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ブログタイトル
初心者の老人です
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/keidate1
ブログ紹介文
75才になって初めてVISTAを始めました。80才でW8、1も始まりました。
更新頻度(1年)

181回 / 365日(平均3.5回/週)

ブログ村参加:2016/04/04

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初心者の老人ですさん
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初心者の老人です
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初心者の老人です

初心者の老人ですさんの新着記事

1件〜30件

  • 私の写真人生スタート?

    親父にオリンパス35Ⅳ型を買って貰ったのと学校の写真クラブへの入部で、私の写真人生?がスタートしました。………カメラで使う35㍉ネガフィルムは親父が撮影所から貰ってくる映画用ネガフィルムの切れっ端を私はダークバックで、パトローネに詰めて使うことになりました。………そして、撮影後のネガフィルムを私はどのように現像していたのかどうも、記憶が曖昧で思い出せません…………ノーベルトの現像タンクを使っていたのか現像液、定着液をどうしていたのか?当時、フィルム現像液はDー76(ディナナジュウロク)と酸性硬膜定着だったことは覚えています。私の写真人生スタート?

  • 私の新しいカメラ

    ある日、わが家に来客がありました。その日は、何故か親父と私が家にいました。お客さんは、座敷で親父に「先生、お久しぶりです」と挨拶されて、小さな箱を出しました?その小箱にはカメラが入っていました…カメラはオリンパス35Ⅳ型でした。親父が私にこっそりと買ってくれたのでした。当時、オリンパス光学は高千穂光学?(たかちほ)という社名でした。オリンパス35Ⅳ型は35㍉フィルムで24×36のライカ判でレンズは、ズイコー40㍉、F3、5(テッサー型)、コパルシャッターでした。フィルムは自動巻止めでシャッターを切るとフィルムの巻き上げができました。シャッターは毎回セットする形式でした。私のためにカメラを届けてくれたお客さんはカメラチェーン店ムツミ堂の社長でした親父とこの社長はどういう知り合いだったのでしょう?私の新しいカメラ

  • 家庭用電化製品の登場

    私らが銀閣寺道へ引っ越してきたころから世の中が少しずつ変わってきました…………電化製品がボチボチ現れたころでした…先ず、親父がフルーツでジュースを作る、ジュースミキサー?を買ってきました次に、トーストを焼くトースターが、来ました。食パンを入れると、チーンと音が鳴ってこんがりと焼き上がったトーストが飛び出してくる器具でした。そして、いよいよ電気洗濯機が現れました家庭の女性を重労働から解放するが謳い文句でした。洗濯機には粉石鹸が使用されます。洗濯用合成洗剤「ワンダフル」が登場します。わが家の風呂場に洗濯機と洗剤「ワンダフル」が備えられました家庭用電化製品の登場

  • 部活、写真クラブ

    部活の写真クラブが出来たのは確か私が高校1年生のころだったと、記憶しています…E上君のローライフレックスは名機でしたが…写真機屋の息子、N納君が店から色んなカメラを持ち出してくるのもスゴかったです。写真機屋の息子、N納君は小西六(現コニカ)のパールRSスプリングカメラを愛用するようになっていました。………N納君の愛用のパールRSはブロニーフィルム半裁のセミ判でレンジファインダー(距離計)のカメラでした…さて、私ですが写真を撮るのは好きでしたがクラブ活動をするほどの熱心ではありませんでした。私はとりあえず、浜松で使っていたコダックベス単で参加しました。部活、写真クラブ

  • カメラ・ローライオートマット

    浜松の学校から京都の学校へ転校してきてから私はクラスに馴染んで親しい友人も何人かできました。………友人の1人、E上君がある日学校のクラブ活動で写真部を作ろうと、云ってきました。先生の了解を得て、クラブは出来ました。………新しく発足した写真部のメンバーに四条寺町の写真店の息子、N納君がいました。………写真部を作ろうと云っていたE上君は四条木屋町の料理屋の息子で親父の愛用のカメラ、ローライフレックスオートマット(二眼レフ)を持ってきましたし、写真屋の息子のN納君は店の売り物のカメラを、次々に持ち出してきました。カメラ・ローライオートマット

