chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
qutoushi
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2019/03/24

  • 肅宗代宗宰相史6

    大暦12年代宗皇帝はついに元載の一党を排除し、政権を奪回しました。郭子儀とは軍權を共有していますが、子儀も老齢であり安定しています。常衮が首相ですが載ほどの力はありません。魏博田承嗣は汴宋の乱にも介入しましたが所領は損得半ばし、兵力を破綻させただけで終わり、淄青李正己だけが大きな利を得て終わりました。大暦11年~14年をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗代宗宰相史6

  • 肅宗代宗宰相史5

    宦官魚朝恩を除いたことにより、郭子儀は行政にあまり関与しなかったため、朝廷は元載の独裁となり、戦乱もなかったため疲弊した唐の財政はすこしずつ改善してきました。そして大暦10年過大な軍備に苦しむ魏博田承嗣が所領拡大を図る反乱を起こしました。大暦6年~10年をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗代宗宰相史5

  • 肅宗代宗宰相史4

    弱体な代宗政権は、朔方河中軍を支配する郭子儀と、親衛軍に成り上がった神策軍を端居する宦官魚朝恩と、有能な宰相元載の三人が対立しながら支えています。代宗には実権はありません。唐朝は周智光・崔旰対策で無力さを示しますが、河北勢力も自領の確保のため紛争を起こす余力はありません。代宗皇帝が元載杜組んでなんとか三頭の一人魚朝恩を排除するまでの大暦元年~護念をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗代宗宰相史4

  • 肅宗代宗宰相史3

    肅宗皇帝が崩御し、李輔國と張皇后で後継闘争が起き、輔國が勝利し皇太子[代宗]が即位し、一時的に輔國が専権を得たが、不満な代宗皇帝に陥れられた。代宗は僕固懷恩や來瑱や郭子儀を排除したため、軍人の不信を買い吐蕃の侵攻に対抗できず京師を陥された。そして皇帝権は衰弱し、郭子儀[朔方河中]魚朝恩[神策軍]元載[宰相]の三者が対立しながら支配する状況に入った。元年・寶應元年~永泰元年をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗代宗宰相史3

  • 肅宗代宗宰相史2

    肅宗は安慶緒を唐軍を挙げて相州に攻め滅ぼそうとしますが、大軍の指揮者を決めないという愚行を犯します。また史思明を挑発して再度反乱させて大敗し河南・東都を失ってしまいました。幸いにもやがて思明は子の朝義に殺されてしまいます。乾元元年~上元二年をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗代宗宰相史2

  • 肅宗宰相史1

    優柔不断で宦官李輔國と張妃の傀儡であった肅宗皇帝ですが、郭子儀や李光弼の活躍で亡国を免れています。しかし無意味な政策で乱を長期化させていますが、一旦京師と東都を回復することには成功しました。至徳元年~二年をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗宰相史1

  • 玄宗宰相史10

    楊國忠は林甫ほどの能力がないのに安禄山を追いつめるという失態を犯しました。玄宗時代の辺境の將は王忠嗣や張守珪などほとんど失脚していますので禄山の危機感は当然です。天寶12~15年をアップします[肅宗即位後は除きます]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史10

  • 玄宗宰相史9

    天寶11年に李林甫が卒するまで独裁が続きます。出頭してくるものは残らず排除していきますが、楊貴妃一族の國忠は勢力を増し後継となります。林甫は自分が推さなかった皇太子を排除しようとしますが、宦官高力士に阻止されました。天寶6~11載をアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史9

  • 唐僕尚丞郎表について

    嚴耕望氏の「唐僕尚丞郎表」は重宝していますが、その名称上からも中書省・門下省の人事はありません。給事中・中書舎人については既に表を記載しています。今回中書令と門下侍中の表を載せるつもりです。その後中書侍郎・門下侍郎を追記していく予定です。唐僕尚丞郎表について

  • 玄宗宰相史8

    30年を区切りとするため開元は29で止め、天寶と改元しました。李林甫独裁が続きますが、天寶5年ついに最後の同輩李適之も失脚させます。あとは伴食のみです。楊貴妃の勢力が増大していきます。天寶1~5載をアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史8

  • 玄宗宰相史7

    武貴妃に狂った玄宗は、優秀な皇太子やその兄弟三人を殺害します。林甫はその過程で九齢や耀卿を排除することに成功しました。玄宗は貴妃がまもなく死ぬと冷静になりその失敗を後悔します。そして林甫の推薦する壽王[貴妃の子]を排除し、誠実なだけの忠王を皇太子としました。開元23~29年までをアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史7

  • [お知らせ]更新休止について

    私的事情により、3月18日~31日は更新しません。4月1日より再開する予定です。よろしくお願いいたします。[お知らせ]更新休止について

  • 玄宗宰相史6

    裴光庭が主相ですが財政問題は悪化し続けます。そこで裴耀卿・張嘉貞が登用され改革が行われますが、佞臣李林甫も顔をだします。開元18年から22年までをアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史6

  • 玄宗宰相史5

    河西隴右等で功績をあげた文官が宰相に登用されていきます。說が失脚しますがのこった乾曜は無能です。財政問題を解決するため玄宗は宇文融を登用しますが貴族・官僚層の反発にあい挫折します。開元13~17年をアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史5

  • 玄宗宰相史4

    張嘉貞が追われ、張說の専政となります。突厥や逃戸問題で内外とも多難ですが、玄宗皇帝もメッキがはがれていきおかしくなり、女に狂って王皇后を廃します。開元9~12年をアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史4

  • 玄宗宰相史3

    宋璟主相が悪銭問題で退場し、張嘉貞が登場する開元8年までをアップします。璟も失脚したわけではなく重用されていきます。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史3

  • 玄宗宰相史2

    姚崇専政から宋璟への交代まで、宰相の数が減少し、主相が専権する時代となります。開元2~4をアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史2

  • 高祖太宗高宗宰相史を追記

    高祖・太宗・高宗宰相史を追記しました。新宰相紹介に字.封爵.没年.贈位等を加え期間中の付帯官を追加しました。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高祖太宗高宗宰相史を追記

  • 玄宗宰相史1

    即位はしたものの実権はない玄宗は、太平公主派の宰相に囲まれなにもできない状況でした。打開のため先天二年7月兄弟諸王や側近、軍人達を動員してクーデターを起こし、太平公主やその宰相陣を一掃して主権を確保し、睿宗を隠居させました。その後姚元之/崇を登用し独裁体制を築かせます。先天元年8月~開元元年までをアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史1

  • 睿宗宰相史2

    睿宗が即位したものの太平公主と皇太子[後の玄宗]の対立が激しくなり、間にたった睿宗は調整をはかる能力はなく揺れ動き、結局皇太子に丸投げしようとして即位させ玄宗としました。しかし太平公主に懇願され、主要な権限は上皇として握るという中途半端さでかえって事態を複雑にさせました。政治力のある公主によって宰相陣は公主側が大半です。景雲二年から太極元年8月までをアップします。05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]睿宗宰相史2

  • 睿宗宰相史1

    太平公主と臨淄王隆基[睿宗子.後の玄宗]の蜂起は宰相陣を含まない下級官人と将校による蜂起でした。誅殺した韋后派の後を劉幽求・鍾紹京などで補いましたが、能力はなく、一旦解任した宰相陣を復帰させ、その後李日知・崔日用・姚元之・宋璟などを任用して体制づくりを行いました。しかし太平公主と皇太子になった隆基とが争い始めます。政治能力では則天の娘である公主が相当上のようです。その混乱した景雲元年6月~12月をアップします。05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]睿宗宰相史1

  • 韋后殤帝宰相史

    韋后・安楽公主は中宗を毒殺し、幼少の殤帝を擁立して則天の前例を踏襲しようとしました。そのため韋氏一族で軍權をにぎり、宰相達は傍観していました。しかし太平公主や臨淄王隆基[相王の子]は万騎等の青年将校を動員してクーデターを起こし、韋氏・武氏を誅滅しました。殤帝は溫王に格下げされ流されます。この唐隆元年6月[景龍4年.景雲元年でもあります]のみをアップします。ファイルは中宗睿宗宰相史です。05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]韋后殤帝宰相史

  • 中宗睿宗宰相史2

    武氏の復権に危機感を抱いた皇太子の蜂起があった神龍3年から、妻や娘にも裏切られて鬱状態になった景龍4年6月までをアップします。則天は優秀な子供を殺し、無能な子供達だけを残したようです。05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]中宗睿宗宰相史2

  • 中宗睿宗宰相史1

    張柬之・崔玄暐等は皇太子[中宗]を擁立して「唐」を再興しますが、これが最低の人物で唐の三愚帝の筆頭[他の二人は子供の敬宗と僖宗]で則天のほうが数倍ましでした。すぐ妻の韋后やその愛人武三思に引きずり回され、功臣達を追放殺害して傀儡に戻りました。その経過である神龍元年・二年をアップします。05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]中宗睿宗宰相史1

