chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
初心者の老人です
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2016/04/04

arrow_drop_down
  • テレビの誕生

    私が学生のころ、新しい動画?としてテレビが誕生しました。それまで、動画といえば街の映画館で見る映画だけでした。映画好きだった私は、しばらく映画を見ていないと…どうしても映画を見たくなることがありました。ーーーその私にとって、貴重な映画(動画)がテレビ放送の開始とともに家庭へ入ってきました。街のニュース映画館でしか見られなかった動画ニュースが毎日、新しい動画ニュースが茶の間のテレビ受像機で見られることに、なりましたた。ーーーそれは、私にとっても、日本人にとっても、画期的なことでした。いままで、街の映画館でしか見られなかった動画が家庭の茶の間にやってきたのです。テレビの誕生

  • カメラの威圧感

    テレビ映画制作は、アメリカではハリウッド、日本では映画撮影所が主に制作していました。テレビ放送局のフィルム放送は16㍉フィルム用のプロジェクターでした。テレビ局の映写機が16㍉でしたから日本の撮影所で制作されるテレビ映画は最初から16㍉カメラでスタートしました。ーーー劇場映画制作の35㍉カメラとテレビ映画制作の16㍉カメラを単純に比べると、16㍉カメラは貧弱?です…。ーーーテレビ映画に初めて出演される映画スターさんは現場の貧弱な16㍉カメラを見てさぞ、ビックリされたことでしょう。そこで、担当する映画スタッフは大型のカメラを使用する劇場用映画制作を「本編」といい、小型カメラで仕事するテレビ映画をわざわざ、「テレビ映画」とスタッフには区別されていました。新しく始まったテレビ局のスタジオで制作される「テレビドラ...カメラの威圧感

  • カメラの威圧感について

    営業写真館のバカでかいカメラで撮られるこちら側は、魂までとられるようにかんじられました。写されるこちらは、狙われるカメラらによって、感情?が変わります。ーーー映画制作の現場でのカメラは主に米国製のNCミッチェルか仏製パルボなど、大きなカメラで撮影されます。出演する俳優さんは、劇場の観客を意識しながらも目の前のカメラに向かって演技をします…。ーーー出演する俳優さんにとって目の前のカメラが大きくて威圧感があれば、あるほど演技に力が入るのではないでしょうか。ーーー次回に、劇場用の大型カメラとテレビ映画制作用の16㍉カメラを比べて見ます…。カメラの威圧感について

  • カメラの形によって!

    カメラの形態について、一言…昔、記念写真は街の写真館で撮ってもらっていました。写真館の写場のカメラは、物々しいかたちをしていました…ーーー何所の写場でもアンソニーという大きなカメラで撮影されていました。感光材料は、4×5判の乾板(かんぱん…ガラス板)で撮影されますーーー写真館の技師(カメラマン)は厳かに「ハイ撮ります…」と合図します。その大きなカメラを見ているとこちらの魂まで獲られるうに感じられました…ーーー写されるカメラが小さなデジカメやスマホなどで、撮られるときは何も緊張しないのですが…カメラの形や大きさによって写される我々の気分は大きく変わります。カメラの形によって!

  • 本編とテレビ映画

    撮影所の知り合いにいま、どんな仕事をしていると聞いたことがありました。その知り合いは、いまはテレビ映画制作と云います。ーーー撮影所で制作するのは劇場用映画でしたから…、劇場用映画のスタッフは本編(ほんぺん)制作と云っていました。本編にくらべてテレビ映画制作は何となく軽く聞こえました…ーーー劇場用映画の制作は35㍉フィルムを使ってミッチェルカメラで撮影します。一方、テレビ映画制作は35㍉フィルムの約半分、巾の16㍉フィルムカメラで撮影します。ーーー撮影現場で35㍉カメラ(本編)と16㍉カメラ(テレビ映画)を比べて見ると16㍉カメラは小型で軽々しく見えます。テレビ映画撮影現場では軽々しく見える16㍉カメラを見て、スタッフ、俳優さんには仕事自体も軽々しく見えるのかも知れません…本編とテレビ映画

  • テレビ映画制作カメラ

    日本のテレビ映画は、16㍉フィルム使用のカメラ(動画)で、始まりました。日本のテレビ映画が16㍉フィルムでスタートしたのは、テレビ局の映画プロジェクターが16㍉フィルム用だったからです。ーーーこのテレビ局の16㍉フィルムプロジェクターは主に、ニュース番組で使用していました。このプロジェクターをテレビ映画放送にも使いますので…テレビ映画は16㍉フィルムで制作されました。ーーー劇場用映画は35㍉フィルムで制作されます。これは世界の標準です。そこで、劇場用映画制作35㍉カメラとテレビ映画制作の16㍉カメラの大きさを比較すると、テレビ映画制作のカメラはかなりコンパクトな機械ですテレビ映画制作カメラ

  • 俳優さんの時代劇での肌色

    連続時代劇テレビ映画、「暴れん坊将軍」がフィルム制作からビデオ撮りになりました。フィルムからビデオテープにというのは世の流れとしてしかたがないのでしょう。ーーータイトルを見るとフィルムの現像から仕上げまで引き受けていた東洋現像所という名前がイマジカに変更されています。それと、VTR編集とありますからビデオテープ制作にすべて、切り替えられたのでしょう…ーーー主演の松平健さんはじめ、出演される俳優さんの顔色が自然になりました。改めて俳優さんの健康的な肌色を見ていると、私には画面が現代的に見えます。フィルム制作のときの俳優さんの白塗りの肌色が時代劇にマッチしていたように感じました。俳優さんの時代劇での肌色

  • 時代劇「暴れん坊将軍」がビデオテープ制作に

    ビデオテープレコーダーが小型化されました。テレビ局以外のプロダクションや、テレビ映画をフィルムで制作していた映画会社でもフィルム制作からビデオテープ制作に切り替えるようになりました。ーーー私は再放映、再々放映していた東映制作の「暴れん坊将軍」を楽しんでいました。この時代劇は長い間フィルム制作でしたが何時からか、ビデオテープ制作に切り替わりました。ーーー東映時代劇は独特の時代感をフィルムを使って表現していました。出演する俳優さんのメーキャップでの肌色は時代劇らしい白塗りで私は好きでした。連続時代劇が続くなか、ビデオテープ制作に切り替えられたのを、見ました…。時代劇「暴れん坊将軍」がビデオテープ制作に

  • ENGスタイルでテレビドラマのロケーションが

    ENGスタイルのニュース取材で野外で同時録音が可能になりました。このスタイルはニュース取材だけに止まらず、他の番組でも使われました。例えば、有名人のインタビュー番組でもテレビ・スタジオ以外の場所で制作が可能になりました。ーーーいままで、テレビドラマ制作では映画のようなロケーションが大変でした。しかし、このENGスタイルを応用すれば、ロケーションのためにテレビカーを出動させなくても、小規模にロケーション制作が可能になりました。ーーー以後、テレビドラマでは、必要に応じてロケーションが使えるようになりました。ENGスタイルでテレビドラマのロケーションが

  • ENG取材は同時録音が可能でした

    銀塩フィルム取材だったテレビニュース、劇場のニュース映画で、不可能だつたのは、同時録音取材でした。それが、ビデオテープによるENG取材では現場での同時録音が可能になりました。ーーー街頭ニュースでその辺を歩いている人にマイクを向けて映像と同時に、音声も取材できることになりました。ーーー同時録音スタイルの取材ではカメラマンと、音声担当の係はシュアの4チャネル、小型ミキシングアンプを首から提げて音声を録音しました。このシュア、ミキシングアンプの電源は乾電池でした。マイクロフォンは細長いゼンハイザーの指向性に風防を着けたものが使われていました。ENG取材は同時録音が可能でした

  • ビデオレコーダーとカメラの一体化

    ニュース番組の取材がビデオカメラ(ハンディカメラ)とケーブルにつながれたビデオテープレコーダーでしたが…やがて、カメラとビデオテープレコーダーが一体化されました。ニュース番組の取材がビデオカメラ(ハンディカメラ)とケーブルにつながれたビデオテープレコーダーでしたが…やがて、カメラとビデオテープレコーダーが一体化されました。カメラはいくら方式が変わっても、カメラと名が付けば記録できなくては、カメラと云えないと思っていました…ビデオテープレコーダーとカメラが一体化したENGカメラの誕生で私は納得しました。ビデオレコーダーとカメラの一体化

  • ENG取材が二人から一人で

    ENGスタイル取材ではカメラを操作するカメラマンとカメラとケーブルでつながれたビデオテープレコーダーを肩にかつぐアシスタントの二人組スタイルはしばらく続きました…。ーーーこの二人組取材スタイルは全国のテレビ局で、行われていました。一方、ENG取材の機材を提供するメーカー側も機材の改造改良が進みました。ーーーなんと、カメラの小型化とビデオテープレコーダーとの一体化した製品が誕生しました。今までのENG取材では取材にカメラマンとレコーダー運搬係の二人でしたが、カメラとレコーダーが一体化したことで、一人で取材できるようになりました。ENG取材が二人から一人で

  • ENG取材は二人で

    フィルム時代のニュース取材ではカメラマンは一人で済みましたが、ビデオテープ取材のENGになってビデオカメラにケーブルでつながったビデオテープレコーダーを担ぐ人が必要になりました。ビデオテープレコーダーのスタートはカメラ側で、カメラマンがカメラのスタート・ボタンを押すとテープレコーダーは録画を開始するようになっています。ーーーカメラマンとテープレコーダーを担いだ人の二人は一緒に行動しなくてはなりません。取材(撮影)するカメラマンはここで撮ってから、次にあそこからここを撮ります…などと打ち合わせをする必要がありました。ーーーこの二人で取材する方法はしばらく続きました。ENG取材は二人で

