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ブログタイトル
唐史話三眛
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現在唐の諸将の略伝を記述しています。<br>約50名ほどアップする予定です。
更新頻度(1年)

162回 / 365日(平均3.1回/週)

ブログ村参加:2019/03/24

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qutoushiさん
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唐史話三眛
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唐史話三眛

qutoushiさんの新着記事

1件〜30件

  • 寶暦元年 西暦824年

    寶暦元年西暦824年-------------------------------正月大赦,改元。鄠令崔發が横暴な宦官を処罰したことを怒った敬宗が、發を捕らえて宦官達に殴打させました。宰相達が諫め釈放を請いましたがなかなか敬宗はききませんでした。正月乙卯,牛僧孺罷。敬宗の馬鹿さ加減に呆れた僧孺は、自ら鄂岳節度使に出ました。九月壬午,昭義軍節度使劉悟卒,其子從諫自稱留後。本来、昭義節度使は河北と違い内地の方鎭であり世襲は許されません。悟が死んだ後從諫の多額の贈賄を受けた宰相李逢吉や宦官王守澄等は世襲を認めてしまいました。宝暦二年西暦825年----------------------正月甲戌,發神策六軍穿池於禁中。三月戌寅,觀競渡于魚藻宮。敬宗は、仲間の宦官とポロや力士[レスリング的なもの、敬宗も参加します]毎日...寶暦元年西暦824年

  • 長慶三年 西暦822年

    長慶三年西暦822年--------------------------------三月壬戌,御史中丞牛僧孺為戸部侍郎、同中書門下平章事。逢吉についで僧孺と牛派の全盛です。四月甲午,陸州獠反。七月丙寅,黃洞蠻陷欽州。嶺南地方で獠が蜂起しました。地方官による収奪に我慢できなくなったためでしょう。四月、工部尚書鄭權,家多姬妾,祿薄不能贍,因注通于守澄以求節鎮。己酉,以權為嶺南節度使。腐敗していくのは宦官のせいだけではありません。官僚達も地方官は収奪としか思わず赴任するのです。權は妾が多いので生活が苦しいと宦官に贈賄し、実入りの多い嶺南節度使を求めたのです。長慶四年西暦823年----------------------長慶四年正月辛未,以皇太子權句當軍國政事。壬申,皇帝崩于清思殿,年三十。丙子,皇太子即皇帝[敬宗]...長慶三年西暦822年

  • 長慶二年 西暦821年

    長慶二年西暦821年----------------------------------長慶二年正月庚子,魏博軍潰於南宮。魏博節度使田布自殺,兵馬使史憲誠自稱留後。河北三鎭のうちで唐朝方に残った魏博節度使は、李愬が疾辭[まもなく卒]したあと田弘正の子布がついだが、軍を掌握できませんでした。それでも無理に征討に出ましたが牙軍は従わず、憲誠を押し立てて退却しました。布は責任を感じて自殺しました。唐朝はどうしようもなく憲誠の自立を認めました。これにより憲宗が努力した自立藩鎭の統制がわずか二年で崩壊します。二月甲子,赦成德王廷湊。ついに廷湊まで自立をゆるすしか有りません。二月辛巳,宰相崔植罷。対処の方策なく無能な植は辞任します。二月戊子,昭義軍節度使劉悟囚其監軍使劉承偕。悟もまた唐朝の指示を舐めきって従わなくなります。...長慶二年西暦821年

  • 長慶元年 西暦821年

    長慶元年西暦821年--------------------------------------正月大赦,改元恒例の即位翌年の改元です。正月壬戌,蕭俛罷。二月壬午,段文昌罷。杜元潁同中書門下平章事。俛や文昌は自分達が凡才であることを自覚し、避退しようとしました。自覚のない杜元潁が代わって就任しました。二月己卯,劉總以盧龍軍八州歸於有司。丁巳,赦幽、涿、檀、順、瀛、莫、營、平八州死罪以下,給復一年。賜盧龍軍士錢。河北三鎭で最後に残った幽州劉總が帰順しました。總は父や兄を殺害して自立したことを悔い、自責の念を逃れるため出家を強く希望していました。總は幽州軍の統治が困難な事を熟知していましたので、不満分子達を京師に送り神策軍にいれること、幽州を三分割して弱体化させることを提案していました。◎劉總を天平節度使(赴任でき...長慶元年西暦821年

