初心者の老人です
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初心者の老人ですさん
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初心者の老人です
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75才になって初めてVISTAを始めました。80才でW8、1も始まりました。
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  • 新京の秋と冬

    満洲國新京特別市の春光国民学校の三年生に転入できました。春光国民学校(しゅんこう)は日本人の学校です…そして、新しい友だちもできて、元気に登校する毎日でしたやがて新京にも秋らしい季節が訪れてきました。………ある日、朝から雨が降っていました私が登校するのに母親は、私に高下駄を履かせて傘を持たせて送り出してくれました教室に入ると、友だちの服装が変わっていました…教室の皆は冬服を着て重装備なのです授業の1時間目に窓の外を見ると小雨が降っています…………3時間目あたりに窓の外を見るとしとしと降っていた小雨がなんと雪に変わっているのです…その日の朝は秋だったのに下校時にはなんと雪景色の冬に激変していたのです…新京の秋と冬

  • 春光国民学校へ転校する

    小学生3年生の私は京都の下鴨小学校から満洲新京の小学校へ転校することになりました日本は大東亜戦争で戦時体制になりました。学校の名称の小学校が国民学校に変わって下鴨国民学校になりました………満洲國新京特別市で私の通うのは春光国民学校(しゅんこう)でした。教室の教壇の横に私は立ちました担任の先生の紹介で無事転校できました。………私の家からは、市内電車の一駅先で家の近くに市電の終点、撫松路駅?(ぶしょうろ)の次の駅が春光国民学校前駅でしたからその電車道の横の広い道を一駅歩けば国民学校(小学校)でした…学校へ通うこの広い道には自動車は滅多に通らずたまに、満州人の乗った二輪馬車が通るだけで安全な道でした…時々、方向が同じこの二輪馬車に乗せてもらつて帰ったことがありました。…春光国民学校へ転校する

  • 新京の住まいは団地とそっくり

    満洲國新京特別市の新しい家は一棟に二軒がある平屋で、それが七棟が等間隔に並んでいました家の横にはブランコ、ジャングルジムなどがある小さな公園がありました…………私らが入居した平屋造りの家は4LDK?で、八畳、続きの六畳の二間少し離れて四畳半の四室に、風呂、水洗便所少し広いキッチンという構造でした………隣の公園の向こうには四階建ての住宅が並んでいました。今から思うと、日本の団地そっくりの眺めでした。戦後、日本全国に建設された団地は、この満洲国の住宅を再現したのかも知れません?。新京の住まいは団地とそっくり

  • 新住所「盛京大路房産住宅78號」

    満洲國新京特別市に着いて最初の夜は市内のホテルで一泊しました…翌朝の朝食はホテルでとったはずです…何分、今から77年前の私が9歳のときの話ですから良く覚えていません………朝食を済ませていよいよ新しい住まいへ向かうののですが市電だったのか、タクシーだったのかこれも、覚えていません…兎に角、市内から外れた住まいへ到着しました新しい住所は…満洲國新京特別市盛京大路房産住宅78號(まんしゅうこく、しんきょうとくべつしせいきょうたいろ、ぼうさんじゅうたく)でした。新住所「盛京大路房産住宅78號」

  • 「あじあ號」に乗っていよいよ新京へ

    疾走する「アジア号」のなかで私ら家族5人は食堂車で昼食をとりました。客席は二等車だったのかも知れません。2人掛けのシートの足下のボタンを足で踏むとシートは360度廻ります列車最後尾の展望車へも行ってみました後で判ったのですが冷暖房のエアコンが付いていたようでした…………夕方6時過ぎに新京駅に到着しました昨日、日本の神戸港から客船「みどり丸」で、満洲国大連に到着してそして超特急「あじあ号」に乗ってついに新京特別市へ到着しました到着したその日はたしか、市内のホテルへ一泊したように覚えています。明日はいよいよ新しい住居へ行くのです「あじあ號」に乗っていよいよ新京へ

