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2017/12/26

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  • 「藍住町総合文化ホールの控室で」

    「藍住町総合文化ホールの控室で」「阿波古事記芸能文化創造フェスティバル」なるイベントが、2月末日の今日、阿波古事記研究会の主催により藍住町総合文化ホールで開催され、我々、中村園太夫座も創作浄瑠璃「天照って阿南生まれじょ」を上演して参画した。写真は、我々より一つ前に上演した勝浦座の「恵比寿舞」の様子である。それは兎も角、開演までの待ち時間に当座の控室で私が、「いま、新しい創作浄瑠璃を考えている。テーマは四国遍路とお接待文化」だとその粗筋を披露すると、座員一同大喝采となり、一日も早く作ってと強い催促を受けた。夢は大きく、この新作浄瑠璃ができれば、四国霊場88か所だけでなく高野山でも上演したいと威勢の良い声も飛び出したものだ。上手くいけば、来年1月の定期公演で上演できたらと思う。「藍住町総合文化ホールの控室で」

  • 「お不動さんで榊苗を買う」

    「お不動さんで榊苗を買う」午前中の改良区の出役と昼からの改良区の理事会の合間を縫って、桑野町の万福寺で今日明日と開かれる恒例の「不動市」に駆け付けた。わざわざ出向いたのには訳があって、榊の苗を買い求め、それを自宅の庭に植えておきたいとの数年来の願望を実現したいとの想いからだ。1本1000円で買い求めることができたので、近日中には植えたいと思う。榊は、あれば何かと便利なのだ。「お不動さんで榊苗を買う」

  • 「幹線用水路のゴミ拾い」

    「幹線用水路のゴミ拾い」いよいよ田植えシーズンも近づいてきたことから、桑野西部土地改良区は、午前中に幹線用水路のゴミ拾いの出役を行った。非常に強い風が吹く中での作業であったが、お昼までには予定の作業を終えることができた。午後からは、同改良区の理事会が予定されているので、会計担当理事として出席する必要がある。県の指導により、今年度から改良区総会を3月中に開催するようになったため、その前段の理事会ということになる。「幹線用水路のゴミ拾い」

  • 「2通の審査請求申立書」

    「2通の審査請求申立書」私と賀上文代さんは、令和3年1月22日付け内閣官房副長官補(拉致問題対策事務局)の「行政文書開示等決定通知書」及び同年2月17日付け四国公安調査局長「行政文書不開示決定通知書」について対応を協議した結果、それぞれについて審査請求をおこなうことで一致し、2月26日付けで「審査請求申立書」を郵送したところだ。「拉致問題は、内閣の最重要にして最優先課題である」と歴代内閣が喧伝して久しいが、何の成果も出ていないことは国民周知の事実である。にも拘らず、いわゆる情報公開法第5条第4号及び6号を根拠として、同法8条の規定により存否応答拒否をする拉致問題対策事務局と四国公安調査局、彼ら(処分庁)の下した処分が本当に正しいものか、総務省の情報公開・個人情報保護審査会の公平な判断を仰ぐために審査請求を申し立...「2通の審査請求申立書」

  • 「メークイン植えました」

    「メークイン植えました」毎年、2月下旬になると、じゃがいもの一種であるメークインを植えている。明日から雨が降るというので、これ幸いと4㎏の種イモを72個に分けて畑に植えた。じゃがいもはその内段々大きくなると楽観しているが、心配なのは畑に夜な夜な鹿が足を運んでいることだ。じゃがいもを植えたマルチには、鹿の足跡が幾つも残っている。そこで、折角植えた種イモを食べられないようにもみ殻をどっさりと置いてきた。「メークイン植えました」

