昭和二年十月〔於京都〕東十両筆頭幡瀬川〔後関脇、楯山理事〕の星取表。●汐ヶ濵(十両3)=後幕内〇源氏山(〃2)〇泉洋(前七)〇綾錦(同十一)〇新海(同十四)=後関脇〇白岩(同九)●鏡岩(十両9)=後大関〇池田川(前十五)〇外ヶ濵(同十二)〇劔岳(十両5)=元幕内〇常陸嶽(前十)対幕内戦は7番も数える。“貧乏神”で優勝…
江戸勧進相撲以来の相撲史を中心に関聯事項 に対する私見・愚考を発表しています。
去る十月、訪問者数が延べ30万人を 突破いたしました。
拙作『相撲史発掘』の「創刊35周年記念号」(No.105)は鋭意執筆・編集中であるが、ここで過去の“記念号”を振り返ってみたい。〇創刊十周年記念号=第30号(平成11年2月)●明治の教科書に登場する横綱谷風?〇創刊50号記念号(平成17年10月)●ワシ〔若乃花〕とオレ〔裕次郎〕とボク〔長嶋〕『平凡』昭和34年3月号「世紀の初顔…」より鼎談。〇創刊20周年記念号=第60号(平成21年2月号)●全勝力士が消えた星<昭和戦前篇>〇創刊25周年記念号=第75号(平成26年2月)●大関小柳ら明治の教科書に登場〇創刊30周年記念号=第90号(平成31年2月)●讀物・大日本相撲協會『文藝春秋』昭和32年6月号より〇創刊100号記念号(令和4年6月)●日本國技の洋風化について『萩原朔太郎全集⑤』より聊か気が早いが、「創刊...拙作記念号を振り返って…
※昨日の閲覧…960・訪問者…470トータル訪問者数1,081,603現代日本では嘗ての如く、角界に限らず、所謂「毒舌評論家」なる人物がいなくなってしまった。日曜朝の人気番組『時事放談』に出演していた小汀利得・細川隆元・藤原弘達ら諸氏の“再来”を願っているんだが……。その番組には全然登場せず、辛口評論家に大宅壮一がいる。彼が造語の流行語に忘れぬ言葉━「一億総白痴化」であるが、これは一部のTV“低俗番組”の視聴率が高い現象を批判したものと勝手に解釈している。そして、低俗番組の代表的なものが、民放に非ず、「公共放送」たるNHKの大晦日夜に恒例になっている『紅白歌合戦』だと厳しく指摘する識者も少なからず存在するのだ。古雑誌『大相撲』でいつだったか元N銀行員M氏が、紅白…の「審査員」に選ばれた人気力士の一覧が載っ...『紅白』視る人、白痴か・ミーハーか?!
日本相撲協会機関誌と銘打つ『相撲』新年号“附録”の暦上部の非3枚続き錦絵━「磐石力勝」が描かれた“時期”を吟味してみた。彼、磐石は幕末最後の江戸本場所である慶應四年夏の入幕、明治八年十月の京都…合併相撲興行中に「脳卒中」のため現役急逝してしまった。享年数え42歳。最高位が明治五年春の、三役最短距離の前頭筆頭なので、その頃の作品ではないか━と勝手に推察したい。尚、彼の歿した直後「廃刀令」が施行されている。磐石の錦絵、明治五年頃制作?
明治二八年夏〔六月〕場所、西十両二枚目の雷山亀吉星取表が頗る面白い。●西ノ海(横綱)〇鉞り(前十三)●鉄ヶ嶽(十両7格)〇知惠ノ矢(幕下1)〇岩木野(十両1)〇唐辛(〃)△髙浪(前十)●若嶋(十両3)●小松山(前六)〇友響(幕下2)初日の西ノ海━雷山が横綱に挑戦した十両力士、最後の記録であります。対横綱戦を含み4人の幕内力士と取組みながら、2人の幕下とも対戦している。128年前、横綱対十両最後の記録
※昨日の閲覧…378・訪問者…264トータル訪問者数1,081,13372年前の昭和二六年…、出羽海秀光理事長(元横綱常ノ花寛市)時代の番附編成における“不公平”はひどかった。端的な例は、幕尻2枚めの二所ノ関部屋所属力士が7勝8敗で十両へ陥落、十両六枚目で10勝5敗〔対幕内戦なし〕の出羽海直系弟子を無理矢理入幕させている。今度の新「番附」も鳥渡ばかり可笑しい。先ず、十両どん尻の千代栄が7勝8敗で負越しなのに、なんで幕下へ陥落させないのか。幕下六枚目で6勝1敗の嘉陽が「大頭」(おおがしら=幕下筆頭)に止められた。到底納得できるものじゃぁなかろう。合点いかぬ十両据置きの…
※大相撲協会機関誌『相撲』第73巻・第1号─通算957号を午前10時開店の老舗書店へ購入しに繫華街まで…てな次第で遅くなりました。200人台まで落込んでいた力士総数が300名に恢復したのは、昭和二七年春場所で317名を数えている。更に、翌二八年夏の番附登載は414名に達して、大関栃錦が「連続優勝」を果した昭和二九年秋場所は遂に513力士─双葉山時代を髣髴させる━大相撲人気恢復が顕著になった。「栃・若時代」の夜明け513力士
昭和二十年八月十五日、大日本帝國は崩潰した━「終戦記念日」と称しているが真実は「敗戦…日」であり、恰も北朝鮮が「朝鮮戦争に勝利」したと云っている如く、歴史を歪曲してるのと違うの?角界では、戦後初の本場所である昭和二十年秋〔十一月〕場所および“翌場所”の同二十一年秋〔仝〕場所の番附登載力士数は、僅か216名であり、両場所とも序ノ口力士皆無━即ち、「新弟子」零と云って差支えあるまい。そして当時の大相撲界は、「将来を悲観」して土俵から訣別する力士が少なくなかった━力士総数激減の要因と思える。焼野原の日本力士216名
※昨日までのトータル訪問者数1,080,869昭和十四年春と云えば無敵双葉山の連勝が69で止った本場所だが、東前頭二枚目の九州山(義雄)が場所前「招集令状」が…。一応「全休」あつかい━その後、番附欄外に張出されて不出場。しかし、同十六年夏の番附から招集=即ち、兵隊に駆り出された力士の名を番附面から削除している。これは、防諜上の見地から…との理由だ。平たく表現すれば、「スパイの防止」のため─現代日本では「スパイ防止法」に類する法律は全然皆無なんだ。それにしてもいつになったら「憲法改正」して「自衛隊」を名・実ともに“合法的”存在に位置づけることが可能になるのか。閑話休題。出征力士を番附からカットしたのも一因で、昭和二十年夏〔六月〕場所番附登載力士数は304名だった。終戦直前、力士数300名余
新番附で力士総数が600人を割込んだのを機会に、話題を拾ってみたい。大阪大角力協會を事実上“吸収”した昭和劈頭の二年春場所の力士数は405名であった。翌三年から何故かしら400人を切っており、問題化した昭和七年春の番附人員は346名で、脱退者が抜けた改編版で279人に激減してしまった。尚、脱退力士何%か復帰した同八年春は「別席番附」を含んでも計265名にしかならず…。力士数が“恢復”して400台に戻ったのは、双葉山が躍進した昭和十三年夏場所だった。そして昭和戦前の最多力士数は、十七年春の687名であった━。双葉山時代、687力士が最多記録
横綱勝率5割の武藏山。彼の後援者とされるのが清水行之助━手許の『新潮日本人名辞典』(平成三年刊)の解説。明治二八─昭和五六・六・二五大正・昭和期の行動右翼。福岡県生れ。上海で北一輝を知りその門下となる。大正八年北と共に帰国し猶存社、行地社に参加。〔中略〕昭和六年の三月事件に大川周明と共に活動する。のち満州に渡り、戦後は日中貿易などに携わる。どうも「人物像」がすっきり伝わってこない。「日・中貿易」に関係するのは右翼じゃぁなく、左翼だと愚考する。尚、某HPに拠れば、生年月日は明治二十八年一月二十四日となっている。武藏山の後援者、清水の人物像
※昨日までのトータル訪問者数1,080,650何度もおんなじことを繰返したくないけれど、致し方ない。「少数派」かも知れないが、「天邪鬼」の私見・愚考は、先ず彦山光三発言(最後の「総評座談会」)を抜萃せずにはいられない。〔前略〕鳥渡優勝・準優勝で成績がいいから…と云って横綱にでっちあげてしまってあとでもって不成績をつづけると、「俺は知らねぇ…」と、知らん顔している相撲協会・横綱審議委員会がいけないと思うのだ。〔後略〕いつ頃から大関が優勝すると、すぐさま「綱獲りだ!」とさわぐようになったのか、昭和末期以降か…。昭和三四年九州場所、新大関若羽黒が13勝2敗で初優勝したときも・同三八年名古屋場所で大関北葉山が初優勝したときは、「横綱問題」殆んど採りあげられていない。前者のとき栃・若ら3横綱が存在、後者の場合も柏・...連覇即席横綱推薦絶対反対!
