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  • 希望の花が咲くように

    令和六年度忍小学校放課後わくわく学童くらぶに参加しました。一昨年に運営補助員に誘われ、月に2度の開催に参加していますが、なかなか都合が合わず、6月になって初めて参加できた次第です。梅雨入り前ですが、児童玄関には傘がきれいに並んでいます。毎月の学校活動の目標です。落ち着いた生活をする。梅雨時期らしいテーマです。6月の活動内容は絵手紙でした。デジタルツール全盛の中で、葉書などに手紙を書く機会が少なくなっています。実際に色鉛筆でかたつむりに色をつけ、書き足していくと筆も進みます。自分自身こうしてスマホやパソコンに入力ばかりで、実際にペンをもつ機会が減っていることがわかります。(反省を込めて)わくわくクラブの時間が終われば、正規の学童へ引率しています。今年度から指導員としてきていらっしゃる松本先生は私の中学一年の...希望の花が咲くように

  • 蓮田市閏戸 久伊豆神社

    閏戸は蓮田台地の中央に位置し、西は綾瀬川隔てて伊奈町、東は元荒川を隔てて白岡町に接する。閏戸とは「潤う土」から転じたと考えられ、古来水に恵まれた地域であったとこが伺える。元禄十一年(1698)閏戸は上・中・下に分かれ上では愛宕社、中にてこの久伊豆社、下では伊夜彦社を祀るようになっている。風土記稿中閏戸村の稿によれば「久伊豆神社二社村内の鎮守也、中古騎西町に立つ久伊豆社を勧請せしと云う」と載るように境内にはかつて二社の久伊豆社が祀られたことになっている。一社は「西宮」と称し見沼用水を背に鎮座し、「東の宮」は現在の国道122号線を挟んで向き合うように鎮座していたという。現在のお社は西宮が残ったもので、往時は真言宗福正寺が隣接して別当であったとされる。現在その別当福正寺はなく、蓮田北小学校となっている。明治七年...蓮田市閏戸久伊豆神社

  • 早朝散歩と蓮日記

    立夏が過ぎて一週間、梅雨入り前の過ごしやすい季節となりました。「暑くもなく寒くもなく」といふところでしょうか。籾蒔き後の苗箱の風除けがあちこちで見られます。麦畑の色もところにより濃淡に差があります。もう少しすれば金色の景色が広がりそうです。畔に咲く野花の向こうに赤城山が見えます。昭和天皇のお言葉によれば、雑草といふ草はなく、全ての野花にもそれぞれに名前があり、凛として生きる手本とすべきなのでしょう。蓮の葉も逞しく広がりつつあります。毎日の生育の様を目にしながら、生きとし生けるものの魂を感じざるを得ません。日々の穏やかな暮らしに感謝するばかりです。早朝散歩と蓮日記

  • 令和六年 蓮花根植え付け

    令和六年の桜の開花は予想から遅れること十日以上、近年では珍しい4月に入ってからとなりました。桜の花頃が蓮の植え時と言います。田んぼの土を用いて境内にて蓮花根を定植しました。今年も行田蓮大使木暮照子先生から蓮根を奉納いただいております。ご主人様の木暮桂先生(生物学博士)から昨年蓮植えの基礎を直接ご指導いただいたことから、今年は神社前の田んぼの泥を用いて自力で蓮植えを行いました。蓮文化研究会のテキストに沿って土の量を計り、手水舎の水を加えて粘土状にします。昨年いただいた元肥と追肥がありますので、鉢の総量に沿って添加します。今年で三年目となりますので、おおよその感覚は身に着いたように思います。桜の咲く頃が蓮の植え時。そう教えていただきました。美しい桜の風景を眺めながら、夏の蓮の美しさをイメージします。皿尾城碑脇...令和六年蓮花根植え付け

  • 鳥居~神域への門~

    地図記号で神社を表すのは「鳥居」とされています。基本的に鳥居のない神社はありません。(浦和の調神社など例外もあります)鳥居は神聖な場所である神域への門であるとされ、神域と俗界を分ける結界に当たるものと考えられます。鳥居の起源は「通り入る」がなまったものとか、古事記の記述によるものとされています。「天の岩戸神話」によれば天照大御神が素戔嗚尊の乱暴により天岩屋戸にお隠れになった際、八百万の神々が鳥を木にとまらせて、鳴かせることにより、岩屋戸からお出ましを願ったことによるものです。鳥居が複数設けられている場合、最も大きい鳥居が神域全体の門として参道の入口にあり「一の鳥居」と呼ばれます。本殿に近づくごと二の鳥居、三の鳥居と数えていきます。鳥居の構造や材質も様々で、神社によって形態が異なりますが、代表的なものは「明...鳥居~神域への門~

  • 桜を待つ気持ち

    勤務地が蓮田になって一年が経ちます。ちょうど桜が蕾の頃でした。西城沼公園の様子を見にきています。毎日のようにこの公園の脇を通りますが、歩く機会はなかなかありません。市役所からほど近く、天気の良い日曜日には多くの市民が集う場所なのでしょう。北埼玉と比べまだクビカアカミキリの被害が少ないようです。もう二週間もすれば色鮮やかな桜色が広がるようです。花咲く時を待つ間、穏やかな日々を過ごします。卒業式を無事に迎えられれるように願っています。桜を待つ気持ち

