幽州節度使李載義は親唐朝姿勢を貫いていましたが、それに不満な河北勢力も根強く存在していました。載義は本来外来の家系で幽州軍内の大和5年正月球場後院での宴会で副兵馬使楊志誠と一党が反乱し、載義と子正元は易州に奔りました。志誠は載義姻戚莫州刺史張慶初を殺しました。あまりにもろい状況ですが、反唐朝グループが強かったとも言えます。藩鎭不干渉の政策をとる宰相牛僧孺はなんの動きもみせず、志誠の自立を認めました。しかし入朝した親唐朝姿勢の載義を太保同平章事として遇し、まもなく山西節度使を与えました。継承を認められた志誠ですが、反唐朝姿勢を示しました。幽州楊志誠の乱