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  • 蓮日記 5月21日

    令和七年蓮植もいよいよ最後となりました。弥生祈年祭の折、小見の真観寺さまからわけていただいた蓮の一部を植えきれず、発泡スチロールで保管しておりましたが、今日ようやく鉢に植え替えることができました。しばらくぶりの泥づくりはなんとなく懐かしく、黒土、培養土、田の土の割合を考えながら丁寧に植え込みます。三月に泥替えした蓮はそれぞれ育成も良く、浮き葉から立ち葉へと移行しています。いよいよ夏日が続く陽気となり、まさに蓮の季節を迎えようとしています。蓮日記5月21日

  • 旧大里村 玉作八幡神社

    旧大里村玉作の地名は古代勾玉や管珠が製作された場所で、近くには船木遺跡からの出土品として見られる。往古玉造部が住んでいたと考えられており、近くを流れる荒川支流和田吉野川の治水に苦心してきた。現在玉作水門が建てられその治水の役を果たしているが、荒川流域の氾濫は古くから地域を悩ませていて、この八幡神社の社殿も水害を避けるために水塚の上に建てられている。『郡村誌』の記述によれば往古は「玉作神社」と記されていて古代の玉造部が信奉した神社ではないかと思われる。玉造神社から八幡神社へと改称した時期や理由は明らかではないが地内にある玉泉寺は源頼朝の弟、源範頼が創建した慈眼院を再興したものとの伝承があることから源氏の台頭にともなって八幡神社となったものと推測される。御祭神の誉田別命は戦の神とされ、戦時下では出兵兵士の武運...旧大里村玉作八幡神社

  • 一節気 立春

    日本海側の大雪のニュースが伝えられていますが、最強寒波と呼ばれる低気圧もやや弱まり、雪解けの気温となるようです。暦の上では今年は二月三日が立春でした。四年ほど前に125年ぶりの春節分が2月2日になって以来、今後は春の節分が二日になったり三日になったりするようですね。旧暦では立春に近い新月の日を元日としていたそうです。寒が明けて少しづつ春の兆しが見え始め、一年のスタートにふさわしい季節です。立春の日にその年の恵方(今年は西南西)の井戸から汲んだ水は「若水」と呼ばれ一年の邪気を祓う神聖な水と信じられてきたそうです。のちに元旦早朝の組み水になり、神棚にお供えして飲食に使う風習が残されるようになりました。今では恵方といえば太巻き寿司ですが、巻きずしを食す風習はそれほど古いものではないようです。商魂はなはだしいとこ...一節気立春

  • 本丸郵便局にて

    花手水のきれいな本丸郵便局まできました。忍城の本丸が地名となって、郵便局までその名がついています。我が家から一番近い郵便局で私も子供の頃から利用しています。郵便局の前の道は忍中学校の通学路で、子供たちも毎日この局の前を歩いて学校まで通いました。私が中学生の頃は浮城通り(旧国道125号沿いにあって、東照宮と横並びだったことをよく覚えています。駐車場の確保のため、二十年ほど前に移転したと思います。(30年前かもしれません)年賀状仕舞いをする方が増えましたが、私は手紙文化が好き。ですのでできる限り年賀状出したいと思っています。今年のお年玉は切手シート4枚でした。いただいた年賀状が60枚ほどですので、高確率で当選しています。本丸の名もいつしか忘れられてしまうかもしれません。民営化以降郵便局もその役割を他業者に侵食...本丸郵便局にて

  • 浅き川も深く渡れ

    浅く見える川でも深い川だと思って慎重にわたりなさい。注意深く行動しなさいとの教え。『石橋を叩いてわたる』の方がよく知られているようですが、冒険家の星野道夫氏が大事にしていた言葉だそうです。簡単そうになことでも油断せず気を引き締めて行動せよということでしょうか。星野道夫さんは1952年生まれの写真家、冒険家。慶応大学卒在学中から探検部で活動。世界各地を旅し写真や紀行文を執筆している。1996年TBSテレビ『どうぶつ奇想天外』での取材中ロシアのカムチャッカ半島滞在中テントで熊に襲われなくなっている。享年43歳。多くの写真集や随筆を残している。浅き川も深く渡れ凡事徹底に通じる時代を越えた素晴らしい言葉だと感じています。浅き川も深く渡れ

  • 境内末社に愛宕神社がない理由

    当社には明治の合祀政策によって三社の末社か境内に勧請されている。生駒、神明、天神の三社。それより以前に稲荷、風神の二社がその上座に摂社として祀られている。恐らく稲荷社は江戸期から、風神社については農耕祭祀として嵐よけを古くから行っていたことによるものと思われる。末社の社殿の中に荒木地区から近衛歩兵の額が奉納されており、戦中の混乱期には多くの人が戦勝や帰還を祈願したことがうかがえる。神社の数として最も多い八幡社が境内にないのは、実は地区内に合祀されず、個人のお宅で管理する八幡神社があるからだ。代々続く名家で明治期の合祀政策の際にも個人で社地を守ったことが伝えられる。また火伏せの神愛宕神社は境内地ではなく、社家である私の家に勧請されている。御幣の裏書には昭和六年の揮毫と祖父の名前が記されていて、本殿の上棟年と...境内末社に愛宕神社がない理由

  • 初散歩と成人の日

    令和七年を迎えて初めていつもの散歩道を歩きます。仕事で歩くことが多いためか、休みの日に定期的に歩く週間がつきません。(体調がよく気が向けば歩く感じ)寒中の時候ではありますが、寒さを感じません。影の長さだけが季節を映します。忍川の鴨も元気そうに泳いでいました。皿尾城南口は赤城山の絶景スポットで、自分の中で『赤城山スポット』と呼んでいます。今日は成人の日。元服の儀が行われたことに由来します。いつの間にか月曜日となってしまいましたが、多くの(実際には少ない)新成人の皆さんの前途を祝し、これまで育て上げられたご家族の皆さまにお祝い申し上げます。初散歩と成人の日

  • 知者は惑わず勇者は畏れず

    知者は惑わず勇者は慴れずは『論語』に記された孔子の言葉道理に通じた人は物事をなすに当たって迷いなく判断できる。勇気のある人はどのような事態にも臆することはないとの教え。孔子自信が君子像を簡潔に表したものと伝わります。知識と行動力は背あわせ、または車輪の両輪のように、あわせ持つことでことが進むことを伝えているのでしょうか。知者は惑わず勇者は畏れず

  • 千里の行も一歩より起こる

    本殿前の御神木は平成四年頃に植えていただいた榧の木です。当時高校生だった私は枯れてしまった先代のご神木である春日杉のことも覚えています。令和となった現在の姿を当時思い知ることはできませんでした。千里の道も一歩からは『老子』から生じたことわざで中国語で千里之行始于足下と書きます。一里は約400メートル。400㎞の長い道のりもまず最初の一歩から始まるといふことになります。老子の中の文によれば大木も毛先ほどの芽から成長し、千里の道も一歩より始まるとあるそうです。元々は大きなトラブルも最初の段階では対処しやすいとの意味合いだったそうですが、いつしか前向きな事業の始まりのことを指すようになりました。365日の積み重ねも正月の過ごし方から始まると思い今こうしてブログに向かっている次第です。正月向けの拝殿飾りも師走の中...千里の行も一歩より起こる

  • 令和七年年頭のご挨拶

    令和七年年頭に当たり皇室の弥栄と国家の繁栄、皆様の御多幸を心より祈念申し上げます。こうしたブログを通じて過疎地の神社のあり方や、氏子との関わり、祭祀や普段の生活を記すことにより、後々まで自分の生きた証を残せるよう丁寧に続けていきたいと思います。稚拙な文体でお恥ずかしい限りではありますが、引き続きお付き合いくだされば嬉しく思います。皆様に皿尾の大神さまの御神徳が授かりますこと祈念いたします。令和七年元日久伊豆大雷神社宮司令和七年年頭のご挨拶

  • 師走の医療機関から

    病院も含めて医療機関の多くが予約制度をとっている。これだけ高齢化が進み医療需要が高まってきているのだから当然だろう。医療提供側も運営に支障がないように、受付時間内に対応できる人数を調整しなければ窓口自体がパンクする。原状ネットではなく、電話予約が一般的だ。ただし患者側からすると繋がらなかった時の不安感は大きい。今月始めから咳が出続けて3週間。左胸も痛みだしていよいよ仕事にならない状況となって、昨日呼吸器内科の先生の検査の予約が取れた。予約時間に来院すると待ち時間の目安もでている。ただし検査待ちの時間には待合室は半分以外に減っているのを見ると、患者の心理もなんとなく理解できる。早く楽になりたいやはり身体の辛さからは早く逃れたいのだ。いずれにせよ身は滅ぶのが道理。終着地を見つめひとつひとつことを進めていかなけ...師走の医療機関から

  • 城内整備は続く

    十月も半ばを迎え、秋めいた日が続くと思えば気温が上がって夏日に戻ることも珍しくない。もはや四季の移り変わりはこれまでと同じ感覚で感じることはなくなるのかもしれない。まして今年は夏以降雨が多く、草と垣根の紅カナメの伸びが例年より早く感じる。刈れども刈れども延び放題だ。鳥居回りと参道の垣根を刈り込むだけで半日かかっている。真夏日が続く日ではとてもできない作業だ。これが刈り込み前これで刈り込み後。生け垣よりも石塀にすればどれ程楽になるかと思ったこともあるが、今ではこうした境内整備こそが生き甲斐となっているのだから年を重ねるとは面白いものだと思う。周辺の田んぼの稲刈りも進んでいる。秋の間に年末年始の準備を始めなければならないと少し焦っている。城内整備は続く

  • 草刈りの極意

    台風の影響もあって今年は雨が多い。TVの情報によれば東京の8月までの降水量は年間平均降水量を既に超えるそうだ。高温多湿になると人の動きは鈍るが草の伸びは早い。境内地、特に社殿西側の土地は昔水路だったこともあり、気がつくと草丈も膝上を超えてしまう。こうなると除草剤だけでは間に合わず、一旦刈払い機を入れて短くしてから薬剤を撒いている。都会の神社でコンクリートで固めた敷地が羨ましく思う。参道の土の部分もあっといふ間に草だらけとなり、除草の手間が常にかかる。一方で時期遅れに撒いた朝顔の花が綺麗に咲いている。ここ5年ほど境内と自宅を別ける垣根に朝顔の種を撒いている。朝顔に釣瓶とられてもらい水手水舎周りに蓮を生けてからというもの、こうした自然の中にある水のありがたさを一層感じるようになった。どんなに科学技術が発達し身...草刈りの極意

  • 米騒動に見る価値と使用価値

    九月に入り北埼玉でも稲穂が実りつつある。すでに北川辺周辺では収穫を終え、検査も始まって近々流通するようになると伝え聞いている。そうは言うものの多くの消費者が頼る大手食品スーパーの米売り場に米が並ばない状況が続いている。並んだとしても一度供給不足になっていると、即売してしまい常に売り場が空になってしまう。東日本大震災のあと特定商品が品切してしまったり、地震のあとペットボトルの水が品切してしまうのと同じ状況だ。国民の主食である米が流通不足になりながら『新米が出ると解消されるのお待ちください』とはよくいったものだと思う。これほど国民生活の脆弱な一面を感じることはそうはない。資本主義である以上、いかなる商品でも価格メカニズムが働いて、『価格』が決まる。いわゆる需要と供給のバランスで社会全体が成り立っているというこ...米騒動に見る価値と使用価値