  • 則天宰相史5

    強力な支配権を保持していた則天も老齢化し、唐復活をめざす官僚団まだ後継を狙う武三思一族・寵愛する張兄弟一族の闘争を制御できなくなってきました。そして長安五年正月クーデターが発生します。長安二年から五年正月までをアップします。04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]則天宰相史5

  • 則天宰相史4

    則天もある程度経験を積み、宰相の統御ができるようになりました。官僚の才能の評価も定まり、宰相は再任用が多くなり、むやみな処罰も減ってきました。相変わらず対外的には敗北が続いています。萬歳通天二年~長安元年までをアップします。04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]則天宰相史4

  • 則天宰相史3

    則天の迷走は続きます。玉石混淆の登用と短期の使い捨てが続きます。対外的には突厥や吐蕃に敗北が続いています。天授三年から萬歳通天元年までをアップします。04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]則天宰相史3

  • 則天宰相史2

    むやみやたらに宰相登用し、すぐ酷吏の誣告を信じて殺害/流罪をくり返すという定見のない則天ですが、「唐」を滅ぼし「周」を建国することに成功しました。垂拱三年~天授二年をアップします。04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]則天宰相史2

  • 則天宰相史1

    愚鈍な中宗はすぐ廃され、腑抜けの睿宗が傀儡として擁立されました。則天の専権に不満な李勣の孫敬業が淮南で反乱しすぐ鎮圧されました、裴炎は中宗の廃位を率先しましたが、則天の奪位には反対し殺されました。どんどん則天体制が確立していく、弘道元年から垂拱二年までをアップします。04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]則天宰相史1

  • 高宗宰相史8

    儀鳳四年~高宗が崩御した永淳二年までをアップします。皇太子賢も武后に廃され、愚鈍な哲[中宗]が皇太子となりますが、既に老耄している高宗には無縁です。ただ高宗が生きていることで武后の残虐性は掣肘されていますが03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史8

  • 高宗宰相史7

    武后は「天后」と称し、高宗と併立します。評判の良い実子の皇太子弘を殺し、賢を擁立するなどしたい放題の、上元元年~儀鳳三年をアップします。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史7

  • 高宗宰相史6

    武后が政治の実権を握っています。武后好みの言葉遊びで官名なども変更されていきます。対吐蕃対策が重要となっていきます。總章二年から咸亨四年までです。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史6

  • 高宗宰相史5

    高宗が武后の束縛を逃れようとして失敗した麟德元年から、百濟・高麗の平定ができた總章元年までを追加します。官僚からも見放された高宗は傀儡でしかありません。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史5

  • 高宗宰相史4

    長孫無忌が失脚した顯慶四年から、百濟征討は成功しましたが高麗征討は失敗し、李義府が専横しすぎて失脚する龍朔3年までを追加します。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史4

  • 高宗宰相史2

    高宗の寵愛をうけた武氏[則天]が皇后となり、皇太子忠を廃して自分の子弘を皇太子にして実権を握っていく顯慶3年までをアップします。無忌の勢力は衰退します。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史2

  • 高宗宰相史1

    高宗即位の貞觀23年から、長孫無忌が政敵を一掃して独裁体制を築いた永徽四年までをアップします。高宗は軟弱ですので初期は無忌の、後期は則天武后の傀儡です。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史1

  • 太宗宰相史5

    貞觀20年から太宗が崩御する23年までを追加します。もう太宗は正常な判断能力を持っていません。02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]太宗宰相史5

  • 太宗宰相史4

    太宗は貞觀17年皇太子承乾を廃し、長孫無忌の指嗾で無能な晉王治を太子としました。そして貞觀19年には高麗遠征に失敗し、健康を害しました。貞觀15~19年を追加します。02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]太宗宰相史4

  • 太宗宰相史3

    長孫皇后が亡くなり太宗がおかしくなりはじめました。貞觀10年から侯希逸が西域征討を完了する貞觀14年までを追記します。02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]太宗宰相史3

  • 太宗宰相史2

    太宗の体制は安定していきました。貞觀五年から高祖が亡くなる九年までを追加しました。宰相陣はほとんど動きません。02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]太宗宰相史2

  • 太宗宰相史1

    太宗が奪位した武德9年7月から、宗主国の突厥を滅ぼした貞観4年までを記載します。太宗は奪位を頡利可汗に咎められ、単身謝罪させられた屈辱を晴らしたわけです。02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]太宗宰相史1

  • 唐高祖宰相年表2

    武德六年から、秦王世民が皇太子や齊王元吉を殺害し、高祖を退位させ自立した武德九年七月までを追加しました。宰相陣にあまり変化はありません。首相は裴寂です。01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐高祖宰相年表2

  • 唐宰相史1 高祖前半

    隋恭帝を廃して唐高祖が簒奪した武德元年から、群雄竇建徳・王世充を倒して唐の優勢が確立した武德五年までを上げていきます。PDFです。毎回5年単位で唐末まで続きます。01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐宰相史1高祖前半

  • 唐後半の反乱年表

    長らく続いていた唐後半の反乱記録を集約しました。この後は唐宰相史を唐初の高祖から上げていきます。唐後半の反乱年表[xls]を掲載しました。各リンクから該当の反乱の詳細[pdf]を見ることができます。唐後半の反乱年表

  • 鳳翔 李楚琳の乱

    鳳翔隴右節度使朱泚は弟幽州節度使朱滔の反乱に与してはいませんでしたが、朝廷としては警戒して節度使を解任しました。宰相盧杞は同輩の宰相張鎰を追い出すために、朱泚の影響力がある鳳翔には重臣の配置が必要だと言いふらし、鎰を後任とすることに成功しました。建中4年10月涇原軍が反し、德宗皇帝が奉天へ奔ると、鎰は鳳翔へ迎えようとしまず貨財を獻じました。後營將李楚琳は剽悍で威權がありましたが、朱泚の配下で信任を得ていました。そのため行軍司馬齊映・齊抗などは楚琳を隴州へ出そうとしていましたが、楚琳は行かずその党とともに反し鎰や王沼等を殺しました。楚琳は節度使として自立し、朱泚に附きました。隴州刺史郝通も楚琳の配下となりましたが、隴右節度判官隴州留後韋皋は同ぜず隴州を守りました。楚琳は朱泚の奉天城攻囲を支援していましたが、...鳳翔李楚琳の乱

  • 忠武軍 周岌の乱

    乾符~廣明年間、王仙芝・黄巣の乱により唐朝の河南藩鎭軍の規律はゆるみ、兵乱が続発し、任地からの離脱や帥の追放が続発するようになり、黄巣軍の北進を止められなくなりました。廣明元年9月徐州・許州・兗州等河南各軍は兗州節度使齊克讓の指揮下に、溵水で黄巣北進を阻止するために集結していました。強暴な徐州兵の増援軍が許州を通過しました。許州節度使薛能は前任が徐州節度使でうまく統治していたので、徐軍吏も懐いていました。そこで城にいれて優待しましたがやはり放埒でした。許州軍將周岌は、徐州軍が家族を害するのではないかと懼れ、溵水よりを軍を還して徐兵を殺し、能を[旧唐]放逐/[新唐]殺害し自立しました。これを聞いた溵水の徐州軍主力は將時溥に率いられて勝手に帰還しました。兗州節度使齊克讓は兵乱を懼れて兗州に戻り、他軍も解散し、...忠武軍周岌の乱

  • 宣武の軍乱 李乃・鄧惟恭・陸長源

    宣武節度使李萬榮は自立してまもない貞元12年6月に重病となってしまった。監軍霍仙鳴は押牙劉沐に軍政を委ねた。萬榮の子乃は規律のみだれた宣武軍士を煽動し、沐を追い出し、將伊婁說、張丕を殺させました。萬榮の腹心で重鎮の都虞候鄧惟恭は監軍俱文珍とともに乃を捕らえ京師に送りました。貞元12年7月朝廷は元宰相の東都留守董晉を同平章事宣武節度使として送り込み、乃は虔州司馬へ左遷しました。惟恭は自立を策しましたが、晉が急行したために準備ができず、やむをえず諸将を率いて出迎えました。老獪な晉は惟恭を安心させ当座の軍政を委ねました。貞元12年8月硬骨果断な汝州刺史陸長源を宣武行軍司馬としました。晉は硬軟を使い分けて將士を慰撫していったので晉が卒するまでは安撫しておくことができました。貞元12年11月都虞侯鄧惟恭は徒党を組み...宣武の軍乱李乃・鄧惟恭・陸長源

  • 幽州 朱希彩の乱

    安史の乱後、史朝義を裏切って殺した李懷仙は、検校侍中幽州節度使として帰朝した賊將の中ではトップの待遇を受けました。大曆3年6月理由は不明ですが、麾下の兵馬使朱希彩、朱泚、泚弟滔は懷仙とその一族を殺害しました。そして希彩を擁立しました。大暦3年閏6月懷仙と親しかった、成德軍節度使李寶臣は希彩を攻めましたが敗北しました。朝廷はやむをえず、宰相東都留守王縉に盧龍節度使を領させ、希彩を知幽州留後としました。大曆3年7月王縉は幽州に至りましたが、到底制することができないのを知り、数日で帰還しました。大曆3年11月希彩は節度使となりました。幽州朱希彩の乱

