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  • ナガミヒナゲシ

    桜の開花からはやひとつき。春は花の開花に心なごむ季節。新緑の美しさとコントラストして様々な色の花を楽しむ毎日だ。自宅の砂利にもオレンジの可憐な花が咲いている。ポピー(ヒナゲシ)と思って所々で咲いていると思っていたところ。どうやら別の種類のはならしい。「ナガミヒナゲシ」色はオレンジの単色で外来種。他の花を枯らしてしまう「アレロパシー活性」を強く発し、毒性が強い植物だ。茎や葉から出る液に触れると手がただれてしまう。生命力も強く、道路脇やアスファルトでも平気で繁殖してしまうという。観賞用のポピーはアイルランドポピーでシベリア由来の寒冷地の品種。赤、ピンク、黄色と彩りも鮮やかだ。ナガミヒナゲシの毒性は規制されるほどの強さはないが、その繁殖力の強さで生体系を狂わせていく。それぞれの植物の特性を知って人の手を入れてい...ナガミヒナゲシ

  • 五色旗に見る疫神祭の起源

    月明け五月四日に予定されている神事「疫神祭」。江戸期から疫病除けとして田んぼの作業が始まるころ、村の三か所の入口を祓い、「疫神除神璽」の神札を立てて回ることが形として現在も残る。平成初期まで神輿を担ぎ、各個宅で祓いを行い、ともに回る氏子の列を持てなしていたが、少子化、過疎化の波によって神事の形態としてはかなり簡素化している。今年一月、ある氏子宅に戦前の疫神祭の様子が残るということで写真を見せてもらうことができた。代々続く旧家で神社とのかかわりあいも長い。写真のように正装した神職と随行する氏子の姿が印象的だ。明治期なのか昭和に入ってのものか判断できないが、間違いなく疫神祭の写真である考えている。神輿に乗せた御神体を担いだのはおそらく現在の神輿からで戦後の話なのではないだろうか。辻祓いの神璽札については祭りの...五色旗に見る疫神祭の起源

  • 卯月の散歩道

    統一地方選挙後半戦を迎え、市長、市議会とも激戦となりそうな一週間が始まりました。地区内の選挙候補者掲示板前を歩きながら、隣地区の城西公園まで歩きます。月曜日の昼前ということで風も強いせいか誰もいない公園の残りの桜を堪能しました。遊ぶ子供のいない遊具は少し寂しそうですが、つい五年前くらいまでは自分の子供と一緒に遊んでいました。途中道端にはクローバーの茂みがあり、よく探すと四つ葉も見つけられます。人の生活リズムは様々で、自分たちのペースでこれからも歩いていければよいと考えています。地区内のお宅の藤の花もきれいでした。年々樹勢を拡大しているようで屋根の高さまで紫の可憐な花が広がります。以前と比べると選挙の街宣カーが減っているでしょうか。途中2台ほどすれ違いましたが、さほどにぎやかさはありません。それとも戦略の変...卯月の散歩道

  • 蓮の御奉納

    弥生も終わりの30日、行田市蓮の大使木暮照子先生より久伊豆大雷神社社頭に4株の蓮をご奉納いただきました。人形作家、蓮の大使等多くの文化活動を通じ、行田市のみならず全国を巡りながら幅広く社会貢献をされていらっしゃる木暮照子先生。2年前に郷土博物館でお目にかかって以来、私の本務社である皿尾の神社にも大変お心をお寄せいただき、地元の氏子さんにも蓮の花のすばらしさを伝えたいとの思いから、このような立派な蓮の鉢とともに、咲いたときの蓮の色をイメージして蓮の配置、また奉納札を一式ご奉納いただきました。本殿向かって右から「白光連」(白)「小舞妃」(桃色)「紫気逢來」(紅)「太白連」(白)という配置を頂き、黒土と田んぼの泥を合わせながら丁寧に植え込みを行いました。植え込みにはご主人で生物学者の木暮桂先生が境内までお越しく...蓮の御奉納

  • 花梨の花咲く季節

    境内地に一本花梨の木が立っている。隣接する私の自宅にもう一本あり、秋には黄色い実をつけてくれる。完熟したかりんの実は独特の香りを放ち咳止めの効果もあることから健康に良い果実として重宝されてきました。40年前頃には神社参拝者から分けてほしいとの声が多く、喜んでお持ち帰りしてもらったものです。かりんの原産地は中国で古くから薬用や観賞用として利用されていました。日本には平安時代に渡来したといわれ、同じく薬用としてその実を蜜付けなどにしてきたようです。果肉が固く渋みもあることから生食には向かず、その効能を漬けることによってエキスを利用してきたのです。桜の季節と同じころに咲く淡いピンクの花弁は可憐で新緑に映えます。「花梨」の花言葉は「豊麗」。豊かで麗しい花から、秋には芳醇な香りの立派な実をつけてくれるのです。花梨の花咲く季節

  • 蓮田市西城 天満神社

    天平十五年(743)聖武天皇は高僧義澄東国の巡視に遣わせたが、当地の弥陀堂の蓮花を称賛して、弥陀堂に「蓮田村蓮花院弥陀堂」の名称を与えたと伝え、これが「蓮田」の地名の由来とされている。現在人口6万人余りの小都市蓮田の歴史は地名でさえも千二百年を優に超える町である。天平15年(743)は日本史の教科書では「墾田永年私財法」「廬舎那仏建立の詔」が出された時で、奈良時代末期社会的混迷が広まりつつある中で、東国の開拓に活路を見出そうとしていた時代である。一方西城という地名はもちろん古い城があったところで、源平時代に戦に敗れた落ち武者が住み着いて開発したと伝わる。現在公園として整備され春には美しい桜が満開となる。城そのものは「平山城」という室町時代の城跡があり、その西の沼地であったところに当たる。「風土記稿」によれ...蓮田市西城天満神社

  • 行田市 野 満願寺しだれ桜

    「風土記稿」によれば当地は元より広い野原であって、慶長年間(1611~)開発が進み「野村」と称した。当地は行田市の最東南端に当たり戦国期までは忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦のたびに被害を受けている。よって忍の殿様は戦に備えて道を迷路のように屈曲させたと伝わり、現在でも区画整理が入っていない多くの部分でその名残を感じることができる。満願寺は天正年間宗純和尚をもって中興開祖とし現住職をもって第十九世に当たるとある(境内石碑)この間四百年寺門益々興隆し三千百坪偉容を近隣に誇る。然し文化十年(1827)頃火災にあい御堂のほとんどを消失し、その後再建する。昭和五十三年弘法大師千百五十年の御遠忌に際し記念事業として墓地の区画、有縁無縁塔の建立、六地蔵尊の移転等を施工する。宗派は真言宗智山派。鴻巣市の市境にほど...行田市野満願寺しだれ桜

  • 令和五年祈年祭にて

    皿尾城公園の桜も咲き誇るなか、令和五年春季祈年祭を執り行いました。昨年の同時期はコロナ蔓延が続いており、行動制限の解除された春祭りとしてはほぼ三年ぶりとなります。あいにくの桜雨となりましたが午前の自治会総会のあと、令和四年度の年番役員さんの奉仕のもと滞りなく祭典をが進行されました。自治会の役員と神社祭事年番は兼ねますので三月をもって役員さんが交代となります。ですので最後の祭事がこの春祭り、祈年祭となります。これまであまり気にかけておりませんでしたが、年番の最後の奉仕がこの祈年祭となり、同日に次年度に引き継がれています。すなわち祈りの祭事が引き継ぎにあたり、まさしく氏子の願い祈りと共に引き継がれていることにその意味合いに改めて思いを馳せています。新たな年度に向け新たな年番さんと共に祭事を継続していきたいと思...令和五年祈年祭にて

  • 布石

    無名の青空を見上げて途方にくれた日もからかうような風にあおられ居場所をなくしてもたやさず守り続けた灯火はやがて光になったあきらめて手放してそのなかでただひとつ続けてきたものがあるそれがあなたを強くした不確かな月に重ねて大見得切った日も崩れてもまた積み上げたその日々はいつかの布石になった迷ったり背負ったりその度にただひとつ離さなかったものがあるそれがあなたを支えている救われた報われたたったひとつの言葉でその出会いに導かれあなたはここにいる半崎美子『布石』より毎週日曜日の朝6時。ラジオから彼女の声が流れてくる。『はんざき畑』いまでこそメジャーデビューを果たし多くのメディアでも取り上げられた彼女の曲は『無き歌の女王』として多くの支持を集めている。一方それまでの道のりはけして平坦ではなかった。しかも十年以上に及ぶ...布石

  • 鯖缶ショック

    サバの缶詰が高騰している。一部メーカーは出荷を停止しているそうだ。(極洋)食品問屋に勤めていたころ缶詰と言えば極洋、マルハニチロ、宝幸水産など各メーカーが競って味や内容を問屋に売り込んでいたと思う(20年くらい前です)。よくサンプルと称して無償で新商品をもらったりもした。缶詰自体が時代の流れで消費量は減っているのだと思う。レトルトパウチの伸びが大きい。私が食品問屋にいることにはまだ缶切りで開けるタイプも多かった。今ではほぼプルトップ缶(取っ手がついていて引っ張ると開くタイプ)しか置いていない。おそらく子供たちは「缶切り」なるものを使ったことがないのではないかと思う。日本の太平洋沿いを南から流れ込む暖流を「黒潮」オホーツク方面から東北沖に流れる寒流を「親潮」と呼ぶ。サバは日本海で取れるものと、太平洋側で取れ...鯖缶ショック

  • 上ノ郷城と鵜殿長照

    どうする家康、第六話は瀬名姫奪還作戦の上ノ郷城の戦いでした。創作を折り込みながらも非常に興味深い展開で、人質交換の史実に基づくドラマティックな内容で見ていて「大河ドラマ」(史実と創作のヒューマンスストーリー)を十二分に堪能できました。今川義元の重臣鵜殿長照を演じたのは野間口徹さんで私と同世代。国立大学の理系学部を卒業しながら俳優業を志し、アルバイトしながら役者としての下積み時代を長く続けてきたそうです。普段は眼鏡をかけた姿が印象的で、はじめての時代劇で端正な表情が際立っていました。桶狭間合戦当時は尾張への最前線大高城代を務め、松平元康の兵糧入れによって窮地を逃れます。家康の今川離反(織田家との同盟)により敵対し、上ノ郷城で家康の三河軍に攻められました。このとき忍として服部半蔵が活躍した様子が描かれており、...上ノ郷城と鵜殿長照

