令和七年蓮植もいよいよ最後となりました。弥生祈年祭の折、小見の真観寺さまからわけていただいた蓮の一部を植えきれず、発泡スチロールで保管しておりましたが、今日ようやく鉢に植え替えることができました。しばらくぶりの泥づくりはなんとなく懐かしく、黒土、培養土、田の土の割合を考えながら丁寧に植え込みます。三月に泥替えした蓮はそれぞれ育成も良く、浮き葉から立ち葉へと移行しています。いよいよ夏日が続く陽気となり、まさに蓮の季節を迎えようとしています。蓮日記5月21日
令和六年の桜の開花は予想から遅れること十日以上、近年では珍しい4月に入ってからとなりました。桜の花頃が蓮の植え時と言います。田んぼの土を用いて境内にて蓮花根を定植しました。今年も行田蓮大使木暮照子先生から蓮根を奉納いただいております。ご主人様の木暮桂先生(生物学博士)から昨年蓮植えの基礎を直接ご指導いただいたことから、今年は神社前の田んぼの泥を用いて自力で蓮植えを行いました。蓮文化研究会のテキストに沿って土の量を計り、手水舎の水を加えて粘土状にします。昨年いただいた元肥と追肥がありますので、鉢の総量に沿って添加します。今年で三年目となりますので、おおよその感覚は身に着いたように思います。桜の咲く頃が蓮の植え時。そう教えていただきました。美しい桜の風景を眺めながら、夏の蓮の美しさをイメージします。皿尾城碑脇...令和六年蓮花根植え付け
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令和七年蓮植もいよいよ最後となりました。弥生祈年祭の折、小見の真観寺さまからわけていただいた蓮の一部を植えきれず、発泡スチロールで保管しておりましたが、今日ようやく鉢に植え替えることができました。しばらくぶりの泥づくりはなんとなく懐かしく、黒土、培養土、田の土の割合を考えながら丁寧に植え込みます。三月に泥替えした蓮はそれぞれ育成も良く、浮き葉から立ち葉へと移行しています。いよいよ夏日が続く陽気となり、まさに蓮の季節を迎えようとしています。蓮日記5月21日
旧大里村玉作の地名は古代勾玉や管珠が製作された場所で、近くには船木遺跡からの出土品として見られる。往古玉造部が住んでいたと考えられており、近くを流れる荒川支流和田吉野川の治水に苦心してきた。現在玉作水門が建てられその治水の役を果たしているが、荒川流域の氾濫は古くから地域を悩ませていて、この八幡神社の社殿も水害を避けるために水塚の上に建てられている。『郡村誌』の記述によれば往古は「玉作神社」と記されていて古代の玉造部が信奉した神社ではないかと思われる。玉造神社から八幡神社へと改称した時期や理由は明らかではないが地内にある玉泉寺は源頼朝の弟、源範頼が創建した慈眼院を再興したものとの伝承があることから源氏の台頭にともなって八幡神社となったものと推測される。御祭神の誉田別命は戦の神とされ、戦時下では出兵兵士の武運...旧大里村玉作八幡神社
日本海側の大雪のニュースが伝えられていますが、最強寒波と呼ばれる低気圧もやや弱まり、雪解けの気温となるようです。暦の上では今年は二月三日が立春でした。四年ほど前に125年ぶりの春節分が2月2日になって以来、今後は春の節分が二日になったり三日になったりするようですね。旧暦では立春に近い新月の日を元日としていたそうです。寒が明けて少しづつ春の兆しが見え始め、一年のスタートにふさわしい季節です。立春の日にその年の恵方(今年は西南西)の井戸から汲んだ水は「若水」と呼ばれ一年の邪気を祓う神聖な水と信じられてきたそうです。のちに元旦早朝の組み水になり、神棚にお供えして飲食に使う風習が残されるようになりました。今では恵方といえば太巻き寿司ですが、巻きずしを食す風習はそれほど古いものではないようです。商魂はなはだしいとこ...一節気立春