  • 義武軍の乱 張茂昭の易定奉還

    義武軍節度易定觀察使は成德軍節度より別れてた藩鎭で、初代張孝忠より唐朝に友好的でした。幽州と成德の二大藩鎭の間にあり常に圧迫を受ける位置にありますが、強力な軍を維持するには財政的に困難な状況でした。それでも驍將孝忠の時代は圧力をはねつけていましたが、二代茂昭となると唐朝の強力な支援がないと存続も困難でした、茂昭は入朝して優遇を受けると、易定二州を唐朝に奉還し、それによって張氏一族の繁栄を図ろうと考えました。元和5年10月成德王承宗征討が戦果無く終わると、茂昭は二州奉還を実行し、自分は河中節度使を与えられ、一族を引き連れて赴任していきました。河北の情勢を考えると、易定二州が唐の領域になるということは大変なことでした。河東や昭義という唐朝領域から河北内部へ易定二州が延びれば、幽州・成德は分断され、朱滔の乱のよ...義武軍の乱張茂昭の易定奉還

  • 河中の軍乱 李國貞殺害

    安史の乱も史思明が子朝義に殺され終息が見えてきましたが、まだまだ征討が終わってはいませんでした。定見無く無能な肅宗皇帝と宦官李輔國は、軍人への不信感は強く、特に異民族以外の軍人は敬遠する傾向がありました。当時河東道地域に集結した朔方軍中心の唐軍も、主帥郭子儀を警戒し、文官の李國貞を都統としました。國貞は有能な官僚ですが、軍人ではありません。上元2年8月殿中監李若幽[賜名され國貞]を戸部尚書朔方鎮西北庭興平陳鄭等九節度行營兵馬及河中節度都統處置使とし、絳州に屯させました。元年建卯月河東軍に軍乱が起き、文官の節度使鄧景山が殺されました。当時絳州には軍糧の蓄積はなく、將士は不満でした。國貞は供給を求めましたが得られません。突將王元振は乱を企み、將士に「都統はこの食糧不足の時に、我々に自宅の修築の手伝いを命令され...河中の軍乱李國貞殺害

  • 河東の軍乱 鄧景山の殺害

    上元2年5月、戦争には弱かったけれども軍政には長けていた河東節度使王思禮が卒しました。彼は膨大な軍糧を蓄積していましたが、後任の軍人管崇嗣は無能でたちまち散逸させてしまいました。そこで文官で厳格な尚書右丞鄧景山を任命しました。景山は赴任すると將士の不正を厳しく摘発しました。元年建卯月、景山は裨將の不正を糾弾し死刑を宣しました。その弟が刑を代わると申し出ましたが拒否しました。ところが馬一匹を納付すると申し出ると赦しました。諸将は「我らは馬一匹以下なのか」と怒って乱し、景山を殺しました。姑息な肅宗皇帝はあわてて「処罰しないから落ち着いてくれ、諸君の希望の帥を選んでくれ」と低姿勢にでました。諸將は都知兵馬使代州刺史辛雲京を推し、雲京は河東節度使となりました。実の所雲京は乱の黒幕であったかもしれません。この肅宗の...河東の軍乱鄧景山の殺害

  • 涇原 田希鑒の乱

    建中4年10月、東都の救援のため節度使姚令言に率いられた涇原軍5千は、途次京師で反乱し德宗皇帝を逐い、朱泚を擁立しました。令言は留守として兵馬使馮河清を涇原留後とし、判官姚況を知涇州事としていました。河清等は反乱に従わず、德宗のいる奉天に甲兵、器械百餘車を送り込みました。德宗は河清を涇原節度使とし、況を行軍司馬に任じました。しかし軍内には反卒となった涇原兵士の家族・友人や、旧幽州兵も多く、朱泚に親しみを持つ分子もあり不安定な状況でした。興元元年4月朱泚、姚令言は河清を誘いましたが従いません。そこで大將田希鑒を誘い河清等を殺害させました。泚は希鑒を涇原節度使としました。興元元年6月李晟が京師を陥し、逃亡してきた泚・令言を希鑒は受け入れず、旧涇原兵は令言を殺し希鑒の元に戻りました。興元元年閏10月涇原節度使田...涇原田希鑒の乱

  • 甘露の変

    文宗皇帝は擁立してくれた宦官勢力が疎ましくなり、幹部宦官を排除するために宋申錫を用いて画策したが、宦官王守澄に先手をうたれ失敗しました。その後も画策しましたが、党争しか頭にない旧来の官僚[牛李の党]に失望し、その頭領たる李德裕・李宗閔を共に排除し、理財家王涯や第三勢力の李訓等を登用してきました。次々と新登用がありましたが、官僚達も文宗皇帝が党争を制圧するための対策と理解していました。大和9年6月左神策中尉韋元素、樞密使楊承和、王踐言を地方に追い、9月には守澄の実権を奪い、10月には毒殺しました。しかしこれらは後継の中尉仇士良や魚志弘の支援があってこそでした。宦官勢力も一丸ではなく、旧勢力の退陣は歓迎するところでした。宰相陣の中では李訓・舒元輿が加担し、京師近隣の邠寧節度に郭行餘、鳳翔節度に鄭注、河東節度に...甘露の変

  • 淄青 李懷玉・正己の乱

    淄青平盧軍節度使は遼東半島にあった平盧軍節度使が安禄山の乱においては同調せず唐朝側について戦った。一部[李忠臣-董泰や田神功]は渤海湾を渡り山東半島に入り防衛にあたりました。しかし幽州領域に隔たられて孤立し、奚・契丹の圧迫もあり、元年建寅/建丙月に節度使侯希逸の指揮下に家族とともに營州をすてて幽州領域を南下し黄河を渡りました。唐朝は靑密節度使を与え、淄沂節度使田神功も所轄を譲渡し淄青平盧軍節度使が成立し、侯希逸が帥となりました。永泰元年7月安定した節度使を得た侯希逸は驕慢となり、遊猟や仏事にふけるようになり、まだ生活が立て直せない將士は不満を抱き、親族の將李懷玉[高麗人]は衆心を集め希逸を逐いました。朝廷は鄭王邈為平盧淄青節度大使とし,懷玉[賜名して正己]を權知留後事として継承を認めました。希逸は京師に奔...淄青李懷玉・正己の乱

  • 河東 楊弁の乱

    昭義劉稹の自立を征討するため、忠武・河陽・晉絳軍を澤潞の主戦線とし、河東軍は背面攻撃を担当して遼州榆社に進出していました。河東節度使劉沔は回紇征討の際、幽州張仲武と軍功を争ったため義成軍節度使に左遷され、庫物をさらえて転勤し、後任に文官の荊南節度使李石が転任してきました。會昌3年12月榆社行營都將王逢から増兵を求めてきましたが、太原は無兵のため、石は橫水に屯する三千人の半分を送ろうとしました。兵は派兵手当を求めましたが、軍庫は空で支給できませんでした。都頭楊弁は太原無兵を知り士卒を煽動しました。會昌4年正月楊弁達は城市を掠奪し、都頭梁季葉を殺し、李石は汾州に奔りました。弁は自立しようとして劉稹に通じました。石會關守將楊珍は關を以って稹に降りました。劉稹征討が進まない中での、河東軍乱の通報で朝廷は大きく動揺...河東楊弁の乱

  • 汴宋 李靈耀の乱

    汴宋八州節度使は淄青・淮西と並んで平盧軍系の節度使で、長らく田神功が統治し、その没後は弟神玉が留後となっていました。汴宋は神功の独裁体制ではなく諸将の連合体でしたが、神玉まではなんとか統制がとれていました。汴宋は富裕で重要な土地でしたので、唐朝としては是非直轄に移したい地域でした。また当時は魏博田承嗣の反乱が沈静化はしてもまだ収まっていない時期でした。大暦11年5月神玉が卒すると、朝廷は文官の永平節度使李勉に汴州刺史充汴宋等八州節度觀察留後を兼任させました。しかし汴宋都虞候李靈耀達は、同調しない濮州刺史孟鑒を殺し、魏博田承嗣と通謀しました。朝廷はあわてて靈曜を濮州刺史としましたが、靈曜は受けません。大曆11年6月姑息な代宗皇帝はたちまち妥協し、靈耀を汴州刺史充節度留後としました。靈耀としては自派の同僚達に...汴宋李靈耀の乱

  • 唐反乱年表

    今までの反乱記録を集約しました。まだ多少の追加後、編集して完成版にします。唐の反乱年表[xls]を掲載しました。各リンクから該当の反乱の詳細[pdf]を見ることができます。唐反乱年表