  • 豪華な散歩道

    下鴨神社近くの左京区泉川町の家から同じ区内の浄土寺西田町へ引っ越して来ました…私には全く新しいところで珍しいので近所を歩き回りました。新しい住居が京都観光?に便利な場所だと判ってきました。ある日まず、近くの銀閣寺を拝観して、哲学の道を歩いて法然院(ほうねんいん)の境内をを眺めます。つぎに紅葉、桜の真如堂(しんにょどう)を訪ねて、これも紅葉の名所永観堂(えいかんどう)、に到着します。しばらく歩くと南禅寺境内に出られました。気軽に、豪華な散歩ができることが判ってきました。豪華な散歩道

  • 氷式冷蔵庫?

    新しい西田町の住まいにまず、電話がやって来ました。そして、冷蔵庫が来ました。当時の冷蔵庫はまだ、電気式ではなく、氷式でした。冷蔵庫には二つドアがあって上の少し小さなドアには氷が入っていました。………当時、市内のあちこちに氷屋さんがありました。氷屋さんには魚屋さんなどへ届けるのか、大きな四角い氷のほかに家庭用の氷式冷蔵庫用の小さな氷も扱っていて、毎朝決まった時間に配達してくれていました。初めて、住み始めた銀閣寺道駅の近くに、銀閣寺(鹿苑寺=ろくおんじ)がありました。入園料が要りましたが何度か拝観に行きました。近くに、哲学の道があります。この「哲学の道」は、哲学者の西田幾多郎が散策して、思案を巡らしたことから、名付けられた小径でした。私らが引っ越してきた当時はまだ、人影も少なく静かで「哲学の道」に相応しいところでし...氷式冷蔵庫?

  • 家に電話がついた

    私ら家族は、満州から引き揚げてきて、浜松→京都泉川町×番地へ帰ってきました。そして次に、市電、銀閣寺道停留場近くの左京区浄土寺西田町××番地へ引っ越してきました。………下鴨神社近くからこんど、銀閣寺道近くへ引っ越してきた理由は?親父の仕事が松竹下加茂撮影所から太秦(うずまさ)の大映京都撮影所へ変わりました。そこで親父は、心機一転…転居する気持になったのでしょう。………親父の新しい職場、太秦(うずまさ)は新しく引っ越した銀閣寺道からはかなり離れています。親父の仕事のスケジュールや連絡用に家に電話を置くことになりました。当時、まだ電話の無い家が多い時代でした。………まもなく、ダイヤル式の黒い電話が居間につきました…電話番号は075ー??ー0027だったはずです。家に電話がついた

  • わが家は銀閣寺道へ転居

    満州か引き揚げてまず、親父の故郷、浜松へ落ち着きました。親父は東京、京都と仕事を探していました。幸い、満州へ行く前まで勤めていた松竹下加茂撮影所の仕事があって、何本か続いたので私ら家族は、浜松から京都の下鴨神社の東側、泉川町へ帰ってきました。………しばらくすると、親父の仕事は松竹下加茂撮影所から、太秦(うずまさ)の大映撮影所での仕事が多くなってきました。親父と母親は、あちこち家を探していました………新しい住所が決まりましたなんと、京都市電、今出川線の東端閣寺道駅の近くでした………家の二階にある物干し場から大文字の送り火の如意ヶ嶽(にょいがたけ)が、大きく見えます。それに、銀閣寺が近くでした。わが家は銀閣寺道へ転居

  • 可燃性のフィルム

    松竹下加茂撮影所の大火災でフィルム倉庫の歴史的な作品のフィルムを焼失してしまいました。当時、映画フィルムはニトロセルローズ(セルロイド)で作られていました映画用フィルムに限らず、写真用のブロニー、ベスト判、およびシートフィルムなどもニトロセルローズで作られていました………私は一度、映画フィルムの切れっ端を庭で燃やしたことがありました。マッチの火をフィルムの端っこにつけるとサーッと火ががフィルムに走って蛇のように飛び上がってゴーッと燃えました。私はあまりの凄さにビックリしました。………松竹下加茂撮影所の大火災を切っ掛けに、映画フィルム、写真用フィルムの不燃性を考えることになりました。………この危険なセルロイド製品はフィルム以外にもよく使われていましたまず、セルロイド製のキューピー人形をはじめ、学童の筆箱から三角定...可燃性のフィルム