花手水のきれいな本丸郵便局まできました。忍城の本丸が地名となって、郵便局までその名がついています。我が家から一番近い郵便局で私も子供の頃から利用しています。郵便局の前の道は忍中学校の通学路で、子供たちも毎日この局の前を歩いて学校まで通いました。私が中学生の頃は浮城通り(旧国道125号沿いにあって、東照宮と横並びだったことをよく覚えています。駐車場の確保のため、二十年ほど前に移転したと思います。(30年前かもしれません)年賀状仕舞いをする方が増えましたが、私は手紙文化が好き。ですのでできる限り年賀状出したいと思っています。今年のお年玉は切手シート4枚でした。いただいた年賀状が60枚ほどですので、高確率で当選しています。本丸の名もいつしか忘れられてしまうかもしれません。民営化以降郵便局もその役割を他業者に侵食...本丸郵便局にて
浅く見える川でも深い川だと思って慎重にわたりなさい。注意深く行動しなさいとの教え。『石橋を叩いてわたる』の方がよく知られているようですが、冒険家の星野道夫氏が大事にしていた言葉だそうです。簡単そうになことでも油断せず気を引き締めて行動せよということでしょうか。星野道夫さんは1952年生まれの写真家、冒険家。慶応大学卒在学中から探検部で活動。世界各地を旅し写真や紀行文を執筆している。1996年TBSテレビ『どうぶつ奇想天外』での取材中ロシアのカムチャッカ半島滞在中テントで熊に襲われなくなっている。享年43歳。多くの写真集や随筆を残している。浅き川も深く渡れ凡事徹底に通じる時代を越えた素晴らしい言葉だと感じています。浅き川も深く渡れ
当社には明治の合祀政策によって三社の末社か境内に勧請されている。生駒、神明、天神の三社。それより以前に稲荷、風神の二社がその上座に摂社として祀られている。恐らく稲荷社は江戸期から、風神社については農耕祭祀として嵐よけを古くから行っていたことによるものと思われる。末社の社殿の中に荒木地区から近衛歩兵の額が奉納されており、戦中の混乱期には多くの人が戦勝や帰還を祈願したことがうかがえる。神社の数として最も多い八幡社が境内にないのは、実は地区内に合祀されず、個人のお宅で管理する八幡神社があるからだ。代々続く名家で明治期の合祀政策の際にも個人で社地を守ったことが伝えられる。また火伏せの神愛宕神社は境内地ではなく、社家である私の家に勧請されている。御幣の裏書には昭和六年の揮毫と祖父の名前が記されていて、本殿の上棟年と...境内末社に愛宕神社がない理由
令和七年を迎えて初めていつもの散歩道を歩きます。仕事で歩くことが多いためか、休みの日に定期的に歩く週間がつきません。(体調がよく気が向けば歩く感じ)寒中の時候ではありますが、寒さを感じません。影の長さだけが季節を映します。忍川の鴨も元気そうに泳いでいました。皿尾城南口は赤城山の絶景スポットで、自分の中で『赤城山スポット』と呼んでいます。今日は成人の日。元服の儀が行われたことに由来します。いつの間にか月曜日となってしまいましたが、多くの(実際には少ない)新成人の皆さんの前途を祝し、これまで育て上げられたご家族の皆さまにお祝い申し上げます。初散歩と成人の日
知者は惑わず勇者は慴れずは『論語』に記された孔子の言葉道理に通じた人は物事をなすに当たって迷いなく判断できる。勇気のある人はどのような事態にも臆することはないとの教え。孔子自信が君子像を簡潔に表したものと伝わります。知識と行動力は背あわせ、または車輪の両輪のように、あわせ持つことでことが進むことを伝えているのでしょうか。知者は惑わず勇者は畏れず
本殿前の御神木は平成四年頃に植えていただいた榧の木です。当時高校生だった私は枯れてしまった先代のご神木である春日杉のことも覚えています。令和となった現在の姿を当時思い知ることはできませんでした。千里の道も一歩からは『老子』から生じたことわざで中国語で千里之行始于足下と書きます。一里は約400メートル。400㎞の長い道のりもまず最初の一歩から始まるといふことになります。老子の中の文によれば大木も毛先ほどの芽から成長し、千里の道も一歩より始まるとあるそうです。元々は大きなトラブルも最初の段階では対処しやすいとの意味合いだったそうですが、いつしか前向きな事業の始まりのことを指すようになりました。365日の積み重ねも正月の過ごし方から始まると思い今こうしてブログに向かっている次第です。正月向けの拝殿飾りも師走の中...千里の行も一歩より起こる
