」「女はすべて去らせよ、一人とて出してはならぬ」「杞様は、女嫌いなのですか」「バカな、あの顔をみて、もしも女達がクスリとでも笑ったらどうなる」「奴は恐ろしく執念深く、誇り高いのだ」「恥をかかされたと思ったら、徹底的に我家に仇をなすだろう」「次代の宰相は奴なのだ。禍は避けなければならん」杞の容貌は青鬼のようであり、服装はだらしないので有名であった。子儀はただ独り、杞の来訪を受けた。******...醜貌[盧杞を懼れる郭子儀]
郭琪の乱[田令孜と陳敬瑄]--------------------------黄巣が京師を陥し、宦官田令孜は傀儡の僖宗皇帝を奉じて西川節度使の使府成都に亡命してきました。令孜の兄敬瑄が節度使となっていたのです。やがて成都に四方より貢献が集まるようになると、令孜は率いてきた親軍に惜しみなくばらまいていきましたが、地元軍にはあまり与えず、そのため地元軍は不満をつのらせていました。中和元年七月令孜は地元の有力者・軍人を集めて宴会を開き、諸将に盃を与えましたが、黄頭軍使郭琪だけが受けず「賞賜は偏っています。親軍・地元軍平等に与えてください」と要求した。ムッとした令孜は「お前になんの軍功があるのか」と問うと、琪は「黨項と十七戰,契丹と十餘戰,吐谷渾との戦いでは重傷を負いました」と答えた。令孜は面倒な奴だとみて別置し...郭琪の乱[田令孜と陳敬瑄]
愚帝[敬宗皇帝の愚行と宦官]--------------------------宮城の門横の金雞の下には大赦を受けた囚人達が並んでいます。寶暦元年の正月のことです。囚人達は最後にここで晒し者にされ、その後釈放されるのです。前県令の崔發も並ばされていました。その時、「ここにいやがったぞ」「こいつか發は」「ぶっ殺してしまえ」50人もの宦官達が手に手に棒を持って集まってきました。發は県令として、百姓に暴力を振るっていた宦官を捕らえただけだけです。多少行き過ぎはあったとはいえ、不法なのは宦官のほうでした。ところが敬宗皇帝は宦官達の告発を受けていきなり發を獄にぶちこんだのだのです。幸い、大赦があり赦されることになったのですが。「やっちまえ・・・」、宦官達は次々と發を殴打し、歯が折れ頭から血が噴き出した。獄吏があわて...愚帝[敬宗の愚行と宰相李逢吉]
取りなし[武人李忠臣が辛京杲の刑死を救う]--------------------------河東節度使辛雲京の従弟京杲は勇敢で軍功があり湖南観察使となっていました。しかし強暴で貪欲であり、しばしば現地の豪族ともめて争乱を起こしていました。湖南は統治困難な地域なので代宗皇帝はおおめにみていましたが、京杲は贈賄・収賄を重ね、私的に部下を殺害する事件も起こしていました。即位した德宗皇帝は目に余るとして死刑に処するつもりでいました。建中元年のある朝、武将出身で宰相格の李忠臣が特に拝謁を求めてきました。皇帝は忠臣が雲京と親しいことを知っていたので、さては助命を嘆願しにきたなと察していましたが、代宗時代の姑息さを引き締める方針を堅持しているのではねつけるつもりでした。しかし忠臣はいかにも武臣らしく訥々と話し続け、い...取りなし[武人李忠臣が辛京杲の刑死を救う]
酒法[李景略の厳酷と任迪簡の寛容]--------------------------酒がめぐり座はにぎやかになっていった。辺境の豐州天徳軍防禦使の幕僚や將が集う宴会です。厳酷で知られる軍使李景略も今日は機嫌は良いようでした。「酒が切れたぞ」と景略の傍らの判官任迪簡がよぶと、係はあわてて新しい酒壷をもってきました。迪簡は自分でなみなみと注ぐと一気に飲もうとしました。「ウッ!」、ところが中身は酒ではなく醤醢(醤油の原型)であったのです。「どうした」と景略がこちらを振り向きました。「いやなんでもありません、急いで飲んだのでむせてしまいました」迪簡はがまんしてなんとか杯を飲み干しました。この宴会は軍法によって行われています、間違って醤醢を出したことなどがわかったら、係はすぐさま景略に殺されてしまうのです。それが...酒法[李景略の厳酷と任迪簡の寛容]
白紙の手紙[宰相元載の権勢]--------------------------元某は元載の家臣ではなく一族の端くれでした。故郷の財産を売り払い京師の元載の屋敷に寄宿し、官吏に登用してもらおうと雑事を引き受けていたのである。しかし十年以上もたったが登用はなく、持ってきた金も尽きようとしていていました。某は載の子伯和に泣きつきました。伯和は若い頃から知る某の窮状に同情し「某になにか官職を与えてやってはくれませんか」と父に働きかけました。「あいつは余りに無能だからな、職につけてもやっていけないぞ」と載。「もう私財も尽きて、故郷にも戻る金もないと嘆いています」と伯和。「わかったなんとかしてやろう」と載。数日後、載は某を呼び出し、親書を持たせて幽州節度使に使いを命じました。「どのような御用事ですか」と某「お前は知...白紙の手紙 [宰相元載の権勢]