  • 元和十五年 西暦820年

    元和十五年西暦820年------------------------------------憲宗皇帝の強力な統治により淮西・淄青・河北三鎭のうち魏博・成德を制圧し、幽州もまた帰服しようとしており、全国の再統一が間近でした。反面財政は疲弊し、憲宗当人は道教に凝り水銀を含む金丹を常用したため精神障害をおこし、突然激怒して側近の宦官を処罰することがありました。また無能な皇太子[穆宗]を廃し、寵臣吐突承璀の推す澧王惲を立てようとする動きを示しました。そのため皇太子の外戚たる郭釗[元老子儀孫]一族が策動しました。正月庚子,憲宗崩,陳弘志殺吐突承璀及澧王。辛丑,遺詔皇太子即皇帝位於柩前。宦官陳弘志一党は憲宗を殺害し、承璀及澧王をも殺害しました。宦官中尉梁守謙・馬進潭・劉承偕・韋元素・王守澄などが加担しています。当然宦官だ...元和十五年西暦820年

  • 7月1日まで休止

    一旦休止。今別にやりたいことがあるので。7月1日より再開します。残っている皇帝はすべて愚帝なのでボロクソに書いてしまいそうですが腑抜け中宗・睿宗遊び人玄宗・穆宗単なるうすら馬鹿敬宗・僖宗そして亡国の昭宗・廃帝が残っています。どれにしましょう次は7月1日まで休止

  • 高祖史・封爵・節度使データを追加しました。

    今までの高祖~則天、肅宗~憲宗、文宗~懿宗史をPDF形式でデータをアップロードしました。高祖史太宗史高宗史則天史肅宗史代宗史德宗史順宗憲宗史文宗史武宗史宣宗史懿宗史リンクをクリックするとPDFが開きます。[唐歴史データ]全節度使データ一覧(エクセルリンク)封爵データ一覧(エクセル)3183名分文官宰相一覧(エクセルリンク)宰相年表[附使相]中書舎人年表給事中年表太子庶子年表字[あざな1846名分]一覧皇族一覧表[皇帝別]高祖史・封爵・節度使データを追加しました。

  • 武德八~九年 西暦625~26年

    武德八年西暦625年-------------------------------------七月丁巳,秦王世民屯于蒲州,以備突厥。八月壬申,並州行軍總管張瑾及突厥戰於太谷,敗績。甲申,任城郡王道宗及突厥戰於靈州,敗之。全国制覇した唐朝にとってあとは突厥が悩みの種です。まだまだ突厥の軍事力には及びません。武德九年西暦626年-------------------------------------正月甲寅,裴寂為司空。二月庚申,齊王元吉為司徒。六月庚申,秦王世民殺皇太子建成、齊王元吉。癸亥,立秦王世民為皇太子,聽政。秦王が皇太子、齊王を殺害して自立します。皇太子は本来帝国を継承するので陰謀をする必要はありません。高祖は威嚇され追認しました。六月庚辰,幽州都督、廬江郡王瑗反,伏誅。反太宗派皇族を挑発して滅ぼします...武德八~九年西暦625~26年

  • 武德六~七年 西暦623~4年

    武德六年西暦623年-------------------------------------正月己卯,黑闥將葛德威執黑闥以降。二月,劉黑闥伏誅。皇太子軍は黑闥を追いつめ殺します。二月丙寅,行軍總管李世勣敗徐圓朗,執之。山東も平定されます。三月,苗海潮、梅知岩、左難當降南方も次々と帰順しも唐朝の全国制覇間近という感じです。六月丁卯,突厥寇朔州,總管高滿政敗之。七月己亥,皇太子屯于北邊,秦王世民屯於並州,以備突厥。対突厥に全力を注ごうとしました。八月壬子,淮南道行台左僕射輔公祏反。乙丑,趙郡王孝恭討之。淮南に大きな勢力を築いていた杜伏威の腹心であった公祏が淮南で反します。伏威は関係していません。唐朝にとっては淮南直轄化を図るには都合の良い展開です。公祏の起兵は遅すぎました。武德七年西暦624年----------...武德六~七年西暦623~4年