  • 松竹下加茂撮影所

    電車通学していた私の乗った市電(京都)が加茂川と高野川との合流点の鴨大橋を渡っていました。私は市電の窓から北の方を眺めていました。………黒煙がもくもく、上がっています。かなり大きな火事です。時々、大きな缶が細い煙をあげながら空へ飛び上がって、ドカンと爆発していました。こんな大きな火事はどこだろうと思いながらも私の乗った市電は鴨大橋を渡って行きました。………後でわかったのですが火事は松竹下加茂撮影所でした。下加茂撮影所は、親父が長年勤めた会社でした。満州か引き揚げてきた親父は、この撮影所で何本か仕事をしていました。………親父は、この下加茂撮影所で数本の仕事の後、京都の太秦(うずまさ)の大映撮影所での仕事がメーンになっていました。………この松竹下加茂撮影所の出火原因は知りませんが、歴史的な名作映画のフィルムの大半が...松竹下加茂撮影所

  • 映画「最後に笑う男」

    私が記念切手を購入した七条郵便局(京都)の近くに丸物百貨店(まるぶつ)ビルがありました。………当時、百貨店の屋上には子供の遊園地として遊び道具が並んでいました。………母親に連れられてきた子供は百貨店の屋上で遊んで、そして百貨店の大食堂での食事が豪華な一時?でした。………丸物百貨店には屋上の遊園地?、大食堂、そして丸物映画劇場がありました。私はある日、この丸物映画館で「最後に笑う男」(大映)題名の映画を見ました。京都の大映撮影所で現代劇を撮っていたのでした。………ストーリーはサーカス団の話で、出演者は滝沢修(たきざわおさむ)、二本柳寛(にほんやなぎかん)杉狂児(すぎきょうじ)加東大介(かとうだいすけ)そしてOSK(大阪松竹少女歌劇団)出身で新人の京マチ子さんでした。………ラスト近くのシーンで京マチ子さんがタイツ姿...映画「最後に笑う男」

  • 思い出の京都七条郵便局

    京都七条錠郵便局で何となく手に入れた縦長の記念切手「見返り美人」と「月に雁」が切っ掛けとなって切手に興味が沸いてきました………時々、近所の郵便局を覗いて、切手を買うようになりました。切手趣味の週間の切手も発売されていましたが色んな記念行事に因んで××記念切手として発売されました。………私の中学生時代の世間はまだ、切手収集のブームではなく珍しい記念切手を貼付した手紙などが交わされていたようでした。………何時からか、記念切手の発売日の郵便局に行列が出来るようにとなってきました。切手収集家?は、その記念切手をシートでごそっと購入されるようになって、私らアマチュア切手好者には買いにくい時代になってきました…。京都七条郵便局(京都中央郵便局に改称?)は、何時からか移転されて、郵便局の跡地は京都タワーホテルになりました?思い出の京都七条郵便局

  • 切手趣味の週間

    私の電車通学していた中学校は京都の七条大宮にありました。授業が早く済んだときは七条通りを歩いて、京都駅前をブラブラ歩いてから…市電に乗って帰ることがありました。………京都駅前には私が小さかった頃母親が良く連れて行ってくれた丸物百貨店もあります…その近くに七条郵便局がありました。………私は初めて七条郵便局に入りました切手売り場の横に珍しい切手が並んでいました。切手趣味の週間とありました。私は、添付写真の縦長の切手2枚を買いました。後でわかったのですが菱川師宣「見返り美人」と歌川広重「月に雁」の2枚です後に高額になるこの珍しい切手が郵便局の窓口で普通に売っていました切手趣味の週間