  • 落とし物が戻ってきて

    先日長男の通う高校からメールが入り、学生証が警察に届けられているの取りにいくようにとのことでした。聞くと通学途中に落として気づかなかったそうです。実は今回二回目。中学校の学生証もおとしたことがあり、その時もここ熊谷警察署にから受け取っています。昼時の休憩時間にもかかわらず対応していただき申し訳なく思いましたが、12時過ぎの警察署内はさすがに閑散としていました。私たち以外にも一組落とし物の受け取りにきていました。一般的に日本では拾得物の返還率が非常に高いと言います。財布、携帯電話、などの資産価値のあるものほど実は高いようです。そこには困った時はお互い様という日本の伝統的価値観が反映されているといいます。一方で被災地の空き家に窃盗が入るなど、実際には日本人の道徳が高いとは言えない側面もあるようです。拾得物に関...落とし物が戻ってきて

  • 千代田の祭り 川せがき

    ご縁あって現在群馬県大泉町まで通勤していますが、途中武蔵大橋(利根大堰)を渡ってしばらく通るのが群馬県千代田町。本日8月18日は千代田の祭り川せがきが開催されています。19時過ぎから灯籠流しと読経が行われますが、行事の由来は明治初期まで遡ります。赤岩村(現在の千代田町赤岩)の『かぶとや』という豆腐屋に倉吉という誠実な男が働いていましたが、利根川に投網打ちにいった時、誤って利根川に落ちて水死してしまいました。明治十年八月十八日のことでした。この知らせを聞いた『かぶとや』の主人は早速赤岩の光恩寺の住職と相談し倉吉の霊を弔うため河瀬で供養したそうです。これが川せがきの始まりと伝わります(川せがき案内より引用)近くで勤務していることからとても興味があり、今年はぜひ赤岩の渡しまでいって見ようと決めていました。お陰で...千代田の祭り川せがき

  • フェンスの向こうの星条旗①海を渡った理由

    2024年7月5日勤務している会社の海外視察ツアーとしてアメリカニューヨークへ渡りました。期間はわずか3日間ですが、30年ぶりに海外へ渡航することができとてもうれしく思います。これまで1995年に大学のゼミの研修でグアムへ4日間。1998年5月に若気の至りで韓国ソウルへ気まま旅をしたのみですので、ほぼ日本という国を離れた経験がありません。特に韓国旅行時はウォンが暴落していた時期で、勢いで航空券だけとってあとは現地で何とかなるというような気持で渡りました。当時目的があったわけではありません。(グアムはゼミの研修で現地警察署などを教授が案内してくれました)今回アメリカ流通視察ということで、日本円の価値がかなり下がっている中でもアメリカニューヨーク周辺のスーパー中心に多くの施設を見るチャンスということでかなり前...フェンスの向こうの星条旗①海を渡った理由

  • 蓮盛り

    咲いては散り、葉を広げ蓮の花が先続けています。五日ほど日本を離れましたが、その間も生命力を増続けていた感じです。大きな葉が滴を受け止めながら洋々とその姿を広げる様子は見るものにいきる力を与えてくれます。太白連は花びらを散らせました。その姿もまた美しさを感じさせます蓮盛り

  • 心を病む最大の原因は

    心を病む最大の原因は『考えすぎ』心を病んでいる人は単純なことも複雑に考えている自覚がなくてずっと難しく考えている。いくら考えたところで結果はさほど変わらないので考えるのやめた方がいい。人は考える葦であるとも言うけれど、大概考えることで気持ちが落ち込むことの方が多い。時間が解決することもあれば、解決ぜずとも問題が問題でなくなることも少なくない。行動の伴わない熟慮はしないことに越したことはない。心を病む最大の原因は

  • 2024/06/29

    令和六年水無月蓮日記。早いもので今年も折り返しの時期となりました。明日は水無月大祓です。新年を前にした師走の大祓よりも、年の途中夏を目前にした水無月大祓のほうを大事にする風習かあります。今年も蓮根を奉納していただき、現在蓮華の開花を迎えています。鉢に植えきらなかった肖英(肖には人偏がつきます)は休耕田の池に植えたところきれいな花を咲かせてくれました。水無月の間に御神前の小舞妃蓮と手水舎の太白蓮が咲いています。花の開花はわずか四日と儚いものですが、参拝にいらした人の癒しになっていると思います。蓮の季節を迎えて、立ち葉が青々と広がり日々花咲く朝を楽しみにしています。2024/06/29

  • 希望の花が咲くように

    令和六年度忍小学校放課後わくわく学童くらぶに参加しました。一昨年に運営補助員に誘われ、月に2度の開催に参加していますが、なかなか都合が合わず、6月になって初めて参加できた次第です。梅雨入り前ですが、児童玄関には傘がきれいに並んでいます。毎月の学校活動の目標です。落ち着いた生活をする。梅雨時期らしいテーマです。6月の活動内容は絵手紙でした。デジタルツール全盛の中で、葉書などに手紙を書く機会が少なくなっています。実際に色鉛筆でかたつむりに色をつけ、書き足していくと筆も進みます。自分自身こうしてスマホやパソコンに入力ばかりで、実際にペンをもつ機会が減っていることがわかります。(反省を込めて)わくわくクラブの時間が終われば、正規の学童へ引率しています。今年度から指導員としてきていらっしゃる松本先生は私の中学一年の...希望の花が咲くように

  • 蓮田市閏戸 久伊豆神社

    閏戸は蓮田台地の中央に位置し、西は綾瀬川隔てて伊奈町、東は元荒川を隔てて白岡町に接する。閏戸とは「潤う土」から転じたと考えられ、古来水に恵まれた地域であったとこが伺える。元禄十一年(1698)閏戸は上・中・下に分かれ上では愛宕社、中にてこの久伊豆社、下では伊夜彦社を祀るようになっている。風土記稿中閏戸村の稿によれば「久伊豆神社二社村内の鎮守也、中古騎西町に立つ久伊豆社を勧請せしと云う」と載るように境内にはかつて二社の久伊豆社が祀られたことになっている。一社は「西宮」と称し見沼用水を背に鎮座し、「東の宮」は現在の国道122号線を挟んで向き合うように鎮座していたという。現在のお社は西宮が残ったもので、往時は真言宗福正寺が隣接して別当であったとされる。現在その別当福正寺はなく、蓮田北小学校となっている。明治七年...蓮田市閏戸久伊豆神社

  • 早朝散歩と蓮日記

    立夏が過ぎて一週間、梅雨入り前の過ごしやすい季節となりました。「暑くもなく寒くもなく」といふところでしょうか。籾蒔き後の苗箱の風除けがあちこちで見られます。麦畑の色もところにより濃淡に差があります。もう少しすれば金色の景色が広がりそうです。畔に咲く野花の向こうに赤城山が見えます。昭和天皇のお言葉によれば、雑草といふ草はなく、全ての野花にもそれぞれに名前があり、凛として生きる手本とすべきなのでしょう。蓮の葉も逞しく広がりつつあります。毎日の生育の様を目にしながら、生きとし生けるものの魂を感じざるを得ません。日々の穏やかな暮らしに感謝するばかりです。早朝散歩と蓮日記

  • 令和六年 蓮花根植え付け

    令和六年の桜の開花は予想から遅れること十日以上、近年では珍しい4月に入ってからとなりました。桜の花頃が蓮の植え時と言います。田んぼの土を用いて境内にて蓮花根を定植しました。今年も行田蓮大使木暮照子先生から蓮根を奉納いただいております。ご主人様の木暮桂先生(生物学博士)から昨年蓮植えの基礎を直接ご指導いただいたことから、今年は神社前の田んぼの泥を用いて自力で蓮植えを行いました。蓮文化研究会のテキストに沿って土の量を計り、手水舎の水を加えて粘土状にします。昨年いただいた元肥と追肥がありますので、鉢の総量に沿って添加します。今年で三年目となりますので、おおよその感覚は身に着いたように思います。桜の咲く頃が蓮の植え時。そう教えていただきました。美しい桜の風景を眺めながら、夏の蓮の美しさをイメージします。皿尾城碑脇...令和六年蓮花根植え付け

  • 鳥居~神域への門~

    地図記号で神社を表すのは「鳥居」とされています。基本的に鳥居のない神社はありません。(浦和の調神社など例外もあります)鳥居は神聖な場所である神域への門であるとされ、神域と俗界を分ける結界に当たるものと考えられます。鳥居の起源は「通り入る」がなまったものとか、古事記の記述によるものとされています。「天の岩戸神話」によれば天照大御神が素戔嗚尊の乱暴により天岩屋戸にお隠れになった際、八百万の神々が鳥を木にとまらせて、鳴かせることにより、岩屋戸からお出ましを願ったことによるものです。鳥居が複数設けられている場合、最も大きい鳥居が神域全体の門として参道の入口にあり「一の鳥居」と呼ばれます。本殿に近づくごと二の鳥居、三の鳥居と数えていきます。鳥居の構造や材質も様々で、神社によって形態が異なりますが、代表的なものは「明...鳥居~神域への門~

  • 桜を待つ気持ち

    勤務地が蓮田になって一年が経ちます。ちょうど桜が蕾の頃でした。西城沼公園の様子を見にきています。毎日のようにこの公園の脇を通りますが、歩く機会はなかなかありません。市役所からほど近く、天気の良い日曜日には多くの市民が集う場所なのでしょう。北埼玉と比べまだクビカアカミキリの被害が少ないようです。もう二週間もすれば色鮮やかな桜色が広がるようです。花咲く時を待つ間、穏やかな日々を過ごします。卒業式を無事に迎えられれるように願っています。桜を待つ気持ち

  • 蓮田市黒浜 久伊豆神社

    蓮田市黒浜は元荒川左岸に位置する農業区域でその台地上には椿山遺跡や黒浜遺跡など考古学上重要視される遺跡が数多い。特に黒浜貝塚においては縄文海進と呼ばれる時期に現在の東京湾の入り江となった場所で、その貝塚からは「黒浜式土器」と呼ばれる縄文土器が出土し、人々の当時の生活様式が映し出される貴重な遺跡となっている。<時代は下り永禄七年(1564)国府台合戦で北条氏に敗れた太田資正の郎党野口多門はこの地に帰農し住居したことも知られ、室町時代後期には相応の村落が成立していたと考えられている。『神社明細帳』によれば享禄年間(1530年頃)騎西の玉敷神社から勧請されたと伝わる。祭神は大己貴命。宝暦二年(1752)神祇官領卜部兼雄から『久伊豆大明神幣帛』を授かり現在の社殿は天明八年に竣工。昭和五十八年に本殿が市の指定文化財...蓮田市黒浜久伊豆神社

