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唐史話三眛
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現在唐の諸将の略伝を記述しています。<br>約50名ほどアップする予定です。
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qutoushiさんの新着記事

1件〜30件

  • 河中節度使史 その3

    永泰・大暦年間は安史系の魏博・成德・幽州・相衛・永平五鎭・平盧軍系の淄青・汴宋・淮西や梁崇義の山東、そして崔寧の西川などが自立していますが、自鎭の統治確立のために努力し、大暦末までは紛争を起こそうとはしません。唐朝軍は極めて弱体で吐蕃の攻勢を回紇と同盟することで必死に防いでいます。その主力は河中・朔方・邠寧に屯する郭子儀の勢力で、彼の威權により唐朝が支えられていると言って過言ではありません。郭子儀は宰相元載や宦官魚朝恩と連携したり対立しながら朝政を動かしていたのです。彼は大人で鷹揚であり、軍紀は緩く横暴な武将も多く、子儀との個人的関係で繋がっていました。回紇との同盟にも関係し、影の皇帝と言えるほどです。永泰元年[765]◎.2月黨項羌寇京兆府富平。京師近郊まで蕃軍が侵攻してきたのです。◎.3月郭子儀は吐蕃に対抗...河中節度使史その3

  • 河中節度使史 その2

    ◎.8月文官殿中監李若幽/國貞が戸部尚書充朔方鎮西北庭興平陳鄭等九節度行營兵馬及河中節度都統處置使となった。唐朝は河中を軍人から回収したかったわけである。光弼は河南行営に向かった◎.是年河中節度は沁州を増やされ、同州は華州鎮國軍節度に移管、しかし沁州はまた澤潞節度に移された。寶應元年[762]◎.建卯月河中軍が亂して都統李國貞と鎮西行営節度使荔非元禮を殺した。國貞が屯する絳州は荒れ果てていて、軍人に対する給糧がされず、唐朝からの供軍もなかった。不満が昂じた突將王元振等が反した。近隣に屯していた鎮西北庭行営軍も乱して元禮を殺して、裨將白孝德を擁立。河東軍も乱して厳酷な節度使文官鄧景山を殺し、都知兵馬使代州刺史辛雲京を擁立した。史朝義軍に対峙していた唐朝軍は潰滅状態となった。◎.唐朝は肅宗皇帝は重病[まもなく崩御]...河中節度使史その2

  • 河中節度使史 その1

    蒲州[河東郡.河中府]は京師と、唐の建国地河東[太原府]を結ぶ要地である。また鹽池が有り多額の税収が得られる地域であった。天寶十五年/至德元年[756]◎.?安禄山軍に対して河中防禦守捉蒲關使が設置され、呂崇賁が防禦使となった。◎.6月安禄山軍に潼関で唐軍は大敗し、京師は陥落した。蒲、華、同、商州防御使は皆逃亡し守兵は逃散した。◎.7月關内采訪使が節度使となり、前蒲關防御使呂崇賁が節度使となった。至德二年[757]◎.正月/2月朔方節度使郭子儀が賊將崔乾祐を潼關に破り河東郡[蒲州]を回復した。◎.3月賊将安守忠が河東を攻撃したが、郭子儀が撃退した。◎.4月郭子儀は關内河東副元帥となった。◎.10月唐軍が京師・東京を回復し河東・河南諸郡を制圧した。◎.?馮翊[同州]太守顔真卿が蒲州刺史本郡防御使封丹陽縣開國子とな...河中節度使史その1