  • ENG取材でリップシンク

    フィルムからビデオテープ取材のENG方式になって一番、変わったことは、同時録音が可能になったことです。ーーーニュース取材用のフィルムカメラのなかには音声も記録できるカメラがわずかにありましたが?、特殊なカメラでした。ビデオテープ取材のENG方式になって映像とともに、音声も記録できるようになりました。フィルム方式では無理だった取材現場でインタビューが撮れるようになったことです。取材現場で通りすがりの人に「これをどう思いますか?」とその人の映像と音声が簡単に取材できるようになったことです。取材されている人の唇としゃべりがキチッと合うつまり、リップシンクで簡単に撮れることでした。ENG取材でリップシンク

  • フィルムカメラからビデオカメラへ

    日本の民放テレビ界のニュース番組は、急速にフィルムからENG取材へ変わってゆきました。ENG取材の良いところはカセットビデオですから使用後のビデオカセットは消去すれば又、取材に使えます。今までのフィルム取材では使用後のフィルムはもう使えません。つまり、ビデオテープは消去すれば何度でも使えることです。ーーー私の居たテレビ局ではニュース取材に使用したビデオカセットは七回まで消去して使用していました。ENG用のビデオカセットの製造メーカーは、ソニーをはじめ、富士写真フィルム、コニカ、TDKなどでした。今までフィルム取材だったニュースカメラマンは、努力と勉強によってベル&ハウエルの70DRフィルムカメラからハンディテレビカメラに持ち替えられました…フィルムカメラからビデオカメラへ

  • カラーフィルムからENG取材へ

    モノクロ(白黒)画面でスタートしたテレビ放送もやがて、カラーテレビの時代がやって来ました。急速に始まったテレビのカラー化はテレビカメラの撮像管にフィリップスのプランビコン管の開発でした。ーーーテレビが急速にカラー化へ進みました。それまでの番組は徐々にカラー番組として製作されました。それまで白黒で制作されていたニュース番組もカラーフィルムで制作されます。テレビ局のフィルム現像場にカラー自動現像機が設置されました。ーーーカラーフィル導入でニュース番組がカラー化されてまもなく、ビデオテープ取材によるENGが、アメリカからやって来ました。ーーーテレビの報道局ではカラーフィルムでカラーニュース番組がスタートしたところへ、ビデオテープ使用によるENGに変更することになりました。全国のテレビ局の報道局は大変なことになり...カラーフィルムからENG取材へ

  • ENGの登場

    前回、アメリカのテレビからハンディカメラの注文があったと書きました。実はその背景に…日本で始まった、カセット方式のビデオレコーダーを何とかプロ用として使えないか?ということでした。ーーーソニーでは、Uマチック規格として放送用に機器を製造しました。アメリカのテレビ界では16㍉フィルムを使ったニュース番組をビデオテープ取材に切り替えようと考えていたようでした…ーーー遂にアメリカテレビ業界は日本製のビデオテープレコーダーと日本製のハンディカメラを使ってフィルム取材のニュース番組をビデオテープによるNEGエレクトリック・ニューズ・ギャザリングつまり、電気的ニュース取材と名付けてフィルム取材からビデオテープ取材に切り替えていきました。ーーーアメリカでスタートしたENGスタイルは日本にやって来ました。ENGの登場

  • ハンディカメラ誕生

    テレビ放送が始まって、毎日、新鮮なニュース番組が始まりました。テレビの番組ですから勿論、映像は動画です。日本では、16㍉フィルムを、米国製ベル&ハウエル社のフィルモ70DRで撮影して、テレビ局の暗室で現像、焼き付け、編集して作っていました。ーーー16㍉フィルム取材は現場の音声は同時録音できません。ニュース番組放送時に、レコード(LP盤)のBGMとアナウンサーのナレーションで放送していました。ーーー一方、テレビ放送で使用するテレビカメラも、技術の進歩とともに小型のハンディカメラが誕生しました。ハンディカメラも最初は、ドラマやドキュメンタリー番組に使われていました。ーーー私の耳にアメリカテレビ局から日本の電機メーカーにその、ハンディカメラを60台の注文が入った…の噂が聞こえました。ハンディカメラ誕生

  • VHS方式ビデオの勝利

    レンタルビデオ店で、どうしてVHS方式のビデオが広まったのか私には、判りませんが?そして、いつの間にか家庭のビデオの標準はVHS方式になりました。ーーーやがて、ソニーのβ方式は、世間から姿を消していきました。私個人としては、β方式が、好きでしたが。日本で生まれたVHS方式のカセットビデオ機は世界に輸出されました。ーーーオープンリール方式のテープレコーダーを操作が簡単な小型カセット方式のテープレコーダーの登場はすばらしいことでした。VHSの語源はビデオ・ホーム・システムと何かの本で知りました…。ーーー折角、華々しくスタートしたソニーのβ方式のカセットはどうなったのでしょう?VHS方式ビデオの勝利

  • β方式とVHS方式のカセットビデオ

    カセットビデオの登場で街にはレンタルビデオ店ができました。日本で製作されたカセットビデオは世界に販売されるようになりました。ーーーしかし、カセットビデオはβ方式砥、VHS方式の二種類でスタートしました。この二種類のカセットビデオに世間ではどうも、落ち着けません?このβ方式ととVH方式のどちらが標準になるかと思っていましたところ。何となく標準方式が決まりました。ーーー答えはレンタルビデオ店でした。最初は、β方式とVHS方式の二種類のレンタルビデオが貸し出しの棚に並んでいましたが…、月日の経過と共にVHS方式のカセットが多くなってきました…どうして一方のβ方式カセットビデオが少なくなったのか、私には判りません。やがてβ方式のレンタルカセットは店から姿を消しました。β方式とVHS方式のカセットビデオ

  • カセットビデオテープ登場

    放送局用のビデオ録画方式は巨大?な機械でした。やがて、日本では家庭用として1インチ巾のビデオテープが出来てオープンリール方式のVTRが発売されました。ーーー価格はともかくボチボチ普及しますが、次にビデオテープをカセット方式にして、年寄りでも手軽に操作できるビデオテープレコーダーが完成して発売されました。ーーーまず、ソニーからβ方式、日本ビクター?からVHS方式が登場して、市場は二分されました。この、β方式もVHS方式の違いはそれぞれのカセットの大きさの違いくらいで、優劣はどうなのでしょう。ーーーカセットビデオの登場でビデオテープのレンタル店が登場しました。レンタルビデオ店には、β方式とVHS方式の二種類、同じ内容のカセットが並んでいました。カセットビデオテープ登場

  • カラーテレビ到来

    劇場映画はテレビに対応するため画面はワイドスクリーンになってカラー映像になりました。つまり、テレビは白黒画面で、カラー(色彩)映像は映画館でということになりました。ーーーやがて、テレビも、カラー撮像管、フィリップスのプランビコンの登場で一気にカラーテレビ時代になります。それまでの白黒のニュース番組もカラー化されます。ーーーテレビ各局では、カラーフィルムの自動現像機が設置されました。カラーテレビニュース番組はスタートしますが、間もなく次のENG時代がやってきました。カラーテレビ到来

  • ニュース取材はフィルモ

    新しく始まったテレビは映画と同じ動画の世界です同じ動画でもテレビは電気信号の世界です。テレビでも、アメリカから機材が入って来ましたが、国産の機材も出てきました。ーーー当時、日本では、東京、大阪以外に全国でテレビ局かが開局しました。大量のテレビ機材が必要になりました。そこで、国産の機材が当てられました。ーーーテレビの番組はほとんど、電気信号で処理されましたが、唯一、毎日のニュース番組だけは、映画と同じ銀塩フィルム(16㍉)を使います。映画フィルムを使うカメラ(シネカメラ)の国産品はありませんでした。どうして、映画カメラが日本で作られなかったのか、私はどうしても判りません。ーーー全国のテレビ局のニュース番組取材カメラはアメリカ、ベル&ハウエル社のフィルモ70DRカメラが標準になりました。ニュース取材はフィルモ

  • テレビニュースの取材カメラ

    新しい動画として日本でもテレビ放送が始まりました。テレビ放送の動画はすべて電気信号の世界です。動画といえば、今までフィルムを使っていました。そこへ新しく電気信号で動画を扱うのかテレビでした。ーーー新しく動画を製作するテレビでは、その動画を制作する機器は、ほとんど国産機器でスタートしました。ーーー新しい動画のテレビ番組でも唯一、ニュース番組だけは16㍉フィルムて制作されていました。当時、劇場映画カメラは、完全に舶来製で輸入品でした。16㍉フィルムカメラも国産品は乏しく舶来製がほとんどでした。ーーー新しくスタートした日本のテレビ局のニュース番組の制作カメラはアメリカ、ベル&ハウエル社の16㍉フイルムカメラ、フィルモ70DRで始まりました。テレビニュースの取材カメラ

  • テレビニュースの取材カメラ

    映画館で上映されるニュース映画のカメラは35㍉フイルム使用のアイモが主力でした…新しく始まったテレビのニュース番組のカメラは16㍉フィルム使用のフィルモ70DRが主力カメラでした。ーーーニュースで使用されるカメラは映画もテレビもベル&ハウエル社でアメリカ製でした。新しく始まったテレビでも映画と同じように国産の動画カメラはありませんでした。ーーーこのベル&ハウエル社のアイモもフィルモも動力はゼンマイで、撮影前に手でハンドルを巻き上げて動作させます。アイモもフィルモも撮影時間は短いので、電池など使わないので、簡単でした。テレビニュースの取材カメラ