  • 范陽節度使史思明の反

    安禄山の腹心であった史思明は、反乱後河東・河北で活躍していましたが、安慶緒による禄山暗殺後には態度を鮮明にせず幽州で范陽節度使として半自立体制を取りました。至德2年12月唐朝が両京を回復し安慶緒が相州に逃亡すると、思明は偽河東節度使高秀巖とともに帰朝しました。肅宗皇帝は歸義王范陽節度使に任じました。滄、瀛、深、德、棣等州は皆思明に附きました。これにより慶緒は追いつめられ乱の平定は近いと思われました。ところが宰相張鎬は思明の歸順を疑っていました。幽州内部でも節度副使烏承恩や派遣されて来た宦官李思敬は副元帥李光弼と通じて思明を除く陰謀をめぐらしていました。当然肅宗皇帝もそれを承認していたとみられます。まだ安慶緒が相州で戦っている時期であるのに極めて軽率であったと思われます。乾元元年6月史思明は陰謀を知り、承恩...范陽節度使史思明の反

  • 幽州 陳行泰等の軍乱

    大和8年楊志誠を逐って自立した史元忠ですが、牙軍を統率できなかったようで會昌元年9月幽州軍が亂し、節度使史元忠を[旧唐書]逐う/[新唐書.通鑑]殺すと混乱しています。首謀者は牙將陳行泰です。元忠は親唐朝派であったようで、朝廷は行泰の継承をすぐには認めません。會昌元年閏9月再び軍乱が起き、牙將張絳が行泰を殺し自立します。宰相李徳裕は現地が混乱している状況を察し、継承を慎重にするよう提案しました。會昌元年10月再度軍乱が起き、絳は逐われ、雄武軍使張仲武が幽州に入り自立しました。絳と仲武は事前に連絡があったようですが、乱後に仲間割れしたようです。仲武は衆心を得ており、宰相德裕との事前了解もあったのですぐ留後に任ぜられました。そして親唐朝派として対回紇対策に協力しました。幽州陳行泰等の軍乱

  • 幽州軍乱 楊志誠逐われる

    幽州節度使李載義を逐って自立した楊志誠ですが、節度使となった後も反唐朝姿勢を取り、与えられた官爵に不平を言い、使節を抑留したりしていました。大和8年9/10月幽州節度使楊志誠と監軍李懷仵は牙軍に逐われ、將史元忠が自立しました。原因はよくわかりません。志誠は京師へ遁走しました。志誠一行は河東太原を通過しましたが、朝廷優遇され河東節度使となっていた前使李載義に襲撃され、本人は助命されましたが、妻子や從っていた將士は殺されました。専殺ということになりますが朝廷は載義の功を考えて不問にしました。載義は逐われたことや、母兄の墓を暴かれた恨みがあり、志誠を殺す事をあくまで願いました。大和8年11月京師で志誠は糾問され、史元忠の告発により、節度使時代に皇帝を真似ていたことから流罪となり、途次殺されました。大和8年12月...幽州軍乱楊志誠逐われる

  • 永王璘の乱

    玄宗の子永王璘は幼くして母を失い、哀れんだ兄の肅宗皇帝に愛育されていました。好学でしたが容貌は冴えませんでした。安史の乱が発生しました。至徳元年7月諸王が各地に分遣され、璘は領荊州大都督領山南、江西、嶺南、黔中四道節度使となりました。それまで諸王は実任にはつかず京師の「十王宅」に常住していましたが、始めて地方に赴任したわけです。世間知らずの璘は荊南江陵に至り、江淮の租賦が山積しているのを見て舞い上がり、薛鏐、李台卿、韋子春、劉巨鱗などの軽薄な取り巻きの指嗾に乗って江淮で自立しようと思い立ちました。至德元年11/12月そして舟師を東下させ、渾惟明、季廣琛、高仙琦を將として淮南揚州を取ろうとし、採訪使李成式を攻めました。吳郡採訪使李希言は將元景曜・李承慶・丹徒太守閻敬之・を派遣しましたが、璘軍將渾惟明に敗れ、...永王璘の乱

  • 幽州 楊志誠の乱

    幽州節度使李載義は親唐朝姿勢を貫いていましたが、それに不満な河北勢力も根強く存在していました。載義は本来外来の家系で幽州軍内の大和5年正月球場後院での宴会で副兵馬使楊志誠と一党が反乱し、載義と子正元は易州に奔りました。志誠は載義姻戚莫州刺史張慶初を殺しました。あまりにもろい状況ですが、反唐朝グループが強かったとも言えます。藩鎭不干渉の政策をとる宰相牛僧孺はなんの動きもみせず、志誠の自立を認めました。しかし入朝した親唐朝姿勢の載義を太保同平章事として遇し、まもなく山西節度使を与えました。継承を認められた志誠ですが、反唐朝姿勢を示しました。幽州楊志誠の乱

  • 幽州 李載義の乱

    幽州朱克融は自立して節度使になったが、その統治は暴虐で不安定で、その政治姿勢も成德王廷湊に追随するだけでした。寶暦2年5月幽州で軍乱が起こり、克融と子延齡が殺され、第二子延嗣が擁立されました。寶暦2年9月延嗣は暴虐であったため、都知兵馬使李再義と弟再寧が乱し、延嗣と家屬三百余人を殺し自立しました。再義は劉總に登用され親唐朝分子であったようです。寶暦2年10月再義はたちまち節度使に任ぜられ、「載義」と賜名されました。載義達と唐朝は連絡があったようです。その後奴隷化されていた張弘靖幕僚の家属を返還したり、横海李同捷征討に協力するなど親唐朝姿勢を貫いていました。幽州李載義の乱

  • 山西・興元の軍乱

    李絳は憲宗時代の謀臣・宰相で功績がありました。以降は凡帝が続き、高官を歴任しましたがさしたる業績はありません。大和3年正月太常卿より山西節度使に転じました。劍南西川節度使杜元穎の失政により南詔蠻が入寇し成都を陥す事態になり、朝廷は神策軍を派遣し、山西軍も動員されました。大和4年2月山西軍は少ないため新兵千人を動員しましたが、西川の寇は早期に収まったため、手当を与えて解雇することになりました。ところが絳と不仲の監軍楊叔元は手当をろくに与えません。新軍兵は怒って乱し倉庫を荒らして使府に突入し、絳や幕僚趙存約・薛齊等を殺し、絳の家族も殺しました。叔元は絳の失態であると上奏しましたが、諌官達は弾劾しました。尚書右丞温造が山南西道節度使となり鎮定に向かいました。大和4年3月造は褒城に至り、西川からの歸途にあった山西...山西・興元の軍乱

  • 宣宗皇帝崩御後の変

    宣宗皇帝は宦官の擁立により即位したにもかかわらず、その治政への熱心さと、ボス宦官不在のため、宦官の政治関与を抑制していました。しかし皇太子については、三男夔王滋を立てたい思いと、長男鄆王温を排除する理由がないことから躊躇したたま重病となりました。大中13年8月宣宗派の宦官樞密使王歸長や馬公儒等は、右軍中尉王茂玄と図って、夔王滋を擁立しようとしましたが、同意しないであろう左軍中尉王宗實を排除するため、宣宗がすでに逝去しているにもかかわらず、淮南監軍への移動命令を出しました。宗實は命に従い赴任しようとしましたが、副使亓元實に止められ入内し、宣宗が既に崩御していることを知りました。そして王歸長・馬公儒の行為を責め、長子である鄆王を擁立しました。そして歸長、公儒等をみな殺しました。夔王は殺されていません。もはや皇...宣宗皇帝崩御後の変

  • 敬宗皇帝の殺害

    18歳の敬宗皇帝は低能の不良少年で、ポロ競技やレスリングに熱中し、朝禮政務にはなんの関心もありませんでした。宰相李逢吉達はその馬鹿さ加減に手を焼きながらも、自分達で政治を行えるため放置していました。禁軍や諸道方鎭は競技選手や力士を献上してご機嫌うかがいをし、敬宗はお気に入りの力士達に莫大な賞賜を与えたり、一転して鞭打ち・流罪にしたりとやりたい放題でした。特に宦官達はそのムラ気を懼れていました。寶暦2年12月敬宗は遊びから帰り、宦官劉克明、田務成、許文端やポロ選手・力士と宴会をしていました。そして便所で劉克明等に殺害されました。克明等は翰林學士路隋に遺制を書かせ、憲宗六子の絳王悟を擁立しました。事態を知った宦官主流の樞密使王守澄・楊承和、中尉魏從簡・梁守謙は神策軍を動員して絳王悟、克明等を殺害しました。そし...敬宗皇帝の殺害