  • 嶺南節度使史 その9

    ◎.光啓二年[886]◎.鄭續は?◎.5月[朱玫により擁立された僞皇帝(嗣襄王)により淮南節度使高駢の佞臣である右都押衙和州刺史呂用之が檢校兵部尚書兼廣州刺史嶺南東道節度使に任用されるが不任]光啓三年[887]◎.?裴璩が嶺南東道節度使となる。文德元年[888]◎2月.[親衛軍の將保鑾都將陳珮檢校司空廣州刺史嶺南東道節度使に任ぜられるが遥領である]龍紀元年[889]◎.裴璩は?大順元年[890]◎.戸部侍郎劉崇龜が検校戸部尚書嶺南東道節度使となる景福二年[893]◎.3/6月[親衛軍の將捧日都頭陳珮が再度特進同平章事廣州刺史嶺南東道節度使使に任ぜられ軍權を解かれた。軍權の皇帝への回収である。名目的な任命で赴任していない]乾寧二年[895]◎.節度使劉崇龜が卒した。◎.7月(三年正月說あり)特進戸部尚書兼京兆尹嗣...嶺南節度使史その9

  • 嶺南節度使史 その8

    咸通元年[860]◎.蕭倣転出先不明咸通二年[861]◎.江西観察使韋宙が嶺南節度使となる。咸通三年[862]◎.5月嶺南節度を嶺南東道節度に、邕管を嶺南西道節度とし、韋宙は嶺南東道節度使となる。蔡京の対雲南蠻政策による制度変更である。◎.12月安南蔡襲が雲南蠻の侵攻に対処するため増援を求めたが、韋宙は来寇は邕管のほうだと主張して認めなかった。咸通四年[863]◎.正月雲南蠻は安南を襲撃し、都護蔡襲以下が潰滅した。◎.8月韋宙は再び邕管が攻撃されるとし、藤州に派兵した。咸通五年[864]◎.3月雲南蠻は邕管を攻囲し唐軍は大敗したが、経略使康承訓は勝利したと報告。◎.7月韋宙は康承訓の虚偽を弾劾し処罰させた。咸通八年[867]◎.12月韋宙は嶺南経略の功績により、検校尚書左僕射同平章事を加えられた。嶺南節度使とし...嶺南節度使史その8

  • 嶺南節度使史 その7

    長慶四年[824]◎.10月鄭權は卒した。◎.10月謹厚ではあったが宰相としての器量がなかった檢校兵部尚書鄂岳觀察使崔植[字公修.宰相祐甫の養子]が檢校吏部尚書兼廣州刺史御史大夫充嶺南節度觀察經略使となる。寶暦二年[826]◎.崔植は戸部尚書へ◎.11月戸部尚書判度支胡證が檢校兵部尚書兼廣州刺史充嶺南節度使となる。太和二年[828]◎.10月収斂して巨富を築き胡證は卒した。為に太和九年甘露の変が起こると、神策軍の兵士は掠奪し、胡宅に乱入し子の殷を殺害した。◎.10月副元帥李晟の子だが晟・愬・聴などの兄弟達とは違い文官をめざした江西観察使李憲が檢校左散騎常侍兼御史大夫嶺南節度觀察等使となる。吏才があり能政・守法で良政を敷いた。太和三年[829]◎7/8月李憲は卒した。◎.7月京兆尹崔護が御史大夫嶺南節度使となる。...嶺南節度使史その7

  • 嶺南節度使史 その6

    元和三年[808]◎.4月趙昌は荊南節度使へ転じる。◎.4月戸部侍郎楊於陵が嶺南節度使となった。賢良方正直言極諫試験において牛僧孺、皇甫湜、李宗閔等が、宰相李吉甫の政治を糾弾したため、吉甫はそれを優等とした翰林學士裴垍、王涯等を排斥した。於陵もまたそれに坐して出された。元和四年[809]◎.この頃嶺南諸州の大半の刺史は名目だけで欠員となっていて、判官より選んで知州事としていた。また判官も左遷されてきた流人が多かった。元和五年[810]◎.7月楊於陵は吏部侍郎へ宦官嶺南監軍許遂振は廉直な於陵と合わず、誹謗中傷を上申を繰り返し3月解任させた。憲宗は帰京してきた於陵を閑職にしようとしたが、学士裴垍等に実情を教えられ要官である吏部侍郎に任じ、かえって遂振を左遷した。◎.3月宰相としては無能で太子賓客となっていた鄭絪が檢...嶺南節度使史その6