鳥渡ばかり異変なのか・通常通りなのか。新「番附」発表が十二月二五日(月曜)なので初場所初日は、新年正月の七日から…と思ったら十四日の第2日曜日開幕━番附発表から半箇月以上の20日も“間隔”があり、「初日は忘れた頃にやってくる」みたいじゃぁないの……?春秋園事件勃発の昭和初期なんか、春場所〔当時の呼称〕の新番附は、新年が明けた五日頃だったらしい。年末クリスマス発表なんて想定外であったに違いない。一層のこと、番附編成会議の翌日全部を発表する方が“すっきり”する気がしなくもない。現行のメリットは『相撲』誌新年号が年内に発売可能なことではあるが……。「初日」は忘れた頃に…❔
また御心配おかけしました。わけを記述しておきます。23日(土曜)朝、PCは正常に作動。ところが昼過ぎにインターネットに接続できず…、…NTTから「モデム」が故障なので新品を送る云々。24日(日曜)~25日(月曜)一応、PCを起動してみたが、埒があかない━どうしようもない。『相撲史発掘』の追込みに専念。26日(火曜)昼前に「モデム」届く。午後、これで復旧と思いきや、そうはいかない。結局、赤字表示で、「リモートコンピュータへの接続を確立できなかったので、この接続に使われたポートは閉じています。」━なんのことやら…さっぱりわからず、専門家を拙宅へ呼ぶことにした。今夜、プロの専門家が5~8分ほどで接続。以上、お粗末な素人対応でした。4日ぶり復旧…!
大正十一年春場所、西幕下三枚目桐ノ花〔最長寿の十両力士〕の星。〇岩戸泻(幕下13)や〇一ノ濵(幕下6)=後幕内や〇雷ヶ梅(十両)や〇常陸岩(幕下14)=後大関や〇千葉ノ音(十両)や5戦全勝優勝〔表彰されたのかは保証しかねる。〕で翌場所の関取を確定させた。長寿力士桐ノ花、幕下V
※昨日の閲覧…329・訪問者…256トータル訪問者数1,079,177大正十二年春場所、西十両十五枚目若太刀〔後幕内=昭和の土俵に不登場〕や〇眞砂岩(幕下2)〇芦田川(十両13)●千葉ノ濵(〃5)●出羽ヶ嶽(〃7)=後関脇●槍ヶ嶽(〃3)〇御西山(〃8)=元幕内〇五葉山(〃3)〇多良嶽(〃10)〇小金山(〃11)幕下もほぼ連日出場なのに、十両どん尻にも拘らず幕下戦が1番だけ。当時の取組編成も“工夫”が足りなかった?〔尚、調査に際し、『野球界相撲號』にも誤謬がすくなくないみたい。〕この若太刀は角界を去って…映画出演も経験したそうな。往時「取組編成」の一斑
昭和二年夏場所、東幕下十一枚目大矢﨑〔前・後十両力士〕の星。〇緑里(幕下11)や〇洋ノ花(幕下10)=後幕内伊勢ノ濵や〇都賀錦(幕下16)や〇若瀬川(幕下8)=後幕内〔昭和九年引退〕や〇羽後響(幕下6)=後十両〔番附制裁うける〕や●幡瀬川(十両8)=後関脇〔楯山邦七郎理事〕当場所の十両優勝は、幡瀬川で6戦全勝。十両優勝者に敗れ幕下V逸す
※昨日の閲覧…564・訪問者…364トータル訪問者数1,078,921拙作&私家版『相撲史発掘』第105(創刊35周年記念)号の進捗状況の報告。1~4頁・8~11頁〇特別読切り★八百長華やかなりし頃●『文藝春秋』昭和34/10元武藏山筆5~7ページ〇江戸大相撲熱戦譜第85回●天保十五年春場所折込み裏面〇…勧進大相撲星取表折込み表面〇兵庫県出身入幕力士一覧●渡り山光右エ門から若鳴門清海まで35名折込み裏面〇兵庫県出身入幕……●朝岡勲から照強翔輝まで19名〇古今平幕最優秀力士星取表(35)●昭和22秋から同24秋まで6場所以上、原稿清書完了。「35周年…」進捗率87.5%
郷土力士に関することだって、62年も過去の珍記録をすっかり忘れていた。昭和三六年夏場所、西前頭十三枚目、佐田の山晋松の星取表である。〇若ノ海(前十二)突落し〇芳野嶺(同十三)寄倒し〇若乃國(同十一)吊出し●清ノ森(十両1)肩透し〇宇多川(前十二)突出し〇明武谷(同九)送出し〇羽黒花(同六)上手投●松登(同九)寄切り〇鶴ヶ嶺(同三)寄切り〇開隆山(〃)突出し●安念山(同二)押倒し〇前田川(同一)送出し〇北の洋(同四)上手投〇若前田(〃)吊出し〇冨士錦(小結)叩込み十両力士と対戦しながら、楽日は三役戦であった。しかも、当場所の十両優勝が清ノ森(後木村瀬平理事)だから、典型的な「漁夫之利」と云うほかはあるまい。尚、『大相撲』投書欄へ当時の女性好角家が「不思議な勝負」と題して、佐田━冨士が“がちんこ”なのか…と、...62年前の「漁夫之利」
※昨日までのトータル訪問者数1,078,557明治中期までは、横綱・三役が十両力士と序盤戦に取組むのは珍しくなかった。その要因は、幕内力士の人数が少ないためだ。明治二十二年夏場所、史上初の幕内人員が30名に達しており、その後も増減を繰返している。〔因みに、江戸幕内最多記録は、幕末の弘化三(1846)年冬場所の25名〕現代だって想定できなくはないが、役力士と対戦した平幕が十両力士とも取組むのは日常茶飯事だったと思われる。一段下って、十両力士で幕内下位とも・幕下上位とも対戦した記録は如何。出羽海所属力士が多数派の昭和初期にありそうだ。更に一段下って、幕下でありながら、十両下位とも三段目上位とも取組んだ事例はどうか━これは、幕下の人数が関取数よりぐっと多いから殆んど想定外であろう。但し、江戸時代なら想定内と思え...対戦範囲の考察
双葉山が69連勝でストップした昭和十四年春、西三段目四一枚目峰忠次郎〔後十両和歌ノ海〕の星。〇高ノ峰(三段目40)〇高千穂(〃45)や〇熊ノ山(三段目37)や〇大ノ森(三段目35)=後幕内や〇鶴錦(三段目47)や〇若ノ花(三段目27)=後幕内大ノ海(花籠理事)や〇若ノ海(三段目29)や当場所の三段目Vは、後十両の錦竜だったが、新十両で全然土俵へ上らず…すぐ廃めてしまった。全勝でも三段目Vを逸す
※昨日の閲覧…498・訪問者…345トータル訪問者数数1,078,325大正十年春場所、西三段目三八枚目弥彦山〔後十両開心〕の星取表です。や〇茂木山(三段目33)や〇浪響(三段目46)や〇稲ノ森(序二段11)=後幕内や〇秋田嶽(三段目51)=後十両や〇晴ノ海(幕下43)=後幕内当場所、三段目で5戦全勝は数人が記録。それにしても、幕下とも・序二段とも取組んでいるのが頗る面白いじゃぁないか…。幕下・序二段とも対戦の三段目
大正十二年春場所の東京大相撲は、「試行錯誤」的な取組制度みたい。それは、従前の幕下以下は10日間のうち5日だけ出場させると云う原則をできるだけ「全日出場」の方針を示したのじゃぁなかったか。〔尚、十両力士は上位と下位で出場日数が異なる時期があった模様。〕翌場所の同年夏は、11日間興行になったが、幕下以下は「6日制」になったみたい。ひとつの事例として、十二年春の東幕下二枚目、綾櫻(後関脇綾川)の星取表を掲げてみよう。●青葉山(幕下8)〇一ノ鳥(〃11)●燧洋(〃6)●開月(〃11)=後幕内●大岬(〃1)●眞砂岩(〃2)●三杉岩(〃18)=後十両雷光山●朝風(〃21)●雷ヶ谷(〃10)●緑岩(十両14)100年前の試行錯誤…?