  • 行田市 和田神社

    行田市和田はかつて条里制水田が広がっていた区域で、現在も多くの田んぼが残る。行田市にこの条里制による地名がいくつかのこっていて斎条、中里などいまでも大字として見られる。和田地区は現在一和田と二和田とに分かれ、こちらは二和田になる。一和田は旧白河村の一部で現在も八坂神社を祀っている。『風土記稿」和田村の項には『伊森明神社、村の鎮守とす宝珠院持、蔵王社、同持」とありこの「蔵王社」が当社にあたり古くは蔵王権現と称した。明治の神仏分離により寺の管理を離れ、社名を御嶽神社と改め、明治41年社号を和田神社としている。大正12年の関東大震災により本殿拝殿が全壊となったが、同地区の地主竹田恒太郎の所有する地に移転し大正14年社殿を新築している。このときの移転造営費用は七千八百円といわれ、現在の価値からすると一億近くになる...行田市和田神社

  • 川越氷川神社

    川越は都心から三十キロ圏内に位置し、交通の便がよく江戸の情緒を感じさせる蔵造りの町並みや多くの寺社が残ることから、近年は首都圏を代表する観光地として賑わいを見せる。「川越」という地名は時代により「河肥」「河越」などとも表記されたがいずれにせよ周囲を川に囲まれた肥沃な土地である。かつてこの河川を利用した舟運により江戸との物流が盛んに行われ物資だけでなく江戸の文化や流行がいち早く伝わったことから当時から「小江戸」と呼ばれていた。また豊かな自然に恵まれた「武蔵野」とよばれる景勝の地はこの氷川神社が北端とされている。創建について氾濫を繰り返し幾度も流れを変えてきた入間川を畏れ、出雲の簸川にこれを見立てて大宮の氷川神社より勧請したと伝わる。御祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命、足名桂命、手名桂命の五柱。中世に入り...川越氷川神社

  • 菖蒲神社

    古河公方足利成氏(しげうじ)が家臣の金田則綱に命じて康正二年(1456)に関東管領上杉氏に対する前線基地としてこの地に築かれたのが菖蒲城と言われている。その竣工が五月五日であったことから菖蒲の節句にちなみ菖蒲城と称された。当社はもとは袋田明神と称し、『風土記稿」においては「袋田明神祭神は稲田姫命、神体銅鏡にて本地薬師像を彫れり、裏に寛文九年(1669)と見ゆる合殿に鷲宮・久伊豆の両社を置き云々」と記される。別当の吉祥院は真言宗の寺院で開基は菖蒲城主佐々木源四郎という。佐々木氏は金田と称し後に小田原北条氏に与するも天正十八年(1590)に豊臣秀吉によって滅ぼされたという。当社の大元となった袋田明神の社名は氏子の間では見沼大用水を隔てた新堀の地に祀る久伊豆神社の御祭神大己貴命のお袋(母親)が稲田姫命であったこ...菖蒲神社

  • ホトトギスと三英傑

    今年の大河ドラマ「どうする家康」。三河の小国の跡取りから人質時代を経て、多くの家臣らと共に悩みながら太平の世を作り上げる生涯を丁寧にまた興味深く描いている。ドラマの中で信長、秀吉、そして家康がすでに交わりを持ち戦国の世を駆け抜けているが、後の三英傑とよばれる三者についてその性格を詠った句がよく知られている。「ホトトギス」の句である。鳴かぬなら殺してしまえホトトギスこれは信長が短気で残忍な性格を表している。鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギスこれは秀吉が知恵者で行動力に長けたことを表している。鳴かぬなら泣くまで待とうホトトギスこれは家康が天下取りの機会をじっとうかがっていたことを示している。このホトトギスの句が広く知られるようになったのは江戸時代後期のことであり、平戸藩主松浦静山が随筆「甲子夜話」に引用して...ホトトギスと三英傑

  • 庭の千草

    庭の千草も虫の音も枯れて寂しくなりにけりああ白菊ああ白菊一人遅れて咲きにけり露もたわむや菊の花霜におごるや菊の花あああわれあわれああ白菊人の操もかくてこそ明治十七年小学唱歌集に載るこの歌の原曲はアイルランド民謡「夏の名残のバラ」日本語訳としては晩秋から冬にかけての自然描写とされる。背後にある人の心情は昭和のころまで多くの人々の共感を得ている。人生の晩年愛する人に先立たれ、一人残された人の寂しくも、凛として最後まで生きる様が歌い上げられえている。季節の花々を手水に挿し人の癒しとなればとの思いで花手水を続けている。花を見るたびに先立った人を思い出すのだろう。幸い私はまだ伴侶となる人とともに歩いている。いつかどちらかが先立つ日も来るだろう。それでも尚凛とした生き方ができるよう、ともに歩く時間を大事に過ごしたいと...庭の千草

  • 合掌の気持ち

    強烈な寒波に見舞われて、ここ関東も氷点下の真冬日となりました。昨晩の暴風でお社の木々も吹き飛ばされそうで心配しておりましたが、大きな被害もなく済みました。一夜明け、境内地を見回りながら自然の力に改めて思いを馳せ、人の営みの小さきを知る思いでした。皿尾城土塁跡に繁る杉の木々は樹齢何年ほどになるのか定かではありませんが、長きに渡り風雨からこの社殿を守ってきてくれたことに変わりはありません。改めて早朝に手を合わせていました。手水舎の竜神から流れ落ちる水が太い氷柱となって姿を変えています。ここ数年で見たことのない姿です。手口をすすぎ、清らかな心身でお参りすることが神社参拝の作法とされておりますが、どうしてご神前にお参りすることで、より清らかな心持ちとなるのでしょうか。願いを神様に叶えていただくため、あるいは願いが...合掌の気持ち

  • 花崎城址を訪ねて

    花崎城址は東武伊勢崎線花崎駅の北西約50mに位置し、遺跡としては加須市指定史跡となっている。昭和五十六年ごろまでに畝掘、馬出しに加え、珍しい障子堀が発見されている。「障子堀」とは城の守りを固めるため、堀の中に畝や障壁を作ったもので、静岡県の山中城のものがよく知られている。障子彫りが見つかったのは写真とは別の東武線の反対側(北側)であったそうで、しかも山中城の障子堀の畝が2m近くあるのに対して、花崎城の畝は30cmほどの規模だという。これではさほど堀としての防御機能を果たさないと思われたが、文化財調査報告書では畝を設けることで堀の中の排水を抑え水をため込む状態にすることで敵の侵入を難しくする意図があったと考えている。花崎城は沼や湿地に囲まれた台地の上に築かれた城だったと考えられている。湿地帯という自然要塞に...花崎城址を訪ねて

  • 屋敷稲荷と裏白の木

    氏子区内のお宅で屋敷稲荷周辺の樹木を伐採をするにあたってお祓いをしてほしいとのことで、樹木伐採報告祭を執り行いました。当地区内でも古くから代々続く家柄で広大な敷地を有します。初めて敷地内のお社を拝見させていただきましたが、稲荷社と天神様の一間二社造りとなっている貴重な屋敷神様で驚きました。御神体としてはいる幣束の紙垂を当家で毎年切り替えていますが、私の曾祖父の名前が記されています。御神木はウラジロの木という常緑樹で、葉の裏側が白くなるそうです。敷地内の整理でこの御神木を残して、屋敷森をたたむようです。田舎暮らしでも、屋敷林を維持して行くのが難しい時代になりました。お祓いのあとお屋敷でお茶をいただきながら、古い写真を見せていただきました。明治期のもので、当地区の厄神祭の様子でした。五色旗があり当時の様子を良...屋敷稲荷と裏白の木

  • 特別史跡 さきたま古墳群~いかにして守られてきたか~

    令和五年一月度行田市民大学、市民大学同窓会の合同講演会が開催されました。会場は行田商工会館4階、年に一度の合同開催ということで120名近くのご参加を頂きました。市民大学では1,2年生ともさきたま古墳に関する講義があります。郷土史に関する知識として、行田市民の皆さんにより詳しく知ってほしいとの願いから、今回改めて合同企画としてさきたま古墳に関する講演となりました。講師はさきたま史跡博物館主幹学芸員である佐藤康二先生です。令和二年三月埼玉古墳群は全国で63番目、古墳群としては67年ぶりの3例目として令和初の特別史跡に指定されました。特別史跡とは「史跡のうち学術上の価値が高く、わが国文化の象徴となるもの」とされ有形文化財でいえば「国宝」に相当します。古墳公園として整備され、多くの来訪者を迎える現在ですが、昭和初...特別史跡さきたま古墳群~いかにして守られてきたか~

  • 厭離穢土 欣求浄土

    徳川家康の陣中旗に記される浄土宗の教え。厭離穢土欣求浄土とは穢れた現世を離れ極楽浄土へと向かいなさいという、源信の「往生要集」にある言葉だという。今年の大河ドラマ「どうする家康」の第二話は桶狭間の戦いで織田信長の軍勢に今川義元が討たれ、今川方の大高城へ兵糧を届けながらも、最前線で取り残される様子が描かれていた。松平元康(家康)と信長の出会いは幼少期まで遡る。元康の父松平広忠は尾張の織田信秀の度重なる侵攻に苦しんでいた。今川の助けも望めなかった広忠は竹千代(元康)を渥美半島の戸田宗光へと預けるが宗光の裏切によって、宿敵尾張の人質となってしまう。信秀によってその命を絶たれるところを、使い道があると拾った(預かった)のが信長であったとドラマでも描かれていた。その後信長の兄と人質の交換として今川へ差し出された元康...厭離穢土欣求浄土

  • 水平線

    できるだけ嘘はないようにどんな時もやさしくあれるように人が痛みを感じた時には自分のことのように思えるように正しさを別の正しさで失くす悲しみにも出会うけれど水平線が光る朝にあなたの希望が崩れ落ちて風に飛ばされる欠片に誰かが綺麗と呟いてる悲しい声で歌いながらいつしか海に流れついて光ってあなたはそれを見るでしょう自分の背中は見えないのだから恥ずかしがらずに尋ねるといい心は誰にも見えないのだから見えるものよりも大事にするといい毎日が重なることで会えなくなる人もできるけれど透き通るほど淡い夜にあなたの夢が一つ叶って歓声と拍手の中に誰かの悲鳴が隠れている絶える理由を探しながらいくつもの答えを抱えながら悩んであなたは自分を知るでしょう誰の心に残ることも目に焼き付くことのない今日も雑音と足音の奥で私はここだと叫んでいる水...水平線