  • 嶺南節度使史 その5

    興元元年[784]◎.9月前嶺南節度使元琇は戸部侍郎へ◎.3月前饒州刺史[蘇州刺史から転じるが不任]杜佑[字君卿]が御史大夫廣州刺史嶺南節度觀察使となる。嶺南は従来兼五管經略使であるが、当時の人事担当者が疎漏であったために抜け落ちた。これにより嶺南は五管を管掌しなくなった。佑は廣州の道路を広げ火災の危険を防いだ。また朱厓黎民を討った。貞元三年[787]◎.3月杜佑は尚書左丞/右丞へ移った。◎.3月溪洞の人心を安定させていた検校右常侍兼御史中丞容管経略使李復[字初陽]が御史大夫嶺南節度經略觀察處置等使となる。安南の姦吏李元度、胡懷義を誅し乱れていた統治を復し、陶瓦を教え、蠻獠を綏撫した。貞元五年[789]◎.10月李復は判官姜孟京と崖州刺史張少遷を派して乾封年間[666~68]より山賊が占拠していた瓊州を回復し都...嶺南節度使史その5

  • 嶺南節度使史 その4

    大暦二年[767]◎.4/5月工部侍郎徐浩が、嶺南節度觀察使兼御史大夫として赴任した。文雅で有名であったが聚斂につとめ貨財を増やし、愛妾に左右されていた。大暦三年[768]◎.冬銀靑光禄大夫吏部侍郎集賢殿學士副知院事となり典選にあたった。◎.10月宦官魚朝恩に逐われた廉潔な京兆尹兼御史大夫李勉が廣州刺史兼嶺南節度觀察使兼御史大夫となった。大暦六年[771]◎.嶺南蠻酋梁崇牽は平南十道大都統と自称して,756年より容州を占拠し、西原蠻張侯や夏永と連結し、城邑を占拠していた。そのため従来の容管經略使は容州に入れず藤/梧州に僑治していた。新任の經略使王翃は私財で募兵し、賊帥歐陽珪を斬り、嶺南節度使李勉に支援を求めた,武将ではない勉は逡巡したが、翃は撃つと宣言してくれるだけで良いと求めた。そして現地の蕃族義州刺史陳仁璀...嶺南節度使史その4

  • 唐史データリンク集  テスト版

    リンクをクリックしてメニュをみてください。内容自体は以前と同じです。節度使史部分はまだできていません。反応しない等の問題があればご指摘ください。唐史データリンク集テスト版唐史データリンク集テスト版

  • 嶺南節度使史 その3

    天寶十五載/至德元年[756]-2◎.正月南陽郡太守魯炅は南陽節度使として、率嶺南、黔中、山南東道兵を率いて安禄山軍と戦った。◎.5月魯炅軍は敗北し、南陽に籠城した。夷陵太守虢王巨が河南節度使として嶺南節度使何履光、黔中節度使趙國珍、南陽節度使魯炅を率いてして支援した。◎.10月北海太守として安禄山軍と戦ってきた賀蘭進明が肅宗の元に逃れてきた。功績により南海太守摂御史大夫充嶺南節度使に任ぜられた。肅宗としては摂御史大夫ではなく、正任の御史大夫に任じたつもりであったが、進明とあわない宰相房琯は「摂」をつけて格下げした。しかし進明は赴任せずすぐ御史大夫河南節度使に転じた。◎.是年嶺南溪獠梁崇牽は反して容州を陥した。至德二年[757]◎.是年韋利見が廣州刺史嶺南節度使として赴任したようである。乾元元年[758]◎.9...嶺南節度使史その3

  • 整理分再掲示

    近々にメニュを整理してみる予定です。唐各皇帝史をPDF形式でデータをアップロードしました。高祖史太宗史高宗史則天史中宗睿宗史玄宗史肅宗史代宗史德宗史順宗憲宗史穆宗敬宗史文宗史武宗史宣宗史懿宗史僖宗史昭宗哀帝史リンクをクリックするとPDFが開きます。[唐歴史データ]全節度使データ一覧(エクセルリンク)封爵データ一覧(エクセル)3183名分文官宰相一覧(エクセルリンク)宰相年表[附使相]中書舎人年表給事中年表太子庶子年表字[あざな1846名分]一覧皇族一覧表[皇帝別]整理分再掲示