  • 文宗皇帝崩御後の変

    大和9年の甘露の変以降、文宗皇帝は傀儡となって、宦官勢力が全権をにぎったという記述がありますが、それほどではなく、昭義劉従諫の恫喝や一部官僚勢力の抵抗を背景として、官僚派と宦官派がせめぎあっていた状況でした。開成3年宦官達に堕落させられた自子の皇太子永が卒したあと、文宗は幼少の敬宗六男の陳王成美を皇太子としました。開成5年正月文宗皇帝が崩御すると、宰相李玨や文宗派の宦官知樞密劉弘逸は皇太子を即位させようとしますが、文宗を憎んでいた神策軍中尉仇士良、魚弘志等は挙兵し懿宗の子穎王瀍[武宗]を皇太弟として擁立し、皇太子や安王溶、賢妃楊氏を殺害して即位させました。安王は文宗の寵姫楊氏の子で立太子を図り宰相等に阻止されていたのです。穆宗以降、宦官が皇帝を擁立する傾向がありましたが、文宗以降ははっきりと宦官による擁立...文宗皇帝崩御後の変

  • 宰相 元載の変

    理財に長けた元載は宦官李輔國に取り入り宰相となり、その後禁軍を支配する宦官魚朝恩と、河中朔方軍を支配する郭子儀と三頭政治で唐朝を支えてきました。大暦5年魚朝恩を排除し中央の権限を独占するとますます専横となり、莫大な賄賂をかきあつめていました。代宗皇帝は次ぎに実権回収を図りましたが、もうひとりの宰相王縉も載党で官僚人事を握り、禁中は宦官董秀に掌握させている載にどうにもできませんでした。大暦12年3月代宗皇帝は信頼できる舅の左金吾大將軍吳湊を京兆尹に任じ、警察権を掌握して載・縉・秀を逮捕させ、載と秀を誅殺し、縉を左遷しました。莫大な収賄物が摘発されました。大曆12年4月清廉な楊綰・常衮を宰相とし、代宗皇帝は即位して15年で初めて実権を握ることができました。大曆12年5月代宗の怨みは強く、元載の祖先の墓・家廟を...宰相元載の変

  • 魏博 何進滔の乱

    魏博節度使史憲誠は半朝廷派で、いやいやながら自立した横海李同捷の征討に加わっていました。息子の唐[孝章]は名の通り朝廷べったりで、風見鶏的な父を諫言し朝廷に従わせていたからです。大和2年3月史憲誠は子の副大使唐と都知兵馬使亓志紹に兵二萬五千を率いさせ德州[李同捷]を討たせました。唐の強請によるものです。大和2年7/8月魏博軍は平原を攻め、武寧王智興は棣州を陥します。さすがに同捷と成徳王廷湊は危機感を感じ、亓志紹を裏切らせるよう働きかけました。太和2年12月行營都知兵馬使亓志紹は所部二萬人と謀叛し、魏州を襲い史憲誠父子を殺して自立しようとしました。太和3年正月憲誠は救援を求め、朝廷軍の義成李聽等は志紹軍を破り、志紹は成徳へ逃亡しました。鎮定はできたとはいえ、魏博牙軍はすぐ乱を起こし、憲誠の地位は不安定なのま...魏博何進滔の乱

  • 魏博 史憲誠の乱

    魏博節度使であった田弘正は、王承宗の没後対立関係であった成德節度使に転じました。当然危険な状況であったので魏博兵二千を身辺警護として引率して赴任したのですが、朝廷はその経費を惜しんだため帰還し、王廷湊らの乱により弘正は殺害されてしまいました。当時の魏博節度使は淮西吳元濟を滅ぼした名将李愬でしたが、既に重病で成德征討にはあたれません。長慶元年8月そこで朝廷は弘正の子涇原節度史田布を魏博節度使として伐たせようとしました。忠誠心の厚い布は急遽赴任して全軍三万を動員して南宮に出鎭し王廷湊を討とうとしました。しかし魏博牙軍は札付きの軍であり、いままで多くの褒賞により甘やかされており、田弘正や李愬にとっても扱いにくい連中でした。しかも朝廷は経費を出し惜しみ褒賞どころか、軍費ですら当面自弁させようという姿勢でした。長慶...魏博史憲誠の乱

  • 山東 梁崇義の乱①②

    簡単に動揺する皇帝によって山東節度使來瑱は、転任・復任・昇進とそれぞれ異例の意味の解らない待遇を受け、結局、賄賂を断られた宦官程元振の誣告により、寶應2年正月殺されてしまいました。軍人達は朝廷に不信感をいだきましたが、もっとも衝撃をうけたのは山東軍です。來瑱は山東の將士の人望が厚かったのです。寶應2年閏正月山東將梁崇義は羽林軍より來瑱に従い山東にうつり右兵馬使となっていました。崇義は武勇に優れ衆心を得て鄧州に鎮していましたが報を聞くと襄州に入りました。瑱の死で山東軍は統制が乱れ、行軍司馬龐充は追い払われ、左兵馬使李昭、副使薛南陽と崇義が争い、結果として衆心が集まった崇義が立ち、昭・南陽は殺されました。崇義の自立を聞いても、朝廷は伐つこともできず追認するしかありませんでした。寶應二年三月崇義は襄州刺史山南東...山東梁崇義の乱①②

  • 成德 王武俊の乱

    武俊は契丹人で李寶臣に仕えていました。勇猛果敢でしたが、軍内での地位はさして高くないため、かえって寶臣に愛され、娘を子の士眞に与えていました。寶臣が卒すると、諸将は動揺し、張孝忠や康日知は唐朝に付き、河東・昭義・幽州軍が侵攻してきました。惟岳は武俊も疑っていましたが、やむをえず趙州[康日知]を伐たせました。建中3年閏正月出陣した武俊は反旗を翻し、士眞と呼応して惟岳を誅しました。建中3年2月朝廷は恩賞として武俊を恆州刺史恆冀都團練觀察使としました。恒州と冀州は趙州で分離され、張孝忠が易定節度使となったのはともかく、軽んじていた深趙都團練觀察使康日知と同格というのは極めて不満でした。武俊としては孝忠領以外を領して成德節度使になるのが望みでした。建中3年4月そこで同じく恩賞に不満な幽州朱滔、敗北して危機に瀕した...成德王武俊の乱

  • 夏綏 楊惠琳の乱

    夏綏節度使韓全義は淮西吳少誠征討で大敗し、ほうほうの体で逃げ帰りましたが、もうろくした德宗皇帝は宦官達に丸め込まれて功績があったとしていました。しかし皇帝以外は全義の失態を記憶していました。德宗が崩御し、順宗・憲宗皇帝が即位すると全義は観念し、処罰されない間に帰朝しようと考えました。永貞元年8月憲宗皇帝の即位に合わせて全義は入朝しました。留後は甥の楊惠琳に任せました。永貞元年11月左驍衛將軍李演が夏州刺史夏綏銀等州節度使となり、全義は太子少保として致仕を許されました。全義としては責を問われることがなく引退できたわけです。ところが楊惠琳は、德宗皇帝時代の姑息な継承例により、乱をおこせばなんとかなると思っていたようです。憲宗皇帝は夏綏のような自立の出来ない弱小方鎭にそのようなことを認めるつもりはありませんでし...夏綏楊惠琳の乱

  • 西川 劉闢の乱

    韋皐は奉天の乱後劍南西川節度使となり、永貞元年に卒するまで20年間西川を統治しました。軍備を強化し南詔と同盟して、吐蕃を何度も大破してその脅威を除きました。領内に重税を課し、麾下の官僚や軍人の待遇を良くし、幕僚達と朝廷との交流を行わず半独立国の状態に置きました。姑息な德宗皇帝はその功績を評価して放置していました。永貞元年6月韋皐は重病となり、麾下の劍南支度副使劉闢は京師に至り、当時の権力者王叔文に贈賄して後任となろうとしましたが峻拒されました。永貞元年八月韋皐は卒しました。行軍司馬劉闢は自立しました。憲宗皇帝が即位したばかりであり朝廷は、宰相中書侍郎平章事袁滋為劍南東西兩川山南西道安撫大使を送り慰撫しました。永貞元年10月宰相劍南安撫使袁滋を劍南西川節度觀察等使とし、西川行軍司馬劉闢を給事中としました。給...西川劉闢の乱

  • 幽州節度使 朱滔の乱 2

    興元元年正月德宗皇帝は大赦令を発し、朱泚・朱滔以外を赦しました。王武俊・田悅・淄青李納は帰順し、淮西李希烈のみが反乱を続けました。武俊・納は既得権が維持されればそれ以上の要求はなく、悅は相継ぐ敗戦により牙軍は潰滅して休戦を切望し、財政も破綻していました。南下した滔軍をまだ態度を示さない武俊・悅は供軍しています。しかし悅は軍が出兵を望まないとして会同しようとはしません。滔は悦の背信を怒り、馬寔に魏州宗城、貝州經城,楊榮國に魏州冠氏を陥させました。また回紇に魏州館陶を掠奪させました。悦は魏州に籠城します。滔は邢州平恩、魏州永濟に分兵します。滔は貝州に刑曹俊を攻囲します。また回紇を放し諸縣を大掠させ、貝州武城を陥し徳棣二州から軍糧を調達しました。興元元年2月王武俊に平章事兼幽州節度使が加えられ、滔を伐てという命...幽州節度使朱滔の乱2