  • 梅ノ木天神

    川口神社の境内に梅ノ木天神がありました。駅から歩いて神社を探していたところ正面鳥居ではなく北東の鬼門口から入ったところ美しい紅白の梅が咲いていました。目に見えぬ神の心にかよふこそ人の心の誠なりけれ学問の神菅原道真公を祀る天神様に多くの人々が願いをかけにお参りしています。頭を垂れて親の恩社会の恩神明の加護をこの梅に託して感恩の垂れ梅と命名す宮司学ぶということに対して学ぶ環境があることを忘れてはならないと改めて思います。私自身も若いころ学ぶことに対して横柄であったと悔やんでいます。親があって、学び舎があって、神の導きがあってここそ社会の一員として生きている。美しい紅白の梅も植えて育てた人があってこそその花を愛でることができる。感恩の垂れ梅を見ながらそんなことを思っていました。梅ノ木天神

  • 2024/02/19

    2024/02/19

  • 川口総鎮守 川口神社

    埼玉県川口市は人口60万人を超える東京のベットタウンとして大いに栄えている。政令指定都市を除けば全国2位の人口密集都市である。川口の地名は当地の南を流れる入間川(現荒川)に合流する芝川の河口あたることに由来するとされ、鎌倉室町期には「小河口」と称されていたことが『とはずがたり』や『義経記』から知ることができる。当地は日光御成街道の宿場として栄えたが、中世には鎌倉街道中道、古代には東国と陸奥とを結ぶ「奥大道」として古代から重要な街道であった。当社は明治四十二年川口神社と改称するまで氷川神社と称した。主祭神は素戔嗚尊。天慶年間(九百四十年頃)大宮氷川神社から勧請されたと伝わる。当社は古くからこの区域の鎮守として崇められてきたが、特に江戸期の奉納品に祖の信仰を垣間見ることができる。八代将軍徳川吉宗による享保の改...川口総鎮守川口神社

  • 蓮田市 川島久伊豆神社

    蓮田市中央部を貫く元荒川。蓮田駅前通りを真っすぐに走り宮前橋が架かる手前に久伊豆神社が鎮座する。久伊豆信仰は武蔵国内の元荒川沿いに限られた地域性のある神社でここ川島はその特徴をよく表している。昔から比べれば社叢の木々も少なくなったといわれるが、元荒川の水面に移る美しい社叢は神のますところにふさわしい景観を今にも保っている。『風土記稿』によれば「久伊豆社村の鎮守也地蔵院持ち、末社天神荒神稲荷雷電」と記される。現在その地蔵院の姿はない。創建以来この地の作神として信仰され、農業の安全や豊作が祈願されてきたという。蓮田に鎮す久伊豆社は全て昔の水運によってその地その地であがめられ、今に伝わるという。当社は近隣の人々から「盗人宮」と呼ばれてきた歴史があるという。昔川上から追われてきた盗賊が神社の杜に逃げ込んだところ慈...蓮田市川島久伊豆神社

  • 人生の折り返しはいつか

    今年も気が付くと二月の半ばを迎え、日一日と足早に過ぎてゆく。春を待つ日は長いが、花の便りが届くろには一年の四分の一が終わっているということが常である。一年の折り返しと言えば水無月の大祓になるだろうが、人生の折り返しはいつなのか。人によって異なるのはもちろんだが、若い時は何となく35歳をイメージしていた。そこからすでに15年以上が過ぎてしまったが、人生百年時代と称されるようになって久しいことから、都合よく50歳を折り返しとしても間違えではないかもしれない。と言っても自分自身その折り返しも過ぎている。折り返し地点を過ぎてなおやりたいこともたくさんあって、日々様々なことに取り組もうとしては挫折しての毎日ではあるが、人生をあきらめるには早いとは思う。小さなハンバーガーショップに可能性を見出しマクドナルドを世界的規...人生の折り返しはいつか

  • 分け入っても積る雪

    立春過ぎて降る雪は白く、春を待つ日の長さを改めて思わせる。田んぼを覆い尽くす雪は改めて自然の厳しさを教えてくれるのだろう。分け入っても分け入っても白い雪自由律の俳人種田山頭火は青い山をそう読んだそうだ。雪に踏み入ることはなくとも果てしなく続く白銀の世界がここ北武蔵にも広がっている。雪がとければ春も遠くはなかろう分け入っても積る雪

  • 春が待っている

    市内を歩くと所々梅の花が咲いています。ここは清善寺。大寒を過ぎて立春が近づいています。春を待つ人の心は穏やかで、厳しい寒さを忘れさせます。空の青と花の色が対をなしていっそう際立つようです。こちらは昨日訪れた横浜市緑区の梅の様子です。渋谷から三十分ですが田園都市線沿いの町並みは見る限り美しく、都会の印象を今でも受けます。三十年ぶりに大学のたまプラーザキャンパスまで足を伸ばしました。外観が新しくなっていましたので当時の雰囲気とはまた違った印象ですが、1990年代バブルが終わったあとも団塊ジュニア世代がこぞって大学を目指した頃で多くの大学が埼玉千葉神奈川の東京郊外にキャンパスを増やしていました。子供の数が減るとわかっていたのに大学の数を増やしていたのはなぜなのでしょう。やはり教育の産業化ということだったのでしょ...春が待っている

  • 小寒 末候 雉始雊

    今年は暖冬傾向で寒中の厳しさをさほど感じません。先日夕刻に一時小雪が舞うことがありましたが、積もるには至りませんでした。小寒から大寒までの三十日間が『寒の内』と呼ばれ一年で最も寒さの厳しい時に当たります。この時期に出すのが寒中見舞いです。小寒の時季は時に大寒よりも寒く感じられることから「小寒の氷、大寒に解く」ともいわれ転じて物事が必ずしも順序通りにいかないことの喩に使われます。小正月の十五日から四日間の間を雉始雊(きじはじめてなく)と呼ぶそうです。日本の国鳥である雉が鳴き始めるころの時候です。実際に泣き始めるのは弥生を迎える頃で、雄は雌を求めて「ケーン、ケーン」と甲高く鳴き、美しい羽根を「ホロロ」と打ち鳴らします。頼み事やを不愛想に断るさまを『けんもほろろ』と表現しますが、これは雉の鳴き声や様を表したこと...小寒末候雉始雊

  • 新年のご挨拶

    令和六年甲辰の年頭に当たり皇室の弥栄と皆様方のご健勝を祈念申し上げます。また北陸地方の震災に際し心よりお見舞い申し上げます。元旦に歳旦祭を執り行いました。昨年奉納された大幟が青空に映える様子です。ただし強風にあおられ、大晦日の晩はほとんど眠れないほど旗のことを心配している次第でした。神社にしろ、赤子にしろ誰かが面倒を見なくちゃならん。そんなことをお世話になった神社総代さんから聞いたのは何年前になるでしょうか。誰かの世話をして一人前と聞かされてああそういうものかと漠然と感じておりましたが、自分も五十歳を過ぎてそういう立場になったのだと改めて思います。皿尾城から見える景色はいくつになっても変わることがありません。東の秩父連峰と北の赤城山。この景色を見ながらゆっくりで構わないので少しずつでも歩みを進めたいと願い...新年のご挨拶

  • 桃李不言下自成蹊 さいたま新都心 本格四川料理 成蹊 後編

    さいたま新都心の街開きは平成十二年(2000年)の事です。公官庁の出先機関を集めた街づくりで翌年平成十三年には浦和市、大宮市、与野市が合併して「さいたま市」が誕生します。この時旧浦和市、大宮市にはそれぞれ「浦和区」「大宮区」が名称として残りますが、与野市だけは「与野区」とはならずに「中央区」となりました。そもそも明治のころから浦和と大宮は隣接都市としてライバル関係にあり、文化歴史の上でも競い合ってきたことから合併に反対する意見も多くあったといいます。そこに政令指定都市を指定を目指し、東京の機能にも負けない大都市構想を遂げるために加わったのが与野市であったといいます。だからさいたま市区名選定委員会にて議論された際、公募の結果「与野区」が一位、「中央区」が二位になりましたが当時の与野市議会は「新都心に移り住む...桃李不言下自成蹊さいたま新都心本格四川料理成蹊後編

  • 桃李不言下自成蹊 食レポ前編

    勤労感謝の日にお休みをいただき、さいたま新都心までで出かけました。目的は応援しているアーティストのコンサートとその前に中華料理のコースをいただくことでした。普段食品販売流通業に従事していますが、近年では業務も様変わりし、デジタル化も推進され、多くの新しい知識を得ることが求められます。会社の業務の一環として、外食の食レポをしてみなさいということになりました。自分で調べ、興味を持ち、実際に食べた感想を伝える。ただ今まで通り日々の業務だけをこなしていたのでは生き残れない時代です。こう言った取り組みを『面倒だ』と思う人もいれば、『楽しみだ』と思う人もいるでしょう。私は後者です。東京の有名店に是非行ってみなさいとのことでしたが、映画『翔んで埼玉Ⅱ・琵琶湖より愛をこめて』公開で賑わうさいたま新都心の本格四川料理の店『...桃李不言下自成蹊食レポ前編

  • 古河市 富士山浅間神社

    古河市総合公園には小高い塚があって、その上に浅間神社が建っています。古河のパワースポットとなど名所地にしようとする活動も行われているようです。境内の由緒書きがありますので読んでみました。室町時代末期に角行という人が世の中の乱れに苦しみ、富士山に登り天下泰平五穀豊穣の祈願をしたところ天下が治まったことから富士信仰が起こります。東講の大先達である南沢正兵衛という人が江戸にこの富士信仰を広く布教しました。鴻巣の冨士塚は模造の富士山で文政四年ごろ(1831)の構造と考えられています。鴻巣村の小森谷家広く浄財を募り富士浅間神社を勧請します。東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一つ。富士山信仰は室町時代末期ごろに起こり江戸時代中期には非常に盛んになった。それに伴い江戸をはじめとして富士講があちこちで結成され、江戸...古河市富士山浅間神社

  • 防災体験学習~災害時中学生は避難所で何ができるか

    地元中学校にて家庭教育セミナーに参加しました。防災教育体験学習として行われ、テーマは「災害時に中学生は避難所で何ができるか」令和元年10月の台風の際、ここ忍中学校も避難所として開設されたことがあります。私はPTAの役員として参加しました。主催は地元自治会も合同ということになり多くの参加者が集いました。取り組みの一つとして段ボールベットの作成です。令和元年の台風避難の際私も地元小学校へ家族と避難しました。一晩学校で過ごす際には毛布の配布がありましたが、床で横にならざるを得ず、非常につらい時間であった記憶があります。段ボール箱の中に「補強板」を入れ強度を増し、6個並べてひもで固定します。段ボールの上にブルーシートをかけ毛布を敷くと弾力と保温性が向上し、とても寝心地の良いものができました。中学生の班は皆で寝転が...防災体験学習~災害時中学生は避難所で何ができるか

  • 黒浜式土器と縄文時代の生活~蓮田市文化財展示館

    今から1万6000年前氷河期が終わって地球が温暖化します。日本列島では針葉樹の森が北に退き、北日本では落葉広葉樹林、西日本では常緑広葉樹の森が広がる世界へと変わりました。特に落葉広葉樹の森には食べ物が豊富で、木の実の多くを食用として採取したといいます。栗やドングリなど食べるには灰汁抜きが必要でしたので、そのための土器が縄文土器として発達したのです。気候の温暖化にともなう雨量の増加や海水面の上昇で陸から土砂が流れ込み、遠浅の海岸をつくることでそこに生息する貝類や回遊魚も食材に加わり食生活の大幅に進化したといいます。海面の上昇のことを「縄文海進」といい、東京湾は現在の埼玉内陸部まで進出していたことがわかっています。黒浜貝塚は関東地方を中心とした縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標式遺跡として昭和50年に埼玉県指...黒浜式土器と縄文時代の生活~蓮田市文化財展示館