令和七年年頭に当たり皇室の弥栄と国家の繁栄、皆様の御多幸を心より祈念申し上げます。こうしたブログを通じて過疎地の神社のあり方や、氏子との関わり、祭祀や普段の生活を記すことにより、後々まで自分の生きた証を残せるよう丁寧に続けていきたいと思います。稚拙な文体でお恥ずかしい限りではありますが、引き続きお付き合いくだされば嬉しく思います。皆様に皿尾の大神さまの御神徳が授かりますこと祈念いたします。令和七年元日久伊豆大雷神社宮司令和七年年頭のご挨拶
病院も含めて医療機関の多くが予約制度をとっている。これだけ高齢化が進み医療需要が高まってきているのだから当然だろう。医療提供側も運営に支障がないように、受付時間内に対応できる人数を調整しなければ窓口自体がパンクする。原状ネットではなく、電話予約が一般的だ。ただし患者側からすると繋がらなかった時の不安感は大きい。今月始めから咳が出続けて3週間。左胸も痛みだしていよいよ仕事にならない状況となって、昨日呼吸器内科の先生の検査の予約が取れた。予約時間に来院すると待ち時間の目安もでている。ただし検査待ちの時間には待合室は半分以外に減っているのを見ると、患者の心理もなんとなく理解できる。早く楽になりたいやはり身体の辛さからは早く逃れたいのだ。いずれにせよ身は滅ぶのが道理。終着地を見つめひとつひとつことを進めていかなけ...師走の医療機関から
十月も半ばを迎え、秋めいた日が続くと思えば気温が上がって夏日に戻ることも珍しくない。もはや四季の移り変わりはこれまでと同じ感覚で感じることはなくなるのかもしれない。まして今年は夏以降雨が多く、草と垣根の紅カナメの伸びが例年より早く感じる。刈れども刈れども延び放題だ。鳥居回りと参道の垣根を刈り込むだけで半日かかっている。真夏日が続く日ではとてもできない作業だ。これが刈り込み前これで刈り込み後。生け垣よりも石塀にすればどれ程楽になるかと思ったこともあるが、今ではこうした境内整備こそが生き甲斐となっているのだから年を重ねるとは面白いものだと思う。周辺の田んぼの稲刈りも進んでいる。秋の間に年末年始の準備を始めなければならないと少し焦っている。城内整備は続く
台風の影響もあって今年は雨が多い。TVの情報によれば東京の8月までの降水量は年間平均降水量を既に超えるそうだ。高温多湿になると人の動きは鈍るが草の伸びは早い。境内地、特に社殿西側の土地は昔水路だったこともあり、気がつくと草丈も膝上を超えてしまう。こうなると除草剤だけでは間に合わず、一旦刈払い機を入れて短くしてから薬剤を撒いている。都会の神社でコンクリートで固めた敷地が羨ましく思う。参道の土の部分もあっといふ間に草だらけとなり、除草の手間が常にかかる。一方で時期遅れに撒いた朝顔の花が綺麗に咲いている。ここ5年ほど境内と自宅を別ける垣根に朝顔の種を撒いている。朝顔に釣瓶とられてもらい水手水舎周りに蓮を生けてからというもの、こうした自然の中にある水のありがたさを一層感じるようになった。どんなに科学技術が発達し身...草刈りの極意
九月に入り北埼玉でも稲穂が実りつつある。すでに北川辺周辺では収穫を終え、検査も始まって近々流通するようになると伝え聞いている。そうは言うものの多くの消費者が頼る大手食品スーパーの米売り場に米が並ばない状況が続いている。並んだとしても一度供給不足になっていると、即売してしまい常に売り場が空になってしまう。東日本大震災のあと特定商品が品切してしまったり、地震のあとペットボトルの水が品切してしまうのと同じ状況だ。国民の主食である米が流通不足になりながら『新米が出ると解消されるのお待ちください』とはよくいったものだと思う。これほど国民生活の脆弱な一面を感じることはそうはない。資本主義である以上、いかなる商品でも価格メカニズムが働いて、『価格』が決まる。いわゆる需要と供給のバランスで社会全体が成り立っているというこ...米騒動に見る価値と使用価値
