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2019/03/24

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  • 幽州 楊志誠の乱

    幽州節度使李載義は親唐朝姿勢を貫いていましたが、それに不満な河北勢力も根強く存在していました。載義は本来外来の家系で幽州軍内の大和5年正月球場後院での宴会で副兵馬使楊志誠と一党が反乱し、載義と子正元は易州に奔りました。志誠は載義姻戚莫州刺史張慶初を殺しました。あまりにもろい状況ですが、反唐朝グループが強かったとも言えます。藩鎭不干渉の政策をとる宰相牛僧孺はなんの動きもみせず、志誠の自立を認めました。しかし入朝した親唐朝姿勢の載義を太保同平章事として遇し、まもなく山西節度使を与えました。継承を認められた志誠ですが、反唐朝姿勢を示しました。幽州楊志誠の乱

  • 幽州 李載義の乱

    幽州朱克融は自立して節度使になったが、その統治は暴虐で不安定で、その政治姿勢も成德王廷湊に追随するだけでした。寶暦2年5月幽州で軍乱が起こり、克融と子延齡が殺され、第二子延嗣が擁立されました。寶暦2年9月延嗣は暴虐であったため、都知兵馬使李再義と弟再寧が乱し、延嗣と家屬三百余人を殺し自立しました。再義は劉總に登用され親唐朝分子であったようです。寶暦2年10月再義はたちまち節度使に任ぜられ、「載義」と賜名されました。載義達と唐朝は連絡があったようです。その後奴隷化されていた張弘靖幕僚の家属を返還したり、横海李同捷征討に協力するなど親唐朝姿勢を貫いていました。幽州李載義の乱

  • 山西・興元の軍乱

    李絳は憲宗時代の謀臣・宰相で功績がありました。以降は凡帝が続き、高官を歴任しましたがさしたる業績はありません。大和3年正月太常卿より山西節度使に転じました。劍南西川節度使杜元穎の失政により南詔蠻が入寇し成都を陥す事態になり、朝廷は神策軍を派遣し、山西軍も動員されました。大和4年2月山西軍は少ないため新兵千人を動員しましたが、西川の寇は早期に収まったため、手当を与えて解雇することになりました。ところが絳と不仲の監軍楊叔元は手当をろくに与えません。新軍兵は怒って乱し倉庫を荒らして使府に突入し、絳や幕僚趙存約・薛齊等を殺し、絳の家族も殺しました。叔元は絳の失態であると上奏しましたが、諌官達は弾劾しました。尚書右丞温造が山南西道節度使となり鎮定に向かいました。大和4年3月造は褒城に至り、西川からの歸途にあった山西...山西・興元の軍乱

  • 宣宗皇帝崩御後の変

    宣宗皇帝は宦官の擁立により即位したにもかかわらず、その治政への熱心さと、ボス宦官不在のため、宦官の政治関与を抑制していました。しかし皇太子については、三男夔王滋を立てたい思いと、長男鄆王温を排除する理由がないことから躊躇したたま重病となりました。大中13年8月宣宗派の宦官樞密使王歸長や馬公儒等は、右軍中尉王茂玄と図って、夔王滋を擁立しようとしましたが、同意しないであろう左軍中尉王宗實を排除するため、宣宗がすでに逝去しているにもかかわらず、淮南監軍への移動命令を出しました。宗實は命に従い赴任しようとしましたが、副使亓元實に止められ入内し、宣宗が既に崩御していることを知りました。そして王歸長・馬公儒の行為を責め、長子である鄆王を擁立しました。そして歸長、公儒等をみな殺しました。夔王は殺されていません。もはや皇...宣宗皇帝崩御後の変

  • 敬宗皇帝の殺害

    18歳の敬宗皇帝は低能の不良少年で、ポロ競技やレスリングに熱中し、朝禮政務にはなんの関心もありませんでした。宰相李逢吉達はその馬鹿さ加減に手を焼きながらも、自分達で政治を行えるため放置していました。禁軍や諸道方鎭は競技選手や力士を献上してご機嫌うかがいをし、敬宗はお気に入りの力士達に莫大な賞賜を与えたり、一転して鞭打ち・流罪にしたりとやりたい放題でした。特に宦官達はそのムラ気を懼れていました。寶暦2年12月敬宗は遊びから帰り、宦官劉克明、田務成、許文端やポロ選手・力士と宴会をしていました。そして便所で劉克明等に殺害されました。克明等は翰林學士路隋に遺制を書かせ、憲宗六子の絳王悟を擁立しました。事態を知った宦官主流の樞密使王守澄・楊承和、中尉魏從簡・梁守謙は神策軍を動員して絳王悟、克明等を殺害しました。そし...敬宗皇帝の殺害

  • 文宗皇帝崩御後の変

    大和9年の甘露の変以降、文宗皇帝は傀儡となって、宦官勢力が全権をにぎったという記述がありますが、それほどではなく、昭義劉従諫の恫喝や一部官僚勢力の抵抗を背景として、官僚派と宦官派がせめぎあっていた状況でした。開成3年宦官達に堕落させられた自子の皇太子永が卒したあと、文宗は幼少の敬宗六男の陳王成美を皇太子としました。開成5年正月文宗皇帝が崩御すると、宰相李玨や文宗派の宦官知樞密劉弘逸は皇太子を即位させようとしますが、文宗を憎んでいた神策軍中尉仇士良、魚弘志等は挙兵し懿宗の子穎王瀍[武宗]を皇太弟として擁立し、皇太子や安王溶、賢妃楊氏を殺害して即位させました。安王は文宗の寵姫楊氏の子で立太子を図り宰相等に阻止されていたのです。穆宗以降、宦官が皇帝を擁立する傾向がありましたが、文宗以降ははっきりと宦官による擁立...文宗皇帝崩御後の変

  • 宰相 元載の変

    理財に長けた元載は宦官李輔國に取り入り宰相となり、その後禁軍を支配する宦官魚朝恩と、河中朔方軍を支配する郭子儀と三頭政治で唐朝を支えてきました。大暦5年魚朝恩を排除し中央の権限を独占するとますます専横となり、莫大な賄賂をかきあつめていました。代宗皇帝は次ぎに実権回収を図りましたが、もうひとりの宰相王縉も載党で官僚人事を握り、禁中は宦官董秀に掌握させている載にどうにもできませんでした。大暦12年3月代宗皇帝は信頼できる舅の左金吾大將軍吳湊を京兆尹に任じ、警察権を掌握して載・縉・秀を逮捕させ、載と秀を誅殺し、縉を左遷しました。莫大な収賄物が摘発されました。大曆12年4月清廉な楊綰・常衮を宰相とし、代宗皇帝は即位して15年で初めて実権を握ることができました。大曆12年5月代宗の怨みは強く、元載の祖先の墓・家廟を...宰相元載の変

  • 魏博 何進滔の乱

    魏博節度使史憲誠は半朝廷派で、いやいやながら自立した横海李同捷の征討に加わっていました。息子の唐[孝章]は名の通り朝廷べったりで、風見鶏的な父を諫言し朝廷に従わせていたからです。大和2年3月史憲誠は子の副大使唐と都知兵馬使亓志紹に兵二萬五千を率いさせ德州[李同捷]を討たせました。唐の強請によるものです。大和2年7/8月魏博軍は平原を攻め、武寧王智興は棣州を陥します。さすがに同捷と成徳王廷湊は危機感を感じ、亓志紹を裏切らせるよう働きかけました。太和2年12月行營都知兵馬使亓志紹は所部二萬人と謀叛し、魏州を襲い史憲誠父子を殺して自立しようとしました。太和3年正月憲誠は救援を求め、朝廷軍の義成李聽等は志紹軍を破り、志紹は成徳へ逃亡しました。鎮定はできたとはいえ、魏博牙軍はすぐ乱を起こし、憲誠の地位は不安定なのま...魏博何進滔の乱

  • 魏博 史憲誠の乱

    魏博節度使であった田弘正は、王承宗の没後対立関係であった成德節度使に転じました。当然危険な状況であったので魏博兵二千を身辺警護として引率して赴任したのですが、朝廷はその経費を惜しんだため帰還し、王廷湊らの乱により弘正は殺害されてしまいました。当時の魏博節度使は淮西吳元濟を滅ぼした名将李愬でしたが、既に重病で成德征討にはあたれません。長慶元年8月そこで朝廷は弘正の子涇原節度史田布を魏博節度使として伐たせようとしました。忠誠心の厚い布は急遽赴任して全軍三万を動員して南宮に出鎭し王廷湊を討とうとしました。しかし魏博牙軍は札付きの軍であり、いままで多くの褒賞により甘やかされており、田弘正や李愬にとっても扱いにくい連中でした。しかも朝廷は経費を出し惜しみ褒賞どころか、軍費ですら当面自弁させようという姿勢でした。長慶...魏博史憲誠の乱

  • 山東 梁崇義の乱①②

    簡単に動揺する皇帝によって山東節度使來瑱は、転任・復任・昇進とそれぞれ異例の意味の解らない待遇を受け、結局、賄賂を断られた宦官程元振の誣告により、寶應2年正月殺されてしまいました。軍人達は朝廷に不信感をいだきましたが、もっとも衝撃をうけたのは山東軍です。來瑱は山東の將士の人望が厚かったのです。寶應2年閏正月山東將梁崇義は羽林軍より來瑱に従い山東にうつり右兵馬使となっていました。崇義は武勇に優れ衆心を得て鄧州に鎮していましたが報を聞くと襄州に入りました。瑱の死で山東軍は統制が乱れ、行軍司馬龐充は追い払われ、左兵馬使李昭、副使薛南陽と崇義が争い、結果として衆心が集まった崇義が立ち、昭・南陽は殺されました。崇義の自立を聞いても、朝廷は伐つこともできず追認するしかありませんでした。寶應二年三月崇義は襄州刺史山南東...山東梁崇義の乱①②

  • 成德 王武俊の乱

    武俊は契丹人で李寶臣に仕えていました。勇猛果敢でしたが、軍内での地位はさして高くないため、かえって寶臣に愛され、娘を子の士眞に与えていました。寶臣が卒すると、諸将は動揺し、張孝忠や康日知は唐朝に付き、河東・昭義・幽州軍が侵攻してきました。惟岳は武俊も疑っていましたが、やむをえず趙州[康日知]を伐たせました。建中3年閏正月出陣した武俊は反旗を翻し、士眞と呼応して惟岳を誅しました。建中3年2月朝廷は恩賞として武俊を恆州刺史恆冀都團練觀察使としました。恒州と冀州は趙州で分離され、張孝忠が易定節度使となったのはともかく、軽んじていた深趙都團練觀察使康日知と同格というのは極めて不満でした。武俊としては孝忠領以外を領して成德節度使になるのが望みでした。建中3年4月そこで同じく恩賞に不満な幽州朱滔、敗北して危機に瀕した...成德王武俊の乱