  • 県民の日に三菱地所アウトレットでみた野球用具の今昔物語

    11月14日は埼玉県民の日。明治四年の廃藩置県から今年で152年。当初は荒川の西が入間県、東が埼玉県、明治六年には熊谷県が誕生、明治9年に現在の埼玉県の枠組みが誕生しています。昭和46年には県誕生100周年を記念して11月14日を「埼玉県民の日」と定めています。(埼玉県HPより)熊谷市は県北の中心都市ですがお隣深谷市も平成の合併で大きくなり、昨年には旧花園町に三菱地所系のアウトレットモールの誘致に成功しています。やはり高速道路の幹線沿いの都市は商業施設の誘致に有利なのでしょう。昨年のオープン時には周辺の渋滞が連日のように続いていましたが、一年経って落着きを見せていました。一周年を記念してセールはもちろん様々な催しが開催されていました。特に任天堂のショップが人気で、マリオのキャラクターを随所に用いて子供連れ...県民の日に三菱地所アウトレットでみた野球用具の今昔物語

  • カキと私の関係

    江戸の初期には養殖が始まったといわれるカキ。漢字で書くと「牡蠣」となるのは全部が雄に見えることから。縄文時代にはすでに食べられていたと考えられていて、「蠣」の文字はゴツゴツした殻を意味するそうだ。近年養殖技術が進化していて、プランクトンを餌としないで養殖可能なものは「あたらない牡蠣」としてよくメディアにも取り上げられている。牡蠣の料理には忘れられない思い出があって、何といっても牡蠣鍋。二十代のころ外食産業に勤めていて(何度かこのブログにも書きました)和食のファミリーレストランチェーンだった。冬メニューとして牡蠣鍋を提供していたけれど、忙しい時にアルバイト従業員が鍋に牡蠣を入れ忘れ、ただの野菜鍋で出してしまい、お客さんに大いに怒られたことがあった。ただひたすら平謝りで通してしまったが、お客さんのほうもずっと...カキと私の関係

  • 旧騎西町 玉敷神社

    旧騎西町の玉敷神社は延喜式内社の古社と知られ、大己貴命を主祭神として奉斎し明治維新後は郡中の総鎮守として騎西領四十八か村の氏神であった。文武天皇の大宝三年(703)多治比真人三宅麿(たじひのまひとみやけまろ)が東山道鎮撫使として武蔵国に下った際創建したと伝わる。以来現在地より北方の正能村に鎮座していたが、天正二年(1574)上杉謙信公の関東侵攻に際に兵火にかかり、社殿、宝物等を消失している。これは関東の戦国史における覇権争いにおいて避けては通れないところであって、当時騎西城は忍城の仕城として機能していたことに起因する。忍城主成田長泰は関東の争乱に身を置きながら、小田原北条と上杉との間でどちらに着くか揺れ動いている。永禄四年(1561)成田が小田原に与すとなったとたん、難攻不落の忍城に代わり、騎西城を謙信は...旧騎西町玉敷神社

  • 加須市 馬内諏訪神社

    当社は会の川の南側に位置する自然堤防の上に鎮座している。ここから加須市西中学校、むさしの村まで続く自然砂丘は昔利根川から吹き積もった内陸砂丘で、今でも多くの松林が生息する。馬内の地名はかつて牧場で馬が多く飼われていた名残で、内陸の干ばつ地帯として遠く灌漑用水をため池から引いていたことから、天水のありがたさを知り、水神として諏訪大神を崇拝していたという。御祭神は、建御名方命で水神としてだけではなく、武門の神としても崇められてきたという。お諏訪さまはの農業を守る神様で、昔日照りが続くと村人は近くの池から水を汲み、境内に撒いて雨乞いをした。お陰で冬でも水が枯れることがなかったという。明治期に知方神社、雷電社、九頭竜神社、神明社、川入神社などを合祀して現在に至っている。参道階段脇に建つ御輿殿建立記念碑は昭和五十一...加須市馬内諏訪神社

  • 人が人として生きること

    令和五年度行田市内5校合同人権教育研修会に参加しました。行田市内忍中学校、西中学校管区の小学校三校を交えた合同の研修会です。今回で64回目を迎える伝統ある合同研修。私は忍中学校PTAとして参加しました。講師は羽生市立川俣小学校の長谷川守先生でした。長らく行田市内の小学校で教諭として勤務され、埼玉県教育事務局にて人権教育をご担当、現在お隣羽生市にて校長先生を務められていらっしゃいます。「権利」の反対は何でしょう?との問いから講演は始まりました。「義務」との回答が多く寄せられる中で、義務を果たさずとも権利はあります。「責任」を果たすことではないでしょうか。とのことでした。欧米圏では人権に対して「humanright」としてとらえ、人として正しい道と教えられることが幼いころからされているといいます。人権教育とは...人が人として生きること

  • 宝登山神社 令和五年 皿尾講登拝

    令和五年宝登山神社ご眷属お借換え代参登拝をしてまいりました。皿尾講と呼ばれる五人講で現在でも約30軒のお宅がお札を受けています。お犬替えとも呼ばれるお札の由縁は宝登山に纏わる日本武尊の伝説に由来します。日本武尊が宝登山にお登りになった際、山火事が起き、どこからともなく現れた山犬がその火を消し止めたというものです。この故事にちなみ宝登山は古くは「火止山」と書き、火災・盗難除けに霊験あらたかと伝えられてきました。そのご眷属をお札として各家々にお祀りしているのです。江戸中期ごろには宝の山に登るとの表記があり、そのころから先達や修験者を通じての布教活動から、各地で講社が生じ多くの参拝者が寄るようになったと考えられています。当皿尾地区の講社(皿尾講)がいつから宝登山に登拝しているかは明らかではありませんが、昭和四十...宝登山神社令和五年皿尾講登拝

  • ソーシャルキャピタル(social capital)

    ロシアウクライナ紛争の行く先も見えない中で中東情勢も混乱を極めている。イスラエルの歩んできた歴史を学べば自衛という名の武力行使は常に名目だけでは終わらないことは確かだろう。隣人を信用できない社会は常に境界線を厳しく敷く。海に囲まれ戦後の平和な暮らしを甘受してきた私たち世代には易々とイメージできない社会のほうが世界ではスタンダードであることを改めて認識しなければならないだろう。radio番組の経済コーナーで有名大学の教授が「ソーシャルキャピタル」(socialcapital)につて話していた。19世紀に生まれ1972年に論文化された概念で「社会関係資本」と訳される。エネルギー供給や交通網の整備といった社会的インフラは目に見えるけれども、隣人との信頼関係や、政治への信頼といった内面の問題は可視化できない。人々...ソーシャルキャピタル(socialcapital)

  • 高崎 美保大國神社

    昭和二年に始まる世界金融恐慌のさなか、日本の経済も疲弊し商工業は不振を極め、倒産が相次ぎます。高崎市では商工業者の間に美保神社の御祭神である事代主神の御分霊を迎え商工業の振興をはかりたいとのとの計画が立てられ、当時の高崎市長始め商工業者の努力により昭和四年九月二十日、すでにお祀りしていた大国主神と共に、奉斎式を執り行い美保大國神社としました。大黒様、恵比寿様は出雲の国譲り神話に登場する、重要な神様として知られます。また福徳円満な神様で商工業はもちろんあらゆる産業、芸能、交通安全の神としても知られ、古くから神棚でお祀りしてきました。高崎神社の境内社として恵比寿講などの賑わいで知られています。高崎美保大國神社

  • 希望のうた

    歩いて歩いて町の外れまで来た昨日はもう思い出にしてきたあなたと見つけた油と土匂い何も言わなくていい私の腕の中精一杯の腕の中抱きしめるから離さないからあなたの胸の中悲しい胸の中涙にぬれた空を見つめていよう十月を過ぎると何となく師走の足音が聞こえてくる。毎年のことだが何となくそわそわして落ち着かない気持ちがどこかにある。秋の空気を感じながらやらなければならないことばかりが重なって、また先延ばしにしていることも心のどこかに引っかかっている。昨年のNHK紅白で歌ったこの歌は、コロナ禍で不自由な暮らしが続く中、希望だけは失わないようにとのメッセージを込めて、モノトーンの衣装で歌っていたのを記憶している。自由が失われても心の中の希望まではなくさないように。走って走って思い出を振り切って明日の始まりを迎えに来た知らずに...希望のうた

  • 神無月花手水と三方領知替二百年

    十月が一週間が過ぎて急に気温が下がりました。秋を通り越して初冬の陽気となり、身体がついていかない方もたくさんいらっしゃることでしょう。気温と共に湿度が下がったことで空気感が全く変わったように感じます。皿尾城周辺の田んぼも稲刈りが進んでいます。月初めは商工会と観光課が主催する行田花手水weakに当たり、ライトアップも含め社頭の花手水を改めております。どうぞご参拝の折にご覧ください。今年は文政六年(1823)の三方領知替から二百年ということで、市内各所に幟がたてられています。白河藩主松平定永の父定信が先祖ゆかりの地で肥沃な伊勢桑名への転封を希望し、阿部家は巻き添えを喰ったのだといいます。いつの時代もそうした政治の権力闘争はつきものなのでしょう。当時の阿部家当主正権は若くして病弱の上転封ご十七歳で病死しています...神無月花手水と三方領知替二百年

  • 渋谷氷川神社

    渋谷区東二丁目に鎮座する氷川神社。古くは氷川大明神と称し、旧渋谷村、下豊澤村の総鎮守であったといいます。慶長十年(1605年)宝泉寺の住職実円が記した「氷川大明神縁起」によれば景行天皇の御代皇子日本武尊東征の時当地に素戔嗚尊を勧請したのが始まりと伝わります。その後嵯峨天皇の弘仁年中(810~24)慈覚大師が宝泉寺を開祖し同寺が別当となりました。天明二年((1782)正月阿部備中守へ差し出した書類の中に別当宝泉寺の内裏から出火し炎上したことが記されていて、宝物等はこの時に失われたと考えられています。神社の周囲は石器時代の土器や竪穴式住居が掘り出され、非常に古くからの文化部落の中心であったことから渋谷区最古の神社と呼ばれます。昔は松杉が多く茂り昼なお暗く門前を渋谷川が流れていたことが「江戸名所図」などからうか...渋谷氷川神社

  • 私の描く行田の未来

    令和五年十月三日、行田市民大学、市民大学同窓会合同講演会が市内教育センターみらいにて開催されました。通常は歴史文化講演が多く、郷土の偉人や郷土史研究の発表が多いところですが、春の市長選以降市民大学同窓会の企画研修委員の会合の中で、是非新市長に行田の未来について語ってほしいとの意見が多く、早期に日程を抑え開催を実現しました。行田市民大学は開設15年目を迎える市民のための市民の手による大学です。教育委員会、生涯学習課等市のご支援をいただいておりますが、あくまで自己運営です。今回学長に当たる行田市の首長に講演をしていただけるということで、多くの関係者が集まりました。行田くに子市長は1965年岩手県生まれ。東京蒲田の小さな工務店で育ったそうです。幼いころの遊び相手は職人さんだったそうです。国際基督教大学を卒業後、...私の描く行田の未来