  • 「第14回出前市長」

    「第14回出前市長」本日24日、桑野公民館において、桑野ふるさと研究会主催による標記のイベントが開かれ、主催者からお招きを受けて私も参加した。議題としては、「地域の文化財の保護活動」と「官民連携による生涯学習の拡充発展について」が取り上げられ、メンバー各位から複数の意見が出されるとともに、表原市長からも積極的な意見表明があった。表原市長からは、「この出前市長も14回と回を重ねる中で、頂戴した提言を基に令和3年度の政策や予算に反映したものがあり、決してパフォーマンスで行ってはいない。」との強い意志表示があり、私もこの取組みを支持したい。今後の発展を期待する。個人的には、「阿南市~室戸市~安芸市を結ぶ高規格道路の関係者がAMAという団体を作って久しいが、この3市に共通することはかつて長宗我部元親に席巻された歴史があ...「第14回出前市長」

  • 「沢山のご祝辞、ありがとうございました」

    「沢山のご祝辞、ありがとうございました」本日2月23日は、天皇陛下の61歳の誕生日でありますが、私の66歳の誕生日でもあります。そういうことで、実に多くの皆様からお祝いのご祝辞を頂戴しましたこと、心より御礼申し上げます。今夜は、妻と二人して寿司店に出向いて誕生会を催し、美味しいビールを腹の底まで流し込みました。昨年、娘にプレゼントしてもらったシャツに身を固めてのひと時、楽しいやら嬉しいやらの誕生日となりました。「沢山のご祝辞、ありがとうございました」

  • 「春はセンバツから」

    「春はセンバツから」“春はセンバツから”という掛け声が日増しに大きくなるにつれ、段々と気温も上がってきて本当に春の季節を実感できるまでになった。今年、県南部健康運動公園内にあるアグリ球場に合宿に訪れる選抜大会出場校は、福井県の敦賀気比高校と長野県の上田西高校の2校が予定されている。毎年、地元の歓迎行事の一環として立て看板を制作し、それをアグリ球場に掲げている。敦賀気比高校は3月6日に到着して地元高校との練習試合も3試合組まれている。今日は、桑野公民館での看板制作に立ち合い、地元の書道家の達筆ぶりに感銘を受けた次第である。上田西高校は3月15日に到着するので、看板制作は3月に入ってからになると思う。「春はセンバツから」

  • 「型にこだわらない成形」

    「型にこだわらない成形」ここ数年、陶芸活動の進むべき道で迷ってきた。何を迷ってきたかというと、手ロクロ成形でしか作陶しないと決めている私が、電動ロクロを使う成形や、土を石膏の型に流し込んで成形する鋳込み成形と同じように、均整のとれた丸い形の作品を創ることに傾注してどんな意味があるのかと迷ってきたのだ。手ロクロ成形でも均整のとれた作品を創ることは可能だが、66歳の誕生日を明日に控えついに決心をした。それは、手ロクロ成形で出来上がった自然な形を大事にして作品を創ろうというもので、自分の子育てと同様に型にはめ込む成形を止めることにした。「型にこだわらない成形」

  • 「不安なファブリダム」

    「不安なファブリダム」土曜日の昼から桑野西部改良区の役員会があり、2月27日の理事会と、3月28日の総会の進め方について議論した。その席上で出たのが、当改良区が使用し管理している新井堰ファブリダムの老朽化と善後策についてである。設置からすでに半世紀以上となるこのファブリダムは、設置者である徳島県の方でこれまでに何度も修理を重ねているが、当改良区を安心させるまでの修理は行われていない。昨年の秋から何回もゴムを張り替えては破れ、また補修をするという作業が続いている。この前に補修した箇所がまた剥がれて来ているという可能性もある。全面的な改修をすれば何億円も工事費を要するらしいが、まずは徳島県知事に長期的に安定して使用できるように善処を求める要望書を提出することで役員が一致した。「不安なファブリダム」