  • 夏綏 楊惠琳の乱

    夏綏節度使韓全義は淮西吳少誠征討で大敗し、ほうほうの体で逃げ帰りましたが、もうろくした德宗皇帝は宦官達に丸め込まれて功績があったとしていました。しかし皇帝以外は全義の失態を記憶していました。德宗が崩御し、順宗・憲宗皇帝が即位すると全義は観念し、処罰されない間に帰朝しようと考えました。永貞元年8月憲宗皇帝の即位に合わせて全義は入朝しました。留後は甥の楊惠琳に任せました。永貞元年11月左驍衛將軍李演が夏州刺史夏綏銀等州節度使となり、全義は太子少保として致仕を許されました。全義としては責を問われることがなく引退できたわけです。ところが楊惠琳は、德宗皇帝時代の姑息な継承例により、乱をおこせばなんとかなると思っていたようです。憲宗皇帝は夏綏のような自立の出来ない弱小方鎭にそのようなことを認めるつもりはありませんでし...夏綏楊惠琳の乱

  • 西川 劉闢の乱

    韋皐は奉天の乱後劍南西川節度使となり、永貞元年に卒するまで20年間西川を統治しました。軍備を強化し南詔と同盟して、吐蕃を何度も大破してその脅威を除きました。領内に重税を課し、麾下の官僚や軍人の待遇を良くし、幕僚達と朝廷との交流を行わず半独立国の状態に置きました。姑息な德宗皇帝はその功績を評価して放置していました。永貞元年6月韋皐は重病となり、麾下の劍南支度副使劉闢は京師に至り、当時の権力者王叔文に贈賄して後任となろうとしましたが峻拒されました。永貞元年八月韋皐は卒しました。行軍司馬劉闢は自立しました。憲宗皇帝が即位したばかりであり朝廷は、宰相中書侍郎平章事袁滋為劍南東西兩川山南西道安撫大使を送り慰撫しました。永貞元年10月宰相劍南安撫使袁滋を劍南西川節度觀察等使とし、西川行軍司馬劉闢を給事中としました。給...西川劉闢の乱

  • 幽州節度使 朱滔の乱 2

    興元元年正月德宗皇帝は大赦令を発し、朱泚・朱滔以外を赦しました。王武俊・田悅・淄青李納は帰順し、淮西李希烈のみが反乱を続けました。武俊・納は既得権が維持されればそれ以上の要求はなく、悅は相継ぐ敗戦により牙軍は潰滅して休戦を切望し、財政も破綻していました。南下した滔軍をまだ態度を示さない武俊・悅は供軍しています。しかし悅は軍が出兵を望まないとして会同しようとはしません。滔は悦の背信を怒り、馬寔に魏州宗城、貝州經城,楊榮國に魏州冠氏を陥させました。また回紇に魏州館陶を掠奪させました。悦は魏州に籠城します。滔は邢州平恩、魏州永濟に分兵します。滔は貝州に刑曹俊を攻囲します。また回紇を放し諸縣を大掠させ、貝州武城を陥し徳棣二州から軍糧を調達しました。興元元年2月王武俊に平章事兼幽州節度使が加えられ、滔を伐てという命...幽州節度使朱滔の乱2

  • 幽州節度使 朱滔の乱 1

    滔は泚の弟で、泚が入朝した跡、幽州節度留後となり実質的な節度使となりました。建中2年正月成德李寶臣が卒し、子の惟岳が自立すると、滔は率先して征討に参加しました。そして易州刺史張孝忠を帰服させ、3年正月には孝忠と惟岳軍を束鹿に大破し深州を囲みました。王武俊が反して惟岳を誅すると、孤立した魏博田悅を除き、河北では唐朝の優勢が定まりました。建中3年閏正月深州刺史楊榮國は滔に降り、滔はそのまま刺史に任じました。ところが2月唐朝からの恩賞は武俊に恒冀、康日知に深趙、孝忠に易定滄、滔には徳棣を与えるというものでした。恒と冀は深趙に分断され、易定と滄は離れ、幽州と徳棣も滄に分断されています。滔は隣接の深州を欲し、しかも現実に抑えていたのです。この決定に滔と武俊は憤激しました。4月朝廷は滔に検校司徒、通義郡王を与えました...幽州節度使朱滔の乱1

  • 邠寧軍の継承軍乱

    邠寧軍は郭子儀の朔方軍の系列を引き、朔方軍・河中軍が形骸化した後も、吐蕃防衛の前線として關内道で最大の武力を維持していました。韓游瓌奉天の乱に邠寧を継承した韓游瓌は、貞元3.10子の欽緒が李廣弘の乱に参加したことから軍内で権威を失い、德宗皇帝に媚びて留任はしましたが、立場が不安定になったことを自覚していました。①貞元4年正月遊瓌は豐義城を築いて吐蕃防衛にあたることを德宗に約束していたのですが、軍中の人望は既に都虞候虞鄉范希朝に移っていました。遊瓌は希朝を殺そうとしましたが、希朝は逃げ、左神策軍の将となりました。遊瓌は豐義築城を強行しましたが、將士の協力は得られず失敗しました。貞元4年6月遊瓌は病と称して辞職し、後任の交代をまたずに京師に奔りました。貞元年7月朝廷は左金吾將軍張獻甫を邠寧節度使としましたが、...邠寧軍の継承軍乱

  • 山東 來瑱の変

    乾元3年軍乱続きの山東十州節度使となった來瑱は、たちまち將士を手懐け統制を回復しました。ところが定見の無い肅宗皇帝と李輔國はそれに猜疑を抱きました。荊南呂諲や淮西王仲昇は「瑱は將士の衆心を得て自立を図っている」と讒言し、朝廷は京師に近い金商均房四州を山東の管轄から分離しました。しかし山間の遠隔地でもあり瑱はさして気にしませんでした。史朝義將謝欽讓は王仲昇を申州に破り捕らえました。瑱は怨んでいましたので救援しようとはしませんでした。元年建卯月瑱を山東から切り離し安州刺史淮西十六州節度使という一見昇進にみえる転任をさせました。山東は朝廷に内通して瑱を裏切った行軍司馬裴戎に襄鄧等州防御使として与えました。十六州は一見広大ですが史朝義の領域や戦乱で荒廃した地域が多く軍糧の調達にも困難な地域なため瑱は赴任せず山東節...山東來瑱の変

  • 浙西 李錡の乱

    李錡は都統・戸部尚書國貞[軍乱により死]の子であり、貞元15年寵臣李齊運に贈賄し常州刺史より唐朝の重要財源である浙西観察使諸道鹽鐵轉運使となりました。盛んに収奪し德宗皇帝や宦官に媚びて贈賄し寵愛を受けた。貞元17年6月には地元民崔善真にその不正を糾弾されたが、德宗は捕らえて錡に引き渡し殺させた。また私兵を募集し身辺を固めました。幕僚達は連座を懼れて逃げていきました。永貞元年3月姑息な德宗皇帝が卒し、順宗皇帝になると浙西觀察使から鎭海軍節度使に昇格しましたが、利得の源泉となる諸道鹽鐵転運使を解任されました。錡は不満でしたが昇格でもあるのでまだ激発しませんでした・元和2年9月西川の劉闢が平定され、錡は懼れて入朝を請願しました。留められるという期待に反して、すぐ判官王澹を留後とし、尚書右僕射という名誉職に任じる...浙西李錡の乱

  • 宰相 宋申錫の変

    不良少年の敬宗皇帝の頓死後、樞密使王守澄、楊承和、中尉魏從簡、梁守謙等は真面目な江王[文宗]を擁立しました。しかし真面目に統治しようとする文宗は、宦官の達の専横ががまんできなくなってきました。大和4年7月信任する翰林学士の宋申錫を宰相に起用し宦官排除策を相談し始めました。よくいわれる宦官全廃ではなく単なる幹部宦官の排除程度のものだったと思われます。宦官勢力、特に王守澄は申錫派の京兆尹王璠の密告もあり警戒し、謀臣の鄭注の策により先手をうつことにしました。太和5年2月神策軍虞候豆盧著は宰相宋申錫が、文宗の弟漳王湊を擁立しようとしていると告発しました。中尉王守澄は兵を動員して申錫宅を襲い殺害しようとしましたが、麾下の飛龍使馬存亮に止められました。文宗皇帝は狼狽して申錫を見捨てました。諌官達は根拠薄弱な告発を弾劾...宰相宋申錫の変

  • 山東節度の兵乱

    安史の乱に南下する賊軍を防ぐため魯炅が編成した山東節度軍は、規律が悪く無頼の兵団でした。魯炅の自殺後文官を節度使任命しました。①.乾元2年8月襄州將康楚元、張嘉廷が刺史王政を逐いました。楚元は南楚霸王を自称しました。皇帝は將軍曹日升を派遣して司農少卿張光奇を襄州刺史とし、康楚元を慰撫しましたが従いません。乾元2年9月張嘉延は南下して荊州を襲い、節度使杜鴻漸は逃亡し、管轄下の澧、朗、復、郢、硤、歸等州の官吏も城を捨て逃亡しました。史思明が東都付近を陥し河南道を荒らしています。太子少保崔光遠を荊襄等州招討使とし、右羽林大將軍王仲昇を申安沔等州節度使、右羽林大將軍李抱玉を鄭州刺史鄭陳穎亳四州節度使として隣接地を固めました。乾元2年11月商州刺史充荊襄等道租庸使韋倫は降者を厚く撫し、隙を窺い進攻し簡単に楚元を誅し...山東節度の兵乱

  • 幽州 朱克融の乱

    幽州節度使劉總は父を毒殺し、兄を殺して自立したのですが、病身とその祟りに苦しみ、しかも淄青・淮西が滅亡し、成德・魏博・滄景も唐朝に帰服する情勢をみて自らも帰朝することにしました。そして幽州を三分割することを提案し、一族や不満分子を京師に送り、みずからは出家[天平節度への転任の途次で卒します]しました。朱克融は滔の孫で幽州の將でしたが、劉總は不満分子とみて京師に送り神策軍の将軍として仕えさせる段取りにしました。しかし穆宗の宰相達は経綸がなく、不満分子を登用することなく放置し、克融達は失望して幽州に戻ってしまいました。長慶元年3月唐朝は帰服した幽州に宣武・河東を統治した元宰相の張弘靖を節度使に送り、瀛莫二州を分割して權知京兆尹盧士玫を觀察使として送り込みました。弘靖は藩鎭統治に熟達していると思われましたが、河...幽州朱克融の乱

  • 宦官 陳弘志の憲宗皇帝弑逆事件

    淄青・淮西を滅ぼし、成德・魏博・横海・宣武が帰服し、あとは幽州の帰服をまって全国統一に向かっていた元和15年、気の緩んだ憲宗皇帝は道教に凝り、有毒な水銀を含む仙薬服用のため精神障害を起こしていました。そのため政務を執ることが困難となり、百官を憂慮させていました。親任厚い宦官吐突承璀は、無能な皇太子[穆宗]に代えて賢明な澧王を立てることを薦めていました。確かに皇太子は遊び人で無能で、それは即位後にはっきりと示されたのですが、母は郭皇后で、外戚はあの郭子儀の子孫で隠然たる影響力を持っているため簡単に廃することができなかったのです。皇太子は廃されることを懼れ、外戚に対策を相談していました。元和15年正月宦官陳弘志が憲宗皇帝、吐突承璀、澧王を殺害したということになっています。しかし弘志だけで実行できるわけもなく、...宦官陳弘志の憲宗皇帝弑逆事件