  • 武德五年 西暦622年

    武德五年西暦622年-------------------------------------正月、劉黑闥自稱漢東王,改元天造,定都洺州。正月、殷恭邃降。楊世略、劉元進降。南方では諸豪が続々と帰順してきます。二月,己巳,秦王世民克邢州。三月丁未,秦王世民及劉黑闥戰于洺水,敗之,黑闥亡入於突厥。世民は幽州總管李(羅)藝と合流し、黑闥を大破します。一応河北は平定されました。三月、上遣使賂突厥頡利可汗,且許結婚。庚子,復遣使來修好。唐朝は突厥に朝貢し和を求めます。四月壬申,代州總管李大恩及突厥戰,死之。唐朝の河北平定を喜ばない突厥は干渉を始めます。六月辛亥,劉黑闥與突厥寇山東。突厥の支援を得た黑闥は再び河北へ侵入します。唐朝への不満を持つ河北の諸豪は再び応じます。七月丁亥,杜伏威入朝,拜太子太保,仍兼行台尚書令,留長...武德五年西暦622年

  • 武德四年 西暦621年

    武德四年西暦621年-------------------------------------二月趙郡王孝恭に荊州蕭銑を討たせました。南方戦線は孝恭と麾下の李靖の担当です。東都近郊で唐朝軍と王世充が激戦しています。唐朝軍が優勢なようですが、補給線が延びているので決定的な勝利は得られません。三月、東都の食糧が乏しくなり王世充は竇建徳に支援を懇願します。建徳は支援することに決しました。三月,進封宜都郡王泰(秦王子)為衛王。違例の封王です。親王は皇帝の子供に限られます。まして泰は秦王の長男(承乾が長子)でもありません。絶えた衞王家を継がすということなのでしょうが。それならば嗣衞王と記載しなければいけません。四月壬寅,齊王元吉及王世充戰於東都,敗績。秦王は敗戦はすべて他人に引き受けてもらいます。四月戊申,突厥寇并州,執...武德四年西暦621年

  • 武德三年 西暦620年

    武德三年西暦620年-------------------------------------正月戊寅,蒲州王行本降。劉武周が南下する前に、なんとか要地蒲州[河中]を取ることができました。二月、突厥處羅可汗迎楊政道,立為隋王。居于定襄。四月甲寅,秦王世民及宋金剛戰于雀鼠穀,敗之。壬戌,秦王世民及劉武周戰於洺州,敗之,武周亡入於突厥。克並州。世民[太宗]が武周軍を破り、徹底追撃して太原を回復しました。これにより唐朝は北方からの脅威を免れ、東都[王世充]対策ができるようになりました。五月壬午,秦王世民屠夏縣。世民は降った夏縣を必要も無いのに虐殺しました。都合の悪い事実です。六月甲寅,顯州長史田瓚殺行台尚書令楊士林,叛附于王世充。王世充の勢力が拡大し、山東方面へ影響力が広がっていきました。七月壬戌,秦王世民討王世充。...武德三年西暦620年

  • 武德二年 西暦619年

    武德二年西暦619年-------------------------------------閏月,辛丑,竇建德殺宇文化及於聊城。河北で勢力を拡大していた竇建德が、逆臣宇文化及を誅しました。化及に従っていた隋臣達は多く唐朝に亡命しました[建德は寬容でしたが、卑賤の出身であり。王世充の東都隋朝は逆臣達にとっては敷居が高かったのです。その点同じ反逆者で元同僚の李淵の所には行きやすかったようです。宇文士及・封德彙・裴矩等々]建德は蕭皇后を保護し傳國璽及鹵簿儀仗を得ました。その点では隋の正当な後継者といえます。閏月,朱粲降。人肉食で有名な粲が降ってきました。唐朝は「楚王」として遇しました。三月甲戌,王薄。蔣弘度、徐師順降。李義滿降。四月,綦公順降。山東では淮安王神通が孤立しながらも唐朝の勢力を拡大しています。竇建徳・王...武德二年西暦619年