  • 幽州節度使 朱滔の乱 1

    滔は泚の弟で、泚が入朝した跡、幽州節度留後となり実質的な節度使となりました。建中2年正月成德李寶臣が卒し、子の惟岳が自立すると、滔は率先して征討に参加しました。そして易州刺史張孝忠を帰服させ、3年正月には孝忠と惟岳軍を束鹿に大破し深州を囲みました。王武俊が反して惟岳を誅すると、孤立した魏博田悅を除き、河北では唐朝の優勢が定まりました。建中3年閏正月深州刺史楊榮國は滔に降り、滔はそのまま刺史に任じました。ところが2月唐朝からの恩賞は武俊に恒冀、康日知に深趙、孝忠に易定滄、滔には徳棣を与えるというものでした。恒と冀は深趙に分断され、易定と滄は離れ、幽州と徳棣も滄に分断されています。滔は隣接の深州を欲し、しかも現実に抑えていたのです。この決定に滔と武俊は憤激しました。4月朝廷は滔に検校司徒、通義郡王を与えました...幽州節度使朱滔の乱1

  • 邠寧軍の継承軍乱

    邠寧軍は郭子儀の朔方軍の系列を引き、朔方軍・河中軍が形骸化した後も、吐蕃防衛の前線として關内道で最大の武力を維持していました。韓游瓌奉天の乱に邠寧を継承した韓游瓌は、貞元3.10子の欽緒が李廣弘の乱に参加したことから軍内で権威を失い、德宗皇帝に媚びて留任はしましたが、立場が不安定になったことを自覚していました。①貞元4年正月遊瓌は豐義城を築いて吐蕃防衛にあたることを德宗に約束していたのですが、軍中の人望は既に都虞候虞鄉范希朝に移っていました。遊瓌は希朝を殺そうとしましたが、希朝は逃げ、左神策軍の将となりました。遊瓌は豐義築城を強行しましたが、將士の協力は得られず失敗しました。貞元4年6月遊瓌は病と称して辞職し、後任の交代をまたずに京師に奔りました。貞元年7月朝廷は左金吾將軍張獻甫を邠寧節度使としましたが、...邠寧軍の継承軍乱

  • 山東 來瑱の変

    乾元3年軍乱続きの山東十州節度使となった來瑱は、たちまち將士を手懐け統制を回復しました。ところが定見の無い肅宗皇帝と李輔國はそれに猜疑を抱きました。荊南呂諲や淮西王仲昇は「瑱は將士の衆心を得て自立を図っている」と讒言し、朝廷は京師に近い金商均房四州を山東の管轄から分離しました。しかし山間の遠隔地でもあり瑱はさして気にしませんでした。史朝義將謝欽讓は王仲昇を申州に破り捕らえました。瑱は怨んでいましたので救援しようとはしませんでした。元年建卯月瑱を山東から切り離し安州刺史淮西十六州節度使という一見昇進にみえる転任をさせました。山東は朝廷に内通して瑱を裏切った行軍司馬裴戎に襄鄧等州防御使として与えました。十六州は一見広大ですが史朝義の領域や戦乱で荒廃した地域が多く軍糧の調達にも困難な地域なため瑱は赴任せず山東節...山東來瑱の変

  • 浙西 李錡の乱

    李錡は都統・戸部尚書國貞[軍乱により死]の子であり、貞元15年寵臣李齊運に贈賄し常州刺史より唐朝の重要財源である浙西観察使諸道鹽鐵轉運使となりました。盛んに収奪し德宗皇帝や宦官に媚びて贈賄し寵愛を受けた。貞元17年6月には地元民崔善真にその不正を糾弾されたが、德宗は捕らえて錡に引き渡し殺させた。また私兵を募集し身辺を固めました。幕僚達は連座を懼れて逃げていきました。永貞元年3月姑息な德宗皇帝が卒し、順宗皇帝になると浙西觀察使から鎭海軍節度使に昇格しましたが、利得の源泉となる諸道鹽鐵転運使を解任されました。錡は不満でしたが昇格でもあるのでまだ激発しませんでした・元和2年9月西川の劉闢が平定され、錡は懼れて入朝を請願しました。留められるという期待に反して、すぐ判官王澹を留後とし、尚書右僕射という名誉職に任じる...浙西李錡の乱

  • 宰相 宋申錫の変

    不良少年の敬宗皇帝の頓死後、樞密使王守澄、楊承和、中尉魏從簡、梁守謙等は真面目な江王[文宗]を擁立しました。しかし真面目に統治しようとする文宗は、宦官の達の専横ががまんできなくなってきました。大和4年7月信任する翰林学士の宋申錫を宰相に起用し宦官排除策を相談し始めました。よくいわれる宦官全廃ではなく単なる幹部宦官の排除程度のものだったと思われます。宦官勢力、特に王守澄は申錫派の京兆尹王璠の密告もあり警戒し、謀臣の鄭注の策により先手をうつことにしました。太和5年2月神策軍虞候豆盧著は宰相宋申錫が、文宗の弟漳王湊を擁立しようとしていると告発しました。中尉王守澄は兵を動員して申錫宅を襲い殺害しようとしましたが、麾下の飛龍使馬存亮に止められました。文宗皇帝は狼狽して申錫を見捨てました。諌官達は根拠薄弱な告発を弾劾...宰相宋申錫の変

  • 山東節度の兵乱

    安史の乱に南下する賊軍を防ぐため魯炅が編成した山東節度軍は、規律が悪く無頼の兵団でした。魯炅の自殺後文官を節度使任命しました。①.乾元2年8月襄州將康楚元、張嘉廷が刺史王政を逐いました。楚元は南楚霸王を自称しました。皇帝は將軍曹日升を派遣して司農少卿張光奇を襄州刺史とし、康楚元を慰撫しましたが従いません。乾元2年9月張嘉延は南下して荊州を襲い、節度使杜鴻漸は逃亡し、管轄下の澧、朗、復、郢、硤、歸等州の官吏も城を捨て逃亡しました。史思明が東都付近を陥し河南道を荒らしています。太子少保崔光遠を荊襄等州招討使とし、右羽林大將軍王仲昇を申安沔等州節度使、右羽林大將軍李抱玉を鄭州刺史鄭陳穎亳四州節度使として隣接地を固めました。乾元2年11月商州刺史充荊襄等道租庸使韋倫は降者を厚く撫し、隙を窺い進攻し簡単に楚元を誅し...山東節度の兵乱

  • 幽州 朱克融の乱

    幽州節度使劉總は父を毒殺し、兄を殺して自立したのですが、病身とその祟りに苦しみ、しかも淄青・淮西が滅亡し、成德・魏博・滄景も唐朝に帰服する情勢をみて自らも帰朝することにしました。そして幽州を三分割することを提案し、一族や不満分子を京師に送り、みずからは出家[天平節度への転任の途次で卒します]しました。朱克融は滔の孫で幽州の將でしたが、劉總は不満分子とみて京師に送り神策軍の将軍として仕えさせる段取りにしました。しかし穆宗の宰相達は経綸がなく、不満分子を登用することなく放置し、克融達は失望して幽州に戻ってしまいました。長慶元年3月唐朝は帰服した幽州に宣武・河東を統治した元宰相の張弘靖を節度使に送り、瀛莫二州を分割して權知京兆尹盧士玫を觀察使として送り込みました。弘靖は藩鎭統治に熟達していると思われましたが、河...幽州朱克融の乱

  • 宦官 陳弘志の憲宗皇帝弑逆事件

    淄青・淮西を滅ぼし、成德・魏博・横海・宣武が帰服し、あとは幽州の帰服をまって全国統一に向かっていた元和15年、気の緩んだ憲宗皇帝は道教に凝り、有毒な水銀を含む仙薬服用のため精神障害を起こしていました。そのため政務を執ることが困難となり、百官を憂慮させていました。親任厚い宦官吐突承璀は、無能な皇太子[穆宗]に代えて賢明な澧王を立てることを薦めていました。確かに皇太子は遊び人で無能で、それは即位後にはっきりと示されたのですが、母は郭皇后で、外戚はあの郭子儀の子孫で隠然たる影響力を持っているため簡単に廃することができなかったのです。皇太子は廃されることを懼れ、外戚に対策を相談していました。元和15年正月宦官陳弘志が憲宗皇帝、吐突承璀、澧王を殺害したということになっています。しかし弘志だけで実行できるわけもなく、...宦官陳弘志の憲宗皇帝弑逆事件