  • 蓮田市黒浜 久伊豆神社

    蓮田市黒浜は元荒川左岸に位置する農業区域でその台地上には椿山遺跡や黒浜遺跡など考古学上重要視される遺跡が数多い。特に黒浜貝塚においては縄文海進と呼ばれる時期に現在の東京湾の入り江となった場所で、その貝塚からは「黒浜式土器」と呼ばれる縄文土器が出土し、人々の当時の生活様式が映し出される貴重な遺跡となっている。<時代は下り永禄七年(1564)国府台合戦で北条氏に敗れた太田資正の郎党野口多門はこの地に帰農し住居したことも知られ、室町時代後期には相応の村落が成立していたと考えられている。『神社明細帳』によれば享禄年間(1530年頃)騎西の玉敷神社から勧請されたと伝わる。祭神は大己貴命。宝暦二年(1752)神祇官領卜部兼雄から『久伊豆大明神幣帛』を授かり現在の社殿は天明八年に竣工。昭和五十八年に本殿が市の指定文化財...蓮田市黒浜久伊豆神社

  • 梅ノ木天神

    川口神社の境内に梅ノ木天神がありました。駅から歩いて神社を探していたところ正面鳥居ではなく北東の鬼門口から入ったところ美しい紅白の梅が咲いていました。目に見えぬ神の心にかよふこそ人の心の誠なりけれ学問の神菅原道真公を祀る天神様に多くの人々が願いをかけにお参りしています。頭を垂れて親の恩社会の恩神明の加護をこの梅に託して感恩の垂れ梅と命名す宮司学ぶということに対して学ぶ環境があることを忘れてはならないと改めて思います。私自身も若いころ学ぶことに対して横柄であったと悔やんでいます。親があって、学び舎があって、神の導きがあってここそ社会の一員として生きている。美しい紅白の梅も植えて育てた人があってこそその花を愛でることができる。感恩の垂れ梅を見ながらそんなことを思っていました。梅ノ木天神

  • 2024/02/19

    2024/02/19

  • 川口総鎮守 川口神社

    埼玉県川口市は人口60万人を超える東京のベットタウンとして大いに栄えている。政令指定都市を除けば全国2位の人口密集都市である。川口の地名は当地の南を流れる入間川(現荒川)に合流する芝川の河口あたることに由来するとされ、鎌倉室町期には「小河口」と称されていたことが『とはずがたり』や『義経記』から知ることができる。当地は日光御成街道の宿場として栄えたが、中世には鎌倉街道中道、古代には東国と陸奥とを結ぶ「奥大道」として古代から重要な街道であった。当社は明治四十二年川口神社と改称するまで氷川神社と称した。主祭神は素戔嗚尊。天慶年間(九百四十年頃)大宮氷川神社から勧請されたと伝わる。当社は古くからこの区域の鎮守として崇められてきたが、特に江戸期の奉納品に祖の信仰を垣間見ることができる。八代将軍徳川吉宗による享保の改...川口総鎮守川口神社

  • 蓮田市 川島久伊豆神社

    蓮田市中央部を貫く元荒川。蓮田駅前通りを真っすぐに走り宮前橋が架かる手前に久伊豆神社が鎮座する。久伊豆信仰は武蔵国内の元荒川沿いに限られた地域性のある神社でここ川島はその特徴をよく表している。昔から比べれば社叢の木々も少なくなったといわれるが、元荒川の水面に移る美しい社叢は神のますところにふさわしい景観を今にも保っている。『風土記稿』によれば「久伊豆社村の鎮守也地蔵院持ち、末社天神荒神稲荷雷電」と記される。現在その地蔵院の姿はない。創建以来この地の作神として信仰され、農業の安全や豊作が祈願されてきたという。蓮田に鎮す久伊豆社は全て昔の水運によってその地その地であがめられ、今に伝わるという。当社は近隣の人々から「盗人宮」と呼ばれてきた歴史があるという。昔川上から追われてきた盗賊が神社の杜に逃げ込んだところ慈...蓮田市川島久伊豆神社

  • 人生の折り返しはいつか

    今年も気が付くと二月の半ばを迎え、日一日と足早に過ぎてゆく。春を待つ日は長いが、花の便りが届くろには一年の四分の一が終わっているということが常である。一年の折り返しと言えば水無月の大祓になるだろうが、人生の折り返しはいつなのか。人によって異なるのはもちろんだが、若い時は何となく35歳をイメージしていた。そこからすでに15年以上が過ぎてしまったが、人生百年時代と称されるようになって久しいことから、都合よく50歳を折り返しとしても間違えではないかもしれない。と言っても自分自身その折り返しも過ぎている。折り返し地点を過ぎてなおやりたいこともたくさんあって、日々様々なことに取り組もうとしては挫折しての毎日ではあるが、人生をあきらめるには早いとは思う。小さなハンバーガーショップに可能性を見出しマクドナルドを世界的規...人生の折り返しはいつか

  • 分け入っても積る雪

    立春過ぎて降る雪は白く、春を待つ日の長さを改めて思わせる。田んぼを覆い尽くす雪は改めて自然の厳しさを教えてくれるのだろう。分け入っても分け入っても白い雪自由律の俳人種田山頭火は青い山をそう読んだそうだ。雪に踏み入ることはなくとも果てしなく続く白銀の世界がここ北武蔵にも広がっている。雪がとければ春も遠くはなかろう分け入っても積る雪