  • 「私説:光秀謀反の理由」

    「私説:光秀謀反の理由」NHK大河ドラマ「麒麟がくる」も終了したことから、光秀謀反の理由について私なりの見解を述べてみたいと思う。諸説あることは承知しているが、私は、織田信長による天下統一が現実味を帯びてきた時期に断行された佐久間信盛、林秀貞などの老臣追放事件から、「明日は我が身」という恐怖感を抱いた光秀が衝動的に本能寺に攻め入ったものと推察している。封建時代及び戦国時代の武将にとって何よりも大切なものは、自国の領地を如何にして守るか、または如何にして領地を拡大するかにあるといって良く、この点、江戸時代に入ってからの君主に忠誠を誓うという新しい価値観とは違う武士道が存在していたはずだ。この領地という視点から考えると、信長政権が長期安定化を目指す時に必要となるのが、今後増加する一方であろう信長の子供や孫など親族・...「私説:光秀謀反の理由」

  • 「ブラリ鹿児島」番外編③

    「ブラリ鹿児島」番外編③桜島のバス停でおばあちゃんに「鹿児島は良い処ですか?」とお尋ねしたら、「桜島の灰さえなければね!」という返事だった。私も、滞在中に雨が降り、朝起きて娘のクルマをみると濡れた火山灰がべったりと付いていたので納得した。鹿児島県の地元テレビを観ていると、この城山展望台から眺める桜島と錦江湾が良く出てくる。かつて、西郷隆盛や大久保利通だけでなく幾多の薩摩隼人が眺めたであろうこの風景をもって番外編も終わりとしたい。「ブラリ鹿児島」番外編③

  • 「ブラリ鹿児島」番外編②

    「ブラリ鹿児島」番外編②大河ドラマ「西郷どん」にも出てきた仙巌園は、万治元年(1658年)、島津家19代光久によって築かれた別邸で、錦江湾を池に桜島を築山に見立てた雄大な景観に加え、琉球を通じて中国貿易を行っていた島津家にふさわしく、2015年には世界文化遺産に登録されている。今回ご紹介するのは旧集成館反射炉跡で、日本初の近代的な工場群を仙巌園内に設けた薩摩藩主島津斉彬は、1851年に海外からの脅威に対し、海からの外敵から護るための大砲や武器、軍船を自前で作る必要があると考え、材料の鉄を溶かす溶鉱炉や反射炉建造に着手したとのことだ。「ブラリ鹿児島」番外編②

  • 「ブラリ鹿児島」番外編①

    「ブラリ鹿児島」番外編①せっかくの機会なので、今回訪れなかったものの、昨年11月に訪れた鹿児島県の有名スポットをご案内しておきたい。まずは、知覧特攻平和会館から。説明によると、「旧飛行場跡地に建つ「知覧特攻平和会館」は,沖縄戦で人類史上類のない爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりして亡くなられた陸軍特別攻撃隊員1,036名の遺影・遺品・遺書・家族に向けた手紙・戦闘機など歴史的価値の高い貴重な資料を収集・保存・展示されています。」とのこと。是非、一度は訪れて散華した若者たちの写真や遺書、それから遺品の数々に触れて彼らが命を懸けて守りたかったもの、また命を懸けて我々に伝えようとしたことを心に受け止めて欲しいと思う。「ブラリ鹿児島」番外編①

  • 「ブラリ鹿児島」~最後に~

    「ブラリ鹿児島」~最後に~2月に入って12日間、娘が暮らす鹿児島市に滞在し、鹿児島県内を散策した折にカメラに収めた写真を解説するかのようにレポートを綴ってみた。この「ブラリ鹿児島」をご覧になり、鹿児島県に理解が深まったとか、或いは鹿児島県に出かけてみようかと思う人がいたなら幸いである。ここは、娘が暮らす鹿児島県にヨイショしておこう。レポートはこれで終わりとするが、これまでご覧いただいた各位にお礼を申し上げたい。写真は、天文館通の喫茶店で一服のお茶を楽しむ私である。「ブラリ鹿児島」~最後に~

  • 「ブラリ鹿児島」その26

    「ブラリ鹿児島」その262月14日13時34分、鹿児島中央駅発のさくら558号に乗り岡山まで、そこから瀬戸大橋線~高徳線~牟岐線と特急を乗り継ぎ、地元・桑野駅に到着したのが午後8時11分、6時間37分の旅路がようやく終わった。瀬戸大橋から沈む夕陽を眺めると、四国に帰ってきたんだとの実感が湧いてくる。「ブラリ鹿児島」その26

