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皿尾城の空の下
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https://blog.goo.ne.jp/hisaizuraiden
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98回 / 365日(平均1.9回/週)

ブログ村参加:2017/06/20

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皿尾城の空の下さん
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皿尾城の空の下

皿尾城の空の下さんの新着記事

1件〜30件

  • レジ袋はおつけしますか?

    コンビニやスーパーを始め小売り業界のレジ袋が有料化されて1か月。コンビニのレジ袋の辞退率は7割になるという。プラスチックゴミに占める割合の低さから、効果に疑問が持たれたり、特定業界にのみ負担を押し付けるいった悪評をよそに、日々の買い物に袋は有料になるというのが定着しつつある。やはり日本人は大人しく、我慢強いと思う。有料化の対象となるのは、おおよそ持ち手のある、ビニール袋であり、バイオマス原料の比率が25%以上有れば、除外される。一部大手スーパーでは、この袋を使って無料化を継続しており、環境面では屁理屈がまかり通るようだ。またコンビニでは、取手のないいわゆるポリティッシュ袋に入れてくれる店もある。確かに無料で袋にいるてもらえるが、なんとなくあまり気分の良いものではない。たかが普段の買い物とはいえ、変えていくべきも...レジ袋はおつけしますか?

  • 明けなかった梅雨空に

    七月も終わるというのに今年は梅雨明けしませんでした。今現在、激しい雨音を耳にしながらブログを書いています。しかもスマホで入力しています。というのも、長らく使っているパソコンの具合が悪く、作動してくれません。そうこうしているうちに時間ばかり過ぎてしまいました。そろそろ替え時でしょうか。明けなかった梅雨空に

  • 旧栗橋町 鹿島神社氷川神社

    加須市大利根方面から栗橋に入ると、青々とした水田地帯が広がっている。旧栗橋町西部の区域で大字を狐塚という。古くは田圃の神として狐を祀った塚があったことに由来するという。村内には高秀寺と泉福寺という二寺があり、後者が別当であったという。『風土記稿』高秀寺の項には「鐘楼延宝三年(1675)の鋳造の鐘を懸ける」とあり神社境内の池には寺の鐘が沈んでいたとの逸話が残っている。また参道わきには従軍碑が建っており、明治以降も当地が地域の信仰の中心であった事がうかがえる。鹿島神社と氷川神社が合祀されている経緯が、地域性を象徴するようでいかにも面白い。「風土記稿」においては氷川神社の記載はなく鹿島神社として載る。口碑によれば昔当地が下総国に属していたころ、一宮香取神宮を祀り、次に常陸国へ入植する過程で鹿島神社が祀られ、江戸期とな...旧栗橋町鹿島神社氷川神社

  • 加須市 南大桑 雷電神社

    か加須市大桑の地名は昔、筑波の門井村から移り住んだ大桑氏がこの地に勢力を得たことによる。その大桑氏も姓を出自かららとって門井姓に改めたという。古利根川流域の地域であることから、堤も築かれ現在でもその上に社殿が建っている。主祭神は別雷命で本殿に十一面観音像を安置している。板倉の雷電様から勧請したものであろうか。笹祭りの中心となるのが古くから伝わる獅子舞である。昭和三十五年に市無形文化財に指定されている。加須市北小浜の八幡神社、同多門寺愛宕神社に伝わるものと同じ流派であるという。ことに当地に伝わる獅子舞は動きが激しいため「暴れ獅子」と呼ばれる。現在使われている獅子頭は天保十四年から伝わるものだという。境内末社である愛宕社は、昔当地に火事が頻発したことから、防火の神として信仰の厚い、京都愛宕神社の護摩の灰を御神体とし...加須市南大桑雷電神社