※昨日の閲覧…1,409・訪問者…597トータル訪問者数数1,077,980『力道山を刺した男……』を購入した。当初、インターネットでの註文に“失敗”。〔『狂った隣国』(西岡力氏著)はネットで発注し“後払い”で入手。〕それで、老舗の書店へ電話…、年内入荷が難しい云々。仕方なく紀伊國屋書店へ行った。売場面積が広く鳥渡ばかり驚いた。〔上記の店舗は以前より相当狭くなっているが、『相撲』の奇数月号を購入している。〕力道山のプロレス中継放送は毎週視ており、豊登(立浪部屋)・芳ノ里(←神若=神風に師事していたとされる)の両元幕内力士も一緒に……。短期間レスラー東冨士は全然視た記憶がなかった。郷土力士の力道山が非日本人だと知ったのは『相撲』増刊号の「昭和入幕力士略歴一覧」で「金信洛」の記載をみたときだった。力道山が“分...力道山関聯本落手
※昨日までのトータル訪問者数1,077,383百年ばかり前の大正初期乃至中期に「明治大帝御事蹟保存會」なる組織が発行した、明治十七年三月十日に挙行された天覧相撲━「御濱御殿内延遼館相撲天覽」と銘打つ絵葉書【画像=9cm✖14cm】を御希望の方、先着1名様にお譲りします。120円切手10枚を同封のうえ…下記宛てお送りいただければ折返し御送付いたします。尚、頂戴した切手は『相撲史発掘』の発送に使用しますので、必ず額面120円の切手にて…お願いいたします。〒852-8113長崎市上野町14-11田中健お問合せはjhisa104@ybb.ne.jpまで…お気軽に。☎095-845-6799明治天覧相撲の絵葉書を廉価で
※昨日の閲覧…3,363・訪問者…966〔上記数字は鳥渡ばかり信じられない?〕トータル訪問者数数1,077,185どうも御心配おかけしました。メカニズムに弱いため、「故障」か・否か全然わからず、当PCをY電機店へ持込む始末。でも、某ブログみたいに…九州場所「二日目」のあと相当期間“ほったらかし”にしておいて、再開の際、その訳・理由を全然記述しないなんて、或る意味で「無責任」じゃぁござらぬか…❔拙稿「兵庫県出身入幕力士一覧」は、折込みの表面だけでは、おささまらず━①茂り山から(35)番めの若鳴門清海まで、裏面が(36)朝岡勳から(54)照強翔輝まで━その裏面を作成中です。どうもメカに弱くって…
元「相撲史跡研究会」の代表世話役、竹森章氏〔昭和六年生れ〕の訃に接した。拙作『相撲史発掘』を第88号(平成30/6)まで進呈していた。2度ばかり史蹟巡りに御一緒させていただいた。初対面は、佐賀県の有田駅前であった。266年前の大関雪見山について、鳥栖市田代を訪ねたけれども、全然手掛りを得られなかった。時津〔風〕系から「2理事」を出せなくなりそう…と話されたが、予測は外れた。〔「監事」(現副理事)が時津風一門から、二所一門片男波(横綱玉の海師匠)に交替。〕その何年後だったか…、当長崎市へ来訪。県立図書館へ…、元小結両國の出羽海梶之助の「記念碑」が昭和四二年に建てられていたことがわかり、現地へ赴いた。これは収穫であった。竹森氏の“先入観”で「諫早にはなさそうです」で、想定外の出来事もあるときにはあるものだ。謹...竹森章氏を悼む
※昨日の閲覧…1,479・訪問者…603トータル訪問者数数1,076,219昭和三十年秋場所、東幕下三九枚目小城ノ花〔後関脇〕の星取表である。〇富士昇(幕下40)や〇大西山(幕下42)や〇佐賀ノ里(幕下35)=後幕内宮柱〇大響(〃44)=後幕内若駒やや●若鳴門(幕下48)=後幕内…と別人(花籠部屋)や〇剣幟(幕下49)や〇金子(幕下55)=後十両相模洋〇房錦(〃27)=後関脇…や当場所の幕下優勝は、後幕内の愛宕山だった。成績は、8戦全勝。紛わしい同名力士
昭和二二年夏場所、西幕下三一枚目信州〔後幕内大昇〕の星取表である。〇福井山(三段目2)や〇鯱錦(幕下24)やや〇巴浦(三段目4)=後小結大晃〇雄勝泻(幕下29)やや〇陣ノ花(幕下21)=後幕内小野錦当場所の幕下優勝は、同点決勝の末、後大関大内山の「大内」にもっていかれてしまった。尚、本「番附」筆者の鏡山(←式守)勘太夫氏は、「大曻」とは書かなかった。幕下で5戦全勝でも…
※昨日の閲覧…350・訪問者…263トータル訪問者数数1,075,616この度の政界━政府・自民党の、相撲流に表現すれば、「八百長金権体質」で国民の「政治不信」は想像以上であり、内閣の「支持率」がまたまた下落するに違いない。そこで主流派の最大派閥A派を全面“排除”するとか・しないとか……。大相撲界でも、酷似したような出来事が過去の歴史にあった。100年前の大正十二年春場所直前に勃発した「三河島事件」。「養老金」増額等々を協会に要求、その解決策として、“働いて稼げ”と云う訳で、春・夏両季本場所の10日間興行を一日延長して11日間とすることになり、附随して引分け・預り相撲を千穐楽(十一日目)に取直す━これは数例しか実施されず、大正末に分け・預りの原則的廃止となった。核心的問題は、東京大角力協會の幹部が「総辞職...主流派の排除は不可能…?
過日、双葉山「69連勝」の決り手を列記したので、今夜は「36連勝」のそれを調査してみたい。昭和十七年夏場所千穐楽1、〇安藝ノ海(大関)打棄り同十八年春場所2、〇大和錦(前九)上手投3、〇増位山(同七)掬い投4、〇八方山(同十)寄出し5、〇笠置山(同三)寄切り6、〇清美川(同一)寄倒し7、〇松ノ里(同八)吊出し8、〇豊嶋(小結)下手投9、〇備州山(前二)突倒し10、〇櫻錦(同五)極出し11、〇鹿嶋洋(同六)寄倒し12、〇九州山(同四)寄出し13、〇相模川(小結)上手投14、〇出羽湊(関脇)寄切り15、〇照國(横綱)寄倒し16、□安藝ノ海(〃)──同十八年夏場所17、〇備州山(前十)小手投18、〇肥州山(同二)上手投19、〇神東山(同七)寄切り20、〇若瀬川(同九)吊出し21、〇綾曻(同八)寄倒し22、〇増位...「36連勝」も引き技なし
※昨日の閲覧…394・訪問者…297トータル訪問者数数1,075,353昭和三一年秋場所、西幕下七十枚目後十両力士、西中憲四郎の星取表。〇前ノ花(幕下69)や〇鶴田山(幕下71)や〇杉山(幕下69)=後関脇大豪←若三杉や〇荒政(幕下72)や〇北ノ里(幕下61)や〇湊山(幕下58)〇常昇(〃75)や●林(幕下47)や当時、力士数は増加傾向にあり、幕下以下8番制だって、「全勝同士」の取組編成は左程難しくないと思えるけれど、上記「林」は既に2敗を記録していた。当場所、幕下は後小結富士錦ら4力士の決定戦で富士錦が幕下優勝。後十両…、幕下Vを逸す
大正十二年春、西三段目三八枚目諏訪錦の星取表である。〇鷹ノ國(三段目41)〇友瀬川(〃45)〇陸奥川(序二段8)●劔嶽(三段目26)=後幕内の劔岳は別人〇上州山(〃33)〇盛錦(〃55)〇千葉ノ花(〃36)〇綾ノ浪(〃34)=後幕内〇一ノ関(〃12)〇荻ノ濱(〃22)後十両の霞ケ浦で、茨城出身の出羽海部屋。昭和二十年〔月・日は不明〕に逝ったらしい。三段目で9勝1敗のV