  • 「ブラリ鹿児島」その25

    「ブラリ鹿児島」その25私が、家族旅行なるものに出かけるようになってからかれこれ36年は過ぎたと思う。我が家の家族旅行の特色は、行く先々の美術館・博物館等を訪れることにある。今回も、城山の麓にある鹿児島市立美術館に行ってみた。丁度、美術館1F展示ロビーにおいて、鹿児島市立鹿児島女子高等学校の第13回芸術作品展が開催されていたので覗いてみることにした。受付の女子高生に、「作品の写真を撮らせてもらい、それを私のブログで紹介したい」と約束したので、その約束を果たしたいと思う。「ブラリ鹿児島」その25

  • 「ブラリ鹿児島」その24

    「ブラリ鹿児島」その24昨年11月と今年2月に鹿児島市を訪れるまで、私が天文館について知っていたことは、北島三郎が、1968年、私が中学1年生の時に歌った「薩摩の女」の歌詞の一節「雨がふるふる天文館通の青いランプに身を寄せりゃああ悲恋の旅のドラが鳴る」(作詞:星野哲郎)というくらいである。今回、4回程度天文館通を歩いて喫茶店で珈琲などを楽しんだ。鹿児島市人口は約60万人、片や徳島県人口約72万人、大変大きな街で、歴史と賑わいを感じさせる街であることを実感した。「ブラリ鹿児島」その24

  • 「ブラリ鹿児島」その23

    「ブラリ鹿児島」その23鹿児島県観光サイトによると、「閑寂な老杉の濃い緑に包まれた参道・境内を抜けると、格調高い朱塗りの社殿の荘厳かつ豪華絢爛な姿があらわれます。建国神話の主人公である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を祀った霧島神宮は、創建が6世紀と古い歴史を誇る神社です。最初は高千穂峰と火常峰(御鉢)の間にある背門丘に建てられたといわれていますが、霧島山の噴火による消失と再建を繰り返し、500年以上前に現在の場所に移されました。現在の社殿は島津氏第21代当主(第4代薩摩藩主)島津吉貴が、1715年に建立・寄進したものです。年間100以上の祭儀が行われ、中でも元旦と2月11日に本殿で奉納される九面太鼓は、勇壮な郷土芸能として県内外から注目を集めています。この近辺には霧島の七不思議や古宮址などもあります。桜の時期には薄...「ブラリ鹿児島」その23

  • 「ブラリ鹿児島」その22

    「ブラリ鹿児島」その22鹿児島空港のすぐ近くに西郷公園があり、空港を見据えるように西郷隆盛の銅像が立っている。この西郷公園は入場無料で、西南戦争を描いた53枚の錦絵をはじめ、西郷隆盛や明治維新に関する資料、軍服、西郷さんにまつわるエピソードなどが展示されている。ミスター鹿児島県は西郷隆盛ですと、全国からの観光客にPRする施設なんだと感じた。霧島神宮へ向かう途中に立ち寄り、西郷さんと同じようにしてポーズを決める私なのである。「ブラリ鹿児島」その22

  • 「ブラリ鹿児島」その21

    「ブラリ鹿児島」その21黒神埋没鳥居の近くから桜島を眺望するとこんな感じになる。城山付近から観る桜島とは雰囲気がだいぶ違って、猛々しいという表現が良く当てはまると思う。桜島は、日月火水木金土と毎日煙を噴き上げている。モクモクと煙を噴き上げているからといって、木曜日だけということはない。「ブラリ鹿児島」その21

  • 「ブラリ鹿児島」その20

    「ブラリ鹿児島」その20この桜島だけでなく霧島地方やあちらこちらで見かける屋根のついたお墓、地元の人に聞いたところ火山灰からお墓を守るためだという。火山のない私の地元・徳島県では想像もつかない話だ。「ブラリ鹿児島」その20