  • 水平線

    できるだけ嘘はないようにどんな時もやさしくあれるように人が痛みを感じた時には自分のことのように思えるように正しさを別の正しさで失くす悲しみにも出会うけれど水平線が光る朝にあなたの希望が崩れ落ちて風に飛ばされる欠片に誰かが綺麗と呟いてる悲しい声で歌いながらいつしか海に流れついて光ってあなたはそれを見るでしょう自分の背中は見えないのだから恥ずかしがらずに尋ねるといい心は誰にも見えないのだから見えるものよりも大事にするといい毎日が重なることで会えなくなる人もできるけれど透き通るほど淡い夜にあなたの夢が一つ叶って歓声と拍手の中に誰かの悲鳴が隠れている絶える理由を探しながらいくつもの答えを抱えながら悩んであなたは自分を知るでしょう誰の心に残ることも目に焼き付くことのない今日も雑音と足音の奥で私はここだと叫んでいる水...水平線

  • 加須市 大越 鷲神社

    加須市の北側を流れる利根川は江戸初期の治水工事により、北流して渡良瀬川に合流する合の川と、大利根町境を南流する古利根川とに分流されやがて現在本流となっている新川通りの開削によって渡良瀬川と合流することになった。この地域自他が坂東太郎と称される利根川との闘いを背負ってきたことを物語っている。当地は江戸期から対岸の飯積との間を結ぶ渡船場で、日光街道と中山道を結ぶ脇街道としての要路に当たっていた。明治八年までは下大越村と称し、米麦と養蚕が盛んであった。しかも利根川を眼前にしながら堤防が決壊することなく下流には砂山と呼ばれる河畔砂丘があることから水害による被害が出ることはなかったという。その反面干損に悩む土地柄で、雨乞をした歴史が残っている。その原型が現在無形民俗文化財として指定されている「大越三耕地の獅子舞」で...加須市大越鷲神社

  • 加須市 大越愛宕神社

    加須市大越は利根川流域に広がる広大な農業地域で、利根川河川南側に位置する。中央部の大川地区の鎮守が愛宕神社で、大川というのは古くはこの大越村と下総国との境にある浅間川という大河をさし、浅間川を越えたところを大越と呼んだ。父なる大河利根川により肥沃な農地が広がる一方で、かつては河川の氾濫にも長らく悩んだ場所である。今でも鎮守として祀られる神社は、小高い山の様な所に立つ。口碑によれば、昔大乗坊と呼ばれた山伏が当地に愛宕山大乗院を開祖し、境内に祠を祀ったことが起源とされる。その後疫病が蔓延し、厄神除け祈願をしたところ沈静化し、以来疫病除けの信仰が残っている。御祭神は加具土命で本殿に宝暦二年(1752)に奉納された勝軍地蔵が安置されている。(「埼玉の神社」より引用)現在の社殿は昭和55年に改築された立派な社殿であ...加須市大越愛宕神社

  • 忍 東照宮

    忍城址のある内行田地区は室町期成田親泰が城を築き、城下の造営を進めたことが発展のはじめとされ、江戸期には十万石の城下町の中心として栄えた。当社は家康の娘亀姫が父の肖像画を頂き、子の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山の地に社を造営して肖像画を安置したことに始まる。別当として久昌院が祭祀を奉仕した。以来藩主の崇敬する神社となり松平家移封のたびに遷座され文政六年(1823)桑名より別当ともども忍城内へと鎮座した。(行田市HPより引用)明治始めの神仏分離令により藩主東京移住のため祭祀断絶の危機を迎えるが旧藩士らの存続運動で諏訪郭内の諏訪神社境内に本殿を移し、明治三十三年(1900)藩祖松平忠明公を配祀し現在に至っている。明治維新の際旧親藩である忍藩は多くの私財を没収され、苦難の時を迎える。当時の混乱の様子は今も所々...忍東照宮

  • 君の願いが世界を輝かす

    誰もが胸に夢を抱いているいろんな色の花が咲くようにその輝きは世界を照らすさあゆこう自分を信じてみて君の願いに君の夢があるだから伝えてその思いを夜空に輝く星のように君の願いが世界を輝かすIdream・・・昨年末師走のあわただしさを潜り抜け、千葉県夢の国を尋ねました。海のほうに行くのは14年ぶりだと思います。昨年夜間の水上ショーが新しくなり、そのメインテーマbelieveの音楽をMISIAが担当するということで、どうしても夫婦そろってみてみたかったのです。結婚前から奥さんのほうが彼女の楽曲をずっと聞いていて、私もその世界観に惹かれていきました。海の迷えば星を探せばいいそうして船は進んでゆくのその輝きは世界を照らして望む場所へと導いてゆくの心開いて空を見上げて君の光を見つけ出そう夜空に輝く星のように君の願いが心...君の願いが世界を輝かす

  • 自販機に見る陳列の三原則

    日本の治安の良さを示す指標の一つとして自販機(自動販売機)の豊富なことがあげられる。飲料を中心に様々な商品が無人の自動販売機で売られている。生卵など生鮮品もあれば一時期おでんの缶詰などが話題になった(天狗缶詰のこてんぐ缶)最近では冷凍の餃子が話題になっている。「行田の餃子」と銘打ってご当地名産となるよう頑張っているようだ。昨年駅前に自動販売機も設置され、観光客はもちろん、駅を利用する地元の人々にも認知されてきているようだ。また新聞の地元欄にも何度か取り上げられている。今日夜間に初めて自販機を見ながら買おうか買うまいか考えていたところ、すでに夕食の準備も済ませていたためか購入は次回に持ち越してしまった。もちろん買ってみたいという気持ちもあったが、もう一つ購入に踏み切れなかったことの理由に商品そのもののに姿が...自販機に見る陳列の三原則

  • ロマンスの約束

    これから二人過ごしていくために約束してほしいことがあるの声が枯れて名前が呼べなくなるその日まで忘れないで光を探すような眠れない夜は朝まで手を握っていてほしい沢山の愛で溢れたなら明けない夜の夢をみせてほしい天秤はいつも傾くけど今夜だけは同じでいたい二人で進み始めたこの列車の切符は最後まで無くさないでねもしも行く先を見失ったならその場所でまた始めよう頬を濡らすような眠れない夜は心地いい左肩を貸してほしい沢山の愛を知れたのなら口紅を溶かすようなキスをしてそのあとは鼻先でくすっと笑って終わりはないといって抱き締めて君の短所や私の長所が変わってしまっても代わりはいないよきっと思い出が示すよまた手をとろう星屑のようなこの世界で照らされた光のその先にいたんだ君のままそのままが美しいからそれしいいそれだけでいい沢山の愛で...ロマンスの約束

  • イチゴの日の思い出

    誕生月は以外とその人の性格を表しているようで、一月五日生まれの長男はおっとりしていて性格もいたって穏やかだ。もう少し自分の気持ちを全面に出してほしいと思うこともしばしばだが、中学に入って始めたテニスの試合を観る限り、その心配も薄らいだ。やるべきときには全力で取り組み、それでいて相手を思いやる心を忘れない。今のまま更に成長しもって生まれた優しさと思いやりの心を多くの人にと届けてほしいと願っている。長女の誕生のときにはできなかった立ち会い出産から14年が過ぎた。男親というのは無力なもので、出産当時は本当におろおろするばかりであった。出産直前の病院食がなぜか焼き魚のホッケであり、とても出産にあたる本人は苦しくて食べられす、代わりにのうのうといただいたことをいまだに恨まれている。そう男親とはそういうもので理不尽さ...イチゴの日の思い出

  • 初詣の起源

    新しい年に初めて社寺に参拝することを「初詣」と言います。大晦日の日没を年の区切りとしていた頃には初詣は大晦日の夜に行うものとされていたそうです。現在でも大晦日の晩に家を出て、新年を迎えてから参拝する方も多く古くは「二年参り」とも呼びました。紅白歌合戦を見届けて、氏神さまへと歩いて行き、「行く年来る年」を見ながら参道で待つ。皆様のNHKの定番はもちろん戦後の風習であるのです。実は初詣の歴史は浅く、そもそも元日に寺社へお参りする風習は明治以降のものだと言います。江戸時代までは静かに年神さまを自宅でお迎えするのが習わしだったようです。なぜ元旦の寺社詣りが盛んになったかと言えば、明治維新による富国強兵政策のひとつある鉄道網の整備にあると言います。殊に神奈川県の川崎大師は人気で三が日の100万人の参拝客を集め、18...初詣の起源

  • お天道様が見ているから

    令和五年もすでに七日を過ぎ、年頭の挨拶も尽くされた感もありますが、こうして長年続けているブログに新年のご挨拶を申し上げます。令和五年年頭に際し、皇室の弥栄をお喜び申し上げますと共に、皆さま方のご健勝とご多幸を祈念いたします。本年の干支は癸卯(みずのとう)陰陽五行による水の陰とうさぎ年。滴り落ちる水の恵みにより草木が芽吹き、うさぎの跳ねる飛躍の年だそうです。多くの方がそれぞれの願いを胸に初詣に出掛けたことでしょう。健康長寿、運気向上、家内安全、学業成就。願いは様々です。五十代初の新年を迎え、思うことはたくさんありますが、私自身の今年の目標は普段からの生き方の指針を変えないことでしょうか。具体性に欠けますが「お天道様がみているから」こうした感覚を多くの人に広げたい。先行きの見えない少し不安な毎日のなかでも、私...お天道様が見ているから

  • 令和四年末 ~餅つき~

    今日は新年に向けての餅つきでした。多くのご家庭では25日過ぎから28日に行われると思いますが、私自身神職と流通小売業の兼業であることから、これより先激務が続きますので少し早く新年の準備をしております。餅つきそのものは古くからの伝統行事(しきたり)でありその意味合いは歳神様にお供えする鏡餅を作るためだとされます。餅つきそのものが神聖な神事の一つと考えられてきたそうです。昔の銅鏡の様な丸い形をしていることから鏡餅と呼ばれました。鏡は魂を表す神器であり、歳神様にお供えした鏡餅を食べることにより新たな使命力を授けられると信じられてきました。鏡餅の大小二つの餅は月(陰)と太陽(陽)を表していてこれを重ね合わせることで福徳が重なり縁起がよいといいます。鏡餅は28日までに飾り正月11日の鏡開きを迎えて下げ汁粉や雑煮にし...令和四年末~餅つき~