  • 武德元年 西暦618年

    武德元年西暦618年-------------------------------------五月甲子,即皇帝位於太極殿。改元。廃された代王[恭帝]は二年八月に亡くなります、死因は不明です。六月甲戌,李世民為尚書令,裴寂為右僕射,劉文靜為納言,蕭瑀、竇威為内史令。建成は皇太子。寂と文靜は建国の功臣、瑀は後梁の皇族出身、威は外戚です。庚辰,立世子建成為皇太子,封世民為秦王,元吉齊王。六月癸未,薛舉寇涇州,秦王世民為西討元帥,劉文靜為司馬。さっそく鳳翔に自立する薛舉が来寇します。文靜が実質統帥として迎撃します。六月辛丑,竇威薨。陳叔達判納言,竇抗兼納言。叔達は陳の皇族出身、抗は威の代わりの外戚です。七月壬子,劉文靜及薛舉戰於涇州,敗績。舉に敗北し、文靜は左遷されました。西邊の危機です。世民は名目上の将なので処罰され...武德元年西暦618年

  • 高祖前史 その3

    高祖前史その3隋煬帝としての大業十四年/傀儡政権としての義寧二年/5月以降は唐の武徳元年正月丁未朔,隋恭帝[代王]詔唐王劍履上殿,贊拜不名。簒奪に向けて準備を重ねていきます。東都では李密と隋将王世充が激戦を重ねています。主役はそちらのほうで、唐王は辺境の反乱者でしかありません。二月、山東方面への経略に務めます。三月丙辰,隋煬帝が江都で麾下の宇文化及に殺されます。これで地方情勢が一変しました。今まで隋への忠誠に縛られていた者達が遠慮なく自立や服属できるのです。化及は秦王浩を擁立して傀儡政権を作りましたが、江都を捨て東都へ帰ろうとして北上していきます[隋臣のほとんどは關内の蕃族出身なのです]。三月戊辰,隋恭帝進唐王位相國,總百揆,備九錫,唐國置丞相等官,立四廟。簒奪第二段階です。これで全権を握ったことになります。五...高祖前史その3

  • 高祖前史 その2

    高祖前史その2-------------------------------------大業十三年[西暦617]五月、太原に突厥が侵攻したと称して大軍を招集します。副留守王威や郎將高君雅は淵を疑いますが殺されてしまいます。彼らは隋の忠臣です。六月、地方勢力を集め、義兵と称し,大將軍に自立します。歴然とした煬帝への反乱ですが、「起義」ということになります。周囲には多数の反乱軍が自立していたので、一つ増えたという程度です。若干違うのは隋の現役高官による反乱ということです。煬帝には打撃であったでしょう。河南で反乱李密は、元名族ですが、逃走中の身でした。乱の一党は建成、世民、元吉の三子及び[宰相格]裴寂,劉文靜,[枢密]唐儉、溫大雅、溫大有[分掌]武士彠【則天の父です】,劉政會、崔善為、張道源、姜謨,殷開山[武将]長孫...高祖前史その2

  • 高祖前史 その1

    高祖前史その1----------------------------諱淵,字叔德,姓李氏,隴西成紀人。涼武昭王の末と称しますが、実際は漢人ではなく鮮卑人と言われています。北魏の武川鎭の系列に当たります。北周時より「八柱國家」として蕃族の名家となり、隋安州總管柱國大將軍.襲唐國公昺が父です。七歳で父を嗣ぎ襲唐國公となります。隋文帝の獨孤皇后が,從母になり、文帝に親愛されました。名家出身ですので若年より登用されて殿内少監、衛尉少卿に至ります。煬帝時、楊玄感の乱が起こると弘化留守として隴右の兵をもってこれを討ちます。各地で反乱が起きると、大業十一年[西暦615年]山西河東慰撫大使となり賊を討ちました。大業十三年太原留守となります。周囲で反乱が続くため兵を整備しますが、江都の煬帝の猜疑を受け罷免されそうになります[反...高祖前史その1