  • 京都市営電車と市営バス

    当時、京都市内には路面電車のほかに市営バスも走っていました…路面電車は線路の上を走ります。線路の先を見ると、行き先がなんとなく判るように感じます。………一方、市営バスは道路を走りますからどこで曲がって、どう進むか判りません私は、市電に乗る方がなんとなく安心でした。………路面電車(市電)は線路を走りますが、市営バスは道路を走ります。当たり前ですがその道路が舗装されていないところがありました。その地道を走るバスは砂埃を上げて走っていました。………市電も、市バスも運転手と車掌さんの2人で走っていました。市バスの車掌さんは女性でバスガールと呼ばれていました。………そうそう、市バスはガソリン車?だけでなく代燃車という、バスの後に木炭を燃やす装置が付いていて、その木炭ガスで走るバスもありました。その代燃車が坂道で止まると、...京都市営電車と市営バス

  • 電車通学で寄り道

    京都へ帰ってきた私の学生生活は河原町今出川から市電に乗る電車通学で始まりました…………朝、登校時の市電はよく混んでいましたが、私には不愉快な思い出がありません。………私もだんだん電車通学に馴れてきました。授業が終わっていつもの市電乗り場で帰りの電車を待っていると、色んな行く先の電車がやって来ます…………何となく行く先の違う表示の電車を見ているうちにその電車はどんなところへ行くのだろうと好奇心が沸いてきました…………市電は路面のレールの通り走っていきますから、行く先がなんとなく想像出来ます。授業が早く終わった帰りに知らない行く先の市電に思い切って乗って見ました。電車通学で寄り道

  • 私の「電車通学」始まる

    私は京都で、電車通学するようになりました。河原町今出川駅から先ず河原町四条駅まで乗ります。そこで電車を乗り換えます。河原町四条駅から四条大宮で曲がって七条大宮駅まで行くと中学校へ着きました。………私の電車通学は、京都一?の繁華街の条通を通って行きます。この四条通の夏に祇園祭の鉾が通るところです…………京都は、戦災に遭っていないので昔ながらの雰囲気があちこちに残っていましたが…四条烏丸の交差点に新しいところができました…進駐軍のビルがありました。のビルを取り囲むように駐車場があつて、私には目新しいアメリカ製乗用車が色とりどりにならんでいました。キャデラック、ビュイックポンティアック、シボレーハドソン、ナッシュ、オールズモビル、フォードリンカーン、マーキュリークライスラー、ダッジジープ、プリムススチュードベーカーな...私の「電車通学」始まる

  • 電車通学始まる

    私は浜松の中学校から京都の中学校へ転入?編入しました。私の学歴は小学校三年生で満州の国民学校(小学校)へ変わったのを切っ掛けに敗戦で引き揚げてから浜松の中学校へ入学?して、そして今度は京都の中学校へ転校してきました。………今度の京都の中学校は京都市の南の方にありましたから、京都市電で通うことになりました。…私は初めて電車通学になったので通学定期券を使って学校へ通うことになりました。………当時は、日本の各都市では市内電車が通っていました。京都の街並みは碁盤のようになっています。その碁盤のような街並みに路面電車線路が走っています電車はその線路通り走りますから、乗り合わせた電車の線路を眺めていると、どこから、どこへ行くのか想像できました。………私は毎朝、下鴨神社の境内を通って河原町今出川駅に行きます。そこで電車に乗っ...電車通学始まる

  • 糺の森を通って

    満州から引き揚げてきて親父の故郷、浜松市の復興住宅に落ち着いたのですがこの復興住宅には風呂がありません。浜松では、すこし山の手の鴨居(かもい)に銭湯がありました。家族でよく通いました。この浜松から京都へしかも、下鴨神社のそばへ帰ってきました。京都の住まいにも風呂は無かったので、家族でまた、銭湯へ通いました。京都での銭湯は、松竹下加茂撮影所の隣にありました。この銭湯と住まいとの間に下鴨神社があります。夕食が済むと、家族揃って風呂桶を持って下鴨神社の境内の「糺の森(ただすのもり)」の泉川に架かる大きな一枚岩の橋を渡って行きました。夜の神社の境内は、常夜灯も少なく、暗い道でした暗い夜道も、家族と一緒でしたから、別に恐いとも思いませんでした。糺の森を通って