  • 映画館とテレビのニュース

    新しい動画の世界、テレビが家庭にやってきて、毎日新しい動画のニュースか見えるようなりました…それまでの動画ニュースは映画館で封切りの一週間、同じニュースでした。ーーー映画館では、次の予告編に続いてニュース映画か上映されていました。又、ニュース映画館として数本のニュースをまとめて上演するだけでした。ーーーそれに比べて、テレビのニュース番組は毎日、数回新しいニュースを放送していました…私は、毎日新しいニュースを観られるので、うれしくなりました…次からテレビのニュース番組について思い出してみます。映画館とテレビのニュース

  • ガスステート時代

    日本でテレビ放送が始まったころの、映画の音声、ラジオ放送、テレビ放送の電子機器は真空管全盛時代でした…つまりトランジスターは実用化前でした。真空管使用機器をガスステートと云い後のトランジスタ機器をソリッド・ステートと呼ばれました。ーーー音声機器のテープレコーダーの中を覗くとミニチュア真空管がズラリと並んでいます。同じくテレビカメラ、そしてあとから登場するビデオテープレコーダーの中もミニチュア真空管がズラリ並んでいました。ーーー真空管がズラリ並んで、電気が流れていると、それぞれの真空管のフィラメントが小さくて赤く点灯している姿は可愛くて綺麗でした…。ガスステート時代

  • テレビスタジオと副調整室

    前回は、テレビカメラのことを書きましたが゛、テレビ放送はスタジオだけではありません…スタジオの隣に副調整室が続きます。ーーースタジオの映像、音声を調整する機材がズラリ並んでいます。テレビカメラを調整するCCU、カメラの映像を切り替えるスイッチャー音声機材、テープレコーダー、LPレコードを再生するプレイヤーが、ほとんど国産品で占められていました。ーーーLPレコードを再生する二連のターンテーブル、オイルダンプアームとカートリッジはすべてデンオン製の国産です。ーーーこの副調整室で整えられた映像と音声は次に主調整室に送られます。この部屋の機材も国産品でした。テレビスタジオと副調整室

  • テレビカメラはすべて国産

    映画撮影所に入社した私でしたが…、考えるところが、あつて?放送局つまりテレビ局へ転職しました。私の転職の考えや、経緯に関してはいずれ記しますが…ーーーテレビスタジオでは、どんな機材が使われているか興味津々でした。まず、テレビスタジオの主役、テレビカメラはなんと、東芝製の国産です。そして装着のレンズは日本光学のニッコールでした。このレンズは35㍉カメラ用をマウントを変更して装着されています。ーーーカメラのターレット盤には4本レンズがそれぞれの焦点距離が35㍉、50㍉、85㍉、135㍉です。国産名レンズがズラリです。私はすっかり嬉しくなりました。テレビカメラはすべて国産

  • テレビ業界の機材

    戦後、日本はカメラやレンズに優秀なものが誕生して、世界か注目するようになってきました…昔は、ドイツ製のカメラやレンズが優秀というのが常識?でした。ーーー学生時代の私は日本製のカメラ、レンズそして、暗室用品の引伸し機、そのレンズなど全て国産品で揃いました。そして、日本の普通写真界は国産品で整いました。日本の写真界が国産品で溢れていたのに日本の映画界の現場は何故か国産品が観られませんでした。ーーー普通写真の道具がほとんど日本製なのに動画の映画界は、なかなか日本製が入れませんでした。新しく動画の世界に登場したのがテレビでした。映画はフィルムで制作するのに新しいテレビは、全て電気処理です。この同じような動画の世界ですが、後発のテレビ時代の到来で、現場で使用する機材に、日本製つまり国産の機材が入ってきました。テレビ業界の機材

  • 日本映画機材の謎

    戦前の日本映画界の映画機材は全て舶来、つまり輸入品でした。ーーー戦後、日本の光学メーカーは力をつけて、普通写真つまりスチールのカメラやレンズは素晴らしいものでした。日本のカメラは世界に輸出されました。ーーー普通写真のカメラ、レンズ、そして暗室用品の引き伸ばし機、そのレンズ、印画紙、現像薬品、など写真の世界はすべて、国産品で占められました。ーーーしかし、戦後の日本の撮影所の機材は相変わらず輸入品でした。カメラはアメリカのNCミッチェル、フランスのパルボ…ドイツのアリフレックスなど。国産レンズで優秀な富士フィルムのシネクリスターなど作られたのに…レンズも輸入のエクターやバルターなどでした。日本映画機材の謎

  • 日本映画機材は輸入品

    新しいワイド画面映画のビスタビジョン方式は撮影するフィルムの画面が今までの標準サイズの倍ですからカメラの構造も、全く新しいものになりました。ーーー今までの日本映画の撮影機の標準機がNCミッチェルでした。この新しいビスタビジョン撮影機もミッチェル社が作りました。ーーー日本映画製作の撮影所の機材はすべて輸入機材で占められていました。撮影機はもとより附属のレンズ録音機材も輸入品でした。日本映画機材は輸入品

  • ビスタ作品「地獄花」

    ビスタビジョン映画、第一作の「ホワイト・クリスマス」は、豪華なセットともに素晴らしい作品でした。しばらくして、日本の映画撮影所でもこの、新方式のビスタビジョン撮影機一台が輸入されした。大映撮影所です。ーーービスタビジョン映画第一作?として大映京都で製作されした>題名は「地獄花」?で主演は鶴田浩二、京まち子…監督は伊藤大輔でした。この映画製作に私も下っ端スタッフの一員として参加しました。ビスタ作品「地獄花」

  • 映画「ホワイト・クリスマス」

    ビスタビジョン映画は横長の画面で、シネマスコープほど横長ではありません。それでも、構造上、標準サイズのフィルムを2倍使います。つまり、今までの画面はハーフサイズで、新しいビスタビジョンは、35㍉フルサイズでした。上映される映画館のスクリーンの画像はキレイでした。ーーー私がこの、新しいビスタビジョン映画は観たのは洋画で題名「ホワイトクリスマス」でした。アーヴィング・バーリンの名曲「ホワイトクリスマス」を主題歌にしてビング・クロスビー、ダニー・ヶイ、ローズマリー・クルーニー、ヴェラ・エレン…が出演するミュージカル映画でした。ーーーテクニカラーを使った色彩映画で標準サイズ映画の2倍のフィルムを使うビスタビジョンカメラは新設計の大型カメラになります。莫大なな予算の、アメリカ・ハリウッドならではの作品でした。映画「ホワイト・クリスマス」

  • ビスタビジョン登場

    新しく登場したテレビに動画の世界を奪われた映画はブラウン管の狭い画面に対抗するためめに、登場したのがシネマスコープでした。ーーーいままで使われていた撮影機に特殊レンズをつけることで広い画面が撮れるのでハリウッドも日本映画界もシネマスコープ映画を製作しました。ーーーしかし、今までのスタンダード画面をレンズで無理に広い画面に拡大するので何となく画面に無理が出るようになりました。ーーー次に今までの撮影フイルムを2倍に広く使用する方式が登場しました。ビスタビジョンです。このビスタビジョンは撮影フィルムを2倍使用するので、今までの撮影カメラは使えません…今までの撮影カメラのネガ・フィルムは上から下へ、縦に走っていましたがビスタビジョン・カメラのネガフィルムは横に走る構造になりました。ビスタビジョン登場

  • シネマスコープ登場

    今までの動画は映画でした。動画を見るのには、映画館へ出掛けて入場料を払って入らなくては見られませんでした。ーーーそこへ、動画が家庭で見ることが出来る新しくテレビが登場しました。これは映画にとって大変なことでした。これは日本の映画のみならず映画大国の米国ハリウッドでも大変なこととでした。ーーーテレビが登場したころのテレビ受像機は14インチのブラウン管方式の白黒画面が標準でした。ーーーそこで映画は白黒の小さな画面のテレビに対抗して映画館のスクリーンをまず、大きくして、色彩映画として出発しました。ーーーその最初が20世紀フォックスが始めた、シネマスコープでした。この方式は、映画を制作する撮影機と、その映画を上映する映画館の映写機に特殊レンズを取り付ける簡単?な方式でした。シネマスコープ登場

  • 早撮り監督さんが好まれる?

    劇場映画は、シリアスな作品より娯楽映画が沢山作られていました。その娯楽映画は、企画が成立して制作が始まる前に映画館での封切り日時がきまります…映画館の封切りのスケジュールが決まっているのが普通でした。その封切り日に間に合わないと大変です…ーーー映画制作には、撮影の済んだフィルムを編集しなくてはなりません。映画には伴奏音楽が必要です。その音楽の録音、編集など映画制作には俳優さんの演技撮影以外に色々と作業が伴います。ーーー従って、スタジオ等での撮影日数は短くなります。そこで、撮影スピード?早い監督さんは撮影所側に好感を持たれることになりります。早撮り監督さんが好まれる?

  • 映画監督さんの仕事?

    渡辺邦男監督の仕事はスピード一辺倒ではなリハーサルで迫真の演技を見せる俳優さんには、ハンカチで眼を拭ってみせる態度に…演ずる俳優さんは手応えを感じて満足するのかも知れません。ーーー映画でもテレビドラマでも目の前のカメラに向かってカメラの後ろの観客を念頭に演技を展開されるのです。ーーー映画制作の場合、カメラの横で演技を見詰める監督さんが納得する演技を展開するのが俳優さんの第一歩です。映画監督さんの仕事?