  • 途(みち)

    誰が何と言おうとも今は進むべき途へ風に笑われようとも大丈夫そのままいずれ出会うだろう共に進むべき人に夜に煽られても大丈夫そのままきっと孤独の中に芽吹く未来があるどんな明日も開けは花になる今あなたが信じた種は知っているこの夏初めて半崎美子さんのショッピングモールのライブを見ました。私と同世代かそれ以上の世代の方が多く見えていました。泣き歌の嬢王、ショッピングモールの歌姫など彼女を形容する言葉をよく耳にしました。きっかけは勿論ラジオです。毎週日曜朝6時からFmNAKファイブではんざき畑という番組を聞いています。ラジオにかかる曲は彼女の曲だけです。「はんざき畑で皆さんの収穫をお待ちしています」毎週のようにリスナーからの彼女の楽曲に対する思いや感想が寄せられています。どんな人にもそれぞれの人生があって、それぞれの...途(みち)

  • 駐輪場から見る近未来の購買形態

    コロナ禍以降、外食を含め営業時間が短縮される傾向が強まっている。かつて24時間店を開いていた店舗も夜間の営業を切り上げ、集客の多い時間に絞っている。こうした傾向は人口減少が顕著となっていることから、一層進むと考えられる(個人的見解です)コンビニがかろうじて営業時間を守っているが、食品スーパーも業態を変えながら、営業時間について試行錯誤しているように見える。埼玉県内の大手スーパーは朝9時が最速で多くは10時オープンだ。ディスカウントの傾向が強いと時間も短くなる傾向が見られる。(これも個人的見解です)早朝営業の利点の一つに高齢者の集客が見込めることがある。朝のゴミ出しとして資源ごみをもって買い物に来る習慣がついている。こうした顧客は混雑を敬遠することから10時前に入店する。来客手段は軽自動車が多い。但し駐輪場...駐輪場から見る近未来の購買形態

  • 朝顔の咲く暮らし

    朝顔につるべ取られてもらい水井戸に水を汲みに行ったところ朝顔の蔓がつるべに巻き付いているので、とってしまうのはかわいそうななので、お隣まで水をもらいにいくことにしました。江戸時代の俳人である加賀千代女の美しい俳句は日本人と朝顔の関係を表す名句として知られます。せっかく咲いた朝顔の花をあわれに思う気持ちが滲み出ています。私が子供の頃(昭和50年代)すでに水道が整備されていますが、井戸水も残っていて『水を汲む』ということがどういうことだか実際にわかります。朝顔の種を日本に持ち込んだのは遣唐使だそうです。奈良時代末期のことですが、平安時代になってから入ったとも言われ、その場合朝顔と呼ばれていた花は桔梗を指すそうです。夏の花の印象がありますが俳句の季語としては秋の季語になります。毎年自宅と神社境内の境の垣根に朝顔...朝顔の咲く暮らし

  • 地元の梨直売所

    行田市内に野菜や果実の直売所は何店舗あるのだろうと思ったりします。無人の露地野菜の販売所をよく見かけますが、なかなか利用することはありません。自分も畑をやっているからでしょうか。こと梨に関してはだいぶ以前から、門井町の直売所にいきます。結婚した当初この近くのアパートに住んでいてその頃からあったと記憶しています。最近ではシャインマスカットも売っていて、この日は試食もいただいたのでひと房買ってみました。(1300円でした)行田と鴻巣の間、旧吹上町の通り沿いにあります。聞くと騎西町の農家さんでご家族でやっているそうです。秋月一袋五個入りを買うとひとつおまけしてくれました。生鮮果物はこれからも需要伸びるでしょう。加工食品では味わえない美味しさがあります。すでに超高齢化社会ではこうした生鮮果実野菜などの直販所が憩い...地元の梨直売所

  • 長月花手水

    社頭の花手水を始めて三年目を迎えました。令和三年の夏ごろから本格的に始めましたので三度目の秋になります。行田市の花手水の取り組みは商工会を中心に多くの人々の手によって保たれています。無理のないようにとの思いから、夏場の7月8月はライトアップを含めて基本的にお休みの期間です。水温が高すぎて花が傷んでしまうからです。9月も厳しい残暑が続いていますが、日陰であればある程度日持ちするようになりました。皿尾城前の田んぼの稲穂も実りの時期を迎えています。九月は長月と称しますが「夜長月」から名がついたそうです。暑さもひと段落しますので、日暮れ後の自分の時間を大事に過ごしていきたいと思っています。手水舎の装飾もひまわりから一足早く紅葉へと差し変わっています。長月花手水

  • 鯨に鯱

    今日九月四日は語呂合わせから「鯨の日」。地球上でもっとも大きい生物シロナガスクジラの体長は、新幹線車両一両分に相当するそうです。鯨が哺乳類であることは小学校で習いますが、今年高校受験の年を迎えた長男は小さいころ非常に生物に興味があって、魚図鑑をよく読んでいました。五年ほど前でしょうか、南紀白浜に旅した際、大地くじらの博物館まで足を運んだことは良い思い出です。海のギャングとも称されるシャチは、非常に頭もよく、群れをつくって自分よりも身体が数倍大きい鯨を狩ることで知られています。数年前NHKでシャチが鯨を狩る様子をドキュメンタリー番組で放送していました。シャチは群れをなして一頭の鯨を囲み時間をかけて急所を突きながら鯨の体力を奪っていきます。その様子が「鯨に鯱(しゃちほこ)」ということばを生んだそうです。集団で...鯨に鯱

  • 天高く未来へとつなぐ幟と共に~令和五年例大祭の記憶~

    令和五年皿尾久伊豆大雷神社例大祭が執り行われました。と言ってもすでにひと月以上が過ぎています。この間大祭の様子をブログに記そうと思いつつ一日一日と過ごしてしまい、行田浮き城祭りが過ぎ、お盆を終え、兼務社の夏祭りなど日々流されるばかりだったように思います。時間は大事だといいますが、その時のその思いを記していかないと人生の終着点もすぐに来てしまいそうです。令和二年、三年、四年と三年間コロナ禍で祭祀も縮小しておりましたが、本年は多くの氏子さんの参列の元、コロナ前に近い祭事となりました。これもひとえに大神様の御神徳であるとともに、氏子さんの想いが形になった証です。その思いとは地元のお社に幟を立てようというものでした。平成二十六年頃を境に、古くなった幟の修復が難しくなり、高齢化も伴って旗を上げることをやめてしまって...天高く未来へとつなぐ幟と共に~令和五年例大祭の記憶~

  • 十四節気 処暑

    昼間の暑さはまだまだ厳しいものですが、朝晩の空気は涼やかで長かった暑さの峠も超えたように感じます。「処」とは止まるといふ意味があり季節が入れ替わる頃を表します。蓮の花の季節も終わりますが、「白光蓮」が最後の一輪を気高く花開かせていてその生命力に驚かされています。稲穂も実り頭を垂れるまでになりましたが刈り入れまではもうしばらくかかりそうです。こうなってくると台風の到来がいよいよ恐い時期になります。毎年立春から数えて二百十日目と二百二十日目を農家の厄日として雑節として暦に記します。台風の特異日です。当社においては末社の一つに風神社をお祀りします。御祭神は志那都比古命(しなつひこのみこと)。伊邪那岐、伊邪那美との間に生まれた風の神様です。ほかの末社には幣束を入れる社殿に扉がありますが、風神社にはありません。常に...十四節気処暑

  • みかんの花咲く丘 加藤省吾顕彰碑

    みかんの花が咲いている思い出の道丘の道はるかに見える青い海お舟が遠くかすんでる加藤省吾作詞「みかんの花咲く丘」より多くの日本人は子供のころこの歌を聞きまた口ずさんだことだろう。少なくとも私たち世代では(50代)昭和二十年五月作詞家加藤省吾は両親の住まいがあった深谷市本住町に戦争疎開している。この「みかんの花咲く丘」はここ深谷の町で作詞されたといい、故郷の静岡の海に思いを馳せた詞なのだという。戦後の困窮と混乱の時代に「リンゴの唄」と「みかんの花咲く丘」は多くの日本人の琴線に触れ美しい当時の日本の人々の心を歌い上げているとこの顕彰碑はたたえている。故郷は遠きにありて思うもの加藤省吾氏の足跡を称え、顕彰碑ができたのは平成四年のこと。三十年前にはまだこうしたに戦後日本の復興に対する気概というか、志が多く残っている...みかんの花咲く丘加藤省吾顕彰碑

  • 深谷城址と富士浅間神社

    日本近代資本主義の父渋沢栄一翁の故郷深谷市。市の中心部には深谷城址が静かにたたずむ。深谷城は康正二年(1456)深谷上杉氏である上杉房憲が築いたと伝わる。鎌倉公方、古河公方との覇権争いに加え北武蔵の山の内、扇谷上杉の氏族の争いが絡み合って、争乱の歴史の中にあった。唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城であるという。低湿地の要塞と言えば忍城が思い浮かぶが利根川、荒川流域に近く平地でありながら水の恩恵を受けていたのだろう。天正十八年開城以降は寛永年間に酒井讃岐守忠勝が城主となり、同四年河越移封となり深谷城は廃城となっている(1634)現在深谷城の遺構とされているのが城鎮守であった浅間神社周辺の外堀とされている。浅間神社とされるが、内陣に収めた祝詞に「正一位智方大明神」と記されているように本来は智方神社...深谷城址と富士浅間神社

  • 蓮田市根金 稲荷神社と芥川龍之介自筆撰文碑

    蓮田市根金はかつて根金村・根金新田村の二村でいずれも元禄十一年(1696)閏戸村から分村し成立している。このうち根金新田村は足立郡別所村(伊奈町小室)の九十郎によって開発されたという。口碑によれば当社の創建はその九十郎が別所村の稲荷社の分霊を勧請したもので、当初はその子孫である内村家の氏神であったものを村人が信仰したことから村の鎮守となったと伝わる。本殿内陣には鎌と稲把を携えた稲荷大明神像が奉安されている。神像を納めた厨子の底部には「天明三年九月(1783年)奉納稲荷本地十一面観音武州埼玉郡岩槻領根金新田村」との墨書きが記されていて、往時は本地物である十一面観音像であったことがわかる。鳥居脇に石碑が建っているが、これは明治の文豪芥川龍之介の撰文自筆の石碑として貴重である。当地出身の関口平太郎氏を顕彰する碑...蓮田市根金稲荷神社と芥川龍之介自筆撰文碑