  • 肅宗史と各種データを追加しました。

    今までの太宗~則天、肅宗~憲宗、文宗~懿宗史をPDF形式でデータをアップロードしました。権限ミスも解消しました。リンクをたどれば誰でも閲覧できるはずです。太宗史高宗史則天史肅宗史代宗史德宗史順宗憲宗史文宗史武宗史宣宗史懿宗史リンクをクリックするとPDFが開きます。[唐歴史データ]宰相一覧宰相年表[附使相]中書舎人年表給事中年表太子庶子年表字[あざな1846名分]一覧皇族一覧表[皇帝別]肅宗史と各種データを追加しました。

  • 元年 西暦762年

    元年西暦762年------------------------------建丙月、李光弼拔許州,擒史朝義所署穎川太守李春;丙午,戰于城下,又破之。光弼も順調に史朝義軍を破り河南を回復していきました。建丙月戊申,平盧節度使侯希逸于青州北渡河而會田神功、能元皓于兗州。遼東半島にあった營州平盧軍は唐朝に付き、孤立しながら安史の党と戦ってきましたが、耐えかねて軍民を引き連れて渤海湾を渡り山東半島に入りました。そして以前に派遣していた神功軍と合流しました。淄青平盧軍節度使の始まりです。建卯月癸丑,河東軍亂,殺其節度使鄧景山,都知兵馬使辛雲京自稱節度使。文官景山は淮南節度での失態を罰せられることもなく河東節度になりましたが、統制好きのため武官の反感を買い殺されました。建卯月乙丑,河中軍亂,殺都統李國貞及其節度使荔非元禮。...元年西暦762年

  • 上元二年  西暦761年

    上元二年西暦761年------------------------------正月乙卯,劉展伏誅。淮南掠奪の希望に燃えた田神功軍は急速に南下し、分散してしまった展軍を撃破します。ついでに徹底した掠奪も敢行します。現地では文官達[誰も責任をとりません]が逃げた後、牙將李蔵用だけが劣勢の中奮闘していました[後に文官に陥れられて死にます]。二月己未,奴剌、黨項羌寇寶雞,焚大散關,寇鳳州,刺史蕭栧*死之,鳳翔尹李鼎敗之。京師付近は蕃族の狩り場となっています。二月戊寅,李光弼及史思明戰於北邙,敗績。思明陷河陽。唐朝は反対する光弼に東都回復を命じますが敗北し、史思明は河北を統一しました。三月甲午,史朝義寇陝州,神策軍節度使衛伯玉敗之。戊戌,史朝義殺其父思明。朝義即皇帝位,改元顯聖。勢いに乗った思明は子朝義に命じて陝州を攻...上元二年西暦761年

  • 乾元三年/上元元年  西暦760年

    乾元三年/上元元年西暦760年------------------------------正月、黨項等羌吞噬邊鄙,將逼京畿,乃分邠寧等州節度為鄜坊丹延節度。唐朝の辺境防備が崩壊したのを知った蕃族達は侵入し始めました。唐朝はそれに対して邠寧/鄜坊などに節度使を置き、名目上郭子儀を統帥としましたが、実際の兵力は無いも同然でした。四月戊申,山南東道將張維瑾反,殺其節度使史翽。己未,來瑱為山南東道節度使,以討張維瑾。また山東で軍乱が起こりました。しかし有能な來瑱が赴任すると將士はたちまち帰順し、その指揮に従いました。六月乙丑,鳳翔節度使崔光遠及羌、渾、黨項戰於涇、隴,敗之。乙酉,又敗之於普潤。辺境が崩壊し始めています。もう京師周辺まで蕃族が入ってきているのです。六月、李光弼及史思明戰於懷州,敗之。実際は敗戦です。七月丁...乾元三年/上元元年西暦760年