※昨日の閲覧…377・訪問者…267トータル訪問者数数1,075,056「三賞」のうち「技能賞」を元関脇舛田山には流石に全然もらってない。昭和五七年秋場所、西前頭九枚目。〇東洋(前九)押出し●玉龍(同十三)上手投●隆三杉(同十二)押出し〇佐田海(同十四)突出し〇大潮(同二)叩込み〇蔵玉錦(同十四)仝●大豊(同十三)寄切り●騏ノ嵐(同七)押出し●青葉城(同三)打棄り●斉須(同七)引落し〇黒瀬川(同四)叩込み〇富士櫻(同一)仝〇麒麟児(同四)寄倒し〇鳳凰(同十一)叩込み〇巨砲(同八)仝当場所の舛田山に「技能賞」をやったならば、「入場料」の返却を要求したい。「叩込み」で6勝の舛田山
若乃花幹士(←若ノ花勝治)の24連勝記録━星取表を御披露しよう。昭和三五年春場所、東張横綱〇成山(前四)寄切り〇柏戸(関脇)吊出し〇大晃(前三)寄切り〇岩風(同二)押倒し〇潮錦(同三)寄切り〇栃光(小結)上手投〇鶴ヶ嶺(前二)押出し〇出羽錦(同一)仝〇北の洋(〃)上手出投〇北葉山(関脇)寄切り〇冨士錦(小結)突落し〇安念山(関脇)押倒し〇房錦(前五)揺戻し〇若羽黒(大関)掬い投〇栃錦(横綱)寄切り同三五年夏場所、東正横綱〇成山(前六)吊出し〇鶴ヶ嶺(同二)仝〇岩風(同四)掬い投〇時津山(同五)二枚蹴〇若前田(〃)掬い投〇房錦(同三)吊落し〇冨士錦(同二)叩込み〇安念山(同一)突落し〇大晃(〃)吊出し翌十日目、小結北の洋に「惜敗」━“誤審”とする〔すくなくとも取直しが妥当〕説もあった。それにしても、偶然なの...栃・若、仲良く「叩込み」1番
※昨日の閲覧…362・訪問者…269トータル訪問者数数1,074,789百年ばかり前の大正初期乃至中期に「明治大帝御事蹟保存會」なる組織が発行した、明治十七年三月十日に挙行された天覧相撲━「御濱御殿内延遼館相撲天覽」と銘打つ絵葉書【画像=9cm✖14cm】を御希望の方、先着1名様にお譲りします。120円切手10枚を同封のうえ…下記宛てお送りいただければ折返し御送付いたします。尚、頂戴した切手は『相撲史発掘』の発送に使用しますので、必ず額面120円の切手にて…お願いいたします。〒852-8113長崎市上野町14-11田中健お問合せはjhisa104@ybb.ne.jpまで…お気軽に。☎095-845-6799明治天覧相撲の絵葉書を廉価で
戦後大相撲の双璧、栃錦清隆とⅠ若乃花幹士の「連勝記録」は仲良く24である。その白星における決り手を調べてみたい。昭和三四年名古屋場所、横綱栃錦。〇北の洋(前五)寄切り〇安念山(同一)下手捻〇岩風(同四)押倒し〇鶴ヶ嶺(同三)突落し〇青ノ里(同四)寄切り〇時津山(同二)押倒し〇玉乃海(〃)押出し〇松登(同一)掬い投〇若前田(同五)寄切り〇潮錦(小結)仝〇北葉山(〃)仝〇若羽黒(〃)押出し〇房錦(関脇)仝〇琴ヶ濱(大関)上手投〇若乃花(横綱)寄切り同三四年秋場所、仝〇北の洋(前六)寄切り〇岩風(同一)首投げ〇柏戸(同三)押出し〇松登(同五)肩透し〇潮錦(〃)下手投〇若秩父(同四)上手出投〇冨士錦(同三)叩込み〇若三杉(同六)寄切り〇玉響(同二)…手出投24勝中「はたきこみ」1番だけ。栃錦24連勝「叩込み」1番だけ
※昨日の閲覧…394・訪問者…295トータル訪問者数1,074,520「戦後最強力士」説もある横綱大鵬。その引退直後からの彼の評価━「古今十大力士」(谷風・小野川・雷電爲・稲妻・陣幕・Ⅰ梅ヶ谷・常陸山・太刀山・栃木山・双葉山)に次ぐ“過大評価”を讀賣の三宅・保田両記者がしていたが、私見では必ずしも同調しない。その理由のひとつ。双葉山69連勝の決り手に「叩込み」などの引き技は全然ない。対して、大鵬の45連勝中のそれを列記してみよう。昭和四三年秋場所、14勝1敗。六日目〇清國(関脇)叩込み十二日目〇二子岳(前四)仝十三日目〇北の富士(大関)仝同四三年九州場所、15戦全勝。十二日目〇琴櫻(大関)叩込み同四四年初場所、15戦全勝。七日目〇藤ノ川(前二)叩込み八日目〇前の山(関脇)仝十三日目〇琴櫻(大関)仝同四四年...大鵬45連勝、17.8%「叩込み」
拙稿「兵庫県出身入幕力士一覧」━━去る平成四年発表分で脱落していた文化八(1811)年閏二月場所に於る入幕、大鳴戸灘之助(←音右エ門)について。今や相撲史の調査・研究に欠かせない『大相撲人物大事典』で「所属」の項目が不掲載。そこで、昭和四五年刊『写真図説相撲百年の歴史』巻末の「宝暦から現代まで二百十三年間の入幕力士略歴一覧」を調べてみたら「部屋」のところが空欄になっているのだ。仕方がないので、『…人物大事典』同様平成十三年刊『江戸時代相撲名鑑』317頁「大鳴戸灘之助」の項に「師匠桐山権平」とある━あまり信頼できる資料じゃぁない。結局、拙稿では「部屋」名を「桐山」として「?」を付することに決めた次第。大鳴戸灘之助の謎
※昨日の閲覧…386・訪問者…303トータル訪問者数1,074,225昭和三二年夏場所、東幕下八枚目富樫〔後横綱柏戸=当時18歳〕の星。〇大城山(幕下6)や〇髙葉山(幕下10)〇羽後響(〃9)=後幕内若駒や〇明歩谷(幕下13)=後関脇明武谷や〇荒神山(幕下6)やや〇前田川(幕下33)=後関脇や〇金ノ花(十両23)=後小結金乃花●浪花山(幕下44)=後十両三輝山や十両力士を倒しながら、8番相撲の全勝同士で敗れ、翌場所は“大頭”(幕下筆頭)に止められてしまった。後柏戸、痛恨の黒星
さきに「東千代之介」を登場させたので、今夜は東冨士対千代の山のカード。1昭和二二年秋場所五日目西大関●東富士(叩込み)千代ノ山〇西前頭筆頭2同二三年夏場所千穐楽西大関②〇東富士(寄切り)千代ノ山●西関脇3同二三年秋場所初日西大関〇東富士(寄切り)千代ノ山●西前頭筆頭4同二四年春場所十一日目西張横綱●東冨士(寄倒し)千代ノ山〇西関脇5同二四年夏場所十一日目東横綱●東冨士(突出し)千代ノ山〇東関脇6同二四年秋場所十三日目西張横綱●東冨士(突出し)千代ノ山〇西大関7同二五年春場所十三日目西横綱●東冨士(引落し)千代ノ山〇東大関8同二五年夏場所十三日目西横綱〇東冨士(寄切り)千代ノ山●東大関9同二五年秋場所十四日目東横綱〇東冨士(叩込み)千代ノ山●東大関10同二六年春場所十四日目西横綱●東冨士(肩透し)千代ノ山...東冨士8━9千代の山
※昨日までのトータル訪問者数1,073,922私事で恐縮だが、少年時代は「東映時代劇」を相当数映画館へ足を運んだ。東千代之介・大川橋蔵・大友柳太郎・市川右太衛門・片岡千恵蔵・月形龍之介etc.〔月形…は『水戸黄門』以外“悪役”イメージが強い。〕でも、当時「大奥」を主題にしたものは制作されなかったと思う。その後、TVなどで「大奥」を採りあげていたが、高齢者の今は「宮本武藏」・「坂本龍馬」以外の時代劇に興味がない。この度、民放TVで「徳川幕府12の謎…」を録画し視聴していたら、大奥のスキャンダルで「絵島」を採りあげていた。そこで江戸安永期の「看板大関」繪嶋泻が頭に浮んだ。『江戸時代相撲名鑑』の繪嶋潟灘右衛門の項に次の註がある。蜂須賀侯と山内侯とが抱え力士として奪い合いとなり、毒を盛られて…倒れたと云う。「大奥」醜聞「絵島」→大関繪嶋潟毒殺?