  • 春が待っている

    市内を歩くと所々梅の花が咲いています。ここは清善寺。大寒を過ぎて立春が近づいています。春を待つ人の心は穏やかで、厳しい寒さを忘れさせます。空の青と花の色が対をなしていっそう際立つようです。こちらは昨日訪れた横浜市緑区の梅の様子です。渋谷から三十分ですが田園都市線沿いの町並みは見る限り美しく、都会の印象を今でも受けます。三十年ぶりに大学のたまプラーザキャンパスまで足を伸ばしました。外観が新しくなっていましたので当時の雰囲気とはまた違った印象ですが、1990年代バブルが終わったあとも団塊ジュニア世代がこぞって大学を目指した頃で多くの大学が埼玉千葉神奈川の東京郊外にキャンパスを増やしていました。子供の数が減るとわかっていたのに大学の数を増やしていたのはなぜなのでしょう。やはり教育の産業化ということだったのでしょ...春が待っている

  • 小寒 末候 雉始雊

    今年は暖冬傾向で寒中の厳しさをさほど感じません。先日夕刻に一時小雪が舞うことがありましたが、積もるには至りませんでした。小寒から大寒までの三十日間が『寒の内』と呼ばれ一年で最も寒さの厳しい時に当たります。この時期に出すのが寒中見舞いです。小寒の時季は時に大寒よりも寒く感じられることから「小寒の氷、大寒に解く」ともいわれ転じて物事が必ずしも順序通りにいかないことの喩に使われます。小正月の十五日から四日間の間を雉始雊(きじはじめてなく)と呼ぶそうです。日本の国鳥である雉が鳴き始めるころの時候です。実際に泣き始めるのは弥生を迎える頃で、雄は雌を求めて「ケーン、ケーン」と甲高く鳴き、美しい羽根を「ホロロ」と打ち鳴らします。頼み事やを不愛想に断るさまを『けんもほろろ』と表現しますが、これは雉の鳴き声や様を表したこと...小寒末候雉始雊

  • 新年のご挨拶

    令和六年甲辰の年頭に当たり皇室の弥栄と皆様方のご健勝を祈念申し上げます。また北陸地方の震災に際し心よりお見舞い申し上げます。元旦に歳旦祭を執り行いました。昨年奉納された大幟が青空に映える様子です。ただし強風にあおられ、大晦日の晩はほとんど眠れないほど旗のことを心配している次第でした。神社にしろ、赤子にしろ誰かが面倒を見なくちゃならん。そんなことをお世話になった神社総代さんから聞いたのは何年前になるでしょうか。誰かの世話をして一人前と聞かされてああそういうものかと漠然と感じておりましたが、自分も五十歳を過ぎてそういう立場になったのだと改めて思います。皿尾城から見える景色はいくつになっても変わることがありません。東の秩父連峰と北の赤城山。この景色を見ながらゆっくりで構わないので少しずつでも歩みを進めたいと願い...新年のご挨拶

  • 桃李不言下自成蹊 さいたま新都心 本格四川料理 成蹊 後編

    さいたま新都心の街開きは平成十二年(2000年)の事です。公官庁の出先機関を集めた街づくりで翌年平成十三年には浦和市、大宮市、与野市が合併して「さいたま市」が誕生します。この時旧浦和市、大宮市にはそれぞれ「浦和区」「大宮区」が名称として残りますが、与野市だけは「与野区」とはならずに「中央区」となりました。そもそも明治のころから浦和と大宮は隣接都市としてライバル関係にあり、文化歴史の上でも競い合ってきたことから合併に反対する意見も多くあったといいます。そこに政令指定都市を指定を目指し、東京の機能にも負けない大都市構想を遂げるために加わったのが与野市であったといいます。だからさいたま市区名選定委員会にて議論された際、公募の結果「与野区」が一位、「中央区」が二位になりましたが当時の与野市議会は「新都心に移り住む...桃李不言下自成蹊さいたま新都心本格四川料理成蹊後編

  • 桃李不言下自成蹊 食レポ前編

    勤労感謝の日にお休みをいただき、さいたま新都心までで出かけました。目的は応援しているアーティストのコンサートとその前に中華料理のコースをいただくことでした。普段食品販売流通業に従事していますが、近年では業務も様変わりし、デジタル化も推進され、多くの新しい知識を得ることが求められます。会社の業務の一環として、外食の食レポをしてみなさいということになりました。自分で調べ、興味を持ち、実際に食べた感想を伝える。ただ今まで通り日々の業務だけをこなしていたのでは生き残れない時代です。こう言った取り組みを『面倒だ』と思う人もいれば、『楽しみだ』と思う人もいるでしょう。私は後者です。東京の有名店に是非行ってみなさいとのことでしたが、映画『翔んで埼玉Ⅱ・琵琶湖より愛をこめて』公開で賑わうさいたま新都心の本格四川料理の店『...桃李不言下自成蹊食レポ前編

  • 古河市 富士山浅間神社

    古河市総合公園には小高い塚があって、その上に浅間神社が建っています。古河のパワースポットとなど名所地にしようとする活動も行われているようです。境内の由緒書きがありますので読んでみました。室町時代末期に角行という人が世の中の乱れに苦しみ、富士山に登り天下泰平五穀豊穣の祈願をしたところ天下が治まったことから富士信仰が起こります。東講の大先達である南沢正兵衛という人が江戸にこの富士信仰を広く布教しました。鴻巣の冨士塚は模造の富士山で文政四年ごろ(1831)の構造と考えられています。鴻巣村の小森谷家広く浄財を募り富士浅間神社を勧請します。東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一つ。富士山信仰は室町時代末期ごろに起こり江戸時代中期には非常に盛んになった。それに伴い江戸をはじめとして富士講があちこちで結成され、江戸...古河市富士山浅間神社