  • 嶺南節度使史 その2

    天寶三載[744]南海郡太守は劉巨鱗で呉令光討伐にあたっていた?天寶四載[745]◎.5月刑部尚書裴敦復が嶺南五府經略等使となったが、なかなか赴任せず、淄川太守に貶せられた。代わって光祿少卿彭杲が任ぜられた。敦復は三載に河南尹から、台、明州を掠奪した海賊呉令光を討った功績を賞されたのであるが、裴寬派に属するため宰相李林甫の排斥をうけ陥れられた。天寶五載[746]◎.嶺南五府節度經略采訪處置等使攝禦史中丞殿中監南康縣伯張九皋/九章[元宰相九齡の弟]は、楊貴妃が玄宗の寵愛を受け、ひたすら迎合し、宝物・茘枝を献上して銀青光祿大夫[従三品]を得た。天寶六載[747]◎.2/3月嶺南五府經略採訪使光祿少卿兼南海郡太守攝御史中丞彭果/杲は坐贓により流罪となった。天寶八載[749]◎.5月南海太守劉巨鱗が坐贓により殺された。...嶺南節度使史その2

  • 嶺南節度使史 その1

    他業が忙しくなったためご無沙汰しています。連日は無理ですが、徐々にアップしていきます。現在の広東省に設置された方鎭。当地はほぼ生産性の低い暑熱の蕃地であり、唐にとっては市舶司を置いた廣州の南方貿易の利益以外は重要性のない所であった。所轄州の刺史の多くも現地蕃族からの登用である。ただ嶺南道地域の統括拠点となり節度使は貿易の利益によって膨大な利益が得られる職であったので官僚達の垂涎の的だった。開元十年[722]◎.8月嶺南按察使裴伷先は安南賊帥梅叔鸞が反乱を起こしたと上奏、驃騎將軍兼内侍楊思勖が討伐にむかった。思勖は残虐で知られた宦官であった。思勖は嶺南の群蠻を召募してたちまち鎮圧し、反者を虐殺し京観[死体を積み上げた塔]を築いた。伷先は責任を取らされたのか失脚し流された。開元十六年[728]◎.正月春瀧等州獠首領...嶺南節度使史その1

  • 淮南節度使史16

    天祐三年[906]◎.正月李簡は宣州を攻め、防衛体制ができない王茂章は錢鏐のもとに奔った。◎.茂章の反乱により、睦州で孤立した陶雅は歙州に戻り、錢鏐が睦州を取った。◎.2月陳璋も婺州を棄てて逃げ、錢鏐軍は婺州を取り、衢州を攻めた。◎.3月楊渥將陳知新は岳州を陥し刺史となった。◎.4月江西鎮南節度使鍾傳が卒し、子の匡時が嗣いだが、養子の江州刺史延規は不満で淮南に通じた。◎.5月昇州刺史秦裴が西南行營都招討使となり鐘匡時を討った。◎.7月秦裴は洪州を包囲し、饒州刺史唐寶が降った。◎.8月陳璋は衢州も棄て、將周本が迎えて撤退させた。◎.9月秦裴は洪州を陥し、鐘匡時を捕らえた。楊渥は鎮南節度使を兼任し、裴を洪州制置使とした。天祐四年/後梁開平元年[907]◎.正月楊渥は驕侈で周囲の諫言を聞かなかった。左、右牙指揮使張顥...淮南節度使史16