先日長男の通う高校からメールが入り、学生証が警察に届けられているの取りにいくようにとのことでした。聞くと通学途中に落として気づかなかったそうです。実は今回二回目。中学校の学生証もおとしたことがあり、その時もここ熊谷警察署にから受け取っています。昼時の休憩時間にもかかわらず対応していただき申し訳なく思いましたが、12時過ぎの警察署内はさすがに閑散としていました。私たち以外にも一組落とし物の受け取りにきていました。一般的に日本では拾得物の返還率が非常に高いと言います。財布、携帯電話、などの資産価値のあるものほど実は高いようです。そこには困った時はお互い様という日本の伝統的価値観が反映されているといいます。一方で被災地の空き家に窃盗が入るなど、実際には日本人の道徳が高いとは言えない側面もあるようです。拾得物に関...落とし物が戻ってきて
ご縁あって現在群馬県大泉町まで通勤していますが、途中武蔵大橋(利根大堰)を渡ってしばらく通るのが群馬県千代田町。本日8月18日は千代田の祭り川せがきが開催されています。19時過ぎから灯籠流しと読経が行われますが、行事の由来は明治初期まで遡ります。赤岩村(現在の千代田町赤岩)の『かぶとや』という豆腐屋に倉吉という誠実な男が働いていましたが、利根川に投網打ちにいった時、誤って利根川に落ちて水死してしまいました。明治十年八月十八日のことでした。この知らせを聞いた『かぶとや』の主人は早速赤岩の光恩寺の住職と相談し倉吉の霊を弔うため河瀬で供養したそうです。これが川せがきの始まりと伝わります(川せがき案内より引用)近くで勤務していることからとても興味があり、今年はぜひ赤岩の渡しまでいって見ようと決めていました。お陰で...千代田の祭り川せがき
2024年7月5日勤務している会社の海外視察ツアーとしてアメリカニューヨークへ渡りました。期間はわずか3日間ですが、30年ぶりに海外へ渡航することができとてもうれしく思います。これまで1995年に大学のゼミの研修でグアムへ4日間。1998年5月に若気の至りで韓国ソウルへ気まま旅をしたのみですので、ほぼ日本という国を離れた経験がありません。特に韓国旅行時はウォンが暴落していた時期で、勢いで航空券だけとってあとは現地で何とかなるというような気持で渡りました。当時目的があったわけではありません。(グアムはゼミの研修で現地警察署などを教授が案内してくれました)今回アメリカ流通視察ということで、日本円の価値がかなり下がっている中でもアメリカニューヨーク周辺のスーパー中心に多くの施設を見るチャンスということでかなり前...フェンスの向こうの星条旗①海を渡った理由
咲いては散り、葉を広げ蓮の花が先続けています。五日ほど日本を離れましたが、その間も生命力を増続けていた感じです。大きな葉が滴を受け止めながら洋々とその姿を広げる様子は見るものにいきる力を与えてくれます。太白連は花びらを散らせました。その姿もまた美しさを感じさせます蓮盛り
心を病む最大の原因は『考えすぎ』心を病んでいる人は単純なことも複雑に考えている自覚がなくてずっと難しく考えている。いくら考えたところで結果はさほど変わらないので考えるのやめた方がいい。人は考える葦であるとも言うけれど、大概考えることで気持ちが落ち込むことの方が多い。時間が解決することもあれば、解決ぜずとも問題が問題でなくなることも少なくない。行動の伴わない熟慮はしないことに越したことはない。心を病む最大の原因は
令和六年水無月蓮日記。早いもので今年も折り返しの時期となりました。明日は水無月大祓です。新年を前にした師走の大祓よりも、年の途中夏を目前にした水無月大祓のほうを大事にする風習かあります。今年も蓮根を奉納していただき、現在蓮華の開花を迎えています。鉢に植えきらなかった肖英(肖には人偏がつきます)は休耕田の池に植えたところきれいな花を咲かせてくれました。水無月の間に御神前の小舞妃蓮と手水舎の太白蓮が咲いています。花の開花はわずか四日と儚いものですが、参拝にいらした人の癒しになっていると思います。蓮の季節を迎えて、立ち葉が青々と広がり日々花咲く朝を楽しみにしています。2024/06/29