  • 乾元二年 西暦759年

    乾元二年西暦759年------------------------------------------------------三月壬申,九節度之師潰于滏水。史思明殺安慶緒。唐朝軍は大軍でしたが統制がとれておらず、精鋭の史思明軍に大敗し潰乱しました。史思明は禄山殺害を責め慶緒以下高尚、孫孝哲、崔乾祐を殺しました。史思明軍は懷州まで南下し再び河北全域を制圧しました。三月乙未,苗晉卿、王璵罷。李峴,李揆,第五琦:同中書門下平章事。失敗の責任を取らされ晉卿、璵が罷免されました。新相では峴が主で、琦は財政担当です。四月、史思明自稱大燕皇帝,改元順天。思明は燕京[幽州]で安禄山と同様に「大燕帝国」皇帝に即位しました。五月辛巳,貶李峴為蜀州刺史。宦官李輔國と権限を争い、肅宗は輔國を支持しました。七月辛巳,趙王係為天下兵馬元...乾元二年西暦759年

  • 至德三年/乾元元年 西暦758年

    至德三年/乾元元年西暦758年------------------------------------------------------正月戊寅,上皇天帝御宣政殿,授皇帝傳國、冊號曰光天文武大聖孝感皇帝。乙酉,出宮女三千人。正式に玄宗から肅宗に皇帝位が渡されたわけです。この時点で宮女が三千人もいたはずはありません、白髪三千丈のホラでしょう。三月戊寅,立淑妃張氏為皇后。肅宗を影で操っていた張氏が皇后となりました。この時点では宦官李輔國は皇后の味方でした。四月史思明殺范陽節度副使烏承恩以反。唐朝には宦官や李光弼等、史思明の歸順を信用しない党派があり、動揺している思明を挑発して反乱させました。安慶緒がまだ存在している時点としては極めて軽率な行動でした。五月戊子,張鎬罷。乙未,崔圓、李麟罷。王璵為中書侍郎、同中書門下...至德三年/乾元元年西暦758年

  • 至德二年 その2 西暦757年

    至德二年その2西暦757年------------------------------------------------------九月壬寅,廣平郡王俶及慶緒戰于澧水,敗之。癸卯,復京師。郭子儀軍に回紇軍が大挙来援し、京師に迫りました。安守忠・李歸仁等は力戦しましたが敗北し東都へ奔りました。唐朝はやっと京師を回復することができました。しかし回紇に京師の子女を提供するとの約をしていましたが、東都回復後に延期をしてもらいました。十月戊申,廣平郡王俶及安慶緒戰於新店,敗之,克陝郡。壬子,復東京,慶緒奔于河北。勢いに乗って唐朝軍は陝州を突破し、東都を回復しました。回紇軍の騎兵の威力には唐朝軍には勝る慶緒軍は太刀打ちできませんでした。回紇は約束により東都を掠奪しようとしましたが、唐朝は違約し羅錦萬匹でごまかしました。十...至德二年その2西暦757年

  • 至德二年 その1 西暦757年

    至德二年西暦757年------------------------------------------------------正月乙卯,安慶緒殺其父祿山。慶緒自立。安禄山は反乱以来心労で体調が悪くなっていました。東都に在住し閉居していましたが、戦況が好転しないので周囲にあたり散らすことが増えてきました。禄山は嫡子慶緒より愛妾の生んだ慶恩を愛して、慶緒を廃そうともしていました。怖れた慶緒は宰相嚴荘に通じ、虐待されていた宦官李豬兒に命じて禄山を殺させました。正月、殺皇子建寧王倓。肅宗は優柔不断で宦官李輔國と張妃の言いなりでした。両者を批判した倓は殺されました。二月戊子,上至鳳翔。戦況がよくなって来たので靈州から南下して鳳翔に入りました。貢納を受け取りやすくなりました。安守忠は鳳翔へ迫り激戦が続きます。二月、郭子儀...至德二年その1西暦757年

  • 天寶十五年/至德元年 西暦756年

    天寶十五年/至德元年西暦756年------------------------------------------------------八月,朔方軍の将帥郭子儀,李光弼を使相としました。この時幽州軍は安禄山支配下、河東軍は混乱分散、河西・隴右軍は潼関で潰滅しており、唐朝が動員できる軍は弱体な劍南[玄宗下]を除けば、朔方軍だけでした。子儀は光弼を河東に送り込みその再建を図ります。八月癸巳,靈武使者至蜀,丁酉,制:「自今改制敕為誥,表疏稱太上皇。四海軍國事,皆先取皇帝進止」玄宗は肅宗の即位を認め全権を付与します。十月、房琯為招討西京、防御蒲潼兩關兵馬元帥,王思禮副之。文官宰相房琯はろくに体制が整っていないのに、京師奪還を提案し元帥となります。副将王思禮が軍事を統轄しますが、彼は政治的将軍であり軍才はありません。...天寶十五年/至德元年西暦756年