  • 淮南節度使史15

    天祐二年[905]◎.正月朱全忠軍は壽州に迫ったが取れず、2月に戻った。◎.正月將王茂章が潤州を陥し、安仁義が敗死した。◎.正月錢鏐軍が睦州を攻めたが敗北した。◎.2月劉存は鄂州を陥し、杜洪は殺された。存が鄂岳観察使となった。◎.4月將陶雅が衢、睦兵と錢鏐麾下の婺州を攻めた。◎.8月全忠は山東趙匡凝が行密と連携したことを怒り、將楊師厚に唐、鄧、復、郢、隨、均、房七州を陥させた。9月匡凝は敗れて淮南へ奔った。◎.11月將陶雅、陳璋は婺州を陥し、雅を江南都招討使,歙婺衢睦觀察使とした。濠州團練使劉金が卒し、子の仁規を知濠州とした。◎.楊行密は重病となり、長子の宣州觀察使楊渥を召還した。渥は軽薄で人望がないため、軍府の属僚は危ぶんだが、左右牙指揮使徐温、張顥等は渥への継承を薦めた。潤州團練使王茂章が代わって宣州觀察使...淮南節度使史15

  • 淮南節度使史14

    ◎.5月朱全忠より杜洪支援を要請された荊南成汭は全軍を率いて東下した。しかしその隙に湖南馬殷將許德勳と、朗州雷彥威將歐陽思に突かれ、根拠地江陵を陥され掠奪された。汭の將士は動揺し帰還を求めたが、汭は聞かずに、行密將李神福と戦い敗死した。◎.6月全忠嫡子友寧は大軍を率いさせ、登州を攻めた。王師範、王茂章は迎撃して戦い、友寧は敗死した。全忠は愕然として自ら急行してきた。◎.7月全忠の大軍に敵わず、茂章は勇戦したが撤退した。◎.8月寧國節度使田頵が潤州團練使安仁義とともに全忠に通じて反した。頵は行密の旧友であったが、積極拡張策を好み、領土の保全安定を望む行密と対立していった。安仁義は沙陀出身の騎將であった。奉國節度使朱延壽もまたこれに通じた。延壽の姉は行密夫人であった。◎.9月行密は延壽を騙して呼び寄せて殺した。◎....淮南節度使史14

  • 淮南節度使史13

    光化二年[899]◎.正月楊行密は朱瑾に徐州を攻めさせたが落とせなかった。◎.7月楊行密は全忠領域の海州を取った。◎.10月淄青節度使王師範支配下の沂、密州が反し、行密は平定に助力した。光化三年[900]◎.是歲楊行密が兼侍中となる。天復元年[901]◎.8月浙江錢鏐が殺されたと誤報をうけ、行密は李神福に本拠地の杭州を攻撃させた。◎.10月李神福は錢鏐軍を破り將顧全武を捕らえた。天復二年[902]◎.3月昭宗皇帝は朱全忠を牽制するため、張濬の子李儼を江淮宣諭使とし、楊行密を東面行營都統兼中書令呉王として全忠を討つように命じた。また麾下の朱瑾を領淄青平盧節度使,馮弘鐸を領徐州武寧節度使,朱延壽を領淮西奉國節度使。◎.4月楊行密は顧全武と秦裴の捕虜交換を行った。錢鏐は大いに喜んだ。◎.6月昇州を以って行密に帰した領...淮南節度使史13

  • 淮南節度使史12

    -----------------------------------楊行密は盧州の人で州将となり勇敢で功績があったが、都將に疎まれ逐われるはめになり、返って反して刺史郎幼復をも逐った。高駢は淮南押牙知廬州事に追認し、やがて盧州刺史となった。-----------------------------------◎.8月楊行密は淮南節度使同平章事となり、麾下の田頵は知宣州留後、安仁義は潤州刺史となった。そして孫儒軍の残党から選抜して精鋭軍を作った。景福二年[893]◎.7月楊行密は廬州を陥し、裏切った蔡儔を殺した。儔は行密の父母の墓を破壊していたが、行密は儔家の墓を保存した。◎.行密は歙州・舒州と勢力を広めていった。乾寧元年[894]◎.武昌節度使杜洪と黄州を争った。乾寧二年[895]◎.朱全忠の勢力下の泗州・壽...淮南節度使史12