笑う宰相[宦官魚朝恩の驕慢と宰相元載]--------------------------大暦年間、観軍容使として禁軍を握っていた宦官魚朝恩は、代宗皇帝を圧迫し専権を極めていた。宦官であるにもかかわらず多少の学才があることが自慢の彼は、おのれを誇示したくてたまらなかった。そこで皇帝に強要して、先例を無視して唯一の国立大学(日本でなら東大)である国子監を監督する地位についた。それのみならず「今度国子監で四書の講義をする」「聴講したいものは全員集まれ」と布告した。官僚達は宦官ごときの講義など受けたくもないが、行かないとどのような害をうけるかわからないのでこぞって出席した。講堂の満員盛況をみて朝恩は満悦であった。朝恩の単調な講義が始ると、居眠りや私語が続出してきた。それとみとった朝恩は時政の話題に切り替えた。途...笑う宰相 [宦官魚朝恩の驕慢と宰相元載]
夫婦げんか[不安定な代宗皇帝の地位と郭子儀]--------------------------代宗皇帝の娘昇平公主は、功臣である副元帥郭子儀の子曖に降嫁していました。大暦二年のある日、曖と公主は夫婦げんかをし、公主は自分が皇帝の娘であることで曖を貶めようとしました。激高した曖は「お前の父が皇帝だと、それは俺の親父の力のおかげなんだ、親父はなるつもりなら皇帝にだってなれるんだぞ」と言い放ちました。公主は怒って家を出て皇居に走り、代宗にその暴言を訴えました。ところが代宗は「お前はなにもわかっていない、子儀が欲すれば皇帝にだってなれる。そうなったらどうする」と叱りつけ追い返しました。驚いた子儀は恐懼し、曖を捕らえて謹慎させ、自ら入朝して代宗に謝罪しました。代宗は「ただの痴話喧嘩だ、あなたが気にすることは無い」...夫婦げんか [不安定な代宗皇帝の地位と郭子儀]
宦官伝を中断しています。当面、初期の頃に書いた史話シリーズをリライトし背景を付け加えたものを記載していきます。通知
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再建[李愬の準備]--------------------------元和十一年十二月閒廄宮苑使李愬は鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使に任ぜられた。愬は德宗時代の名将太尉晟の子であり、名門の子弟として順調に昇進していた。唐隨鄧等州節度使は対淮西吳元濟の第二戦線となる戦地であった。前使袁滋はひたすら元濟に宥和を働きかけ戦いを避けていた。そのため左遷され、武官の愬が赴任してきたのではあるが、愬も軍人としての実績はなかった。滋が戦いを避けたのは文官出身で宥和論者というだけではなく、相継ぐ敗戦によって肝腎の軍がガタガタになっていたためだ。「これはダメだな、兵数だけは揃っているが使い物にならない」「みんな淮西兵を懼れていて、戦いを避けることだけを心がけている」閲兵した愬は嘆じた。兵達も元濟も「こんどの節度使は名門のおぼっ...再建[李愬の準備]
中国では皇嗣の即位例はない--------------------------どこかの国に「皇嗣」という存在が居ます。皇太子・皇太孫・皇太弟・皇大叔などいろいろあるが、皇嗣には「太」がつきません。「太」という字は「最も尊い・最上位」という意味があるので「皇嗣」は格が低いということなのかもしれません。載初/天授元年[692]九月、則天は即位して「大周帝国」を建国しました。つまり「大唐帝国」は滅びたわけです。いままでの唐の傀儡皇帝の李旦は格下げされて皇嗣となり、輪と改名しました。旦/輪は則天の実子であるので「武氏姓」を与えられました。そして旦の子供達、皇太子成器は皇孫に、隆基達は「親王」から「郡王」に格下げされました。しかし皇嗣が則天を継承すると明確に定められたわけではなく、皇太子の座は空いたとも考えられます...中国では皇嗣の即位例はない