また郷土力士で恐縮だが、昭和十四年春場所〔13日間〕再入幕の肥州山の星。〇冨士ヶ嶽(前十四)吊出し〇土州山(同十五)仝〇楯甲(同九)捲落し〇鯱ノ里(同八)上手投〇鶴ヶ嶺(同十三)突出し●髙登(同十六)寄倒し〇金湊(同十五)寄切り〇玉ノ海(小結)押倒し〇小嶋川(前五)割出し〇桂川(同十八)吊出し〇大浪(同七)寄倒し〇大潮(〃)打棄り〇巴泻(同十六)吊出し「起重機」の異名で「吊り」を得意としたと云うが、一場所で4番の記録が多い方みたい。上記は現代ならば「敢闘賞」文句なし。後関脇肥州山12勝1敗
※昨日までのトータル訪問者数1,073,738昭和二年十月〔於京都〕、郷土力士東序ノ口二枚目、松本(後関脇肥州山)。〇北國(序二段55)〇汐曻(序ノ口4)〇金ノ花(〃2)〇時ノ里(??)=昭和2夏、序二段尻より4枚め〇駒ヶ谷(序ノ口12)やや〇時錦(?)=「時響」のミスかも知れない。ややや序ノ口下位なら…いざ知らず、不可解な出・欠だ。6戦全勝だが…
昭和戦後の好取組とその結果。最高位は横綱対大関なのである。①昭和二四年夏場所十二日目西前頭二●汐ノ海(押出し)鏡里〇東前頭四②同二四年秋場所千穐楽東関脇〇汐ノ海(押出し)鏡里●東前頭筆頭③同二五年春場所千穐楽東張大関●汐ノ海(上手投)鏡里〇東関脇④同二五年夏場所九日目西大関〇汐ノ海(押倒し)鏡里●東関脇⑤同二五年秋場所千穐楽西張出大関〇汐ノ海(寄切り)鏡里●東関脇⑥同二六年春場所九日目西大関●汐ノ海(寄切り)鏡里〇西関脇⑤で汐ノ海が黒星ならば関脇へ陥落するところ…“助け合い”相撲=疑惑相撲である。⑥で「お返し」したと勘ぐられても仕方があるまい。鏡里3━3汐ノ海
※昨日までのトータル訪問者数1,073,529大正十五年夏場所、東序二段二四枚目郷土力士常盤野の星取表である。〇梅光(序二段25)や〇宮ノ浦(序二段23)や〇越ノ海(序二段20)=後幕内や矢〇能代洋(序二段30)〇高出山(〃38)や●福井嶽(序二段35)千穐楽、全勝同士で対戦したが、両者とも優勝は上位力士に持っていかれた。尚、常盤野は〔番附外を除いて〕初土俵以来はじめての黒星であった。後幕内常盤野、初黒星
百年ばかり前の大正初期乃至中期に「明治大帝御事蹟保存會」なる組織が発行した、明治十七年三月十日に挙行された天覧相撲━「御濱御殿内延遼館相撲天覽」と銘打つ絵葉書【画像=9cm✖14cm】を御希望の方、先着1名様にお譲りします。120円切手10枚を同封のうえ…下記宛てお送りいただければ折返し御送付いたします。尚、頂戴した切手は『相撲史発掘』の発送に使用しますので、必ず額面120円の切手にて…お願いいたします。〒852-8113長崎市上野町14-11田中健お問合せはjhisa104@ybb.ne.jpまで…お気軽に。☎095-845-6799明治天覧相撲の絵葉書を廉価で
※昨日までのトータル訪問者数1,073,318昭和十五年春、西序ノ口二四枚目十勝岩〔後幕内、暫定二所ノ関〕の星。〇玉柳(序ノ口25)や〇鶴田(序ノ口25)や〇三ッノ花(序ノ口28)や〇八ッ尾山(序ノ口32)〇岩頭(〃22)や〇竜曻(序ノ口42)やや〇奄美嶋(序二段78)●小坂(序ノ口35)や対戦相手力士に後の関取はいないみたい。全勝逸すも序ノ口V
時津風理事長(元横綱双葉山)〔当時〕以下、「事勿れ主義」だったのが取組編成に如実に示された昭和三八年初場所だった。幕内対十両戦が15日間でたった3番。十三日目東前十六●星甲(叩込み)琴櫻〇西十4〃〃前十五●朝ノ海(寄切り)若杉山〇東十1千穐楽西前十五●清勢川(叩込み)常錦〇西〃後半戦だったら、入幕候補者と十両陥落の候補者との“がちんこ”相撲が期待されるはず。負越し決定の十両上位力士を中入り後の取組に登場させるのは最低だ。尚、楽日の上記の決り手が『大相撲』誌では「突き落とし」と記載されている。60年前「事勿れ主義」取組編成
※昨日までのトータル訪問者数1,073,118昭和戦後の対戦記録をひとつ…。最高位は横綱対小結である。①昭和二二年秋場所二日目西前頭七●五ッ海(上手投)鏡里〇東前頭八②同二三年夏場所六日目東前頭五〇五ッ海(掬い投)鏡里●東前頭十③同二三年秋場所千穐楽東前頭九●鏡里(首投げ)五ッ海〇東前十④同二四年春場所十二日目西前頭六●五ッ海(寄切り)鏡里〇西前頭七⑤同二四年夏場所千穐楽東前頭四●鏡里(寄切り)五ッ海〇東前頭六⑥同二四年秋場所十三日目東小結●五ッ海(寄切り)鏡里〇東前頭筆頭元小結の五ッ海が当長崎市内に在住してるとは知らず、直接会って話を聴く機会を逸した。縁者から後関脇出羽錦と一緒のスナップ写真をみせてもらった。尚、三宅充記者も直接取材したことはないと云う。彼が上京せず、九州場所への観戦なんかもしなかったの...後横綱鏡里3─3小結五ッ海
拙稿「兵庫県出身入幕力士一覧」の中間報告。該当者の総数が確定した━平成三十一年春に入幕した照強翔輝までで計54名となった。兵庫に限らず、厄介な問題はほかでもない、市・町・村合併だ。近代日本全国的に俯瞰すれば、明治二十年頃・昭和三十年頃、そして3度めは「平成の大合併」が数年前に……。兵庫県では、加古川市・明石市・洲本市・高砂市・西宮市・豊岡市・神戸市・尼崎市・姫路市…など殆んど変更されず、その「出生地」は旧稿の侭でOKだ。旧「三原郡」となっていた鳴門海一行や若鳴門清海は何れも「南あわじ市」と変る。〔私見では片仮名は論外、平仮名も賛成できない━なんで南淡路市じゃぁ駄目なのか〕もっとややこしいのが司天龍改め大鳴門と、おなじく明治期の四海波太郎である。旧「津名郡」だが、前者は「淡路市」で、後者は「洲本市」に変って...厄介な問題とは……
※昨日までのトータル訪問者数1,072,934昭和戦後のパーフェクト記録。最高位は横綱対小結である。①昭和二九年初場所二日目西大関〇栃錦(寄倒し)潮錦●東前頭二②同三十年初場所五日目西横綱〇栃錦(寄倒し)潮錦●西前頭三③同三十年秋場所四日目東横綱〇栃錦(掬い投)潮錦●東前頭七④同三三年初場所三日目東横綱〇栃錦(寄切り)潮錦●東前頭三⑤同三三年秋場所四日目西横綱〇栃錦(寄切り)潮錦●東前頭六⑥同三四年初場所初日西横綱〇栃錦(寄切り)潮錦●西前頭五⑦同三四年夏場所四日目東横綱〇栃錦(寄切り)潮錦●西前頭四⑧同三四年名古屋場所十日目東横綱〇栃錦(寄切り)潮錦●西張小結⑨同三四年秋場所五日目東横綱〇栃錦(下手投)潮錦●東前頭五⑩同三五年春場所三日目東横綱〇栃錦(寄切り)潮錦●西前頭三どうも小結は1場所のみ、清水川...横綱栃錦10━0小結潮錦
昭和五十一年秋場所、東方正横綱輪島大士の星取表である。〇玉ノ富士(小結)寄切り〇豊山(前二)仝〇鷲羽山(同三)押出し〇金城(同一)上手投●髙見山(同四)寄切り〇若獅子(小結)寄切り〇青葉城(前一)仝〇三重ノ海(大関)仝〇若三杉(関脇)仝●富士櫻(前三)突落し●麒麟児(関脇)寄切り〇黒姫山(前五)寄切り〇旭國(大関)仝〇貴ノ花(〃)仝〇北の湖(横綱)仝嘗て彦山光三は『大相撲』誌「総評座談会」で、大力士は「寄切」って勝つべきだ━趣旨の発言をしていた。上記、横綱輪島の白星のうち10番が「寄切り」なのは、あらためて評価せねばなるまい。横綱輪島、10番「寄切」白星
※昨日の閲覧…722・訪問者…456トータル訪問者数1,072,711「兵庫県出身入幕力士一覧」を現在鋭意作成中なのだが、相当時間を要する。平成四年…に発表した旧稿では、江戸寶暦の渡山から……、昭和後期の白竜山までの計40名となっていたが、平成末期までを対象としても、恐らく総計50名を突破しそうである。昭和末期以後の増補分だけじゃぁなく、江戸時代は2名を追加することにした。旧稿では、江戸期が幕末安政の大鳴門まで10名だったが、文化八年…の大鳴戸灘之助(←音右エ門)〔姫路頭書〕が脱落していた。更に、番附頭書は「江戸」だが、古史料に「播州」と記載の舞鶴亀之助を追加し、計12名となった。明治が6名、大正が3名、昭和戦前は9名〔元大阪力士を含む〕━は変ってない。尚、大阪横綱大木戸は旧稿どおり対象外。兵庫県出身入幕力士50名超過?