  • 武寧軍 王智興の乱

    智興は徐州軍に属し、建中年間の李洧時代から出頭し、元和10年には節度使李愿の筆頭武将として李師道を破っていました。長慶元年には沂州刺史から武寧軍節度副使となり、元宰相で文官の崔羣に代わり武寧の兵権を握っていました。長慶2年3月成德王廷湊・幽州朱克融征討に出た智興と節度使崔羣は相互に疑い、帰還した智興は羣を逐い自立しました。鹽鐵院の錢帛を奪い、諸道の進奉物を掠奪しました。徐州の管轄は江淮からの漕運の中継点ですから唐朝にとっては死活的な問題です。しかし河北三鎭が反旗を翻し、唐朝はそれを鎮定できない状況で、武寧軍を討つ力はありません。唐朝は武寧軍節度副使王智興を檢校工部尚書充武寧軍節度使として自立を認めました。自立を認められた智興は一転して、長慶2年8月の宣武で自立した李介、大和2年横海で自立した李同捷の征討に...武寧軍王智興の乱

  • 涇原 劉文喜の乱

    宰相楊炎は対吐蕃防衛の為、原州に築城し、涇原節度軍[涇州]を原州に移そうとしました。本来涇原軍は安史の乱に際して西域の北庭や安西から派遣された行營軍が流浪して邠州に定住し、さらに僻地の涇州に遷されて成立しています。楊炎の策を諮問された涇原節度使段秀實は「また兵備は整わず、今はその時期ではありません」と反対しましたが、節度使を罷免され、閑職の司農卿に飛ばされました。建中元年2月邠寧節度使李懷光に四鎮北庭行營涇原節度使を兼任させ、軍を原州に移し、実権を持つ留後劉文喜を別駕に飛ばしました。移鎭を聞いて將士は[やっと安住できるかと思ったらまた僻地にやられるのかと]憤激しました。また涇原の將達は、邠寧で懷光が従わない將達を誅殺したことを知り懼れていました。文喜達は涇州に籠もり「帥に段秀實を復するか、朱泚にしてくれ」...涇原劉文喜の乱

  • 劍南 崔旰/寧の乱

    崔旰[賜名されて崔寧]は河北衞州の儒家の生まれだが、兵学を好み劍南に流れてきて將となり、文官の節度使嚴武に重用され漢州刺史、西山都知兵馬使として対吐蕃戦に功績が大でした。ところが永泰元年4月嚴武が卒すると、5月後任に朝廷から歴戦の將右僕射郭英乂が派遣されて来ました。旰は大將王崇俊を推していましたがならず、英乂に崇俊は殺され、旰もまた解任されて召還されました。永泰元年閏10月旰が召還に従わないので、英乂は軍糧を絶ち、大軍で伐ちましたが、山岳戦に長けた旰に敗れ敗走しました。英乂は厳酷であったため士卒は附きません。旰は所部を率いて成都を陥し、英乂は簡州に奔りましたが、途中普州刺史韓澄に殺されました。邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔が蜂起し劍南は大騒動となりました。永泰2年/大暦元年2月朝廷は華州周...劍南崔旰/寧の乱

  • 淄青 李師道の乱 2

    元和13年5月忠武節度使李光顏を義成節度使とし師道征討の先鋒としました。河陽都知兵馬使曹華は棣州刺史とし商河縣へ到り、来寇した淄青兵を破り商河を復し、橫海節度副使を加えられました。元和13年7月師道の官爵を削り、宣武韓弘、魏博田弘正、義成李光顔、武寧李愬、橫海等五鎮に征討を命じました宣歙觀察使王遂が兵站支援の供軍使です。元和13年9月宣武韓弘は自ら曹州を囲みました。元和13年10月左金吾衛大將軍薛平が義成軍節度使となり、李光顔は忠武軍節度使に戻りました。やはり自軍のほうが扱いやすかったようです。元和13年11月河陽節度使鳥重胤を滄州刺史橫海軍節度滄景德棣觀察等使とし進出させました。魏博田弘正は全軍を率いて楊劉より黄河を渡り鄆州[淄青の主邑]を攻めました。淄青軍は動揺しました。元和13年12月李愬の請願によ...淄青李師道の乱2

  • 淄青 李師道の乱 1

    淄青節度は李正己-納-師古と続き、十二州を領有し経済的にも安定していました。師道は師古の異母弟でしたが、兄弟仲は悪く師古は「師道のような愚者に継がせれば国は亡ぶ」と言い、常に排斥し知密州事として僻地においていました。師道は政治性は乏しかったのですが、文化人で絵画や音楽に造詣がありました。元和元年閏6月師古が卒すると、幕僚達は師道を擁立しました。幕僚達は文人ですから師道に好感を抱いていたのでしょう。朝廷は西川劉闢の征討中でしたのでやむを得ず、建王審を鄆州大都督平盧淄青節度使とし、節度副使李師道を權知鄆州事充節度留後として継承を認めました。元和元年9月留後師道は檢校工部尚書平盧淄青節度副大使知節度事となりました。その後、成德王承宗を密かに支援していました。元和7年魏博田弘正の就任に干渉して出兵しようとして、宣...淄青李師道の乱1

  • 淮西 吳元濟の乱 2

    元和11年7月宦官達の支援がある高霞寓は歸州刺史への左遷で収まり、李遜も巻き添えで恩王傳に左遷されました。河南尹鄭權が山南東道節度使となり、非戦派の荊南節度使袁滋が彰義軍節度申光唐蔡隨鄧州觀察使として前線へ、武官の隨州刺史楊旻為唐州刺史行營都知兵馬使として実戦にあたります。おかしな人事だといわざる得ません。宣武韓弘が元濟軍を郾城で破りました。元和11年8月非戦派の宰相韋貫之が罷免されました。元和11年9月李光顏、烏重胤が陵雲柵を陥しました。これは多少の戦果です。元和11年10月督戦のため内常侍梁守謙を監淮西行營諸軍としました。元和11年11月李文通は淮西兵を固始で破りました。元和11年12月袁滋がまったく戦う意志を示さないので罷免し、閒廄宮苑使李愬を鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使としました。愬は晟の子です。元...淮西吳元濟の乱2

  • 淮西 吳元濟の乱 1

    元和9年閏8月淮西節度使吳少陽が卒しました。少陽は罪人を集めたり、隣地の壽州の茶山を掠奪したりと不法は重ねましたが、正面だって反することはない状態でした。子の元濟が自立し、継承に圧力を加えるつもりで許州舞陽を陥し、汝州魯山・襄城・葉四縣に侵攻しました。山東嚴綬、忠武李光顏、壽州李文通、河陽烏重胤に征討を命じました。元濟は幕僚達の反対を押し切って反意を示し、呉少誠の婿董重質を謀主としました。元和9年10月山東節度使嚴綬が兼充申光蔡等州招撫使となり、内常侍崔潭峻が監軍となりました。元和10年正月元濟の官爵を削りました。元和10年2月嚴綬は元濟軍に磁丘で大敗し唐州に退却しました。壽州團練使令狐通は淮西軍に敗れ敗走しました。諸柵は全て淮西に奪われました。左金吾大將軍李文通が壽州に入り、通は昭州司戸へ左遷されました...淮西吳元濟の乱1

  • 淮西 吳少誠の乱

    貞元2年6月李希烈に寵愛されていた少誠は、唐に帰順していた節度使陳仙奇を殺害し自立しました。疲弊していた朝廷は征討する余力が無く、虔王諒を名目的な申光隨蔡節度大使とし、少誠を留後として継承を認めることになりました。貞元3年3月仙奇が、唐朝への忠誠を示すため防秋に派遣していた5千人のうち、4千人が少誠の指嗾を受け無断帰国しました。途中諸鎮に迎撃され蔡州にたどりついたのは50人にすぎませんでした。少誠はその少なさに激怒してすべて殺しました。貞元3年5月申州刺史張伯元、判官鄭常等が、反唐的な少誠を逐おうとして失敗し殺されました。貞元9年12月宣武の軍乱に介入しようとし、李萬榮に一蹴されました。貞元12年1月申光蔡度支營田等使檢校工部尚書兼蔡州刺史御史大夫吳少誠に檢校右僕射が加えられました。貞元13年10月少誠は...淮西吳少誠の乱

  • 淮西 李希烈の乱 3

    興元元年6月朱泚が誅され、京師が回復されました。興元元年7月嗣曹王皋將李伯潛が希烈將劉戒虛を應山に破り捕らえました。そして安州を陥しました。伊慎が安州刺史となり、希烈將康叔夜を厲鄉で破りました。興元元年8月希烈は弟希倩が誅されたことを聞き、顏真卿を殺しました。興元元年閏10月希烈將翟崇暉は大軍で陳州を包囲していますが落とせません。躊躇していた李澄は情勢をみて帰国することに決し、汴州刺史汴滑節度使封武威郡王となりました。興元元年11月宣武劉洽將劉昌と行営節度使曲環は希烈將翟崇暉を陳州に大破し捕らえました。さらに汴州に進んで、李澄と合同して攻め、希烈汴州守將田懷珍が降りました。希烈は蔡州に逃げ戻りました。興元元年12月淮南節度使陳少游が卒しました。李希烈への通謀が知られていたこともあり自殺かもしれません。德宗...淮西李希烈の乱3

  • 淮西 李希烈の乱 2

    建中4年4月永平宣武河陽等軍節度都統檢校司徒平章事李勉が淮西招討使となり、儔と哥舒曜、荊南張伯儀、山東賈耽、江西嗣曹王が副となりました。哥舒曜軍は穎橋で潰乱し襄城に退きました。希烈將李光輝が襄城を攻めました。建中4年8月希烈は大軍で哥舒曜を襄城に攻めました。希烈將曹季昌が隨州をもって降りましたが、將康叔夜が殺して復帰しました。建中4年9月李勉將唐漢臣、劉德信が扈澗で大敗し東都が危険になりました。德宗皇帝の指示の誤りです。舒王謨を荊襄江西沔鄂節度諸軍行營兵馬都元帥とし希烈を討つ総大将となりました。建中4年10月涇原姚令言に東都支援を命じましたが京師で反しました。希烈軍は襄城を陥し、食が尽きた哥舒曜は東都へ奔りました。建中4年11月淮南陳少游、浙江韓滉は自衛し貢納を送らなくなりましたが、江西曹王皋だけが輸送し...淮西李希烈の乱2