  • 旧栗橋町 一言神社

    旧栗橋町は史跡静御前の墓が建つことで知られている。栗橋駅前にはその参道と静御前の伝承を伝える墓碑がすぐそばにあり、観光名所となっている。白拍子と呼ばれる美しい舞姫であった静御前が、その後平家追討で名を挙げた源義経の寵愛を受け、兄頼朝の迫害から逃れるため運命を共にしながら、奥州に逃れた義経の最後を聞きつけたのが近くの下総国下辺見付近(古河市)であったと伝わる。義経の菩提を弔うために京都に戻る途中、度重なる苦難に倒れたのがここ栗橋であったという。この静御前の物語は悲しくも人々の心を掴み、今日でもその墓石が残るほど有名になっているが、この静御前の墓石の近くに、もう一つの悲しい伝承が残る小さな神社がひっそりと佇んでいる。昔利根川の洪水に見舞われた際、水が引かず村人は困っていたが、そこへ通りがかった旅の母娘を人柱として神...旧栗橋町一言神社

  • お前の目は節穴か

    六年生になり、幾らか以前よりも机に向かう時間が多くなった。宿題よりも自学(自主学習)を一生懸命やっている(感じがする)。漢字と共に熟語を覚えるよう指導される。日一日と言葉の世界が広がっていく。『節穴』と書いていたので、節穴を見たことある?と聞いてみると、『ない』という。今時の子供は節穴なんて見たことないのだろ。小学校の頃、木造校舎の隅々に節穴が空いていた。当時体育館はなく、音楽室が集会場を兼ねていた。その床にたくさんの節穴が空いていた。見えるべきものを見落とす様を卑下してお前の目は節穴かなどと表現する。役に立たない穴のことだ。自宅床を見ても節穴どころか、節さえも見当たらない。木の材質も美しいものしか使われなくなっている。世の中が便利になって、ものも豊かになると、新しい価値にと共に新しい言葉も生まれる。新語流行語...お前の目は節穴か

  • 下須戸 八坂神社

    行田市中部東端に位置する下須戸は星川下流、見沼代用水の通る肥沃な田園地帯だ。旧国道125号沿い、その先は羽生市へとつながって行くが、市内に対になる「上須戸」の地名は見当たらない。新編武蔵風土記稿によれば、「上須戸」は幡羅郡にあり対となるという。現在の妻沼の地である。しかし上下一対の地名にしては距離的に無理があり、「須戸」とは「州門」であり即ち中州の先端を指すものと思われる。幸手市にも「須戸」の地名が残り、古くは利根川流域に散見した地名と考えられるが、河川の流れの変化により、地名も消滅する中で、この地の名は残たものだろう。口碑によれば、約七百年前、鎌倉幕府の迫害を受けた一人の僧が牛頭天王の象を奉じてこの地に住み着いたとされる。この者が旧別当真言宗天王院医王寺の開祖であるという。医王寺の寺鎮守として牛頭天王を祀った...下須戸八坂神社

  • 学校再開で感じたこと

    緊急事態宣言が明け、ようやく小中学校も再開されました。コロナウィルスの感染状況についてはまだまだ予断を許さない状況ではありますが、日常生活が少しづつ戻ることを願います。これまで経験したことのない事態(少なくとも今の世代において)ですので、「新しい生活様式」が提案されました。密を避ける、ソーシャルディスタンスを確保する、換気を徹底する、人との交わりを制限する、マスクの常時着用など、これまでとは景色の違う日常が始まったと言えるでしょう。学校生活においても、教育の格差の問題から9月入学の是非が議論されましたが、拙速な移行はできないとして少なくとも来年度までの実施はされないことが表明されました。「多くの外国では」「世界標準で言えば」といった議論の観点から制度を変えることにあまり意味はないようです。学校の再開は、親にとっ...学校再開で感じたこと

  • 11回忌

    父の11回忌を迎えました。10年過ぎると昔のことのように感じます。それだけ父亡きあと夢中で生きてきたのでしょうか。10年以上経った今でも、父の世代の人から、ありし日の父の話を聞きます。財は無くとも徳のある人だったと思います。苦労は絶えませんでしたが。11回忌

  • 杣殿分水堰(そまどのぶんすいせき)