今夜のNHK生放送では、武士と髷━関聯して明治初期における「文明開化」の一環として、「断髪令」も採りあげていた。なんで関取が明治以降も頭の上に髷を乗せているのか言及がなかった。明治五年頃、山内容堂の「鶴の一声」により婦女子の大相撲観戦が容認。ところが、その頃に力士が“断髪”を免れたのも、ときの政府高官が「野蛮な裸踊り」との「相撲排斥」論者を黙らせるために力士の髷を“温存”させた━その張本人は一体誰なのか、岩倉具視か❔その凡そ60年後、天竜一派の「関西角力協會」が“長続き”せず解散を余儀なくされたのは、要因は國技館での双葉山の大活躍なのだが、大ノ里以下、断髪姿で土俵に上ったのが、好角家から「伝統無視」と云う眼でみられたのも一因と愚考する。誰が力士の“髷”を温存させたの❔
※昨日の閲覧…391・訪問者…267トータル訪問者数1,072,255現行「部屋別」総当り制の2年めに入った昭和四一年初場所の十両対幕下戦。初日西十両18●天地山━若二子〇東幕下1二日目東〃●杉浦━宝満山〇西〃三日目……●天地山━大龍〇東幕下2四日目西十両17〇安芸の國━若二子●五日目東〃〇沢風━栃忠●西幕下2六日目仝〇〃━津軽國●東幕下5七日目……●杉浦━若二子〇八日目……〇〃━津軽國●九日目……●〃━大龍〇十日目東十両16●熊乃浦━若二子〇十一日目……〇安芸の國━大龍●十二日目……〇杉浦━春木●西幕下3十三日目……●沢風━三浦〇東〃十四日目西十両16●戸田━若二子〇千穐楽仝●〃━大龍〇15日間、関取の出場力士が“偶数”だったか。幕下上位で「大銀杏」を結って関取を倒し、それで十両へ上れなかったら可哀想━...連日、十両VS幕下が1番
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昭和二年十月〔於京都〕東十両筆頭幡瀬川〔後関脇、楯山理事〕の星取表。●汐ヶ濵(十両3)=後幕内〇源氏山(〃2)〇泉洋(前七)〇綾錦(同十一)〇新海(同十四)=後関脇〇白岩(同九)●鏡岩(十両9)=後大関〇池田川(前十五)〇外ヶ濵(同十二)〇劔岳(十両5)=元幕内〇常陸嶽(前十)対幕内戦は7番も数える。“貧乏神”で優勝…
※昨日までのトータル訪問者数1,257,754昭和二年京都〔十月〕場所、西方前頭十四阿久津川〔後佐渡ヶ嶽理事〕〇玉錦(前一)突出し〇若葉山(同二)叩込み〇柏山(同六)押出し〇開月(十両1)突出し〇白岩(前九)突出し〇若常陸(同三)掛け投●雷ノ峰(同四)寄倒し●外ヶ濵(同十二)寄切り〇新海(同十四)上手投〇桂川(同七)突出し〇綾鬼(同十五格)突出し阿久津川の一番優秀な成績を残した場所だった。尚、当場所の優勝は横綱常ノ花で10勝1敗だが、不戦勝が一つ含まれている。阿久津川9勝2敗
相撲番附の文字は、「相撲字」乃至「根岸流」と云われる。大正九年まで唯一“世襲年寄”の根岸治右エ門が主に番附や勝負附の作成から発行━所謂「版元」だったのである。その相撲文字は、“国字”を含む漢字のほか、ノ・ッ・ヶなどの片仮名、の・い〔元大関の清國が幕下時分「若い國」の醜名だった。〕等平仮名に限られており、たしか明治末の旧國技館開設後の或る期間、東京大角力協會の電話番号が“洋数字”に非ず、一・二・三…で番附最下段に書かれていた。68年前の昭和三二年九州場所番附に…福岡「スポーツセンター」と蒙御免の下部に記載された━片仮名8文字は矢張り劃期的だった。かつて『大相撲』誌「古今珍名物語り」でY氏が大阪番附の明治期、「見習」欄に三ツ△鶴吉を発見され、「鱗」を△で誤魔化した云々。過日、亡父に訊いたら、△は「うろこ」と読...名古屋…新「番附」は伝統の半壊?!
※昨日までのトータル訪問者数1,257,571古本『相撲ロマン大事典』【画像】(弥谷まゆ美著。平成十二年、勉誠出版刊。本文820頁、定価7,800円)を先着1名様に無代進呈いたします。送料のみ御負担ねがいます。当該古本は保存状態良好で、切抜きや書込み等は一切ございません。神代の昔の名勝負から、現代の小錦関の大一番まで、相撲史を彩る力士たち1,600人が登場!!本の重量が凡そ1.6kg〔梱包前〕なので、一番廉価での送本法を御教示ください。jhisa104@ybb.ne.jp『相撲ロマン大事典』進呈
拙稿「“時代”を超えた力士たち」の現況。登場5力士の拙文。八甲山本文26行平ノ石本文14行玉手山本文27行石山本文23行「平ノ石」は“短文”になっているので、もうすこし“肉づけ”しなければならない。「明石竜」は未だ1行も執筆してない。その明石竜の話題。彼は、横綱力士は勿論のこと大関・関脇・小結との対戦が皆無なのであった。一番上位に挑戦した取組は、明治四十五年春場所二日目の「●竜ヶ﨑」で対手地位は前頭筆頭だった。それでも序盤戦に同十三枚目明石竜の“対戦範囲”として相当に“破格”的な“割”だと思える。尚、竜ヶ﨑は大正二年夏場所、小結に昇進。同二年春、明石竜は自身最高地位の前頭十枚目で、このとき同三枚目の大ノ川(元小結)が一番上位であった。横綱・三役戦が皆無の明石竜
※昨日の閲覧…414・訪問者…276トータル訪問者数1,257,365昭和十八年春場所、西幕下十枚目琴錦〔後小結、佐渡ヶ嶽〕の星。〇岩ノ里(幕下8)や●羽嶋山(幕下11)=後関脇や〇達ノ里(幕下2)=元十両や●竜ヶ﨑(幕下12)や〇播州山(幕下3)や〇新川(幕下12)=後十両や〇石狩岩(幕下7)=後幕内緑嶋〇五ッ海(〃5)=後小結や幕下の“二桁”で2敗、しかも「関取試験」的取組なしで、翌場所十両昇格。幕下2桁で2敗なのに…
拙稿「“時代”を超えた力士たち」は、八甲山・平ノ石・玉手山・石山の執筆が一応終った。明日から「明石竜」を俎上に載せる所存。前頭筆頭を最高位とする石山であるが、残念ながら金・銀星は皆無だった。対横綱戦は、大正二年夏場所初日の「●常陸山」、同五年夏と六年春の「●西ノ海」━3戦3敗であった。対大関戦の内訳は、駒ヶ嶽に2戦、Ⅱ西ノ海・大錦(卯)に各々3戦━結局、計8戦して8敗を記録したのである。対大関8戦8敗の石山
※昨日の閲覧…992・訪問者…251トータル訪問者数1,257,089昭和三一年秋場所、東三段目七十枚目羽賀〔後十両田代岩〕の星取表である。〇照ノ里(三段目70)や〇鶴若(三段目69)や〇荒ノ海(三段目64)や〇福力(三段目65)=後十両信山〇津軽泻(〃73)や〇松﨑(三段目92)やや〇出羽ノ山(三段目46)や●仙葉山(三段目38)楽日の相手は初日●を記録していた。計7力士の同点決勝で後関脇羽黒花の千葉が三段目V。漫画家、楽日●で三段目V逸す
昭和戦後のパーフェクト記録。最高地位は、横綱同士なのである。①昭和三四年夏場所五日目東横綱〇栃錦(寄切り)柏戸●東前頭四②同三四年秋場所三日目東横綱〇栃錦(押出し)柏戸●東前頭三③同三四年九州場所十一日目西横綱〇栃錦(上手投)柏戸●東小結④同三五年初場所十日目東横綱〇栃錦(掬い投)柏戸●東小結⑤同三五年春場所九日目東横綱〇栃錦(突落し)柏戸●西張関脇栃錦は、「円熟の境地」だったのに対して、柏戸(←富樫)は、未だ・未だ未熟ものなのだから致し方あるまい。栃錦5━0柏戸
※昨日の閲覧…617・訪問者…342トータル訪問者数1,256,838昭和二十六年秋場所、西十両十二枚目小坂川〔元幕内〕の星取表である。〇朝若(十両13)=元幕内〇玉ノ海(〃8)=後関脇玉乃海、片男波監事〇大達(〃14)〇大天龍(〃10)=後幕内Ⅳ海山〇宮坂(幕下3)〇宮錦(十両4)=後小結〇五ッ洋(〃3)=後幕内〇今大嶋(〃8)〇大田山(〃15)=後幕内●出羽湊(〃5)=後幕内〇日本錦(〃10)〇白龍山(〃3)=元幕内〇若國(〃16)〇大瀬川(幕下2)=後幕内●若嵐(十両7)=元幕内同系で対戦しなかった後小結の潮錦との決定戦で敗北してしまった。同系との決定戦で…
