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2019/03/24

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  • まもなくこちらは更新停止します

    アメーバブログが順調に更新できていますので、こちらはまもなく停止します。これからは↓をご覧くださいhttps://ameblo.jp/qutou0619/まもなくこちらは更新停止します

  • 再建 [李愬の準備]

    再建[李愬の準備]--------------------------元和十一年十二月閒廄宮苑使李愬は鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使に任ぜられた。愬は德宗時代の名将太尉晟の子であり、名門の子弟として順調に昇進していた。唐隨鄧等州節度使は対淮西吳元濟の第二戦線となる戦地であった。前使袁滋はひたすら元濟に宥和を働きかけ戦いを避けていた。そのため左遷され、武官の愬が赴任してきたのではあるが、愬も軍人としての実績はなかった。滋が戦いを避けたのは文官出身で宥和論者というだけではなく、相継ぐ敗戦によって肝腎の軍がガタガタになっていたためだ。「これはダメだな、兵数だけは揃っているが使い物にならない」「みんな淮西兵を懼れていて、戦いを避けることだけを心がけている」閲兵した愬は嘆じた。兵達も元濟も「こんどの節度使は名門のおぼっ...再建[李愬の準備]

  • 中国では皇嗣の即位例はない

    中国では皇嗣の即位例はない--------------------------どこかの国に「皇嗣」という存在が居ます。皇太子・皇太孫・皇太弟・皇大叔などいろいろあるが、皇嗣には「太」がつきません。「太」という字は「最も尊い・最上位」という意味があるので「皇嗣」は格が低いということなのかもしれません。載初/天授元年[692]九月、則天は即位して「大周帝国」を建国しました。つまり「大唐帝国」は滅びたわけです。いままでの唐の傀儡皇帝の李旦は格下げされて皇嗣となり、輪と改名しました。旦/輪は則天の実子であるので「武氏姓」を与えられました。そして旦の子供達、皇太子成器は皇孫に、隆基達は「親王」から「郡王」に格下げされました。しかし皇嗣が則天を継承すると明確に定められたわけではなく、皇太子の座は空いたとも考えられます...中国では皇嗣の即位例はない

  • 回紇和約 その2 [李泌の策]

    回紇和約その2[李泌の策]-------------------------德宗は「陝州の事、泌の言う通りかな」と重臣李晟や馬燧に問うた。両大臣は「臣らもそのように思います」と答えた。泌「すでに回紇は陛下に恥をかかせた可汗を殺し、新可汗が立っています。情勢は一新しているのです。今吐蕃の害は回紇に数倍です」德宗「そうは言っても回紇との和は困難であろう」泌「回紇が臣と称し、使節の数を制限し、漢人を拉致せず、吐蕃に共同して対抗するという条件で交渉したいと考えています「そんな条件を回紇が呑むとは思えない、特に臣と称するとは」「この条件なら陛下はお許しくださいますか?」「それができるなら朕には異存がない」回紇は西域諸国と唐の仲立ちをし交易の利を得ていたが、当時唐とは対立し経済的困難を抱えていた。内部には親唐派と反唐...回紇和約その2[李泌の策]

  • 回紇和約 その1 [陝州の恥]

    回紇和約その1[陝州の恥]-------------------------吐蕃の背信により盟約がならなかった貞元三年のある朝。宰相李泌は德宗皇帝と対していました。德宗は「邊將から馬が乏しい、これでは吐蕃は防げない、なんとかしてくれという要求がくる。しかし必要はわかるが手に入らない上に非常に高価だ」と嘆いた。泌「私の策を採用してもらえれば、数年の内に馬の供給は増え、安くもなります」「どんな策だ」「陛下のお気にいらぬとは思いますが、国のために申し上げざるえません」「卿はなにをためらっているのか」「北に回紇と和し、南に雲南、西に大食・天竺と通じれば,吐蕃は脅威となりません」「雲南・大食・天竺との和はよいが、回紇はだめだ」「陛下がそうおっしゃるとわかっていますが、回紇との和こそが肝腎なのです。三國はその後でよい...回紇和約その1[陝州の恥]

  • ブログ移転について[報告]

    gooブログは廃止されるので、アメーバーブログに移転することになりました。様子をみるため4月中は共存させ、5月からはアメーバーブログのみ更新する予定です。アメーバーブログアドレス↓https://ameblo.jp/qutou0619/ブログ移転について[報告]

  • 早期歸順 [王承宗の選択]

    早期歸順[王承宗の選択]---------------------元和十三年年初「もうだめだ、勝ち目はなくなったな」成德節度使王承宗は追いつめられていた。淮西吳元濟、淄青李師道と組んで唐に反抗していた。征討軍を何度も撃退し領域を守っていたのだが、淮西元濟が李愬の奇襲により誅されてしまった。淄青師道は軍略がなく兵も弱いので頼みにならない。「淄青が残っている内に歸順しないと交渉にすら応じてもらえませんよ」と幕僚。「交渉は無理だろう、俺は皇帝に一番憎まれている。継承時に裏切っているし、宰相武元衡を殺したのも俺だと思われているし」「ですから誰かに仲介してもらわなければ」「幽州の劉總か魏博の田弘正しかいないが、どちらも敵対しているしな」「とにかく泣きつくしかありません。次に滅ぼされるのはうちか淄青です、早くしないと...早期歸順[王承宗の選択]

  • 登用 [憲宗の遺臣]

    登用[憲宗の遺臣]--------------------------大中元年朝議の後、宣宗皇帝は宰相白敏中と雑談をしていた。「父憲宗皇帝の葬送の時だがな、途中で急な豪雨にあって、私を含めて百官達は雨宿りを求めて四散した」「ふとみると、白髭の山陵使一人が雨に打たれながら憲宗の靈駕に残って守っていた」「激しい雨に打たれ号泣しているように見えた」「あれは誰だったのかな?」「故宰相の令狐楚でしょう」と敏中。「子はいるのか?」「長子緒が隋州刺史と次子綯が湖州刺史として仕えています」「宰相になる素質はありそうか?」「緒は多病ですが、綯は才器がありそうです」宣宗はすぐ綯を考功郎中知制誥に任じて召し出した。入謝時、宣宗は元和[憲宗]時代の事を問い、綯は詳しく答えた。宣宗は満悦し宰相候補として翰林院に入れた。早くも大中四...登用[憲宗の遺臣]

  • 冷遇 [源休の怒り]

    冷遇[源休の怒り]--------------------------「ふざけやがって、俺がどんな思いをしてきたと思っているんだ」源休は荒れ狂っている。遠く回紇へ使に行った功として、光禄卿に任じられたのである。「光禄卿?窓際族扱いじゃないか」対応が難かしい回紇への使者なら、普通でももっと報われて当然である。しかも今回は、振武の張光晟が回紇の使者達を殺害した後である。当然、回紇国内は激高して、休達の生命すら危うかったわけである。長時間、雪中に立たされ問責され続けた。それを必死に陳弁して両国の平和を保ってきたのだ。宰相に任じられてもおかしくないはずだ。せめて実入りの良い節度使ぐらいに任命されて当然だ。それなのになんの利益もない光禄卿だ。「盧杞の野郎、今にみておれ」休の宰相盧杞と德宗皇帝に対する怒りはつのってい...冷遇[源休の怒り]

  • 空虚 [迪簡の忍耐]

    空虚[迪簡の忍耐]--------------------------「倉庫はからっぽです。前使がみんな持っていきました」「朝廷から送られてくる賜物はいつくるかわかりません」義武軍行軍司馬の任迪簡にとっては頭の痛いことばかりであった。前節度使の張茂昭は、易定二州を朝廷に返納して河中へ栄転していた。長い間の河北の自立の一角が崩れたわけである。しかし周囲の藩鎭はすべて敵であり、軍士達は不穏な状態が続いている。現に二回の反乱がおこり、そのたびに迪簡は監禁されていた。牙軍上層部は官爵を授けられ朝廷に従うつもりであるが、利益を感じられない中堅以下は不満であった。「こんな貧乏節度使だから、茂昭は投げ出していったんだ」「なけなしの財産もみんな持って行ったし」迪簡が軍士に与える賞賜はろくになかったし、宴会すら開くことがで...空虚[迪簡の忍耐]

  • 排斥 [牛李の狭間]

  • 背信 [太宗と李勣]

    背信[太宗と李勣]------------------------貞觀二十三年五月「疉州都督を命じる、ただちに赴任せよ」突然の左遷命令に宰相李勣は愕然とした。なんの原因も思い当たらない。竇建徳や王世充と戦っている頃からの太宗を戦友と信じ、困難な高久麗遠征にも全力で忠誠を尽くしていた勣である。「たよりない皇太子をしっかり補佐してくれよ」と病身の太宗から涙とともに頼まれ、感激して拝受したばかりであった。「本当は、陛下は俺など信じてなどくれてはいなかった。すぐ裏切る盗賊上がりとみていたんだ。俺はまんまと騙されていたんだ」家にも立ち寄らず疉州へ赴任する道で勣はどんどん覚めていった。「皇帝など信用出来ない、二度とだまされない」死期が迫った太宗は、皇太子治を呼んで言った「勣は名将だ、俺は重恩を与え奴を使いこなせた。し...背信[太宗と李勣]

  • 僞勅 [監軍王定遠の横暴]

    僞勅[監軍王定遠の横暴]--------------------------貞元十一年七月の河東節度使府である。「ついては節度使李說を解任し、行軍司馬李景略を留後という勅命がくだった」監軍の王定遠(宦官)は壇上で甲高い声をあげていた。壇下の諸将は不満げにざわめき、お互いに顔をみあわせていた。說は節度使として有能ではないが、けっして嫌われてはいない。定遠は說を無視して専権を振るい、軍内の評判は極めて悪い。先日も逆らった軍人をひそかに殺して馬糞の下に埋めさせていた。なぜかそのことは諸将にも知れ渡ってしまっていた。說にそのことを責められ逆恨みし、朝廷に報告されないうちにと、勝手に解任しようとしていたのだ。諸将が納得していないのを見て取った定遠はさらにいった。「おまえ達の昇進の命令もここにたくさん来ている」そして...僞勅[監軍王定遠の横暴]

  • 受忍 [婁師德の生きる知恵]

    受忍[婁師德の生きる知恵]----------------------------------長壽二年正月寛厚で清廉で知られた宰相婁師德は、才智あふれる敏腕の同僚李昭德とともに入朝していた。広大な宮庭を肥満体の師德はのろのろと歩んでいく、若く元気な昭德は進んでは待ち、また進むの繰り返しであった。いらいらした昭德は思わず「田舎者めが」と吐き捨てた。師德は笑って「私が田舎者じゃなかったら、誰が田舎者なんでしょう」と言った。さすがの昭德もことばが出なかった。また師德の弟が代州刺史に昇進した。兄弟揃っての栄進に師德は弟を呼び出して戒めた。「私が宰相、お前が刺史となれば、人の妬む所だ。いかなる誣告があるやもしれない、どうすれば逃れられるかお前の心構えはどうかな」弟「たとえ顔に唾を吐きかけられても拭うだけでがまんしま...受忍[婁師德の生きる知恵]

  • 厚遇   [河北三鎭の分裂]