  • ブルショット・ジョブにあふれた世界を生き抜くには

    物価高騰に直面した社会の中で、多くの矛盾や過去の政策の失敗が明らかになりつつある中でも今日明日の私たちの暮らしが激変しているわけではない。本当の有事は音もなく忍び寄るというが、少しづつのわずかな変化の繰り返しが私たちの社会生活をよくもし、悪くもする。イノベーションという言葉がもてはやされ、多くの企業が経営に反映するよう努めているが、技術革新、創造的進化なるものが一朝一夕に叶うものではないことは確かだ。ペーパーレス社会の進行によって、デジタル教科書の導入も近い。覚えた知識を紙に書いて答えるというこれまでの教育も見直される日が来るだろう。しかし幼少期における(青年期まで含め)社会的また科学技術的な基礎知識を記憶にとどめ、人格と知識を融合し成長するのに本を読み筆で書き伝えることは文化的に最低限必要なことだろう。...ブルショット・ジョブにあふれた世界を生き抜くには

  • 令和四年 霜月花手水

    行田市商工会と市の観光課が中心となって行われている、市内のイベント花手水。すっかり行田市の観光の中心的役割を果たしています。行田八幡神社、忍城を中心に毎月二週間花を刺し、毎月第一土曜日にライトアップイベントを行っています(希望の光)。十一月は第三週で、本日が年内最後のライトアップの日でした。市街地から2キロ離れた小さな神社ではありますが、観光課から声がかかって当社も花手水を始めて一年以上が経ちました。夏から秋にかけてマリーゴールド中心の手水でしたが、晩秋から初冬を迎え境内地内に咲く菊の花を挿しています。花を用意するのが大変という声を聞いたことがありますが、お陰さまで自然に任せた花花で、花手水を飾ることができています。空気が澄んで晴れの日には西の秩父連峰の美しい山々を見ながら花を挿しています。神域の尊厳と自...令和四年霜月花手水

  • 幸手市 神明神社(右馬之助町)

    日光街道の宿駅であった幸手宿は五つの町内に分かれ、当社はこの右内馬之助町の鎮守として祀られてきた。この地の開拓者である新井右馬之助は一色氏の家臣であったであったが、その後当地に土着し代々名主を務める家柄となった。元禄十二年(1699)に幸手宿に取り込まれ街道の面して旅籠屋や問屋などが軒を連ね、宿場町として多いに発展を遂げている。当社の崇敬の高まりには菅谷不動尊と成田不動尊の二つのお堂の建立があげられる。これらは安政二年(1855)に豪商上野谷庄兵衛が祀ったもので、二つの不動尊のうち、菅谷不動尊は「田螺不動尊」とも呼ばれている。眼病に悩む人々を救い、目を病む人々は田螺を食べることを断って不動さまに絵馬を奉納したという。医者にかかかってなおらなかったものが不動さまにお願いしたところすっかり治ってしまったという...幸手市神明神社(右馬之助町)

  • 幸手市 一色稲荷社

    幸手といえば桜の名所権現堂があまりにも有名で、町全体が桜のイメエージで施されているがそもそも「幸手」とはアイヌ語で乾いた原野を語源とするともされるが詳しくはわからない。日本武尊の東征の際「薩手ヶ島」に上陸したとの説もあるが薩手が転じて「幸手」となったと考えられている。また全国の市町村で「幸」の字が表記されるのはここ幸手市だけだそうで、「日本一幸せな町」を目指している。江戸期からの日光街道の宿場町で、権現堂川の水運と相まって近郷の中心地であったという。幸手駅そばの一色稲荷社は幸手城の跡地と考えられている。幸手城は下総古河公方足利成氏の枝城で越後上杉に対する備えとして一色氏に守らせたものと伝わる。天正十八年小田原落城とともに廃城となった歴史を持つ。古河公方足利氏の家臣一色直朝は天文年間足利晴氏に従いその子義直...幸手市一色稲荷社

  • 春日部 八幡神社

    春日部郷は下総国葛飾郡下河辺荘に属した中世の郷で、戦国時代には「粕壁」「糟ケ辺」とも表し、鎌倉時代には紀氏系春日部氏が拠点とした。延元元年(1336)後醍醐天皇は「下河辺荘内春日部郷地頭職」を春日部滝口左衛尉重行に宛がっている。当社はこの春日部郷の中心地であった浜川戸に鎮座し、境内の北東側の高台は春日部治部少輔時賢の館跡と伝わり、周辺の発掘調査で平安から鎌倉時代にかけての住居跡が発見され春日部氏一族の遺跡として考えられている(浜川戸遺跡)「武州春日部八幡宮縁起」によれば新田義貞の家臣春日部治部少輔時賢は日頃より鶴岡八幡宮を厚く信仰し弓馬の武運を祈っていた。元弘元年(1331)鶴岡八幡宮に参篭して祈願していたところ、満願の夜明けに不思議な容姿の老翁が現れて「汝の城周辺に清浄な地があるので、彼の地に鎮座して繁...春日部八幡神社

  • 心身を病む労働者

    2021年厚生労働省が公表した過労死白書には長時間労働や強度のストレスが原因と認められた500人近くの実態分析結果が記されている。半数近くはうつ病などの精神疾患を発症して6日以内に死亡している。2週間以上の連続勤務月80時間以上のの時間外労働上司とのトラブル過度な仕事量などが認められている。厚生労働省は現在残業時間の上限を月45時間、年間360時間と定めている。企業側はこのラインを守るために様々な規制をもうけているが、資本主義のパワーバランスにおいて労働者のほうが圧倒的に弱い立場にいることは明らかだ。なぜ労働者は過酷な労働環境下で働き続けるのか。昔の奴隷のように強制労働させられていないという一見自由な立場という錯覚と、自分では生産手段がないという現実。だから労働者は労働時間の短縮を目指せとマルクスは資本論...心身を病む労働者

  • これからのこと、それからのこと

    不甲斐なさで浪費した時間はもう帰らない今の私は誰がどう見てもそう空っぽなの悔しさかやけくそかわからない気持ちで意味もなくふらついていたところに落っこちたのです案外そういうものなのよ流れるだけ流れたらいいどんな自分も受け入れてく生まれたての私でいればいい失うものなんてもうないもうないし残すところはスタート切るだけの伸び代ばかりそろそろ考えてもいいかななんて過去を嘆くのは馬鹿馬鹿しいとやっと気付いたよこれかのことそれからのことあなたとのことあなたとのこと私事ですが五十歳を迎えることができました。一枚目の写真は今日の朝日です。朝靄がかかり美しい風景でした。二十代、三十代、四十代。やはり振り替えると十年ごとに自分なりに節目があり、まっすぐに続いている人生の時間軸もそれぞれ長かったり、あっという間であったり感覚もそ...これからのこと、それからのこと

  • 埼玉と東京の水を支えた見沼大用水、武蔵水路の歴史と役割

    行田市民大学同窓会令和四年10月講演会が開催されました。会場は行田市総合体育館グリーンアリーナ研修室です。市民大学を卒業後三年近く経とうとしていますが、自分のライフワークとして同窓会の企画研修委員を務めています。年二回の講演会を開催するのが主な役割で「生涯学習」を継続する貴重な機会となっています。約80名の参加者がありました。前回まで渋沢栄一や塙保己一、荻野吟子といった人物にスポットを当てた公演が続いていましたが、今回は埼玉の治水事業というテーマで、井澤弥惣兵衛といった歴史的人物に加え、見沼大用水や武蔵水路の現在の役割といった環境問題にフォーカスした内容で講演を依頼しました。市民大学では郷土史と環境問題について学ぶ機会が多く、それに福祉の問題を加え、生涯学習の三大テーマとなっています。世界灌漑施設遺産に認...埼玉と東京の水を支えた見沼大用水、武蔵水路の歴史と役割

  • 誠とは

    身を修め心正しき人をこそまことの人といふべかりけれ国学院大學おみくじ(十三)より「神道とは誠である」という。その「まこと」の道とは、具体的には清浄・正直であると教えている自分の心身を律するのに常に正直であり、正義を失わないようにする人を「まことの人」と言うのである。出典は島根県出身の野田菅麿が明治二十三年に発布された教育勅語の徳目のひとつひとつを和歌に詠じた「謹詠教育百首」のなかの一首。キリスト教が「愛」、仏教は「慈」と表される宗教と言うが、神道を表す一文字があるとするならば「誠」となるだろう。誠とは

  • 小見 久伊豆神社

    扇状地末端で水が湧き出る場所を「おみ」と呼びそうで、周辺には「谷郷」や「若小玉」といった水に由来する地名が並ぶ。小見といえば真言宗真観寺が有名で、当社を「鎮守さん」真観寺を「観音さん」と呼び参拝するときは必ず両寺社にお参りするのが習わしだという。当社は旧小見村の鎮守であり幕政期は修験専蔵院が別当を務めた。往時「久伊豆社」と号し社号額に「正一位久伊豆社」とあったことから、江戸期には吉田家からの宣旨を有していたことがわかる。忍城成田家は久伊豆神社を守護として祀り領内各所に勧請している。成田家の出生地である上之、忍城に入場する前に居を構えた皿尾、忍城の鬼門口である長野、裏鬼門に当たる持田の大宮口、岩槻からの守りを固めた野、羽生領との境を接する真名板、そしてここ小見である。日光脇街道に近く、舘林方面からの守りを固...小見久伊豆神社

  • 新人戦 県大会予選~我ら忍中庭球部

    令和四年中学校部活新人戦が始まりました。埼玉県大会の予選である北埼大会の団体戦が行われました。会場は加須市民公園です。早朝4時からお弁当作りが始まっていました。忙しい大会の合間においしく食べられるようにと「肉巻きおにぎり」を作っていました。さすがにこういった調理は私にはできませんので作ってくれる奥さんに感謝するばかりです。夏以降の練習試合での成績を見るとおそらく県大会に出場する実力はありそうですので期待は高まる一方でした。戦う本人以上に親のほうが力が入ります。初日の今日は団体戦。明日が個人戦です。大会運営の都合で今日の団体戦は保護者の観戦ができませんでしたので、一日ただ祈るだけでした。一校から3ペアが出場し、リーグ戦で戦います。決勝もリーグ戦のようで成績上位の2チームが埼玉県大会に出場できます。私自身も同...新人戦県大会予選~我ら忍中庭球部