  • 下鴨神社の近くへ帰ってきました

    京都へ帰ってきての住まいは泉川町×でした。住まいの近くに広大な下鴨神社の境内でした。………私が生まれたところはこの下鴨神社の西側下川原町××でした。満州へ行くときは下鴨神社の西側から出発して、引き揚げて京都へ帰ってきたときは、下鴨神社の東側へ帰ってきたことになります。………同じようなところへ帰ってきたわけは、親父の仕事に関係があります。満州へ行く前は松竹京都下加茂撮影所が仕事場でした。引き揚げてきて親父の仕事はまた、下加茂撮影所の仕事が多かったからです。下鴨神社の近くへ帰ってきました

  • バス停「一本松」

    私が小さかった頃、母親に連れられて市場へ買い物に行くことがよくありました。………買い物の道の途中に大きな松の木が一本ありました。そこのバス停の名前が「一本松」………買い物の道をもう少し行くと今度は松の木が二本並んでいて、今度は「二本松」というバス停がありました。………京都へ帰ってきて、住んでいたところをこうして歩いてみると、「一本松」も「二本松」も存在していました…………私が満州へ行って世の中はいろいろ変わったのに、こうして京都へ帰ってみると、京都では、時間が止まっていたように感じられました。………ただ一つ、近所で変わったことがありました。父母に連れられてよく遊びに出掛けていた「植物園」が無くなっていたことでした広大な植物園をつぶして進駐軍の住宅群にされていたのでしたバス停「一本松」

  • タイムトラベル?

    私は下鴨神社の西側の左京区下鴨下河原町××へ行ってみました…つまり、私の生まれた町です………私の生まれた家(借家でした)はちゃんと残っていました…その家の隣は理髪店、そして、小さな郵便局、E上呉服店、小児科医院など私の思い出の町は昔?のままです………私は満州に渡って、戦争に敗れて日本引き揚げてきて、日本のあちこちの都市は戦災で焼け野原から復興しつつある凄まじい風景を見てきたのに…………私の目の前に広がる、京都市左京区下川原町の町並みは満州へ行く前のままなのですここでは時間が止まったままでした。私の小さい頃からの遊び場下鴨神社境内も昔のままです。糺の森(ただすのもり)も大木群に囲まれて長い参道も静かに続いていました…タイムトラベル?

  • 京都へ帰ってきました

    久しぶりに京都へ帰ってきました。まず、京都駅に着きました。私たちが満州へ行くときに通った京都駅がそのまま残っていました。………京都駅も駅前の丸物百貨店のビルもそのまま残っていました?…つまり、駅前の景色は何も変わっていなかったのでした。親父と私たちは、路面電車(市電)で新しい京都の住所に向かいました。………新しい住まいは下鴨神社のそばです満州へ行くまで住んでいたところは下鴨神社の西側の下川原町××でしたがこんどは、下鴨神社の東側の泉川町×になっていました。………満州へ行く前に住んでいた下川原町は私が生まれたところであり、マクリン幼稚園に始まって、下鴨小学校へ3年生までお世話になった、思い出のところでした。…浜松から京都へ帰ってきて、これから住むところか、下川原町の近くの泉川町に住むようになるとは、下鴨神社に縁が...京都へ帰ってきました

  • 「京都へ帰ろうか?」と親父が

    親父が京都で仕事を終えて久しぶりに、浜松へ帰ってきました。親父の京都での仕事が順調に進んで将来のめどがたったようでした…………ある日、夕食の時間に、親父は「京都へ帰ろうか!」と言い出しました…………私は小学校、3年生の夏から京都を離れて、満州で敗戦を迎えて、親父の故郷、満州へ引き揚げてきて、4年余になりました。………戦後の京都はどうなっているか?よく遊んだ、下鴨神社の境内など思い浮かべていました…「京都へ帰ろうか?」と親父が

  • 「京都へ帰ろうか」と親父が

    親父が京都で仕事を終えて久しぶりに、浜松へ帰ってきました。親父の京都での仕事が順調に進んで将来のめどがたったようでした…………ある日、夕食の時間に、親父は「京都へ帰ろうか!」と言い出しました…………私は小学校、3年生の夏から京都を離れて、満州で敗戦を迎えて、親父の故郷、満州へ引き揚げてきて、4年余になりました。………戦後の京都はどうなっているか?よく遊んだ、下鴨神社の境内など思い浮かべていました…「京都へ帰ろうか」と親父が