  • 防災体験学習~災害時中学生は避難所で何ができるか

    地元中学校にて家庭教育セミナーに参加しました。防災教育体験学習として行われ、テーマは「災害時に中学生は避難所で何ができるか」令和元年10月の台風の際、ここ忍中学校も避難所として開設されたことがあります。私はPTAの役員として参加しました。主催は地元自治会も合同ということになり多くの参加者が集いました。取り組みの一つとして段ボールベットの作成です。令和元年の台風避難の際私も地元小学校へ家族と避難しました。一晩学校で過ごす際には毛布の配布がありましたが、床で横にならざるを得ず、非常につらい時間であった記憶があります。段ボール箱の中に「補強板」を入れ強度を増し、6個並べてひもで固定します。段ボールの上にブルーシートをかけ毛布を敷くと弾力と保温性が向上し、とても寝心地の良いものができました。中学生の班は皆で寝転が...防災体験学習~災害時中学生は避難所で何ができるか

  • 黒浜式土器と縄文時代の生活~蓮田市文化財展示館

    今から1万6000年前氷河期が終わって地球が温暖化します。日本列島では針葉樹の森が北に退き、北日本では落葉広葉樹林、西日本では常緑広葉樹の森が広がる世界へと変わりました。特に落葉広葉樹の森には食べ物が豊富で、木の実の多くを食用として採取したといいます。栗やドングリなど食べるには灰汁抜きが必要でしたので、そのための土器が縄文土器として発達したのです。気候の温暖化にともなう雨量の増加や海水面の上昇で陸から土砂が流れ込み、遠浅の海岸をつくることでそこに生息する貝類や回遊魚も食材に加わり食生活の大幅に進化したといいます。海面の上昇のことを「縄文海進」といい、東京湾は現在の埼玉内陸部まで進出していたことがわかっています。黒浜貝塚は関東地方を中心とした縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標式遺跡として昭和50年に埼玉県指...黒浜式土器と縄文時代の生活~蓮田市文化財展示館

  • 県民の日に三菱地所アウトレットでみた野球用具の今昔物語

    11月14日は埼玉県民の日。明治四年の廃藩置県から今年で152年。当初は荒川の西が入間県、東が埼玉県、明治六年には熊谷県が誕生、明治9年に現在の埼玉県の枠組みが誕生しています。昭和46年には県誕生100周年を記念して11月14日を「埼玉県民の日」と定めています。(埼玉県HPより)熊谷市は県北の中心都市ですがお隣深谷市も平成の合併で大きくなり、昨年には旧花園町に三菱地所系のアウトレットモールの誘致に成功しています。やはり高速道路の幹線沿いの都市は商業施設の誘致に有利なのでしょう。昨年のオープン時には周辺の渋滞が連日のように続いていましたが、一年経って落着きを見せていました。一周年を記念してセールはもちろん様々な催しが開催されていました。特に任天堂のショップが人気で、マリオのキャラクターを随所に用いて子供連れ...県民の日に三菱地所アウトレットでみた野球用具の今昔物語

  • カキと私の関係

    江戸の初期には養殖が始まったといわれるカキ。漢字で書くと「牡蠣」となるのは全部が雄に見えることから。縄文時代にはすでに食べられていたと考えられていて、「蠣」の文字はゴツゴツした殻を意味するそうだ。近年養殖技術が進化していて、プランクトンを餌としないで養殖可能なものは「あたらない牡蠣」としてよくメディアにも取り上げられている。牡蠣の料理には忘れられない思い出があって、何といっても牡蠣鍋。二十代のころ外食産業に勤めていて(何度かこのブログにも書きました)和食のファミリーレストランチェーンだった。冬メニューとして牡蠣鍋を提供していたけれど、忙しい時にアルバイト従業員が鍋に牡蠣を入れ忘れ、ただの野菜鍋で出してしまい、お客さんに大いに怒られたことがあった。ただひたすら平謝りで通してしまったが、お客さんのほうもずっと...カキと私の関係

  • 旧騎西町 玉敷神社

    旧騎西町の玉敷神社は延喜式内社の古社と知られ、大己貴命を主祭神として奉斎し明治維新後は郡中の総鎮守として騎西領四十八か村の氏神であった。文武天皇の大宝三年(703)多治比真人三宅麿(たじひのまひとみやけまろ)が東山道鎮撫使として武蔵国に下った際創建したと伝わる。以来現在地より北方の正能村に鎮座していたが、天正二年(1574)上杉謙信公の関東侵攻に際に兵火にかかり、社殿、宝物等を消失している。これは関東の戦国史における覇権争いにおいて避けては通れないところであって、当時騎西城は忍城の仕城として機能していたことに起因する。忍城主成田長泰は関東の争乱に身を置きながら、小田原北条と上杉との間でどちらに着くか揺れ動いている。永禄四年(1561)成田が小田原に与すとなったとたん、難攻不落の忍城に代わり、騎西城を謙信は...旧騎西町玉敷神社

  • 加須市 馬内諏訪神社

    当社は会の川の南側に位置する自然堤防の上に鎮座している。ここから加須市西中学校、むさしの村まで続く自然砂丘は昔利根川から吹き積もった内陸砂丘で、今でも多くの松林が生息する。馬内の地名はかつて牧場で馬が多く飼われていた名残で、内陸の干ばつ地帯として遠く灌漑用水をため池から引いていたことから、天水のありがたさを知り、水神として諏訪大神を崇拝していたという。御祭神は、建御名方命で水神としてだけではなく、武門の神としても崇められてきたという。お諏訪さまはの農業を守る神様で、昔日照りが続くと村人は近くの池から水を汲み、境内に撒いて雨乞いをした。お陰で冬でも水が枯れることがなかったという。明治期に知方神社、雷電社、九頭竜神社、神明社、川入神社などを合祀して現在に至っている。参道階段脇に建つ御輿殿建立記念碑は昭和五十一...加須市馬内諏訪神社