    厚遇[河北三鎭の分裂]--------------------------「魏博で軍乱がおきたようだの」と憲宗「幼少のものでは牙軍は抑えられませんからな」と李吉甫そこへ宰相李絳がやってきて言った。「新たに推された田興は魏博六州を朝廷の管轄に戻すと上奏してきています」「まさか、そんなことはあるはずがない」「いや本当です。官吏の任免も求めてきました」「興は田家の傍流です。そのため朝廷の早期の承認が必要なのです」「魏博が味方になれば、成徳の王承宗や平盧の李師道を分断できる」「田興を留後として認めてやろうか」河北三鎭等の半独立の節度使は、まず自立した者が任命を願い出て留後となり、牙軍が節度使として推薦してそれを朝廷が認めるという方式をとってきたのだ。李絳が言った。「留後では牙軍のおかげで昇進したということになりま...厚遇 [河北三鎭の分裂]

  • 擁立される [田興の悩み]

    擁立される[田興の悩み]--------------------------元和七年魏博節度使田季安が32才で卒した。河北三鎭の一つ魏博節度も承嗣.悅.緒.季安と4代続いていた。承嗣・悅は反唐姿勢が明白だったが、唐より嘉誠公主を降嫁してもらった緒の代よりあいまいになった。公主を義母とした季安は若くして継承し、反唐の成德王承宗を陰で支援したりしたが、成德・淄青・淮西の反唐同盟には属さず、両端を持していた。そして乱行と深酒のため若死にしたのである。継承すべき子の懐諫はまだ11才である。当然藩鎭圧迫策を行う憲宗皇帝はなかなか継承を承認しない。驕兵である牙軍もさすがに動揺している。季安の卒後まもなく、いちおう懷諫を擁立はしたが、実務は家奴の蔣士則が取っていた。「士則のやつ、奴隷のくせにえらそうに俺達に指示しおって...擁立される[田興の悩み]

  • 出家 [幽州節度使劉總の苦悩]

    出家[幽州節度使劉總の苦悩]--------------------------今日もたくさんの僧達が読経をつづけ、寺院ともおもいかねない節度使の邸。僧達に混じって節度使の劉總もまた必死に読経を続けてきた。夜が来るのが恐ろしい。読経に疲れ果てて眠るわずかな睡眠だけが總の休養だ。毒殺した父、暗殺した兄や弟の亡霊が次々に總を苦しめる。「朝廷にお願いした件はどうなった」「殿は天平節度使に御転任です。幽州には元宰相の張弘靖様が来られます」「天平などは不要だ、ただ出家の許可が欲しいだけなのだ」「殿の功績を考えると一挙に僧というのはと・・・」「早く僧となって心の安静を得たい、地位や封爵などどうでもよい」魏博・成徳が帰順したあと、残った幽州も朝廷の支配下に戻ろうとしていた。しかし總には今の朝廷のやり方ではすぐに破綻する...出家[幽州節度使劉總の苦悩]

  • 起死回生 [李義府の挑戦]

    起死回生[李義府の挑戦]-----------------------「ああもうだめだ。俺の今までの努力はなんだったんだろう」中書舎人李義府は門下省からきた人事案をみて落胆していた。そこには義府を山西の壁州司馬に左遷すると書かれていた。義府はそんな左遷されるほどの失態を犯したわけではない。ささいなミスだ。しかし義府のような進士あがりの成り上がりを嫌悪する門閥派にとっては理由になるのだ。義府は太尉長孫無忌の己への冷たい視線を感じていた。ど田舎よりひたすら学問に打ち込んで、少しずつ昇進してきたのに、これですべて元の木阿弥である。再チャレンジなどはありえない。「どうした、そんな青い顔をして、どこか悪いのか?」と同僚の王德儉が心配して聞いてきた。「俺はもう終わりだ。明日僻地へ左遷になるんだ」「うーん、これはひどい...起死回生[李義府の挑戦]

  • 廃太子その2 [長孫無忌の暗躍]

    廃太子その2[長孫無忌の暗躍]----------------------貞觀十七年三月、目付役の長史權萬紀に追いつめられた齊王祐が齊州で反したがすぐ誅された。その騒動がまだ収まらないうちに皇太子承乾の麾下紇干承基が太子が漢王元昌や宰相侯君集とともに謀叛を企んでいると告発した。たしかに承乾は太宗に不満を持ち、その行状は蕃族の様態で、太宗のめざす漢化や文治にはほど遠い状況であった。弟の魏王泰はしきりに太宗に誣告したため、承乾の泰への憎しみは強く兄弟相克の危機の兆しはあったが実際に謀叛が計画されていたかは不明である。四月太宗は承乾を廃し、魏王泰を代わりに立てようとした。無忌は焦った「泰が太子となり即位すれば、今のように重用されないだろう。あいつは傀儡となる男ではない」「承乾と泰様の対立が今回の事件の根源です」...廃太子その2[長孫無忌の暗躍]

  • 廃太子その1 [長孫無忌の苦悩]

    廃太子その1[長孫無忌の苦悩]----------------------「困ったものだ、あれでは皇帝は務まらん、鮮卑の可汗だよ」太宗の重臣で皇后の兄長孫無忌は嘆じた。皇太子承乾の行状である。もともと唐の皇室李氏は鮮卑族であり、長孫氏も鮮卑拓抜系の蕃族である。だから承乾が蕃族としての生活を好み、性格もそうなるのは当然だ。しかも承乾は無能ではなく武藝に優れている。しかし今は名君気取りの太宗が文治の徹底に励む世である。「確実に衝突するなこれでは、代わりを考えておかないとな」太宗にしても兄の皇太子建成を攻め殺したわけであり、承乾が父太宗を殺そうとするかもしれない。侯君集など不満派で武力を持つ取り巻きはいるのだ。「しかしあいつもな、文人気取りが鼻につくわ」太宗の一番のお気に入り四男魏王泰のことである。名君ごっこの...廃太子その1[長孫無忌の苦悩]

  • やり過ぎ   [武寧牙軍の横暴]

    やり過ぎ[武寧牙軍の横暴]--------------------------「横暴な武寧軍の兵士を抑えるには・・・という方法で」「単なる進士出身の者には・・・無理でしょうね」先ほどより帝前では、大府卿崔珙が滔々と論じていた。自立して節度使となった王智興が転じた後、彼がさんざん甘やかせた武寧軍の兵士達は、新任の節度使高瑀を追い出したのであった。瑀は忠武軍節度使としては有能なほうであったが、無頼の武寧軍を抑えることはだきなかった。「兵士の集団を扱うときは・・・」まだまだ珙は調子に乗って論じていた。「三年勤めると大金持ち、五年勤めると孫の代まで」といわれる実入りの良い嶺南節度使を約束されて気持ちが高ぶっていたのだ。文宗皇帝はすっかり感心してしまった。「朕はそなたを武寧軍節度使にすることにした。嶺南は王茂元にで...やり過ぎ [武寧牙軍の横暴]

  • 帰服 [王武俊の裏切り]

    帰服[王武俊の裏切り]--------------------------「潮時ですな!」と謀臣「潮時かな?」と武俊時は興元元年正月、朱泚の反乱で京師を失った皇帝は大赦を発して、おのれの間違いを謝した。自立して反乱を起こしていた王武俊も赦されたわけである。「これ以上戦ってもなんの利益はありませんし」「ここ数年間の戦乱で成徳六州は荒れ放題です」「金も米もほとんど残っていません」配下の武将達も戦いに疲れて厭戦気分である。成德節度使李寶臣が死んで以来、三年間の戦乱が魏博・成徳の管区では続く。自立した寶臣の子惟岳を討った武俊も、その中で成徳節度使の地位を求めて戦い続けてきた。功績にも関わらず恒冀二州しか与えられなかったのだ。「魏博の田悅も疲弊しています。戦いをやめたいでしょう」「しかし幽州の朱滔は納得しまい」と武...帰服[王武俊の裏切り]

  • 薦相 [婁師德の德]

    薦相[婁師德の德]-----------------------------田舎の農夫然とした風貌の宰相婁師德の単調な奏議が続いている。次ぎに並ぶ狄仁傑は苛々していたが、則天皇帝の信任に厚い仁傑にとっても先任の宰相を遮ることはできない。「この無能の愚図め」と何度内心ではつぶやいたことだろう。「こんな無能を陛下はいつまで宰相にしておくつもりなのか」やっと師德の上奏が終わり、のそのそと退出していった。仁傑のテキパキとした上奏が終わると、則天は聞いた「師德は有能と思うかな?」仁傑は「辺境の司令官程度ならよいかもしれませんが、宰相には値しません」「師德は人を見る目があると思うかな?」「あるとは到底思えません、属吏程度の評価ならできるでしょうが」則天はニャリと笑って言った。「卿を是非とも宰相にすべきだと推薦したのは...薦相[婁師德の德]

  • 渭水の盟 [太宗の恥辱]

    渭水の盟[太宗の恥辱]---------------------武德九年七月、父の高祖皇帝を恫喝して退位させ、強引に即位した皇太子世民[太宗]のもとに急報が入った。突厥頡利可汗・突利可汗が百万と号する大軍で侵攻してきて渭水に迫ってきていた。突厥の使節執失思力は「可汗は属国の帝が許可も得ず即位したことに激怒されています」「また皇太子建成や齊王元吉を殺害し、高祖皇帝を廃位した事に異議をとなえておられます」と高飛車に言い放った。皇太子・齊王殺害は太宗側の一方的な襲撃であり大義は無い。また高祖は進んで地位を譲ったわけではなく、武将尉遅敬德の武力による威嚇に脅えた結果である。そのため朝廷の人心は太宗に決して好意的ではないのだ。「まずいな、戦うわけにはいかないし、その戦力も今はない」と太宗は判断し、思力に皇居を預け、...渭水の盟[太宗の恥辱]

  • 回心 [忠武節度使周岌の帰服]

    回心[忠武節度使周岌の帰服]--------------------------「まさか行かれるのではありますまいね」「節度使様ご招待だ、行かないわけにはいかんだろう」「いくら節度使とはいえ、いまは黄巣に降った賊です」「いけば殺されることも考えられます」「いや周岌の心はわかっているよ」忠武監軍楊復光の館は緊張に包まれていた。節度使周岌は黄巣の侵攻時に率先して降り、忠武節度使を安堵されている。しかし唐の監軍たる復光を拘束するのでもなく放置していた。そして昨日、急に使いを寄越し招待をかけてきた。「彼は唐に帰順したいのだよ」「巣の勢力は弱まってきたと思っている」「岌が立場を変えやすいようにしてやるだけさ」酒宴が始まった。復光はさかんに往事の事を語り、岌に昔を思い出させた。やがて岌は泣きながら言った「皇帝のご恩は...回心[忠武節度使周岌の帰服]

  • 裏切り [朱全忠の成立]

    裏切り[朱全忠の成立]--------------------------「降ってもはたして受け入れてくれるかな」「俺の評判は極めて悪いし」と溫「そんな事をいっている場合ですか」「敵軍はどんどん増えているのに、こちらにはろくに援軍はきません」「孟楷どもが殿を讒言しています。もう生命が持つかという問題です」と側近の謝瞳が叫んだ。援軍を頼むために京師の黄巣のもとに派遣されが、まるで取り合ってもらえなかった怒りで顔が真っ赤である。官軍に対する最前線の華州城では不穏な空気がただよっていた。「河中の王重栄から密書がきています」「都監の楊復光からもです。奴らも焦っているのです。」「官軍につくなら今です」と部下達はすっかりその気になっている。「しかしなあ・・・・、俺ではな・・・」ひとかけらの土地もなく、農奴としてこき使...裏切り[朱全忠の成立]