    行田市持田から熊谷市に抜ける旧道は、忍川に沿って西へと走る道であるが、剣神社を過ぎ菅谷の八幡様を過ぎると昔ながらの田園風景が広がる。小敷田村から上之村に入る手前には、忍川の流れの起点となる杣殿分水堰が建っている。杣殿とは埼玉郡上之村の小字名で明治36年(1903)に県税の補助を受け成田村が建設したものだという。分水堰のある持田は行田市の西端に位置し熊谷市上之、戸出と隣接するが、建設当時の忍川はここで南北に分岐していたという。『新編埼玉県史』によれば元荒川流域は水量が元来少なく、そのため用水が不足する一方、星川、忍川などの支流は水位が低かったため支流の屈曲が甚だしく、支流の連結する見沼代用水は水位が高く、水量も多かったため行田市内における湛水地が多くみられたという。二大河川(荒川、利根川)に挟まれた忍の行田の治水...杣殿分水堰(そまどのぶんすいせき)

  • 初めてみたその笑顔に心を奪われて張り裂けそうな胸を抱えあなたへと走ったあの夏のサイレントナイト心に吹くすきま風がわたしを苦しめたでも今なら少しくらい力になれるかないつでも凛と生きる姿に近づきたい昨日よりも私を変えたあなたにあげたい言葉は「ありがとう」口にするのは恥ずかしいからこの歌で届けよう凛とは厳しくまっすぐな佇まいその様子のことなんとなく背筋が伸びまっすぐ遠くを見つめるイメージが湧く夏の終わりの歌だと思うが、初夏のまっすぐに伸びた緑の麦もその姿に凛としたものを感じてしまう。移り変わる空の色を何度も見届けて目を閉じれば思い出すよはしゃいだ散歩道をいつでも困らせてばかりの私だけどこのままずっと流れる星を見つけたら「永遠に」と祈りを捧げたいあなたの愛情なくしてはきっと生きられないよ私を変えたあなたにあげたい言葉は...凛

  • 加須市 下三俣 諏訪神社

    古来、利根川は羽生市の川俣より南に流れ、加須市に入って川幅を広げた。三俣の地名は「鬼島」「中島」「明智島」の三つの洲がその流れを分けていた場所であったからだという。市内を流れる合の川(旧利根川)は近現代の整備により穏やかな流れを見せるが、かつては乱流であったのであろう、市内の神社の多くががその社殿を高く積んでいるのは、川の氾濫から守るためであったと思われる。縁起によれば、天平十年(739)当地を行脚していた僧教蔵上人が三俣の船人より、鬼島に怪物が蔓延り、衆人を悩ますという話を聞きつけ、一人で島に渡り七日七夜念仏を唱えたという。すると夜中に一人の女が現れて教蔵上人に十念を乞い、上人が十念を授けるとたちまち百丈の白竜に姿を変え、消えてなくなったという。そこで白竜の首のあったところに龍蔵寺を建て雌の銀杏を植えた。また...加須市下三俣諏訪神社

  • 不動岡高校発祥の地

    埼玉県立不動岡高校は県内で最も長い歴史を誇る高校として知られているが、その発祥の地を記念して小さな公園が整備されている。高校の前の道を総願寺不動尊前を通り、500mほど離れた通り沿いに目立つことなく佇んでいる。昭和十一年創立五十周年を記念して建てられた創建の碑にはその由来が刻まれている。また、加須市指定史跡となったのは昭和六十年一月。創立百年を迎えた年のことだった。記念碑の撰文は國學院大學学長を務めた河野省三氏。明治十一年(1878)三月北埼玉郡不動岡村に小学校教員養成所として第十三番中学講習校を設置僅か弐年にして廃止。地方の有志甚だこれを惜しむ明治十三年(1880)四月私立會川中学校を創設明治十七年(1884)七月不動岡羽生中学校と改称明治十八年(1885)北埼玉郡立中学校と改称(成田中学を合併)校舎敷地設備...不動岡高校発祥の地

