紫陽花の季節になりました。我が家の庭も紫陽花祭りです。色彩豊かで瑞々しく毎朝感動しながら眺めています。多くの方に紫陽花を切って差し上げました。紫陽花を受け取ってくださる方々の笑顔に出会える季節です。日常にそっと優しく寄り添ってそれぞれの人生を受け入れているように咲く紫陽花の花は「ああ紫陽花」と声をかけたくなる季節です。「私の四季」紫陽花の季節
春うらうら命の輝きは私の憂いも飲み込んで義母が残した木瓜の花が今年も日月星と咲きこぼれている追いかけるものもなく思い出だけが満ちてくる今日の風にやわく染められていく「私の四季」木瓜の花が咲いて
(2025.3.18の我が家の花々)29年前名古屋にあったヒマラヤ美術館で洋画家三岸節子が描いたミモザアカシアの絵に感動しました。3年後苗を購入し鉢植えにして育ててきました。春に先駆け黄色の房状の花が咲きます。鮮やかに咲くミモザアカシアは冬枯れであった庭を一気に春へと変えてゆきます。冬の寒さに弱い私にとって力強い花といえましょう。義母が育てていた貝母の花が今年もたくさん咲きました。花に触れる喜びは生命の愛おしさを日々私に伝えているように思えるのです。「私の四季」ミモザアカシアが鮮やかです
東金は暖かいので雪にはならず雨が降っています。気温はやはり低く寒い日になっています。古木になった庭の紅梅としだれ梅が寒さの中鮮やかに咲いています。紅梅としだれ梅は寒さを背負って次に咲く花を手招きしているように凛としています。体調がすぐれなくても優しい気持ちにしてくれます。「私の四季」紅梅しだれ梅が咲いて
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紫陽花の季節になりました。我が家の庭も紫陽花祭りです。色彩豊かで瑞々しく毎朝感動しながら眺めています。多くの方に紫陽花を切って差し上げました。紫陽花を受け取ってくださる方々の笑顔に出会える季節です。日常にそっと優しく寄り添ってそれぞれの人生を受け入れているように咲く紫陽花の花は「ああ紫陽花」と声をかけたくなる季節です。「私の四季」紫陽花の季節
高安ミツ子子供のころ私はよく熱を出した。当時は往診してくれる診療所の医師がいて私が高熱を出すたびに往診してくれた記憶がある。先生は玄関を入るたびに「またか」というのが口癖で熱が高くても、その声を聴くと子供ながら安心感がわいたものだった。「先生は軍医であったから口は悪いけれど優し先生だよ」と話す大人たちの評判を聞いていたから不安はなかった。先生はやさしく聴診器をあて、熱にあえぐ私の様子を見ながらペニシリンとブドウ糖の2本の注射をするのが定番であった。ブドウ糖の注射器はとても太くペニシリンの注射器の方が細い注射器であったが痛さは遥かにペニシリンの方が勝っていた。診察後はにこやかに洗面器のお湯で手を洗いながら、口の悪さを駆使して家族の心配を拭うように笑わせて、そして忙しそうに帰っていった。先生の手当の後、熱が下...随筆思い出話1「優しい村」
私の体調がすぐれない日が続いているうちに、庭の花は次々に咲いて季節の移り変わりを知らせてくれています。薔薇が咲きシャクヤクが咲き5月の庭は私を癒してくれます。私の四季「薔薇が咲き出しました」
春うらうら命の輝きは私の憂いも飲み込んで義母が残した木瓜の花が今年も日月星と咲きこぼれている追いかけるものもなく思い出だけが満ちてくる今日の風にやわく染められていく「私の四季」木瓜の花が咲いて
(2025.3.18の我が家の花々)29年前名古屋にあったヒマラヤ美術館で洋画家三岸節子が描いたミモザアカシアの絵に感動しました。3年後苗を購入し鉢植えにして育ててきました。春に先駆け黄色の房状の花が咲きます。鮮やかに咲くミモザアカシアは冬枯れであった庭を一気に春へと変えてゆきます。冬の寒さに弱い私にとって力強い花といえましょう。義母が育てていた貝母の花が今年もたくさん咲きました。花に触れる喜びは生命の愛おしさを日々私に伝えているように思えるのです。「私の四季」ミモザアカシアが鮮やかです
