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鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構 https://blog.goo.ne.jp/mementosmori

日本最大の鎌倉城とその遺構。頼朝に封印された古代東海道遺構の紹介!

国内の勢力争いの為の城郭とは異質な、、 日本の存亡を賭けた、フビライハンのモンゴル帝国襲来に対抗する為の鎌倉城です。 世界最大の国力に対抗した 世界有数の巨大な城跡となり、当然全国の武士を総動員して守る城となった。

ぼ輔
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藤沢市
出身
藤沢市
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2018/05/31

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  • 鎌倉城のマトメ 4

    上図は切岸の段差を黒く表示し。ご覧の傾斜表示となります。しかし、住宅地に占領された状態であり、緑地は樹木のベールに隠れて、単なる山に見えます。更に巨大でその様な自然地形か??等と考えるのでしょうね、、人手でこの様な地形を作った!とは思えない大きさですから、、下調べをして、確信的にこの段差は切岸痕跡として見ないと誤魔化されます。鎌倉城には二面性が有ります。一、国内の敵から、鎌倉の市街を守る城壁としての城。二、国外の侵略(元寇)対策としての砦。「鎌倉城の城壁5」2016/12月06記より「尾根の周りに真っ黒な縁取り」の様な切岸に新田義貞は鎌倉市内に入れなかった。太平記では新田総勢五十万七千余騎が『粧坂』に攻めよせた。鎌倉勢は三万余騎にて『粧坂』を堅めたり。新田勢を喰い止められた!鎌倉軍は『粧坂』で19倍の敵を相手に...鎌倉城のマトメ4

  • 鎌倉城のマトメ 3

    鎌倉城に対する認識は、研究者の調査不足、根拠の不明瞭等の経緯で鎌倉城の実体を語られる事が無い。城郭研究書「日本城郭大系」では、名越の石切り場を鎌倉城として紹介され、見るに耐えない記事となっている。(当ブログに記載:日本城郭大系1記2015-06-22)多くの鎌倉研究書が「日本城郭大系」を引用した為、内容が定番となり、調査不足の記述が常識となってしまった。下記の地図は、一般的な地図の上に急激な崖の部分を黒く表示した図です。山の裾は、総て黒くライン(急な傾斜)が入るのが前出の地図とは違う処です。この山の裾の黒い場所は切岸と呼ばれる城壁に相当する急激な傾斜部です。人力で掘削した崖で、周囲の山裾は総て崖に成っている。これが、鎌倉城を示す痕跡です。戦国時代、江戸時代を経ると「日本城郭大系」で記された一般的な構造の城になり...鎌倉城のマトメ3

  • 鎌倉城のマトメ 2

    このブログの基は、一般に鎌倉城の調査はされず、不完全なままに放置されている現状が有ります。自分なりに納得できる様な城探しをする羽目に成りました。元は、鎌倉を突き抜ける古代東海道の解析が目的だったのですがね、、、鎌倉研究書を読むと、地形を知らず現地を把握する事も無い研究内容と、その不完全で憶測に満ちた研究書を参考に現代の研究が積み重ねられた経緯がある。広大な鎌倉城に対し、調査もせずに憶測で本を書いた。臆測は憶測を呼び、根拠の薄弱な風評としての現在の鎌倉城論が出来上がった。「鎌倉を世界遺産に!」という目論みも、調査不足と思慮の浅さで無残にも崩れ去った訳ですが、世界にも稀な巨大さを誇る砦がこの鎌倉城であった訳で「世界遺産」を目指しても可笑しくない遺構です。鎌倉幕府にそんな力が有ったのか?九州の地方の武士を指揮して博多...鎌倉城のマトメ2

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