  • 淮南節度使史11

    ◎.10月楊行密の揚州包囲が続き、秦彥・畢師鐸は飢え揚州を棄てて走った。行密は入城し淮南節度留後を自称した。◎.11月東都を棄てて南下してきた秦宗衡・孫儒[黄巣を嗣いだ秦宗權の配下、宗衡は弟]の大軍が淮南に侵攻してきた。秦彥、畢師鐸は合流した。朱全忠と争って不利であった宗權は召還したが、情勢をみた孫儒は従わず宗衡を殺して揚州に迫った。◎.閏11月唐朝は宣武節度朱全忠を檢校太尉兼侍中兼揚州大都督府長史充淮南節度觀察等使行營兵馬都統/東南面招討使として兼任させた。全忠は將李璠を留後として淮南に派遣し、行密を節度副使とした。◎.朱全忠と対立する徐州感化軍節度使時溥は、李璠の領内通過を阻止した。光啓四年/文德元年[888]◎.正月孫儒は秦彥、畢師鐸等を殺し軍を併せた。◎.2月朱全忠は楊行密を淮南留後に推薦した。◎.4月...淮南節度使史11

  • 淮南節度使史10

    ◎.高駢は鎮海節度使時の正月、將張璘や梁纘に黄巢を討たせて、秦彥、畢師鐸、李罕之、許勍など數十人を降らせて自分の配下にしていた。◎.また8月に自ら全軍を率いて嶺南に拠る黄巣を討ちたいと上奏したが、巣を軽視し懐柔できると考えていた宰相達は許可しなかった。◎.10月文官の宰相王鐸は巢を討とうとして都統として荊南節度となったが、先鋒の湖南李係が敗北するとたちまち江陵を捨てて遁走した。◎.12月鐸は更迭され、駢の支持者盧攜が宰相に復帰した。廣明元年[880]◎.正月淮南將張潾は黃巢戰を大雲倉に破った。◎.3月高駢は諸道兵馬行營都統となり黄巣を討つ主将となった。◎.5月張潾は饒州を制圧し、信州に迫ったが黃巢に大敗して戦死した。◎.7月黃巢は揚子江を渡り淮南麾下の滁、和二州を陥した。意気阻喪した駢は疾と称して救援しなかった...淮南節度使史10

  • 淮南節度使史9

    咸通十年[869]◎.正月龐勛を南方から征討していた軍人右神武大將軍馬舉が揚州都督府司馬充淮南行營招討使となった。その後權知淮南節度事になったと見られる。◆.咸通10.濠州隷武寧軍◎.4月龐勛の乱では失態ばかりだった淮南節度使檢校司空平章事上柱國涼國公食邑三千戸令狐綯は太子太保分司に左遷された。◎.9月徐州南面招討使檢校尚書左僕射右神武大將軍權知淮南節度事扶風縣開國伯食邑一千戸馬舉[字?]が檢校司空兼揚州大都督府長史淮南節度副大使知節度事となった。咸通十一年◎.11/12月檢校尚書右僕射汴州刺史宣武軍節度觀察等使李蔚[字茂休]が檢校吏部尚書揚州大都督府長史兼淮南節度副大使知節度事となった。乱で荒れ果てた淮南の復興にあたり善政を敷いた。馬舉がどうなったかは記録が無い。乾符元年◎.4月淮南節度使李蔚は吏部尚書となり...淮南節度使史9

  • 淮南節度使史8

    ◎.劍南西川節度使杜悰が再任された。◎.淮南は飢饉となり民は流亡したが、名門貴族であるだけの杜悰は遊宴に明け暮れ対策をとろうとしなかった。大中九年[855]◎.7月衰亡していく唐朝の政治をなんとか立て直したいと努力していた宣宗皇帝は呆れて、杜悰を太子太傅分司に左遷したが、やがて東都留守に任じた。皇帝権力は弱く貴族達への配慮は欠かせなかった。◎.7月唐朝の財源である淮南の治政を安定させるため信任厚い宰相.博陵縣伯崔鉉を檢校司空/司徒同平章事兼揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度使事.魏国公とした。宣宗は宴を賜い激励した。大中十二年[858]◎.8月南部で軍乱が続き、隣接する宣州で將康全泰が乱して、宣歙観察使鄭薫が逐われた。節度使崔鉉が宣歙觀察使を兼任し、宋州刺史温璋を宣州團練使として鎮圧に向かわせた。このころ南...淮南節度使史8

