横に広がったスクリーンに上映されるシネマスコープ映画がアメリカからどんどん、入ってきました。いままでの標準サイズの撮影機に特殊レンズつまりアナモフィックレンズを装着することで、簡単?にシネスコ映画が制作できます。その簡易さが撮影所に歓迎されたのかも知れません。ーーー日本でも東映の「鳳城の花嫁」から新東宝の「明治天皇ー」とシネマスコープ映画製作に進みました。ーーー大映京都撮影所でもシネマスコープ映画を制作することになりました。それまで、日本では制作すれば必ずヒットすると云われる「忠臣蔵」前後編です。監督は「明治天皇ー」で大ヒットを飛ばした。渡辺邦男さんでした。シネスコ映画「忠臣蔵・前後編」
新規格の横に長いスクリーンのシネマスコープの洋画は次々に制作、上映されました。新しく始まったシネマスコープ映画をシネスコと簡略して言われました。シネスコ映画を上映する劇場では映写機に装填するアナモフィックレンズが必要ですし、立体音響再生用のスピーカーを劇場内のあちこちに備えなくてはなりません。上映するフィルムはいままでは光学録音でしたが、磁気録音が使われる作品もありました。ーーー斜陽化した映画を盛り返す意味もあって、劇場側も大変でした。シネマスコープ方式の邦画は国内各社で製作されました。東映の「鳳城の花嫁」、大友柳太郎、花川裕見子、出演。新東宝の「明治天皇と日露大戦争」嵐寛寿郎ほか。日活の「月下の若武者」主演は長門裕之、浅丘ルリ子東宝は「大当たり三色娘」出演はひばり、いづみ、チエミ。松竹は「抱かれた花嫁」...邦画のシネスコ映画
新東宝のシネマスコープ映画「明治天皇と日露大戦争」は題材もスゴかったのですが興行的に大ヒット作品だったようです。ーーー残念ながら私はこの作品を映画館で見ていません。後で、テレビで放映されたのでそこで見ているはずです。ーーーまず、この映画のスタッフがスゴいです。早撮り(はやどり)監督と呼ばれていた渡辺邦男さんです。台本のシーンのカットをばらばらにして、段取りよくどんどん撮っていく独特のスタイルで映画を制作していきます。ーーーこの早撮りの名監督によってオールスターの大作は制作されました。この渡辺邦男監督(わたなべくにお)のスタッフはキャメラマン、チーフ助監督、記録係の四人は決まっていました。ーーーこの四人固定の渡辺組のスタッフは映画各社で映画を制作されていました。映画の仕上がりが速いので各撮影所で評判でした。渡辺邦男監督
映画は動画の王者でしたが、新しく登場したテレビジョンによって映画はあやしくなってきました。そこで、テレビに対抗して画面が横に広がったシネマスコープが出現しました。ーーー日本では、東映京都制作の「鳳城の花嫁」が第一作として封切られました。次に、新東宝(しんとうほう)からシネマスコープ作品が封切られました。題名は「明治天皇と日露大戦争」という戦争映画でした。ーーータイトルのまず、明治天皇というのにびっくりしました。配役は明治天皇に嵐寛寿郎(あらしかんじゅろう=アラカン)で、その他、伊藤博文、山縣有明、大山巌、児玉源太郎、東郷平八郎海軍大将、など日露戦争に関係のあった配役が組まれていました。ーーー映画に天皇役の俳優さんが出演するのも初めて?で色々エピソードが生まれました。シネマスコープ映画「明治天皇と日露大戦争」
アメリカ映画では、宗教劇を制作すれば必ずヒットすると云われていました。20世紀フォックスのシネマスコープの興業は一応ヒットしたようでした。日本の映画界では、忠臣蔵を制作すれば必ずヒットすると云われているに似ています。ーーー新しく登場した新企画のシネマスコープ映画を劇場で上映する場合、映画館は横長のスクリーンを設置しなくてはなりません。それと、そのスクリーンに映写する映写機にも特殊なアナモフィックレンズを装着しなくてはなりませんでした。ーーーやがて、日本の映画界もこのシネマスコープを採用することになりました。ーーー邦画のシネマスコープ第一作は昭和31年(1957)、65年前、東映京都制作の時代劇「鳳城の花嫁」(おおとりじょうの)でした。監督松田定次、出演大友柳太郎(おおともりゅうたろう)長谷川裕見子(はせが...シネマスコープ映画「鳳城の花嫁」
動画の王者だった劇場映画は新しく登場したテレビという動画に観客をすっかり奪われてしまいました。ーーーこの新しく始まったテレビに観客を奪われた現象は日本だけではなく、テレビ放送の先輩のアメリカでも同じでした。ハリウッドを見学してきた私の父親の土産話に聞きました。ーーー新しく制作される映画はほとんどカラーつまり色彩映画にしてアメリカも日本でもテレビに対抗しましたが芳しくありませんでした。ーーー新しい方式の映画としてハリウッドの20世紀フォックスから宗教劇「聖衣」(せいい)が封切られました。4対3の比率のテレビ画面に対して新しく登場したシネマスコープは横に細長い2対1のスクリーンでした。シネマスコープ映画「聖衣」
新しい色彩フィルムの登場によって日本の映画界の新作はほとんど色彩映画になりました。ーーー新しい色彩フィルムのイーストマンカラーが登場するまでの色彩映画はテクニカラー方式でした。このテクニカラーの映画を天然色映画と云っていました。ーーー邦画がカラー映画になって宣伝ポスターには、色彩映画とかカラー映画と呼ばれるようになって天然色という言葉は使われなくなりました。ーーー世界の映画界がこのイーストマンカラーフィルムを使って、ほとんど封切り映画は色彩映画、カラー映画になりましたが新しく登場したテレビ(白黒)に動画観客は奪われました。天然色映画から色彩映画へ
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