  • 淮西 李希烈の乱 1

    淮西左廂都虞候李希烈は淮西節度使同平章事李忠臣の族子でした。忠臣は平盧軍の出身で汴宋李靈耀征討などで大功があり汴州刺史として淮西を支配してきましたが、貪殘好色で將士の妻女に手を出し、軍政は妹婿節度副使張惠光に一任し、惠光は専権横暴でした。そのため將士に不満がつのってきました・。大暦14年3月希烈は將丁暠等と惠光を殺し、忠臣を逐いました。忠臣は単騎で京師に逃れ、旧功を評価され検校司空平章事として宰相格で待遇されました。そして希烈は留後となりましたが、漕運の要地汴州は取り上げられ、蔡州刺史に遷されました。大暦14年閏5月希烈は節度使となりました。淮西軍としては収入の多い汴州を失ったことは痛手でしたが、希烈にとっては継承を認めてもらうことが先決でした。その後、建中2年までは希烈は一応唐朝に協力的でした。建中2年...淮西李希烈の乱1

  • 奉天 朱泚の乱 2 附涇原姚令言

    建中4年11月隴州を奉義軍とし、皋を節度使としました。隴州は鳳翔の西ですから楚琳も背後が心配なのでうかつに動けません。靈武留後杜希全・鹽州刺史戴休顏・夏州刺史時常春・渭北節度使李建徽は奉天に応援しようとしましたが泚に漠谷で大破され、邠州に退却しました。神策河北行營節度使李晟も懷光を追い京師に急行しました。陝虢觀察使姚明敡は軍事を都防御副使張勸に委ねて逃亡しましたが、勸は募兵して數萬を得て陝虢を守り陝虢節度使に任ぜられました。奉天城は資糧が尽きてきました。懷光軍は河中に到着し、河中尹李齊運の努力で關内に入りました。李晟軍も兵力を増やしながら到着し東渭橋に入りました。神策兵馬使尚可孤は武關より入り、泚將仇敬を破り、藍田を陥しました。朱泚將何望之は刺史董晉を逐い、華州を取りましたが、潼関守將駱元光に奪還されまし...奉天朱泚の乱2附涇原姚令言

  • 奉天 朱泚の乱 1 附涇原姚令言

    朱泚と滔は兄弟です。どちらかといえば滔の権力欲が強く、泚は理想家肌でした。幽州節度使朱希彩が殺された後、滔の支援で泚が節度使となりました。泚は唐朝への憧れが強く、最初は弟滔を防秋[対吐蕃防衛]に派遣し、ついでは自身が兵を率いて入朝しました。河北の三鎭の中で最も朝廷に従順であったわけです。泚は幽州に帰らず、滔を実質節度使並の留後として任せ、精強な麾下の兵を關内諸鎮に配属しました。泚は寛厚であったため將士の信望は高いもので、郭子儀の後をついで大尉兼中書令として宰相格となり、京師の西を守る鳳翔隴右節度使を兼任し、大暦14年には西川への吐蕃の入寇を撃破しました。ところが建中3年4月滔が所領の不満から田悅・王武俊と反したため、警戒した朝廷により泚の鳳翔隴右節度使は解任されました。もちろん泚が反したわけではないため、...奉天朱泚の乱1附涇原姚令言

  • 徐州 龐勳の乱 3

    咸通10年6月馬舉は濠州呉迥を攻めました。將軍宋威が徐州西北面招討使となり、曹翔軍と合しました。咸通10年7月康承訓・曹翔は進攻し、賊將陳全裕.李兗.朱玫は降りました。龐勳は龐舉直・許佶に徐州を守らせ、官軍の背後の宋亳州をつくため出撃しました。咸通10年8月宿州守將張玄稔が降りました。咸通10年9月張玄稔は官軍先鋒となり苻離を陥し、徐州城を陥し龐舉直や許佶を誅しました。咸通10年10月龐勳は宋・亳州を攻撃しました。康承訓は沙陀騎兵に追わせ、渙水に大破し、勳もまた戦死しました。賊党は呉迥の濠州を除き皆降りました。咸通10年11月馬舉は濠州を陥し、呉迥も戦死しました。恩賞として康承訓は同平章事河東節度使,杜慆は義成軍節度使、沙陀朱邪赤心[李國昌]は左金吾上將軍となりました。また辛讜は亳州刺史に任用されました。...徐州龐勳の乱3

  • 徐州 龐勳の乱 2

    咸通9年11月朝廷はなおも高品康道偉を派遣して慰撫しました。龐勳は兵威を示し節度使を求めますが、彦曾の罷免をするだけのものでした。龐勳軍は兗州魚台等近隣の十縣を荒らしました。右金吾大將軍康承訓を義成節度使徐州行營都招討使とし、神武大將軍王晏權、羽林將軍戴可師を招討使として諸道兵を動員し征討することになりました。騎兵軍として勇猛な沙陀朱邪赤心及吐谷渾、達靼、契苾なども動員されました。呉迥が泗州を落とせないので、龐勳は將劉佶・王弘立を増援しました。救援に来た淮南軍李湘は観望し、鎭海軍翟行約は敗死しました。咸通9年12月淮南軍李湘も大敗し、湘は捕らえられました。龐勳將丁從實は南下して舒、廬州に入り、北は沂、海州を侵し、海州沭陽、穎州下蔡、和州烏江、盧州巢縣を陥しました。さらに滁州を陥し、刺史高錫望を殺しました。...徐州龐勳の乱2

  • 徐州 龐勳の乱 1

    咸通3年王式が徐州武寧軍の牙軍-銀刀軍を誅滅したあと、その残党は地方に散り、群盗と結びついて治安が悪化しました。牙軍を失った徐州軍では到底制圧はできません。そこで咸通5年草賊達を徴募して新軍を作り、雲南蠻の侵攻に備えて桂管・邕管へ派遣しました。それにより群盗の勢力を弱め、外寇を防ぐ一石二鳥の政策でした。本来は派遣の期間は3年で、故郷へ復帰できるはずでした。ところが現地の事態の悪化もあり派遣は6年に及び、徐州観察使崔彦曾の幕僚達は経費をけちるために、さらに1年の延長を通告しました。彦曾は官僚貴族上がりで下級士卒への思いやりなどカケラもありません。もともと群盗あがりの都虞候許佶・軍校趙可立・姚周・張行實達は家族を思い激怒しました。まずい事に桂管觀察使李叢は湖南に移り、新使はまだ赴任していませんでした。咸通9年...徐州龐勳の乱1

  • 宦官 魚朝恩の変

    宦官魚朝恩は安史の乱において觀軍容使として監軍の職に就き、実戦に参加し軍功がありました。また李輔國などともに郭子儀等武臣を誣告して陥れることもありました。乱後も陝州に駐屯し神策軍を指揮していました。廣徳元年10月吐蕃の侵攻により代宗皇帝は京師を棄てて華州に逃亡した時、朝恩は陝州神策軍を引き連れ代宗を保護し、京師に戻させました。そして崩壊した親軍の代わりに神策軍をあて、天下觀軍容宣慰處置使としてその兵権を握りました。朝恩は部將皇甫温を陝州刺史、周智光を華州刺史に配置しました。大暦初期唐朝は河中の郭子儀、神策の魚朝恩、宰相元載の三頭が握って対立し、代宗皇帝はそのバランスのうえに立つという不安定な状況でした。一応学問もあった朝恩は増長して国子監[大学]で宰相以下の群臣を前に講義を行いました。その時に宰相を揶揄す...宦官魚朝恩の変

  • 朔方河中 李懷光の乱 2

    興元元年5月李晟は京師回復に成功しました。興元元年6月德宗皇帝は懷光を招慰しようとしますが、李晟は反対します。興元元年7月それでも德宗皇帝は懷光を招慰しようとして、宣慰に慣れている孔巢父を送り太子太保とし入朝を促し、代わりにその軍の統率をするものを求めました。懷光の周辺は怒り巢父等を殺害しました。懷光もそれを止めようとしませんでした。興元元年8月朔方渾瑊・河東馬燧に懷光征討を命じました。河中の属州である晉州の懷光妹婿要廷珍,隰州の牙將毛朝易文,慈州の鄭抗は馬燧に降りました。さらに馬燧は絳州を攻めました。興元元年10月馬燧は絳州を陥し、聞喜、萬泉、虞鄉、永樂、猗氏諸縣を取りました。懷光將閻晏が同州を攻めましたが、沙苑に敗れました。興元元年閏10月鄜坊唐朝臣は河中永樂縣を取りました。興元元年12月渾瑊は懷光軍...朔方河中李懷光の乱2

  • 朔方河中 李懷光の乱 1

    懷光は渤海靺鞨人で、本姓茹。勇敢で親族と雖も不法を許さない厳酷な性格でした。父の代より朔方軍に属し、長らく郭子儀の下で戦い、邠寧都虞候となりました。大暦14年郭子儀が引退すると、遺領の大部分河中・邠寧を受け継ぎました。そして以前の同僚諸将が自分に従わないとみるとすべて誅殺し支配権を確立しました。その厳酷さを懼れられて涇原劉文喜の乱の原因となることもありました。建中3年5月懷光は朔方軍主力を率い河北の朱滔・田悅・王武俊の征討に赴きました。ところが建中4年10月涇原軍の反乱による京師陥落、朱泚の自立、德宗皇帝の奉天逃亡と籠城が起きました。奉天城への朱泚軍の攻撃は激しく、周囲の雑軍による援助は粉砕され、落城の危機が迫っていました。懷光は李晟とともに河北から朔方軍を率いて急行し、11月魯店に朱泚軍を破り、德宗皇帝...朔方河中李懷光の乱1

  • 徐州武寧軍の粛清

    王智興離任後、甘やかされた徐泗濠武寧軍節度使の牙軍は驕兵で節度使に実権がなく、牙軍は気に入らないことがあるとすぐ乱を起こし節度使を追放しました。文官では到底統制できず、武官でも任期を無事に済まそうと思う節度使は田牟などのように牙軍に迎合し、ご機嫌取り励むしかありませんでした。軍乱で追放された例としては大和7年1月高瑀大中3年5月李廓咸通3年7月温璋ですが、他の帥も危ない状況でした。特に高瑀・温璋は問題のない人物ですが、遵法さが牙軍のきにいらなかったようです。朝廷は温璋の無罪を知り、すぐに邠寧節度使に任命しました。そして浙東觀察使王式を節度使に任命しました。咸通3年8月式は儒家の出ですが軍才があり、浙東仇甫の乱を鎮圧したばかりで、麾下に忠武、義成の精鋭を残留させていました。式は両軍を帰郷させるとして引率し徐...徐州武寧軍の粛清