東金は暖かいので雪にはならず雨が降っています。気温はやはり低く寒い日になっています。古木になった庭の紅梅としだれ梅が寒さの中鮮やかに咲いています。紅梅としだれ梅は寒さを背負って次に咲く花を手招きしているように凛としています。体調がすぐれなくても優しい気持ちにしてくれます。「私の四季」紅梅しだれ梅が咲いて
高安ミツ子寒さに抗うことなく凛として優しく優しく萌黄色に咲いている春蘭ありがとうと言わなければならない人が皆旅立ってしまい体も心もそぎ落とされていく私の哀しさを春蘭はゆるゆると安堵の時を結んで私の命を慈しんでくれる喝采をうける花ではないけれど今年春蘭は目立たなく鉢いっぱい蕾を付けた雲は高く光は弱くきらめいてそれでもわずかな生命を遥かな橋にかけようと今日の風景は愛おしく過ぎていく冬空に春蘭は咲いて
髙安ミツ子身内や友との別れが多くなり、日常の中でもふと寂しさで心がいっぱいになってしまうことがあります。そんな時は、亡き人のことを思い出して私の心で語ってあげようと思うことにしました。共有していた思い出時間が懐かしく蘇り、来客を迎えているような思いににもなります。見送る側のこみあげてくる気持ちは呟きなり、やがて徐々に日常に溶け込んでいき、私が終わるときは消えていくことになりましょう。はかないと思えばはかないのですが記憶は私を照らす標識のように続いているのです。詩人の新川和江さんがご逝去されました。追悼の気持ちをこめて私の思い出の一つを記したいと思います。確か私が二四歳昭和43年か昭和44年)の頃だったと思います。当時土橋冶重氏が主宰していた同人誌「風」の主催「夏の詩のカレッジ」が都内で開催されました。詩人...随筆「新川和江さんを偲んで」
千葉県は比較的暖かいのですが、1月2日に体調を崩しました。寒さからといえましょう。庭もめっきり冬の景色です。それでも寒菊が冬の日差しを浴びて咲いています。屋内ではパピオペデーラムが去年から咲き続け色鮮やかです。カロンコエも室内で咲きだしました。いよいよ新しい年が始まりました。季節に渡されるバトンを待っているように庭の花たちはひっそりとしています。それでも雀がエサ台に来たり、紅梅やミモザが蕾を持っていて静かな冬景色に優しい息吹を感じさせてくれています。本年もよろしくお願いいたします。「私の四季」1月の花
12月に入り1年の早さを感じます。年齢とともに時の経過は早く感じられるそうですが、思い出ばかりが多くなります。一日の心の動きを映してくれる花たちと季節を味わいながら12月を迎えました。鉢物のハゼが色が鮮やかに色づき思わず声をあげてしまいました。皇帝ダリアは例年より花数が少なかったですが冬空に映えて輝くようです。山茶花も咲きだしました。花たちも冬支度が始まったようです。「私の四季」ハゼが紅葉し皇帝ダリアが咲きました
高安ミツ子庭の借景になっている小さな天神様の公園は大らかな景色を見せています三百年は過ぎている欅が大空に枝を広げ近頃はイチョウが欅より更に高くなって時には木のてっぺんでシジュウカラが囀っています山桜や椎の木やニッケや椿を絡めイチョウの木は四季のコンダクターとなって春夏秋冬の風景を心地よく見せてくれます五十三年住み慣れた我が家から眺めるこの景色は優しい時間となり年を取るのも悪くないと思えてきます命がけで生きたわけではないけれど休みなく追いかけてくる日常の中で子供たちを育て義父母を見送り仕事からも解放されたこの時間はいとしい思いがあふれてきますできないことが多くなり寂しさも感じるけれど急かされる今日を生きることはないのです自分を装うこともせず時をほおばっていますおや雨が降っているのに日が照っています子供の頃こ...晩秋は名もなき物語を
夏の終わりから咲き始め、涼しさが増すと日中も咲き続け、初冬まで見られる朝顔は『天上の碧』です。その鮮やかな色彩には心動かされます。花と詩のコラボにしました。高安ミツ子「真珠の耳飾りの少女」そのターバンの色フェルメールブルーがヒマラヤを越え季節風に乗ってやってきましたフェルメールブルーは日本の四季をくぐり花を青く青く染めてゆきました蔓は木々に絡み晩夏から晩秋を縫い合わせ碧の命を広げていきます私の物語が終章を迎えたように冬の気配が近づいていてもひたすら日輪と月影の間を咲き続けていくのですふと私の肩に手を置くように風景の優しさがあるこの色彩の調べああしみじみと記憶の波打ち際で揺れるフェルメールブルー「天上の碧」よ(「天上の碧」は青く咲く朝顔)私の四季朝顔「天上の碧」が咲いています。