  • 肅宗前史

    肅宗前史---------------------玄宗第三子。母曰元獻皇后楊氏。初名嗣升,先天元年陝王。開元四年,為安西大都護。開元十五年,更名濬,徙封忠王,朔方節度大使單于大都護。開元十八年,河北道行軍元帥。開元二十年司徒。開元二十三年,更名璵。すべての軍職は名前だけであり宮城を出たことはありません。開元二十五年四月,皇太子瑛廢死玄宗皇帝は寵愛する武惠妃[則天一族の攸止娘、四男一女を生む]に惑わされ、糟糠の妻王皇后を廃して、皇太子とその兄弟を謀叛の罪で殺しました。則天初期のコピーのような事態でした。玄宗も最初のうちは有能であったが、当時は耄碌した老人に落ちぶれていました。王皇后は高宗の王皇后とは違い有能で評判がよかったため、武惠妃は後宮から憎まれ、諸臣は則天の再来を懼れました。十二月丙午,武惠妃薨。皇太子を殺...肅宗前史

  • 則天史をアップロードしました

    今までの太宗~則天、代宗~憲宗、文宗~懿宗史をPDF形式でデータをアップロードしました。太宗史高宗史則天史代宗史德宗史順宗憲宗史文宗史武宗史宣宗史懿宗史リンクをクリックするとPDFが開きます。宰相一覧クリックすると表が開き、各宰相名をクリックするとPDFが開きます。宰相年表[附使相]クリックすると表が開き、右クリック「リンクを開く」で各皇帝の年別宰相一覧とその官職[使相も]を表示するPDFが開きます。則天史には則天前史を追記しました。則天史をアップロードしました

  • 長安二年~五年 西暦702~05年

    長安二年西暦702年------------------------------正月,突厥寇鹽州。三月寇並州。七月寇代州。九月寇忻州。突厥は盛んに侵攻してきます。周朝軍はただ防ぐだけです。則天も老衰し、寵臣張昌宗兄弟に溺れ、官僚統制が緩んできました。長安三年西暦703年------------------------------四月吐蕃遣使獻馬千匹、金二千兩以求昏。六月辛酉,突厥默啜遣其臣莫賀干來,請以女妻皇太子之子。吐蕃・突厥からの圧力が緩んできました。もちろんそれぞれの国の事情です。九月丁酉,貶宰相魏元忠為高要尉。寵臣張昌宗・易之を元忠を始めとした官僚群が弾劾しました。気力が衰えた則天もなんとか元忠を却けましたが、次々と弾劾は続きました。長安四年西暦704年-------------------------...長安二年~五年西暦702~05年

  • 聖曆元年~長安元年 西暦698~701年

    聖曆元年西暦698年------------------------------三月己巳,召廬陵王于房州。戊子,廬陵王至自房州。外寇に対する敗戦が続き、女系である則天と、功績を上げられない武氏一族の無能に批判が高まり、男系である廬陵王[中宗]の皇太子復帰論が生じてきました。寵臣張易之等はそれを提唱して功績を上げようとして則天に勧めました。六月甲午,命淮陽王武延秀下突厥,納默啜女為妃。突厥默啜可汗は和約の条件として通婚を求めてきましたので、武承嗣の子延秀を送り、默啜の娘と娶すことにしましたが、默啜は唐朝の皇族である李氏の子でないとして拒絶しました。突厥も女系は受け入れなかったわけです。そして突厥は河北へ侵攻してきました。八月、魏宣王武承嗣,恨不得為太子,意怏怏,戊戌,病薨。八月突厥寇蔚州。陥定州。九月突厥陥趙州,...聖曆元年~長安元年西暦698~701年

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