令和六年度忍小学校放課後わくわく学童くらぶに参加しました。一昨年に運営補助員に誘われ、月に2度の開催に参加していますが、なかなか都合が合わず、6月になって初めて参加できた次第です。梅雨入り前ですが、児童玄関には傘がきれいに並んでいます。毎月の学校活動の目標です。落ち着いた生活をする。梅雨時期らしいテーマです。6月の活動内容は絵手紙でした。デジタルツール全盛の中で、葉書などに手紙を書く機会が少なくなっています。実際に色鉛筆でかたつむりに色をつけ、書き足していくと筆も進みます。自分自身こうしてスマホやパソコンに入力ばかりで、実際にペンをもつ機会が減っていることがわかります。(反省を込めて)わくわくクラブの時間が終われば、正規の学童へ引率しています。今年度から指導員としてきていらっしゃる松本先生は私の中学一年の...希望の花が咲くように
閏戸は蓮田台地の中央に位置し、西は綾瀬川隔てて伊奈町、東は元荒川を隔てて白岡町に接する。閏戸とは「潤う土」から転じたと考えられ、古来水に恵まれた地域であったとこが伺える。元禄十一年(1698)閏戸は上・中・下に分かれ上では愛宕社、中にてこの久伊豆社、下では伊夜彦社を祀るようになっている。風土記稿中閏戸村の稿によれば「久伊豆神社二社村内の鎮守也、中古騎西町に立つ久伊豆社を勧請せしと云う」と載るように境内にはかつて二社の久伊豆社が祀られたことになっている。一社は「西宮」と称し見沼用水を背に鎮座し、「東の宮」は現在の国道122号線を挟んで向き合うように鎮座していたという。現在のお社は西宮が残ったもので、往時は真言宗福正寺が隣接して別当であったとされる。現在その別当福正寺はなく、蓮田北小学校となっている。明治七年...蓮田市閏戸久伊豆神社
立夏が過ぎて一週間、梅雨入り前の過ごしやすい季節となりました。「暑くもなく寒くもなく」といふところでしょうか。籾蒔き後の苗箱の風除けがあちこちで見られます。麦畑の色もところにより濃淡に差があります。もう少しすれば金色の景色が広がりそうです。畔に咲く野花の向こうに赤城山が見えます。昭和天皇のお言葉によれば、雑草といふ草はなく、全ての野花にもそれぞれに名前があり、凛として生きる手本とすべきなのでしょう。蓮の葉も逞しく広がりつつあります。毎日の生育の様を目にしながら、生きとし生けるものの魂を感じざるを得ません。日々の穏やかな暮らしに感謝するばかりです。早朝散歩と蓮日記
令和六年の桜の開花は予想から遅れること十日以上、近年では珍しい4月に入ってからとなりました。桜の花頃が蓮の植え時と言います。田んぼの土を用いて境内にて蓮花根を定植しました。今年も行田蓮大使木暮照子先生から蓮根を奉納いただいております。ご主人様の木暮桂先生(生物学博士)から昨年蓮植えの基礎を直接ご指導いただいたことから、今年は神社前の田んぼの泥を用いて自力で蓮植えを行いました。蓮文化研究会のテキストに沿って土の量を計り、手水舎の水を加えて粘土状にします。昨年いただいた元肥と追肥がありますので、鉢の総量に沿って添加します。今年で三年目となりますので、おおよその感覚は身に着いたように思います。桜の咲く頃が蓮の植え時。そう教えていただきました。美しい桜の風景を眺めながら、夏の蓮の美しさをイメージします。皿尾城碑脇...令和六年蓮花根植え付け
地図記号で神社を表すのは「鳥居」とされています。基本的に鳥居のない神社はありません。(浦和の調神社など例外もあります)鳥居は神聖な場所である神域への門であるとされ、神域と俗界を分ける結界に当たるものと考えられます。鳥居の起源は「通り入る」がなまったものとか、古事記の記述によるものとされています。「天の岩戸神話」によれば天照大御神が素戔嗚尊の乱暴により天岩屋戸にお隠れになった際、八百万の神々が鳥を木にとまらせて、鳴かせることにより、岩屋戸からお出ましを願ったことによるものです。鳥居が複数設けられている場合、最も大きい鳥居が神域全体の門として参道の入口にあり「一の鳥居」と呼ばれます。本殿に近づくごと二の鳥居、三の鳥居と数えていきます。鳥居の構造や材質も様々で、神社によって形態が異なりますが、代表的なものは「明...鳥居~神域への門~