  • 双葉

    サヨナラが近づいているその意味に悩まされる八の字に曲がった君の眉が懐かしい思い出すよ出会いの記念日荒れた頬にあたたかいキスをくれたよね泣きべその顔ひどく汚れて一緒に笑ったよねもう覚えている全部が青になるあの日よりも少し遠くで今伝えたいことが君も大人になったら恋をするんだよ運命の人に出会うまでは傷が絶えないかもだけど悲しみなんかは気づけば雨になる心耕し花が咲くまでかわいく揺れなよ双葉18歳世代の想いが集められた曲だという。歌詞だけ追うと母から子へ向けた手紙のようだが、若い人たちへのあたたかい応援歌のようだ約束の春が訪れてあたたかい空気をこぼしてまるで君との会話みたいで幸せって今思ったよずっと忘れないで胸の中に落ちて誰も知らないところでいつかまた瞳を覗かせて君が大人になったら見つけるその夢を限りなく側で見てい...双葉

  • 皿尾八幡宮の曼珠沙華

    秋分の日も雨模様の一日でした。ここのところ台風の発生が多く、お彼岸商戦もどことなく寂しい日が続きます。昨日の皿尾八幡宮の彼岸花の様子です。八幡宮は昔から氏子持ちのお宮て現在も神社庁下の登記神社ではありません。こうした神社も各地に点在し代々その家々で守っています。神社という形よりも祖先から継いできた信仰が途切れていないのでしょう。彼岸花は江戸期にはその様相から人々に恐れられる花だったようです。「幽霊花」「死人花」.とも呼ばれていました。「曼珠沙華」という名は赤い花のことで、仏教では天界の花の意味します。昼夜の長さが同じになる中日。真西に沈む太陽の先にご先祖様がいると信じられてきました。秋には感謝を捧げる自然信仰意味合いもあるそうです。皿尾八幡宮の曼珠沙華

  • 斎條 剣神社

    行田市斎條は西条とも書き、条里制水田に由来した地名である。同じく私の住む星宮地区の中里も同じ条里制に由来する地名だ。社記によれば景行天皇の御代御諸別王(みむろわけおう)が勅命を報じて、父彦挟島王(ひこさしまおう)に代わり東国支配を宣言する。ご祭神として御諸別王を祀る御室神社は加須市にある神社で、この時代の地方支配を今に伝えている。(樋遣川古墳群)御諸別王は東国開発の祖である日本武尊の霊を水陸の要である当地に守護として祀る。さらに康平五年(1063)には八幡太郎義家が安部氏を討伐するにあたり、社前に馬を休めたと伝わる。行田八幡神社も源頼義、義家親子の伝承が残るなど、武家社会より先にこの地(忍の行田)が東国の律令国家の支配の重要地点であったことを伝える伝承である。利根川の酒巻交差点からわずかに離れた場所に鎮座...斎條剣神社

  • 新米さん、新前さん

    気候変動のせいでもあるのか、ここ北武蔵の米の収穫も年々早くなっている気がする。耕作委託する農家から今年の新米の納入日が10月3日と連絡があった。通勤時辺りを見渡すとすでに刈り入れも始まったところも見受けられる。農家曰く、「コシヒカリ、キヌヒカリは早稲の部類で、彼岸前には刈らないと間に合わん」そうだ。ここ数年政策で増やしてきた彩のかがやきだけは晩稲に近いそうで、10月過ぎで十分間に合うという。やはり刈り入れ時というのもあって、穂が実りすぎて倒れてしまっては元もこもない。無事に稲刈りが終わることを願う。新米とつくとスーパーでは価格が高くつけられるようで、西日本中心に続々と各地の新米が店頭に並ぶ。新米というと仕事の入りたてのひとを指す時に使われるが、語源としては新しい前掛けの「新前」が先だったという。新入りとい...新米さん、新前さん

  • ヤクルト1000人気で思い出す時任三郎

    ヤクルト1000の人気が続いている。我が家ではヤクルトレディーから宅配でヤクルト400をとっているが何度か1000も買ったことがある。生産が追い付いていないそうで、小売店(SMやCV)では点数制限がかかっており、入荷してもすぐに売り切れていまい、棚がからになっていることが多い。また高齢者の購買頻度が高く、早朝SMでは開店と同時に売り場へ駆けて行く客も多い。(それだけ健康なのだろう)ヤクルト1000の人気の秘密は乳酸菌シロタ株を約1000億個含み、ストレス緩和と睡眠の質向上をうたっている点だろう。もともとは地域限定商品だったそうで、21年4月以降全国に販売を広げ宅配利用者の口コミがヒットに繋がり、品薄となるほどの人気をはくしている。これだけ人気が出てしまうと当然他のメーカーも同様の商品を投入して来ており、森...ヤクルト1000人気で思い出す時任三郎

  • ビックマックの経済学

    為替相場が連日騒がしい。1㌦140円を優に超え、行き着く先がいくらか見通しが立たないようだ。1998年以来の140円台だということで四半世紀ぶりの円安水準。1997年に消費税が5%となり当時新卒一年目のサラリーマンだった私は、日々忙しいだけで当時の経済状況をあまり覚えていない。こんなに騒ぎになってはいなかった気がする。ラジオの経済学者の見解によれば1㌦90円から100円が安定水準だというから、要するにいま日本はものを輸入するのに1.5倍の資産を費やしていることになる。デフレで給料が上がらないから2%の物価上昇を目標にしてきたはずなのに、とんだ見当違いな政策だったのだろうか。7月の消費者物価指数(生鮮品を除く)は前年比2.1%だったそうだ。(目標ピタリ)ところが世界を見渡すと、物価指数の上がり方は日本と比べ...ビックマックの経済学

  • 旧吹上町 下忍愛宕神社

    下忍村は忍城下忍口の南にあり、忍城に対して下と唱える家臣団の住居地であったという。古くは下忍村は上分、下分に分かれ昭和三十一年に上分が行田市に、下分が吹上町に編入されている。古墳時代後期に築かれた「愛宕山古墳」の上に鎮まる当社は江戸期には隣接する真言宗千手院が納める寺持ちであったという。愛宕神社に残る三枚の棟札のうち最も古い延宝元年(1679)のものには「施主島崎新五右衛門」と記されていて、この島崎家が当方の近くに居を構える旧家で、鉢形城の落人としてこの地に土着し開墾を行ったと伝えられており、愛宕神社の勧請に深くかかわったとされている。当社の重要な行事に泥持祭がある早朝から境内に氏子が参集し畚(もっこ)で田んぼの泥を古墳に担ぎ上げて補修を行うものだという。口伝によれば三月二十四日が忍城の堀浚いの日であって...旧吹上町下忍愛宕神社

  • 大芦 氷川神社(旧吹上町)

    旧吹上町大芦は元荒川と荒川に挟まれた低地で集落自体は旧川道の自然堤防の上にある。かつて当地の南西には大芦河岸があり、日光脇街道の渡船場としても栄えた。村の開発は年代は明らかではないが、慶長十二年(1607)の「足立郡箕田内大芦村御検知帳」が残る。当社は大芦村の鎮守として祀られて来た社で「風土記稿」には「氷川社、医王寺持ち」と記される。江戸期に別当だった医王寺は真言宗の寺院で開山は賢秀。二世の秀英が貞享三年(1686)に没した記録が残っている。明治六年に村社となり区内の各社を合祀(稲荷社、雷電社、八坂社、神明社等)社蔵の算額が鴻巣市の指定文化財となっている。嘉永三年(1850)関流の小林要吉郎勝栄が奉納したもので、一門は広く大芦、吹上、明用、箕輪など付近の各村にわたり、和算の上達祈願をこめたものとして知られ...大芦氷川神社(旧吹上町)

  • 渋谷の丘に吹く風

    自分がこの先続くであろう長く苦しい人生をなんの義務があって最後まで生き続けなければならないかわからず深く悩む人は多い。今現在なぜ生きるのか。苦しくないのか。すでに達観に至る人にとっては一切の苦はないでしょう。しかし多くの人にとって苦とは常に背中合わせ。その生をなぜいきるか。生きると決めたあとの人が人生をより長く、より便利にするものが医学であり理工学であるそうです。文学とはその手前で必死に息を詰めて考えている孤独者に囁きかける学問のこと。文学も哲学も「生きる」という自分のおかれた状態「生から死までの限りある線分」とはいったい何か自分なりの「言葉」を与えるための知なのです。「生きる」を考える営みこそもっとも激しい生き方であると言います。生を燃焼させず、目の前にある世界と格闘もせずただ老いて死ぬことを待てますか...渋谷の丘に吹く風

  • 自動車産業の未来

    薄紅色のかわいい君のね果てない夢がちゃんと終わりますように:君と好きな人が百年続きますように(ハナミズキより)人生百年時代と呼ばれるようになったのはいつからだろう。つい先日明治維新150年といっていたように感じる。モータリーゼーションとは自動車が普及し生活必需品とする現象で、日本においては1946年東京オリンピックの直後から進んだと考えられている。高速道路の拡張、オイルショック以降の石油価格の低下などが後押しした。1960年代から70年代にかけての三種の神器はカラーテレビ、自動車、クーラーだったそうだ。田中角栄による日本列島改造論で新幹線の整備と高速道路の拡張がより進んだともされる。それに合わせてメーカー側もTOYOTA、NISSAN、HONDA、SUZUKI、など日本を代表する会社となっていった。200...自動車産業の未来

  • 処暑 初候 綿柎開

    「柎(はなしべ)」とは花の萼のことで、綿を包む萼が開き始める頃。綿のは花は七月から九月にかけて立葵に似た淡く黄色いきれいな花を咲かせます。その五十日ほど後に実が熟し萼が弾けて白いふわふわした綿毛に守られた種子が飛び出します。この綿糸を紡ぐと木綿の糸や布になるのです。種子からは綿実油が採れ食用油としても利用されます。なんと六千年前ごろからメキシコで綿花の栽培が行われていたとも言われてえいます。精霊蜻蛉とも言われる薄羽黄蜻蛉。祖先の魂を乗せてくるとの伝承からこう呼ばれるようになったそうです。昔を懐かしむように何度も同じ場所を飛び交う姿に精霊を感じる人が多かったのでしょう。気がつけば稲穂も頭を垂れるところも見受けられ、虫の鳴き声もセミから鈴虫へと引き継がれているようです。処暑初候綿柎開