回紇和約その2[李泌の策]-------------------------德宗は「陝州の事、泌の言う通りかな」と重臣李晟や馬燧に問うた。両大臣は「臣らもそのように思います」と答えた。泌「すでに回紇は陛下に恥をかかせた可汗を殺し、新可汗が立っています。情勢は一新しているのです。今吐蕃の害は回紇に数倍です」德宗「そうは言っても回紇との和は困難であろう」泌「回紇が臣と称し、使節の数を制限し、漢人を拉致せず、吐蕃に共同して対抗するという条件で交渉したいと考えています「そんな条件を回紇が呑むとは思えない、特に臣と称するとは」「この条件なら陛下はお許しくださいますか?」「それができるなら朕には異存がない」回紇は西域諸国と唐の仲立ちをし交易の利を得ていたが、当時唐とは対立し経済的困難を抱えていた。内部には親唐派と反唐...回紇和約その2[李泌の策]
回紇和約その1[陝州の恥]-------------------------吐蕃の背信により盟約がならなかった貞元三年のある朝。宰相李泌は德宗皇帝と対していました。德宗は「邊將から馬が乏しい、これでは吐蕃は防げない、なんとかしてくれという要求がくる。しかし必要はわかるが手に入らない上に非常に高価だ」と嘆いた。泌「私の策を採用してもらえれば、数年の内に馬の供給は増え、安くもなります」「どんな策だ」「陛下のお気にいらぬとは思いますが、国のために申し上げざるえません」「卿はなにをためらっているのか」「北に回紇と和し、南に雲南、西に大食・天竺と通じれば,吐蕃は脅威となりません」「雲南・大食・天竺との和はよいが、回紇はだめだ」「陛下がそうおっしゃるとわかっていますが、回紇との和こそが肝腎なのです。三國はその後でよい...回紇和約その1[陝州の恥]
gooブログは廃止されるので、アメーバーブログに移転することになりました。様子をみるため4月中は共存させ、5月からはアメーバーブログのみ更新する予定です。アメーバーブログアドレス↓https://ameblo.jp/qutou0619/ブログ移転について[報告]
早期歸順[王承宗の選択]---------------------元和十三年年初「もうだめだ、勝ち目はなくなったな」成德節度使王承宗は追いつめられていた。淮西吳元濟、淄青李師道と組んで唐に反抗していた。征討軍を何度も撃退し領域を守っていたのだが、淮西元濟が李愬の奇襲により誅されてしまった。淄青師道は軍略がなく兵も弱いので頼みにならない。「淄青が残っている内に歸順しないと交渉にすら応じてもらえませんよ」と幕僚。「交渉は無理だろう、俺は皇帝に一番憎まれている。継承時に裏切っているし、宰相武元衡を殺したのも俺だと思われているし」「ですから誰かに仲介してもらわなければ」「幽州の劉總か魏博の田弘正しかいないが、どちらも敵対しているしな」「とにかく泣きつくしかありません。次に滅ぼされるのはうちか淄青です、早くしないと...早期歸順[王承宗の選択]
登用[憲宗の遺臣]--------------------------大中元年朝議の後、宣宗皇帝は宰相白敏中と雑談をしていた。「父憲宗皇帝の葬送の時だがな、途中で急な豪雨にあって、私を含めて百官達は雨宿りを求めて四散した」「ふとみると、白髭の山陵使一人が雨に打たれながら憲宗の靈駕に残って守っていた」「激しい雨に打たれ号泣しているように見えた」「あれは誰だったのかな?」「故宰相の令狐楚でしょう」と敏中。「子はいるのか?」「長子緒が隋州刺史と次子綯が湖州刺史として仕えています」「宰相になる素質はありそうか?」「緒は多病ですが、綯は才器がありそうです」宣宗はすぐ綯を考功郎中知制誥に任じて召し出した。入謝時、宣宗は元和[憲宗]時代の事を問い、綯は詳しく答えた。宣宗は満悦し宰相候補として翰林院に入れた。早くも大中四...登用[憲宗の遺臣]
冷遇[源休の怒り]--------------------------「ふざけやがって、俺がどんな思いをしてきたと思っているんだ」源休は荒れ狂っている。遠く回紇へ使に行った功として、光禄卿に任じられたのである。「光禄卿?窓際族扱いじゃないか」対応が難かしい回紇への使者なら、普通でももっと報われて当然である。しかも今回は、振武の張光晟が回紇の使者達を殺害した後である。当然、回紇国内は激高して、休達の生命すら危うかったわけである。長時間、雪中に立たされ問責され続けた。それを必死に陳弁して両国の平和を保ってきたのだ。宰相に任じられてもおかしくないはずだ。せめて実入りの良い節度使ぐらいに任命されて当然だ。それなのになんの利益もない光禄卿だ。「盧杞の野郎、今にみておれ」休の宰相盧杞と德宗皇帝に対する怒りはつのってい...冷遇[源休の怒り]