  • 蘇民将来と牛頭天王

    日本各地(特に西日本)においては蘇民将来と牛頭天王についての逸話が残っている。今般のウィルス蔓延に当たり、日本人が古くから疫病や災いに対して、どう向き合ってきたかを知る貴重な物語だ。昔々あるところに牛頭天王というひとがいました。そろそろお嫁さんを迎えたいと思っていたところ、鳩がやってきて「竜宮城へ行くとよい」と告げたといいます。竜宮城への旅の途中とまる宿を探していると、お金持ちの巨旦(ごたん)の家がありました。牛頭天王が「一晩泊めてください」と頼むと「うちは貧しいから泊められないよ」とうそをついて断られました。困った牛頭天王が歩いていくと蘇民将来という者の家に着きます。貧しいながらも心優しい蘇民は「汚れていますがどうぞお泊りください」と言って牛頭天王をもてなしました。次の日出発前に牛頭天王は泊めてもらったお礼に...蘇民将来と牛頭天王

  • I Remember

    誰からも愛される人がいつも羨ましくて何のためにここに生まれてきたんだと問いかけた日々消えない傷は胸の中で幾度となく目覚めてはあふれだすふり払うために私はこうして歌うの朽ちるまでIRemember悲しみの雨に打たれた夜は届かぬこの魂の歌泣きながら叫んだ自分の生き行く先を「死ぬまで」や「人生の終わり」と表現するより「朽ちるまで」といったところがとても印象的だった。歌い続けることは希望ではあるが、その先に自らが朽ちるとき、歌い続けることが叶わなくなる時、それが彼女の言う「朽ちるまで」なのだろうか目の前の愛をつかみ取れなくてから廻る日々いつからか自分を信じる心を持てなくなった一人ぼっちの臆病者は苛立つ歯痒い自分を愛せなくて言葉にならないもどかしい心が走り出したあの頃IRemember悲しみの雨が教えてくれた絶望を希望の...IRemember

  • 加須市不動岡 稲荷神社

    加須市不動岡は会の川(旧利根川)の左岸に位置する総願時の門前町。かつては岡村と称し、長暦三年(1040)利根川氾濫に際し不動様が流れ着いたことから不動岡と呼ばれるようななったという。口碑によれば、宇喜多秀家の家臣家臣であった岡家が関ケ原の戦いに敗れて当地に住み着き、岡家の守護神であった稲荷社を祀ったことを創始とする。但し明治四年の「稲荷社合祀記念碑」によれば創立年代はこれより遡り、不動岡の鎮守として稲荷社を上、中、下で祀り、明治期になってから三社を中の稲荷社に合祀したとも伝わる。神仏分離以前は別当として総願時が務めたという。御祭神は宇迦之御魂命。本殿には稲荷大明神象を安置し、天保四年の本殿建立棟札も残るという。乱流として名高い会の川沿いに鎮座するためか、現在も社殿は小高い塚の上に築かれていて、社殿裏には高校の校...加須市不動岡稲荷神社

  • 桶川市 川田谷(岡村) 氷川神社

    桶川市川田谷は荒川左岸の自然堤防上に位置する村で、南北朝期から見える「河田郷」にあたると考えられている。河田谷とは川の端の地であることに由来する。早くから開けた土地であったが、元禄七年(1694)の「桶川町助郷帳」では上下の河田谷に分村し、化政期(1804-30)には全体で五〇〇戸ほどに達したという。当社は下川田屋の鎮守にあたり、創建時期は不明であるが内陣に寛文八年(1668)の宗源宣旨が現存しており、江戸期の始めには正一位の神階を授かっていたことが分かる。また参道の燈篭は文政元年のものが残っており、江戸期における祭事の盛んなことが見て取れる。御一新により社格は無各社となったが、地域の信仰厚く昇格の申請が認められ、昭和四年には村社となっている。このころに境内社として八幡宮を合祀している。秋の大祭においては「三田...桶川市川田谷(岡村)氷川神社