  • 「ブラリ鹿児島」その19

    「ブラリ鹿児島」その19桜島に上陸した私と妻は、島の北側半分を回る市バスに乗り込み桜島を反対側から眺望することにトライした。フェリー乗り場からすると裏側にあたる黒神町には、大正3年の大噴火で埋没した「黒神埋没鳥居」がある。「元々、高さ3メートルもあった腹五社神社(黒神神社)の鳥居は、噴火後たった1日で軽石や火山灰に埋め尽くされ、上部だけが残されています。その後住民らは鳥居を掘り起こそうとしましたが、東桜島村長野添八百蔵氏が噴火の脅威を後世に伝えようという考えから、掘り起こすのを辞めることに。当時から現代まで、変わらぬ姿で残っています。黒神埋没鳥居は、昭和38年には県の天然記念物に指定され、隣には奇跡的に生き残ったアコウの老樹がたたずんでいます。」という説明が鹿児島観光情報に載っている。「ブラリ鹿児島」その19

  • 「ブラリ鹿児島」その18

    「ブラリ鹿児島」その18昨年11月に桜島に行ったときは雨模様で何もかも霞んで良く観えなかったのでもう一度行ってみようということになり、桜島フェリーに乗船した。写真は桜島に向かうフェリーの中から、城山の展望台もほぼ同じ角度に位置しているのでこの桜島は何度も目にされていることと思う。桜島フェリーは20分おきに出港していて、料金は片道200円となっている。市電、市バス、桜島フェリーも鹿児島市が運営しているので、1日600円の乗車券を買うと何度乗ってもOKということで便利でお得になっている。鹿児島市に成り代わりPRしておきたい。「ブラリ鹿児島」その18

  • 「ブラリ鹿児島」その17

    「ブラリ鹿児島」その17来るときは鹿児島市から錦江湾をぐるっと回って陸路を走ったが、帰りは垂水市からフェリーに乗船して鹿児島市に向かうことにした。船から観た錦江湾に沈む夕陽、この方角に開聞岳がそびえているはずだ。垂水フェリーは、大人片道500円、所要時間は約40分となっている。「ブラリ鹿児島」その17

  • 「ブラリ鹿児島」その16

    「ブラリ鹿児島」その16鹿屋航空基地史料館の2階には、垂水市浜平の海岸で引き揚げられたものと旧加世田市吹上浜で引き揚げられたものを合体復元した「零式艦上戦闘機52型丙」が展示してある。この基地を出発し、開聞岳を眼下に見下ろしながら沖縄に向けて飛んで行った特攻隊の若者が多数いたことを思うと胸が痛む。館内には、ミッドウェー海戦で沈んだ空母赤城の精巧な模型も展示されていたが、ゼロ戦のみ撮影可ということだったので割愛させていただきたい。「ブラリ鹿児島」その16

  • 「ブラリ鹿児島」その15

    「ブラリ鹿児島」その15せっかく鹿屋市まで来たのだから「鹿屋航空基地史料館」に行ってみようということになり足を運んだ。鹿児島県のHPには、「昭和11年に海軍鹿屋航空隊が開隊してから現在に至るまでの歴史を展示する資料館です。海上自衛隊鹿屋航空基地の敷地内にあります。先の大戦における特別攻撃隊にまつわる遺品などのほか、日本の名機「零式艦上戦闘機52型」が復元展示されています。また、災害派遣や周辺海域における警戒監視、海外派遣任務等の海上自衛隊の現在の活動なども紹介されています。」とある。写真は、敷地内に並べてある海上自衛隊の対潜哨戒機、これ以外にも合わせて10機以上の実物が展示されている。「ブラリ鹿児島」その15