  • はしゃいだ夏の終わりに

    長かった夏休みもようやく終わりが見えていました。行動制限のない夏休みは三年ぶりということで、お盆前には茨城の海へと出掛けささやかながらも夏の旅行となりました。中学高校ともなれば部活や友達同士の遊びに夢中になりますので、こうした家族での旅行は中々貴重な機会です。海ではしゃぐのは子供も大人も同じです。子供連れが多くみられましたが、大学のサークルや大人二人連れ、年配のご夫婦らしき姿も見られました。「はしゃぐ」とはもともと「はしやぐ」と言い、「燥ぐ」と書き即ち「乾燥する」という意味でした。気分が沈むことを「湿る、湿っぽい」ということからその反対のいみの「乾燥する」が「はしゃぐ」「浮かれる」といういみになったそうです(諸説あり)湿ったり、乾いたり。喜んだり、悲しんだり。喜怒哀楽とはよくいったもので、命あるかぎり様々...はしゃいだ夏の終わりに

  • 第十四節気 処暑

    昼の残暑は厳しいものですが、お盆前と比べれば暑さの峠は越えたようで朝晩はやや過ごしやすく感じます。「処」とは止まるという意味がありようやく秋の気配を感じる頃のようです。農作物も収穫期を迎え、同時に台風の季節となることから、各地で豊作を祈願し嵐避けを願う「風祭」が行われます。立春から数えて二百十日、二百二十日は雑節として暦に載る台風の特異日。また農家の三大厄日として知られます。風の神様をまつる風神社。当社にも摂社としてお祀りされています。御祭神はシナツヒコノミコト(志那都比古命)イザナギ・イザナミの神から産まれた風の神様です。古来自然に吹く風は神様の吹く息と考えられていたそうです。目に見えぬ風にさえも神が宿る国。古代の人々の感性を受け継いでいきたいと願います。第十四節気処暑

  • 生駒神社例大祭

    皿尾村には谷郷地区との間に「駒形」という地区があり、明治維新に成るまで駒形村として村社を有していた。それが「生駒神社」であって合祀政策によって久伊豆大雷神社に合祀されたが、地区の反発があって社殿が戻された歴史がある。今でも登記上は久伊豆神社末社という位置づけとなっているが歴史の上では久伊豆社と同等かそれより長い歴史を有している。律令期においては流通の整備に馬の生産が奨励され、放馬の土地が早くから開けたことが「延喜式」等に記されている。武蔵国に四牧が開かれ、上質の馬が生産されたことがわかっている。ここ行田には「駒形」と言う地名が二つ残っていて(持田と皿尾)、牧場地が広がっていたことをうかがわせる。皿尾村の生駒明神と呼ばれる神社は古くからこの地に祀られ、清水雪翁の「北武八志」にはつぎのような記述が残っている。...生駒神社例大祭

  • 第三十九候 蒙霧升降

    日中の残暑は厳しいものの、早朝の水辺や田んぼでは少しひんやりとした空気が漂います。「蒙霧」とはもうもうと立ち込める霧のことで、霧自体が空気中の水蒸気が急にひやされてできるものといわれます。北海道の摩周湖や釧路、また軽井沢など濃い霧で有名な場所も多くあるようです。古くから霧の立ち込める様子を「霧の帳」などと形容し、立ち上るような霧はお香の煙にたとえて「霧の香」とも称します。お盆明けの天気が安定しないのは例年のことで、秋のおだやかな気候を迎えるのはもうしばらく先になりそうです。この時季旬を迎える果物が無花果。「花がない果実」と思われていたからこうした漢字が当たると言います。無花果の歴史は古く六千年前頃から栽培されていたといい、旧約聖書に登場するアダムとイブは無花果のを腰ミノにつけたと記されています。写真の無花...第三十九候蒙霧升降

  • 十二節気 大暑

    梅雨明け十日前後となる一年でもっとも暑さの厳しい時季。今年は六月の梅雨明け宣言ということで季節感が少しずれてしまった感があるが梅雨の戻りもあって、実際の梅雨明けは七月二十二日前後だったのだろう。陰陽五行説では、春は木、夏は火、秋は金、冬は水。そして季節の間が「土」。つまり年に四回「土用」をもうけている。季節の変わり目に体調が優れないことはこうした古くからの慣習でわかっていること。現在では土用と言えば夏から秋へと移り変わるの土用の期間で、それだけ暑さの厳しい身体も疲れやすいじきに当たる。夏の土用は立秋前の十八日間のことでこの間の丑の日が「土用の丑の日」と呼ばれ鰻など「う」のつくものを食べたり「丑湯」という薬湯に入ったりする習慣がある。今年の土用丑の日は実は二回あり、七月二十三日と八月四日に当たる。暑さの表現...十二節気大暑

  • 想い人

    誰かに守られているのは暖かくて心地がいいいけれどあなたを守ってくれた誰かの背中には見えない傷がある愛されながら愛していくもらった愛の分だけ守っていゆこう返していこうこれ以上傷つけさせない今ならばわかるよねあなたをずっと守ってくれた優しい気持ち誰かを守りぬくとということ決めたからこそ見える景色がある握りしめた覚悟さえ解かれどきりとして投げ出したいくらいいいさあなたがいちばん大事でもいちばんなんていくつあってもいいあなたを守ると決めたその誰かを浮かべればほらもう怖くない支えてくれた泣いてくれた優しさを追いかけて守っていこう返していこうだきしめたての温かさを必ず覚えていて誰かをずっと守ると決めた本当の強さ緑黄色社会のバラードで緩やかな曲調のこの歌の歌詞がとても心に残っている。緑黄色社会は楽曲の中で強調するフレー...想い人

  • 水と共に生きる

    6月の梅雨明け猛暑から一転、七月に入って梅雨前線の南下、低気圧の停滞が重なり連日の激しい雨に見舞われている。「戻り梅雨」というのが本当にあるものだとは今年初めて知った次第だ。雨が上がっても、各地の降水量の影響か、市内を流れる忍川の水位が上がり、佐間水門を解放する胸の連絡が流れてきた。現在夜の10時を回っている。激しかった雨も上がり東の空には大きく美し月が昇り、きれいな星も見られるのに、限度を越えた雨は時間が過ぎても各地に影響を見せている。こうした治水に関する注意警告は数年前なら九州や西日本の一部であったように思うが、ここ数年で利根川や荒川といった埼玉の一級河川に二まで影響を及ぼしつつある。雨が上がれば美しい虹もかかる。田んぼかかる壮大な虹は見る人を魅了するが治水を考える上で重要なのは:-大きな河川の堤防よ...水と共に生きる

  • 羽生市 下新郷天神社

    羽生市新郷は日光裏街道の通る利根川沿いの交通の要所にある宿場町であったそうで、五十日(ごとうび)には六斎市が立つ商業のまちであったという。賑わいのあった上新郷の鎮守が愛宕神社で、田園地帯を行田方面に抜ける地域が下新郷に当たる。古くは会の川の自然堤防があったところで、現在は国道125号バイパスに多くのトラックの往来がある交通量の多いところとなっている。社記によれば「新井美成なるもの中国勝地に参拝し、本村中耕地に小池あり、十七日祈祷するところ菅公の霊状を夢見種々の奇端在りしを歓喜して自ら社殿を勧請鎮守と崇敬せり」と記されている。本殿に安置された天神座像底部には「武州忍領下新郷大光院講中寄進享保十四年」の墨書きが残る。古くから学問の神として信仰され、受験や入学等の学問成就の願いが絵馬にかけられる。現在でも地域の...羽生市下新郷天神社

  • 小暑 初候~温風至

    温風至(あつかぜいたる)。今年は例年になく早い梅雨明けと水無月の異常な猛暑によって季節感が前倒しに感じてしまいますが、本来であれば夏の暑さが本番を迎える時期に入ります。南から暖かく湿った空気が吹き込み、本格的な夏の到来を感じる季節です。南風にも呼び名がついているようで、梅雨入りの頃に吹く風を「黒南風(くろはえ)」、中頃に吹くの「荒南風(あらはえ)」、梅雨の終わりに吹く風を「白南風(しらはえ)」と呼びました。この時期は白南風により湿った空気が流れ込みやすく、それが上昇して山のように立ち上がり積乱雲を生みやすくなります。雷雲といわれ突然の激しい雨や突風、雷を呼び込みます。七月十日は功徳日ともいわれ浅草寺ではほおずき市が開かれます。この日にお参りすると四万六千二日分の参拝のご利益が得られると言います。ほおずきや...小暑初候~温風至

  • 持田竹之花 天神社

    忍城の北西に広がる持田地区はもとは糯田と書いて、上、中、下地区と菅谷に分かれていた。上、中は剣神社、下は久伊豆神社(大宮神社)菅谷は八幡神社をそれぞれ村社として祀る。当社は上持田地区の剣神社の氏子区内にあり、字名は「竹ノ花」と称す。いまでも近くの忍川にかかる橋に「竹ノ花橋」と名が残っている。持田は忍川の用水が水田よりも高かったため水利に恵まれた反面、治水には苦労した。同じ竹ノ花地区にある諏訪神社の勧請は古く建久(1190)頃と伝わり成田泰時は延徳二年忍城造営にあたり、城鎮守として竹ノ花から城内へと勧請していることから、忍城下よりもここ竹ノ花地区の方が早くに開けたいたことがわかる。当社は持田の風雨火水を司る大自在天神すなわち菅原道真公を祀ったものと考えられる。現在の一間社流造りの本殿は昭和36年に立て替えら...持田竹之花天神社

  • 花日記~水無月

    今月六日の梅雨入りから三週間。はじめの十日ほど連日の梅雨もうようだったのが一転、ここ四五日厳しい暑さが続いています。水無月の四十度越えは観測史上初めて(伊勢崎)ということで昨日ニュースの話題も持ちきりでした。紫陽花、朝顔が暑さで元気がないのをよそに、城跡脇の向日葵が一輪たくましくも花を咲かせています。夏を前にと驚きつつ、すでに夏至を過ぎましたので梅雨前線が北上すれば夏本番です。ややあまりの暑さに身体がついていかない気がしてなりません。「夏を待ちきれなくて」そんな思いを一輪の向日葵に感じています。花日記~水無月

  • 肉巻きおにぎり

    昨日今日と中学校は各部活の地区大会が行われています。我が家の長男はテニス部の二年生。外部委託が進めようとされるなかで、昔とからさわらぬ顧問の先生による熱血指導を受けています。初日の個人戦は三回戦敗退となり、目標としていた県大会への道は開かれませんでしたが、三年生相手に粘りあるゲームを展開したようです。今日ば団体戦が行われます。給食がありませんので早朝五時前からお弁当づくりをしてもらいます。お握りが好きだということで、味付けの肉巻きおにぎりを詰めたようです。物価高、インフレ、エネルギー価格上昇と不安な社会情勢が、続きますがこうした日常のでのお弁当が子供の記憶にのこり、日々の生活を大事に成長していくことを願います。先行きの見えない日本の未来を彼らのスポーツで培った前向きな精神で切り開いていく時は必ず来るでしょ...肉巻きおにぎり