  • 教養   [玄宗の幽閉]

    教養[玄宗の幽閉]--------------------------「くそ、馬鹿にしやがって」李輔国は顔を真っ赤にしてつぶやいた。肅宗を擁立し、飛ぶ鳥を落とす勢いの輔国である。自分の前では宰相も将軍も頭を下げ、顔色をうかがうところが興慶宮の玄宗上皇のもとに行くと、成り上がりの田舎者扱いだ。玄宗の周りは優雅な側近達が取り巻き、教養のない輔国には理解できないやりとりが続く「誰が安禄山の乱を鎮定したと思っているんだ」「軍政のことなら俺が一番理解しているんだ」と輔国は腹立たしかった。肅宗の元に戻ると「上皇様の側近達は、帝を廃して復位をねらっています」と奏した。「まさかそんなことはあるまい」と肅宗「帝の即位は変則でした。上皇様はともかく、側近達は不満に思っています」たしかに禄山の乱に敗走の途中、側近達によって擁立...教養 [玄宗の幽閉]

  • 佞臣   [鄭注立身]

    佞臣[鄭注立身]--------------------------「監軍殿より、厳重注意してもらえませんか」「あの鄭注という奴には、がまんできません」「なぜあんな奸物を、節度使殿は近づけるのかわかりません」「上には媚へつらい、下には徹底的に傲慢になるやつです」「わかった、李愬殿に注意してみよう」武寧監軍王守澄はうなづいた。そして愬の所に赴くと、聞いてきた注の悪い噂をつげて諫言した。「名将といわれる殿ですが、文臣をみる目はなかなか甘いようですな」「いや、そう言われるが注は奇才で捨てがたい人材ですよ」「奸物ほどそういうものなのです。追放された方がよい」「そうですかな、明日、注を監軍殿の所に行かせます、一度話を聞いてやってください。その上で問題があるなら追放もしかたがありませんな」「まあ話ぐらいは聞いてやりま...佞臣 [鄭注立身]

  • 時代錯誤 [宦官が支える唐末]

    時代錯誤[宦官が支える唐末]--------------------------「懷ごときに割ける土地はないぞ」「しかし、かりにも彼は陛下の舅ですぞ」「時勢を考えろ、一兵・一銭でも欲しいという時に、あいつは、前のうすら馬鹿のほうがましだったな」うすら馬鹿とは僖宗皇帝のことである。「朝廷の威光が通る方鎭なんていくらもないのだぞ」観軍容使楊復恭(宦官)はあきれてしまっている。京師の貴族どもは現実がまるでわかっていない。そして今の昭宗もだ。傀儡が皇帝のつもりでいる。唐の威光は京師近辺の山間十数州にしか及ばない。ただひたすら禁軍を再建しようとしている復恭にとって穀潰しの貴族が、皇帝の義父であるというだけで節度使を要求してくる事など信じられなかった。「帝の強いご意向です」「わかったわかったあの黔中節度使にでもしてや...時代錯誤[宦官が支える唐末]

  • 功臣 [李泌、德宗の猜疑を諫める]

    功臣[李泌、德宗の猜疑を諫める]--------------------------貞元三年六月、德宗はついに念願であった陝虢観察使李泌を宰相に任用することになった。そして泌は李晟・馬燧・柳渾とともに入見した。德宗は泌に「肅宗より歴代の皇帝は、卿が宰相にふさわしいと思っていた。朕は今やっと任用することができた。そこで卿が仇と思うもの、恩を返したいと思うものを朕が処置してやろう」泌は「李輔國や元載など仇はすでに誅されました。恩ある者達はすでに栄達しているか零落しています。もう報いようもありません」「それでも少しは報いたいと思うものもいるだろう」「それより臣は陛下にお願いがございます」「されは何かな?」「陛下が功臣を疑い排斥されませんように。李晟・馬燧達は国家に大功があります。しかし誣告・讒言をするものは常に...功臣[李泌、德宗の猜疑を諫める]

  • 視膳問安 [皇太子の役割]

    皇太子の役割とは[視膳問安]--------------------------貞元の末、徳宗皇帝は老い、人事は停滞し姑息な政策が続いていた。現状に飽き足らない少壮官僚達は皇太子[順宗]の周囲に集まり議論を重ねていた。「特に宮市の件は深刻です、宦官どもの押し買いに民の不満は大きいのです」「殿下、殿下から直接陛下に申し上げていただけませんか」「そうだな、民の切実な願いだからな」と太子「よろしくお願い致します、さすがは殿下だ」と若手官僚達が喜ぶ。しかし待詔の王叔文だけはずっと沈黙していた。やがて官僚達は下がっていった。太子はいつもは多弁な叔文が黙っているのが気になっていた。「おまえはこのことに反対なのか」叔文は答えた「宮市の件に異論があるのではございません」「太子が陛下に建言されるのを危ぶんでいるのです」「太...視膳問安[皇太子の役割]

  • 和解 [魚朝恩と郭子儀]

    和解[魚朝恩と郭子儀]--------------------------唐朝の主力軍を握る郭子儀と、親衛軍を握る宦官の魚朝恩、宰相の元載は互いに牽制し対立関係にあった。代宗皇帝は対立させ、しかも破綻させないという困難なバランスを保つ必要があった。大暦四年正月、郭子儀が河中より入朝してきた。そこで代宗は朝恩に歓迎の宴を催させることにした。「朝恩など信用できるものですか、お行きになるのは・・・どうかと思いますが」「どうしても行かれるならば、少なくとも精鋭200騎はお連れください、そして予備として・・・騎を即応で待機させます」子儀の屋敷では家臣達が口々に諫めていた。宰相元載は二者の結託を懼れ、「朝恩が子儀を謀殺しようとしている」という噂を広く流させていたのである。しかし子儀は「皇帝の命がないのに私を殺そうとす...和解[魚朝恩と郭子儀]

  • 破約 [吐蕃の背信]

    破約[吐蕃の背信]--------------------------貞元三年閏五月辛未朝廷に德宗皇帝と武臣宰相李晟・馬燧と宰相張延賞・柳渾が朝していました。この日は長らく侵攻を続けてきた吐蕃宰相尚結贊と副元帥侍中渾瑊が、平涼で會盟し和約を結ぶ予定の日でした。德宗が「今日で戦役が終わる、平和が来る、めでたいことだ」と笑顔を示した。会盟支持派の燧「まことに」と応じ、延賞も同じた。しかし反対派の渾は「吐蕃は信用出来ない蕃族です。なにごとも起きなければいいと心配しています」と洩らした。晟もまたそれに同じた。血相を変えた德宗が「書生の渾になにがわかる。晟まで同調しおって」と激怒し、早々に朝は終了した。夕刻、邠寧節度使韓游瓌から急報が入った。「吐蕃は盟約を破り、渾瑊の行方はわかりません。將士の大半は死んだもようです...破約[吐蕃の背信]

  • 入貢 [李泌と浙江節度使韓滉]

    入貢[李泌と浙江節度使韓滉]--------------------------興元元年の十一月德宗皇帝は李晟の働きで反していた朱泚を伐ち、なんとか京師を回復したが、まだまだ淮西吳少誠・河中李懷光反しており情勢は不安定だった。そして德宗の動揺と不安に乗じて諌官達による誣告・中傷が頻発した。「浙江東西節度使韓滉は兵を集め石頭城を修築しています。これは極めて怪しい動きです」韓滉は斜陽の唐朝に多量の浙江の米穀を送ってくれた忠臣であったが「淮南の陳少游は裏切っている、浙江の韓滉までが裏切れば財政破綻だ、反乱鎮圧どころではない」と全てに疑心暗鬼になった德宗には心に突き刺さるものがあった。親任厚い謀臣の左散騎常侍李泌は「どうして貢献を続けている滉殿を疑うのですか、浙江を賊から守っているのは彼の力です。石頭城修築も治安...入貢[李泌と浙江節度使韓滉]

  • 復讐 [専殺は不可]

    復讐[専殺は不可]--------------------------「ならんと言われるのか!!」河東節度使李載義は怒りに震えて喚いた。三年前の太和五年正月、幽州節度使であった載義は、信用していた後院副兵馬使楊志誠の突然の裏切りによって逐われた。それだけならよくあることである。しかし志誠は載義の妻を犯し、部下やその家族を虐殺したのであった。京師に逃げた載義は、朝廷にはそれまで忠義を尽くしていたので山西節度使として拾われ、その後河東節度使へ転任してきた。自立した志誠は朝廷に対して不遜な態度を示していたが、今。志誠もまた軍乱に逐われて京師へ逃亡して来るという。載義はその途次を襲い怨みをはらそうとしていたのだ。「志誠は不忠とはいえ朝臣です。法の裁きがなければ殺してはなりません」と使者が言う。「きゃつがしたことへ...復讐[専殺は不可]

  • 切り捨て [宋申錫と文宗皇帝]

    切り捨て[宋申錫と文宗皇帝]--------------------------太和五年二月、神策都虞候豆盧著は左神策軍中尉王守澄[宦官]に、宰相宋申錫が文宗皇帝の弟漳王湊を奉じ、即位させようとしていると告発した。実は文宗が宋申錫と謀議して、宦官達の勢力を削り、特に王守澄を除こうとしたことへの先制攻撃であった。謀議は京兆尹王璠が守澄に寝返ったことからバレていたのだ。宦官達は謀臣鄭注の案に従い、直接文宗は攻撃せずに、申錫の罪として作り上げたのだ。守澄はなにもかも知った上で「我々があなたを立てたように、申錫は漳王を立てようとしているのです」と詰め寄ると。若い文宗はたちまち動揺し「朕はなにも知らぬ、申錫はなにを考えているのか」としらをきった。守澄はただちに神策軍を派遣し申錫一族を誅殺してしまおうとした。ところが...切り捨て[宋申錫と文宗皇帝]

  • 復位    [崔胤のクーデーター]

    復位[崔胤のクーデーター]--------------------------「くそ!おもしろくもねえ」「宦官どもが正統な帝を幽閉するなんて許せるのか!!」場末の飲み屋で左神策指揮使の孫徳昭が今夜も喚いていた。時は光化の末、唐朝もすっかり衰えて京師付近にしか勢力が及ばない。それでも昔の余光のおかげで地方の節度使からの献納はまだまだ馬鹿にならない。政府が混乱しているのに乗じて、徳昭も甘い汁をすこしは吸ってきた。「多少の余得がないと、兵隊業なんてバカバカしくてやってられねえ」もともとは鹽州地方からの出稼兵ぎである徳昭は禁軍の將の誇りや、忠義心などはさらさらないのだ。ところが先頃、宦官劉季述達が酒乱の昭宗皇帝を幽閉し、太子を立てて政権を握った。それだけなら、徳昭達にはどうでもいいのだが、一味の宦官王仲先が規律を...復位  [崔胤のクーデーター]

  • 殿上の食事    [張韶の乱]