  • 人が人として生きること

    令和五年度行田市内5校合同人権教育研修会に参加しました。行田市内忍中学校、西中学校管区の小学校三校を交えた合同の研修会です。今回で64回目を迎える伝統ある合同研修。私は忍中学校PTAとして参加しました。講師は羽生市立川俣小学校の長谷川守先生でした。長らく行田市内の小学校で教諭として勤務され、埼玉県教育事務局にて人権教育をご担当、現在お隣羽生市にて校長先生を務められていらっしゃいます。「権利」の反対は何でしょう?との問いから講演は始まりました。「義務」との回答が多く寄せられる中で、義務を果たさずとも権利はあります。「責任」を果たすことではないでしょうか。とのことでした。欧米圏では人権に対して「humanright」としてとらえ、人として正しい道と教えられることが幼いころからされているといいます。人権教育とは...人が人として生きること

  • 宝登山神社 令和五年 皿尾講登拝

    令和五年宝登山神社ご眷属お借換え代参登拝をしてまいりました。皿尾講と呼ばれる五人講で現在でも約30軒のお宅がお札を受けています。お犬替えとも呼ばれるお札の由縁は宝登山に纏わる日本武尊の伝説に由来します。日本武尊が宝登山にお登りになった際、山火事が起き、どこからともなく現れた山犬がその火を消し止めたというものです。この故事にちなみ宝登山は古くは「火止山」と書き、火災・盗難除けに霊験あらたかと伝えられてきました。そのご眷属をお札として各家々にお祀りしているのです。江戸中期ごろには宝の山に登るとの表記があり、そのころから先達や修験者を通じての布教活動から、各地で講社が生じ多くの参拝者が寄るようになったと考えられています。当皿尾地区の講社(皿尾講)がいつから宝登山に登拝しているかは明らかではありませんが、昭和四十...宝登山神社令和五年皿尾講登拝

  • ソーシャルキャピタル(social capital)

    ロシアウクライナ紛争の行く先も見えない中で中東情勢も混乱を極めている。イスラエルの歩んできた歴史を学べば自衛という名の武力行使は常に名目だけでは終わらないことは確かだろう。隣人を信用できない社会は常に境界線を厳しく敷く。海に囲まれ戦後の平和な暮らしを甘受してきた私たち世代には易々とイメージできない社会のほうが世界ではスタンダードであることを改めて認識しなければならないだろう。radio番組の経済コーナーで有名大学の教授が「ソーシャルキャピタル」(socialcapital)につて話していた。19世紀に生まれ1972年に論文化された概念で「社会関係資本」と訳される。エネルギー供給や交通網の整備といった社会的インフラは目に見えるけれども、隣人との信頼関係や、政治への信頼といった内面の問題は可視化できない。人々...ソーシャルキャピタル(socialcapital)

  • 高崎 美保大國神社

    昭和二年に始まる世界金融恐慌のさなか、日本の経済も疲弊し商工業は不振を極め、倒産が相次ぎます。高崎市では商工業者の間に美保神社の御祭神である事代主神の御分霊を迎え商工業の振興をはかりたいとのとの計画が立てられ、当時の高崎市長始め商工業者の努力により昭和四年九月二十日、すでにお祀りしていた大国主神と共に、奉斎式を執り行い美保大國神社としました。大黒様、恵比寿様は出雲の国譲り神話に登場する、重要な神様として知られます。また福徳円満な神様で商工業はもちろんあらゆる産業、芸能、交通安全の神としても知られ、古くから神棚でお祀りしてきました。高崎神社の境内社として恵比寿講などの賑わいで知られています。高崎美保大國神社

  • 希望のうた

    歩いて歩いて町の外れまで来た昨日はもう思い出にしてきたあなたと見つけた油と土匂い何も言わなくていい私の腕の中精一杯の腕の中抱きしめるから離さないからあなたの胸の中悲しい胸の中涙にぬれた空を見つめていよう十月を過ぎると何となく師走の足音が聞こえてくる。毎年のことだが何となくそわそわして落ち着かない気持ちがどこかにある。秋の空気を感じながらやらなければならないことばかりが重なって、また先延ばしにしていることも心のどこかに引っかかっている。昨年のNHK紅白で歌ったこの歌は、コロナ禍で不自由な暮らしが続く中、希望だけは失わないようにとのメッセージを込めて、モノトーンの衣装で歌っていたのを記憶している。自由が失われても心の中の希望まではなくさないように。走って走って思い出を振り切って明日の始まりを迎えに来た知らずに...希望のうた

  • 神無月花手水と三方領知替二百年

    十月が一週間が過ぎて急に気温が下がりました。秋を通り越して初冬の陽気となり、身体がついていかない方もたくさんいらっしゃることでしょう。気温と共に湿度が下がったことで空気感が全く変わったように感じます。皿尾城周辺の田んぼも稲刈りが進んでいます。月初めは商工会と観光課が主催する行田花手水weakに当たり、ライトアップも含め社頭の花手水を改めております。どうぞご参拝の折にご覧ください。今年は文政六年(1823)の三方領知替から二百年ということで、市内各所に幟がたてられています。白河藩主松平定永の父定信が先祖ゆかりの地で肥沃な伊勢桑名への転封を希望し、阿部家は巻き添えを喰ったのだといいます。いつの時代もそうした政治の権力闘争はつきものなのでしょう。当時の阿部家当主正権は若くして病弱の上転封ご十七歳で病死しています...神無月花手水と三方領知替二百年