  • 四馬の譬え

    新聞紙上に毎日の新型コロナウィルスよる感染者数と死者数が載るようになって久しい。しばらく前までは他国の出来事であったものがあっという間に自国の数計となり、日々不安と隣り合わせの毎日である。人の死を数で表すことに慣れてしまうと、本当の自分の死に向き合うことの意味を見失ってしまう。一年前の今日、お世話になった先輩がお亡くなりになった。とても急なことでただただ驚きと悲しみに暮れていた。本日一年忌の法要が営まれるはずであったが、今般の状況を考慮し、施主様のご判断で延期されることになった。お釈迦様はその教えの中で人の死について四頭の馬に例えて説いているという。仏比丘尼告げたまはく、四種の馬有一つには鞭影を見て即驚束して、御者の意に随う二つには毛に触るれば、即ち驚束して御者の意に随う三つには肉に触れて然してのち、即ち驚く四...四馬の譬え

  • 上尾市瓦葺 尾山台遺跡

    JR東北線東大宮駅から北に1㎞ほどのところにある尾山台団地は日本住宅公団の集合住宅。埼玉千葉を結ぶ国道16号瓦葺交差点から大宮側に500m入った場所にある。高度成長期に開発された大型団地であるが、かつて古くは古墳時代の始めごろにも多くの人々が暮らしていたという。尾山台遺跡である。昭和四十年尾山台団地の建設に伴い発掘調査が行われ、弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての住居跡が約60軒見つかり大規模な集落跡であったことが判明している。当時一つの遺跡から60軒以上の住居跡がまとまって発見されたのは初めてであり、調査が進むと更に縄文期から弥生、古墳、奈良平安時代それぞれの住居跡や遺物も確認されたという。住居の一辺は3~7mで柱穴は四か所設けられ、その中の多くに炉跡が見られる。かまどができる前の時代のことで、土器は煮炊き...上尾市瓦葺尾山台遺跡

  • 上尾市 瓦葺氷川神社

    瓦葺という地名は河原が転じて『瓦』、『葺』とはフケ即ち深田、低湿地を表しているという。今では住宅地の密集するところだが、古くは一面沼地であった。河は近くを流れる綾瀬川を指している。江戸との間を綾瀬川や見沼用水を使って江戸へと荷を運んでいた風景が浮かび上がる。瓦葺はもとは一村であったが天保から元禄にかけて(1644-1704)にかけて上、下、元瓦葺の三ヶ村に分かれたという。この氷川神社は上瓦葺の鎮守として祀られたという。創建については『郡村誌』によれば「永正三年(1506)武蔵国一宮を遷す」とされる。境内地周辺は一面の畑で祭礼日には神社の幟が岩槻から見えたという。確かに近辺は尾山台という大地であり、田園よりも畑が多く、城下町岩槻から一里ほどの場所にある。昭和五十五年に本殿の修復、境内地の整備が進められ、昭和六十年...上尾市瓦葺氷川神社

  • 幸手権現堂 順礼の碑

    幸手市権現堂堤は桜の名所として知られるが、その歴史は江戸時代天正年間に利根川の支流である権現堂川の堤防として築かれたものだという。かつては6kmに渡って約3000本の桜を誇り、大正期にはすでに桜の名所として賑わっていた。明治九年(1876)には明治天皇が東北行幸に際に立ち寄られたことから行幸堤とも呼ばれるようになった。権現堂川は利根川の流路変更に伴い明治の終わりには締め切られ廃川となりそのため堤防は荒れ果て植えられていた桜も戦後の混乱や薪燃料のため多くが伐採されてしまった歴史があるという。昭和二十四年(1949)以降旧権現堂川堤防の内、中川の堤防として残ったところにソメイヨシノを植樹したものが現在の権現堂桜堤であるという。平成二十年(2008)には埼玉県営権現堂公園として整備されているが、その公園の中には権現堂...幸手権現堂順礼の碑

  • 幸手市 熊野神社

    -桜の名所と知られる幸手市権現堂。その地目の由来は、「村内に熊野、若宮、白山の権現を合祀した旧社あれば此村名起れりと云」と風土記稿に記載がある。創建は天正年間(1573-92)の頃である。この地に甚大な被害をもたらした淳和二年(1802)の大水により村内の歴史を伝える記録がことごとく流出してしまったため、創建時の祭祀状況は不明であるが、大規模な社であったことは風土記稿にも伝わり、「熊野若宮白山大権現、村の鎮守也、この社古大社にて、村名の起こりと云も権現三社也」とある。文政八年(1825)に社殿が再興され、翌年に熊野三神(素戔嗚、伊邪那岐、伊邪那美)を表す神像が奉納されている。熊野三神は神仏習合により熊野三社権現とも呼び、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音とも考えられてきた。鎌倉以降になると熊野御師、熊野比丘...幸手市熊野神社