    殿上の食事[張韶の乱]--------------------------「お前と俺は殿上で食事をすることになっているんだ」「よせやい、俺はしがない職工だぜ、お前もただの占い師じゃないか」「いや、本当の話だ。俺の占いがよくあたるってことは知っているだろう」長安の下町の一隅で、卜者蘇源明と染坊供人張韶の会話である。当時若い敬宗皇帝は、ポロや狩猟だと騒ぎ、政務など放り出し遊び回っていた。その馬鹿さ加減は長安中に広まっていた。「殿上での食事といゃあ、まるで皇帝様じゃねいか」「あんなうすのろ馬鹿に皇帝が勤まる時代だ」「そういえば韶はちょっとした男だしな」「韶が皇帝になるんじゃないのか」と染工仲間や無頼達は無責任に騒いだ。「いっちょう、世間を騒がしてやろうじやないか」「韶が皇帝なら、俺たちも貴族ぐらいになれるんだ」...殿上の食事  [張韶の乱]

  • 牽制 [宦官達と昭義節度使劉従諫]

    牽制[宦官達と昭義節度使劉従諫]--------------------------李訓が宦官幹部を除こうとした甘露の変で、宦官仇士良達は事件の責任がない王涯等を含め宰相五人をすべて殺害した。その後も麾下の禁軍を暴れ回らせ出動させ、文宗皇帝や官僚達を威嚇し専権を極めた。新任の宰相李石・鄭覃らは武力をもたず制することができなかった。開成元年三月、昭義軍節度使劉従諫は使者を送り文宗に問うた「甘露の変に李訓等は責任があると聞いております。しかし王涯ら三相に罪ありとは聞いておりません。涯らがなぜ誅されたのか罪名をお伺いしたい」従諫は王涯と親しく、恩義を感じていたため、その殺害に憤っていたのだ。士良ら宦官達は日頃の威勢はどこへやら、まずいことになったと顔を見合わせていた。「従諫は近隣の諸鎮とともに入朝して直接お伺い...牽制[宦官達と昭義節度使劉従諫]

  • 醜貌 [盧杞を懼れる郭子儀]

    醜貌[盧杞を懼れる郭子儀]--------------------------盧杞は宰相懐慎の孫、安史の乱の忠臣である奕の子である。すこぶる有能であり德宗に認められ将来の宰相と目されていた。建中年間のある日、杞は帝命をうけ病気の郭子儀を見舞った。「杞が来る、準備はできておるか」「はっ、殿様。料理も舞姫達も・・・万全です」「女はすべて去らせよ、一人とて出してはならぬ」「杞様は、女嫌いなのですか」「バカな、あの顔をみて、もしも女達がクスリとでも笑ったらどうなる」「奴は恐ろしく執念深く、誇り高いのだ」「恥をかかされたと思ったら、徹底的に我家に仇をなすだろう」「次代の宰相は奴なのだ。禍は避けなければならん」杞の容貌は青鬼のようであり、服装はだらしないので有名であった。子儀はただ独り、杞の来訪を受けた。******...醜貌[盧杞を懼れる郭子儀]

  • 郭琪の乱 [田令孜と陳敬瑄]

    郭琪の乱[田令孜と陳敬瑄]--------------------------黄巣が京師を陥し、宦官田令孜は傀儡の僖宗皇帝を奉じて西川節度使の使府成都に亡命してきました。令孜の兄敬瑄が節度使となっていたのです。やがて成都に四方より貢献が集まるようになると、令孜は率いてきた親軍に惜しみなくばらまいていきましたが、地元軍にはあまり与えず、そのため地元軍は不満をつのらせていました。中和元年七月令孜は地元の有力者・軍人を集めて宴会を開き、諸将に盃を与えましたが、黄頭軍使郭琪だけが受けず「賞賜は偏っています。親軍・地元軍平等に与えてください」と要求した。ムッとした令孜は「お前になんの軍功があるのか」と問うと、琪は「黨項と十七戰,契丹と十餘戰,吐谷渾との戦いでは重傷を負いました」と答えた。令孜は面倒な奴だとみて別置し...郭琪の乱[田令孜と陳敬瑄]

  • 愚帝 [敬宗の愚行と宰相李逢吉]

    愚帝[敬宗皇帝の愚行と宦官]--------------------------宮城の門横の金雞の下には大赦を受けた囚人達が並んでいます。寶暦元年の正月のことです。囚人達は最後にここで晒し者にされ、その後釈放されるのです。前県令の崔發も並ばされていました。その時、「ここにいやがったぞ」「こいつか發は」「ぶっ殺してしまえ」50人もの宦官達が手に手に棒を持って集まってきました。發は県令として、百姓に暴力を振るっていた宦官を捕らえただけだけです。多少行き過ぎはあったとはいえ、不法なのは宦官のほうでした。ところが敬宗皇帝は宦官達の告発を受けていきなり發を獄にぶちこんだのだのです。幸い、大赦があり赦されることになったのですが。「やっちまえ・・・」、宦官達は次々と發を殴打し、歯が折れ頭から血が噴き出した。獄吏があわて...愚帝[敬宗の愚行と宰相李逢吉]

  • 取りなし [武人李忠臣が辛京杲の刑死を救う]

    取りなし[武人李忠臣が辛京杲の刑死を救う]--------------------------河東節度使辛雲京の従弟京杲は勇敢で軍功があり湖南観察使となっていました。しかし強暴で貪欲であり、しばしば現地の豪族ともめて争乱を起こしていました。湖南は統治困難な地域なので代宗皇帝はおおめにみていましたが、京杲は贈賄・収賄を重ね、私的に部下を殺害する事件も起こしていました。即位した德宗皇帝は目に余るとして死刑に処するつもりでいました。建中元年のある朝、武将出身で宰相格の李忠臣が特に拝謁を求めてきました。皇帝は忠臣が雲京と親しいことを知っていたので、さては助命を嘆願しにきたなと察していましたが、代宗時代の姑息さを引き締める方針を堅持しているのではねつけるつもりでした。しかし忠臣はいかにも武臣らしく訥々と話し続け、い...取りなし[武人李忠臣が辛京杲の刑死を救う]

  • 酒法 [李景略の厳酷と任迪簡の寛容]

    酒法[李景略の厳酷と任迪簡の寛容]--------------------------酒がめぐり座はにぎやかになっていった。辺境の豐州天徳軍防禦使の幕僚や將が集う宴会です。厳酷で知られる軍使李景略も今日は機嫌は良いようでした。「酒が切れたぞ」と景略の傍らの判官任迪簡がよぶと、係はあわてて新しい酒壷をもってきました。迪簡は自分でなみなみと注ぐと一気に飲もうとしました。「ウッ!」、ところが中身は酒ではなく醤醢(醤油の原型)であったのです。「どうした」と景略がこちらを振り向きました。「いやなんでもありません、急いで飲んだのでむせてしまいました」迪簡はがまんしてなんとか杯を飲み干しました。この宴会は軍法によって行われています、間違って醤醢を出したことなどがわかったら、係はすぐさま景略に殺されてしまうのです。それが...酒法[李景略の厳酷と任迪簡の寛容]

  • 白紙の手紙    [宰相元載の権勢]

    白紙の手紙[宰相元載の権勢]--------------------------元某は元載の家臣ではなく一族の端くれでした。故郷の財産を売り払い京師の元載の屋敷に寄宿し、官吏に登用してもらおうと雑事を引き受けていたのである。しかし十年以上もたったが登用はなく、持ってきた金も尽きようとしていていました。某は載の子伯和に泣きつきました。伯和は若い頃から知る某の窮状に同情し「某になにか官職を与えてやってはくれませんか」と父に働きかけました。「あいつは余りに無能だからな、職につけてもやっていけないぞ」と載。「もう私財も尽きて、故郷にも戻る金もないと嘆いています」と伯和。「わかったなんとかしてやろう」と載。数日後、載は某を呼び出し、親書を持たせて幽州節度使に使いを命じました。「どのような御用事ですか」と某「お前は知...白紙の手紙  [宰相元載の権勢]

  • 笑う宰相      [宦官魚朝恩の驕慢と宰相元載]

    笑う宰相[宦官魚朝恩の驕慢と宰相元載]--------------------------大暦年間、観軍容使として禁軍を握っていた宦官魚朝恩は、代宗皇帝を圧迫し専権を極めていた。宦官であるにもかかわらず多少の学才があることが自慢の彼は、おのれを誇示したくてたまらなかった。そこで皇帝に強要して、先例を無視して唯一の国立大学(日本でなら東大)である国子監を監督する地位についた。それのみならず「今度国子監で四書の講義をする」「聴講したいものは全員集まれ」と布告した。官僚達は宦官ごときの講義など受けたくもないが、行かないとどのような害をうけるかわからないのでこぞって出席した。講堂の満員盛況をみて朝恩は満悦であった。朝恩の単調な講義が始ると、居眠りや私語が続出してきた。それとみとった朝恩は時政の話題に切り替えた。途...笑う宰相   [宦官魚朝恩の驕慢と宰相元載]

  • 夫婦げんか      [不安定な代宗皇帝の地位と郭子儀]

    夫婦げんか[不安定な代宗皇帝の地位と郭子儀]--------------------------代宗皇帝の娘昇平公主は、功臣である副元帥郭子儀の子曖に降嫁していました。大暦二年のある日、曖と公主は夫婦げんかをし、公主は自分が皇帝の娘であることで曖を貶めようとしました。激高した曖は「お前の父が皇帝だと、それは俺の親父の力のおかげなんだ、親父はなるつもりなら皇帝にだってなれるんだぞ」と言い放ちました。公主は怒って家を出て皇居に走り、代宗にその暴言を訴えました。ところが代宗は「お前はなにもわかっていない、子儀が欲すれば皇帝にだってなれる。そうなったらどうする」と叱りつけ追い返しました。驚いた子儀は恐懼し、曖を捕らえて謹慎させ、自ら入朝して代宗に謝罪しました。代宗は「ただの痴話喧嘩だ、あなたが気にすることは無い」...夫婦げんか   [不安定な代宗皇帝の地位と郭子儀]

  • 通知

    宦官伝を中断しています。当面、初期の頃に書いた史話シリーズをリライトし背景を付け加えたものを記載していきます。通知

  • 唐宦官伝 梁守謙

    字は虛巳、大暦十四年[779]に生まれた。曾祖晟、祖希倩は軍人であったが、父庭は不明。本来は王氏だったが、祖母梁氏の養子となり梁姓。貞元十四年[798]宦官となり、学識はあったようで、二十一年[805]に任官、征事郎[正八品下]から內府局令充學士院使となる。元和初には宣義郎[從七品下]掖庭局令に進み、四年[809]に朝議大夫[正五品下]內常侍となる。さらに正議大夫[文官.正四品上]枢密使となり文書機密を扱った。十一年[816]に喪免となるがすぐ奪情起復し、忠武將軍[武官.正四品上]知內侍省事となる。ここで文官としての立場から武官[神策軍]に移行したことになる。冬,淮西節度使吳元濟征討に際して、宰相裴度のもと監軍となり、雲麾將軍[従三品上]充行營招討使として活動した。十二年[817]10月,吳元濟が平定され...唐宦官伝梁守謙

  • 唐宦官伝 吐突承璀

    字は仁貞。福建の出身である。憲宗に太子時代より仕えて有能であり深く信任され掖庭局博士となった。憲宗が即位すると急速に昇進し内常侍知内侍省事として内廷を支配した。元和元年[806]11月、左監門将军左神策護軍中尉左街功德使として軍權を掌握し、蓟国公を与えられた。四年[809]3月王承宗は父士眞没後に成德軍節度使を継承しようとしたが、憲宗はなかなか承認しなかった。結果的に成德軍管轄の恒冀深趙徳棣の六州のうち、徳棣二州を分離し保信軍節度使とし、士眞の婿である薛昌朝を任用するという妥協にいたった。成德軍の勢力を分割し、士眞の功績にも答えるという案であったが、承宗は赴任途中の昌朝を捕らえて六州を完全支配した。怒った憲宗は承宗を征討しようとした。当時魏博・淄青・淮西などが反唐姿勢を示し、宰相達は征討に消極的であったが...唐宦官伝吐突承璀