昭和十六年夏場所、東十両七枚目輝曻〔後関脇〕の星取表である。〇布引(十両7)〇武ノ里(〃6)=元幕内〇大ノ森(〃11)=後幕内〇大熊(〃6)=後幕内〇富ノ山(〃4)=元幕内富野山●矢筈山(〃8)〇廣瀬川(〃14)=後幕内〇神風(〃2)=後関脇、解説者〇照ノ海(〃15)〇一渡(〃4)=元幕内〇若瀬川(〃2)=後小結、解説者〇平戸灘(〃9)佐賀県出身〇常陸海(〃11)=後幕内〇小戸ヶ岩(前廿一)〇朝明山(十両13)翌場所入幕なのだから、対幕内戦がたった1番は少なすぎる。たった1番の対幕内戦
※昨日の閲覧…568・訪問者…331トータル訪問者数1,256,496昭和十四年春場所、西幕下三五枚目若瀬川〔後小結〕の星取表である。〇江戸桜(幕下35)〇葵竜(〃34)=後幕内駿河海や〇陸奥ノ里(幕下19)=後幕内や〇鐘ヶ渕(幕下42)=後十両大平山や〇武ノ里(幕下17)=後幕内や●安武(幕下24)=後幕内八方山、不知火監事。や〇照錦(幕下39)=元十両や当場所の幕下優勝は、東幕下筆頭で“同点”の後十両、松若であった。幕下で優勝同点の後小結…
「個人別星取表」の資料的価値を高めるためには、対戦相手名のみならず、対戦当時の相手地位も記入すべきだ━と思っている。ところが今まで出版された相撲諸書掲載の星取表で対手地位まで載っているものは極めて稀れであろう…。前頭筆頭を最高位とする石山昇之助は、“改名歴”がない〔但し、『日本相撲史』に拠れば、幕下時分は下の名前が登之介となっている。〕彼は十両2場所めの明治四四年春、六日目〇平ノ石、八日目〇近江冨士、楽日〇大緑━幕内力士を3人も破り翌場所新入幕を果している。ところが、その入幕場所5勝4敗1引分けと勝越したけれども、相手の過半は十両力士だったのである。新入幕前・後の石山は…
※昨日の閲覧…432・訪問者…302トータル訪問者数1,256,165大正末期~昭和初期の好取組と、その結果。最高位は両力士とも横綱なのです。①大正十五年夏場所八日目西横綱〇西ノ海(寄切り)玉錦●東前頭六②昭和二年春場所四日目東横綱〇西ノ海(寄倒し)玉錦●西前頭三③同三年春場所六日目西張出横綱〇西ノ海(押出し)玉錦●東張小結対戦回数は少ないけれど、弱い横砂が負けていないのは意外な気がするのである。3代め西ノ海3━0玉錦
古本『日本相撲大鑑』(窪寺紘一氏著。平成四年、新人物往来社刊。函入466頁定価5,000円)および名力士の写真5枚を御希望の方、先着1名様に無代進呈いたします。送料のみ御負担をお願いします。当該古本は保存状態良好で、切抜きや書込み等は一切ございません。5力士の写真の撮影年月は不明ですが、入幕後の若い頃のものと思われます。1、関脇・東京・出羽錦忠雄。2、関脇・福島・時津山仁一。3、関脇・北海道・安念山治。4、小結・秋田・若ノ海正照。5、大関・熊本・栃光正之。御希望の方は600円分の切手を同封のうえ…下記宛てお送りいただければ、折返し「レターパック…」にて発送いたします。〒852-8113長崎市上野町14-11田中健お問合せはjhisa104@ybb.ne.jpまで…お気軽に。『日本相撲大鑑』&名力士写真
※昨日の閲覧…553・訪問者…350トータル訪問者数1,255,863昭和十六年春場所、東十両二枚目双見山〔翌場所入幕〕の星取表。●豊嶋(十両3)=後幕内〇八方山(〃3)=後幕内〇倭岩(前十八)〇國光(十両11)〇大熊(〃10)=後幕内〇二瀬川(前十九格)=後関脇〇若潮(十両4)=後幕内〇増位山(前十六)=後大関〇一渡(十両12)=元幕内〇陸奥ノ里(前十七)〇十三錦(同十三)〇大邱山(同十五)〇四海波(同十九)●若瀬川(十両13)=後小結〇小戸ヶ岩(〃5)=後幕内豊嶋も13勝しているが、同点決勝は行われていない。7人の幕内と対戦…
『江戸時代相撲名鑑』で調査すれば“1字名”も意外と少なくないけれども、「狼(おおかみ)」と名乗ったやつは残念ながら皆無━京・阪の番附を対象にしても……。関脇玉手山の“初名”が狼なのであった。彼は、在幕15場所で関脇を2場所、小結を3場所つとめている。〔名人と称賛される玉椿は、関脇4・小結7場所だった。〕最高位が横綱や大関に対する玉手山の通算成績を調べてみた。太刀山ら5横綱のうち、太刀山と大錦(卯一郎)からの白星は皆無だが、栃木山ら3横綱から各々1勝を記録している。対大関戦跡では、駒ヶ嶽や伊勢ノ濵から各1勝、朝潮(←朝汐←朝嵐)・九州山(十郎)・對馬洋から各々2勝している。大正六年春場所は東小結で、初日から9連敗━急速に衰えたとみえるのは甚だ残念だった。玉手山を名関脇と評価
※昨日の閲覧…546・訪問者…335トータル訪問者数1,255,513拙作&私家版『相撲史発掘』のバックナンバーが下記の如く在ります。第99号(令和4年2月)【残部僅少】〇全勝力士が消えた星●天保十二年春場所〇明治大正の新聞記事から●昭和二十年代の重量力士〇島根県出身入幕力士一覧創刊100号記念号(令和4年6月)●日本國技の洋風化について〇天保十二年冬場所●大正期の新聞記事から〔改題〕〇場所中改名物語●徳島県出身入幕力士一覧第101号(令和4年10月)〇“時代”を超えた力士たち(新連載)●天保十三年春場所〇大正期の新聞記事から●昭和二十年代の短身力士〇香川県出身入幕力士一覧第102号(令和5年2月)●“時代”を超えた力士たち〇天保十三年冬場所●大正期の新聞記事から〇昭和二十年代の長身力士●広島県出身入幕力...No.99から旧号揃ってます
私見では明治以降の最強力士とする太刀山。明治四十四年春場所後、吉田司家から「横綱免許」となって、番附で正横綱〔片屋(東方もしくは西方)は個人成績が反映されない。〕となり、Ⅱ梅ヶ谷は「正」位置から「張出」へ廻った。この正横綱太刀山、張出……梅ヶ谷の両横綱の位置は、4年=8場所変らなかった。(明44夏~大正4春)ところが、“角聖”と尊称される常陸山引退に因って異変が起った。雷(いかずち)部屋所属の梅ヶ谷と、友綱部屋の太刀山を東・西に対峙させて、両者の“初顔合せ”をいわば売りものにしたい━協会の思惑があったのじゃぁないか…?しかし、大正四年夏場所は東横綱が梅ヶ谷、西横綱が太刀山の番附だったが、梅ヶ谷は最早「引退決意」の状態で初日~楽日を欠場し結局、梅ヶ谷対太刀山の好取組は実現せず…。幻の好取組梅ヶ谷━太刀山
※昨日の閲覧…415・訪問者…261トータル訪問者数1,255,178明治大相撲のパーフェクト記録。最高地位は、関脇対前頭筆頭であった。①明治六年春場所初日東前頭五●鬼若━武藏泻(十両格3)②同六年冬場所七日目東前頭五●鬼若━武藏泻(十両格1)③同七年春場所六日目東前頭三●勝ノ浦━武藏泻〇西前頭六④同七年冬場所三日目東前頭三●勝ノ浦━武藏泻〇西前頭三⑤同八年春場所七日目東前頭三●勝ノ浦━武藏泻〇西前頭四⑥同十年春場所八日目西前頭二〇武藏泻━勝ノ浦●東前頭四⑦同十年夏場所四日目西前頭二〇武藏泻━勝ノ浦●東前頭三⑧同十年冬場所八日目西前頭筆頭〇武藏泻━勝ノ浦●東前頭二⑨同十二年春場所五日目西関脇〇武藏泻━勝ノ浦●東前頭三⑩同十三年夏場所九日目西小結〇武藏泻━勝ノ浦●東前頭五引分け等が多かった頃、パーフェクト記...関脇武藏潟10━0勝ノ浦
「元少年力士」の梅ノ花市五郎は、個人別星取表掲載資料が平幕止りのため殆んど存在しないであろう。なので我国最高の相撲文献『日本相撲史』で入幕直前場所および在幕の10場所の星を調べてみた。彼、梅ノ花は横綱との対戦が皆無だった。〔但し、最高位が横綱力士と云う意味に非ず、対戦当時の相手の地位に限っての話である。〕そこで彼が対戦した三役のみを列記してみる。明治四三年春四日目〇小結朝嵐〃四五年夏六日目●小結大ノ川八日目●大関駒ヶ嶽千穐楽●大関西ノ海尚、対戦時が関脇との取組も全然なかった。彼の最高位は、大正二年夏場所の東前頭四枚目だが、初日~千穐楽を休場してしまったのも要因で横綱や関脇との対戦がなかったものと思われる。小結戦の白星が唯一の殊勲…
※昨日の閲覧…419・訪問者…291トータル訪問者数1137980拙作&私家版『相撲史発掘』の冒頭連載記事「“時代”を超えた力士たち」<明治→大正篇>は、当初予定どおりタイトル・見出しを含んで本文3ページ半を近日中に脱稿する所存であります。C級横綱、鳳(おおとり)谷五郎…二枚目、八嶋山平八郎関脇、黒瀬川浪之助小結、小錦八十吉(←山泉)関脇、大鳴門灘右エ門(←司天竜)以上、5力士の執筆が一応終って、本日から前頭四枚目を最高位とする梅ノ花市五郎を俎上に載せる。鳳から梅ノ花まで6力士