  • 渡辺監督の「忠臣蔵」

    渡辺邦男監督の仕事でスケジュールに間に合わず出番の場面をカットされた…という噂を聞いたことがありました。そういう噂は撮影所内にパッと広がります。ーーー渡辺監督の仕事の姿勢は超スピードでスケジュール通りこなす面白くもない監督さんと思われますがそうでもないのです。ーーー私が渡辺邦男監督の作品でスタッフの一員になったことがありました。作品は「忠臣蔵・前後編」で浅野内匠頭、切腹の場面で大石内蔵助が駆けつけるところの撮影のリハーサルで渡辺監督は、ハンカチで眼を拭いながら涙声で「ハイ、本番をいきます」と叫びました。ーーー出演の男優さんは自分の演技が認められたと励みになったことでしょう。渡辺監督の「忠臣蔵」

  • 間に合わなかった俳優さん

    渡辺邦男監督作品のスタジオのセット撮影ではそのカットに出演する俳優さんは少し早めに準備してセットの脇で待機します。他の監督さんの撮影ではなかなか時間通り(スケジュール)に進行しません。しかし、渡辺監督の仕事ではスケジュールに遅れることは絶対にありません。ーーーむしろスケジュールより早めに撮影が進行しますので油断がなりません。ーーースタジオの撮影の合間にスタッフの誰かが、出演する俳優さんが遅れた場合はどうするのですか?と渡辺監督に聞いたことがありました。ーーー渡辺監督は即座に話されました。遅れた俳優さんの役の弟を即興で、横にいる俳優さんに割り当てると云われるのでした。ーーー急に決まった、その俳優さんの台詞は「只今、兄は病に伏せっております」と云わせて、間に合わなかった俳優さんのカットはなくなります。間に合わなかった俳優さん

  • 渡辺邦男監督作品に出演俳優さんは?

    渡辺邦男監督のスケジュールは事前に担当スタッフ、キャスト(出演の俳優さん)に配布(通知)さまます。ーーーまず、スタジオのセット撮影では午前8時にスタジオにスタッフは集まって準備が開始されます。そして1日の終わりは午後5時に終わるスケジュールです。ーーー普通、時代劇映画の制作スケジュールでは考えられないほどのスピードでした。ーーーしかし、渡辺邦男監督はこのスケジュール通りこなしていかれました。スタジオのセット撮影の準備が整うと、助監督さんはそのカットに出演する俳優さんに連絡してスタジオに必ず待機させなくてはなりません。ーーーその時、出演予定の俳優さんがスタンバイしていないと、大変なことになります。それは、次回に…渡辺邦男監督作品に出演俳優さんは?

  • 猛スピードのスケジュール

    早撮り監督で、有名な渡辺邦男監督は徹底した中抜き手法ばかりでなく撮影スピードも凄いものでした。まずスケジュールは午前8時にスタジオ撮影の準備が始まります。そして、1時間後の午前9時にワンカット撮影が終わります。ーーー劇映画撮影のスケジュールは午前9時にスタッフはスタジオに入りますが、渡辺監督の組はすでに、ワンカット撮り終えています…ーーーそして、昼食を挟んで午後5時ごろには1日のスケジュールは撮り終えるという凄いスピードの渡辺邦男組でした。ーーースタジオの撮影スピードが速いということは、その映画に出演している俳優さんにとっても油断なりません。猛スピードのスケジュール

  • 前後編入り混じった撮影

    早撮り監督(はやどり)の異名を持つ渡辺邦男さんの思い出話。劇映画制作の基本?として中抜き手法は、どんな監督さんでも行います。しかし、渡辺監督は徹底していました。ーーー時代劇「忠臣蔵・前後編」の撮影現場での渡辺監督の采配は凄いものでした。前後編2冊の台本から同じスタジオセットのところを選んで、…スタジオ・セットで助監督さんが「次は後編台本の××頁です」と叫びます。スタッフは早速、準備を始めます。このシーンが撮り終えると再び助監督さんは叫びます。「次は前編台本の××頁です」とこのように前後編入り混じった撮影で担当スタッフの頭の切り替えが大変でした。前後編入り混じった撮影

  • 早撮り手法「中抜き」

    テレビドラマ制作スタジオの制作現場(リハーサル)を見学する人には、今どういう筋書きのドラマか、大体判ります。ーーー一方、劇映画制作のスタジオを見学すると一体何を撮影しているのかさっぱり判りません。ーーーテレビドラマ制作の現場は大体、台本通り進行していますが、劇映画制作のスタジオでは台本をバラバラに分解してそのスタジオのセットの場面を筋書きに関係なく選んで飛び飛びに撮影して、行きます。ーーー長年の劇映画制作の歴史から同じセットの場面を台本から抜き出して、撮影する方法で撮られるように考え出されました。ーーーこの手法を「中抜き」(なかぬき)と云います。「忠臣蔵」を監督することになった、渡辺邦男さんはこの「中抜き」手法の名人でした。早撮り手法「中抜き」

  • シネスコ映画「忠臣蔵」

    私は短い間でしたが、撮影所に勤めたことがあります。私が勤務していたころの日本の映画界は、新しく登場したテレビに影響を受け始めたころでした。ーーー映画制作ではなるべく予算が少なくて大ヒットを飛ばす作品を制作したいという風潮でした。そこで、制作日数が少なくて残業のすくない現場で製作するのが歓迎されていました。ーーー新東宝のシネスコ映画で大ヒットを飛ばした「明治天皇…」を演出した渡辺邦男監督を京都の撮影所に迎えて「忠臣蔵」前後編が企画製作されるこことになりました。ーーー「忠臣蔵」でも、「明治天皇…」に負けない豪華な俳優さんが集まったオールスター?で、煌びやかなものでした。シネスコ映画「忠臣蔵」

  • シネスコ映画「忠臣蔵・前後編」

    横に広がったスクリーンに上映されるシネマスコープ映画がアメリカからどんどん、入ってきました。いままでの標準サイズの撮影機に特殊レンズつまりアナモフィックレンズを装着することで、簡単?にシネスコ映画が制作できます。その簡易さが撮影所に歓迎されたのかも知れません。ーーー日本でも東映の「鳳城の花嫁」から新東宝の「明治天皇ー」とシネマスコープ映画製作に進みました。ーーー大映京都撮影所でもシネマスコープ映画を制作することになりました。それまで、日本では制作すれば必ずヒットすると云われる「忠臣蔵」前後編です。監督は「明治天皇ー」で大ヒットを飛ばした。渡辺邦男さんでした。シネスコ映画「忠臣蔵・前後編」

  • 邦画のシネスコ映画

    新規格の横に長いスクリーンのシネマスコープの洋画は次々に制作、上映されました。新しく始まったシネマスコープ映画をシネスコと簡略して言われました。シネスコ映画を上映する劇場では映写機に装填するアナモフィックレンズが必要ですし、立体音響再生用のスピーカーを劇場内のあちこちに備えなくてはなりません。上映するフィルムはいままでは光学録音でしたが、磁気録音が使われる作品もありました。ーーー斜陽化した映画を盛り返す意味もあって、劇場側も大変でした。シネマスコープ方式の邦画は国内各社で製作されました。東映の「鳳城の花嫁」、大友柳太郎、花川裕見子、出演。新東宝の「明治天皇と日露大戦争」嵐寛寿郎ほか。日活の「月下の若武者」主演は長門裕之、浅丘ルリ子東宝は「大当たり三色娘」出演はひばり、いづみ、チエミ。松竹は「抱かれた花嫁」...邦画のシネスコ映画

  • 渡辺邦男監督

    新東宝のシネマスコープ映画「明治天皇と日露大戦争」は題材もスゴかったのですが興行的に大ヒット作品だったようです。ーーー残念ながら私はこの作品を映画館で見ていません。後で、テレビで放映されたのでそこで見ているはずです。ーーーまず、この映画のスタッフがスゴいです。早撮り(はやどり)監督と呼ばれていた渡辺邦男さんです。台本のシーンのカットをばらばらにして、段取りよくどんどん撮っていく独特のスタイルで映画を制作していきます。ーーーこの早撮りの名監督によってオールスターの大作は制作されました。この渡辺邦男監督(わたなべくにお)のスタッフはキャメラマン、チーフ助監督、記録係の四人は決まっていました。ーーーこの四人固定の渡辺組のスタッフは映画各社で映画を制作されていました。映画の仕上がりが速いので各撮影所で評判でした。渡辺邦男監督

  • シネマスコープ映画「明治天皇と日露大戦争」

    映画は動画の王者でしたが、新しく登場したテレビジョンによって映画はあやしくなってきました。そこで、テレビに対抗して画面が横に広がったシネマスコープが出現しました。ーーー日本では、東映京都制作の「鳳城の花嫁」が第一作として封切られました。次に、新東宝(しんとうほう)からシネマスコープ作品が封切られました。題名は「明治天皇と日露大戦争」という戦争映画でした。ーーータイトルのまず、明治天皇というのにびっくりしました。配役は明治天皇に嵐寛寿郎(あらしかんじゅろう=アラカン)で、その他、伊藤博文、山縣有明、大山巌、児玉源太郎、東郷平八郎海軍大将、など日露戦争に関係のあった配役が組まれていました。ーーー映画に天皇役の俳優さんが出演するのも初めて?で色々エピソードが生まれました。シネマスコープ映画「明治天皇と日露大戦争」

  • シネマスコープ映画「鳳城の花嫁」

    アメリカ映画では、宗教劇を制作すれば必ずヒットすると云われていました。20世紀フォックスのシネマスコープの興業は一応ヒットしたようでした。日本の映画界では、忠臣蔵を制作すれば必ずヒットすると云われているに似ています。ーーー新しく登場した新企画のシネマスコープ映画を劇場で上映する場合、映画館は横長のスクリーンを設置しなくてはなりません。それと、そのスクリーンに映写する映写機にも特殊なアナモフィックレンズを装着しなくてはなりませんでした。ーーーやがて、日本の映画界もこのシネマスコープを採用することになりました。ーーー邦画のシネマスコープ第一作は昭和31年(1957)、65年前、東映京都制作の時代劇「鳳城の花嫁」(おおとりじょうの)でした。監督松田定次、出演大友柳太郎(おおともりゅうたろう)長谷川裕見子(はせが...シネマスコープ映画「鳳城の花嫁」