空虚[迪簡の忍耐]--------------------------「倉庫はからっぽです。前使がみんな持っていきました」「朝廷から送られてくる賜物はいつくるかわかりません」義武軍行軍司馬の任迪簡にとっては頭の痛いことばかりであった。前節度使の張茂昭は、易定二州を朝廷に返納して河中へ栄転していた。長い間の河北の自立の一角が崩れたわけである。しかし周囲の藩鎭はすべて敵であり、軍士達は不穏な状態が続いている。現に二回の反乱がおこり、そのたびに迪簡は監禁されていた。牙軍上層部は官爵を授けられ朝廷に従うつもりであるが、利益を感じられない中堅以下は不満であった。「こんな貧乏節度使だから、茂昭は投げ出していったんだ」「なけなしの財産もみんな持って行ったし」迪簡が軍士に与える賞賜はろくになかったし、宴会すら開くことがで...空虚[迪簡の忍耐]
背信[太宗と李勣]------------------------貞觀二十三年五月「疉州都督を命じる、ただちに赴任せよ」突然の左遷命令に宰相李勣は愕然とした。なんの原因も思い当たらない。竇建徳や王世充と戦っている頃からの太宗を戦友と信じ、困難な高久麗遠征にも全力で忠誠を尽くしていた勣である。「たよりない皇太子をしっかり補佐してくれよ」と病身の太宗から涙とともに頼まれ、感激して拝受したばかりであった。「本当は、陛下は俺など信じてなどくれてはいなかった。すぐ裏切る盗賊上がりとみていたんだ。俺はまんまと騙されていたんだ」家にも立ち寄らず疉州へ赴任する道で勣はどんどん覚めていった。「皇帝など信用出来ない、二度とだまされない」死期が迫った太宗は、皇太子治を呼んで言った「勣は名将だ、俺は重恩を与え奴を使いこなせた。し...背信[太宗と李勣]
僞勅[監軍王定遠の横暴]--------------------------貞元十一年七月の河東節度使府である。「ついては節度使李說を解任し、行軍司馬李景略を留後という勅命がくだった」監軍の王定遠(宦官)は壇上で甲高い声をあげていた。壇下の諸将は不満げにざわめき、お互いに顔をみあわせていた。說は節度使として有能ではないが、けっして嫌われてはいない。定遠は說を無視して専権を振るい、軍内の評判は極めて悪い。先日も逆らった軍人をひそかに殺して馬糞の下に埋めさせていた。なぜかそのことは諸将にも知れ渡ってしまっていた。說にそのことを責められ逆恨みし、朝廷に報告されないうちにと、勝手に解任しようとしていたのだ。諸将が納得していないのを見て取った定遠はさらにいった。「おまえ達の昇進の命令もここにたくさん来ている」そして...僞勅[監軍王定遠の横暴]
受忍[婁師德の生きる知恵]----------------------------------長壽二年正月寛厚で清廉で知られた宰相婁師德は、才智あふれる敏腕の同僚李昭德とともに入朝していた。広大な宮庭を肥満体の師德はのろのろと歩んでいく、若く元気な昭德は進んでは待ち、また進むの繰り返しであった。いらいらした昭德は思わず「田舎者めが」と吐き捨てた。師德は笑って「私が田舎者じゃなかったら、誰が田舎者なんでしょう」と言った。さすがの昭德もことばが出なかった。また師德の弟が代州刺史に昇進した。兄弟揃っての栄進に師德は弟を呼び出して戒めた。「私が宰相、お前が刺史となれば、人の妬む所だ。いかなる誣告があるやもしれない、どうすれば逃れられるかお前の心構えはどうかな」弟「たとえ顔に唾を吐きかけられても拭うだけでがまんしま...受忍[婁師德の生きる知恵]
厚遇[河北三鎭の分裂]--------------------------「魏博で軍乱がおきたようだの」と憲宗「幼少のものでは牙軍は抑えられませんからな」と李吉甫そこへ宰相李絳がやってきて言った。「新たに推された田興は魏博六州を朝廷の管轄に戻すと上奏してきています」「まさか、そんなことはあるはずがない」「いや本当です。官吏の任免も求めてきました」「興は田家の傍流です。そのため朝廷の早期の承認が必要なのです」「魏博が味方になれば、成徳の王承宗や平盧の李師道を分断できる」「田興を留後として認めてやろうか」河北三鎭等の半独立の節度使は、まず自立した者が任命を願い出て留後となり、牙軍が節度使として推薦してそれを朝廷が認めるという方式をとってきたのだ。李絳が言った。「留後では牙軍のおかげで昇進したということになりま...厚遇 [河北三鎭の分裂]