高安ミツ子夏の終わりの夕顔は探す秋風に首をゆすってひたむきに咲きだしました宵闇に開花した純白の夕顔は天に昇っていくようにも見え天から降りてきたようにも思えますほのかな香りは二人で歩いた半世紀を絡め過ぎてきたいくつもの曲がり角やくぐりぬけた思い出を連れてきて二人に振りかけていくのです青葉のように若やいでいたあのころはたまた暗い道すがら二人で木漏れ日の向こうへとひたすら歩んだあの時間はこの美しさに出会うための歩みだったのだろうかゆらゆらと一夜で散ってしまう夕顔のようにいつかは消えていく命だけれど今宵の夕顔は生命の終わりをせき止めて私の心を酔わせています揺れ始めた秋の風は人生の道すがらを涼やかに示していますすだく虫の音にやがて来る二人の終わりを背後に感じながらも遠い一筋の道のりを互いに黙って飲み込んでゆきました...秋が揺れはじめて
高安ミツ子涼しい風が吹き始めましたので夕顔がたくさん咲くようになりました。この季節を待っている私にとって我が家の庭はは夕顔祭りとなります。毎日40個くらい咲きます。それらの花を眺めてはえも言えない感動を夫に押し売りしています。心が浮きだちます。一日花ですので翌朝にはしおれてしまいますが、純白でほのかな香りがありその美しさは見事です。毎年種を採って5月に種を蒔きこの季節の開花を心待ちにしています。どうぞご覧ください。私の四季「夕闇に咲く夕顔」
猛暑と台風に見舞われた今年の夏も9月に入りました。我が家の夕顔が少しずつ咲きだしました。これからゆっくりと秋への時間を咲き続けます。詩と夕顔の花をご覧ください。高安ミツ子はかなげな気配で夕闇から翌朝まで短い命を咲く夕顔純白の花は夏の夜をつぶやきのように一輪二輪と極みのたたずまいで咲いているかぐわしい香りは風に運ばれ今宵の物語は満月に照らされていく「私の四季」花と詩
高安ミツ子今日の終わりを吸い込むように夕暮れに酔蝶花が咲きだした風や虫を憩わせて咲くいくつもの酔蝶花をみていると夕暮れは私の輪郭をも揺らしていく老いてなお不揃いの心があって生への答えは見つからないけれど何かに抗うように声にならない私の思いは点いたり消えたり暮れなずむ庭で私の落し物は何だったろうかと思えてくるこの頃は時代の猛暑にやけどをしているような私だが八十歳近くなると人生をひと回りしたような思いがして過ぎてきた時を手繰り寄せることで生きることへの帳尻合わせをしているようだ記憶の中の私は小さな物語のまま時の雨傘をさしてひたすら私を歩いていたどんな思い出にも辛さや切なさはあったけれどそれらは上書きされ今は懐かしさとなって過去の私から今の私へと手渡されているそしてあの曲がり角で出会えた優しかった人々が思い出さ...詩作品「酔蝶花}
高安ミツ子猛暑のお盆に庭中酔蝶花は花火のように咲いて逝ってしまった人々の命の輝きを照らすように先祖をやさしく迎えています花は虫たちの誘いに揺れてるのか今宵の命を揺れるのか夏をゆるりと咲く酔蝶花猛暑のお盆に庭中酔蝶花は花火のように咲いて逝ってしまった人々の命の輝きを照らすように先祖をやさしく迎えています花は虫たちの誘いに揺れてるのか今宵の命を揺れるのか夏をゆるりと咲く酔蝶花「私の四季」酔蝶花
猛暑の中、咲いている我が家の庭の花々です。早朝と夕方水やりをしていますが、花にとっても厳しい夏となっています。万葉集にもある檜扇(ひおうぎ)が鮮やかに咲きました。「居明(いあ)かして君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜はふれども」(作者未詳)万葉集よりぬばたま(ひおうぎ)私の四季檜扇が咲きました