  • 唐宦官伝 竇文場

    文場については建中四年[783]に初めて記事が現れるまで出身も前歴もすべて不明だが、德宗が皇太子時代に霍仙鳴とともに近侍していたことは間違いない。德宗は即位すると藩鎭圧迫政策を発動し、山東梁崇義・成德李惟岳を亡ぼし、魏博田悦・淄青李納を追いつめた。しかし幽州留後朱滔・恒冀觀察使王武俊が反し、長期戦となって財政が破綻していった。そして動員された涇原軍が冷遇に憤激してその帥姚令言を擁して乱し京師を寇掠した。德宗は京師を棄てて近臣のみと奉天城に奔った。涇原軍は京師にいた前鳳翔隴右節度使[幽州節度使]朱泚を擁立した。麾下を引き連れて入朝していた泚は、關内諸軍に旧麾下達を持ち、その寛容さから多くの軍人の人気を得ていた。そのためたちまち大きな勢力となり、德宗が籠城する奉天城を厳しく攻囲した。代宗は輔國・朝恩ら宦官の禁...唐宦官伝竇文場

  • 唐宦官伝 劉忠翼/清潭

    本名は清潭。董秀と共に代宗に仕えた寵遇をうけた。寶應元年[762]九月回紇登里可汗に使いしてなんとか史朝義征討の援軍を得た。回紇は唐を軽んじていたが利をみて応じた。大暦六年[771]回紇使節は、功績を頼んで傲慢となりしばしば京師で騒動を起こしたが、代宗は清潭を派遣して宥めるだけであった。収賄により巨富を築いた。淸潭は代宗の寵姫である貴妃獨孤氏を皇后に推し、その子韓王迵を太子としようとして、皇太子适を追い落とそうとした。しかし十年[775]十月貴妃獨孤氏は卒してしまった[皇后位は追贈]。大曆十三年[778]五月清潭は忠翼と賜名され特進に進んだ。大曆十四年[779]五月皇太子适が德宗皇帝として即位し、忠翼は兵部侍郎黎翰とともに流され、殺された。七月德宗は、元載、馬璘、劉忠翼の家が奢侈だとして壊させた。唐宦官伝劉忠翼/清潭

  • 唐宦官伝 駱奉先

    武威郡姑臧の人、吐谷渾人宦官となり、右驍衛大將軍に進み、元帥となった雍王适[代宗]に従い転戦し寵遇を受けた。廣德元年[763]副元帥僕固懷恩軍の監軍となり、懷恩と義兄弟となった。その後、河東節度使辛雲京と親しくなり、懷恩とは疎遠になった。辛雲京は懷恩が回紇登里可汗と結託して造反していると奉先に説き、二人して代宗にその反を誣告した。その後、奉先は懷恩の下に行き歓迎された。懷恩はさらに滞在を求めたが、奉先が帰ろうとしたのでその馬を隠した。奉先は懷恩の意図を誤解して脱走した。懷恩は慌てて追ってつれもどした。その後また奉先は懷恩が必ず反すると上奏。これを知った懷恩は「先に郭子儀が疑われて却けられ、また私が誣告されています。陛下は信用されませんよう」と反論したが、追いつめられ反旗を翻すことになってしまった。その後奉...唐宦官伝駱奉先

  • 唐宦官伝 董秀

    宦官達の専権に懲りた代宗だが、やはり宦官なしではなにもできなかったが、しかし軍權は宦官に握らせないようにしていった。それをまた覆したのは息子の德宗である。秀は李輔國が誅されて以降、知枢密として内廷で活躍した。彼については出自等はなにも残っていない。仲間の宦官駱奉先や劉忠翼、下級吏員だが実務を握る主書卓英倩潛と組んで、収賄に励み巨富を築いた。樞密とは内廷で詔勅・文書等を取り扱う秘書的な仕事である。当然学問がいる。一例として、隴右行軍司馬であった陳少游の記事が残っている。少游は桂管觀察使に任ぜられた。昇任ではあるが桂管は遠隔の炎暑の地であり、少游は不満であった。そこで少游は宰相元載の子で貪婪な仲武に贈賄するとともに。内廷の実権者董秀の自宅へ赴き、退庁してくるのを待った。そしていきなり秀に「家中の人数は何人くら...唐宦官伝董秀

  • 唐宦官伝 魚朝恩 その5

    大曆五年正月代宗と共謀した宰相元載は、鳳翔澤潞節度使李抱玉を山西澤潞に移鎭させ、朝恩派の陝虢節度使皇甫溫を転任させ朝恩を喜ばせたが、溫は既に裏切っていた。載はさらに興平、武功、天興、扶風四縣を神策軍の管轄に移し、朝恩を喜ばせた。二月麾下の武将劉希暹は状況が悪化していることを知り、朝恩に警告した。朝恩は不安に思ったが代宗皇帝がしきりに厚意を示すので警戒しなかった。皇甫溫は入京し、周皓とともに謀議した。そして載は代宗から誅殺の許可を得た。三月代宗は宮中で酒宴を開き、朝恩を招いた。載は中書省を固めた。宴終了後、帰ろうとする朝恩を捕らえて詰問した。朝恩は伏さなかったが、護衛のはずの皓らが殺害した。朝恩は服罪して觀軍容等使を免ぜられ、内侍監に留まったが自殺したとされた。葬儀費用として錢六百萬を賜った。事件に坐してい...唐宦官伝魚朝恩その5

  • 唐宦官伝 魚朝恩 その4

    郭子儀と朝恩の接近は、代宗皇帝や宰相元載に危機感を抱かせた。対外的に子儀を排除できない代宗は朝恩の処理を本気で考えるようになった。大曆四年[769]二月京兆府の好畤、鳳翔郡の麟游、普潤縣を神策軍の所有とした。朝恩の勢力拡大である。大曆五年[770]正月觀軍容宣慰處置使左監門衛大將軍兼神策軍使内侍監として朝恩は禁兵をにぎり、軍事を專掌した。朝恩はしばしば時の政治を批判し侮った。宰相王縉は怒りを示したが、元載は薄笑いを浮かべて沈黙するばかりであった。朝恩は麾下の神策都虞候劉希暹や都知兵馬使王駕鶴に禁軍に獄を置かせて,坊市の惡少年をスパイとして富豪を告発させて捕らえ、財産を巻き上げた。また上奏するものは自分を経由させ、従わない者は弾圧した。代宗はこれを聞き、極めて不満だったが、禁兵を握られているため軽々には動け...唐宦官伝魚朝恩その4

  • 唐宦官伝 魚朝恩 その3

    代宗政権は朔方軍を支配し河中に駐屯する郭子儀と、行政を握る宰相元載と、禁軍・宮中を握る魚朝恩のバランスの上にあって、極めて脆弱であった。例として、子儀の子の曖には代宗の愛娘昇平公主が降嫁していた。あるとき夫婦げんかで、公主が曖を罵ると、曖も「皇帝が尊いと言っても俺の父親が支援してこそだぞ」と言い放った。激怒した公主は代宗のもとに走り告げ口した。代宗は娘に「その通りだ、子儀の支援が無いとやっていけないのだ。お前にはそれがわからないのか」と言って叱り帰宅させた。大曆二年[767]二月郭子儀が河中より入朝した。宰相元載・王縉・左僕射裴冕・判度支戸部侍郎第五琦・京兆尹黎翰・魚朝恩が各錢三十萬を出して供応しあった。これが当時の実権者である。四月宰相達と内侍魚朝恩は吐蕃と会盟した。七月朝恩は章敬太后[代宗の生母]の追...唐宦官伝魚朝恩その3

  • 唐宦官伝 魚朝恩 その2

    寶應元年[762]七月李輔國が失脚した後、觀軍容使朝恩は封馮翊郡公となった。十月雍王が元帥として史朝義征討に赴いた。代宗は副元帥を郭子儀にするつもりだったが、朝恩は反対して僕固懷恩が副元帥になった。神策觀軍容使朝恩は後備として陝州に留まった。その後東都で射生軍を率いて朝義軍と力戦した。寶應二年[763]六月軍を率いて陝州より京師に入った。七月實封200戸と一子に五品官を与えられた。廣德元年[763]十月吐蕃の侵攻により代宗皇帝は京師を棄てて華州に逃亡した。朝恩は神策軍を率いて陝州より来援し代宗を保護した。朝恩の部將皇甫温が陝州刺史、周智光が華州刺史となった。十二月朝恩は天下觀軍容宣慰處置使として禁兵を掌握し、鄠縣や中渭橋に築城して吐蕃に備えた。宦官駱奉仙を鄠縣築城使として守らせた。永泰元年[765]九月吐...唐宦官伝魚朝恩その2

  • 唐宦官伝 魚朝恩 その1

    瀘州瀘川人、開元十年[722]に生まれた。天寶末に去勢して宦官になった。品官から内給事となった。安史の乱に肅宗皇帝に従い主に軍事を管掌し信任を得た。李光進の監軍から、三宮檢責使、開府儀同三司左監門衛將軍知內侍省事に躍進した。乾元元年[758]九月唐は安慶緒を滅ぼそうと、郭子儀・李光弼等九節度使の大軍を編成し河北へ送った。ところが全軍の統帥者を決めかねて、合同軍というあいまいな形とした。朝恩は觀軍容宣慰處置使として合同軍の監軍となった。乾元二年[759]正月追いつめられた安慶緒は、唐に帰順して幽州節度使となっていた史思明に救援を求めた。思明は征討軍からはずされ、慶緒の後は自分が討伐対象になると思い[事実李抱眞等に誣告されていた]来援した。統帥のない唐軍は動揺し、魏州を奪回された。李光弼は魏州を攻めることを提...唐宦官伝魚朝恩その1

  • 唐宦官伝 程元振 その3

    廣德元年[763]十月まったく防御態勢のない京師はたちまち陥落し、程元振は代宗を擁して華州に逃亡した。各地の諸将に来援を命令したが誰も動こうとはしなかった。代宗はあわてて郭子儀を副元帥としたが、部下が散逸している子儀はいかんともできなかった。しかも元振は増兵を求める子儀が代宗に自分を弾劾されるのを懼れて拝謁させなかった。京師を捨てた代宗達は宦官魚朝恩が率いる華州神策軍に収容された。吐蕃は京師を掠奪すると、占領する気はなく撤退し、郭子儀は各地の兵を集めて回復した。元振は元帥行軍司馬を解任され、宰相元載が判元帥行軍司馬となった。太常博士柳伉が官僚を代表して元振を弾劾し極刑を求めた。しかし元振の諸将弾圧策は代宗の政策でもあったので厳しい処分ができず、官職を免じて郷里に帰らす事に止めた。魚朝恩は代宗を奉じて京師に...唐宦官伝程元振その3