擁立される[田興の悩み]--------------------------元和七年魏博節度使田季安が32才で卒した。河北三鎭の一つ魏博節度も承嗣.悅.緒.季安と4代続いていた。承嗣・悅は反唐姿勢が明白だったが、唐より嘉誠公主を降嫁してもらった緒の代よりあいまいになった。公主を義母とした季安は若くして継承し、反唐の成德王承宗を陰で支援したりしたが、成德・淄青・淮西の反唐同盟には属さず、両端を持していた。そして乱行と深酒のため若死にしたのである。継承すべき子の懐諫はまだ11才である。当然藩鎭圧迫策を行う憲宗皇帝はなかなか継承を承認しない。驕兵である牙軍もさすがに動揺している。季安の卒後まもなく、いちおう懷諫を擁立はしたが、実務は家奴の蔣士則が取っていた。「士則のやつ、奴隷のくせにえらそうに俺達に指示しおって...擁立される[田興の悩み]
出家[幽州節度使劉總の苦悩]--------------------------今日もたくさんの僧達が読経をつづけ、寺院ともおもいかねない節度使の邸。僧達に混じって節度使の劉總もまた必死に読経を続けてきた。夜が来るのが恐ろしい。読経に疲れ果てて眠るわずかな睡眠だけが總の休養だ。毒殺した父、暗殺した兄や弟の亡霊が次々に總を苦しめる。「朝廷にお願いした件はどうなった」「殿は天平節度使に御転任です。幽州には元宰相の張弘靖様が来られます」「天平などは不要だ、ただ出家の許可が欲しいだけなのだ」「殿の功績を考えると一挙に僧というのはと・・・」「早く僧となって心の安静を得たい、地位や封爵などどうでもよい」魏博・成徳が帰順したあと、残った幽州も朝廷の支配下に戻ろうとしていた。しかし總には今の朝廷のやり方ではすぐに破綻する...出家[幽州節度使劉總の苦悩]
起死回生[李義府の挑戦]-----------------------「ああもうだめだ。俺の今までの努力はなんだったんだろう」中書舎人李義府は門下省からきた人事案をみて落胆していた。そこには義府を山西の壁州司馬に左遷すると書かれていた。義府はそんな左遷されるほどの失態を犯したわけではない。ささいなミスだ。しかし義府のような進士あがりの成り上がりを嫌悪する門閥派にとっては理由になるのだ。義府は太尉長孫無忌の己への冷たい視線を感じていた。ど田舎よりひたすら学問に打ち込んで、少しずつ昇進してきたのに、これですべて元の木阿弥である。再チャレンジなどはありえない。「どうした、そんな青い顔をして、どこか悪いのか?」と同僚の王德儉が心配して聞いてきた。「俺はもう終わりだ。明日僻地へ左遷になるんだ」「うーん、これはひどい...起死回生[李義府の挑戦]
-----------------------王長諧-----------------------瓜州刺史直の子。隋鷹揚郎將義寧元年六月李淵[高祖]反乱時、統軍八月劉弘基・陳演壽・史大柰と黄河辺で隋將屈突通と対峙した。九月屈突通將桑顯和と戦う。劉文靜麾下で永豐倉に屯し、潼關を守る。屈突通將軍劉綱を潼關に破り斬り、潼関城を守り抜いた。光禄大夫武德九年~貞觀元年會州都督として収賄し弾劾されたが、太宗は赦した。左武衛大將軍貞觀初秦州都督.封平原郡公陪葬獻陵。唐初功臣傳41王長諧
-----------------------張儉字師約-----------------------父植は隋車騎將軍.連城縣公。儉は李淵[高祖]の從甥。右衛郎將となった。貞觀元年~四年軍功をもって朔州刺史にいたった。時に突厥頡利可汗は強盛で辺境州から脅し取っていた。儉は屈せず、また屯田を経営し十萬斛とし軍糧を蓄積し民を安撫した。四年檢校勝州都督となり母憂で職を去った。突厥が亡んだ後、思結部落は貧窮し離散していたが、儉は招慰して安住させ、外地に住む者も往来させて羈縻が成功していた。儉が離任した後、叛乱が起きようとしたが、儉が慰撫すると、諸首領は帰服した。四年檢校代州都督に移ると、やはり營田を勧め、和糴を行ったため蕃人は喜悅、軍食は充足した。十四年~永徽四年營州都督兼護東夷校尉に移ったが、坐事削官。十五年十...唐初功臣傳40張儉
----------------------------李孟嘗/孟常字待賓----------------------------貧民の出身であり盗となり24歳で王君廓麾下となった。武德元年君廓に従い唐に帰属し開府儀同三司となった。八月世民[太宗]に従い薛擧・仁果征討に従軍した。三年劉武周征討に従い、軍功があり上柱国となった。四年五月王世充・竇建徳征討に従った。六年五月李勣に従い徐圓朗を討った。九年六月玄武門の変[建成暗殺]に参加、右監門副率となった。七月右監門中郎将、封武水縣公に進んだ。十月食實封四百戸貞觀三年~四年李勣に従い突厥征討に功績があり、漢東郡公に進んだ。貞觀十四年右驍衛将軍貞觀十八年右屯衛将軍貞觀二十年/永徽元年黔州刺史/都督良政あり永徽元年十二月反した琰州獠を謝萬歳等と討った。永徽六年右監...唐初功臣傳39李孟嘗/孟常