  • 淮南節度使史7

    ◎.李紳[字公垂]は高宗時の宰相敬玄の曽孫だが進士出身。會昌二年◎.2月淮南節度使李紳は德裕の推薦で宰相となる[旧唐書では元年二月だが]。代わって杜悰[字永裕.父も淮南節度使で宰相の佑]が検校司空淮南節度使となる。會昌年間の記録は混乱して悰のような重要人物でも前任が不明である[開成四年には戸部尚書兼判戶部度支事だが]◎.杜悰は名門の貴族で才能はないが気位は高く、淮南監軍が武宗皇帝に献上する女の選定を拒否し、かえって武宗から評価された。會昌四年◎.7月杜悰は宰相兼兼度支鹽鐵転運使となり、昭義節度劉稹の征討供軍にあたった。◎.閏7月李紳は足疾と称して宰相を辞し検校右僕射同平章事淮南節度使に再任された。會昌六年◎.4月宣宗即位により紳は加検校司空。◎.7月李紳卒,贈太尉,諡文肅。没後、李徳裕失脚後の政争に巻き込まれ官...淮南節度使史7

  • 淮南節度使史6

    ◎.播は赴任すると淮南が旱天で飢饉にあるにも係わらず聚斂に努めた。長慶四年[824]◎.4月播は宦官達と結び諸道鹽鐵転運使として収斂し、宦官王守澄達に盛んに贈賄していたが、穆宗が崩御し敬宗が即位すると、銀青光祿大夫、檢校司空を与えられたが、御史大夫王涯に鹽鐵の權を奪われた。◎.12月王播は宦官や權貴に働きかけ、鹽鐵使を復することを求めた。しかし諌官は強く反対した。宝暦元年[825]◎.正月清廉であった敬宗皇帝の幼稚さに呆れて宰相牛僧孺が去り、王播は兼諸道鹽鐵轉運使に復した。◎.7月不良少年であった敬宗皇帝は盛んに王播に賄賂をねだり、競走用のボート二十隻を莫大な金を使って作らせた。◎.播は収斂するだけではなく鹽鐵使として揚州の水運の整備には尽力した。宝暦二年[826]◎.文宗が即位し檢校司徒に昇格した。太和元年[...淮南節度使史6

  • 淮南節度使史5

    永貞元年[805]◎.3月順宗の即位により鍔は検校司空に昇格した。元和二年[807]◎.10月浙西鎭海軍節度使李錡は姑息な德宗時代に長期に渡って浙西觀察使として君臨し、諸道鹽鐵転運使を兼ねることで莫大な資産を蓄積してきた。ところが憲宗皇帝の時代になると中央への利権の回収が始まり諸道鹽鐵転運使が解任され、代わりに鎭海軍節度使への昇格ということになった。錡は極めて不満であり、德宗時代の姑息な人事が忘れられず、辞任するとごねてみた。するとたちまち認められ、名誉職の左僕射への昇進という通告を受け反乱を起こしてしまった。◎.淮南節度使王鍔が充諸道行營招討使,内官薛尚衍為監軍,率汴、徐、鄂、淮南、宣歙之師,取宣州路進討。軍人であり南方戦線では実績のある鍔は功績を上げるチャンスとばかり張り切った。しかし李錡の無謀な反乱につい...淮南節度使史5