  • 唐宦官伝 程元振 その2

    寶應元年[762]十二月史朝義軍は潰滅し、僕固懷恩は副元帥となったが、さっそく宦官達は懷恩に叛意ありと讒言した。寶應二年[763]正月一時反した山東節度使來瑱は代宗に赦されて来朝し、兵部尚書同平章事として優遇され、肅宗の山陵使を務めていたが、元振の請託を受けないので誣告され殺された。疑惑を受けて動揺した僕固懷恩は、安史諸将を徹底して征討せず、幽州・魏博・成徳・相衛など河北を分有させて自分の勢力圏を作ろうとした。寶應二年六月同華節度使李懷讓は、元振に誣告され自殺した。安史の乱が一応収まり、唐朝は「狡兎死して走狗烹らる」のように、実力か大きくなりすぎた功將を整理しようとしていた。朝廷に隷属する宦官達は皇帝[代宗]の意を挺して讒言を繰り返していたわけだが、法治という面では功將達には多くの問題があった。しかし元振...唐宦官伝程元振その2

  • 唐宦官伝 程元振 その1

    字は元振、雍州三原人。延載元年[694]に生まれた。自宮して内侍省に入り、内射生使/飛龍廄副使まで昇進した。元年建巳月/寶應元年四月肅宗は重病となり、李輔國と権を争っていた張皇后は趙王係を擁して輔國を除こうと謀っていた。輔國の麾下であった元振はその謀議を知り輔國に告げた。輔國と元振は禁兵を動員して、皇后・趙王・兗王等を殺害し、皇太子を擁立した。元振は功績により左監門衛將軍に昇進した。寶應元年五月輔國は功を誇り尚父司空兼中書令となり、即位した代宗を軽視して専権を振るった。元振は代宗皇帝に接近し輔國を追い落とそうとした。寶應元年六月元振は、輔國の力の源泉である行軍元帥府司馬及兵部尚書を奪い、みずから判元帥行軍司馬となって兵権を握った。そして輔國を宮中から逐いだした。寶應元年七月鎮軍大將軍保定郡開國公に進んだ。...唐宦官伝程元振その1

  • 唐宦官伝 李輔國 その4

    元年[762]建巳月/寶應元年四月玄宗上皇が78才で崩御した。当時肅宗も重体となっていた。この頃輔國と張皇后は主導権を争っていたが、皇后は皇太子[代宗]を呼び出し輔國を排除しようとした。しかし軟弱な皇太子は同調しなかった。そこで皇后は副元帥の地位にあった越王係を擁して自派の宦官段恆俊等二百餘人で輔國を誅しようとしたが、皇太子に親しい宦官程元振は状況を輔國に通報した。輔國・元振は禁軍動員し、皇太子を擁して張皇后・越王等を殺した。まもなく肅宗も崩御し、輔國は皇太子[代宗]を即位させた。舞い上がった輔國は代宗に「政治は私がやります。帝は宮中でおとなしくしていればよい」と言い放った。肅宗ほど無能では無かった代宗は不満だったが、禁軍を掌握する輔國に当面なすすべがなく、「尚父」の号を与えた。功績が大きかった内飛龍廄副...唐宦官伝李輔國その4

  • 唐宦官伝 李輔國 その3

    玄宗上皇は皇宮外の興慶宮に住み、政務にはまったく関係せず、陳玄禮や高力士、玉真公主・如仙媛・内侍王承恩・魏悅や及梨園の俳優達と宴会を楽しみ、興が起こると長慶樓に出て、民衆の萬歲を受けていた。また將軍郭英乂や成都在住時代の官員達を召すこともあった。輔國は微賤の出身で政務には通じていても教養が無いため、上皇やその左右からは軽視され憤懣を抱いていた。輔國は上皇に強いコンプレックスを持つ肅宗に「上皇は外宮にいて外人と交通し、陳玄禮や高力士は陰謀を企んでいます。私にはどうしようもありません」と誣告した。優柔不断で自信の無い肅宗は「父上をどうこうできないだろう」というばかりだった。輔國は「上皇が復位を考えられたら大乱がおこります。外部の興慶宮から西內に遷っていただいて、小人達が暗躍しないようにしなければいけません」と...唐宦官伝李輔國その3

  • 唐宦官伝 李輔國 その2

    輔國は外面は恭謹で寡言であったが、内面は狡險で寵姫の張良娣と連携し肅宗を操り、殿中監・行軍司馬として軍權をにぎった。至德二年[757]十二月両京回復後、恩賞として光禄大夫から開府儀同三司.郕國公.實500戸を与えられ、殿中監判行軍事は維持していた。乾元元年[758]二月大僕卿を兼ね厩權をにぎった。肅宗は輔國や張皇后に頤使されることに不満であったが、意志薄弱であったのでどうにもできなかった。乾元二年[759]三月京師の治安が悪く、輔國は羽林軍に治安を任せようとしたが、宰相李揆に金吾軍の役割を侵害するとして止められた。このように宰相とは対立することが多かった。輔國の権限は強くなり、禁兵を掌握し、上奏はすべて事前に輔國に承認されることが必要となり、決裁も輔國が専断することが多くなった。肅宗は不満であったが輔國に...唐宦官伝李輔國その2

  • 唐宦官伝 李輔國 その1

    李輔國/護国---------------------本名は靜忠。幽州博陸郡の人。長安三年[704]に生まれた。宮刑を受けて閑廐[官馬(厩馬)を管理する役所]に勤務した。容貌は醜くかったが、学問はそこそこあった。高力士に使えて、閑廐では最も有能であった。四十才頃、王鉷が閑廐使となり輔國を評価し、皇太子[後の肅宗]に推薦した。天寶十五年[756]安禄山の乱により玄宗は成都に逃亡し、皇太子も従った。途中、遅れて進む皇太子一行を父老達が「關内を見捨てていかれるのですか、留まって戦ってください」と請願した。皇太子は拒否しようとしたが、子の建寧王倓や輔國は「このままでは關内は失われてしまいます」と留まることを主張し、優柔不断な皇太子は押し切られた。すっかり気力を無くしていた玄宗はそれを追認し、天下兵馬元帥都統朔方河...唐宦官伝李輔國その1

  • 唐宦官伝 高力士 その6

    至徳元年[756]八月玄宗は従駕の恩賞として、驃騎大將軍內侍監知內侍省事渤海郡公の力士に開府儀同三司を加え齊國公に昇進させた。至徳二年[757]回紇の援軍を得た唐軍は九月京師を、十月東都を回復した。玄宗は十一月成都を発して京師に戻った。当然力士もまた随行した。還京した玄宗に対し、肅宗は本意ではなかったが皇帝位を返上しようという茶番を演じたが、馬鹿では無い玄宗は力士を派遣して辭した。両京回復の功績として力士は實封三百戸を与えられた。当時の財政状況からみて實収入があったとは思えない。上元元年[760]六月還京した玄宗は政務には一切関与せず、側近の陳玄禮や力士や玉真公主などと梨園子弟とともに宴会を催して楽しんでいた。風雅や教養の差からか、権力を握っていた肅宗の側近李輔國はそのグループには入れず不満をいだいていた...唐宦官伝高力士その6

  • 唐宦官伝 高力士 その5

    天寶十三載頃玄宗は「いやな雨が続いているな、お前はどう思う」と言うと、力士は「陛下は宰相に賞罰すべて委ねています、そのため陰陽が狂ってしまったのです。」と答えた。玄宗は默然としていた。天寶十四載末安禄山が反し、たちまち河北・東都を陥した。天寶十五載六月厳命して京師東方の潼関を守っていた哥舒翰を東方に進出させたが、禄山軍の精鋭に撃破され潰滅し、京師に侵攻されることになった。玄宗は京師を棄て、宰相楊國忠が支配する劍南成都へ逃亡することになった。狼狽して脱出する玄宗には当然力士が随行していた。禄山軍侵攻に脅えた州縣官吏は逃亡し、玄宗一行に対する供応はなく、随行する將士は飢え、今までの安楽な生活から一変して窮迫してしまった。憤懣はこの事態を招いた楊國忠にむかい。軍乱となって國忠やその徒党を殺した。さらに乱軍は玄宗...唐宦官伝高力士その5

  • 唐宦官伝 高力士 その4

    天寶五年[746]楊貴妃への玄宗の寵愛は深く、力士は貴妃ののる馬の轡をとり案内する状況でした。ある時、貴妃が玄宗に逆らって怒りをかい、兄銛の家に送り返される事がありました。ところが玄宗のほうが貴妃ロスに苦しみ、力士は玄宗の意を酌んで迎えに行きました。天寶五年七月李林甫は疑獄を起こし、政敵である李適之や皇太子妃の兄である韋堅を陥れました。そして皇太子を廃位しようと企みましたが、力士は張垍や張均[說の子]とともに太子を保護したため及びませんでした。天寶七年[748]四月左監門大將軍知内侍省事力士は驃騎大将軍に昇進しました。その威勢は強く、西京に寶壽寺を作るとその鐘をつくという名目で莫大な金があつまりました。ただ応接がいつも丁寧で、驕慢な態度をしめさなったので玄宗から親任され、士大夫に憎まれることはありませんで...唐宦官伝高力士その4

  • 唐宦官伝 高力士 その3

    開元二十三年[735]頃遊興好きの玄宗はしばしば五鳳樓で宴会を開いたが、見物する民衆の喧噪で音楽が楽しめなかった。そこで警備する金吾兵に統制させたがかえって混乱するだけで効果がなかった。そこで力士は河南丞嚴安之を勧めた。安之が「騒ぐ者は斬る」と掲示すると、その厳酷な評判を知る民衆はたちまちしずまりかえった。開元二十五年[737]四月寵姫である武貴妃は自分の子の立太子を望み、宰相李林甫等と結託し、皇太子瑛と仲の良い兄弟である鄂王瑤、光王琚が謀反していると誣告した。軽率な玄宗はそれにのって三子や姻族を誅してしまった。ところが十二月、武貴妃が卒すると誣告の真実が明らかになり玄宗は悔やんだ。開元二十六年[738]無罪な皇太子達を殺してしまい、しかも武貴妃を失い、気力が衰えた玄宗は次ぎの皇太子問題に悩んでいた。宰相...唐宦官伝高力士その3

  • 唐宦官伝 高力士 その2

    玄宗は即位したものの、父睿宗が上皇として残り、政策に優れた太平公主[則天の娘、睿宗の妹]が実権をにぎり宰相の大半もその党派に属していた。先天二年/開元元年[713]玄宗は再び決起し、太平公主と宰相達を誅し、実権をにぎった。力士も功績があり銀青光祿大夫,行內侍同正員に栄進し、やがて冠軍大將軍、右監門衛大將軍,知內侍省事.渤海郡公に進んだ。則天・韋后と女性が専権していた間は宦官を重用せず、官位も低かったが、玄宗に至って高官に登用し勢力を拡大していった。開元元年[713]頃実権を得た玄宗皇帝は、姚崇[元之]を宰相として登用し治政に当たらせていた。ある時崇が郎官人事を上奏したが玄宗はなにも答えずそっぽを向いていた。剛直な崇は尚も承認を求めるが返事はない。さすがに崇も懼れて退出していった。近侍していた力士は「宰相が...唐宦官伝高力士その2