勤務地が蓮田になって一年が経ちます。ちょうど桜が蕾の頃でした。西城沼公園の様子を見にきています。毎日のようにこの公園の脇を通りますが、歩く機会はなかなかありません。市役所からほど近く、天気の良い日曜日には多くの市民が集う場所なのでしょう。北埼玉と比べまだクビカアカミキリの被害が少ないようです。もう二週間もすれば色鮮やかな桜色が広がるようです。花咲く時を待つ間、穏やかな日々を過ごします。卒業式を無事に迎えられれるように願っています。桜を待つ気持ち
蓮田市黒浜は元荒川左岸に位置する農業区域でその台地上には椿山遺跡や黒浜遺跡など考古学上重要視される遺跡が数多い。特に黒浜貝塚においては縄文海進と呼ばれる時期に現在の東京湾の入り江となった場所で、その貝塚からは「黒浜式土器」と呼ばれる縄文土器が出土し、人々の当時の生活様式が映し出される貴重な遺跡となっている。<時代は下り永禄七年(1564)国府台合戦で北条氏に敗れた太田資正の郎党野口多門はこの地に帰農し住居したことも知られ、室町時代後期には相応の村落が成立していたと考えられている。『神社明細帳』によれば享禄年間(1530年頃)騎西の玉敷神社から勧請されたと伝わる。祭神は大己貴命。宝暦二年(1752)神祇官領卜部兼雄から『久伊豆大明神幣帛』を授かり現在の社殿は天明八年に竣工。昭和五十八年に本殿が市の指定文化財...蓮田市黒浜久伊豆神社
川口神社の境内に梅ノ木天神がありました。駅から歩いて神社を探していたところ正面鳥居ではなく北東の鬼門口から入ったところ美しい紅白の梅が咲いていました。目に見えぬ神の心にかよふこそ人の心の誠なりけれ学問の神菅原道真公を祀る天神様に多くの人々が願いをかけにお参りしています。頭を垂れて親の恩社会の恩神明の加護をこの梅に託して感恩の垂れ梅と命名す宮司学ぶということに対して学ぶ環境があることを忘れてはならないと改めて思います。私自身も若いころ学ぶことに対して横柄であったと悔やんでいます。親があって、学び舎があって、神の導きがあってここそ社会の一員として生きている。美しい紅白の梅も植えて育てた人があってこそその花を愛でることができる。感恩の垂れ梅を見ながらそんなことを思っていました。梅ノ木天神
2024/02/19
埼玉県川口市は人口60万人を超える東京のベットタウンとして大いに栄えている。政令指定都市を除けば全国2位の人口密集都市である。川口の地名は当地の南を流れる入間川(現荒川)に合流する芝川の河口あたることに由来するとされ、鎌倉室町期には「小河口」と称されていたことが『とはずがたり』や『義経記』から知ることができる。当地は日光御成街道の宿場として栄えたが、中世には鎌倉街道中道、古代には東国と陸奥とを結ぶ「奥大道」として古代から重要な街道であった。当社は明治四十二年川口神社と改称するまで氷川神社と称した。主祭神は素戔嗚尊。天慶年間(九百四十年頃)大宮氷川神社から勧請されたと伝わる。当社は古くからこの区域の鎮守として崇められてきたが、特に江戸期の奉納品に祖の信仰を垣間見ることができる。八代将軍徳川吉宗による享保の改...川口総鎮守川口神社
蓮田市中央部を貫く元荒川。蓮田駅前通りを真っすぐに走り宮前橋が架かる手前に久伊豆神社が鎮座する。久伊豆信仰は武蔵国内の元荒川沿いに限られた地域性のある神社でここ川島はその特徴をよく表している。昔から比べれば社叢の木々も少なくなったといわれるが、元荒川の水面に移る美しい社叢は神のますところにふさわしい景観を今にも保っている。『風土記稿』によれば「久伊豆社村の鎮守也地蔵院持ち、末社天神荒神稲荷雷電」と記される。現在その地蔵院の姿はない。創建以来この地の作神として信仰され、農業の安全や豊作が祈願されてきたという。蓮田に鎮す久伊豆社は全て昔の水運によってその地その地であがめられ、今に伝わるという。当社は近隣の人々から「盗人宮」と呼ばれてきた歴史があるという。昔川上から追われてきた盗賊が神社の杜に逃げ込んだところ慈...蓮田市川島久伊豆神社