  • 横海 李同捷の乱 2

    大和2年9月王智興が棣州を陥しました。恩賞として正任の司徒となりました。逗留して進軍しない新除橫海軍節度使李寰が解任され夏州節度使に遷されました。廷湊の官爵が削られました。前夏州節度使傅良弼が橫海軍節度使となり征討にあたることになりました。彼も旧成德將です。柳公濟が深州博野で廷湊軍を破りました。大和2年10月史憲誠軍は德州平原をやっと陥しました。幽州李載義が南下し同捷軍を滄州長蘆に破りました。大和2年11月右金吾衛大將軍李祐を橫海軍節度使としました、新除傅良弼が赴任途次に陝州で頓死したためです。祐は元淮西將で李愬に従い吳元濟を捕らえました。しかし唐朝直轄にはろくな將がおらず外任ばかりです。柳公濟が同捷の堅固寨を陥し、寨東に破ったと上奏しました。大和2年12月同捷は各軍に押されて不利になりました。支援してい...横海李同捷の乱2

  • 横海 李同捷の乱 1

    同捷の父全略[王日簡]は元成德王承宗の將でしたが、帰朝し神策軍に仕え、王廷湊の乱には現地の状況に詳しいため德州刺史となり、横海軍滄景徳棣節度使に昇進しました。そして盛んに贈賄し、子の同捷に継承させようと策動していました。寶暦2年3/4月橫海節度使李全略は卒しました。子の副大使同捷は自立しょうとし、旧知の成德王廷湊や魏博史憲誠に支援を求めました。朝廷は廷湊に同捷を支援しないようにと検校司空を加えました。大和元年同捷は盛んに朝廷に継承を求め、財政的に征討が嫌な朝議は動揺していました。大和元年5月天平軍節度使守司徒平章事烏重胤を橫海軍節度使兼任とし、前攝橫海軍節度副使李同捷を兗海沂密等州節度使に任じるという姑息な決断がされましたが、同捷は受けません。この時、周囲の幽州・成德・淄青・魏博の節度使の検校官を昇格させ...横海李同捷の乱1

  • 成德 李惟岳の乱

    李寶臣が建てた成德軍節度使は、有力諸将[蕃族出身が多い]の連合体という傾向があり寶臣独裁の体制ではありません。寶臣は子の惟岳の継承を望み、異論のある諸将を殺害し、そのため張孝忠・王武俊・康日知など諸将は不安にかられていました。建中2年正月成德軍節度使司空兼太子太傅平章事隴西郡王李寶臣は卒しました。惟岳は継承を求め、自己の継承に寶臣に助力を得た魏博田悅も支援しましたが、德宗皇帝は認めるつもりはありません。幽州盧龍軍節度使朱滔は惟岳を征討します。魏博田悅は惟岳を支援し挙兵しました。永平李勉を都統として神策李晟、河東馬燧、昭義李抱真、河陽李芃が征討にあたります。建中2年5月田悅は派兵し邢州・臨洺を攻めました。建中2年7月田悅・惟岳軍は臨洺で唐軍に大敗しました。魏州に敗走した悅に惟岳軍と淄青軍が来援しました。建中...成德李惟岳の乱

  • 魏博 田承嗣の乱 2

    大暦10年9月李寶臣・李正己軍が棗強で会同し、貝州を囲みましたが、対立し解散してしまいました。李忠臣も衛州を解囲して黄河南へ撤退しました。寶臣と幽州朱滔は滄州を攻めましたが、承嗣從父弟庭玠に撃退されました。大暦10年10月成德寶臣と昭義李承昭は盧子期を磁州清水縣で大破し、子期は誅されました。河南諸將[李忠臣等]は田悅を陳留?で大破しました承嗣は淄青李正巳を籠絡し南からの侵攻を停止させることに成功しました。また宦官が賄賂が少ないと寶臣を侮辱したため、寶臣軍もはかばかしく動かなくなりました大暦10年11月承嗣瀛州刺史吳希光が朱滔に降りました。承嗣は滄德瀛磁三州を失っています。大暦10年12月承嗣は正己を仲介として和を請うています。大暦11年正/2月承嗣は降ろうとし、諫議大夫杜亞が宣慰使として復官と所領安堵を通...魏博田承嗣の乱2

  • 魏博 田承嗣の乱 1

    安史の乱に賊党として活躍した田承嗣は史朝義を裏切って帰順し、魏博節度使[魏博德滄瀛澶六州]となりました。本来雑軍しか指揮していなかった為、自領の魏博から徹底した徴兵をし十万の大軍を形成しました。唐朝には反抗的な態度を示していましたが、代宗皇帝は常に慰撫し、太尉同平章事という高位を与え、子の華に公主を降嫁させるなどひたすらご機嫌取りをしていました。ところが十万の大軍を養うためには自領だけでは苦しくなってきました。昭義軍節度使[相衛洺貝邢磁六州]薛嵩は承嗣と同じ安史の乱の降將ですが、本来唐初からの名門出身[仁貴の孫]の為、承嗣ほど反抗的ではありませんでした。大暦8年正月薛嵩が卒し、子の平[12才]は継承せず、叔父の崿が留後となりましたが、嵩のような統制力はなく、諸将は動揺し始めました。大暦10年正月昭義牙將裴...魏博田承嗣の乱1

  • 昭義 李緘・元誼の乱

    潞州に鎮する昭義軍は李抱玉・抱眞によって建てられ、抱玉が主に鳳翔隴右に鎮するようになって以降、抱眞が潞州を強化していきました。「昭義の弓兵・歩兵」は天下に名高い強兵となり、李惟岳・田悅・朱滔などとの河北の戦乱に河東馬燧とともに唐朝軍主力を形成していました。その版図は河東道の澤潞二州と河北道の邢洺磁三州に別れ、河北三鎮を制する位置にありました。貞元10年6月昭義軍節度使平章事義陽郡王李抱真が卒しました。その子緘は抱真從甥の元仲經と共謀し自立し継承しようとしました。そして成德王武俊の支援を求めましたが拒否されてしまいました。そして諸将の推薦も得ることが出来ません。姑息な德宗皇帝は宦官第五守進を派遣して情勢をみましたが、步軍都虞候王延貴が衆望を得ているとしてこれを立てました。緘は諦めて東都に行き、仲經が責任ょ押...昭義李緘・元誼の乱

  • 徐泗濠 張愔の乱

    徐泗濠節度は李氏淄青節度の大運河漕運への脅威を防ぐために設置された節度使で、名将張建封が貞元4~16にかけて在鎮し強力な軍を形成していました。貞元16年張建封が病むと、朝廷は行軍司馬に蘇州刺史韋夏卿を赴任させ、5月建封が卒すると徐州判官鄭通誠を知留後とし浙西軍を導入しました。牙軍は建封子の愔を擁立し通誠や大將段伯熊を殺し、監軍を捕らえました。朝廷は吏部員外郎李鄘を送り宣慰しましたが、愔は自立しました。そのため朝廷は淮南節度使杜佑を同平章事兼徐濠泗節度使とし伐たせました,文官の佑は牙將孟准を派兵しましたが、徐泗濠軍に敗れました。泗州刺史張伾も出兵しましたが橋伾に大敗しました。貞元16年6月朝廷は愔を徐州團練使とし徐州だけを与え、伾を泗州留後、濠州刺史杜兼を濠州留後として、佑を兼濠泗觀察使として淮南に併合しま...徐泗濠張愔の乱

  • 成德 王廷湊/庭湊の乱 3

    大和元年5月李全略の卒後、子の同捷は横海軍滄景徳棣節度使を継承しょうとし、唐朝の征討をうけることになりました。征討使は天平軍節度使烏重胤が橫海軍節度使を兼任する形で行います。ところが11月に烏重胤は卒します。保義軍晉慈節度使李寰が橫海軍節度使となります。太和2年5月成德王廷湊は同捷を支援します。昭義劉従諫は廷湊を伐とうとします。太和2年8月唐朝は廷湊を征討します。義武軍節度使柳公濟は廷湊軍を定州新樂に破ります。劉從諫は趙州臨城、昭慶に廷湊軍を破ります。太和2年9月王廷湊の官爵を削り、隣道に征討を命じます。柳公濟は深州博野に廷湊軍を破ります。同捷討伐軍は武寧の王智興は棣州を陥しますが、主力軍の李寰は逗留し罷免されます。こんどは前夏州節度使傅良弼が橫海軍節度使です。両者とも前にでてきた名前です。太和2年11月...成德王廷湊/庭湊の乱3

  • 成德 王廷湊/庭湊の乱 2

    長慶2年正月廷湊征討に向かった魏博軍は幽州・成德と通じて戦意なく、はかばかしい賞賜もない状況で不満をつのらせていました。先鋒将の都知兵馬使將史憲誠は自立の志があり、冀州南宮縣より勝手に主力軍を率いて魏州に戻ってしまいました。節度使田布はどうすることも出来ず自殺しました。憲誠は牙軍に推されて自立しました。滄州にあった軍糧を廷湊に奪われ征討軍は困窮しました。長慶2年2月どうにもならない唐朝は廷湊を赦し、成德軍節度使としました。前成德軍節度使牛元翼を檢校工部尚書山南東道節度觀察臨漢監牧等使に遷しました。深冀行營諸軍節度忠武軍節度使李光顏を橫海軍節度使兼忠武軍節度兼深冀行營としました。樂壽鎮兵馬使傅良弼を沂州刺史とし、瀛州博野鎮遏使李寰を忻州刺史としました。二者とも克融・廷湊に従わず籠城していたのです。赦された廷...成德王廷湊/庭湊の乱2

  • 成德 王廷湊/庭湊の乱 1

    元和15年成德軍節度使王承宗が卒し、実子が京師に人質に取られていたため、弟承元が牙軍に擁立されましたが、当時の唐朝の強勢を見た承元は拒否し、任命された義成軍節度使に移りました。後任は成德のライバル魏博節度使田弘正でした、弘正は当然成德牙軍の危険性を理解していましたので、魏博から親兵二千を引き連れて赴任し、身辺を護衛させていました。ところがこれには特別な経費がかかります。当時唐朝は憲宗時代の軍費や、穆宗皇帝の浪費により財政難でした。姑息な杜元穎や崔植など宰相達はひたすら経費節減を図り、新たに版図となった河北三鎮への配慮をしませんでした。そのため親兵の費用を供給せず、弘正は親兵を魏博に戻すしかありませんでした。しかも士卒への賞与も遅れています。長慶元年7月都知兵馬使王庭湊は回鶻阿布思の族でしたが、幽州節度朱克...成德王廷湊/庭湊の乱1

  • 華州 周智光の乱

    智光は雑兵から武功を以って成り上がり、宦官魚朝恩麾下の裨将として活躍しました。廣德元年10月吐蕃の侵攻時に、朝恩に従い活躍し智光は華州刺史となり、やがて同華節度使に進みました。永泰元年9月智光は澄城に吐蕃を大破しましたが、鄜坊節度杜冕と対立し、鄜州刺史張麟を殺し、坊州を焼き払いました。代宗皇帝はそれを譴責できません。永泰元年10月智光は勝手に歸鎭しました。代宗皇帝は強暴な智光から杜冕を山西の張獻誠の元に避難させることぐらいしかできません。永泰二年/大暦元年正月智光は朝廷の呼び出しにも応じず、亡命や無賴子弟數萬を集め、周辺を掠奪し、漕米を止め、藩鎭の貢献を横取りしたりし始めました。大曆元年12月智光は仲の悪い陝州皇甫温の監軍張志斌や前虢州刺史龐充を殺し反しました。そして科挙に赴く選人達を殺害します。姑息な代...華州周智光の乱