  • 唐宦官伝 高力士 その1

    高力士[690-762]潘州人,本姓馮で嶺南土豪の名門馮盎[耿国公]の末裔と称していたが不明。載初元年[690]に生まれた。聖暦元年[698]嶺南討擊使李千里が去勢した蕃族の少年「金剛」と「力士」を宮廷に進献した。則天皇帝は女性であったので宦官を重要視はせず、力士は宮教博士から內府丞へ進んだが、一時は失態により放逐された。その後武三思の家に出入りする宦官高延福の養子となり復帰し、武三思に仕えた。まもなく宮廷にも復帰することができた。長身で、性格は誠実であり使者として有用で宮闈丞となった。景龍年間[708-]惰弱な中宗皇帝が韋后・安楽公主に頤使され、弟のこれまた惰弱な相王の子臨淄王隆基[後の平王.玄宗]は皇族が冷遇される事に憤懣を抱き軍人等と謀議していたが、それに親近することになった。景龍四年/景雲元年[7...唐宦官伝高力士その1

  • 唐宦官伝 楊思勗 その2

    開元十年八月安南賊帥梅叔鸞/玄成が反し黑帝と称し、三十二州の兵を率い、四十万と称し、林邑・真臘・金鄰国と結んで州縣を囲み安南府を陥した。驃騎將軍兼内侍思勗が派遣され、安南大都護光楚客と合して蕃族10万を募兵して、奇襲を加えてこれを討ち、叔鸞を誅して、賊徒の死体で京観を作った。京観とは討ち取った敵兵をつみあげるなどして塚を作り、戦勝の記念碑とすることである。開元十二年七月奚州蠻覃行璋が反した。監門衛大將軍楊思勖が黔中道招討使として六万を率いてこれを討ち、行璋を捕らえ、三萬を斬首した。思勖は輔國大將軍に進んだ。泰山封禪に従い、虢国公、驃騎大将軍となった。開元十四年二月邕州獠首領梁大海・周光等が反し賓・橫等州に拠った。驃騎大將軍兼内侍楊思勖がこれを討ち、大海等三千餘人を捕らえ、二万を斬首し京観を作った。十二月梁...唐宦官伝楊思勗その2

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    16昭宗宰相史[リンク]15僖宗宰相史[リンク]14懿宗宰相史[リンク]13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]データリンク再掲

  • 唐宦官伝 楊思勗 その1

    唐朝後半に大きな影響を与えた宦官勢力の主要人物の伝を記載していきます。宦官を重視して唐朝を傾けたのは無頼放蕩な玄宗皇帝でした。その時代の楊思勗、高力士から始めます。----------------------------------------------------------------------------------------楊思勗[本姓蘇、字は祐之]唐高宗の永徽5年[654]、嶺南の羅州石城縣[広東省]に生まれた。父は羅州大首領蘇勵、母は雷州大首領陳陈玄の女ということになっている。顯慶四年[659]、叛乱により征討され、六歳で去勢され宦官として宮廷に送られた。内官楊氏に養われて養子となった。膂力があり、殘忍で殺人を好んだ。神龍三年[707]七月皇太子重俊は韋皇后の子ではなく、皇后の愛人武三思...唐宦官伝楊思勗その1

  • 唐初功臣傳112 河間王/趙郡王李孝恭

    河間王孝恭高祖從父兄子。祖蔚は周朔州總管.贈蔡王.父の安は隋領軍大將軍。贈西平王。襄武郡王琛の弟。沈敏で識量があった。長安陥落後左光禄大夫義寧元年十二月趙郡公左光祿大夫として招慰山南。朱粲を破り、金川より巴蜀に入り、三十餘州を歸附させた。武德二年信州總管三年三月蠻酋冉肇則が信州に侵攻し、孝恭・李靖はこれを破り、開、通二州を回復した。蕭銑の東平王闍提を破り殺した。趙郡王に進んだ。四年二月信州を夔州とし總管となった。舟艦を作り水戰を訓練して蕭銑征討を始めた。孝恭は軍事には通じていなかったので、李靖を行軍總管兼長史とし軍事を任せた。巴蜀酋長の子弟を招集任用し、実は人質とした。六月廬江王瑗・田世康・周法明とともに蕭銑を討った。九月荊湘道行軍總管、李靖は攝行軍長史とし十二總管軍を率いて夔州より洪水の中江を降った。十...唐初功臣傳112河間王/趙郡王李孝恭

  • 唐初功臣傳111 長樂王李幼良

    長樂王幼良叔良弟。性粗暴で専殺し処罰された。武德元年六月長樂郡王。九年涼州都督となるが、部民が横暴であり評判が悪かった。三月突厥の侵攻を撃退した。貞觀元年四/五月羌胡と互市し、叛意を疑われた。太宗は中書令宇文士を急行させ厳しく取り調べさせた。幼良と部民は懼れて突厥に逃げるか、河西で自立するかを迷った。告発する者がいて誅殺された。太宗による自党でない皇族の粛清かもしれない。唐初功臣傳111長樂王李幼良

  • 唐初功臣傳110 長平王李叔良

    長平王颖字叔良高祖從父弟也。父禕は隋上儀同三司.武德初贈郇王。義寧中左光祿大夫封長平郡公。武德元年六月刑部侍郎.長平郡王。九月劉感を助けて鎮涇州、薛仁果に包囲されたが固守。四年六月五將を率いて突厥を擊つが、負傷し歸途に卒した。贈左翊衛大將軍.靈州總管.謚曰肅。唐初功臣傳110長平王李叔良

  • 唐初功臣傳109 襄邑王李神符

    襄邑王神符字神符神通の弟。李淵の反乱後、長安に留まり捕らえられる。義寧元年光禄大夫安吉郡公食邑二千戸.大府少卿。武德元年六月襄邑郡王食邑三千戸。京兆治中/雍州司馬となった。平道将軍.出鎮岐州.三年~四年稷州刺史四年并州総管五年八月突厥を汾東で破った。右光禄大夫検校兵部尚書兼大府卿八年檢校揚州大都督となった。州府を北岸に移した。貞觀元年將作大匠兼散騎常侍三年復宗正卿足疾辭.光禄大夫。二十三年開府儀同三司永徽二年五/六月卒.73才.贈司空.荊州都督.陪葬獻陵.謚曰恭。唐初功臣傳109襄邑王李神符

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    唐初功臣傳唐初功臣傳リンク

  • 唐初功臣傳108 膠東郡王李道彥

    膠東郡王道彥淮安王神通の子で孝行であった。父神通が李淵の反乱に応じて起兵したのに従う。義寧1.9長安が陥落すると朝請大夫。高祖即位後義興郡公膠東郡王.隴州刺史となった。武德九年皇族整理により膠東郡王から郡公に降爵された。貞觀初相州都督岷州都督となるが丁父憂、帰服してまた岷州都督。党項所部を帰服させた。貞觀二年正月岷州都督として吐谷渾の侵攻を撃退した。貞觀八年十二月岷州都督膠東郡公から赤水道行軍總管となり吐谷渾を討った。九年七月大総管李靖は吐谷渾を討つため、黨項羌酋長拓跋赤辭と結んでおり、赤辭は同盟を信用していた。ところが赤水道行軍總管道彥は赤辭が油断しているのをみて襲い、その牛羊數千頭を奪った。黨項羌は激怒し、赤辭は道彥・樊興軍を大破し潰滅させた道彥は敗戦の責任を問われ邊地へ流された。久しくして媯州/涼州...唐初功臣傳108膠東郡王李道彥

  • 唐初功臣傳107 淮安王李神通

    淮安王李壽字神通。高祖從父弟。父亮は隋の海州刺史であった。高祖即位後贈鄭王。隋末長安にいたが、高祖が反したため追捕をうけ逃走。史萬寶や何潘仁等と結び起兵して、平陽公主[高祖女]を擁立して關中道行軍總管を自称した。長安が陥ると光禄大夫.鄭國公.宗正卿から右翊衛大将軍上柱国。武德元年六月鄭國公から永康郡王に遷り、すぐ淮安郡王。十月右翊衛大將軍山東道安撫大使諸軍受節度となり、河北の平定に赴いた、黄門侍郎崔民幹が副となった。二年正月宇文化及を魏縣に破り、化及が逃亡した聊城に迫った。閏二月化及を聊城に攻めた。化及は糧が盡きたため降ろうとしたが、神通は「將士は掠奪を求めているし、逆賊は誅して国威を示さないといけない」と許さなかった。民幹は「背後に竇建德が迫っています、このままでは敗北します、掠奪などに拘っている場合で...唐初功臣傳107淮安王李神通

  • 唐初功臣傳106 永安王李孝基

    永安王孝基字孝基高祖の從父弟父璋は周梁州刺史として、隋文帝を謀殺しようとして誅された。高祖即位後贈畢王。武德元年六月隋蜀國公より永安郡王に遷る。陝州總管となり、鴻臚卿に移るが有罪奪官。武德二年十月劉武周が晉州に侵攻し、行軍総管として獨孤懷恩・于筠・唐儉とともに討った。十一/十二月武周將尋相、尉遲敬德に夏縣で敗北し,捕らえられた。脱走を試みたが捕まり殺された。贈左衛大將軍﹐謚曰壯。唐初功臣傳106永安王李孝基

  • 唐初功臣傳105 閻立德

    ----------------------------閻讓,字立德----------------------------隋殿內少監毗の子.宰相立本の兄。武德元年秦王府士曹參軍として東都平定に従う。四年尚衣奉御として袞冕六服.腰輿.傘扇を作成。貞觀初將作少匠.封太安縣男。八年永安宮を造営した。九年高祖山陵作成の功績で將作大匠。十年文德皇后崩御し攝司空となり昭陵を造成したが失態があり免官。十一~十三年博州刺史。十三年復將作大匠。十四年汝州襄城宮を大規模に造営するが炎暑と毒蛇などで不評。十五年免官。十八~十九年摂殿中監として太宗の高句麗親征に従い造橋の功績があった。二十二年~顯慶元年翠微・玉華宮を造営した功績で工部尚書二十三年攝司空として太宗山陵を造営して太安縣公。永徽五年留守京師.京城を修築。顯慶元年卒贈...唐初功臣傳105閻立德

  • 唐初功臣傳72-2 李弘節

    ----------------------------李弘節/宏説----------------------------父辱は橫野將軍司州從事。武德元年硤州刺史録事参軍[刺史許紹]二年九月蕭銑征討に従い功績があり、淸平縣公.千戸。貞觀初杭州刺史貞觀慶州刺史五年頃原州刺史七年大理卿?/少卿七/八月巡撫嶺南工部侍郎検校工部尚書貞觀二年十月金紫光禄大夫并州都督府長史八年頃雍州別駕十二年~十三年桂州都督貞觀十四年交州都督.生蠻を招慰し瀼州・籠州・環州を置いた。貞觀十五年頃卒贈桂州都督.上柱国.淸平縣公唐初功臣傳72-2李弘節

  • 唐初功臣傳72 劉贍

    -----------------------劉贍-----------------------義寧1.6~武德二年大将軍府咨議参軍として領西河通守/浩州(汾州)刺史となった。武德2.9劉武周軍が西河を攻め、浩州剌史.武陵郡公劉贍は李仲文と固守した。武德四年~五年上柱国.大府卿五年襄州道行臺兵部尚書仍持節山南道巡撫大使七年本官兼検校襄州刺史/都督武德五年/六年?司農卿八年安州大都督府長史[都督趙王]權検校大都督府長史十二月~貞觀二年検校襄州都督貞觀二年~五年検校荊州都督五年在官卒唐初功臣傳72劉贍