  • シネマスコープ映画「聖衣」

    動画の王者だった劇場映画は新しく登場したテレビという動画に観客をすっかり奪われてしまいました。ーーーこの新しく始まったテレビに観客を奪われた現象は日本だけではなく、テレビ放送の先輩のアメリカでも同じでした。ハリウッドを見学してきた私の父親の土産話に聞きました。ーーー新しく制作される映画はほとんどカラーつまり色彩映画にしてアメリカも日本でもテレビに対抗しましたが芳しくありませんでした。ーーー新しい方式の映画としてハリウッドの20世紀フォックスから宗教劇「聖衣」(せいい)が封切られました。4対3の比率のテレビ画面に対して新しく登場したシネマスコープは横に細長い2対1のスクリーンでした。シネマスコープ映画「聖衣」

  • 天然色映画から色彩映画へ

    新しい色彩フィルムの登場によって日本の映画界の新作はほとんど色彩映画になりました。ーーー新しい色彩フィルムのイーストマンカラーが登場するまでの色彩映画はテクニカラー方式でした。このテクニカラーの映画を天然色映画と云っていました。ーーー邦画がカラー映画になって宣伝ポスターには、色彩映画とかカラー映画と呼ばれるようになって天然色という言葉は使われなくなりました。ーーー世界の映画界がこのイーストマンカラーフィルムを使って、ほとんど封切り映画は色彩映画、カラー映画になりましたが新しく登場したテレビ(白黒)に動画観客は奪われました。天然色映画から色彩映画へ

  • 白黒テレビVS色彩映画

    色彩映画のしかも時代劇映画「地獄門」の成功でイーストマンカラーフィルムが世界中で注目されました。日本の映画制作会社、各社が封切り映画のほとんどをイーストマンカラーを使った色彩映画に切り替えました。ーーー動画の世界を家庭へ持ち込んだ新しく始まったテレビ放映に動画の先輩の映画は斜陽産業に落ち込みました。このテレビの出現で映画の斜陽化は日本だけに止まらず、ハリウッドから世界中に広がりました。ーーー新しく始まったテレビジョンは映画に比べて鮮鋭度はもう一つで映像は白黒(モノクロ)でした。そこで新しく制作される映画は色彩化して差別化をはかるようになりました。白黒テレビVS色彩映画

  • 人間の眼の色温度は?

    コダック社、新発売、色彩映画用のカラーフィルムイーストマンカラーフィルムの色温度設定がスタジオライト用のタングステンタイプだったことが、大正解でした。ーーーそれまで、普通写真用のカラーフィルムのコダクローム、エクタクロームや富士カラーフィルムなどの色温度は5600°Kのディライトタイプがメーンでした。ーーーカラーフィルムの出現でフイルムに色温度という新しい概念?があることを知りました。我々人間は、生まれながらにして天然色の世界で生活しています。人間の眼にもこの、色温度の問題があるはずです。昼間の太陽の下の景色、電灯光に照らされた夜景など、そのときの風景の色温度に合うように脳が自動的に合わせているのでしょう。あらためて、人間の眼はスゴいですね。ーーー夕方の街並みは、赤い夕陽の中、青白い蛍光灯黄色がかったタン...人間の眼の色温度は?

  • イーストマンカラーの色温度は?

    現代劇、時代劇映画の制作は撮影所のスタジオに建てられたセットでの撮影と野外のロケーションで撮影される二通りで構成されます。ーーー一般に劇映画のセット撮影とロケーション撮影との割合はセット撮影の方が多いです。セット撮影はスタジオのセットを電灯(タングステン)の照明器具で照らします。電灯照明のセットを撮影するカラーフィルムの色温度は3200°Kです。新発売のイーストマンカーは色温度3200°Kのタングステンタイプ・フィルムとして発売されました。ーーー劇映画のセット撮影ではイーストマンカラーはそのまま撮影することが出来ます。このタングステンタイプのフィルムで野外、ロケーションで撮影する場合は撮影レンズに色温度変換フィルターを掛けることになります。スタジオセットに比べてはるかに明るいロケーション撮影では色温度変換...イーストマンカラーの色温度は?

  • イーストマンカラーをもう少し

    ここでイーストマンカラーのことをもう少し記してみます。写真も映画もフィルムを使います。モノクロフィルムは問題がないのですが、色彩写真つまり、カラー写真(映画)を撮るにはカラーフィルムを使います。ここで問題になるのが、被写体をどんな状態で撮るかということです。ーーー昼間の野外で撮影する場合は被写体が太陽で照らされていますのでデイライトタイプのフィルムを使用します。屋内のスタジオで撮る場合は被写体は電灯(タングステン)で照らされていますからタングステンタイプのフィルムを使います。ーーーカラーフィルムにはデイライトタイプとタングステンタイプの2種類のフィルムがありました。ーーー写真用のカラーフィルムはディライトタイプが主流で屋内のスタジオでは太陽光に近いストロボを使って撮影しますから、ディライトタイプのカラーフ...イーストマンカラーをもう少し

  • イーストマンカラーの登場で

    コダック社のイーストマンカラーの登場は、華々しいものでした。それまでの天然色映画の王者、テクニカラーは、新登場のイーストマンカラーに譲ることになりました。ーーーテクニカラー方式は色彩の原色、R、G、Bをそれぞれ白黒フィルム三本で分担して撮影する方法で撮影機も特別で大きなものでした。ーーー新登場のイーストマンカラーは今まで使用していた白黒用の撮影機で製作できる、一本のカラーフィルムでした。日本で制作された時代劇映画「地獄門」が国際映画祭で受賞したことで、世界中がイーストマンカラーに注目することになりました。イーストマンカラーの登場で

  • 天然色映画「地獄門」受賞

    日本初の時代劇、天然色映画「地獄門」は色彩も鮮やかで大成功でした。当時、大映は、自信作を国際映画祭へ出品していました。この「地獄門」も映画祭へ出品されました。カンヌ国際映画祭でグランプリをまた、アカデミー賞では、名誉賞と衣装デザイン賞を得ました。イーストマンカラーを使った時代劇映画の成功で、国内の映画撮影所は、このフィルムを使って、それぞれ天然色映画を製作しました。ーーー東映撮影所は東映カラー、東宝撮影所は東宝カラーとそれぞれ、製作会社の名前で公開しました。ーーー映画会社の名前をつけた××カラーという名称は日本だけでなく、ハリウッドの映画会社でもワーナーカラーなどと名付けて映画を公開していたようでした。天然色映画「地獄門」受賞

  • 化粧品・マックスファクター

    映画は、出演する俳優さんの演技をあらゆる角度から撮影して制作されます。ーーー出演する俳優さんは化粧つまり、メイキャップされます。白黒映画では、どうらんが使われていましたが、天然色映画を制作するのに際して俳優さんの肌色をどうするかでアメリカのマックスファクターのパンケーキ?が輸入されました。ーーー健康的な肌色?を、どう表現するかで大変でした。後に白黒テレビもカラーテレビの登場に際して、出演する俳優さんの肌色をどうするか問題になりました。ーーーカラーテレビの登場でカラー映画と同じマックスファクターのパンケーキが使われたようでした。化粧品・マックスファクター

  • 日本初の時代劇、天然色映画「地獄門」

    カラーフィルムのことをぐだぐだ記していても面白くないので、話題をかえます。ーーー新発売されたコダック社のイーストマンカラーを使って日本初の天然色映画しかも時代劇で制作されました。京都市の太秦(うずまさ)の大映京都撮影所で製作されました。ーーータイトルは「地獄門」で出演は長谷川一夫(盛遠、もりとう)京マチ子(袈裟、けさ)山形勲(渡辺渡)千田是也、黒川弥太郎、毛利菊江、荒木道子、ほかスゴいキャスティングでした。ーーー監督は衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)音楽は芥川也寸志、関西交響楽団と豪華なスタッフでした。日本初の時代劇、天然色映画「地獄門」

  • 透明陽画としてのカラーフィルム

    テクニカラー方式の天然色映画が封切りされるのと平行して、色彩写真も始まっていました。普通写真はリバーサルフィルムとして始まっていました。このフィルムは現像、処理されるとカラーの透明陽画として出来上がりました。ーーーこの透明陽画はスライドとして幻灯機?を使って大きなスクリーンに投射して観る方法でした。アメリカの家庭ではパーティでスライドを来客に見せるのが流行っていたそうです。ーーーこの方法は、映画に応用するには後処理が大変で実用化は困難でした。国産初の天然色映画「カルメン故郷に帰る」はあえてこの方法で制作されたのでしょう。透明陽画としてのカラーフィルム

  • 初めての単位、色温度

    我が国で色彩フィルムによる天然色時代劇映画が企画されるようになって、写真好きの学生だった私も改めて、カラーフィルムを勉強するようになっていました。ーーー赤、緑・青の三原色からはじまってそれぞれの補色となるマゼンタ、イエロー、シアンと判ってきました。この光の三原色は何となく知っていましたが、私には、初めての色温度(いろおんど、しきおんど)がすぐに、理解できませんでした。そして、色温度の単位がK(ケルビン)を知りました。ーーー人間の眼も天然色です。網膜でも赤、緑、青と認識しています。そして、人間の眼でも色温度の問題はあるのですが、人間の脳が映像を分析して色温度を調節しているようです。人間の眼と脳はスゴいですね。ーーー日中の太陽光下の風景はデイライト。夜の電灯下の部屋はタングステンライトと分けられます。夕方の光...初めての単位、色温度