  • 渋谷氷川神社

    渋谷区東二丁目に鎮座する氷川神社。古くは氷川大明神と称し、旧渋谷村、下豊澤村の総鎮守であったといいます。慶長十年(1605年)宝泉寺の住職実円が記した「氷川大明神縁起」によれば景行天皇の御代皇子日本武尊東征の時当地に素戔嗚尊を勧請したのが始まりと伝わります。その後嵯峨天皇の弘仁年中(810~24)慈覚大師が宝泉寺を開祖し同寺が別当となりました。天明二年((1782)正月阿部備中守へ差し出した書類の中に別当宝泉寺の内裏から出火し炎上したことが記されていて、宝物等はこの時に失われたと考えられています。神社の周囲は石器時代の土器や竪穴式住居が掘り出され、非常に古くからの文化部落の中心であったことから渋谷区最古の神社と呼ばれます。昔は松杉が多く茂り昼なお暗く門前を渋谷川が流れていたことが「江戸名所図」などからうか...渋谷氷川神社

  • 私の描く行田の未来

    令和五年十月三日、行田市民大学、市民大学同窓会合同講演会が市内教育センターみらいにて開催されました。通常は歴史文化講演が多く、郷土の偉人や郷土史研究の発表が多いところですが、春の市長選以降市民大学同窓会の企画研修委員の会合の中で、是非新市長に行田の未来について語ってほしいとの意見が多く、早期に日程を抑え開催を実現しました。行田市民大学は開設15年目を迎える市民のための市民の手による大学です。教育委員会、生涯学習課等市のご支援をいただいておりますが、あくまで自己運営です。今回学長に当たる行田市の首長に講演をしていただけるということで、多くの関係者が集まりました。行田くに子市長は1965年岩手県生まれ。東京蒲田の小さな工務店で育ったそうです。幼いころの遊び相手は職人さんだったそうです。国際基督教大学を卒業後、...私の描く行田の未来

  • 途(みち)

    誰が何と言おうとも今は進むべき途へ風に笑われようとも大丈夫そのままいずれ出会うだろう共に進むべき人に夜に煽られても大丈夫そのままきっと孤独の中に芽吹く未来があるどんな明日も開けは花になる今あなたが信じた種は知っているこの夏初めて半崎美子さんのショッピングモールのライブを見ました。私と同世代かそれ以上の世代の方が多く見えていました。泣き歌の嬢王、ショッピングモールの歌姫など彼女を形容する言葉をよく耳にしました。きっかけは勿論ラジオです。毎週日曜朝6時からFmNAKファイブではんざき畑という番組を聞いています。ラジオにかかる曲は彼女の曲だけです。「はんざき畑で皆さんの収穫をお待ちしています」毎週のようにリスナーからの彼女の楽曲に対する思いや感想が寄せられています。どんな人にもそれぞれの人生があって、それぞれの...途(みち)

  • 駐輪場から見る近未来の購買形態

    コロナ禍以降、外食を含め営業時間が短縮される傾向が強まっている。かつて24時間店を開いていた店舗も夜間の営業を切り上げ、集客の多い時間に絞っている。こうした傾向は人口減少が顕著となっていることから、一層進むと考えられる(個人的見解です)コンビニがかろうじて営業時間を守っているが、食品スーパーも業態を変えながら、営業時間について試行錯誤しているように見える。埼玉県内の大手スーパーは朝9時が最速で多くは10時オープンだ。ディスカウントの傾向が強いと時間も短くなる傾向が見られる。(これも個人的見解です)早朝営業の利点の一つに高齢者の集客が見込めることがある。朝のゴミ出しとして資源ごみをもって買い物に来る習慣がついている。こうした顧客は混雑を敬遠することから10時前に入店する。来客手段は軽自動車が多い。但し駐輪場...駐輪場から見る近未来の購買形態

  • 朝顔の咲く暮らし

    朝顔につるべ取られてもらい水井戸に水を汲みに行ったところ朝顔の蔓がつるべに巻き付いているので、とってしまうのはかわいそうななので、お隣まで水をもらいにいくことにしました。江戸時代の俳人である加賀千代女の美しい俳句は日本人と朝顔の関係を表す名句として知られます。せっかく咲いた朝顔の花をあわれに思う気持ちが滲み出ています。私が子供の頃(昭和50年代)すでに水道が整備されていますが、井戸水も残っていて『水を汲む』ということがどういうことだか実際にわかります。朝顔の種を日本に持ち込んだのは遣唐使だそうです。奈良時代末期のことですが、平安時代になってから入ったとも言われ、その場合朝顔と呼ばれていた花は桔梗を指すそうです。夏の花の印象がありますが俳句の季語としては秋の季語になります。毎年自宅と神社境内の境の垣根に朝顔...朝顔の咲く暮らし

  • 地元の梨直売所

    行田市内に野菜や果実の直売所は何店舗あるのだろうと思ったりします。無人の露地野菜の販売所をよく見かけますが、なかなか利用することはありません。自分も畑をやっているからでしょうか。こと梨に関してはだいぶ以前から、門井町の直売所にいきます。結婚した当初この近くのアパートに住んでいてその頃からあったと記憶しています。最近ではシャインマスカットも売っていて、この日は試食もいただいたのでひと房買ってみました。(1300円でした)行田と鴻巣の間、旧吹上町の通り沿いにあります。聞くと騎西町の農家さんでご家族でやっているそうです。秋月一袋五個入りを買うとひとつおまけしてくれました。生鮮果物はこれからも需要伸びるでしょう。加工食品では味わえない美味しさがあります。すでに超高齢化社会ではこうした生鮮果実野菜などの直販所が憩い...地元の梨直売所