  • 唐初功臣傳71 虞世南

    ----------------------------虞世南字伯施----------------------------隋內史侍郎世基の弟。父荔は陳太子中庶子で共に有名だった。叔父陳中書侍郎寄の養子となった。性格は沈靜で寡欲であり勉学に励み博学を謳われた。丁父後建安王法曹參軍となった。至德初西陽王友。陳滅世基とともに隋に仕えて有名であった。煬帝に気に入られ、大業初,秘書郎から起居舎人となった。世基は寵臣となり富貴を極めていたが、世南は同居してはいるが勤儉で質素で昇進しなかった。宇文化及が煬帝を弒逆した時、世基は殺されたが、世南には害は及ばなかった。化及に従い聊城に至り、竇建德に捕らえられて黃門侍郎になった。竇建德が亡ぶと、世民[太宗]は秦府參軍とし、記室弘文館學士に転じ房玄齡と共に文翰を分掌した。世民...唐初功臣傳71虞世南

  • 唐初功臣傳70 劉德威

    ----------------------------劉德威----------------------------父子將は隋毗陵郡通守。容貌は魁偉で有名だった。大業末左光祿大夫裴仁基に従い淮左に賊を討った。また仁基とともに李密に帰し、懷州鎮守となった。武德元年李密が王世充に敗れて唐に入朝すると所部を率いて従った。授左武候將軍,封滕縣公。劉武周の南下を防いだ。判并州總管府司馬。裴寂が敗走し、齊王元吉が并州を棄てて逃げると、德威は總知留府事となり留守を守った。武周が太原を陥し、德威は捕まったが、その後逃亡し帰朝した。賊中の虛實と晉絳諸部の状況を報告し、改封彭城縣公。未幾檢校大理少卿。竇建徳・王世充の平定で有功。轉刑部侍郎,散騎常侍を加えられ、平壽縣主を妻とした。貞觀初大理卿太僕卿で加金紫光祿大夫。貞觀七年...唐初功臣傳70劉德威

  • 唐初功臣傳69 韋挺

    ----------------------------韋挺----------------------------父沖は隋民部尚書。挺は建成[皇太子]と親しく、李淵[高祖]が長安を陥した後、隴西公府祭酒となった。太子左衛驃騎檢校左衛率と建成の側近であった。武德七年慶州刺史楊文幹が反し、建成が疑われ、側近の挺や杜淹・王珪が流罪となった。太宗により召し還され主爵郎中。貞觀初王珪の推薦で尚書右丞。吏部侍郎黃門侍郎御史大夫封扶陽/扶風縣男。隋末以来緩んだ官僚達の風紀を引き締めることを提言した。房玄齡、王珪、魏徵、戴冑と政事を議した。八年正月使于四方,觀省風俗。女が齊王祐妃となった。復銀靑光禄大夫行黃門侍郎兼魏王泰府事。十二年正月高士廉・令狐德葇・岑文本等と「氏族志」を選した。中書侍郎杜正倫が太子承乾の廃立の件を...唐初功臣傳69韋挺

  • 唐初功臣傳68 張士貴

    ----------------------------張士貴/忽峍----------------------------父國は県主簿.参軍。強力で騎射に優れていた。大業末に盗賊となり、各地を荒らし、「忽峍賊」と号した。義寧二年/武德元年四月李淵[高祖]が招くと弘農賊より帰附して右光祿大夫。通州刺史馬軍総管として薛仁杲征討に従い封新野縣公。二年世民[太宗]麾下で劉武周と戦った。三年~四年王世充・竇建徳征討に従い、虢州刺史。秦王府将軍。四年十二月右武衛/武侯将軍として劉黒闥に相州で敗れ奔る。九年六月玄武門の変[太子建成殺害]に参加した。進封虢國公、右屯衛大將軍。貞觀七年五月雅州道行軍總管として反した獠を討った。太宗はその勇敢さを讃えた。八月侵攻してきた東酉洞獠を龔州道行軍總管として討った。八年正月東酉洞獠...唐初功臣傳68張士貴

  • 唐初功臣傳67 鄭善果

    -----------------------------鄭善果-----------------------------父誠は周大將軍開封縣公として戦死した。善果は九歲で襲開封縣公となった。隋開皇初進封武德郡公。14才で沂州刺史。魯郡太守で有能清廉だった。大業十二年頃大理卿突厥が煬帝を雁門に囲んだ時、解囲の功績で右光祿大夫。江都に従い宇文化及の弑逆後、民部尚書武徳二年聊城に従い竇建徳に捕まり責められ冷遇された。逃亡して相州に入り淮安王神通に帰した。高祖は厚遇して太子左庶子検校内史侍郎更封滎陽郡公。皇太子に誠実に仕えた。二年冬未幾,太子左庶子兼檢校大理卿兼民部尚書。三年坐事免。四年五月山東が平定され、持節為招撫大使。人事登用に失策があり除名。武德末禮部尚書刑部尚書貞觀元年岐州刺史→坐事免三年江州刺史卒61唐初功臣傳67鄭善果

  • 唐初功臣傳66 竇璡

    ----------------------------竇璡字之推----------------------------抗の季弟。穏やかな性格であった。大業末隋穎川・南・扶風太守を歴任していた。義寧元年十二月李淵[高祖]の反乱に扶風郡をもって歸附した。隋[代王]工部尚書.燕国公.上柱国.左元帥府掾[元帥は建成]隋[代王]禮部尚書武德元年六月唐の民部尚書世民[太宗]に従って薛仁杲を平定。ついで益州行臺僕射として平定にあたるが、皇甫無逸と対立した。京師帰還を求めたが留任させられると使者に贈賄し弾劾され免官される。五年頃秘書監封鄧國公、修陳史。貞觀初太子詹事五年九月將作大匠として洛陽宮を建設したが、あまりに豪華にしすぎて太宗の怒りをかい免官。娘を酆王の妃にしたため復位。右光禄大夫。卒贈禮部尚書.諡曰安。璡は音...唐初功臣傳66竇璡

  • 唐初功臣傳65 楊簒

    ----------------------------楊簒字續卿----------------------------弘禮族父。隋安溫二州刺史安平公文偉の子。大業進士に合格し朔方郡司法書佐。楊玄感の乱に親族として坐し免官。李淵[高祖]の反乱にくわわる。侍御史として進言。考功郎中貞觀初長安令.封長安縣男妖女の取り調べを誤り免官。五年~八年吏部侍郎.文雅を排除し能吏を登用した。八年正月河南巡察副使.宰相蕭瑀と対立した。八年~九年尚書左/右?丞九年/十年~十五年吏部侍郎十六年~十八年太常少卿貞觀十八年~十九年兼雍州別駕十九年~二十年銀靑光禄大夫尚書左丞、巡察四方二十年春/夏~二十三年大僕卿兼検校雍州別駕二十三年~永徽元年度支尚書柱國.長平縣公.永徽元年卒贈幽州都督.諡曰敬?/恭.唐初功臣傳65楊簒

  • 唐初功臣傳64 丘和

    ----------------------------丘/丘敦和----------------------------本姓丘敦氏、鮮卑人。父壽は魏の鎮東將軍。若くして弓馬に長じ、任俠を重んじていたが、成長すると穏やかになった。北周の開府儀同三司。隋の右武衛將軍封平城郡公。資州刺史。梁州刺史。寬恵で著名であった。隋漢王諒の反乱時に蒲州刺史であったが敗走し除名。権力者宇文述に媚びて近づき、代州刺史。煬帝北巡時に盛んに迎合獻食し、述の推薦もあり博陵太守となり、また帝に迎合した。しかるに郡民もよく撫して人気があり、遷天水郡守。左禦衛将軍。大業末嶺南地方が乱れ、裴矩に推されて交趾太守となり、諸豪傑を撫して蠻夷の支持を得た。義寧二年/武德元年煬帝が宇文化及に殺されると、寧長真・蕭銑・馮盎・林士弘が自立し帰属を勧誘...唐初功臣傳64丘和

  • 唐初功臣傳63 趙弘智

    ----------------------------趙弘智字處仁----------------------------元魏車騎大將軍肅の孫。父玄軌は隋陝州刺史。三禮・史記・漢書に通じ孝で知られて隋司隸に從事した。武德初郎楚之の推薦で太子詹事府主簿。吏部員外郎、国子博士、檢校吏部郎中から越王府長史兼檢校吏部侍郎を経た。貞觀中藝文類聚を選し文書や勤怠管理に努めて太子舍人から黃門侍郎兼弘文館學士に進んだ。病気により萊州刺史にでるが、また太子右庶子。俸祿は父や兄弟に分け与えていた。太子承乾が廢さけたことに連座して除名された。貞觀十八年~永徽元年しかしすぐ光州刺史となった。貞觀二十一年二月兼摂国子司業永徽初陳王の師に任用され、広く孝道を講經した。四年進國子祭酒仍崇賢館學士。卒82歳諡曰宣。唐初功臣傳63趙弘智

  • 唐初功臣傳62 竇誕

    ----------------------------竇誕----------------------------宰相抗の三男。隋仁寿中起家朝請郎。義寧初丞相府祭酒殿中監封安豐郡公尚襄陽公主駙馬都尉[高祖女]。世民[太宗]に従い薛舉を討った。元帥府司馬。武德二/三年刑部尚書。四年~貞觀元年太常卿.上柱国として高祖の子達の家事を視た。丁父憂→起復摂参旗将軍判刑部尚書事貞觀元年梁州都督。四年右領軍大將軍四年~八年大理卿、進莘國公九年修營太廟復殿中監→疾辭十八年宗正卿。老耄して失態し、光祿大夫致仕。二十二年二月卒68歳贈工部尚書、荊州刺史,諡曰安。唐初功臣傳62竇誕

  • 唐初功臣傳61 竇軌

    ----------------------------竇軌,字士則----------------------------父恭は周雍州牧酂國公。叔父は宰相威。剛胆で威望があった。大業中資陽郡東曹掾をやめて帰郷していた。李淵[高祖]が反し、軌は募兵して長春宮で参加した。義寧元年九月渭南を経略し、永豐倉を降して、長安を攻めた。封贊皇縣公.大丞相諮議參軍となった。十二月姜暮とともに散關を出て隴右を安撫したが薛擧に敗れた。武德元年四月稽胡賊五萬を黃欽山に破った。男女二萬を得、太子詹事に昇進した。羌族と薛舉叛將鐘俱仇が漢中に侵攻してきたが、秦州總管として破った。九月薛仁杲に敗北した。十一月世民[太宗]に従い薛仁杲を淺水原に破った。復襲酂國公となり益州道行台左僕射として蜀地を経略した。四年世民[太宗]に従い王世充を...唐初功臣傳61竇軌

  • 唐初功臣傳60 蔣善合

    ------------------------------蔣善合/合字玄符------------------------------大業八年山東賊孟海公に参加し鄆州を占領した。武德四年二月孟海公が竇建德に敗れて、建徳麾下になり、東都王世充救援に動員された。五月竇建德、孟海公軍は唐に敗れ、殺された。六月鄆州を以って唐に降り、戴州禹城縣令に任ぜられた。七月孟海公從弟戴州刺史孟啖鬼が曹、戴二州で反したが、善合は同調せず啖鬼を討った。功により大將軍、鄆城縣開國公食邑一千戶。持節鄆州諸軍事鄆州刺史。六年扶州刺史に転じた。七年五月羌と吐谷渾が松州に侵攻。竇軌と共に芳州道より擊った。六月吐谷渾が扶州に侵攻したが撃退した。七月吐谷渾を松州赤磨鎮で破った。八年十月吐谷渾の疊州侵攻に救援した。貞觀三年檢校松州都督。八年病...唐初功臣傳60蔣善合

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