  • 超特急「アジア號」に乗って

    満洲大連駅で私たちが乗った超特急「あじあ號」は午前10時?ごろ発車しましたこの列車は大連(だいれん)から新京(しんきょう)を通って哈爾浜(ハルピン)へ向かいます………私たちの乗った「アジア號」は大連を離れると草原と延々と続く高梁(コウリャン)畑の中を走ります車窓から見ると草原と高梁畑は地平線まで続いていますその地平線も客船「みどり丸」で見た水平線のように曲がっていました。時速130キロで走る「アジア號」の車窓からは1時間走っても草原と高梁畑は延々と続いて景色は変わりません…列車は奉天(ほうてん)→四平街(しへいがい)→蒙家屯(もうかとん)→南新京(みなみしんきょう)→新京(しんきょう)へは夕方の6時頃到着する予定でした。超特急「アジア號」に乗って

  • 大連駅から新京特別市へ

    大連港(だいれん)で久しぶりに親父と再会して、家族5人、揃いました。港からどのようにして行動したのか思い出せません。次は大連駅から新しい住まいの新京特別市(しんきょう)へ汽車で向かいます…パシナ形蒸気機関車「あじあ号」(満鉄)乗車する列車はなんとアジア號(蒸気機関車)でした満洲の線路は日本の狭い軌道とちがって広軌ですアジア號は時速130キロで走ります。大連、新京間を8時間30分で走ります………私たちはどの車両に乗ったのか覚えていませんが、列車は6両?編成で大連を出発しました。大連駅から新京特別市へ

  • 客船「みどり丸」は無事大連港へ

    私らの乗船した「みどり丸」は満洲国大連港(だいれんこう)へ入港するところです甲板へ出ていた私と母親は港に迎えに来ているはずの父親を探しました………大勢の迎えの人々のなかに親父を見つけました服装がなんと国民服姿でした親父は、京都に住んでいた時住まいの近くの松竹下加茂撮影所へ出勤するときは、ネクタイ背広姿にピカピカの短靴を履いて出掛けて居ました親父は休みの日は、愛用の短靴を自分で磨いていました。親父は馴染みの靴屋さんに誂えで短靴を作っていました…親父はお洒落な人でした…………非常時、戦時中に政府が制定したカーキ色の国民服姿の親父を見つけた母親は、「あのときはガッカリした…」と、後々まで云っていました。客船「みどり丸」は無事大連港へ

  • 客船「みどり丸」は静かに大海原を

    私の乗った客船「みどり丸」は大海原を航行して夜を迎えました当時、非常時の戦時体制でした。戦争は始まったばかりでつまり、緒戦でしたから、日本近海の制海権、制空権は問題なかったのでしょう。客室へ戻ると母親は「明日朝、大連港に入港する親父が迎えに来てくれる」と久しぶりに再会する親父に微笑んでいました…………私にとって船旅は生まれて初めてでした幸い、天候は晴天で静かな旅が続いていました久しぶりに親父との再会を楽しみに客船「みどり丸」は静かに大海原を

  • 「みどり丸」甲板で

    広大な大海原を航行する客船「みどり丸」の甲板で遠くの水平線が曲がって見える風景?は、私にとって初めての経験でした…ボーッと海を眺めていると私と同じように海を眺めているお兄さん(青年)がいました…フト見ると、お兄さんの耳が潰れています…そのお兄さんは私に気付いて私に近寄ってきて「私はラグビーの選手だった…」その試合中に怪我をした…私はラグビーの試合そのものを知らなかったので、なんとも激しいスボーツもあるもんだと思いました…………今、日本で開催されているラグビーワールドカップで日本チームの活躍を見ていて思い出しました…「みどり丸」甲板で

  • 客船「みどり丸」は大海原へ

    神戸港で近所の人々にテープで見送りを受けたことは私にとって初めての経験でした………客室(船室)で一休みしてから甲板へ出てみました乗船した「みどり丸」は神戸港からどのような航路で進んだのか覚えていません。…見渡す限り大海原で島影は見えません小学生だった私にとって船といえば琵琶湖で島巡りで湖(みずうみ)を回ったぐらいでした…今、乗っている「みどり丸」は隅っことはいえ太平洋を航行しています。甲板から遠くを眺めると、水平線しか見えませんそして、その水平線は直線ではなく少しカーブして見えます地球は丸いんだなあと実感しました客船「みどり丸」は大海原へ