  • 久喜市菖蒲下栢間 諏訪神社

    旧菖蒲町下栢間は町の南西に位置し元荒川を挟んで蓮田市に接し、その南西は桶川市に隣接する。当地の開発は古く「栢間七塚」と称する栢間古墳群に見られるように六世紀ごろにまで遡る。奈良・平安期の集落跡も発掘され、平安末期以降武蔵七党の武士団の一つ野与党の「栢間氏」がここを本貫地としていたという。天正十八年(1590)徳川家康が関東に入国した際、古参の重臣であった内藤四郎正成にこの地を与えている。正成は当地の西部に陣屋を構えその敷地内に諏訪神社を祀ったという。内藤正成は武勇に優れ幼いころより家康に仕えたとされる。「どうする家康」でも描かれている、今川家に属していたころの大高城兵糧入れにも同行。三河一向一揆では一揆方についた渡辺高綱を矢で射抜いたとされる。武田との戦である三方ヶ原合戦では長男を失いながら奮戦し、高天神...久喜市菖蒲下栢間諏訪神社

  • 身近な公園に見る地域社会の行く末

    夏休みに入りここ北関東でも連日の猛暑が続いている。防災無線で熱中症警戒アラートが伝えられ、「不要不急」の外出を控える放送が流れている。世代によっては食品スーパーなどを避暑地的に利用される方も多い。自宅で涼をとり続けることにためらう方も多いだろう。子供たちはどうしているのだろうか。私たち世代(50代以上)は小学校なら近くの公園、神社で遊び中学校なら半日は部活に明け暮れていた。神社で育った私からすると夏休み中の神社は特に自治会館と接していると朝はラジオ体操、昼は子供会、夕方まで自由に遊べる最も自由な場所であった。もちろん安全面も含めて。神社の杜が木陰を生み出し風を感じる貴重な場所。年々杜も少なくなり、少子化のためラジオ体操がなくなり、子供会そのものがなくなってゆく。神社で子供たちだけで過ごす風景は遠い昔のこと...身近な公園に見る地域社会の行く末

  • 丑の日の浮き城祭り

    令和五年夏の土用の丑の日は七月三十日の日曜日でした。一年で最も暑さの厳しい時季で、陰陽五行では春は木、夏は火、秋は金、冬は水、そして各季節の間が「土」に当たります。年四回ある土用ののうち、夏の土用は特に暑さを乗り越えるのが厳しく特別視されています。行田市民祭り「浮き城祭り」の前身は「だんべ祭り」です。私が子供のころはだんべ祭りでした。郷土の方言である○○だんべというフレーズを祭りの名称にしたのは私の住む地区の市役所職員だと聞いたことがあります(真偽はわかりかねます)夏の土用は立秋前の十八日間。丑の日には鰻など「う」の付く食べ物を食べるなど、また「丑湯」という薬湯に入ったり土用餅を食べるなどの習慣が残っています。盛大な山車のたたき合いが見どころの行田浮き城祭り。全身のだんべ祭りからその行われる日は七月の最終...丑の日の浮き城祭り

  • 蓮始開(はすはじめてひらく)

    小暑の次候にあたる「蓮始開」。仏教とともに渡来し蓮華とも呼ばれる蓮の花が開くころ。「泥(でい)より出でて泥に染まらず」と言われる通り蓮は古来より清らかさの象徴とされてきました。蓮の花は深夜よに闇の中でひっそりと開き始め、完全に開くのは夜明けごろ。そして昼過ぎにはその花を閉じてしまいます。また蓮の実の皮は厚く長期にわたって発芽能力を保ちます。1951年に発見された弥生時代の蓮の実が二千年の時を超えて花を咲かせた「大賀ハス」は国内外で話題となりました。1971年(昭和46年)行田市では小針地区にゴミ焼却場を建設するため造成工事を始めます。この時掘り起こされたのが地中深く眠っていた古代蓮の実であったそうです。1975年(昭和50年)の調査で行田の古代蓮は2500~3000年ほど前のものと判明したそうです。ここ古...蓮始開(はすはじめてひらく)

  • 佐間 神明社

    「埼玉の神社」(埼玉県神社庁監修)によれば行田市内の神明社は二社しかなく、旧南河原村の馬見塚と中里の沼尻に鎮座する。両社とも旧村社で各々ささらや小高盛りといった古くからの神事が伝わり、地区の鎮守様となっている。新町通りを過ぎて、さきたま古墳の手前地元の銘酒川端酒造の少し先に小さな鳥居が建っている。「佐間神明社」と刻まれており細い参道を抜けると立派な神明造りの社殿が見える。天照大神を祀る神明社は各地に残るが、明治の合祀政策でより大きな最寄りの村社に合祀されたところが多いと考えられる。恐らくここ佐間の神明社は佐間天神社に合祀されたのだろう。御祭神は大日婁貴命(おおひるめむちのみこと)天照大神の別称でおそれ多いことからこう呼ばれていると考えられている。三連の幣束は三貴神を表しているのではないかと思う。こうした維...佐間神明社

  • 奇跡の二条植え

    水無月に入り当地区でも週末にかけて田植えが進められています。このブログにも毎年田植えの様子を書いてきました。私の家では父の代を最後に水稲農家は廃業し、代々続く農地は耕作委託という形で管理しています。委託している隣村の農家の方です(木元さん)今朝方から田植えを始めていました。昨年は休みが合い、苗だしの手伝いをさせていただきました。どの農家さんも農業機械の維持管理に苦労しながら続けえているそうです。田植え機に関しては八条植か少なくとも6条植えの運転席に座るものを使っています。ご高齢の方でも経験で非常に颯爽と乗りこなし、まっすぐに植えていきます。水が多すぎると苗が埋まってしまったり、また真っすぐ植えるのが難しくなるそうです。近くの田んぼで手押し式の2条植えの機械で続けていらっしゃる農家さんがいます。平成15年我...奇跡の二条植え

  • 水無月 花手水 希望の光

    貴重な土曜日の休みを忍城周辺で過ごすことができました。毎月第一土曜日は花手水ライトアップの日。忍城でもキッチンカーが出店するなどにぎやかな様子でした。当社も行田商工課の花手水企画協賛神社として花手水を展開しています。水無月の花手水は紫陽花とサツキです。基本的にその時期に咲く境内地の自然の花を活けています。月明かりが田んぼの水面に反射して日が暮れても明るさが続きます。熊谷方面の夜景が美しく、夕日の沈む時間を惜しんで眺めています水無月花手水希望の光

  • 筍箏生(たけのこしょうず) 立夏 末候

    筍が顔を出す季節。春先に太く食べ応えある筍は「孟宗竹」という品種で三月中旬から出回るが、日本原産の「真竹」は五月の後半から旬を迎える。継ぎ目の輪が二本でやや細身が真竹。継ぎ目が一本の輪で太いのが孟宗竹。竹は生育が非常に早く一晩で一節伸びるとも。「筍の親優り」と言われ子供が親より優れていることわざもある。またこの時期雨も多くなり、次々と筍が生じる様を物事に例えて「雨後の竹の子」などと表現する。竹はその根を地に張り巡らし、大地を鎮めると考えられることから地鎮祭の注連縄を張ることに用いられる。写真は鴻巣の竹林公園。人の手が入らなければ「竹藪」となり美しく間引いて育てられれば「竹林」となる。何事も人の手間が大事なのだろう。筍箏生(たけのこしょうず)立夏末候

  • 菖蒲町 上栢間 神明神社

    栢間は元荒川左岸の大地とそれに続く低地に位置する。菖蒲、久喜、桶川に隣接する場所で古くは武蔵七党野与党の本貫地であった場所で古くは「萱間」と書いた。当社参道の入り口の南西にある天王山塚古墳は埼玉県の指定史跡であり、行田市の「埼玉古墳群」に連なるものと考えられていて、武蔵国造笠原直使主(かさはらのあたいおみ)との関連があると推測されている。社伝によれば当社は景行天皇の御代創建で「延喜式」神名帳に埼玉郡四座の一つとして記されている「宮目神社」は当社をさすとされる。古くは大宮目神、天照大神、豊受大神の三柱を御祭神としたが、天照、豊受の二柱と改め、伊勢神宮の分霊であるがため神明社と称するようになったという。現在の本殿は文政元年(1818)建立で神明造の本殿が並立している。特色ある神事として「鎮火祭」がある。風土記...菖蒲町上栢間神明神社

  • 書き入れ時

    明日は母の日。多くの国々で母への感謝を表す日とされている。1870年アメリカの女性参政権活動家ジュリア・ウォード・ハウが家族を戦場へ送ることを拒否しようと「母の日」を宣言した。その契機となったのは負将兵の手当てを行いながら女性活動を行っていたアン・ジャービスというひとで、その娘アンナ・ジャービスが無き母を思い、母が教師をしていた協会で白いカーネーションを贈ったことに由来するという。アメリカ文化圏では5月の第二日曜日を母の日と定めることが多いが、三月の春分に当てるアラブ諸国もあればベトナムなどは3月8日を当てている。3月8日は世界女性dayに当たる。天国の母には白い花を贈り、健在であれば赤いカーネーションを贈ることが多い。生花業界にとっても書き入れ時で、多くの商品が店頭に並ぶ。卒業式、成人式、母の日が三大花...書き入れ時

  • 蓮田市 貝塚神社

    蓮田から白岡に抜ける途中、埼玉県指定史跡となっている綾瀬貝塚によることができた。大正11年に指定された古い史跡で縄文前期の貝塚と考えられている。(5500年前)西側を流れる元荒川沿いの貝塚としては最奥に位置するものだという。市内にはこのほか黒浜にも貝塚があり、白岡と含め縄文期にこの地が海の入り江であったことを示す重要な史跡であるという。貝塚が多く地名としても残るが、風土記稿によれば元禄年間(1688-1704)に上潤戸村から分村したと伝わる。もとは稲荷神社であり境内地は高台に当たる貝塚の上に祀られている。古くから元荒川の氾濫による被害を幾度も受けてきたところで水害を避けてこの地鎮座地に選ばれたことを窺わせる。年間の祭事の中で四月二十二日に「しっさま」と称する祭りがあるという。しっさまとは「獅子様」のことで...蓮田市貝塚神社

  • 愛の花

    言葉足らずの愛を愛を貴方へ私は決して今を今を恨んではいない歪んだ雲が空を空を濁して私の夢は全て全て書いてきたの命ある日々静かに誰かを愛した日々空が晴れたら愛を愛を伝えて涙は明日のため新しい花の種恋に焦がれた人は人は天の上いつかあの場所で強く強く手を結び抱いて緑ゆれてる貴方の声が聞こえた気がする空が晴れたら遭いに遭いに来てほしい涙は枯れないわ明日へとつながる輪木漏れ日と笑う大切な人を失う未来なんて来ないで空が晴れずとも愛を胸に祈るわ貴方に刺さる雨が風になり夢を呼び光るになるまで空が晴れたら愛を愛を伝えて涙は明日のため新しい花の種空が晴れたら遭いに遭いに来てほしい涙は枯れないわ明日へと繋がる輪NHK朝の連続ドラマの主題歌。ドラマを見ていないので話が分からないけれど、彼女の歌でその世界観を感じることができる。聞...愛の花