  • 長月花手水

    社頭の花手水を始めて三年目を迎えました。令和三年の夏ごろから本格的に始めましたので三度目の秋になります。行田市の花手水の取り組みは商工会を中心に多くの人々の手によって保たれています。無理のないようにとの思いから、夏場の7月8月はライトアップを含めて基本的にお休みの期間です。水温が高すぎて花が傷んでしまうからです。9月も厳しい残暑が続いていますが、日陰であればある程度日持ちするようになりました。皿尾城前の田んぼの稲穂も実りの時期を迎えています。九月は長月と称しますが「夜長月」から名がついたそうです。暑さもひと段落しますので、日暮れ後の自分の時間を大事に過ごしていきたいと思っています。手水舎の装飾もひまわりから一足早く紅葉へと差し変わっています。長月花手水

  • 鯨に鯱

    今日九月四日は語呂合わせから「鯨の日」。地球上でもっとも大きい生物シロナガスクジラの体長は、新幹線車両一両分に相当するそうです。鯨が哺乳類であることは小学校で習いますが、今年高校受験の年を迎えた長男は小さいころ非常に生物に興味があって、魚図鑑をよく読んでいました。五年ほど前でしょうか、南紀白浜に旅した際、大地くじらの博物館まで足を運んだことは良い思い出です。海のギャングとも称されるシャチは、非常に頭もよく、群れをつくって自分よりも身体が数倍大きい鯨を狩ることで知られています。数年前NHKでシャチが鯨を狩る様子をドキュメンタリー番組で放送していました。シャチは群れをなして一頭の鯨を囲み時間をかけて急所を突きながら鯨の体力を奪っていきます。その様子が「鯨に鯱(しゃちほこ)」ということばを生んだそうです。集団で...鯨に鯱

  • 天高く未来へとつなぐ幟と共に~令和五年例大祭の記憶~

    令和五年皿尾久伊豆大雷神社例大祭が執り行われました。と言ってもすでにひと月以上が過ぎています。この間大祭の様子をブログに記そうと思いつつ一日一日と過ごしてしまい、行田浮き城祭りが過ぎ、お盆を終え、兼務社の夏祭りなど日々流されるばかりだったように思います。時間は大事だといいますが、その時のその思いを記していかないと人生の終着点もすぐに来てしまいそうです。令和二年、三年、四年と三年間コロナ禍で祭祀も縮小しておりましたが、本年は多くの氏子さんの参列の元、コロナ前に近い祭事となりました。これもひとえに大神様の御神徳であるとともに、氏子さんの想いが形になった証です。その思いとは地元のお社に幟を立てようというものでした。平成二十六年頃を境に、古くなった幟の修復が難しくなり、高齢化も伴って旗を上げることをやめてしまって...天高く未来へとつなぐ幟と共に~令和五年例大祭の記憶~

  • 十四節気 処暑

    昼間の暑さはまだまだ厳しいものですが、朝晩の空気は涼やかで長かった暑さの峠も超えたように感じます。「処」とは止まるといふ意味があり季節が入れ替わる頃を表します。蓮の花の季節も終わりますが、「白光蓮」が最後の一輪を気高く花開かせていてその生命力に驚かされています。稲穂も実り頭を垂れるまでになりましたが刈り入れまではもうしばらくかかりそうです。こうなってくると台風の到来がいよいよ恐い時期になります。毎年立春から数えて二百十日目と二百二十日目を農家の厄日として雑節として暦に記します。台風の特異日です。当社においては末社の一つに風神社をお祀りします。御祭神は志那都比古命(しなつひこのみこと)。伊邪那岐、伊邪那美との間に生まれた風の神様です。ほかの末社には幣束を入れる社殿に扉がありますが、風神社にはありません。常に...十四節気処暑

  • みかんの花咲く丘 加藤省吾顕彰碑

    みかんの花が咲いている思い出の道丘の道はるかに見える青い海お舟が遠くかすんでる加藤省吾作詞「みかんの花咲く丘」より多くの日本人は子供のころこの歌を聞きまた口ずさんだことだろう。少なくとも私たち世代では(50代)昭和二十年五月作詞家加藤省吾は両親の住まいがあった深谷市本住町に戦争疎開している。この「みかんの花咲く丘」はここ深谷の町で作詞されたといい、故郷の静岡の海に思いを馳せた詞なのだという。戦後の困窮と混乱の時代に「リンゴの唄」と「みかんの花咲く丘」は多くの日本人の琴線に触れ美しい当時の日本の人々の心を歌い上げているとこの顕彰碑はたたえている。故郷は遠きにありて思うもの加藤省吾氏の足跡を称え、顕彰碑ができたのは平成四年のこと。三十年前にはまだこうしたに戦後日本の復興に対する気概というか、志が多く残っている...みかんの花咲く丘加藤省吾顕彰碑

  • 深谷城址と富士浅間神社

    日本近代資本主義の父渋沢栄一翁の故郷深谷市。市の中心部には深谷城址が静かにたたずむ。深谷城は康正二年(1456)深谷上杉氏である上杉房憲が築いたと伝わる。鎌倉公方、古河公方との覇権争いに加え北武蔵の山の内、扇谷上杉の氏族の争いが絡み合って、争乱の歴史の中にあった。唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城であるという。低湿地の要塞と言えば忍城が思い浮かぶが利根川、荒川流域に近く平地でありながら水の恩恵を受けていたのだろう。天正十八年開城以降は寛永年間に酒井讃岐守忠勝が城主となり、同四年河越移封となり深谷城は廃城となっている(1634)現在深谷城の遺構とされているのが城鎮守であった浅間神社周辺の外堀とされている。浅間神社とされるが、内陣に収めた祝詞に「正一位智方大明神」と記されているように本来は智方神社...深谷城址と富士浅間神社