  • 客船「みどり丸」いよいよ出港

    神戸港で私らは客船「みどり丸」へ乗船しました。今から思うと日本の神戸港と満洲大連港は近く感じられますが当時は、船で一泊して翌朝大連港へ着く予定でした…従って、船では一室設けられていました。船室から甲板へ出てみると、京都から一緒にやって来た近所の人々が見送りデッキに見えますやがて、出港の時間が来て、銅鑼が鳴らされます「ジャン…ジャン」と港に響き渡ります…見送りの人々から私らに、数本のテープが投げられました我が母親も港のデッキに向かってテープを投げました…銅鑼の音が止むと、私らの乗った客船「みどり丸」はいつの間にか、静かに港を離れていました。船が港から離れていくにつれてお互いに手に持ったテープがピンと張り詰めます港の近所の人々がテープを離したのでしょうテープは私の手に残って、風に吹かれてヒラヒラなびいていました……...客船「みどり丸」いよいよ出港

  • 満洲へは旅客船「みどり丸」で

    引っ越しで、家財道具の荷造り発送がどれだけ日数がかかったのか何分古いことなので覚えていません…兎に角、家の中はすっかり片付いてしまって、広く感じられました私にとって77年前で9歳の出来事でした京都の住まいは…京都市左京区下鴨下川原町15番地でした。神戸から船で満洲國の大連(だいれん)港へ向かいますいよいよ出発です。朝早く、神戸港へ向かいました。親しくして下ったご近所の人も大勢、神戸港で、見送ってくださいました満洲行きの旅客船はたしか、「みどり丸」でした…満洲へは旅客船「みどり丸」で

  • 母親の伝票への書き込みが大変

    海外(満洲國)への引っ越しは大変でした。船便で送る家財道具の荷造りはオーバーなものでしたがしかし、荷造りは日通の業者さんらがするので別に大変では無かったのですしかし、母親が別の意味で、大変でした…母親は、荷造りする業者さんの傍らで包装されていく家財道具の内容を伝票に書き上げていきます毎日、毎日、一週間ぐらい続きました…肝心の親父といえば、渡満組のスタッフを連れて先に、満洲へ行ってしまっています引っ越しが済んで落ち着いてから母親は親父に「酷い目に遭わされた」と文句を云っていました母親の伝票への書き込みが大変

  • 大袈裟な家具の荷造り

    最近の引っ越しは、専門の業者がいて段ボールの箱を用意して数人の業者さんがやってきて手際よく荷造りをしてくれます…そして、転居先の家の部屋へ並べる家具の配置図を渡しておくと数日後、転居先の部屋へ入って見ると、すでにキチッと家具が並んでいるという…スゴイサービスがあります。今から77年前の昭和17年(私は9歳)の海外(満洲)への引っ越しの荷造りは大変でした…例えば、タンスの荷造りは、まずタンスを藁ムシロで包んで細い板をタンスに合わせて切断して釘止めする大変な作業でした船便で運ぶのですから頑丈な荷造りでした…………等身大の大きな鏡のついた洋風タンスの荷造りでは、厳重な荷造りなのですが大きな鏡のところは、ムシロをかけないで外からみて鏡が、丸見えになっています。私は荷造りをしている業者の兄ちゃんになぜ、鏡を丸見えにして、...大袈裟な家具の荷造り

  • 家の中は引っ越しで大変

    小学生だった私にとって引っ越しは初めてです。しかも、一寸した引っ越しでは無く外国、満洲へです。家の家財道具一式が船便で送られるのですから日通の職人さんによる荷造りも大袈裟で大変です荷造りをしている職人さんの傍らで母親は、一つ一つ伝票に書き込んでいきます日本は、戦時体制の真っ最中ですから船便で送る荷造り品の内容をかなり詳しく書いていました家の中は引っ越しで大変

  • 渡満の準備始まる

    親父はこの戦時体制、非常時のさなか外国つまり、満洲國へ転勤?になることになりました…そして、親父は東京へ打ち合わせなどで度々出掛けて居ました当時、小学生だった私には細かなことはわかりません確か、大東亜戦争勃発の翌年の夏に渡満予定だったはずでした左京区下鴨下川原町××の住まいへ満洲への引っ越しの荷造りに日通?から数人やってきました渡満の準備始まる

  • 満洲映画協会(満映)