  • 立夏 初候 蛙始鳴

    朝晩の寒さも和らぎ蛙も鳴き声を上げる頃となります。暦の上では「夏」に入り田植えの準備として「苗代」の季節です。当地区では例年五月の連休に苗代を行う農家が多いのですが、今年はまだ水が引かれていません。おそらく連休中の人手集めの関係だと勝手に思っていますが、無事に田植えまで進むことを祈っています。御神前に蓮をご奉納いただき、毎日その様子を見守っているところですが、小さなカエルをよく目にします。蛙は必ず元の場所に戻る習性があることから「帰る」が語源とされています。「お金が返る」「無事に帰る」といった縁起の良い対象として見られることも多いようです。蛙が鳴き始める頃の眠くて仕方がない時期を「蛙の目借時」というそうです。「目借る」は「妻狩る」が転じたもので蛙がメスを求めて人の目を借りるからだといいます。端午の節句に柏...立夏初候蛙始鳴

  • ナガミヒナゲシ

    桜の開花からはやひとつき。春は花の開花に心なごむ季節。新緑の美しさとコントラストして様々な色の花を楽しむ毎日だ。自宅の砂利にもオレンジの可憐な花が咲いている。ポピー(ヒナゲシ)と思って所々で咲いていると思っていたところ。どうやら別の種類のはならしい。「ナガミヒナゲシ」色はオレンジの単色で外来種。他の花を枯らしてしまう「アレロパシー活性」を強く発し、毒性が強い植物だ。茎や葉から出る液に触れると手がただれてしまう。生命力も強く、道路脇やアスファルトでも平気で繁殖してしまうという。観賞用のポピーはアイルランドポピーでシベリア由来の寒冷地の品種。赤、ピンク、黄色と彩りも鮮やかだ。ナガミヒナゲシの毒性は規制されるほどの強さはないが、その繁殖力の強さで生体系を狂わせていく。それぞれの植物の特性を知って人の手を入れてい...ナガミヒナゲシ

  • 五色旗に見る疫神祭の起源

    月明け五月四日に予定されている神事「疫神祭」。江戸期から疫病除けとして田んぼの作業が始まるころ、村の三か所の入口を祓い、「疫神除神璽」の神札を立てて回ることが形として現在も残る。平成初期まで神輿を担ぎ、各個宅で祓いを行い、ともに回る氏子の列を持てなしていたが、少子化、過疎化の波によって神事の形態としてはかなり簡素化している。今年一月、ある氏子宅に戦前の疫神祭の様子が残るということで写真を見せてもらうことができた。代々続く旧家で神社とのかかわりあいも長い。写真のように正装した神職と随行する氏子の姿が印象的だ。明治期なのか昭和に入ってのものか判断できないが、間違いなく疫神祭の写真である考えている。神輿に乗せた御神体を担いだのはおそらく現在の神輿からで戦後の話なのではないだろうか。辻祓いの神璽札については祭りの...五色旗に見る疫神祭の起源

  • 卯月の散歩道

    統一地方選挙後半戦を迎え、市長、市議会とも激戦となりそうな一週間が始まりました。地区内の選挙候補者掲示板前を歩きながら、隣地区の城西公園まで歩きます。月曜日の昼前ということで風も強いせいか誰もいない公園の残りの桜を堪能しました。遊ぶ子供のいない遊具は少し寂しそうですが、つい五年前くらいまでは自分の子供と一緒に遊んでいました。途中道端にはクローバーの茂みがあり、よく探すと四つ葉も見つけられます。人の生活リズムは様々で、自分たちのペースでこれからも歩いていければよいと考えています。地区内のお宅の藤の花もきれいでした。年々樹勢を拡大しているようで屋根の高さまで紫の可憐な花が広がります。以前と比べると選挙の街宣カーが減っているでしょうか。途中2台ほどすれ違いましたが、さほどにぎやかさはありません。それとも戦略の変...卯月の散歩道

  • 蓮の御奉納

    弥生も終わりの30日、行田市蓮の大使木暮照子先生より久伊豆大雷神社社頭に4株の蓮をご奉納いただきました。人形作家、蓮の大使等多くの文化活動を通じ、行田市のみならず全国を巡りながら幅広く社会貢献をされていらっしゃる木暮照子先生。2年前に郷土博物館でお目にかかって以来、私の本務社である皿尾の神社にも大変お心をお寄せいただき、地元の氏子さんにも蓮の花のすばらしさを伝えたいとの思いから、このような立派な蓮の鉢とともに、咲いたときの蓮の色をイメージして蓮の配置、また奉納札を一式ご奉納いただきました。本殿向かって右から「白光連」(白)「小舞妃」(桃色)「紫気逢來」(紅)「太白連」(白)という配置を頂き、黒土と田んぼの泥を合わせながら丁寧に植え込みを行いました。植え込みにはご主人で生物学者の木暮桂先生が境内までお越しく...蓮の御奉納

  • 花梨の花咲く季節

    境内地に一本花梨の木が立っている。隣接する私の自宅にもう一本あり、秋には黄色い実をつけてくれる。完熟したかりんの実は独特の香りを放ち咳止めの効果もあることから健康に良い果実として重宝されてきました。40年前頃には神社参拝者から分けてほしいとの声が多く、喜んでお持ち帰りしてもらったものです。かりんの原産地は中国で古くから薬用や観賞用として利用されていました。日本には平安時代に渡来したといわれ、同じく薬用としてその実を蜜付けなどにしてきたようです。果肉が固く渋みもあることから生食には向かず、その効能を漬けることによってエキスを利用してきたのです。桜の季節と同じころに咲く淡いピンクの花弁は可憐で新緑に映えます。「花梨」の花言葉は「豊麗」。豊かで麗しい花から、秋には芳醇な香りの立派な実をつけてくれるのです。花梨の花咲く季節

  • 蓮田市西城 天満神社

    天平十五年(743)聖武天皇は高僧義澄東国の巡視に遣わせたが、当地の弥陀堂の蓮花を称賛して、弥陀堂に「蓮田村蓮花院弥陀堂」の名称を与えたと伝え、これが「蓮田」の地名の由来とされている。現在人口6万人余りの小都市蓮田の歴史は地名でさえも千二百年を優に超える町である。天平15年(743)は日本史の教科書では「墾田永年私財法」「廬舎那仏建立の詔」が出された時で、奈良時代末期社会的混迷が広まりつつある中で、東国の開拓に活路を見出そうとしていた時代である。一方西城という地名はもちろん古い城があったところで、源平時代に戦に敗れた落ち武者が住み着いて開発したと伝わる。現在公園として整備され春には美しい桜が満開となる。城そのものは「平山城」という室町時代の城跡があり、その西の沼地であったところに当たる。「風土記稿」によれ...蓮田市西城天満神社

  • 行田市 野 満願寺しだれ桜

    「風土記稿」によれば当地は元より広い野原であって、慶長年間(1611~)開発が進み「野村」と称した。当地は行田市の最東南端に当たり戦国期までは忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦のたびに被害を受けている。よって忍の殿様は戦に備えて道を迷路のように屈曲させたと伝わり、現在でも区画整理が入っていない多くの部分でその名残を感じることができる。満願寺は天正年間宗純和尚をもって中興開祖とし現住職をもって第十九世に当たるとある(境内石碑)この間四百年寺門益々興隆し三千百坪偉容を近隣に誇る。然し文化十年(1827)頃火災にあい御堂のほとんどを消失し、その後再建する。昭和五十三年弘法大師千百五十年の御遠忌に際し記念事業として墓地の区画、有縁無縁塔の建立、六地蔵尊の移転等を施工する。宗派は真言宗智山派。鴻巣市の市境にほど...行田市野満願寺しだれ桜

  • 令和五年祈年祭にて

    皿尾城公園の桜も咲き誇るなか、令和五年春季祈年祭を執り行いました。昨年の同時期はコロナ蔓延が続いており、行動制限の解除された春祭りとしてはほぼ三年ぶりとなります。あいにくの桜雨となりましたが午前の自治会総会のあと、令和四年度の年番役員さんの奉仕のもと滞りなく祭典をが進行されました。自治会の役員と神社祭事年番は兼ねますので三月をもって役員さんが交代となります。ですので最後の祭事がこの春祭り、祈年祭となります。これまであまり気にかけておりませんでしたが、年番の最後の奉仕がこの祈年祭となり、同日に次年度に引き継がれています。すなわち祈りの祭事が引き継ぎにあたり、まさしく氏子の願い祈りと共に引き継がれていることにその意味合いに改めて思いを馳せています。新たな年度に向け新たな年番さんと共に祭事を継続していきたいと思...令和五年祈年祭にて

  • 布石

    無名の青空を見上げて途方にくれた日もからかうような風にあおられ居場所をなくしてもたやさず守り続けた灯火はやがて光になったあきらめて手放してそのなかでただひとつ続けてきたものがあるそれがあなたを強くした不確かな月に重ねて大見得切った日も崩れてもまた積み上げたその日々はいつかの布石になった迷ったり背負ったりその度にただひとつ離さなかったものがあるそれがあなたを支えている救われた報われたたったひとつの言葉でその出会いに導かれあなたはここにいる半崎美子『布石』より毎週日曜日の朝6時。ラジオから彼女の声が流れてくる。『はんざき畑』いまでこそメジャーデビューを果たし多くのメディアでも取り上げられた彼女の曲は『無き歌の女王』として多くの支持を集めている。一方それまでの道のりはけして平坦ではなかった。しかも十年以上に及ぶ...布石

  • 鯖缶ショック

    サバの缶詰が高騰している。一部メーカーは出荷を停止しているそうだ。(極洋)食品問屋に勤めていたころ缶詰と言えば極洋、マルハニチロ、宝幸水産など各メーカーが競って味や内容を問屋に売り込んでいたと思う(20年くらい前です)。よくサンプルと称して無償で新商品をもらったりもした。缶詰自体が時代の流れで消費量は減っているのだと思う。レトルトパウチの伸びが大きい。私が食品問屋にいることにはまだ缶切りで開けるタイプも多かった。今ではほぼプルトップ缶(取っ手がついていて引っ張ると開くタイプ)しか置いていない。おそらく子供たちは「缶切り」なるものを使ったことがないのではないかと思う。日本の太平洋沿いを南から流れ込む暖流を「黒潮」オホーツク方面から東北沖に流れる寒流を「親潮」と呼ぶ。サバは日本海で取れるものと、太平洋側で取れ...鯖缶ショック

  • 上ノ郷城と鵜殿長照

    どうする家康、第六話は瀬名姫奪還作戦の上ノ郷城の戦いでした。創作を折り込みながらも非常に興味深い展開で、人質交換の史実に基づくドラマティックな内容で見ていて「大河ドラマ」(史実と創作のヒューマンスストーリー)を十二分に堪能できました。今川義元の重臣鵜殿長照を演じたのは野間口徹さんで私と同世代。国立大学の理系学部を卒業しながら俳優業を志し、アルバイトしながら役者としての下積み時代を長く続けてきたそうです。普段は眼鏡をかけた姿が印象的で、はじめての時代劇で端正な表情が際立っていました。桶狭間合戦当時は尾張への最前線大高城代を務め、松平元康の兵糧入れによって窮地を逃れます。家康の今川離反(織田家との同盟)により敵対し、上ノ郷城で家康の三河軍に攻められました。このとき忍として服部半蔵が活躍した様子が描かれており、...上ノ郷城と鵜殿長照