  • 淄青 李納の乱

    淄青平盧軍節度使は安東都護府にあった平盧軍が、安史の乱では安禄山に同調せず唐朝側に残って戦い、孤立したため全軍渡海して山東半島に移動してきたものです。その時青密・淄沂節度使を与えられ淄青平盧軍節度使となりました。高麗人の李正己は全帥侯希逸を逐い、魏博田承嗣や汴宋李靈耀の乱には唐朝側に協力して勢力拡大し、淄青德棣齊鄆曹濮兗海沂密十二州を支配する巨大藩鎭を形成し、河北三鎮や淮西・山東と連携して半独立の体制にありました。建中二年から始まった成德李惟岳の継承の乱には、同じ継承問題を抱える正己は、消極的な姿勢で動きはありませんでした。建中2年7/8月平盧淄青節度觀察使司徒太子太保同中書門下平章事李正己は卒しました。子の納は自立し継承を求めましたが、当然德宗皇帝は認めません。建中2年9月納は宋州を攻撃しました、建中2...淄青李納の乱

  • 江南 劉展の乱

    乾元2年5月試汝州刺史劉展は滑州刺史充汴滑節度副使となり、やがて宋州刺史に移りましたが、河南は戦乱により刺史とかは名目にすぎませんが。上元元年11月宋州刺史劉展は淮西節度副使を帯びました。展は剛強自用ため、節度使王仲昇より憎まれていました。仲昇は監軍使内左常侍邢延恩を通じて肅宗皇帝に展を除くことを上申しました。しかし展は強力な兵を持っています。そこで李峘に代えて江淮都統とし、兵を帯びない赴任途中に捕らえて殺しましょうと提言しました。定見の無い肅宗皇帝はこれを許可し、都統李峘と淮南節度使鄧景山に計画を通知しました。延恩が展に任命を通告すると、展は「俺は陳留參軍より數年で刺史になった。これでも出世しすぎだと思っている。江淮は租賦の出る要地だ。俺のような無頼がそんな出世するとは信じられない、なにか裏があるのに違...江南劉展の乱

  • 南山 高玉の乱

    吐蕃の京師侵攻と代宗皇帝の逃亡により、京師近郊の治安は崩壊し、高玉は諸軍より逃亡・脱落した兵士や、無頼の賊を集めて吐蕃の寇掠より自衛しました。その後唐軍が復帰すると、彼らは京師の南「南山五谷=斜谷・駱谷・蘭田谷・子午谷・和衡嶺谷」に入り盗賊となりました。そして東は虢州から西は鳳翔まで富豪の掠奪を重ねました。寶應2年/廣徳元年正月京師の付近での賊党横行は権威に関わるため、地元に詳しい太子賓客薛景仙を南山五溪谷防禦使として賊を伐たせました。廣德元年十月南山五谷賊高玉が反しました。廣徳2.11五谷防御使薛景仙は南山群盜を伐ちましたが、山岳を活用する賊党に実効が上がりません。そこで鳳翔節度使李抱玉に代えました。抱玉は各谷に侵攻すると同時に、將兵馬使李崇客が洋州より山に入り、高玉を桃虢川に大破しました。玉は梁州城固...南山高玉の乱

  • 湖南 王國良の乱

    大曆5年4月湖南兵馬使臧玠が觀察使崔灌を殺し、平定のため強暴な軍人で辛雲京の一族の京杲が派遣されました。この歳、湖南將王國良が反し、西原蠻とともに湖南州縣ょ荒らしました。國良は現地土豪で、湖南軍の將となり、觀察使京杲は邵州武岡縣に屯させて西原蠻を防がせていました。京杲は貪暴で國良が富裕であるのに目を付け、罪に落として財産を押領しようとしました。それを知った國良は西原蠻と通じて反し、縣城に籠もり、周囲の州縣を寇掠しました。西原蠻とは嶺南地方[廣西省]に盤踞する蠻族、寧氏を豪酋とし、依、黄、韋韦、周姓等が多かった荊南・黔中・江西・桂管諸道軍に征討させたが制圧できなかった。建中元年七月湖南觀察使となった嗣曹王皋は王國良を歸順させようと思いました。長い戦乱で湖南各地は荒廃し、当然國良の領地も荒廃して麾下の領民も苦...湖南王國良の乱

  • 嶺南 哥舒晃の乱

    哥舒晃は字子亮、元帥として潼関で安禄山軍に敗北した翰の子で、突騎施の酋長の家柄です。淮西李希烈と戦った東都行営節度使曜の弟にもあたります。大曆八年九月嶺南節度使廣州刺史呂崇賁[軍人出身]は將で循州刺史哥舒晃に殺されました。理由は不明ですが、晃単独ではなく広く現地勢力と結びついた反乱です。廣州交易に対する唐朝の収奪への現地の反感ではないでしょうか。大曆八年十月廣州は南蛮貿易の利権がある要地ですので、朝廷は早速江西觀察使路嗣恭に廣州刺史充嶺南節度使に兼任させ、翼國公にして征討させました。大曆十年十一月嗣恭にはまともな軍団が提供されなかったようで、嗣恭は南方の暑熱になれた流人孟瑤、敬冕を將とし現地で兵を調達し、容管經略使王翃の援軍と共に廣州に突入し、哥舒晃やその黨萬餘人を殺し京観[斬首した首の山]を築きました。...嶺南哥舒晃の乱

  • 染坊供人張韶の変

    憲宗皇帝が暗殺された後、凡庸で遊び人の穆宗が継ぎ、5年ほどで頓死しました。その後は長子の敬宗ですが、唐の三愚帝[他は中宗.僖宗]の一人です。ポロ競技とレスリングが大好きで、遊び仲間と夜間に宮中を徘徊して狐狩りをするのが趣味でした。もちろん政務などには関心が無く、これも凡庸な宰相まかせでした。そういう話しは民間へも漏れ出て嘲笑の対象になっていました。占い師蘇玄明と染坊の職人張韶は友人でした。ある日玄明は「俺とおまえが殿上で会食するんだ。皇帝は遊び歩いていて不在だから簡単にできる」と韶は「おもしろい、やってみるか」と仲間に相談すると、無頼な仲間はすぐ乗ってきました。長慶4年4月丙申そこで仲間百餘人と、武器を紫草[染料]を山積みした車に隠し、左銀台門[この門を抜けると皇宮領域に入れる]に至りました。門番は武器を...染坊供人張韶の変

  • 浙東 袁晁/袁鼂の乱

    晁は台州の吏員であった。朝廷は安史の乱で欠乏した財政を補うため江淮地域で根こそぎ収奪をおこなった。晁はその暴挙についていけず、処罰されることなったため、唐興縣で起義しました。寶應元年8月台州賊袁晁は舟山島で起義し陷台州、刺史史叙を逐い、越州を陥し、改元して寶勝とし反しました。重税に憤激した民が多く結集しました。朝廷は副元帥李光弼に命じて將張伯儀・袁傪・王棲曜。李長榮等を派兵し鎮圧を図りました。9月袁晁は信州を陥しました。10月袁晁は陷溫處明州を陥しました、浙東浙西各州に侵攻し、衆二十萬と号しました。翁山に水軍基地を置き長江を遡及して各地を荒らしました。12月李光弼將張伯儀は袁晁を衢州に破りました。江西観察使張鎬軍は信州に袁晁軍を破りました。寶應2年/廣徳元年3月李光弼將張伯儀.袁傪.柏良器.王棲曜.李長榮...浙東袁晁/袁鼂の乱

  • 僕固懷恩の乱 2

    廣徳二年2月僕固瑒は榆次を囲んでいましたが抜けず、援兵が遅いと兵を処罰しました。焦暉、白玉帥等は憤激して瑒を殺しました。懷恩はこれを聞き渡河して靈州に奔りました。靈州守將渾釋之はためらいましたが受け入れ、懷恩は釋之を殺して軍を併せ、張韶に守らせました。都虞候張維岳は、焦暉、白玉を殺し郭子儀に通じ、子儀は汾州に行って懷恩兵を収めました。廣徳2年4月朔方行營節度使左僕射同平章事兼太保僕固懷恩の兵権を解き虚位太保だけは残しました。 廣徳2年6月懷恩は靈武で勢力を回復していきます。代宗は慰撫しますが懷恩は従いません。廣徳2年7月懷恩に實封一千五百戸を与えます。廣徳2年8月懷恩は吐蕃・回紇10万を率いて入寇してきました。廣徳2年9月郭子儀、李抱玉が防衛に当たります。邠寧節度使白孝德は吐蕃を宜祿に撃退しました。廣徳2...僕固懷恩の乱2

  • 僕固懷恩の乱 1

    僕固懷恩は鉄勒の僕固部酋長の家系で世襲都督として三代続いてきた。朔方軍に仕え、安史の乱以降郭子儀の下で、また李光弼の下でも活躍し、回紇と唐との橋渡しもしてきました。唐は鮮卑系の異民族国家なので、漢民族に対する警戒感が強く、安史の乱で郭子儀が大きな功績をあげると敬遠し、総司令官たる副元帥を契丹系の李光弼や、鉄勒の僕固懷恩に交代させていたのです。郭子儀敬遠策はよく宦官李輔國や魚朝恩の陰謀と言われていますが、肅宗や代宗皇帝の意志を反映しているのは間違いなく、責任転嫁といえます。寶應元年10月朔方節度使僕固懷恩は同平章事兼絳州刺史領諸軍節度行營として天下兵馬元帥雍王适の副元帥として、回紇可汗と共に史朝義征討に向かいました。寶應2年/廣徳元年正月史朝義は自殺し、安史の乱は終了しました。懷恩は降伏してきた史朝義將の李...僕固懷恩の乱1

  • 宣宗末期の 南部地域の軍乱

    宣宗皇帝は小太宗と呼ばれる唐後半期の名君で、個人としては節減し治政に配慮し、民を労ることに努力しましたが、既に唐の体制は弛緩腐敗していてその善意は下に伝わることはありませんでした。唐南部地域は、淮西吳元濟平定以降長く戦乱がなく、地域の軍は老化弱体化し、官僚達の収奪により待遇は悪化、将校は地域の豪族の利権となり、兵員は盗賊あがり・貧民で充たされ、それも給与の横領により欠員だらけでした。軍乱のタイプは[A]官僚貴族の帥が、現地の將士を軽侮し、資財を横領して待遇を切り下げる。[B]新任の帥が現地属官。土豪の癒着腐敗を摘発是正しようとして反発される。大中9年7月[Aタイプ]浙江東道で軍亂が起き觀察使李訥が逐われました。訥は遜の弟の子ですが、官僚貴族上がりで傲慢であり將士を虐待したため逐われました。大中9年9月李...宣宗末期の南部地域の軍乱