    日本の映画界は大きな映画会社のほかにプロダクションや、小さな撮影所などが、あったようです…もっとも、私は小学生でしたから細かなことは知りません第二次世界大戦が始まって日本は非常時で戦時体制になりました映画界の余剰技術者をまとめて親父が代表となって、隣国、満洲の映画会社、満洲映画協会(満映=まんえい)へ行くことになりました。また、満映へ行かなかった技術者の何人かは中国、南方戦線の取材記者?として派遣されました…満洲映画協会(満映)

  • 「日本映画界」が整理される

    二つの戦争が始まって世の中は戦時体制、非常時になりました。そして「鬼畜米英」という雰囲気でした。世の中は、なるべく無駄な出費を無くすのに「贅沢は敵だ!」とか「欲しがりません、勝つまでは!」です。そして初戦では大きな戦果を挙げていてラジオの臨時ニュースでは、軍艦マーチのメロディとともに「大本営発表(だいほんえい)…」で、戦争ニュースの毎日でした私の通学していた下鴨小学校の名称は下鴨国民学校になりました私の周りはまだ、戦争の影響はでなかったのですが、親父の職業に影響が出始めてきました。私の親父も下鴨国民学校の近くの「松竹下加茂撮影所」で仕事をしていたのですが…戦争を切っ掛けに日本の映画界も整理されることになりました…「日本映画界」が整理される

  • 「シナ事変」と「大東亜戦争」

    「シナ事変」という戦争が終わっていないのに新しく「大東亜戦争」が始まってしまいました…2つの戦争を掛け持ちするなんて日本も今から思うとなんとも、無謀なことを始めたものでしたラジオから戦果の臨時ニュースが聞こえてきました勇ましい軍艦マーチの音楽とともにハワイの真珠湾攻撃を…そして、マレー沖海戦でイギリスの戦艦レパルスと巡洋艦プリンス・オブ・ウェールスを撃沈した…のニュースが流れました「シナ事変」と「大東亜戦争」

  • 「大東亜戦争」はじまる

    私は下鴨小学校へ入学して一年が経過しました二年生に進学しました。私は8歳を迎えます昭和16年12月8日朝、私は登校前に…ラジオの臨時ニュースは「我が帝国陸海軍は米国と戦闘状態に入れり…」と叫んでいます。大東亜戦争が始まりました臨時ニュースを一緒に聞いていた母親は「これはえらいことになった…」大慌てで意味も無く居間を歩き回っていました昭和12年からの「シナ事変」に続いて新たに「大東亜戦争」が始まりました…「大東亜戦争」はじまる

  • 「学芸会」の舞台について

    「松竹下加茂撮影所」の映画人の子供が近くの下鴨小学校へ通っている家庭があるはずです…撮影所の大道具や小道具、照明係の父親連が「子供がお世話になっているから…」と何時からか、「学芸会」の舞台を作るようになったのでしょう学校の先生方は、舞台のことは気にせず出演する生徒の演技指導するだけて良かったのです小学校一年生の私に「学芸会」を見るのは初めてですが演目は覚えて居ませんが、素晴らしい舞台(セット)に感動しましたもっとも、他の小学校の「学芸会」は見ていないので、知りませんが?………小学校の先生が、撮影所の大道具のお父さんに「舞台の作り?…」の知恵を借りるために聞いたのかも知れません…相談を受けたお父さんが、仲間の小道具、照明係に呼びかけて、舞台を組むことにしたのでしょうか?…「学芸会」の舞台について

  • 下鴨小学校の「学芸会」

    私が通い始めた下鴨小学校に名物がありました…秋の「学芸会」が豪華だと母親がどこか、から聞いていました私は、この「学芸会」を楽しみにしていました。この秋の「学芸会」は小学校の講堂で開かれるのですが舞台の装置(セット)が素晴らしいのです街の劇場並みの本格的な装置(セット)で、舞台照明も素晴らしいものでした…この素晴らしいセットには理由があります…私の通っていた下鴨小学校の前の道を少し南の方へ行くと、映画制作会社の「松竹下加茂撮影所」(しもがも)がありました従って、撮影所の所員の子供が小学校へ通っている家庭が多かったのです下鴨小学校の「学芸会」

  • 戦時体制

    私が小学生の頃の戦時体制以前から日本は、日露戦争、日清戦争と戦時体制は続いていました戦時体制は大勢の戦士を戦場に派遣しなくてはなりません。戦時体制の日本は、当然、国民皆兵でしたから徴兵制度によって満20歳の男子は兵士になります。戦場に赴く兵士は武器を携えます小銃、機関銃、拳銃はじめ、大砲や航空機、軍艦など兵器の構造はすべて右利きに造られていますその戦場に左利き(ギッチョ)の兵士が右利きの兵器を持たされては命に関わります…私が小学生時代に左利きが問題にされたのは戦時体制、だったからではないでしょうか…………先だって、病院の若くて可愛い看護師さんが、左手でスラスラとカルテに書き込んでいるのを見て平和で長閑な毎日に感謝しています。戦時体制

  • どうして「左利き」が世間でいやがられたのか?