  • 武寧軍 王智興の乱

    智興は徐州軍に属し、建中年間の李洧時代から出頭し、元和10年には節度使李愿の筆頭武将として李師道を破っていました。長慶元年には沂州刺史から武寧軍節度副使となり、元宰相で文官の崔羣に代わり武寧の兵権を握っていました。長慶2年3月成德王廷湊・幽州朱克融征討に出た智興と節度使崔羣は相互に疑い、帰還した智興は羣を逐い自立しました。鹽鐵院の錢帛を奪い、諸道の進奉物を掠奪しました。徐州の管轄は江淮からの漕運の中継点ですから唐朝にとっては死活的な問題です。しかし河北三鎭が反旗を翻し、唐朝はそれを鎮定できない状況で、武寧軍を討つ力はありません。唐朝は武寧軍節度副使王智興を檢校工部尚書充武寧軍節度使として自立を認めました。自立を認められた智興は一転して、長慶2年8月の宣武で自立した李介、大和2年横海で自立した李同捷の征討に...武寧軍王智興の乱

  • 涇原 劉文喜の乱

    宰相楊炎は対吐蕃防衛の為、原州に築城し、涇原節度軍[涇州]を原州に移そうとしました。本来涇原軍は安史の乱に際して西域の北庭や安西から派遣された行營軍が流浪して邠州に定住し、さらに僻地の涇州に遷されて成立しています。楊炎の策を諮問された涇原節度使段秀實は「また兵備は整わず、今はその時期ではありません」と反対しましたが、節度使を罷免され、閑職の司農卿に飛ばされました。建中元年2月邠寧節度使李懷光に四鎮北庭行營涇原節度使を兼任させ、軍を原州に移し、実権を持つ留後劉文喜を別駕に飛ばしました。移鎭を聞いて將士は[やっと安住できるかと思ったらまた僻地にやられるのかと]憤激しました。また涇原の將達は、邠寧で懷光が従わない將達を誅殺したことを知り懼れていました。文喜達は涇州に籠もり「帥に段秀實を復するか、朱泚にしてくれ」...涇原劉文喜の乱

  • 劍南 崔旰/寧の乱

    崔旰[賜名されて崔寧]は河北衞州の儒家の生まれだが、兵学を好み劍南に流れてきて將となり、文官の節度使嚴武に重用され漢州刺史、西山都知兵馬使として対吐蕃戦に功績が大でした。ところが永泰元年4月嚴武が卒すると、5月後任に朝廷から歴戦の將右僕射郭英乂が派遣されて来ました。旰は大將王崇俊を推していましたがならず、英乂に崇俊は殺され、旰もまた解任されて召還されました。永泰元年閏10月旰が召還に従わないので、英乂は軍糧を絶ち、大軍で伐ちましたが、山岳戦に長けた旰に敗れ敗走しました。英乂は厳酷であったため士卒は附きません。旰は所部を率いて成都を陥し、英乂は簡州に奔りましたが、途中普州刺史韓澄に殺されました。邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔が蜂起し劍南は大騒動となりました。永泰2年/大暦元年2月朝廷は華州周...劍南崔旰/寧の乱

  • 淄青 李師道の乱 2

    元和13年5月忠武節度使李光顏を義成節度使とし師道征討の先鋒としました。河陽都知兵馬使曹華は棣州刺史とし商河縣へ到り、来寇した淄青兵を破り商河を復し、橫海節度副使を加えられました。元和13年7月師道の官爵を削り、宣武韓弘、魏博田弘正、義成李光顔、武寧李愬、橫海等五鎮に征討を命じました宣歙觀察使王遂が兵站支援の供軍使です。元和13年9月宣武韓弘は自ら曹州を囲みました。元和13年10月左金吾衛大將軍薛平が義成軍節度使となり、李光顔は忠武軍節度使に戻りました。やはり自軍のほうが扱いやすかったようです。元和13年11月河陽節度使鳥重胤を滄州刺史橫海軍節度滄景德棣觀察等使とし進出させました。魏博田弘正は全軍を率いて楊劉より黄河を渡り鄆州[淄青の主邑]を攻めました。淄青軍は動揺しました。元和13年12月李愬の請願によ...淄青李師道の乱2

  • 淄青 李師道の乱 1

    淄青節度は李正己-納-師古と続き、十二州を領有し経済的にも安定していました。師道は師古の異母弟でしたが、兄弟仲は悪く師古は「師道のような愚者に継がせれば国は亡ぶ」と言い、常に排斥し知密州事として僻地においていました。師道は政治性は乏しかったのですが、文化人で絵画や音楽に造詣がありました。元和元年閏6月師古が卒すると、幕僚達は師道を擁立しました。幕僚達は文人ですから師道に好感を抱いていたのでしょう。朝廷は西川劉闢の征討中でしたのでやむを得ず、建王審を鄆州大都督平盧淄青節度使とし、節度副使李師道を權知鄆州事充節度留後として継承を認めました。元和元年9月留後師道は檢校工部尚書平盧淄青節度副大使知節度事となりました。その後、成德王承宗を密かに支援していました。元和7年魏博田弘正の就任に干渉して出兵しようとして、宣...淄青李師道の乱1

  • 淮西 吳元濟の乱 2

    元和11年7月宦官達の支援がある高霞寓は歸州刺史への左遷で収まり、李遜も巻き添えで恩王傳に左遷されました。河南尹鄭權が山南東道節度使となり、非戦派の荊南節度使袁滋が彰義軍節度申光唐蔡隨鄧州觀察使として前線へ、武官の隨州刺史楊旻為唐州刺史行營都知兵馬使として実戦にあたります。おかしな人事だといわざる得ません。宣武韓弘が元濟軍を郾城で破りました。元和11年8月非戦派の宰相韋貫之が罷免されました。元和11年9月李光顏、烏重胤が陵雲柵を陥しました。これは多少の戦果です。元和11年10月督戦のため内常侍梁守謙を監淮西行營諸軍としました。元和11年11月李文通は淮西兵を固始で破りました。元和11年12月袁滋がまったく戦う意志を示さないので罷免し、閒廄宮苑使李愬を鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使としました。愬は晟の子です。元...淮西吳元濟の乱2

  • 淮西 吳元濟の乱 1

    元和9年閏8月淮西節度使吳少陽が卒しました。少陽は罪人を集めたり、隣地の壽州の茶山を掠奪したりと不法は重ねましたが、正面だって反することはない状態でした。子の元濟が自立し、継承に圧力を加えるつもりで許州舞陽を陥し、汝州魯山・襄城・葉四縣に侵攻しました。山東嚴綬、忠武李光顏、壽州李文通、河陽烏重胤に征討を命じました。元濟は幕僚達の反対を押し切って反意を示し、呉少誠の婿董重質を謀主としました。元和9年10月山東節度使嚴綬が兼充申光蔡等州招撫使となり、内常侍崔潭峻が監軍となりました。元和10年正月元濟の官爵を削りました。元和10年2月嚴綬は元濟軍に磁丘で大敗し唐州に退却しました。壽州團練使令狐通は淮西軍に敗れ敗走しました。諸柵は全て淮西に奪われました。左金吾大將軍李文通が壽州に入り、通は昭州司戸へ左遷されました...淮西吳元濟の乱1

  • 淮西 吳少誠の乱

    貞元2年6月李希烈に寵愛されていた少誠は、唐に帰順していた節度使陳仙奇を殺害し自立しました。疲弊していた朝廷は征討する余力が無く、虔王諒を名目的な申光隨蔡節度大使とし、少誠を留後として継承を認めることになりました。貞元3年3月仙奇が、唐朝への忠誠を示すため防秋に派遣していた5千人のうち、4千人が少誠の指嗾を受け無断帰国しました。途中諸鎮に迎撃され蔡州にたどりついたのは50人にすぎませんでした。少誠はその少なさに激怒してすべて殺しました。貞元3年5月申州刺史張伯元、判官鄭常等が、反唐的な少誠を逐おうとして失敗し殺されました。貞元9年12月宣武の軍乱に介入しようとし、李萬榮に一蹴されました。貞元12年1月申光蔡度支營田等使檢校工部尚書兼蔡州刺史御史大夫吳少誠に檢校右僕射が加えられました。貞元13年10月少誠は...淮西吳少誠の乱

  • 淮西 李希烈の乱 3

    興元元年6月朱泚が誅され、京師が回復されました。興元元年7月嗣曹王皋將李伯潛が希烈將劉戒虛を應山に破り捕らえました。そして安州を陥しました。伊慎が安州刺史となり、希烈將康叔夜を厲鄉で破りました。興元元年8月希烈は弟希倩が誅されたことを聞き、顏真卿を殺しました。興元元年閏10月希烈將翟崇暉は大軍で陳州を包囲していますが落とせません。躊躇していた李澄は情勢をみて帰国することに決し、汴州刺史汴滑節度使封武威郡王となりました。興元元年11月宣武劉洽將劉昌と行営節度使曲環は希烈將翟崇暉を陳州に大破し捕らえました。さらに汴州に進んで、李澄と合同して攻め、希烈汴州守將田懷珍が降りました。希烈は蔡州に逃げ戻りました。興元元年12月淮南節度使陳少游が卒しました。李希烈への通謀が知られていたこともあり自殺かもしれません。德宗...淮西李希烈の乱3