  • 「ブラリ鹿児島」その14

    「ブラリ鹿児島」その14錦江町から鹿屋市まで引き返し、「かのやばら園」に行ってみた。普段は入場料630円とのことだが、どういう訳か無料であった。公式HPによると、「霧島ヶ丘公園の東側丘陵地にあり、8haの広大な敷地に3万5千株のバラが植えられた日本最大級を誇る「かのやばら園」。鹿屋オリジナルのバラ『プリンセスかのや』をはじめ、春のシーズンには、たくさんのバラが咲き誇ります。」とのことだが、季節的に屋外の公園に美しいバラを見つけることはできなかった。しかし、ばら園内の温室には色とりどりのバラが美しく咲いており、何となく納得したような次第である。バラが美しく咲き誇る季節にまた来てみようということで、これにて一件落着と相成った。「ブラリ鹿児島」その14

  • 「ブラリ鹿児島」その13

    「ブラリ鹿児島」その13鹿児島市は薩摩半島にあり、錦江湾の反対側には大隅半島が伸びている。娘が運転するクルマに私と妻は乗り、大隅半島の錦江町までドライブを楽しんだ。道の駅錦江にしきの里は海岸沿いに位置し、海をまたいだ対面には指宿がある。また、道の駅錦江にしきの里の前を走る道路を渡ると「神川ビーチ影絵の祭典」で有名な海岸がある。話によると、クオリティの高い影絵アートが夕陽に照らされる光景はまさに幻想的で、おすすめはサンセットの時間らしいが、生憎この場を訪れたのは昼過ぎだったので、せめて雰囲気だけでも味わって欲しいと思う。「ブラリ鹿児島」その13

  • 「ブラリ鹿児島」その12

    「ブラリ鹿児島」その12薩摩焼が展示されている場所を探しながら歩いていると、泉町にある五代友厚像に遭遇した。今年の大河ドラマ「青天を衝く」ではディーンフジオカが五代を演じることが発表されており、実物の五代もかなりのイケメンだったことがうかがえる。昭和36年(1961)に彫刻家の坂上政克さんにより制作された後、現在の場所に移設されたのは昭和56年(1981)。明治政府の海外への窓口として、重要ポストを歴任した実績もさることながら、政界から下野後、実業家として大阪経済を立て直し、現在の大阪の反映を築いた“切れ者”としてのキャラクターが色濃く出ている像というのが印象だ。市内には小松帯刀や篤姫の銅像があることを示す案内板あったものの、今回は訪れることができなかった。残念だが、観光が目的ではないので次回に譲ろうと思う。「ブラリ鹿児島」その12

  • 「ブラリ鹿児島」その11

    「ブラリ鹿児島」その11西郷隆盛終焉の地の前方には鶴丸城跡(鶴丸城御楼門)がある。昭和58(1983)年、明治百年(昭和41)年を記念してオープンしたもので、鹿児島県の歴史、民俗や考古、美術・工芸についても充実の展示内容を誇っているらしい。敷地は薩摩藩主が代々暮らした鶴丸城の本丸跡にあたり、現在でも濠や石垣などにその面影をみることができまる。「ブラリ鹿児島」その11

  • 「ブラリ鹿児島」その10

    「ブラリ鹿児島」その10西郷隆盛像のすぐ近くに照国神社がある。この神社は、島津家28代当主11代藩主で、鹿児島市の総氏神である島津斉彬公をお祀りしている。島津斉彬公(1809~1858)は、薩摩藩主として藩政の改革につとめ、国政でも活躍した。斉彬公は、西洋の事情や蘭学にも関心を示し、西洋の進んだ技術を取り入れ、製錬所や反射炉、溶鉱炉などの西洋式の工場を造った。さらに、人材の育成にも努め、そうした中で、西郷隆盛や大久保利通らが育っていったことはつとに有名である。こうした斉彬公の藩政及び幕政改革への様々な取り組みを財政面で支えたのは家老小松帯刀の活躍であり、彼の存在なくして討幕の大事業は成功できなかったというのが私の持論である。「ブラリ鹿児島」その10