    私は左利き(ギッチョ)ですそれに因んで、左利きの話を記しています…左利き用にカメラはバルナック型ライカが発売されましたが世界でどれほど使われたのでしよう。私は後年、ライカ型35ミリカメラを愛用していましたが、ファインダーを利き目の左眼で覗いてもフィルム巻き上げノブ(レバー)が右頬に迫って一寸、使い勝手の具合が悪かったですが…………私が小学生のころの世間でどうして左利き(ギッチョ)が問題視されたのでしょう?最近、ふと思い出して「合点」がいきました私の小さかった頃、「シナ事変」が始まりそして小学生になってから「大東亜戦争」が勃発しました世の中は戦時体制になりました…どうして「左利き」が世間でいやがられたのか?

  • ギッチョの私は利き目も左眼でした

    左利き(ギッチョ)の私は母親に鋏やペンチなど道具を左手で使うのは良いのですが、文字だけは右手で書きなさいと云われて、私は両手をそれぞれ使い分ける変な習慣がついてしまいました後年、初めてカメラのファインダーを覗いたとき、うっかり左眼で覗いて私は、手だけで無く、眼も左利きだったことに気付かされました…………世の中のカメラはすべて右利きに作られています。銀塩フィルム使用の35ミリカメラのファインダーを左眼で覗くと、フィルム巻き上げレバーが右頬へ近づいて、フィルム巻き上げの度に、カメラを顔から離さなくてはならず速写には一寸、不便でした………35ミリフィルムカメラの名器バルナック型ライカには、左利きカメラマン用にレバーその他、全部左右、逆に配列した左利きライカがありました。ギッチョの私は利き目も左眼でした

  • 美人の看護師さんも左利きだった

    今、小学校で私のギッチョだった話をしていますが…最近、私のかかっている近畿大学附属病院の診察で若くて美人の看護師さんが私のカルテに左手に持ったボールペンですらすら書き続けていました…彼女は私と同じようなギッチョだったのでした私は小学校へ入学したとき字だけは右手で書きなさいと直されたのに…私が育ったころの社会ではギッチョ(左利き)は世間に通らなかったのでしたそれが、今では左利きも別に珍しくなくなりましたどうして?なのでしょう美人の看護師さんも左利きだった

  • 「左利き」ギッチョの私

    私は「下鴨小学校」へ入学して家で予習・復習が始まりました教室で習ったカタカナの文字コイコイシロコイ…をノートに書き込むのですが私は生まれつき「左利き」(ギッチョ)でした。机(卓袱台)のノートに左手で文字を書き始めました………横で見ていた母親は、「他のことは左手でいいけれど字だけは右手で書きなさい!」と云われてそれから、文字だけは右手でそれ以外の金槌、ペンチ、ニッパ、鋏…などは左手と不思議なことになりました。「左利き」ギッチョの私

  • コイ コイ シロコイ

    私は「下鴨尋常小学校」へ無事、入学できました。遊びの毎日?だった幼稚園から卒園していよいよ、勉強開始です授業は算数、国語などです…………国語は、先ずカタカナから始まりました…サイタサイタサクラガサイタ………コイコイシロコイ………など、何となく覚えています…戦後の小学校の国語は(私の息子らは)ひらがなの文字から始まるのでした隔世の感です。コイコイシロコイ

  • 「下鴨小学校」へ入学

    私が「マクリン幼稚園」へ通っていたころは私はまだ、一人っ子でしたから両親ものんびり暮らしていたのでしたやがて、弟の誕生でわが家も世間並み?になってきましたそして、私は幼稚園を卒園して小学校へ進学することになります私が通うことになる「下鴨小学校」は幼稚園と反対方向になりますが幼稚園より少し近い処にありました「下鴨小学校」へ入学

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