-----------------------許世緒/緒字玄嗣-----------------------洛仁の兄。益州司馬から大業末,隋鷹揚府司馬であり、李淵[唐高祖]と親しくしばしば「今は蜂起するべき時期だ。そうしないと他の出し抜かれますよ」と唆した。反乱が起きると右一府司馬左/右武侯/驍衛長史左散騎常侍大府卿/少卿司農卿武德中封真定郡公鄂州刺史武德七年/八年瓜州刺史/都督銀靑光禄大夫豫州刺史貞觀中在任卒63歳贈靈州都督唐初功臣傳38許世緒/緒
---------------------------李思行----------------------------仇を避けて太原に逃げていた。李淵[高祖]反乱後、長安に偵察に派遣され動靜を窺った。左三統軍となる。隋將宋老生を破った。長安陥落後.驃騎将軍齊王元吉護軍となった。玄武門の変後、磁州で捕らえられるが魏徴がとりなして赦される。貞觀~永徽嘉州刺史.封樂安郡公。永徽初卒,贈洪州都督,謚曰襄。唐初功臣傳37李思行
----------------------------張崇字平高----------------------------隋末鷹揚府校尉として太原に屯し李淵[高祖]と知り合い反乱を議した。反乱後軍頭となった。長安陥落後、驃騎將軍となった。左領軍將軍封蕭國公にいたった。武德九年十月食實封三百戸貞觀初丹州刺史坐事免職され、右光祿大夫として致仕卒後改封羅國公。永徽中,追贈潭州都督。唐初功臣傳36張崇/平高
----------------------------趙文恪----------------------------隋末に鷹揚府司馬として太原李淵の麾下であった。大業十三年反乱に参加し右三統軍。武德二年都水監.封新興郡公。并州で突厥からの軍馬購入に努力した。武徳二年三月劉武周將宋金剛が太原に来寇し、浩州を守る李仲文を救援に赴いた。しかし太原も齊王元吉が逃げて陥落し、文恪も城を棄てて敗走したため獄死した。齊王元吉はなにも罪に問われなかった。唐初功臣傳35趙文恪
----------------------------樊興/樊世興字積慶----------------------------武陵の蠻族出身。父の罪で李淵[高祖]家の奴隷となっていた。反乱後軍に従い、通議大夫から金紫光禄大夫。長安平定後に左光禄大夫となった。また世民[太宗]に従い薛舉を攻める。武德四年父方の謀反の罪で連座削官された。王世充、竇建德と戦い戦功を積み封營國公。七年劉黒闥征討の功績で右監門將軍となった。八年天節将軍となった。九年十月食實封四百戸。坐事削爵。貞觀六年陵州獠の反を討ち、左驍衛將軍。李靖に従い赤水道行軍總管として吐谷渾を討つが、逗留し期限に遅れて敗北し免官。久しくして左監門大將軍封襄城郡公。太宗の遼東遠征時、忠勤をかわれて京師留守房玄齡の副となる。檢校右武候將軍。永徽元年卒,63歳...唐初功臣傳34樊興/世興
----------------------------公孫武達----------------------------腕力に優れ豪俠と称していた。隋驍果軍士卒となっていた。武德初李淵[高祖]に長春宮で謁し麾下となった。二年十一月世民[太宗]麾下となり、劉武周征討に従い軍功をたてた。また王世充、竇建德征討に従い秦王府右三軍驃騎.封清水縣公となった。九年六月玄武門の変[建成暗殺]に参加した。十月食實封四百戸を与えられた。貞觀初檢校右監門將軍貞觀三年肅州刺史十一月甘州刺史成仁重と突厥の来寇を大破し、左監門將軍。鹽州の突厥が反乱し、武達は靈州へ赴き突厥軍を破った。進封東萊郡公。永徽中右武衛大將軍卒,贈荊州都督,陪葬昭陵,謚曰壯。唐初功臣傳33公孫武達
----------------------------------------夏侯端-----------------------------------------梁左僕射詳の孫。隋大理司直となり李淵[高祖]と親交があった。大業中李淵が河東の討賊をしたときには、端が副であった。そして煬帝の乱政を批判し淵に決起を勧めた。反乱が起こったとき端は河東郡にいて,淵との関係を疑われて捕らえられ長安の獄に囚された。淵が長安を陥すと、秘書監に任ぜられた。武德二年四月大將軍を加えられ持節河南道招慰使として關東の地を招諭に派遣された。十月黎陽から澶水黄河を渡り海に至まで二十余州を招撫送款させた。しかし亳州刺史丁叔則や汴州刺史王要漢が王世充についたため、中間を遮断された。端は衆心を得ており所從が二千人もいたが、孤立したた...唐初功臣傳32夏侯端