高安ミツ子四十雀(しじゅうから)がさえずり紫陽花は沈めた時を掬い上げるように海の青さで六月を咲いている雨は蕭々と降っている過ぎた時間に傘を傾けていくと長い人生の茂みで揺れた思い出が青い紫陽花からこぼれだしてきた今年も夏祭りがやってきた義母手作りの浴衣を子供たちに着せ神社まで続いた華やいだ紫陽花の坂道は日ごとに遠のいていき日ごとに昔話になっていくあの時のように花火が上がっても生きることの風景は色褪せている庭に咲く紫陽花の群れは私の心と絡み合い今日の寂しさに揺れている時に抗(あらが)うように家中を紫陽花尽くしで飾っていくと消えてしまった思い出がゆっくりと集まり逝ってしまった人々との別れの深さが哀愁おびた懐かしさで蘇ってくるやがて哀愁は愛おしい水たまりになって私の心時計をやさしく動かしていく花てまりの中でくるく...花てまりの中でくるくるまわれ
亡き友からいただいた紫陽花が今年は咲きました。我が家は家中紫陽花尽くしです。仏壇をはじめ床の間もそして居間も玄関も紫陽花に包まれて楽しんでいます。この季節に味わえる贅沢といえましょう。「私の四季」紫陽花尽くしの6月
亡き友からいただいた紫陽花が今年は咲きました。我が家は家中紫陽花尽くしです。仏壇をはじめ床の間もそして居間も玄関も紫陽花に包まれて楽しんでいます。この季節に味わえる贅沢といえましょう。「私の四季」紫陽花尽くしの6月
私の四季紫陽花が咲きました
季節が日ごとに変わっていきます。庭の花たちはその変化をいち早く知らせてくれます。今年も見られた美しい花に喜びを感じています。また、庭の手入れが花たちの答えを示しているようにも思えます。見るたびに、花たちとの無言の約束があるように思えて今日の私の心が蝶のように飛び交っていきます。数年前にお祝いにいただいた胡蝶蘭が冬を今年も越すことができました。今年は5輪咲きそうです。気遣った分だけ喜びが大きいです。私の四季
春の庭は忙しく移り変わっています。薔薇が咲きだしました。やはり豪華です。薔薇の名前がわからないものもありますがご覧ください。香りのよいもの花もちが良いもの、それぞれ特徴がありますが春の薔薇は日差しを受け季節いっぱい咲いています。こちらも笑顔がうまれます。どうぞご覧ください。私の四季
春は忙しいです。毎朝花を見るのですが変化が早く、写真を撮るにも追われてしまうのです。早くとらなければ一番美しく咲いている時を逃してしまうのです。うれしい時間ですが、季節は少しずつ過ぎていきます。人の営みも同様に過ぎています。私の体にも変化があるようです。どうぞ我が家の庭に咲いている花々をご覧ください。「私の四季」なにわいばらが咲き、麦なでしこが咲き
桜が散り我が家の庭もあわただしくなってきました。次々に咲きだす花を追っかけるように眺めています。待ち人が来るような楽しさです。花が一斉に咲きだすと今年も出会えた嬉しさで気持ちも弾んでゆきます。花の力は遠いどこからか私に運んでくれる今日の命のありか知らせてくれているようです。私の四季
この暖かさで木瓜の花が満開です。ご覧ください。私の四季木瓜が満開です
春が手招きして木瓜(ぼけ)の花が咲きだしました。ミモザが終わり、そして木瓜が咲きだすと本当に春が手招きしているように思われ、庭に出ることが楽しくなります。木瓜は果実が瓜に似ているから木になる瓜として木瓜といわれているようですが、実際はバラ科だそうです。我が家の木瓜は義母が盆栽として愛でていたものです。義母が盆栽をすることができなくなってからを庭に植えました。もう25年ぐらいになりますが今年もたくさんの花をつけてくれました。種類は「日月星」と「東洋錦」です。一輪の枝に複数の花色で咲くのです。「日月星」は赤、白、白に赤の絞り「東洋錦」は赤、白、ピンクと咲き、まさに春にさきがけ、マジックにかけられたような鮮やかさです。「これだけは残してほしい」といった義母の気持ちがわかる思いで眺めています。義母の年齢と私の年齢...私の四季木瓜が咲いて