  • さくら天然色フィルム

    写真の世界では色彩写真つまりカラー写真が戦時中(大東亜戦争)からありました。小学生だった私は親父の引き出しから35ミリフィルムのカラースライドを見ていました。ーーーこのカラースライドには人物が写っていました。フィルムメーカーは日本の小西六、さくら天然色フィルムでした。天然色フィルムは戦時中から世界で研究されていたのでした。ーーー日本の富士フイルム製のリバーサルフィルムを使って色彩映画が制作されたのが松竹大船の「カルメン故郷に帰る」でした。ーーーアメリカのコダック社がコダクローム、エクタクロームなど、色彩リバーサルフィルムを発売していました。そのコダック社が映画用色彩フィルムを開発発売したのがイーストマンカラーでした。さくら天然色フィルム

  • イーストマンカラーの原理

    映画制作で一番大事なものは銀塩フィルムです。この銀塩フィルムをカメラに装填して、撮影するのが映画制作のはじめです。撮影された銀塩フィルムを現像所に送って、現像処理を行います。現像処理を終わったフィルムの画面は、被写体の白黒が反転した陰画(ネガ)フィルムになります。そのネガフィルムを焼き付け処理をすると、陽画(ポジ)になります。ーーー銀塩フィルムを使っての映画制作は大変です。モノクロ(白黒)映画制作の段取りを天然色(色彩映画)に考案されたのが、イーストマンコダック社で発売されたイーストマンカラーでした。ーーーイーストマンカラーで撮影されて現像処理を終えた画面はカラーネガ(カラー陰画)になります。カラーネガは被写体の明暗が反転されて、撮影された色彩は補色になっています。このカラーネガフィルムを再びフィルムに焼...イーストマンカラーの原理

  • 親父からのアメリカ土産

    アメリカ土産として私は親父から、シェーファー・シュノーケルという万年筆を貰いました。当時、学生の筆記用具として万年筆は、王者でした。ーーー京都市内の百貨店には文房具コーナーに万年筆の売り場が必ずありました。メーカーから派遣されていたのか、若い女性の店員さんが数人、常駐していました。。ーーー現在の若者はスマホかノートパソコンが万年筆に取って代わってしまいましたが。ーーー当時の万年筆はアメリカからのパーカー製が斬新なスタイルでした。国産製もパイロット、セーラーなどが人気製品でした。ーーー親父からのもう一つの土産、ウェストン製の液温計に、びっくりさせられました。この液温計は白黒フィルムのフィルム現像液の温度管理や印画紙プリントの現像液の温度管理に便利な小道具でした。親父からのアメリカ土産

  • 日付変更線を越えて

    日本初の時代劇の天然色映画の制作のために使用するイーストマンカラーについて、制作スタッフだった親父はアメリカへ打ち合わせ?として、出掛けていました。ーーー期間は約一ヶ月でした。渡米中の親父からは連絡はありませんでした。当時の国際電話は電話代が大変でしたから、仕方がないことでした。ーーー一月ほどして、親父は無事帰ってきました。アメリカへの往復はパンナム航空でした。ーーーパンナム航空に搭乗した記念に、パンアメリカンのマーク付きのバッグをもらってきました。それと、アメリカへ行くのに途中に、日付変更線があります。その、日付変更線を越えたという記念のシートも、貰っていました。日付変更線を越えて

  • ハリウッドの現状

    日本で時代劇映画を天然色で制作することになって、その制作スタッフになった親父は他のスタッフと一緒にアメリカへ出掛けました。ーーー期間は約一ヶ月でした。無事、帰国した親父にアメリカの土産話を聞きました。ーーー日本より先にアメリカではテレビ放送が始まっていました。その影響がすさまじく、親父らが訪れたハリウッドは活気がかんじられません。改めて、テレビの影響があったと私に話してくれました。ーーー親父はコダック社へ出掛けると同時に、もう一つのフィルムメーカーのアンスコも訪れました。アンスコのスタッフはイーストマン・コダックに負けましたと、話していたようでした。ハリウッドの現状

  • パンアメリカン航空で渡米

    米国コダック社で新しく映画用カラーフィルムが出来たという、ニュースが入ってきました。ーーー映画人だった私の父親はその、新しいカラーフィルムを使って、天然色映画を制作するスタッフになりました。父親はじめ、その映画制作のスタッフの何人かはアメリカへ行くことになりした。ーーー制作スタッフがアメリカへ行くのには、飛行機です。確か、羽田からパンアメリカン航空(パンナム航空)でした。日航には、まだ国際線が無かったのでしょうか?何分、70年ほど前の話です。パンアメリカン航空で渡米

  • イーストマンカラーで時代劇を

    新しく出来上がったイーストマンカラーを使って日本で天然色映画を制作するプランが上がってきました。しかも、内容は時代劇を制作するというものでした。ーーー日本初の天然色映画は松竹大船の「カルメン故郷に帰る」と「夏子の冒険」は二本とも現代劇でしたから野外撮影つまりロケーションが主で、制作されましたが、今度は、時代劇です。時代劇はスタジオつまりセット撮影が主になります。スタジオ制作は、タングステン電球の照明で撮影されます。ーーー太陽光で撮影するロケーションよりはるかに暗い電灯光によるスタジオ撮影はどうするのでしょう?当時の私は映画人だった父親に色々尋ねていました。イーストマンカラーで時代劇を

  • イーストマンカラー登場

    新しく始まったテレビで映画館の入場者が、減りはじめした。当時の映画は時代劇、現代劇とありますが、どちらも、モノクロ(白黒)画面でした。映画に比べて少し鮮明度が劣るテレビ画面もモノクロ(白黒)画面です。ーーー映画はテレビ画面と差別化をはかるために、天然色映画化が考えられますが、費用のかかるテクニカラー方式は無理でした。ーーー新しいカラーフィルムが出来たらしいというニュースが流れてきました。アメリカのフィルムメーカーのコダック社が、イーストマン・カラーが出来たというのでした。イーストマンカラー登場

  • 新しい動画のテレビジョン

    テクニカラー方式の天然色映画は予算の潤沢なハリウッドでは制作可能でしたが、ハリウッド以外の映画会社では制作出来なかったようでした。ーーー我が国の映画界では、富士フイルムを使った、松竹大船の二本の天然色映画以外、制作されませんでした。ーーー動画が映画館だけでなく新しくテレビとして家庭へ入ってきました。この、あたらしいテレビは映画館では見られなかった毎日の新しいニュースを動画で放映されました。また、座談会、天気予報、スポーツ番組など、新しい動画もありました。ーーー電車に乗って映画館へ動画を見に行かなくても新しいテレビの動画が家庭で見える時代になりました。新しい動画のテレビジョン

  • テクニカラー方式の天然色映画

    日本で初めて天然色映画として松竹大船の「カルメン故郷に帰る」と「夏子の冒険」の二作品が制作されましたがそれ以外、制作されませんでした。ーーー外国では、アグファカラーで「石の花」がソ連で制作されたはずです。それ以外は、ゲバカラーやフェラニアカラーで天然色映画が制作されたようですが私は見ていません。ーーー当時、天然色映画としてはテクニカラー方式の映画が標準でした。しかし、テクニカラー方式では撮影方式として、赤、緑、青を担当する白黒フィルムが三本使用する大型のカメラが必要ですし、後処理も大変です。従って、予算も大変だったのでしょう。ーーー私の見た洋画の天然色映画は英国のモイラ・シアラー主演の「赤い靴」。地上を色彩で、天国をモノクロ(白黒)画面で描写する「天国への階段」?。アメリカ映画ではダニー・ケイとヴァージニ...テクニカラー方式の天然色映画

  • 角梨枝子主演の「夏子の冒険」

    松竹大船(しょうちくおおふな)制作の天然色映画二作目「夏子の冒険」が制作公開されました。今回も富士フイルムが使われました。前回の「カルメン故郷に帰る」では全編、野外つまりロケーションのみで制作されましたが、「夏子の冒険」では舞台が北海道でしたが、スタジオでのセット撮影もあったようですが、私は覚えていせん。出演俳優さんの主役はミスヒロシマ出身の角梨枝子(スミリエコ)若原雅夫、東山千栄子など。ーーー原作はなんと三島由紀夫でした。私は、三島ファンでした。なかでも「金閣寺」はすばらしい作品でした。金閣寺放火事件を題材にしたものでした。ーーー松竹大船で我が国初の天然色映画が作られましたが、「カルメン」「夏子の冒険」の二作のみで、以後日本で天然色映画はしばらく作られていません。角梨枝子主演の「夏子の冒険」

  • 天然色映画二作目「夏子の冒険」

    我が国初めての、天然色映画「カルメン故郷に帰る」は、ストーリーも面白く楽しめる映画でした。ーーー富士フイルムが技術的バックアップで制作された天然色映画でしたが日本にはフィルムメーカーの老舗小西六(こにしろく)がありました。この会社ではさくら天然色フィルムが発売されていました。この小西六でも天然色映画を制作したはずですが、何故か私には、覚えがありません。ーーー松竹大船で、主演高峯秀子で木下恵介監督の天然色映画は興行的に成功したのでしょう。ーーー翌年、同じく松竹大船で制作される「夏子の冒険」がありました。この映画も私は見ています。天然色映画二作目「夏子の冒険」

  • 国産初の天然色映画「カルメン故郷に帰る」

    アメリカから天然色映画つまりテクニカラー方式のカラー映画がどんどん入ってくるのに、刺激されてか日本でもカラー作品制作があちこちで検討されていたようでした。ーーー国産フィルムを使った天然色映画が松竹大船(おおふな)で制作され公開されました。松竹大船は現代劇の撮影所ですから、ストーリーは現代劇でした。ストリッパー・カルメン(高峯秀子)が故郷へ錦を飾るというと話でした。監督は木下恵介(きのしたけいすけ)でした。この国産初の天然色映画の題名は「カルメン故郷に帰る」でした。ーーー肝心の天然色映画の撮影フィルムは富士フイルムが使用されました。当時、カラーフィルムはリバーサル方式でした。富士フイルム側も技術協力があつたのですがさぞ、大変だったでしょう。撮影現場は、浅間山山麓のロケーションだけでスタジオでのセット撮影は無...国産初の天然色映画「カルメン故郷に帰る」