  • 「ブラリ鹿児島」その9

    「ブラリ鹿児島」その9城山の麓には西郷隆盛像もあるが、西郷隆盛終焉の地を示す記念碑もある。明治10(1877)年9月24日未明、城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始し、薩軍は、敵陣目掛けて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を示しました。西郷隆盛は腰と太ももに銃弾を受け、別府晋介の介錯によって最後を遂げたと言われている。(満49歳)また、西郷が最後の5日間を過ごした洞窟もこの近くにあり、市内の至る処に西郷ゆかりの地を示す案内板が建っている。これらを見ると、西郷が今なお多くの鹿児島県民から尊敬され、そして愛されていることが良く分かる。「ブラリ鹿児島」その9

  • 「ブラリ鹿児島」その8

    「ブラリ鹿児島」その8鹿児島市内にある城山周辺を散策してみたい。まずは、西郷隆盛像から。鹿児島県観光サイトには、「江戸城無血開城や明治新政府樹立など明治維新に最大の功績を残した「西郷どん」ですが、突然職を辞めて鹿児島に帰郷。その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刃しました。没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけ製作し、昭和12年(1937年)5月23日に銅像が完成しました。わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8メートルの堂々たるモニュメントです。本体5.76m、土台1.21m、築山7.27m。」とある。私は、かれこれ30年は西郷隆盛がどのような人物であったかと思案し続けているが、未だに結論が出ない。大村益次郎は、「いず...「ブラリ鹿児島」その8

  • 「ブラリ鹿児島」その7

    「ブラリ鹿児島」その7鹿児島本線を南進すると、温泉で有名な指宿に至る。枕崎や開聞岳は、指宿よりも先に進んだところに位置している。昨年の11月には知覧に行ったことから、今日は指宿に行ってみようと妻と二人で列車に乗り込んだ。九州は至る処に有名な温泉地があり、無名な温泉地まで含めるとどれだけあるのか見当がつかない。そうした九州においても指宿は全国的にも有名な温泉地であり、指宿駅前は活気に溢れているのだろうと想像して列車を降りてみた。するとどうだろう、駅前から海に向かって真っすぐに伸びる商店街は閑古鳥が鳴くようで、シャッター街といっても差支えのない有様だった。これには正直驚き、過疎高齢化に起因するところの地方の衰退と疲弊の現実を突きつけられてショックだった。指宿温泉のホテル群がある場所は駅とは少し距離があったと思うが、...「ブラリ鹿児島」その7

  • 「ブラリ鹿児島」その6

    「ブラリ鹿児島」その6肥薩線は鹿児島県隼人から熊本県八代を結ぶJR線で、吉松駅を経由することになっているが、2020年7月の大水害のため熊本県の肥薩線では、鎌瀬-瀬戸石間の「球磨川第1橋梁」と、那良口-渡間の「第二球磨川橋梁」が流失したうえ、盛り土や線路地盤が流出するなど計65件の被害を確認したことから、現在、八代から吉松までが不通になっていると聞いた。私が、吉松~人吉一帯にこだわるのは、今から50年近く前に読んだ松本清張の「西郷札」の影響で、薩摩軍がこのルートを通って撤退したことに長い間関心を抱いていたからだ。吉松駅の待合室には、吉松~人吉間を走ったSLの写真が大きく飾られていた。一日も早い復旧を望みたいものである。「ブラリ鹿児島」その6

  • 「ブラリ鹿児島」その5

    「ブラリ鹿児島」その5隼人駅で日豊本線から肥薩線に乗り換え、霧島連峰を奥深く入っていくと霧島温泉駅がある。霧島温泉は、京都伏見の「寺田屋事件」で負傷した坂本龍馬が、妻おりょうと温泉療養のためにやってきたことで有名である。日本最初の新婚旅行としても有名で、二人は霧島神宮に参拝したり、霧島ツツジに感動したことなどが霧島温泉郷の随所で案内されている。「ブラリ鹿児島」その5