  • 浙東 裘甫/仇甫の乱

    仇甫は貧民の出で、唐末の乱の王仙芝や黄巣と同じく私鹽の販売を生業としていました。唐の地方行政はすでに破綻していて、浙西・浙東・淮南など唐朝財政の主要収奪地域では重税や土地の兼併により貧富の差は大きく、貧民の流動化が進んでいました。宣宗皇帝は治政に励んでいましたが、官僚や宦官達に阻まれてまったく効果を上げていません。大中13年12月浙東の賊帥裘甫は官軍を連破して明州象山縣を陥し、剡縣に迫りました。しかし数百人程度のものです。觀察使鄭祗德は討擊副使劉勍、副將范居植に兵三百を与え、台州軍と共に伐たせました。河北の兵乱よりは賊も官軍も一桁スケールが小さいのです。大中14年正月裘甫は官軍を桐柏觀前で破り、范居植は戦死、劉勍は敗走しました。甫は千餘人で剡縣を陥し、衆を集めて數千人に達しました。浙江地方は久しく平安で兵...浙東裘甫/仇甫の乱

  • 河東節度 唐末の軍乱 ●印が乱

    ・河東節度使は元和年間までは対回紇や河北三鎭の抑止で重視されていました。しかしその後河北三鎭は弱体化し、大中年間に回紇帝国が崩壊して重要性は低下していった。そのため中級文官の赴任先となり、当然官僚腐敗により軍備はいいげんになり、將士の資質・待遇も低下していきました。・通常將士はその家族とともに城内に混住していました。・常備軍の能力低下を補うため、団練[民兵]が多く活用されるようになりました。・代州・雲州など北部は蕃族のほうが多く、特に強敢な沙陀族が勢力を拡大しています。乾符年間にその沙陀族が反したため討伐に苦しみ河東節度は危機を迎えます。乾符5年正月/5月●沙陀が乱を起こしたため、節度使竇瀚は都押衙康傳圭に土團二千人を率いさせ代州に派遣することにしましたが、土團は賞賜を求めて暴動を起こし、抑えようとした馬...河東節度唐末の軍乱●印が乱

  • 安南 楊淸の乱

    元和14年10月容管より報告があり、安南將楊清が亂し、都護李象古[曹王皋の子.道古の兄]とその一族・部曲千餘人を殺害したことが知らされました。象古は貪縱で苛刻なため人望はありません。楊淸は安南の蠻酋で、牙將となっていましたが冷遇され、黄洞蠻を討つことを命ぜられましたが兵を返して都護府を襲撃したのです。唐州刺史桂仲武為安南都護として征討にあたります。楊清を赦し瓊州刺史としましたが従いません。元和15年2月安南都護桂仲武は安南に至りましたが、自立した楊清は入れません。しかし清は残虐であったため、仲間は離れていきます。仲武は他の有力酋豪を説き味方を増やし、兵七千餘人を得ました。朝廷は仲武が逗留しているとして、桂管觀察使裴行立を安南都護として征討させようとします。そして仲武を安州刺史に左遷しました。元和15年3月...安南楊淸の乱

  • 昭義 劉稹の乱 3

    會昌4年正月河東節度使李石は対昭義出兵により太原府兵が少なくなったので、横水戍兵を呼び返しました。しかし、前使劉沔が府庫の財を持ち去ったため、兵への賜物が少なく不満が爆発しました。都將楊弁はそれに乗じて乱を起こし、石を汾州に逐いました。石會關守將楊珍は河東の乱を知り、關をもって稹に降りました。朝廷は狼狽し、楊弁を留後とするとか、征討を中止するとかという論議が巻き起こりましたが、宰相德裕は断固として征討を続ける方針でした。河東出征軍の將王逢に、義武・宣武・兗海の援軍をつけて楊弁を討つことを命じました。また成徳王元逵に王逢軍を支援させるようにしました。榆社駐屯の河東兵主力は、他軍が太原府に入り、自分達の家族を害することを懼れ、監軍呂義忠を擁して太原に入り、乱軍を潰滅させ楊弁を誅しました。會昌4年2月李石を左遷...昭義劉稹の乱3

  • 昭義 劉稹の乱 2

    會昌3年7月寛厚で良吏の山南東道節度使盧鈞に昭義節度招撫使を兼任させ、昭義の民心を得ようとしました。刑部侍郎兼御史中丞李回に河北三鎮を宣慰させ出兵を促しました。典型的な政治的将軍の晉絳行營節度使李彥佐は武寧を立ち、緩慢に進軍しながら増兵と賞賜を求めました。德裕は彥佐が逗留するとみて、回紇征討で活躍した天德防御使石雄を副将にしました。雄は武寧軍出身で、その衆望を節度使王智興に憎まれて逐われた前歴を持ちます。智興の子忠武王宰とは仇敵です。王元逵は宣務柵を抜き、邢州堯山を攻め、昭義軍を破りました。功績により元逵は使相となりました。會昌3年8月昭義大將李丕が來降しました。元逵は魏博何弘敬が観望して動かないと訴えました。德裕は忠武王宰を魏博を通過させて磁州を攻めさせると、弘敬を威嚇しました。弘敬は領域に唐軍の進入す...昭義劉稹の乱2

  • 昭義 劉稹の乱 1

    昭義劉氏の自立は、淄青李師道を裏切った劉悟[正臣の孫]に始まります。裏切った恩賞として義成軍節度となり、昭義軍節度に移りました。いずれも淄青軍時代の親兵数千を引率して牙軍としています。寶暦元年8月劉悟の死後、子の從諫は自立を図り、宰相李逢吉、宦官王守澄に贈賄し継承に成功しました。従諫は自らは忠臣をもって任じ、李同捷征討に参加し、入朝するなど親唐朝姿勢を示していました。大和9年の甘露の変で、宦官達は李訓派のみならず、変に関係しない宰相全員を殺害し、専権を振るい、文宗皇帝や新任宰相李石・鄭覃もなすすべはありませんでした。従諫は親しかった宰相王涯が殺害されたことを怒り、殺害された宰相達の罪状を公開することを要求しました。行き過ぎた行為をしていた宦官勢力は懼れておとなしくなり、李石達も少しは政務を行うことができる...昭義劉稹の乱1

  • 宣武 李介*の乱

    檢校司空汴州刺史宣武軍節度使李愿は、德宗時の副元帥太尉李愿の子です。父や弟愬のように將才はありませんが大功臣の長子であるため優遇され節度使を歴任してきました。宣武軍は劉玄佐から韓弘まで長い半独立の期間があり、韓弘が唐朝に帰属後、才識のある元宰相の張弘靖が將士を優遇しながら慰撫してきていました。長慶2年6/7月李愿は將士の労苦や実情をしらない豪家の出身で、厳格なだけで威厳を保つタイプであり、將士を冷遇し、処罰を厳しくしていました。また妻弟竇瑗に政務を任せきっていました。宣武軍宿直將李臣則は竇瑗や愿妻を斬り、節度使李愿を逐いました。衙門都將李介*が自立しました。李介*の字は[ウ冠+介]で漢字表にありません。そのため翽や□や嶺で表示されます。李愿は隨州刺史に貶されましたが、やがて宦官に贈賄し河中節度使に復帰しま...宣武李介*の乱

  • 瀘州 楊子琳/楊猷

    子琳は雄武の才があり法規に従わず独断専行する人物でした。永泰元年閏10月中央より赴任した右僕射劍南節度使郭英乂と、前使嚴武の寵將崔旰[寧]とに紛争が起き、山岳戦に長じた旰が英乂を破り、英乂は敗走して殺されました。邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔は旰を伐つとして蜂起しました。子琳は元瀘南賊帥で帰順して將となっていたのです。大暦元年8月劍南副元帥杜鴻漸は旰を伐つことが出来ず、ひたすら慰撫して唐朝への帰属を求め、旰もまた鴻漸に媚びて西川節度の地位を求めました。鴻漸は他の諸将を宥めめ、各州の刺史とし、子琳も瀘州刺史となりました。大暦3年4月西川節度使になった崔寧[旰]が京師に入朝した隙に、瀘州刺史楊子琳は數千を率いて成都へ突入し、留守崔寬[寧の弟]を逐い占拠しました。唐朝はあわてて寧を西川に戻しまし...瀘州楊子琳/楊猷

  • 魏博 田悅の乱 2

    窮地に追い込まれた田悅は判官王侑・許士則を間道伝いに深州に送り「成德についで魏博も亡べば、幽州もあぶない」「魏博から貝州を提供する」と朱滔を説きました。朱滔は喜び、同じく不満な王武俊を味方にしました。張孝忠は同意しませんでした。建中3年4月朱滔・王武俊は反して田悅と連合しました。悅は援兵が来るのを頼みとして、將康愔に御河上で馬燧と戦わせましたが大敗しました。建中3年5月朔方節度使李懷光が征討軍に加わりました。建中3年6月朱滔と王武俊兵が田悅を救援し魏州北に至りました。李懷光も到着し、馬燧、李抱真、李芃と合しました。両軍は連篋山の西で戦い、唐軍は敗北し、反軍は河を氾濫させ唐軍の退路を断ちました。建中3年7月唐軍は退却しましたが、朱滔はそれを追いませんでした。両軍は河を隔てて対峙しました。建中3年11月悅は朱...魏博田悅の乱2

  • 魏博 田悅の乱 1

    悅は初代魏博節度使承嗣の甥であり、承嗣に代わって軍を指揮していました。大暦11年には汴宋で自立した李靈耀を支援する為に派遣されたが、淮西李忠臣等に撃破されて逃げ帰っています。大暦14年2月魏博節度使田承嗣が卒し、兄の子悅が自立しました。承嗣は11人も子がいましたが、いずれも幼く、まともに継承できるのは悅だけでした。姑息な代宗皇帝の末期でしたので、唐朝はやむをえず正式に留後とし、節度使に昇進させました。悅もまた承嗣と違い恭順を示していました。建中元年2月あらたに即位した德宗皇帝は粛軍を行い、藩鎭の兵士達も減らすように命じました。特に魏博は承嗣の時より過大な軍備[7万]を擁していたため、それを3万にするように命じました。悅にとっては財政負担が軽くなるので悪い話しではありませんが、リストラされる兵士にとっては、...魏博田悅の乱1

  • 成德 王承宗の乱 4

    元和11年10月幽州節度劉總が使相となりました。本気ではないですが征討に加わっている總への恩賞です。この時点まで淮西・成德両面ともはかばかしい戦果はなく、莫大な戦費がかかり、唐朝も疲弊していっています。当然成德承宗も領域が荒らされ、戦費に苦しんでいます。元和11年12月横海節度程執恭は成德兵を德州長河で破りました。義武節度使渾鎬は全軍で恒州へ侵攻しましたが大敗し逃げ帰りました。軍乱が起こり鎬家は掠奪されました。張茂昭の甥である易州刺史陳楚が急遽入城し鎮定しました。鎬は渾瑊の子です。元和12年3月昭義郗士美兵は趙州柏鄉で敗北しました。王承宗軍は横海程權[執恭]の領域である景州東光に侵攻しました。程權はあわてて滄州に逃げ帰りました。元和12年5月攻囲したはずの六鎮[義武.幽州.横海.魏博.河東.昭義]は形勢不...成德王承宗の乱4