  • 天然色映画「風と共に去りぬ」

    アメリカから入ってくる天然色映画はテクニカラー方式でした。テクニカラーは、まずカメラが特別で白黒フィルムを三本使います。撮影にこの三本の白黒フィルムが同時に走るのでカメラの構造は大げさです。ーーー話題になった天然色映画には「風と共に去りぬ」があります。この優れた色彩のテクニカラー方式映画はアメリカで作られていました。制作費が莫大なのか普及しませんーーー英国で、このテクニカラー方式の天然色映画「赤い靴」や「天国への階段」などが制作されました。ーーー「天国への階段」では、モノクロ(白黒)画面と天然色画面が混ざった面白い作品でした。日本では、このテクニカラー方式の天然色映画の制作はありません。キッと制作費で折り合いが付かなかったのでしょう。天然色映画「風と共に去りぬ」

  • 天然色映画

    新しい動画の世界のはじまりがテレビ放送です。動画の世界が家庭で見えるのですから動画の王者、映画界にとって脅威でした。ーーーテレビの登場で街の映画館の観客が目に見えて減ってきました。しかし、新しい動画のテレビはモノクロ(黒白)の画面でした。日本に入ってくる映画には色彩豊かなカラー作品がありました。輸入されるカラー作品を天然色映画と名付けられていました。ーーーテレビに対抗して映画が勝つには制作される映画はカラー作品つまり天然色映画しかないと、云うことになりました。ーーー当時の天然色映画は輸入される洋画、アメリカ映画がほとんどでした。アメリカ制作の天然色映画はテクニカラーでした。天然色映画

  • 「活動寫真の女」浅田次郎

    勤め始めた映画会社のタイムマシーンで昔に戻ったような時代劇制作のスタジオの1日が終わって、嵐電に乗って四条の繁華街に戻ってきます。早く仕事から解放された夕方には木屋町通りをブラブラして安いスナックのニッカバーへよく通っていました。ーーー当時は、今と違って安いスナックがあちこちにありました。トリスバーというのもありました。ーーー私の若い頃の京都はまだ、外国からの観光客もなくのんびりした都でした。ーーー後年、浅田次郎の「活動寫真の女」を読んだところ、私がうろうろしていた木屋町通りの雰囲気や、太秦(うずまさ)の撮影所の雰囲気が活写されているのに驚いたことがありました。「活動寫真の女」浅田次郎

  • 京都の映画撮影所に就職して

    私が就職した撮影所は京都の太秦(うずまさ)にありましたから、制作する映画は、勿論時代劇ですーーー時代劇映画の制作は昔のストーリーです。スタジオに組み立てられるセットも、昔の建物です。撮影所のオープンセットも昔の街です。そして、出演する俳優さんは刀を差した武士姿の男優さん日本髪姿の女優さんです。ーーーその時代劇制作のスタジオで働き出した私の最初のうちは、タイムマシーンで昔に旅をした気分でした。ーーー1日の仕事が終わって嵐電・太秦駅から四条河原町の繁華街へ帰ってくると、現代に戻ってきた気分でした。京都の映画撮影所に就職して

  • 映画撮影所の東西

    私は学校を卒業して、就職することになりました。世の中の娯楽の王者は映画でした。しかし、同じ映像?の娯楽としてテレビが登場してきました。ーーー私は、映画制作の映画会社に就職できました。当時、封切りの映画館では二本立て興業が流行っていました。封切り映画は一週間上映していましたから毎週、新しい映画を二本用意しなくてはなりません。ーーーしたがって、映画撮影所は、次々に新しい映画を制作しなくてはなりませんでした。ーーー映画会社は関東の東京と大船、そして関西の京都と、二つに分かれていました。関東は現代劇、関西は時代劇映画を主に制作していました。映画撮影所の東西

  • 続・映画とテレビドラマ

    テレビが始まった頃はまだ、VTRがありませんからテレビドラマはすべて、生放送でした。テレビ番組すべて、生放送でした。ーーーテレビドラマが生放送ということはそのドラマすべてをスタジオで制作しなくてはなりません。映画のように、野外シーンつまりロケーションカットを挿入することはできません。ーーーしたがって、ストーリーでは山の場面、海浜の場面なとを使うことが出来ません。スタジオに組み立てられた家屋や、その庭、部屋でストーリーを展開するという制約がありました。ーーー家庭に普及し始めた14インチのブラウン管の受像機の画面は小さく映像もあまりハッキリ写りませんでしたそこで、テレビドラマに出演する俳優さんの映像は、クローズアップが多用されました。この、クローズアップの映像は、茶の間で見ている人の顔のサイズとほぼ同じでした...続・映画とテレビドラマ

  • 映画とテレビドラマ

    日本でテレビ放送が本格化してしばらく、経つと街の映画館の入りが悪くなってきました。いままで、動画は映画館でしか見ることが出来ませんでした。その動画を画質、サイズは別にして家庭で見ることが可能になったのです。ーーーテレビで放送されるテレビドラマは映画に比べて時間は短いですがストーリーはそれなりにキチッと構成されていました。ーーー映画はフィルムに納められていますが当時のテレビドラマは生放送でしたから同時に、テレビスタジオで演じられています。ーーーテレビドラマは生放送でしたからドラマの長さは15分、30分ものが主流でした。映画とテレビドラマ

  • 私は映画界へ入りました

    私が大学を卒業して映画界へ就職しました。当時の日本はまだテレビが始まっていませんでした。もっとも、アメリカではテレビが始まっていましたが。ーーーテレビの登場でアメリカの噂はありましたが、日本ではまだ、映画が娯楽の王者でした。大映時代劇では勝新太郎、市川雷蔵が活躍して、ニューフェイスの新人スターの若尾文子(わかおあやこ)などが華やかで、映画は制作すれば必ず黒字でした。たまに、製作部から、あの映画は赤字だったと云うことがありましたが、それは、収益の皮算用に対して赤字と云うものでした。ーーー私が映画界へ入って1年ほど経ったころ、日本でもテレビが始まりました。私は映画界へ入りました

  • テレビの出現で映画は?

    家の床の間に14インチのテレビ受像機が置かれましたテレビが我が家へやって来た最初は現在のように一日中の放送ではなく朝は十時から午後三時まで。午後三時から夕方の五時まで休み。午後五時から夜の十時か十一時まで放送されました。ーーー14インチ受像機(ブラウン管)のピントつまり画面は映画館で見る映画の画面に比べてかなり貧弱でした。しかし、テレビが家庭へ入ってくるまで動画は映画館でしか、見ることができませんでした。ーーーテレビが家庭へ入ってきたことによって、家に居ながらにして動画が見えることになりました。ーーーテレビが家庭へ入ってきたことによって、それまで娯楽の王者だった映画館の観客が減ってきました。テレビの登場によって、映画の斜陽化が始まりました。テレビの出現で映画は?

  • テレビがやって来た

    我が家にやってきた14インチ白黒テレビ受像機の画面の動画は、それまでの動画の王者、映画の動画に比べてかなり貧弱なものでした。ーーー我が家の床の間に、この14インチテレビ受像機は置かれました。親父は分割払いで購入しました。ーーー日本の家庭の電化製品は最初ジュースミキサー、ホップアップ式のトースターから始まって電気冷蔵庫、絞りハンドルの付いた電気洗濯機と、増えていきました。ーーーそして、最後にテレビ受像機が家庭に入ってきたようでした。これらの電化製品は、各家庭に入ってきたようでした。テレビがやって来た

  • 日本でテレビ放送始まる

    初めてテレビが家庭でも楽しめるようになりました。これは、動画が家庭でも簡単に楽しめる画期的な出来事でした。ーーーそれまで、動画は映画館でしか楽しめませんでした。当時、私も動画に飢えていて一週間に1度位、映画館へ足を運んでいました。ーーーそこへ、テレビの出現で家庭で動画が楽しめるようになりました。テレビ放送が始まった頃のテレビ受像機は家庭用としてモノクロ(黒白)の14インチのブラウン管式、受像機でした。日本でテレビ放送始まる

  • YouTubeで思い出の洋画を

    近頃のYouTubeの勢いはすごいですね。ここ数年の、新型コロナ禍の猛威の影響でしょうか?ーーー私もYouTubeをウロウロしています。先頃、YouTubeを探しているとなんと、私の中学時代に映画館で見た洋画「銀嶺セレナーデ」がありました。ーーー私は家族と共に満州から引き揚げてきて浜松の親父の親戚に厄介になりました。戦後の浜松は、浜松沖の米軍艦からの艦砲射撃で焼け野原でした。焼け残った銀行?の建物を改造して洋画封切りの映画館になっていました。ーーーその映画館で見た洋画を70数年、経過した現在、私のパソコンで綺麗に見ることができました。ーーー私はその洋画「銀嶺セレナーデ」のゲスト出演していたグレンミラー楽団を聞きながら当時を思い浮かべていました。YouTubeで思い出の洋画を

  • 番組名「奥さまチャンネル」

    若奥さま、数人が料理番組のセットに並びました。目玉焼きの材料は、新鮮な卵です。それぞれフライパン片手にガスコンロの前に並びます。ーーー当時、まだ独身だった私も休みの日には、家で作ることがありました。フライパンに卵を割落として数分で出来上がる簡単な料理?です。ーーー出演の若奥さまたちも、すぐに出来上がるとおもっていました。しかし、初めて出演されるテレビ番組に気持ちが上がってしまつたのか?どうも、手際がよくありません。そのうち、卵の目玉焼きが出来上がるまえに、時間が来てしまいました。ーーー若奥さまたちの出演による卵の目玉焼きは用心して録画撮りにしていて、よかつたのです。録画テープの時間を編集で番組に仕上がりました。ーーーそして、あらためて料理学校の先生方が時間通りピタッと仕上がる複雑な料理の番組は違うんだなあ...番組名「奥さまチャンネル」