  • 杖ことばと共に歩む

    先日木暮桂先生と植えた蓮の葉が小さいながらも青々と水に浮かび出しました。まさにいのちの息吹。梅雨空の下、多く参拝者の皆さま方に蓮の成長を愛でていただけたらこれほどの喜びはありません。泥に咲き泥染まらぬ蓮の花木暮照子先生に教えていただいた言の葉にはその優しくも凛とした生き方が感じられました。高太寺の蓮は大きくその葉を広げていました。毎日流されるように、それでいて日々懸命に生きているつもりでいますが、時には誰かの助けが必要なときが必ず来るはずです。現にいま心身を休めるように指導されています。杖ことば座右の銘という響きより、人に寄り添う感じで非常に好きなことばです。よき人生は日々の丹精にある一日一生今日という一日を仕上げて参るまた明日もよい一日となりますように杖ことばと共に歩む

  • チーズはどこへ消えた~その①

    早い時期に小さな変化に気づけばやがて訪れる大きな変化にうまく対応できる変化は災難に見えても結局は天の恵みだった。つかい古された言葉のようだが、この三十年自分が環境の変化に気付きながら先伸ばしにしていたようだ。変化はすでに十分起きている。災難と受けとるか天の恵みとするかは自分が環境を変えるか環境に合わせて変わるしかないのだろう。初版からすでに23年。当時社会人五年目ほどだっただろうか。いまだに同じような仕事を同じような場所でしがみついてこなしている。でももしそこが螺旋階段であるならば、かなりの高みまで登っている事になる。見える景色を楽しんでいるだろうか。チーズはどこへ消えた~その①

  • 加須市南大桑 瘤神様

    加須市南大桑には利根川の旧堤がいくつか残っていて、この地が古利根川(中川」)の流れに沿って水の恵みと水害に悩まされてきたことが伝えられている。先述の雷電神社がその堤の上に建つ目印で、近隣は今でも多くの田んぼと共に、開発のため工業団地が広がっている。工業団地の中にはこんもりとした小さな森があってその中に「瘤様」と呼ばれる不思議な伝承が残る木が茂っている。その昔特殊な力を持ったお坊様がいて雨降りの予言をしたり、鳥の言葉がわかったりしたそうだ。ある時お坊様は旧堤に立つ古木を見つめると、その木は瘤のついたソロの木だった。これは珍しい瘤の木だ私が祈って世の人々を救おう」とお坊様は言った。一心に祈りを捧げると神の木として祀られるようになった。以来この木に祈ればどんな病も治るといわれた。評判は響き渡り、近郷からこの木を...加須市南大桑瘤神様

  • 加須市 南大桑 雷電神社

    加須市大桑の名前の由来は往古筑波の門井村から移住した大桑氏が当地に勢力を得たことによる。大桑氏はその後姓を門井と改めたという。口碑によれば雷電神社門井家の北に隣接していたが、同家が屋敷を広げるにあたり、隣家と共に移築したとも伝わる。この時当地にいくつもあった小丘を使って利根川の堤が増築されたため、当社は今でもその堤の上に建っている。主祭神は別雷命で本殿に十一面観音を安置する。大桑の鎮守として氏子に「雷電様」「お鎮守様」として親しまれ、五穀豊穣を祈願されてきた。四月十五日の例祭に奉納される「獅子舞」は盛大で昭和三十五年に市の無形文化財に指定されている。昭和三十年代半ばからして指定されるのはそれだけ知られていた証だろう。加須市の獅子舞にはほかに北小浜、、大字多門寺に同じ流派の獅子舞が伝わるが、雷電神社に伝わる...加須市南大桑雷電神社

  • 紫陽花から麦わら帽子へ

    庭の紫陽花が咲いています。各地の寺社仏閣でも多くの紫陽花を見られます。桜の花から早二ヶ月。季節の巡りは早いものです。種から撒いたマリーゴールドも咲いています。これから梅雨の合間に植え直し、夏に向けて麦わら帽子を広げていきたいですね。雨上がりキラキラ輝く虹の色梅雨時期こそ明るく澄んだ心持ちで毎日を過ごしたいと願います輝く夏の青空を待つ気持ちです。お紫陽花から麦わら帽子へ

  • 皮膚科の受け付け待っています

    週半ばの水曜日ですが、子供の皮膚科受診の受け付けを待っています。午後3時の診察開始にたいして40分前から並びます。すでにお一人並んでいらっしゃいました。15分もすると、あれよあれよと20人ほどが並びます。それだけ受診される患者さんが多いようです。最近多くの診察がインターネットを介した予約を導入していますが、こちらの皮膚科は時間前の順番待ちの形をとっています。どちらが患者さんにより良い仕組みかは判断しかねますが、診察開始時間には30人以上が院内にはいるようでした。アレルギーや環境の変化で近年皮膚科の受診者が多いと聞きます。私も三十代前半に手にイボを患い仕事の合間を縫って半年ほど皮膚科に通いました。やはり一時間以上前からか並び、レジャー用の椅子を持って行き、座っていた記憶があります。今はもうその皮膚科は閉院し...皮膚科の受け付け待っています

  • 梓杯~埼玉東部中学校テニス大会にて

    6月5日、関東地方が梅雨入りする前日に加須市テニス大会「梓杯」へ出場しました。行田、羽生、加須、久喜、蓮田と埼玉東部の広域の限定大会です。約50チームが3チーム総当たりのグループ予選を経て、決勝トーナメント16チームを争います。予選は4ポイントワンゲームの5ゲームマッチ。3ゲーム先取すれば勝ちです。同級生と組んだ2年生チームながら予選は一ゲームも落とさずストレートで決勝に残れました。応援に駆けつけたのは予選の二試合目から。7ゲームマッチとなる決勝トーナメント初戦を突破し、準々決勝は格上の三年生チームを2ゲームとられながら逆転で勝利し、準決勝へ駒を進めました。午後になるとやや風も強くなり、ファーストサービスの決定率も下がります。ストロークでも風に流されて打ち難そうでした。準決勝は破れましたが、相手のマッチポ...梓杯~埼玉東部中学校テニス大会にて

  • 皿尾門の狐

    『甲子夜話』(こうしやわ)という九州平戸藩主松浦静山翁が文政四年(1821)から七年かかって書き上げた随筆集がある。その巻四十六に「忍城の事」が出ていてそのなかに「本城の後ろの林ある嶋あり、この処狐多く住めり云々」と記されている。今から二百年も前に九州平戸藩まで知られていた事は非常に興味深い。忍城は沼と森林に囲まれていたことから、蛇と狐の伝承が非常に多い。皿尾門というのは忍城北西にあり俗に乾門(戌亥)と称し忍城十五門の内でも重要な門のひとつであった。忍城の場合明け六ツ、暮れ六ツには門を開閉する「時鐘」が鳴り響いたという。大屋の竹さんは皿尾門の使丁であった。明治に入ってすぐの頃暮れ六ツの鐘と共に城門を閉めれば誰一人通らない静かな夜を迎えるばかりでである。亥の刻(午後十時)には火の用心の見回りをするのが勤めっ...皿尾門の狐

  • 権現堂川と舟渡橋

    権現堂川は寛永十八年利根川が改修工事で大日川(渡良瀬川)に合流された後出水時には度々領内で氾濫するため、対策として人工的に開削されたと言われています。その後江戸時代から昭和のはじめまで江戸への重要な水上交通の場として大きな役割を果たしてきました。権現堂川沿いの五霞町、幸手市、栗橋町は舟の往来が多くなり、河岸場が広がる岸に回船問屋が栄え上りは年貢米、穀物、木材などを下りは塩、日用雑貨、肥料など多くの舟が往来し、人びとの交通の重要な足となりました。鉄道路線の発達と共にその役割を終え、中川総合開発事業により昭和四十七年(1972)多目的ダムとして地域に貢献する平地のダムとなったのです。幸手市(埼玉)と五霞町(茨城)を結ぶ「舟渡橋」は県と県とを結ぶ越境橋であること以上に、『過去と今との出会いの場』であり、関東有数の桜の...権現堂川と舟渡橋

  • 佐間学校跡

    明治二十二年(1888)成田町、行田町、佐間村が合併して『忍町』となり妙音寺にあった埼玉村との組合立の温知学校を廃して天神社社務所に忍第三教場を開校し明治二十五年より佐間尋常小学校として四十一年三月まで独立校としてあった。建立地佐間天満天神内佐間天神社は享保五年((1720)京都吉田家から神位を与えられ正一位天満天神社と号した。『忍名所図会』等によれば社殿の創建は文化十年(1814)八月二十五日再建とある。享保五年は阿部家四代阿部正喬(まさたか)は若いころ大変粗暴で、侍講である三宅尚斉が進言した折、家臣らと共三年ほどに獄に入れたという。正喬は壮年になってこれを大いに恥じ、尚斉に深く詫びて学問に励んだという。老中の職務を終え忍に帰城することが多くなり、学問の神である天神社を大事にしたという。明治六年佐間村ですでに...佐間学校跡

  • 荒川の恵みと北埼玉の風景

    五月皐月も後半。いよいよ田んぼに水が引かれています。埼玉県行田市は利根川と荒川に囲まれ、肥沃な農地が広がります。田圃の水利については元荒川水利組合が揚水し、各地の揚水貯水池から各地区に水を引いています。「父なる利根川、母なる荒川」と称されるように、多くの人々の生活の糧となる両河川。特に荒川につては、秩父山岳部を水源とし、埼玉県内を潤し東京湾へと続く埼玉、東京にとっても正に命の恵み。河川流域の長さ全国15位を誇り、埼玉県民約700万人のうち、430万人は荒川の水利に頼っているそうです。(飲料水、工業用水、農業用水など)県内も多くの区域で田植えが行われています。皐月はもともと早苗月とも呼ばれ、神々に供えるための神聖な苗を植えるとう意味があったそうです。行田地区でも当地区はは元荒川水利組合内で用水の順番が後半で、田植...荒川の恵みと北埼玉の風景