----------------------------羅士信----------------------------大業十年長白山賊王簿、左才相、孟讓が齊郡に来寇した。通守張須陀が迎撃、士信は14歳で参加を申し出て勇戦し、須陀の激賞を得た。そして須陀の副となり奮戦し、煬帝も認めるほどになった。義寧元年四月須陀が李密との戦いで戦死すると、士信は裴仁基に従い密に仕えて總管となった。李密に従い王世充と奮戦するが敗れて捕らえられた。世充はその驍勇を知っていたので厚遇した。武徳二年七月その後世充は李密の叛将邴元真等を起用したため、士信は同列となるを恥じ、所部千余人とともに谷州に奔り唐に帰した十月高祖は士信を陝州道行軍總管とし世充を攻撃させた。士信は青城堡を陥した。三年四月慈澗を囲み、世充太子玄應を破った。十月千金...唐初功臣傳31羅士信
---------------------李安遠---------------------隋上柱国雲州刺史徹の子。家が富んでいたため無頼で博徒と通じていた。しかし成長すると讀書を好み友を選んだ。父の爵を継ぎ城陽公となった。王珪と親しく、大業初に珪が処罰され配流になった時に庇った。正平縣令となり、絳郡通守陳叔達とともに李淵の反乱軍に抗したが落城して捕まった。むしかし淵と旧交があったため赦されて右翊衛統軍封正平縣公となった。武德元年屈突通を破り上柱國右武衛大將軍に進んだ。世民[太宗]に従い軍功があって廣德郡公に進んだ。また吐谷渾に使いして,渾主伏允を慰撫して互市を開始した。太子建成が安遠を誘ったが同ぜず、世民の党派にいた。貞觀初京師を巡察して治安を守った。潞州都督五年~七年懷州刺史いずれも有能であったが厳格す...唐初功臣傳30李安遠
-----------------------丘行恭-----------------------騎射に優れ勇敢絕倫であり、大業末に兄の師利とともに岐、雍間で群盗となっていた。故郿城を本拠とし自立できていた。義寧元年九月原州奴賊數萬人を従え唐軍に参加し、光祿大夫となる。長安平定後、薛舉、劉武周、王世充、竇建德と戦い戦功があって、左一府驃騎となった。武德四年世充との戦いでは落馬した秦王を助け奮戦した。太子建成の殺害に参加し、左衛將軍となった。武德末冀州刺史貞觀陝州刺史。貞觀中嫡兄と生母葬儀で争い、弾劾され除名。しかしすぐ復官。侯君集の高昌遠征に従い,封天水郡公,右武候將軍となった。高宗嗣位右武侯大將軍.譚國公.老齢により致仕,拜光祿大夫。性嚴酷で同僚から敬遠されていた。麟德二年卒、八十歳。贈荊州都督/刺史,...唐初功臣傳29丘行恭
-----------------------龐玉/寵玉-----------------------隋儀同大将軍徽の子。義寧元年五月煬帝は監門將軍涇陽寵玉と霍世舉に關內兵を率いさせ東都に派遣した。東都越王麾下として李密軍を大破した。九月寵玉等は偃師兵を率いて、世充と合同し李密を洛口に撃った。王世充が東都で簒奪したとき、皇甫無逸とともに萬騎をひきつれて唐に帰順した。高祖は隋旧臣の来降を喜び領軍・武衛大将軍に任じた。武德元年九月唐将軍として淺水原て゜薛仁果と戦った。十月右武候大將軍として西討に向かった。十二月河東堯君素を攻めた。二年十月左武候大將軍から梁州總管となり、巴集州獠を平定した。四年越州都督として能政だつた。韓國公太宗即位左監門大将軍掌東宮軍務。貞觀十一年卒贈工部尚書.豳州都督。唐初功臣傳28龐玉/寵玉
----------------------------王雄誕----------------------------強壮で腕力絶倫だった。杜伏威が蜂起すると参加して活躍し成果をあげ、驃騎將軍と称した。大業十一年十月伏威が李子通に裏切られて襲われた時、怪我をした伏威を背負って逃げ、自らも負傷しながらついに退避させた。闞棱を軍中では「大將軍」、雄誕を「小將軍」と呼んだ。武德三年伏威腹心の輔公祏とともに子通を討った。四年十一月李子通と蘇州に戦いついには捕らえた。歙守の汪華を攻めて降した。蘇賊で昆山に拠る遂安を攻めて降らせた。四年功により歙州總管封宜春郡公となった。伏威は唐に入朝し、留守の兵権は雄誕が握った。六年八月輔公祏が反するとき邪魔な雄誕を伏威の命として排斥し、雄誕は落胆して病となった。公祏は兵権を奪って...唐初功臣傳27王雄誕