今年も気が付くと二月の半ばを迎え、日一日と足早に過ぎてゆく。春を待つ日は長いが、花の便りが届くろには一年の四分の一が終わっているということが常である。一年の折り返しと言えば水無月の大祓になるだろうが、人生の折り返しはいつなのか。人によって異なるのはもちろんだが、若い時は何となく35歳をイメージしていた。そこからすでに15年以上が過ぎてしまったが、人生百年時代と称されるようになって久しいことから、都合よく50歳を折り返しとしても間違えではないかもしれない。と言っても自分自身その折り返しも過ぎている。折り返し地点を過ぎてなおやりたいこともたくさんあって、日々様々なことに取り組もうとしては挫折しての毎日ではあるが、人生をあきらめるには早いとは思う。小さなハンバーガーショップに可能性を見出しマクドナルドを世界的規...人生の折り返しはいつか
立春過ぎて降る雪は白く、春を待つ日の長さを改めて思わせる。田んぼを覆い尽くす雪は改めて自然の厳しさを教えてくれるのだろう。分け入っても分け入っても白い雪自由律の俳人種田山頭火は青い山をそう読んだそうだ。雪に踏み入ることはなくとも果てしなく続く白銀の世界がここ北武蔵にも広がっている。雪がとければ春も遠くはなかろう分け入っても積る雪
市内を歩くと所々梅の花が咲いています。ここは清善寺。大寒を過ぎて立春が近づいています。春を待つ人の心は穏やかで、厳しい寒さを忘れさせます。空の青と花の色が対をなしていっそう際立つようです。こちらは昨日訪れた横浜市緑区の梅の様子です。渋谷から三十分ですが田園都市線沿いの町並みは見る限り美しく、都会の印象を今でも受けます。三十年ぶりに大学のたまプラーザキャンパスまで足を伸ばしました。外観が新しくなっていましたので当時の雰囲気とはまた違った印象ですが、1990年代バブルが終わったあとも団塊ジュニア世代がこぞって大学を目指した頃で多くの大学が埼玉千葉神奈川の東京郊外にキャンパスを増やしていました。子供の数が減るとわかっていたのに大学の数を増やしていたのはなぜなのでしょう。やはり教育の産業化ということだったのでしょ...春が待っている
今年は暖冬傾向で寒中の厳しさをさほど感じません。先日夕刻に一時小雪が舞うことがありましたが、積もるには至りませんでした。小寒から大寒までの三十日間が『寒の内』と呼ばれ一年で最も寒さの厳しい時に当たります。この時期に出すのが寒中見舞いです。小寒の時季は時に大寒よりも寒く感じられることから「小寒の氷、大寒に解く」ともいわれ転じて物事が必ずしも順序通りにいかないことの喩に使われます。小正月の十五日から四日間の間を雉始雊(きじはじめてなく)と呼ぶそうです。日本の国鳥である雉が鳴き始めるころの時候です。実際に泣き始めるのは弥生を迎える頃で、雄は雌を求めて「ケーン、ケーン」と甲高く鳴き、美しい羽根を「ホロロ」と打ち鳴らします。頼み事やを不愛想に断るさまを『けんもほろろ』と表現しますが、これは雉の鳴き声や様を表したこと...小寒末候雉始雊
令和六年甲辰の年頭に当たり皇室の弥栄と皆様方のご健勝を祈念申し上げます。また北陸地方の震災に際し心よりお見舞い申し上げます。元旦に歳旦祭を執り行いました。昨年奉納された大幟が青空に映える様子です。ただし強風にあおられ、大晦日の晩はほとんど眠れないほど旗のことを心配している次第でした。神社にしろ、赤子にしろ誰かが面倒を見なくちゃならん。そんなことをお世話になった神社総代さんから聞いたのは何年前になるでしょうか。誰かの世話をして一人前と聞かされてああそういうものかと漠然と感じておりましたが、自分も五十歳を過ぎてそういう立場になったのだと改めて思います。皿尾城から見える景色はいくつになっても変わることがありません。東の秩父連峰と北の赤城山。この景色を見ながらゆっくりで構わないので少しずつでも歩みを進めたいと願い...新年のご挨拶