  • 忍城 二の丸稲荷

    成田家十六代下総守長泰は室町後期の武将で上州青柳城を攻め、川越城、古河城、上杉謙信の襲来と三十年間に及ぶ戦に次ぐ戦の生涯であった。永禄九年(1566)長泰は家督を氏長に譲り、仏門に入って蘆伯斎と号して忍城二の丸に隠居する。するとある夜から毎晩のように何者かに憑かれ子丑の刻になると家鳴りがして大きな石のようなもので胸が圧迫され息も絶え絶え、声も出ず全身汗をかいているという夜が続いていた。何者かが寝室に忍び込むのではないかと不寝番をたて、僧侶や山伏に御祈祷に当たらせるも一向に効き目なく、豪勇で名を馳せた長泰もめっきりと衰えてしまった。息子の氏長も心配し家老や家臣を招いては何か良い案はないか相談すると、その中の須賀修理大夫が言うには昔からこうした武人がとりつかれる例は昔からよくあることだという。八幡太郎義家は三度弦音...忍城二の丸稲荷

  • 手水舎の柄杓置きにみる未来

    平成八年奉納の当社の手水舎。近年行田市を始め各地の神社仏閣においては手水に花を生け「花手水」なる飾りつけで参拝者を迎えています。当社においても行田市商工観光課様にご協力いただき、花を生ける鉢をお借りし「行田花手水」を奉納しています。始めてみると楽しいもので、境内や自宅庭に咲く季節の花を摘みながら、丁寧に水面に挿しながら穏やかな日々を過ごしております。夏季になりますと花の数は増えますが、水の痛みも早く、なかなか毎日美しい花手水を奉納することもかないませんが、神域の尊厳を保ちながら、ご参拝の皆様の癒しとなるよう続けていきたいと思っております。手水舎には柄杓の受けの竹がかけられておりますが、すっかり青竹も萎びて色もかすんでしまいましたので、本日竹を改めてみました。この青竹の差し替えが前回いつであったか、記憶が定かでは...手水舎の柄杓置きにみる未来

  • 勝呂神社 日露戦役祈念碑

    行田市若小玉勝呂神社一の鳥居脇にある日露戦役祈念碑。大正二年二月の建立で記毫は陸軍大臣木越安綱。行田市内に残る戦役記念碑は多く、日露戦役で十五基残っている。(日清戦役では9基)前玉神社に残る忠魂の碑は大久保利武(利道の三男)の書であり、また同じく前玉神社に建つ日露戦役記念碑は山形有朋の記毫である。大久保利武は埼玉県知事も勤めており、官僚として埼玉にゆかりがあるようだ。木越安綱は長州出身の陸軍軍人で、大正二年(1913)に第一次山本権兵衛で陸軍大臣に任じられている。(同内閣の内務大臣は原敬、大蔵大臣は高橋是清)近代史の日本史で軍部が力を強め、シビリアンコントロール(文民統制)が効かなくなり、軍伐政治が横行した伏線として、内閣の閣僚の内、海軍、陸軍大臣に就任するには現役軍人の大将、中将に限るという制度(軍部大臣現役...勝呂神社日露戦役祈念碑

  • 若小玉 勝呂神社

    行田市若小玉は、古くは若小玉小次郎なるものが住む地と伝わり、風土記稿によれば「嘉禎(かてい)四年(1238)二月二十三日、将軍供奉名のなかに、若小玉小次郎と記す(略)建長二年(1250)閑院殿造営の内、若小玉次郎とあり」鎌倉初期に当地の豪族であった若小玉氏から地名となったのであろう。御祭神は中筒男命(なかつつおのみこと)イザナギノミコトの禊の際に生まれた水の神。住吉大社の御祭神である。中でも神功皇后の三韓征伐の折り、住吉大社の御神徳で帰路に着け、応神天皇をお産みになられたことから、航海の神、海の神、水の神として近畿を中心に篤い信仰を受けている。なぜ中筒男命がこの若小玉に勧請されたのか、創建時期についても不明であるそうだが、明治期までは別当として真言宗安養山遍性寺が勤めている。往時の本地仏である十一面観音像を本堂...若小玉勝呂神社

  • 女郎花盛りの色を見るからに

    女郎花(おみなえし)さかりの色を見るからに露のわきける身こそ知らるれ(朝露がついて美しく染まった)女郎花の今を盛りの花の色を見たばかりに露が分け隔てをして(つかずに美しく染めてくれない)我が身が思い知られます。源氏物語の作者紫式部。再来年の大河ドラマは光源氏に決まりましたね。紫式部が朝、部屋から外を眺めていたところ、藤原道長が女郎花(おみなえし)を手に現れます。寝起き顔であった紫式部は、今が盛りと咲く女郎花にちなんで盛りが過ぎた我が身を嘆く歌を詠んだそうです。女郎花(おみなえし)とは秋の七草のひとつで山野に自生し、黄色の小花を数多く咲かせます。そんな式部に返した道長の歌が白露はわきてもおかじ女郎花心からにや色の染むらむ白露は分け隔てをしているわけではあるまい女郎花は自分の心がけによって美しい色に染まるのだろう「...女郎花盛りの色を見るからに

  • 急がば場回れ 瀬田の唐橋

    もののふの矢橋の船は早けれど急がば回れ瀬田の長橋室町時代の連歌師宗長が詠んだとされる歌が現在の急がば回れの起源となったと言われています。瀬田の唐橋は琵琶湖から流れ出る瀬田川に懸かる橋です。現在でも交通量が多い反面、歩いても渡れる名所となっています。架橋は667年頃と推定されます。明治までは瀬田川に架かる唯一の橋で東国から京に入るには琵琶湖を船で漕ぐか、この瀬田の唐橋を渡るしかありませんでした。船の方が短距離でしたが湖上の強風のため橋の方が早く着けるとされました。交通の要衝であったことから「唐橋を制するものは天下を制す」とも伝わります。飛鳥路代の壬申の乱、鎌倉時代の承久の乱では激戦地となります。戦国期には本能寺の変にあたり焼き落とされています。京都の宇治橋、山崎橋とならび日本三名橋に数えられ、唐橋と呼ばれるのは架...急がば場回れ瀬田の唐橋

  • 平将門が振りかざした刀剣は

    両雄並び立たず。鎌倉殿の十三人もいよいよ源平争乱の後、源氏内での争いと後白河法王との関係を中心に、政治的駆け引きが物語の中核となった。今後も頼朝なき後、合議制へと移行するまで多くの紆余曲折が描かれていくのだろう。毎週楽しみにしている。戦の天才と言わしめた九郎義経であったが、刺客から逃れ、敢えなく都落ちする様子が描かれていた。当時の日本刀は護身用の短刀にしろ、いくさ場での刀剣にしろ、すでに片刃の反りの入ったものが使われている。古代の古墳から出土する鉄剣は稲荷山古墳出土の金錯銘にも見られるように直刀で両刃のものだ。ではいつから反り始めたのか。秩父市に残る蕨手刀は明治41年出土の埼玉県有形指定文化財。小学校の校庭にあった円墳から見つかっている。製作年代は7~8世紀とされる。柄頭が蕨の若芽ににていることから「蕨手刀」と...平将門が振りかざした刀剣は

  • 人口減少社会の進み方

    田舎暮らしには欠かせない自家用車。維持費を考えると一家に一台が経済的だが御多分に漏れず、夫婦でそれぞれ所有している。贅沢かもしれないが、手放す決断もおいそれとはできない。生活の自由度が下がってしまうことに抵抗があるのだろう。半年に一度の点検が長期所有にとってメリットがあるのか、それともさほど必要ない点検をしているのか判断しかねるが近年の自動車販売においては「点検パック」に購入時に誘導させられる。当然安全性に関しては担保されるが(その確率が上がるだけ)費用対効果については長期的に考えると疑問符もつく。必要以上な点検になっていないか判断できないからだ。「保険の見直し」が流行りで余計な出費を押さえましょうが叫ばれるが、国産車についても同じことが言えないだろうか。ただし安全にも費用が懸かるのは事実。半年先には車検となる...人口減少社会の進み方

  • 玉ねぎ、筍のある日常

    冬の間に蒔いた玉ねぎ。程々大きくなりましたので少しずつ収穫し始めています。スーパーなどの店頭販売ではひとつ150円近くしますので貴重な収穫です。梅雨入り前にはじゃがいもも掘れるようです。自宅裏の竹藪からは筍も出始めました。芽がでるのが遅い品種のようで、これから一雨ごとに地表から顔を覗かせるでしょう。皐月とはもともと早苗月といって苗を育てる時期です。各農家も苗代の準備も程々終わっています。立夏、八十八夜と瞬く間に過ぎ梅雨入りも沖縄から始まっていきそうです。土、竹、水、緑、風、苗身近にある自然の生気に触れ、今日、明日、明後日と日常は続きます。玉ねぎ、筍のある日常

  • 徒然なるままに

    つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかいて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(序段)訳暇に任せて心に浮かんでは消えて行く、何でもないようなことを何となくかいえているとだんだん自分の頭がおかしくなっていくような気分になる。著者である吉田兼好は和漢の古典の影響を大きく受けていたそうです。清少納言の「枕草子」鴨長明「方丈記」とならぶ随筆文学の最高傑作といわれる「徒然草」のなかで兼好が伝えようとしたことはなんだったのでしょうか。あらゆる縁を捨て去れ世論に流されるな知ったような気になるな不安にさいなまれるな本当のことを見極めろ兼好は人の本質を見極めていたそうです。見たことを見たままに伝える。自分が狂っているのか、世の中が腐っているのか自問しながら自分がみたままを語った...徒然なるままに

  • 熊谷市池上 古宮神社

    池上は中世埼玉郡内にあった池上郷の遺名だという。当地が荒川扇状帯にあり下流に当たる部分に低地帯が広がっていたため、古くは荒川はこの地の下にてその流路を変えていた。このため流れの跡には多くの池が生じたとも言う。このことが池上の地名となったと考えられている。風土記稿によれば「岩倉社」と称し幕末に掲げられた社号額には「古宮神社・岩倉大明神」とかかれていて古くは岩倉社であったことがわかる。岩倉とは「磐座」のことで神の座る堅固な石を表し、すなわち神の鎮座する場所のことである。古代信仰の様子を伝える形態で神社として神が社殿にまつられる前の祭祀であり、創建が古いことを物語る。古宮神社たる所以であろう。古宮神社は古代和歌山県にある日前国懸神宮(ひのくまくにかかすじんぐう)を勧請したものであると言う。御祭神は石凝姥命(いしこりど...熊谷市池上古宮神社

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