高安ミツ子冬の寒さにむずかっていた光にくすぐられたように紅梅の蕾は2月の風に咲き始めました余った寒さを余白にして蜜を求めるメジロのうぐいす色の翼と紅梅は春の訪れの近さを私に知らせてくれました今日の紅梅は幼子がふふふふと笑ったように青空いっぱい満開に咲いています鮮やかな紅梅のまぶしさに義姉がみまかりもう1か月が過ぎたことが蘇り消えることの重さを感じながら気配を捜すように散っていく花弁を見つめています幼いころ生母を失い姉が抑えていた悲しみが紅梅の花びらにあてどなく見え隠れているようにも思えますが義姉の命の終わりを明るく頑張った人生であったと讃えているようにも思えるのです別れの寂しさがその姿が思い出されます義姉のすべてを分かっていたわけではないけれどもう聞くことはできない義姉の声が浅春を巡っています浅春の日差し...浅春
2月は一番寒い季節のはずですが気候が安定していません。冬の寒さが安定しないと植物や農作物にも影響するのではないかと案じています。。春といえば桜が一番です。桜も寒い日々を越してこそ美しい花が咲くと聞いたことがあります。今年の桜の開花の塩梅が今から案じられます。それでも春を待つこの心境もなかなか楽しいものだと思えます。庭に出た春一番のフキノトウを2回ほどてんぷらにして食しました。それは、それは口中が春の香にあふれ、苦みはさらにうまさを増し一足早い春の絶品を味わいました。おいしさの押し売りになってしまいましたが、平和であるからこそ過ごせる贅沢な日常に感謝したい思いがますばかりです。2月下旬に咲いている我が家の花です。ご覧ください。2月下旬の花私の四季
2月に入り雪だよりも届く寒い日を迎えています。北陸の地震の様子を聞くたびにこの寒さを乗り越えるには身体も精神も並大抵のことではないでしょう。月並みな言葉しか見つかりませんが一日も早い復興を願うのみです。そして、日常をつつがなく過ごせる有難さを感じる2月を過ごしています。冬枯れの庭でも春を待つ花々の気配が感じられ、78回目の春を待っています。人生100年とお祭り騒ぎの掛け声がきこえてきますが、誰しも生きられることでもありません。それでも春を迎えようとする気持ちには何かに期待したい思いに駆られてきます。春待ち時に味わう思いかもしれません。いま椿が咲き水仙が咲き紅梅が咲きだし、そしてミモザが間もなく咲きだすでしょう。春を待ちながら草花の世話をしていると庭の花々は私を待っているような思いに駆られてきます。営みの中...私の四季
2024年1月11日(木)明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。元旦から石川県に起きた大地震には驚かされました。石川県の地形のなせる被害状況を知るたびに胸が痛くなります。早い復興と被災者の皆様の日常が戻られることをそして、心の安寧を願うばかりです。これからの寒さをどう乗り切ればよいか案じられます。輪島の朝市の街が延焼してしまった悲しい知らせを映像で見ました。天災の被害による人間の悲しみを言葉で拭うことはできないかもしれませんが輪島の旅を楽しませていただいた御礼に、その時書いた詩作品を掲載したいと思います。高安ミツ子時の嵐に壊されることなくその歳月を共に語れる喜びを二組の夫婦は老いる思いを後ろに回し旅の風に愛おしさを結びながら粉雪が舞う北陸の街に下りました雪に包まれた町も山も海も静...北陸の街
高安ミツ子ダリアが咲き冬コスモスが咲きだした十一月八日こむぎは旅立ちました十九歳と十か月でしたこむぎは生後一か月で捨てられ拾い主の次男が我が家につれてきたのですタオルを持ってきて引っ張りっこ投げたボールを拾ってくわえ家の中を走り回りいつも遊んでほしいかわいい子犬でした私たちはこむぎに振り回されながらも愛おしさが積もっていきました自分の居場所を家中に作りマッサージチェアーに仏壇の前の布団に応接間の椅子の上にとろりとろりと居眠りしながら得意な鼻と耳で我が家の歴史を味わっているようでしたしかし眠っていても来客がインターホンを押す前にすばやく吠えるのです家を守るのは僕だからと言わんばかりです人の言葉がわかるようになり私がこむぎを抱いて庭の花を見せながら話しかけると分かっているよと目を何回もしばたかせるのですこむぎ...「さよならこむぎ」