----------------------------李/羅藝字子廷/子延----------------------------父榮は隋監門將軍。冷酷で勇敢であり、大業末に虎賁郎將となり対高麗征討に参加した。上官の留守右武衛大將軍督李景と対立していた。全国に盗賊が起こり、涿郡には対高麗戦用の物資が山積していた。その資財のため周囲の賊の侵攻を受け、留守將趙什住、賀蘭誼、晉文衍等は対処できなかった。しかし藝は常に出撃して賊を破り諸將に懼れられていた。藝は反意があり、出撃した麾下の兵に対して「我々は功績があるのに報いがない,物資は沢山あるのに留守が独占して自分用としているのだ」と告げ、士卒に不満を抱かせた。大業十二年十二月藝は帰還して郡丞を捕らえて城に突入した。諸将はその勢いに懼れて従った。倉庫を開き戰士に...唐初功臣傳26李/羅藝
----------------------------皇甫無逸字仁儉----------------------------父誕は隋并州總管府司馬で漢王諒反時に同ぜず殺された。無逸は母に孝行で知られ、淯陽太守となり名声があり、右武衛將軍となり洛陽を守っていた。義寧二年五月煬帝が殺されると段達・元文都と越王侗を擁立して兵部尚書杞國公となった。武德元年七月王世充が簒奪すると、母妻を棄てて唐へ奔った。唐高祖は隋の勳舊が来降したのを喜び、刑部尚書封滑國公とした。十二月蒲州堯君素を説くが降らなかった。陝東道行台民部尚書から御史大夫へ移り、益州道安撫大使として蜀地を持節巡撫して安定させた。皇甫希仁に誣告されたが高祖は取り上げなかった。また荊州の蕭銑と交通していると告発されたが免れた。行台僕射竇璡の不法を弾劾し璡はし...唐初功臣傳25皇甫無逸
-----------------------------鄭元璹/元鑄字德芳-----------------------------隋沛國公譯子。賢明で文藝に優れていた。父の功により儀同襲沛國公。累遷して右衛將軍,莘國公に代わる。大業末に文城郡守となる。李淵[高祖]反し、將張綸が文城を陥し捕らえられるが、名門の出なので赦され太常卿となる。義寧二年/武德元年二月太常卿として商洛,南陽を平定した。武德元年八月襄武王琛と突厥始畢可汗に使いして、帰還後、參旗將軍となった。軍旅の事や軍法に通じていた。十/十二月鄭元璹は步騎一萬を率いて南陽賊帥朱粲を商/浙州に破った。武徳二年突厥處羅可汗に侵攻を止めるよう説いたが受入れられず。處羅が急死しため、置毒を疑われて抑留された。四年四月突厥寇并州,漢陽郡王瑗、鄭元璹、長孫順...唐初功臣傳24鄭元璹/元鑄
-----------------------劉政會-----------------------祖環雋は北齊中書侍郎であった。大業中に太原鷹揚府/開陽府司馬司馬となり留守李淵[高祖]の部下となった。副留守王威や高君雅は淵の反意を疑って警戒していた。そこで先手を打って政會に二人が突厥と通じ謀反していると誣告させて殺した。大將軍府戶曹參軍となった。長安平定後、丞相府掾となる。武德元年衛尉少卿として留守太原。武德二年九月劉武周が并州を陥した時捕らえられるが、賊の内情を通報し、回復後,復官爵。光禄大夫刑部尚書光祿卿封邢國公貞觀初洪州都督,賜實封三百戶。九年卒,贈民部尚書,謚曰襄。追改封渝國公後配饗高祖廟庭永徽五年追贈并州都督唐初功臣傳23劉政會
-----------------------王君廓-----------------------若くして無頼で郷里の鼻つまみであったが、大業末に盜となり、千餘人を集めて、長平を掠奪し夏縣に迫った。河東丞丁榮が討伐するが撃破し、賊韋寶、鄧豹等と虞鄉を掠奪した。隋將宋老生に敗れて逃げた。義寧元年二月李淵[高祖]の招聘には従わず、李密の麾下となった。二年四月李密に優遇されないので、淵の麾下に転じた。上柱國、假河內太守、常山郡公食邑二千戶となった。ついで遼州刺史となり、上谷郡公に移った。王世充征討に従い右武衛將軍となった。武德三年七月軒轅羅川二縣を陥し,世充將魏隱を破り、糧道を断ち、彭國公に進んだ。四年二月虎牢を陥し王世充荊王王行本を捕らた。四月竇建徳の糧道を断ち張青特を破り捕らえた。五年正月劉黒闥下の洺水人李...唐初功臣傳22王君廓