  • お変わりありませんか。

    「こんにちは」「暫くぶりです」「お元気ですか」少し時を隔てて人に会う際、どんな言葉を掛けるとより気持ちが相手に伝わりますか。日々の挨拶が大切だと説く人は多いと思いますが、不定期に会う人とのつながりにその人への思いが良く伝わる一言があります。~お変わりありませんか~半年に一度通う歯科医の先生がかけてくれる言葉です。健康な体には自身に治癒能力があり、栄養、睡眠、適度な運動などでその能力は維持できる。でも口内環境による歯垢の蓄積は自身で除去するには限界があり、それによって歯肉や歯周病は進行してしまうので、定期的に歯科医の検診を受けることは健康的な社会生活を送るのには必須のことだと指導されてきました。痛みが出てからでは遅い。いつも先生はそうおっしゃいます。かかりつけの歯科医の先生は診察や治療の際はどちらかというと厳しめ...お変わりありませんか。

  • 生垣と紅カナメモチ

    生垣に用いられるバラ科の常緑樹カナメモチ。ホームセンターなどに置かれている苗木はレッドロビンと呼ばれカナメモチとオオカナメモチの配合種で特に新芽の赤色が鮮やかなことから「紅カナメモチ」とも呼ばれている。桜と前後するように今の時期紅色の鮮やかな新芽が美しい。カナメモチとは扇の要に用いられ、「モチノキ」に似ていることから「要黐」と名付けられたという。春には小さな白い花を咲かせる。清少納言は「枕草子」の中でこの花をそばの花に見立てて「ソバノ木」と呼んだそうだ。だからモチノキのことを今でもソバノ木とも呼ぶことがあるらしい。カナメモチの花言葉は「賑やか」。新緑が鮮やかな赤色をしていることからついたという。時間をかけて緑に変色していく姿がまた趣が深い。土地の境界を隔てるのには塀や石垣よりも生垣がいい。剪定に手間もかかり煩わ...生垣と紅カナメモチ

  • ひとりの入学式に

    東京はじめ各地に緊急事態宣言が発令される中、週半ばには地元小中学校の入学式始業式を迎えました。三月当初に政治判断で学校が休みとなり一か月以上経ちますが、感染拡大の流れは断ち切れず、年度初めの学校行事も例年通りに行うこともかなわず、縮小の上入学式の後すぐにまた先の見えない休みに入っています。入学式に当たり新入生の気持ちはどうだったのでしょうか。例年の入学式でも希望と共に多少の不安を抱えて新たな門出を迎えるものですが、今年に限って言えばいっそう不安な時間を過ごしているでしょう。少しでも早く疫病が収束し、普段の社会生活が取り戻されることを願っています。今年の小中学の入学式では感染防止も踏まえて保護者についても1名までの参加に限るとされたようです。子供の成長の節目に立ち会えない親が多数出ることになってしまったことは残念...ひとりの入学式に

  • 間違いは誰にでもあるけれど

    年度末を迎えたの30日の晩、一本の電話が鳴った。小学校の担任の先生からだった。電話での定形の挨拶を済ますと、用件は明日31日に自宅へ訪問したいとのこと。生憎夫婦それぞれ仕事のため、子供本人しかおらずそれでも良いので伺いたいたいとのことだった。用件を聞くと、通知表の一部に間違いがあるので差し替えたいとのことだ。評価について何が間違いだったのか気になり恐る恐る聞いてみると、意外にも学校名が間違えているとのこと。三学期の通知表は学年の修了証書であり、校長名でその旨記入がある。校長印も押印されている。昔であれば個人名は筆で手書きであった。その学校名が間違っていた。市内の別の中学の名前が書かれていた。驚きと同時に残念に思った。間違えた学校の先生にも、間違いに気づくことのなかった自分にも。ファイルになった通知表はパソコンの...間違いは誰にでもあるけれど