  • 若奥様の「料理番組」

    テレビ各局の「料理番組」は番組が短時間なので、料理の専門家つまり、料理学校の先生が、要領よく短時間で、まとめる番組でした。ーーー「料理番組」は、一応、教養番組なので各テレビ局も力を入れていました。ある意味で料理の専門家?である若奥様の出演する料理番組をという新しい企画がありました。ーーー若奥様の出演する「料理番組」は連続ではなく、単発の番組でした。この料理番組のテーマは卵を使った「目玉焼き」を作る簡単なものでした。料理番組のセットに数人の若奥様が並んで、フライパンを片手に、「目玉焼き」を作る内容でした。若奥様の「料理番組」

  • 料理番組のこぼれ話

    生放送の「料理番組」は15分ほどの短い放送時間でした。民放テレビ局の番組にはコマーシャルが前後につきますから料理部分は約10分ほどになります。ーーーどんなに凝った料理でも短い放送時間に合わせなくてはなりません。そこで出演される料理の先生方は料理で時間のかかる部分はあらかじめ料理をされて15分ほど煮込むとこうなりますと、準備のところを見せて、そして出来上がった部分と差し替えて放送時間を稼ぎます。ーーー無事放送が済むと、出来上がりの料理のほかに中途半端な料理が沢山残ります。そして、出演された料理の先生方は中途半端な料理をキチッと煮込んで、沢山の料理を仕上げます。ーーーそして、沢山の出来上がった料理を前に我々スタッフに「どうぞ、召し上がってください」と言われます。放送に使った料理とはいえ、料理学校の先生の作品?...料理番組のこぼれ話

  • 料理番組は生放送

    料理番組に出演される先生(講師)はテレビスタジオに入られる前に学校でアシスタントを参加させてリハーサルをされているのでしょう。ーーー料理番組本番前のリハーサルでは短い放送時間にキチッと間に合うように仕上がっています。ごくまれに、時間内にはいららないことはありましたが、ーーー短い放送時間に収まるように出来上がり直前の吹き替え用?の料理や細かく切り分けた野菜などが用意されます。やがて、カメラを使ってのカメラリハーサルは終わって本番の用意が整います。ーーー料理番組の放送時間は午前11時すぎ、つまり昼食前の時間に放送されますこの放送時間は各局とも同じようでした。そして、VTR時代になっても生放送が相場でした。料理番組は生放送

  • 料理番組の現場

    テレビの料理番組は15分番組で、番組の前後にコマーシャルが流れますから中身は約10分ほどですーーー料理番組は生放送でしたから放送日の朝、出演の料理学校の先生は、お弟子さんやアシスタントさんとスタジオに入られますーーースタジオには調理台などのセットが用意されています。料理材料をテーブルに並べて我々スタッフと打ち合わせ、リハーサルが始まります。0短い放送時間に合わせて料理の段取りを考えるのですから大変です。長い時間かかるオーブンの料理などでは出来上がりが用意されていてオーブンに材料を入れるところを見せておいて、先生は「こちらに出来上がりが用意しています」とことわりを入れて、時間稼ぎをします。料理番組の現場

  • テレビ料理番組は花盛り

    映画に比べてテレビでは食事との関係が深いようです。テレビの放送番組には楽しい娯楽番組に加えて教養番組?を何%か入れなくてはなりません。ーーーテレビの教養番組といえば料理番組でしょう。テレビが始まったころテレビ各局で色々な「料理番組」が、花盛りでした。ーーー料理番組は料理学校の先生が講師として出演されました。そして、テレビの料理番組に出演される先生の料理学校も大勢の生徒さんが集まったようでした。ーーーテレビが始まった頃の料理番組はブームを呼んだようでしたが、最近は料理の作り方よりも、人気の料理店を訪れて「美味しい」と食べ歩きの番組になってきたようです。ーーー次から、花盛りだった料理番組を思い出してみます。テレビ料理番組は花盛り

  • テレビドラマのスナック場面

    テレビドラマのスナックの場面でカウンターに用意されるウィスキーの水割りを飲むシーンでした。ーーー普通は、画面ではわからないので?タンブラーに氷と麦茶を入れて用意します。ーーーテレビモニターを見ると麦茶のタンブラーは、俳優さんの演技によって本物のウィスキーの水割りに写ります。ーーー或、大物の映画俳優さんが現代劇テレビドラマに出演されて、芝居はリアルでなくてはいけない。そこで、スナックの場面では本物のウィスキーを用意して欲しいと注文をつけてきました。プロデューサーは、注文通りスナックのセットに本物のウィスキーを用意しました。ーーースラックの場面で、本番は何回かNGが出ました。出演の大物俳優さんはリテークの度に何度も本物のウィスキーを飲んでいるうちに、なんとなく怪しい演技になっていました。ーーースナック場面に出...テレビドラマのスナック場面

  • テレビドラマと映画の違い

    映画俳優さんが、テレビドラマへの出演が解禁?になりました。それと、テレビドラマの方もいくつかのブロックに分かれて録画されるようになりました。したがって、映画俳優さんのテレビドラマへ出演できるようになりました。ーーーテレビドラマへ初めて出演された映画俳優さんがブロックの録画(本番)が済んですぐ、プレイバック、プレビューが出来ることでした。映画では、本番後、約一週間ほどたってやっと、ラッシュ・プリント試写になります。ーーー次に、ドラマ出演の映画俳優さんが驚かれるのは、食事場面でセットのテーブルに並べられた、ご馳走が本番で食べられることです。映画制作のセットに並べられるご馳走はあくまで小道具で食べることは出来ません。ご馳走を用意する小道具さんも最初からリアルに食べられることは考えていません。ーーーテレビドラマに出演さ...テレビドラマと映画の違い

  • 食事場面は何時撮るのか?

    テレビドラマに初めて出演される映画俳優さんは、ドラマ本番のセットで小道具として並べられたご馳走が食べられることに驚いておられました。ーーーテレビドラマの録画は様々な場面がスケジュールとして並んでいます。特に、食事場面はご馳走の用意は大変ですから時間が掛かります。ーーーテレビドラマの食事場面はドラマの中で俳優さんがリアルに食べようと思えば食べられます。ーーーそこで、制作スタッフとして食事場面の制作は、午前11時ごろつまり、俳優さん昼食前の時間に撮るように、調整していました。食事場面は何時撮るのか?

  • 続・テレビドラマの食事場面

    テレビドラマは、生の時代からビデオ録画の時代を迎えて一本のドラマをいくつかに分けて、つまりブロックとして制作するようになりました。ーーードラマでは、食事場面は一つのブロックとして扱われるようになりました。食事の場面は、セットに机が置かれて、その上にご馳走の皿を並べなくてはなりません。ーーーテレビの食事場面は映画と違って、本番で俳優さんが並んだご馳走を食べることが出来るようにしなくてはなりません。ーーー私の働いていたテレビ局では食事場面のご馳走は社員食堂に発注していました。写真食堂はテレビ局員が毎日利用するところですから間違いはありません。テレビドラマの食事場面が近づくと、社員食堂から2、3人で、大きなワゴンを押しながらスタジオに現れます。続・テレビドラマの食事場面

  • テレビドラマの食事場面

    新しく始まったテレビドラマの制作現場の話を少し。日本映画の食事場面の制作現場ではずらり並んだご馳走は、小道具係が用意します。映画スタジオのセットは、乾燥していて埃っぽいので、並んだご馳走を食べることはありません。テレビドラマ制作のスタジオでも食事場面があります。テレビドラマのスタジオは空調の整った環境ですのでセットに並べれた、ご馳走はドラマ本番で食べることは可能です。器用な俳優さんは台詞を喋りながら食事をするひともおられました。ーーー次からテレビドラマの食事場面について記していきます。テレビドラマの食事場面

  • 続・映画の食事場面

    映画制作のスタジオは明るい照明がセットを照らしているのでなんとなく埃っぽい環境です。そこで、バタバタスタッフが用意のために動き回ります食事の場面では早くからセットに食事が並べられますいよいよ本番になって出演の俳優さんは食べる気分では無いでしょうし制作スタッフ、監督さんも用意された食事を食べてくれとは云いません。時代劇、現代劇映画で食事の場面が好きな監督さんがいます。映画を注意深く見ると食事場面に出演されている俳優さんは食べていないことに気付きます。なお、掲載した写真は私の、同窓会で出されたご馳走です。続・映画の食事場面

  • 映画の食事場面

    映画にはロケーション、スタジオでのセット撮影と様々な場面があります。ーーーその中で、食事の場面について記してみます。食事の場面では時代劇、現代劇によって用意する食事が色々あります。ーーー映画で用意される食事は小道具係(こどうぐ)が整えますーーー整えられた食事は見事なのですかが劇中、食事をする俳優さんは食べません。食べているように演技をするだけです。ーーー映画のスタジオは意外と乾燥していて、埃っぽく、とても食事には無理な環境なのかもしれません。ーーーまた、俳優さんが、食事をとりながら台詞を喋るのは大変なのでいかにも食事をとっているように演技を組み立てます。ーーー食事を用意する小道具係さんは食事は、写ることだけを考えて食事の味付け?は、どうでもよいのでした。映画の食事場面

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、初心者の老人ですさんをフォローしませんか?

ハンドル名
初心者の老人ですさん
ブログタイトル
初心者の老人です
フォロー
初心者の老人です

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用