  • 成德 王承宗の乱 3

    元和10年正月消極的な反唐朝傾向であった淮西吳少陽が卒し、その子元濟は自立した上に周辺地域への侵攻をくり返したため憲宗皇帝は淮西征討を始めました。元濟は淄青李師道や成德王承宗に支援を求めてきました。師道・承宗は元濟の淮西継承を求めましたが憲宗は峻拒しました。元和10年5月承宗は牙將尹少卿を送り、強硬派の宰相武元衡に元濟を取りなしましたが拒否されました。元和10年6月承宗・師道の派遣した刺客は、京師で宰相武元衡を殺し、御史中丞裴度に傷を負わせました。真犯人は師道麾下の刺客だったようですが、事前の強迫もあり承宗が疑われました。承宗系の刺客は事に遅れたようです。王士則や士平は承宗の麾下の仕業であると告発し、成德軍進奏院の張晏等八人が捕縛され誅されました。しかし世間は疑っていました。憲宗は激怒してただちに強硬派の...成德王承宗の乱3

  • 成德 王承宗の乱 2

    元和5年正月幽州節度使劉濟は唐朝方につき、諸軍に先立ち自ら兵七萬人を率いて王承宗を撃ち深州饒陽縣、束鹿縣を落としました。河東、河中、振武、義武の四軍は恆州北道招討として定州に合同しました。河東將王榮は洄湟鎮を落としました。しかし主力軍の吐突承璀は威令はなく、承宗軍にしばしば敗れ、その驍將酈定進は戰死し士気は大きく低下しました。元和5年4月昭義軍節度盧從史は王承宗征討を勧めたにもかかわらず、逗留して進まず、密かに承宗と通謀し、度支の軍糧のみをせしめていました。從史牙將王翊元は宰相裴垍に実情を告げ、都知兵馬使烏重胤も密告しました。そこで憲宗は承璀と行營兵馬使李聽に從史を捕らえさせ京師に送らせました。従史の部下は騒ぎましたが、烏重胤が抑えました。從史は歡州司馬として流されました。河東范希朝、義武軍張茂昭は承宗軍...成德王承宗の乱2

  • 成德 王承宗の乱 1

    元和4年3月成德軍節度使王士眞が卒しました。士眞は父武俊より継承し唐朝とは付かず離れずの関係で接していました。武俊は幽州朱滔を撃破するなど大功があり、士眞は武俊と共に戦い徳棣観察使を与えられている状況でしたので、継承はスムーズでしたが、承宗はそのような実績はありません。また姑息な德宗皇帝の後半期と違い、憲宗皇帝は対藩鎭強硬姿勢でした。河北三鎭では嫡子を副大使として継承させるシステムができつつありましたが、唐朝は当然それを認めていません。当時の成德軍節度使は、恒州に治し、恒冀深趙徳棣六州を領していました。元和4年閏3月承宗の叔父士則は承宗の自立の余波を受けることを恐れ、幕客劉栖楚とともに京師に走り神策大將軍に任ぜられました。唐朝では継承について議論が分かれ、憲宗皇帝は積極策でしたが、宰相裴垍や翰林学士達文官...成德王承宗の乱1

  • 淮南西道・奉国軍節度使を公開します

    淮南西道節度使は唐朝にとって悩みの種で、李希烈・吳少誠・吳元濟と長期に渡って反抗します。憲宗皇帝時に李愬により元濟が討滅された後は唐朝南部領域は唐末まで安定します。唐末、黄巣の後を継いだ秦宗權の乱により再び淮西は注目されるようになりました。秦宗權分は「奉国軍」李愬分は「唐鄧隋」シートに記載しています。藩鎭年表[淮南西道節度使]を更新公開淮南西道・奉国軍節度使を公開します

  • 汴州宣武軍節度使を公開します。

    汴州宣武軍節度使は江淮からの漕運を黄河に移転する要地で、唐朝にとっては非常に重要で確保したい場所ですが、うまみのある土地なので有力な藩鎭が発生しやすく、唐末には後梁を建国する朱全忠が位置しました。朱全忠については当然の事ながら膨大なデータがあり別シートに新旧唐書の記事をつけました。宋州シートもつけています。藩鎭年表[汴州宣義軍節度使]を更新公開汴州宣武軍節度使を公開します。

  • 藩鎭年表[潞州昭義軍節度使]

    潞州節度使は相州昭義軍節度使から別れた邢洺昭義軍を統合し、唐末にまた邢州が分離して昭義二鎮体制になっています。唐朝の河北への戦略的要地です。邢州・相州シートを付けています藩鎭年表[潞州昭義軍節度使]を更新公開藩鎭年表[潞州昭義軍節度使]

  • 藩鎭年表[荊南節度使]を追加更新

    荊南節度使の別シートに関連する「夔州」-鎮江軍.[澧州]-武貞軍を追加しました。継続的な史料がない小鎭ばかりですが追加して再アップします。藩鎭年表[荊南節度使]を追加更新公開藩鎭年表[荊南節度使]を追加更新

  • 藩鎭年表[山南西道節度使]を追加更新

    河中節度使の別シートに関連する「鳳州」-感義軍.[洋州]-武定軍[利州]-昭武軍[興州]-興文.[巴州]-巴渠開を追加しました。唐末のまともな史料がない小鎭ばかりですが追加して再アップします。藩鎭年表[山南西道節度使]を追加更新公開藩鎭年表[山南西道節度使]を追加更新

  • 藩鎭年表[河中節度使]を追加更新

    河中節度使の別シートに関連する「晉州」-保義軍を追加しました。他鎮も関連を追加して再アップします。藩鎭年表[河中節度使]を追加更新公開藩鎭年表[河中節度使]を追加更新

  • 藩鎭年表[河東節度使]に追加更新

    河東節度使の別シートに関連する「雲州」-大同軍「代州」-代北軍/雁門以北を追加しました。他鎮も関連を追加して再アップします。藩鎭年表[河東節度使]を追加更新公開藩鎭年表[河東節度使]に追加更新

  • 藩鎭年表[劍南西川節度使]に追加更新

    西川節度使の別シートに関連する「卭州」-定邊軍・永平軍「彭州」-威戎軍を追加しました。他鎮も関連を追加して再アップします。現在編集中は潞州昭義軍です。藩鎭年表[劍南西川節度使]を追加更新公開藩鎭年表[劍南西川節度使]に追加更新

  • 藩鎭年表[荊南節度使]

    藩鎭年表[荊南節度使]を更新公開藩鎭年表[荊南節度使]

  • 藩鎭年表[劍南西川節度使]

    唐末の西川節度使王建[前蜀]の動向に関しては繁雑すぎますので、関連の新唐書・旧唐書の本紀記事をシート2に追加しています。藩鎭年表[劍南西川節度使]を更新公開藩鎭年表[劍南西川節度使]

  • 藩鎭年表[河東節度使]

    唐末の河東節度使李克用[後唐の祖]の動向に関しては繁雑すぎますので、関連の新唐書・旧唐書の本紀記事をシート2に追加しています。藩鎭年表[河東節度使]を更新公開藩鎭年表[河東節度使]

  • 鳳翔シート2に李茂貞の動向を追加

    唐末の鳳翔隴右節度使李茂貞の動向に関しては繁雑すぎますので、関連の新唐書・旧唐書の本紀記事をシート2に追加しています。以降河東[李克用]宣武[朱全忠]西川[王建]淮南[楊行密]浙西[錢鏐]湖南[馬殷]華州[韓建]邠寧[朱玫・王行瑜]なども同様の処理をいたします。藩鎭年表[鳳翔隴右節度使]を更新公開鳳翔シート2に李茂貞の動向を追加

  • 藩鎭年表[河中節度使]

    藩鎭年表[河中節度使]を公開藩鎭年表[河中節度使]

  • 藩鎭年表[鳳翔隴右節度使]

    藩鎭年表[鳳翔隴右節度使]を公開藩鎭年表[鳳翔隴右節度使]

  • 藩鎭年表[山西節度使]

    藩鎭年表[山西節度使]を公開藩鎭年表[山西節度使]

  • 藩鎭年表[山南東道節度使]

    見にくかった藩鎭年表[山南東道節度使]をExcel化してみました。藩鎭年表[山南東道節度使]

  • 長らく停滞しています[言い訳]

    天寶15載[安史の乱後]以降、天祐四年[唐滅亡まで]の全人事異動年表を作成しようとしてしまい。体調不良もあり意外に手間取っています。約3000人の官僚・武将の約7割が出来ましたが、まだ暫定完成には3ヶ月程度はかかります。暫定版[Excel]ができればアップする予定です。長らく停滞しています[言い訳]

  • JUST PDF4の変換効率について

    以前から気になっていたPDF変換、唐史の資料なんかは中国でPDF化されているものが多いのです。日本でも論文が多くPDF化されています。調べていて一部データを抜粋したい事が多くありますね。ということでJUSTPDF4変換を入手してテキスト化してみました。結果①自分が作成したPDFを戻す→ほぼ100%出来ます。ただ表内は一部崩れます②日本語論文などの変換はほぼ出来ますが、画面が汚れていたり、表は無理です。③繁体字の原資料は2/3ぐらいは読み取れます。元が良いと8~9割はいけるでしょう。表は絶望的です。④簡体字の資料はほぼ意味をなしません。部分的に読めるという程度です。変換時間は相当かかります。JUSTPDF4の変換効率について

  • 劍南東川節度使

    フォルダに劍南東川節度使史を追加します。劍南東川節度使

  • 涇原彰義軍節度使

    フォルダに涇原彰義軍節度使史を追加します。涇原彰義軍節度使

  • 鎭州成德軍節度使

    フォルダに鎭州成德軍節度使史を追加します。鎭州成德軍節度使

  • 清口の戦いについて

    Wikipediaは通常部分はよく見ますが、唐史関係はあまり見ません。主に参照するのは「百度百科」「維基百科」はよく参照します。ふとWikipedia「楊行密」を見ると、あきらかな誤りがみられました。多少の誤りや欠損は私は研究者ではありませんので指摘したりはしませんが「乾寧4年(897年)、宣武軍節度使朱全忠が大挙して南下した。楊行密は清口で敗れたが、朱全忠にそれ以上南下する力はなく」はないでしょう。全忠軍は清口で大敗し、主将龐師古も戦死したのです。まったく反対の内容ではね。旧唐書・新唐書・通鑑を比較すると異同がある場合もありますが、「清口の戦い」の結果には異同はありません。「コトバンク」は正しい内容です。清口の戦いについて

  • 陝虢保義軍節度使

    フォルダに陝虢保義軍節度使史を追加します。陝虢保義軍節度使

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