  • 城址の風~令和二年桜紀行

    例年より早く桜満開の季節を迎えました。令和の時代となって初めての桜の季節がかように情勢不安となることとは思いもよりませんでしたが、花は何事もないように咲き誇っています。自粛要請、正念場、不要不急といった言葉も花の美しさ儚さの前にかすんでしまうように思います。ですが今起こっていることが数年後歴史的事態と語られるのは間違いない事で、人として今すべきことは何かを考えなければならないと思います。市民大学同窓会「城址の風」として少ないながらも活動を続けてきましたが、今春の状況を鑑み皆で集まることを文字通り自粛しています。親しい仲間と花を愛でることを楽しみにしておりましたので、残念ではありますが個々の花見の写真をLINEで共有し交流を図っています。年齢を重ねてもこうしたSNSでの情報共有は楽しいものです。さくらを眺める猫の...城址の風~令和二年桜紀行

  • 夜桜お七 其のニ

    1994年平成6年発売の坂本冬美「夜桜お七」は自己主張する現代の女性像を八百屋お七になぞらえた名曲。江戸時代の浮世草子である井原西鶴の「好色五人女」の中にある「恋草からげし八百屋物語」に登場する八百屋の娘お七をモデルにしている。「好色五人女」は五組の男女の悲劇的な恋愛事件を題材とした中編小説。天和二年(1683)に起きた江戸の大火事(天和の大火)に酔って本郷に住む八百屋八兵衛一家は焼出され、駒込吉祥寺へと避難した。避難生活の中で娘のお七は、寺小姓小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやったことが縁で恋仲となっていく。時がたって契りを結ぶが、寺から出ていったお七と吉三郎はなかなか会えずにいた。思いつめたお七は家がまた火事となれば吉三郎のいる寺へと戻れると思いあろうことか家を放火してしまう。近所の人によって火事はボ...夜桜お七其のニ

  • 夜桜お七 其の一

    桜の開花を迎え、至る所で桜ソングが流れている。2000年代頃から桜を題材にした楽曲が盛んに創作され、ジャンルを問わず多くの支持をあつめ、社会現象となったという。福山雅治の「桜坂」が発売されたのは2000年4月のこと。ところでそれよりもずっと前にある演歌歌手が夜桜を歌った名曲を発表したのは1994年平成6年9月のこと。第36回日本レコード大賞優秀賞に選ばれ何度もNHK紅白でも歌われてきた。坂本冬美の「夜桜お七」。昨年令和の御代を迎える前に平成の名曲集として、社内で盛んに流れていた曲だ。あるフレーズがずっと心に残っている。自己主張の強い女性像をある歴史人物になぞらえているという。赤い鼻緒がぷつりと切れたすげてくれる手ありゃしない置いて堀を蹴飛ばして駆け出す指に血がにじむさくらさくらいつまでたっても来ぬ人と死んだ人と...夜桜お七其の一

  • 泉蔵院と竹内露白

    皿尾村にある泉蔵院は真言宗智山派の寺院で無量寿山阿弥陀寺と号す。創建に関する資料はないが、遍照院門徒として江戸初期には創建されたと考えられている。社家である我が家の菩提寺でもある。古くから農村部として開けた皿尾村であるが、忍の沼尻に接し、治水に悩む土地柄であった。水を引く、排すともに苦労してきた歴史がある。明治期になると他地域に先駆けて煉瓦水門を設置し灌漑に利用してきたという。村の北側から外張堰、松原堰、堂前堰といった。泉蔵院墓地内に現在も堂前堰が残っている。忍川皿尾橋から百間ほどの所で、今でも台風などの大水の際はここ堂前までは水に浸ることがある。字名も「堂前」として残る。社家である我が家の墓所には榊を植え、彼岸の折にはその葉を供えている。皿尾村には御一新とまるまで村役割名主がいたという。竹内家といったそうだ。...泉蔵院と竹内露白

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