  • お土産のカメラ、中古ベス単

    親父からお土産の中古のコダックベス単カメラは改造されていました。コダックのベス単は戦前のカメラでは世界的にヒットしたカメラでした。使用フィルムはベスト判、8枚撮りでブロニーフィルムより少し小さいサイズのフィルムです。当時日本ではこのフィルムを使ったカメラが主流でした。………私の貰ったベス単はこのベスト判フィルム使用を35㍉フィルム用に器用な知人にでもたのんだのでしょうか?改造されていました。親父が仕事場から貰ってきた映画用35㍉のネガフィルムを夜、布団の中で適当に、切断して、小さなパトローネに詰めてカメラに装填して使うようになりました。………撮影したフィルムの現像をどうしていたか、サッパリ覚えていません。フィルム現像薬は、浜松市内の模型店で、小さなガラスチューブに入った赤い色のラベルのMQ現像と青い色ラベルのガ...お土産のカメラ、中古ベス単

  • 親父は単身赴任で?

    親父の仕事は順調に進んでいました。東京の東横撮影所をはじめ京都の松竹下加茂撮影所の仕事も順調でした…………時代劇スターの長谷川一夫主宰する新演技座の仕事もありました…………映画制作の仕事は一本映画が出来上がるまで約一月かかります。親父は仕事の度に1人で京都へ掛けていました…………親父1人で京都へ出掛けるのは今で云えば、単身赴任ということになりますか?………一月ぶりにわが家に帰ってきた親父は私に中古カメラ…ベストコダックをお土産にくれました。このお土産のカメラ「ベス単(べすたん)」は改造されていました…。親父は単身赴任で?

  • 連立方程式と因数分解

    私は満州で敗戦を迎えた8月に通っていた春光国民学校が無くなりました校舎は無くなったわけではなく、学校の先生が居なくなってしまいました。それから、約1年がたちました。………小学校6年生の夏から中学1年生の夏までの1年間、ブランクのある私を受け入れてくれた浜松の中学校の担任の先生はさぞ、大変だったと思います…………約1年間のブランクのある私は授業が判らないということもなくのんびりと通学していました。………私と同じように外地から引き揚げてきた小学生、中学生は全国に大勢居たはずです…………私が一寸躓いた課目がありました。数学の因数分解と連立方程式でした。連立方程式と因数分解

  • 松竹下加茂撮影所

    映画制作が始まると親父は京都へ出掛けるようになりました…………親父は戦前、松竹下加茂撮影所が職場でした…親父は我々家族を連れて満州へ行く前、仕事をしたのが…「元禄忠臣蔵・前後編」溝口健二監督、松竹下加茂撮影所・制作でした。………満州から引き揚げてきた親父は、京都下鴨の松竹下加茂撮影所で「夜の女たち」田中絹代主演溝口健二監督と次に同じ田中絹代主演、溝口健二監督の「わが恋は燃えぬ」の二作品と松竹下加茂撮影所の仕事が増えてきました。松竹下加茂撮影所

  • 親父は現代劇でスタート

    「映画人」の親父は、戦時中の4年ほどの空白を取り戻すため東京へ京都へ、仕事を探しに出掛けていました…………中学生の私には当然映画界のことはよく知りません。ノンビリとしていました。………東横映画第1回作品「こころ月のごとく」稲垣浩監督配役、轟夕起子(とどろきゆきこ)上原謙(うえはらけん)。「縁は異なもの」石田民三監督横山エンタツ、花菱アチャコ。「夜の女たち」溝口健二監督女優、田中絹代(たなかきぬよ)の汚れ役で戦後の大阪を描いた社会派作品。「明日は日本晴れ」清水宏監督配役、水島道太郎(みずしまどうたろう)など…………時代劇が主だった親父は当時、時代劇が作れなかったので、まず、現代劇からスタートしました。親父は現代劇でスタート

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