  • 淮西 李希烈の乱 2

    建中4年4月永平宣武河陽等軍節度都統檢校司徒平章事李勉が淮西招討使となり、儔と哥舒曜、荊南張伯儀、山東賈耽、江西嗣曹王が副となりました。哥舒曜軍は穎橋で潰乱し襄城に退きました。希烈將李光輝が襄城を攻めました。建中4年8月希烈は大軍で哥舒曜を襄城に攻めました。希烈將曹季昌が隨州をもって降りましたが、將康叔夜が殺して復帰しました。建中4年9月李勉將唐漢臣、劉德信が扈澗で大敗し東都が危険になりました。德宗皇帝の指示の誤りです。舒王謨を荊襄江西沔鄂節度諸軍行營兵馬都元帥とし希烈を討つ総大将となりました。建中4年10月涇原姚令言に東都支援を命じましたが京師で反しました。希烈軍は襄城を陥し、食が尽きた哥舒曜は東都へ奔りました。建中4年11月淮南陳少游、浙江韓滉は自衛し貢納を送らなくなりましたが、江西曹王皋だけが輸送し...淮西李希烈の乱2

  • 淮西 李希烈の乱 1

    淮西左廂都虞候李希烈は淮西節度使同平章事李忠臣の族子でした。忠臣は平盧軍の出身で汴宋李靈耀征討などで大功があり汴州刺史として淮西を支配してきましたが、貪殘好色で將士の妻女に手を出し、軍政は妹婿節度副使張惠光に一任し、惠光は専権横暴でした。そのため將士に不満がつのってきました・。大暦14年3月希烈は將丁暠等と惠光を殺し、忠臣を逐いました。忠臣は単騎で京師に逃れ、旧功を評価され検校司空平章事として宰相格で待遇されました。そして希烈は留後となりましたが、漕運の要地汴州は取り上げられ、蔡州刺史に遷されました。大暦14年閏5月希烈は節度使となりました。淮西軍としては収入の多い汴州を失ったことは痛手でしたが、希烈にとっては継承を認めてもらうことが先決でした。その後、建中2年までは希烈は一応唐朝に協力的でした。建中2年...淮西李希烈の乱1

  • 奉天 朱泚の乱 2 附涇原姚令言

    建中4年11月隴州を奉義軍とし、皋を節度使としました。隴州は鳳翔の西ですから楚琳も背後が心配なのでうかつに動けません。靈武留後杜希全・鹽州刺史戴休顏・夏州刺史時常春・渭北節度使李建徽は奉天に応援しようとしましたが泚に漠谷で大破され、邠州に退却しました。神策河北行營節度使李晟も懷光を追い京師に急行しました。陝虢觀察使姚明敡は軍事を都防御副使張勸に委ねて逃亡しましたが、勸は募兵して數萬を得て陝虢を守り陝虢節度使に任ぜられました。奉天城は資糧が尽きてきました。懷光軍は河中に到着し、河中尹李齊運の努力で關内に入りました。李晟軍も兵力を増やしながら到着し東渭橋に入りました。神策兵馬使尚可孤は武關より入り、泚將仇敬を破り、藍田を陥しました。朱泚將何望之は刺史董晉を逐い、華州を取りましたが、潼関守將駱元光に奪還されまし...奉天朱泚の乱2附涇原姚令言

  • 奉天 朱泚の乱 1 附涇原姚令言

    朱泚と滔は兄弟です。どちらかといえば滔の権力欲が強く、泚は理想家肌でした。幽州節度使朱希彩が殺された後、滔の支援で泚が節度使となりました。泚は唐朝への憧れが強く、最初は弟滔を防秋[対吐蕃防衛]に派遣し、ついでは自身が兵を率いて入朝しました。河北の三鎭の中で最も朝廷に従順であったわけです。泚は幽州に帰らず、滔を実質節度使並の留後として任せ、精強な麾下の兵を關内諸鎮に配属しました。泚は寛厚であったため將士の信望は高いもので、郭子儀の後をついで大尉兼中書令として宰相格となり、京師の西を守る鳳翔隴右節度使を兼任し、大暦14年には西川への吐蕃の入寇を撃破しました。ところが建中3年4月滔が所領の不満から田悅・王武俊と反したため、警戒した朝廷により泚の鳳翔隴右節度使は解任されました。もちろん泚が反したわけではないため、...奉天朱泚の乱1附涇原姚令言

  • 徐州 龐勳の乱 3

    咸通10年6月馬舉は濠州呉迥を攻めました。將軍宋威が徐州西北面招討使となり、曹翔軍と合しました。咸通10年7月康承訓・曹翔は進攻し、賊將陳全裕.李兗.朱玫は降りました。龐勳は龐舉直・許佶に徐州を守らせ、官軍の背後の宋亳州をつくため出撃しました。咸通10年8月宿州守將張玄稔が降りました。咸通10年9月張玄稔は官軍先鋒となり苻離を陥し、徐州城を陥し龐舉直や許佶を誅しました。咸通10年10月龐勳は宋・亳州を攻撃しました。康承訓は沙陀騎兵に追わせ、渙水に大破し、勳もまた戦死しました。賊党は呉迥の濠州を除き皆降りました。咸通10年11月馬舉は濠州を陥し、呉迥も戦死しました。恩賞として康承訓は同平章事河東節度使,杜慆は義成軍節度使、沙陀朱邪赤心[李國昌]は左金吾上將軍となりました。また辛讜は亳州刺史に任用されました。...徐州龐勳の乱3

  • 徐州 龐勳の乱 2

    咸通9年11月朝廷はなおも高品康道偉を派遣して慰撫しました。龐勳は兵威を示し節度使を求めますが、彦曾の罷免をするだけのものでした。龐勳軍は兗州魚台等近隣の十縣を荒らしました。右金吾大將軍康承訓を義成節度使徐州行營都招討使とし、神武大將軍王晏權、羽林將軍戴可師を招討使として諸道兵を動員し征討することになりました。騎兵軍として勇猛な沙陀朱邪赤心及吐谷渾、達靼、契苾なども動員されました。呉迥が泗州を落とせないので、龐勳は將劉佶・王弘立を増援しました。救援に来た淮南軍李湘は観望し、鎭海軍翟行約は敗死しました。咸通9年12月淮南軍李湘も大敗し、湘は捕らえられました。龐勳將丁從實は南下して舒、廬州に入り、北は沂、海州を侵し、海州沭陽、穎州下蔡、和州烏江、盧州巢縣を陥しました。さらに滁州を陥し、刺史高錫望を殺しました。...徐州龐勳の乱2

  • 徐州 龐勳の乱 1

    咸通3年王式が徐州武寧軍の牙軍-銀刀軍を誅滅したあと、その残党は地方に散り、群盗と結びついて治安が悪化しました。牙軍を失った徐州軍では到底制圧はできません。そこで咸通5年草賊達を徴募して新軍を作り、雲南蠻の侵攻に備えて桂管・邕管へ派遣しました。それにより群盗の勢力を弱め、外寇を防ぐ一石二鳥の政策でした。本来は派遣の期間は3年で、故郷へ復帰できるはずでした。ところが現地の事態の悪化もあり派遣は6年に及び、徐州観察使崔彦曾の幕僚達は経費をけちるために、さらに1年の延長を通告しました。彦曾は官僚貴族上がりで下級士卒への思いやりなどカケラもありません。もともと群盗あがりの都虞候許佶・軍校趙可立・姚周・張行實達は家族を思い激怒しました。まずい事に桂管觀察使李叢は湖南に移り、新使はまだ赴任していませんでした。咸通9年...徐州龐勳の乱1

  • 宦官 魚朝恩の変

    宦官魚朝恩は安史の乱において觀軍容使として監軍の職に就き、実戦に参加し軍功がありました。また李輔國などともに郭子儀等武臣を誣告して陥れることもありました。乱後も陝州に駐屯し神策軍を指揮していました。廣徳元年10月吐蕃の侵攻により代宗皇帝は京師を棄てて華州に逃亡した時、朝恩は陝州神策軍を引き連れ代宗を保護し、京師に戻させました。そして崩壊した親軍の代わりに神策軍をあて、天下觀軍容宣慰處置使としてその兵権を握りました。朝恩は部將皇甫温を陝州刺史、周智光を華州刺史に配置しました。大暦初期唐朝は河中の郭子儀、神策の魚朝恩、宰相元載の三頭が握って対立し、代宗皇帝はそのバランスのうえに立つという不安定な状況でした。一応学問もあった朝恩は増長して国子監[大学]で宰相以下の群臣を前に講義を行いました。その時に宰相を揶揄す...宦官魚朝恩の変

ブログリーダー」を活用して、qutoushiさんをフォローしませんか?

ハンドル名
qutoushiさん
ブログタイトル
唐史話三眛
フォロー
唐史話三眛

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用