  • 蓮田市根金 稲荷神社と芥川龍之介自筆撰文碑

    蓮田市根金はかつて根金村・根金新田村の二村でいずれも元禄十一年(1696)閏戸村から分村し成立している。このうち根金新田村は足立郡別所村(伊奈町小室)の九十郎によって開発されたという。口碑によれば当社の創建はその九十郎が別所村の稲荷社の分霊を勧請したもので、当初はその子孫である内村家の氏神であったものを村人が信仰したことから村の鎮守となったと伝わる。本殿内陣には鎌と稲把を携えた稲荷大明神像が奉安されている。神像を納めた厨子の底部には「天明三年九月(1783年)奉納稲荷本地十一面観音武州埼玉郡岩槻領根金新田村」との墨書きが記されていて、往時は本地物である十一面観音像であったことがわかる。鳥居脇に石碑が建っているが、これは明治の文豪芥川龍之介の撰文自筆の石碑として貴重である。当地出身の関口平太郎氏を顕彰する碑...蓮田市根金稲荷神社と芥川龍之介自筆撰文碑

  • 久喜市菖蒲下栢間 諏訪神社

    旧菖蒲町下栢間は町の南西に位置し元荒川を挟んで蓮田市に接し、その南西は桶川市に隣接する。当地の開発は古く「栢間七塚」と称する栢間古墳群に見られるように六世紀ごろにまで遡る。奈良・平安期の集落跡も発掘され、平安末期以降武蔵七党の武士団の一つ野与党の「栢間氏」がここを本貫地としていたという。天正十八年(1590)徳川家康が関東に入国した際、古参の重臣であった内藤四郎正成にこの地を与えている。正成は当地の西部に陣屋を構えその敷地内に諏訪神社を祀ったという。内藤正成は武勇に優れ幼いころより家康に仕えたとされる。「どうする家康」でも描かれている、今川家に属していたころの大高城兵糧入れにも同行。三河一向一揆では一揆方についた渡辺高綱を矢で射抜いたとされる。武田との戦である三方ヶ原合戦では長男を失いながら奮戦し、高天神...久喜市菖蒲下栢間諏訪神社

  • 身近な公園に見る地域社会の行く末

    夏休みに入りここ北関東でも連日の猛暑が続いている。防災無線で熱中症警戒アラートが伝えられ、「不要不急」の外出を控える放送が流れている。世代によっては食品スーパーなどを避暑地的に利用される方も多い。自宅で涼をとり続けることにためらう方も多いだろう。子供たちはどうしているのだろうか。私たち世代(50代以上)は小学校なら近くの公園、神社で遊び中学校なら半日は部活に明け暮れていた。神社で育った私からすると夏休み中の神社は特に自治会館と接していると朝はラジオ体操、昼は子供会、夕方まで自由に遊べる最も自由な場所であった。もちろん安全面も含めて。神社の杜が木陰を生み出し風を感じる貴重な場所。年々杜も少なくなり、少子化のためラジオ体操がなくなり、子供会そのものがなくなってゆく。神社で子供たちだけで過ごす風景は遠い昔のこと...身近な公園に見る地域社会の行く末

  • 丑の日の浮き城祭り

    令和五年夏の土用の丑の日は七月三十日の日曜日でした。一年で最も暑さの厳しい時季で、陰陽五行では春は木、夏は火、秋は金、冬は水、そして各季節の間が「土」に当たります。年四回ある土用ののうち、夏の土用は特に暑さを乗り越えるのが厳しく特別視されています。行田市民祭り「浮き城祭り」の前身は「だんべ祭り」です。私が子供のころはだんべ祭りでした。郷土の方言である○○だんべというフレーズを祭りの名称にしたのは私の住む地区の市役所職員だと聞いたことがあります(真偽はわかりかねます)夏の土用は立秋前の十八日間。丑の日には鰻など「う」の付く食べ物を食べるなど、また「丑湯」という薬湯に入ったり土用餅を食べるなどの習慣が残っています。盛大な山車のたたき合いが見どころの行田浮き城祭り。全身のだんべ祭りからその行われる日は七月の最終...丑の日の浮き城祭り

  • 蓮始開(はすはじめてひらく)

    小暑の次候にあたる「蓮始開」。仏教とともに渡来し蓮華とも呼ばれる蓮の花が開くころ。「泥(でい)より出でて泥に染まらず」と言われる通り蓮は古来より清らかさの象徴とされてきました。蓮の花は深夜よに闇の中でひっそりと開き始め、完全に開くのは夜明けごろ。そして昼過ぎにはその花を閉じてしまいます。また蓮の実の皮は厚く長期にわたって発芽能力を保ちます。1951年に発見された弥生時代の蓮の実が二千年の時を超えて花を咲かせた「大賀ハス」は国内外で話題となりました。1971年(昭和46年)行田市では小針地区にゴミ焼却場を建設するため造成工事を始めます。この時掘り起こされたのが地中深く眠っていた古代蓮の実であったそうです。1975年(昭和50年)の調査で行田の古代蓮は2500~3000年ほど前のものと判明したそうです。ここ古...蓮始開(はすはじめてひらく)

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