  • 淮南節度使史4

    ◎12月.庚辰,刑部侍郎杜亞[字次公]が兼御史大夫揚州州大都督府長史淮南節度使に補された。淮南人は少游の聚斂の後、果断で能吏な亞の赴任を歓迎したが、宰相になれず不満な亞は遊興にふけった。◆.貞元4.復領壽廬濠三州.復置壽州団練使貞元五年[789]◎.10月戶部侍郎竇覦[昭成皇后の一族.8月に同州刺史より戸部侍郎]が新任の宰相竇参の推薦で揚州大都督府長史御史大夫充淮南節度副大使知節度事となる。才学はないが吏治計数に明るいとされていたが、赴任して数日で卒した。暴卒,贈禮部尚書。◎.12月宰相竇参は、亞が宰相に任用されることを懼れて亞を東都留守畿汝州都防御使に遷した。◎.12月尚書右丞杜佑/祐[字君卿]が檢校禮部尚書兼揚州長史淮南節度使となった。佑は名門貴族で嶺南節度で能政で聞こえていた。彼は母喪により辞退したが許さ...淮南節度使史4

  • 淮南節度使史3

    ◎.陳少游は小恵を与えながら吏治に励み、収斂して莫大な資産を築き、宰相元載や宦官駱奉先、劉清潭、吳承倩に多額の贈賄をしたため、代宗皇帝はその忠誠を信じきり、相継いで檢校禮部・兵部尚書を加えた。大暦十一年[776]◎.8月宣武李靈曜が、魏博田承嗣と通じて反し、淮南節度使陳少游は淄青節度使李正己とともにこの征討に参加した。◎.10月李忠臣・陳少游等は李靈曜を汴州城西に破った。建中二年[781]◆.正月泗州隸淮南◎.11月淄青節度使李正己が卒し、子の納が自立した。陳少游はその海州を撃ち、刺史王涉がせ降った。◎.12月李納密州刺史馬萬通が降り、密州刺史とした。建中三年◎.正月李納が海・密州を奪回した。◎.陳少游に檢校左僕射,賜實封三百戶が加えられた。建中三年[782]◎.4月軍費が急増したため、陳少游は田塩税の2割の増...淮南節度使史3

  • 淮南節度使史2

    上元二年[761]◎.正月田神功は劉展を蒜山に敗死させ、与党を平定しました。そして各地を大掠し、6月、開府儀同三司を加えられ徐州刺史に任じられました。◎.6月都統李峘は敗戦の責任を問われ袁州司馬に貶されて病死した。浙西節度使侯令儀も流されたが淮南鄧景山は責任転嫁に成功し10月に尚書右丞となり京師に戻った。◎.刑部尚書王璵が兼揚州長史御史大夫充淮南節度使兼祠祭使となるが、すぐ使持節都督越州諸軍事越州刺史浙江東道節度觀察處置使に転じた。璵は儀典好きな肅宗皇帝によって宰相に登用されたが政治能力はなく解任され刑部尚書兼祠祭使となっていた。実際に赴任したかは不明である。◎.2月太子詹事兼汾州刺史趙國公崔圓が檢校吏部尚書御史大夫揚州大都督府長史淮南節度観察使として赴任した。圓は劍南節度使から元宰相を経て太子少師兼東都留守の...淮南節度使史2

  • 淮南節度使史1

    淮南節度使は揚州を治所とする。淮南道採訪使の後継で道を管轄とする。浙江西道と並び唐朝財政の基盤で富裕な地域であり唐初より重視されている。至德元年[756]◎.7月成都に逃亡した玄宗皇帝は皇子盛王琦を充廣陵大都督領江南東路及淮南河南等路節度都使とし軍權を分置しようとした。盛王は実際に赴任していない。廣陵郡長史李成式が副都大使兼御史中丞として実務をすることになった。のち成式は大理卿に移る◎.11月江陵[荊南]大都督に任ぜられた永王璘が、江陵[荊南]で募兵し、江淮で自立しようとした。◆.12月置淮南節度使領楊楚滁和壽廬舒光蘄黄安申沔十三州治楊州.尋申光隷淮西◎.永王の東下を防ぐため、諫議大夫高適[字達夫]が廣陵大都督府長史淮南節度兼采訪使となった。他に來瑱が淮西節度使となった。◎.永王璘は東侵し、將季廣琛に廣陵を襲わ...淮南節度使史1

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