  • 行田市 和田神社

    行田市和田はかつて条里制水田が広がっていた区域で、現在も多くの田んぼが残る。行田市にこの条里制による地名がいくつかのこっていて斎条、中里などいまでも大字として見られる。和田地区は現在一和田と二和田とに分かれ、こちらは二和田になる。一和田は旧白河村の一部で現在も八坂神社を祀っている。『風土記稿」和田村の項には『伊森明神社、村の鎮守とす宝珠院持、蔵王社、同持」とありこの「蔵王社」が当社にあたり古くは蔵王権現と称した。明治の神仏分離により寺の管理を離れ、社名を御嶽神社と改め、明治41年社号を和田神社としている。大正12年の関東大震災により本殿拝殿が全壊となったが、同地区の地主竹田恒太郎の所有する地に移転し大正14年社殿を新築している。このときの移転造営費用は七千八百円といわれ、現在の価値からすると一億近くになる...行田市和田神社

  • 川越氷川神社

    川越は都心から三十キロ圏内に位置し、交通の便がよく江戸の情緒を感じさせる蔵造りの町並みや多くの寺社が残ることから、近年は首都圏を代表する観光地として賑わいを見せる。「川越」という地名は時代により「河肥」「河越」などとも表記されたがいずれにせよ周囲を川に囲まれた肥沃な土地である。かつてこの河川を利用した舟運により江戸との物流が盛んに行われ物資だけでなく江戸の文化や流行がいち早く伝わったことから当時から「小江戸」と呼ばれていた。また豊かな自然に恵まれた「武蔵野」とよばれる景勝の地はこの氷川神社が北端とされている。創建について氾濫を繰り返し幾度も流れを変えてきた入間川を畏れ、出雲の簸川にこれを見立てて大宮の氷川神社より勧請したと伝わる。御祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命、足名桂命、手名桂命の五柱。中世に入り...川越氷川神社

  • 菖蒲神社

    古河公方足利成氏(しげうじ)が家臣の金田則綱に命じて康正二年(1456)に関東管領上杉氏に対する前線基地としてこの地に築かれたのが菖蒲城と言われている。その竣工が五月五日であったことから菖蒲の節句にちなみ菖蒲城と称された。当社はもとは袋田明神と称し、『風土記稿」においては「袋田明神祭神は稲田姫命、神体銅鏡にて本地薬師像を彫れり、裏に寛文九年(1669)と見ゆる合殿に鷲宮・久伊豆の両社を置き云々」と記される。別当の吉祥院は真言宗の寺院で開基は菖蒲城主佐々木源四郎という。佐々木氏は金田と称し後に小田原北条氏に与するも天正十八年(1590)に豊臣秀吉によって滅ぼされたという。当社の大元となった袋田明神の社名は氏子の間では見沼大用水を隔てた新堀の地に祀る久伊豆神社の御祭神大己貴命のお袋(母親)が稲田姫命であったこ...菖蒲神社

  • ホトトギスと三英傑

    今年の大河ドラマ「どうする家康」。三河の小国の跡取りから人質時代を経て、多くの家臣らと共に悩みながら太平の世を作り上げる生涯を丁寧にまた興味深く描いている。ドラマの中で信長、秀吉、そして家康がすでに交わりを持ち戦国の世を駆け抜けているが、後の三英傑とよばれる三者についてその性格を詠った句がよく知られている。「ホトトギス」の句である。鳴かぬなら殺してしまえホトトギスこれは信長が短気で残忍な性格を表している。鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギスこれは秀吉が知恵者で行動力に長けたことを表している。鳴かぬなら泣くまで待とうホトトギスこれは家康が天下取りの機会をじっとうかがっていたことを示している。このホトトギスの句が広く知られるようになったのは江戸時代後期のことであり、平戸藩主松浦静山が随筆「甲子夜話」に引用して...ホトトギスと三英傑

  • 庭の千草

    庭の千草も虫の音も枯れて寂しくなりにけりああ白菊ああ白菊一人遅れて咲きにけり露もたわむや菊の花霜におごるや菊の花あああわれあわれああ白菊人の操もかくてこそ明治十七年小学唱歌集に載るこの歌の原曲はアイルランド民謡「夏の名残のバラ」日本語訳としては晩秋から冬にかけての自然描写とされる。背後にある人の心情は昭和のころまで多くの人々の共感を得ている。人生の晩年愛する人に先立たれ、一人残された人の寂しくも、凛として最後まで生きる様が歌い上げられえている。季節の花々を手水に挿し人の癒しとなればとの思いで花手水を続けている。花を見るたびに先立った人を思い出すのだろう。幸い私はまだ伴侶となる人とともに歩いている。いつかどちらかが先立つ日も来るだろう。それでも尚凛とした生き方ができるよう、ともに歩く時間を大事に過ごしたいと...庭の千草

  • 合掌の気持ち

    強烈な寒波に見舞われて、ここ関東も氷点下の真冬日となりました。昨晩の暴風でお社の木々も吹き飛ばされそうで心配しておりましたが、大きな被害もなく済みました。一夜明け、境内地を見回りながら自然の力に改めて思いを馳せ、人の営みの小さきを知る思いでした。皿尾城土塁跡に繁る杉の木々は樹齢何年ほどになるのか定かではありませんが、長きに渡り風雨からこの社殿を守ってきてくれたことに変わりはありません。改めて早朝に手を合わせていました。手水舎の竜神から流れ落ちる水が太い氷柱となって姿を変えています。ここ数年で見たことのない姿です。手口をすすぎ、清らかな心身でお参りすることが神社参拝の作法とされておりますが、どうしてご神前にお参りすることで、より清らかな心持ちとなるのでしょうか。願いを神様に叶えていただくため、あるいは願いが...合掌の気持ち

  • 花崎城址を訪ねて

    花崎城址は東武伊勢崎線花崎駅の北西約50mに位置し、遺跡としては加須市指定史跡となっている。昭和五十六年ごろまでに畝掘、馬出しに加え、珍しい障子堀が発見されている。「障子堀」とは城の守りを固めるため、堀の中に畝や障壁を作ったもので、静岡県の山中城のものがよく知られている。障子彫りが見つかったのは写真とは別の東武線の反対側(北側)であったそうで、しかも山中城の障子堀の畝が2m近くあるのに対して、花崎城の畝は30cmほどの規模だという。これではさほど堀としての防御機能を果たさないと思われたが、文化財調査報告書では畝を設けることで堀の中の排水を抑え水をため込む状態にすることで敵の侵入を難しくする意図があったと考えている。花崎城は沼や湿地に囲まれた台地の上に築かれた城だったと考えられている。湿地帯という自然要塞に...花崎城址を訪ねて

  • 屋敷稲荷と裏白の木

    氏子区内のお宅で屋敷稲荷周辺の樹木を伐採をするにあたってお祓いをしてほしいとのことで、樹木伐採報告祭を執り行いました。当地区内でも古くから代々続く家柄で広大な敷地を有します。初めて敷地内のお社を拝見させていただきましたが、稲荷社と天神様の一間二社造りとなっている貴重な屋敷神様で驚きました。御神体としてはいる幣束の紙垂を当家で毎年切り替えていますが、私の曾祖父の名前が記されています。御神木はウラジロの木という常緑樹で、葉の裏側が白くなるそうです。敷地内の整理でこの御神木を残して、屋敷森をたたむようです。田舎暮らしでも、屋敷林を維持して行くのが難しい時代になりました。お祓いのあとお屋敷でお茶をいただきながら、古い写真を見せていただきました。明治期のもので、当地区の厄神祭の様子でした。五色旗があり当時の様子を良...屋敷稲荷と裏白の木

  • 特別史跡 さきたま古墳群~いかにして守られてきたか~

    令和五年一月度行田市民大学、市民大学同窓会の合同講演会が開催されました。会場は行田商工会館4階、年に一度の合同開催ということで120名近くのご参加を頂きました。市民大学では1,2年生ともさきたま古墳に関する講義があります。郷土史に関する知識として、行田市民の皆さんにより詳しく知ってほしいとの願いから、今回改めて合同企画としてさきたま古墳に関する講演となりました。講師はさきたま史跡博物館主幹学芸員である佐藤康二先生です。令和二年三月埼玉古墳群は全国で63番目、古墳群としては67年ぶりの3例目として令和初の特別史跡に指定されました。特別史跡とは「史跡のうち学術上の価値が高く、わが国文化の象徴となるもの」とされ有形文化財でいえば「国宝」に相当します。古墳公園として整備され、多くの来訪者を迎える現在ですが、昭和初...特別史跡さきたま古墳群~いかにして守られてきたか~

  • 厭離穢土 欣求浄土

    徳川家康の陣中旗に記される浄土宗の教え。厭離穢土欣求浄土とは穢れた現世を離れ極楽浄土へと向かいなさいという、源信の「往生要集」にある言葉だという。今年の大河ドラマ「どうする家康」の第二話は桶狭間の戦いで織田信長の軍勢に今川義元が討たれ、今川方の大高城へ兵糧を届けながらも、最前線で取り残される様子が描かれていた。松平元康(家康)と信長の出会いは幼少期まで遡る。元康の父松平広忠は尾張の織田信秀の度重なる侵攻に苦しんでいた。今川の助けも望めなかった広忠は竹千代(元康)を渥美半島の戸田宗光へと預けるが宗光の裏切によって、宿敵尾張の人質となってしまう。信秀によってその命を絶たれるところを、使い道があると拾った(預かった)のが信長であったとドラマでも描かれていた。その後信長の兄と人質の交換として今川へ差し出された元康...厭離穢土欣求浄土

  • 水平線

    できるだけ嘘はないようにどんな時もやさしくあれるように人が痛みを感じた時には自分のことのように思えるように正しさを別の正しさで失くす悲しみにも出会うけれど水平線が光る朝にあなたの希望が崩れ落ちて風に飛ばされる欠片に誰かが綺麗と呟いてる悲しい声で歌いながらいつしか海に流れついて光ってあなたはそれを見るでしょう自分の背中は見えないのだから恥ずかしがらずに尋ねるといい心は誰にも見えないのだから見えるものよりも大事にするといい毎日が重なることで会えなくなる人もできるけれど透き通るほど淡い夜にあなたの夢が一つ叶って歓声と拍手の中に誰かの悲鳴が隠れている絶える理由を探しながらいくつもの答えを抱えながら悩んであなたは自分を知るでしょう誰の心に残ることも目に焼き付くことのない今日も雑音と足音の奥で私はここだと叫んでいる水...水平線

  • 水平線

    できるだけ嘘はないようにどんな時もやさしくあれるように人が痛みを感じた時には自分のことのように思えるように正しさを別の正しさで失くす悲しみにも出会うけれど水平線が光る朝にあなたの希望が崩れ落ちて風に飛ばされる欠片に誰かが綺麗と呟いてる悲しい声で歌いながらいつしか海に流れついて光ってあなたはそれを見るでしょう自分の背中は見えないのだから恥ずかしがらずに尋ねるといい心は誰にも見えないのだから見えるものよりも大事にするといい毎日が重なることで会えなくなる人もできるけれど透き通るほど淡い夜にあなたの夢が一つ叶って歓声と拍手の中に誰かの悲鳴が隠れている絶える理由を探しながらいくつもの答えを抱えながら悩んであなたは自分を知るでしょう誰の心に残ることも目に焼き付くことのない今日も雑音と足音の奥で私はここだと叫んでいる水...水平線

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