  • 「ブラリ鹿児島」その4

    「ブラリ鹿児島」その4鹿児島駅から日豊本線を東進すると「隼人駅」に到達する。列車がこの地域に入ると、あちらこちらに竹が生えているのが目に飛び込んできて、なるほど隼人と竹はつながっていたのだと実感した次第である。すだれ資料館のHPによると、「「隼人、竹細工・・・簾」古くより、南九州から畿内に移住してきた<隼人(はやと)>と呼ばれる人々がいました。<隼人>は、宮中で守護にあたるほかに、朝廷で用いる竹細工の役務がありました。竹細工の中には、簾も存在したと思われます。こうして宮中などで使用される簾は、神聖な室内装飾として登場したと推測されます。」とのことだ。こうしたことは、沖浦和光著「竹の民俗誌~日本文化の深層を探る~」(岩波新書)に詳しく書かれており、第4章には、3隼人は南方系海洋民、4ヤマト王朝・隼人・竹細工とある...「ブラリ鹿児島」その4

  • 「ブラリ鹿児島」その3

    「ブラリ鹿児島」その3西郷隆盛・従道生誕の地から市民広場の方に進んでいくと、大久保利通像がそびえ立っている。西郷隆盛、木戸孝允と並び明治維新の3傑と言われた大久保利通こそは、本物の政治家と呼ぶに相応しい人だ。昨今の日本の政治を大久保はどのように評価しているか、本人に聞いてみたいものである。果断の人、私は大久保をそのように評価している。決断すべきその時に決断をする、政治の基本であるこの果断を、昨今の政治は忖度とか協調とか称して逃げているとしか見えない。「ブラリ鹿児島」その3

  • 「ブラリ鹿児島」その2

    「ブラリ鹿児島」その2娘とは鹿児島中央駅で午後6時に待ち合わせていたので、駅周辺を散策してみることにした。目指すは本所松坂町なく、西郷隆盛・従道生誕の地である鹿児島市加治屋町だ。この加治屋町は、西郷兄弟だけでなく、大久保利通、大山巌、東郷平八郎らも輩出している。西郷隆盛・従道生誕の地には、このような碑が建立されていた。「ブラリ鹿児島」その2

  • 「ブラリ鹿児島」その1

    「ブラリ鹿児島」その12月に入って10日余り娘が暮らす鹿児島に妻と二人で出かけたので、絵日記風にご覧いただきたいと思う。地元の桑野駅で朝7時36分に特急に乗り込むと、岡山駅まで特急が接続している。岡山駅では新幹線さくら551号が接続していて、鹿児島中央駅に午後2時10分に到着する。さくら、何という心地よい響きのする新幹線であろうか。写真は、岡山駅に滑り込んでくる新幹線さくら551号である。「ブラリ鹿児島」その1

  • 「医療従事者に感謝の舞」

    「医療従事者に感謝の舞」本日2月2日付けの徳島新聞24面に、先般の中村園太夫座定期公演の様子が「医療従事者に感謝の舞」という見出しで紹介された。新聞記事を補足すると、私は恵比寿舞の口上の中で「本日ご参会の皆々様のご健勝とご多幸、あわせて新型コロナウイルス感染防止に努める全国の医療従事者、介護従事者、自治体職員のご尽力に感謝を申し上げ、一日も早く平穏な日々が訪れますことを祈念して恵比寿舞を舞い納めます。」という意味のことを申し上げた。台本はなく、その場で思いついた即興での向上であったので正確には覚えていないが、口上に込められた座員の想いは確かだ。徳島新聞のご配慮に感謝申し上げたい。ちなみに、写真左端に写っているのが私の勇姿である。「医療従事者に感謝の舞」

  • 「今日から陶芸します」

    「今日から陶芸します」今日から2月、昨日には中村園太夫座定期公演も無事に終わり、ゆったりとした落ち着いた気分で創作活動に励むとしよう。リクエストを受けている湯呑茶碗や、少し大きめのぐい呑みなんかを創ってみようと思う。私は手ロクロ成形一筋なので、どうすれば手ロクロ成形の良さを表現して作品を創れるのか、そんなことを試行錯誤しながら追求していきたいと思う。「今日から陶芸します」

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