世界的な「衝撃事件」発生で、61年前の『大相撲』(読売新聞社刊)記事を想い出した。執筆者は故三宅充氏でタイトル「大相撲界反省のとき」(九州…決算号)〔前略〕初日の前日に大牟田と鶴見で大惨事があったのを皮切りに、衆院選挙、ケネディ暗殺事件とつづき、相撲界でも八百長問題あり、河豚中毒事件ありで、内に外に問題が多かったが、大相撲界にとってもっとも肝腎な土俵内容がまた大荒れに荒れっぱなしのまま幕がおりた。〔後略〕大牟田の惨事とは、三池炭鉱の爆発事故。八百長問題とは、後都知事兼作家が柏・鵬の全勝決戦を相撲協会の“工作”と決めつけ、告訴さわぎに発展…。扨て、「全米ライフル協会」からの献金をこの度の暗殺未遂事件をうけた共和党は、今後一切“腐れ縁”紛いなので転換して、「銃規制」を本格化させる方針を明言すべし。もとよりアメ...61年前の三宅氏記事を…
※昨日の閲覧…959・訪問者…445トータル訪問者数1,137,689昭和十一年春場所千穐楽(十一日目)幕内VS十両7番が記録されている。東前十六〇射水川(寄切り)加古川●十両3西前十五●綾錦(上手投)星甲〇〃3東前十四●三熊山(寄切り)太刀若〇〃2西前十三●防長山(仝)照錦〇〃4東前十三●九州山(吊出し)天城山〇〃1西前十二●大八洲(肩透し)大浪〇〃2東前十二●桂川(浴せ倒し)綾若〇〃5当時、幕尻と“貧乏神”との「実力差」は“紙一重”だったみたい…。千穐楽、幕内1━6十両
窪寺紘一氏著『日本相撲大鑑』【画像】(466ページ。平成四年、新人物往来社刊。函入り定価5,000円)ならびに名力士写真5枚を御希望の方、先着1名様に無代進呈いたします。送料のみ御負担ねがいます。当該古本は保存状態良好で、切抜きや書込み等は一切ございません。5力士のモノクロ写真は次の通りです。1、出羽錦身長181cm、体重143kg2、時津山身長182cm、体重137kg3、安念山身長181cm、体重111kg4、若ノ海身長169cm、体重114kg5、栃光身長176cm、体重128kg尚、力士の体重は“変動”があるはずで、当該写真撮影時のそれは必ずしも一致しないと思われる。〔私見では、若ノ海よりも安念山の方が“重量感”があった印象をもっている。〕御希望の方は520円分の切手を同封のうえ…下記宛てお送りい...『日本相撲大鑑』+5力士写真進呈
※昨日までのトータル訪問者数1,137,244どうも面目も・なにも御座いません。調査不足でした。S氏から頂戴した資料に、「郷錦廣次」の序ノ口以来星取表がありました。彼も“広義”の戦争被害者━昭和十四年夏から翌年夏まで「応召」━土俵へ上れませんでした。そのブランクがなければ同十六年夏の十両成績、3勝12敗で幕下陥落、その後一時「轟山」と改名するも、再十両昇進は成りませんでした。尚、彼は「新入幕優勝」の両國━武隈と同郷で直弟子だった。昭和二十年秋、廃業後の消息は不明となっている。関取1場所の郷錦
昭和十九年春、東幕下三一枚目國登〔後小結=改名歴なし〕の星。●藤錦(幕下29)=後幕内〇清惠波(〃32)=後幕内や〇川﨑(幕下36)〔後十両泉州山とは別人〕や〇岩頭(幕下36)や〇石川(幕下40)やや〇郷錦(幕下35)や〇咸陽山(幕下29)=後十両智異ノ山や〇鉾錦(幕下30)=後小結清水川参考資料は「略歴星取表」ではないので、例えば郷錦は幕下止りなのか?尚、当場所の幕下優勝は巨漢不動岩。初日●が惜しかった
※昨日までのトータル訪問者数1,137,017軽量級人気力士、元幕内の炎鵬が名古屋…の土俵から復帰するらしい。→十両→幕下→三段目→序二段→…5段階の落武者で矢張り「相撲勘」が心配・懸念される。本音を云えば、「序ノ口7戦全勝」をめざして慾しいが…。もし、仮に初日或いは二日目の「1番相撲」が「惜敗」なんて羽目になった場合、「自信喪失」になりはせぬか━杞憂している。因みに、現炎鵬は「年寄襲名」の有資格者じゃぁなく、土俵と訣別なら角界とも“縁”をきらねばならぬ運命と思える。元幕内炎鵬、「序ノ口V」は可能❔
昭和六年三月〔於京都〕場所千穐楽(十一日目)の入れ替え戦。西前十六〇常盤野(下手投)池田川●十両6東前十四〇鏡岩(押出し)高ノ花●〃2西前十五〇大嶋(引落し)高登●〃8東前十三〇吉野山(吊出し)綾若●〃1〃前十二〇若瀬川(打棄り)大和錦●〃3西前十一●伊勢ノ濵(突出し)錦華山〇〃8〃前頭九〇肥州山(吊出し)大潮●〃4幕内力士からみると平幕“一桁”が……。一方、十両の東・西八枚目が幕内に挑戦。93年前、楽日幕内6━1十両
※昨日の閲覧…516・訪問者…319トータル訪問者数1,136,779窪寺紘一氏著『日本相撲大鑑』【画像】(466ページ。平成四年、新人物往来社刊。函入り定価5,000円)および名力士のモノクロ写真5枚を御希望の方、先着1名様に無代進呈いたします。送料のみ御負担ねがいます。当該古本は保存状態良好で、切抜きや書込み等は一切ございません。力士写真は次のとおりであります。1、出羽錦忠雄昭和22年入幕~39年引退。2、時津山仁一〃24年入幕~36年引退。3、安念山治〃29年入幕~40年引退。4、若ノ海正照〃30年入幕~38年引退。5、栃光正之〃30年入幕~41年引退。御希望の方は520円分の切手を同封のうえ…下記宛てお送りいただければ、折返し「レターパック…」にて発送いたします。〒852-8113長崎市上野町14...『日本相撲大鑑』+5力士写真進呈
昭和二七年春場所、西前頭八枚目輝昇〔元関脇〕の星取表である。ここでは決り手を省略して、相手の前日までの勝・敗を調べてみた。〇國登(前頭九)━━━〇鳴門海(同八)1勝。〇琴ヶ濵(同九)1勝1敗〇清惠波(同五)3勝。〇不動岩(同十)2勝2敗〇米川(同十三)4勝1敗。=後横綱A〇羽嶋山(同四)3勝3敗〇吉井山(同十七)6勝1敗〇松登(同七)5勝3敗〇常ノ山(同六)7勝2敗〇潮錦(同十五)6勝4敗●琴錦(東小結)4勝7敗●栃錦(東張関脇)7勝5敗●鏡里(東大関)10勝3敗〇出羽錦(前頭五)10勝4敗翌二八年夏、前頭六枚目で時津山が全勝優勝したとき、三役戦は小結出羽錦だけ。矢張り当時「取締」(理事長を含む)の弟子は番附も・取組編成も“有利”に扱われる。平幕Vを逸した元関脇輝昇
※昨日の閲覧…652・訪問者…348トータル訪問者数1,136,460去る夏場所幕下V藤青雲の星取表。〇矢後(幕下12)=元十両や〇日翔志(幕下13)やや〇聖富士(幕下14)や〇出羽ノ龍(幕下18)〇大辻(〃7)や〇風の湖(幕下32)や〇草野(幕下60格)や藤青雲自身より“上位”相手だったのは5番相撲だけで、あとは下位力士ばかり━「関取試験」に相当する取組はなかった。7番相撲は、十両下位の幕下陥落〔未確定〕候補者と対戦させるべきだ。「関取試験」的取組なしで…
「15日間」制本場所の嚆矢、昭和十四年夏、西三段目五七枚目諏訪登〔後幕内信州山〕の星取表である。●今錦(三段目58)●山中(〃58)や〇荒船山(三段目45)や〇橋詰(三段目44)やや●谷口(三段目57)や●東洋(序二段4)〇西ノ宮(三段目43)や〇紀勢山(序二段1)残念ながら対戦相手力士に後の関取はいないみたい…。初の15日制で…
※昨日の閲覧…1,123・訪問者…350トータル訪問者数1,136,112昭和五年夏場所二日目の幕内VS十両。東前十四〇綾ノ浪(極倒し)潮ヶ濵●十両4〃前十三〇若常陸(叩込み)晴ノ海●〃4〃前十二●藤ノ里(上手投)池田川〇〃2西前十二〇若瀬川(寄出し)伊勢ノ濵●〃2東前十一●荒熊(〃)肥州山〇〃3西前十一〇剱岳(打棄り)駒錦●〃3東前頭十●常陸嶽(浴せ倒し)沖ッ海〇〃1当時は「東西対抗」制度で、出羽海部屋所属力士が多数派のため取組編成のスタンスが現代とはまるっきり違うけれども…。昭和5夏2日目幕内対十両戦7番
窪寺紘一氏著『日本相撲大鑑』【画像】(466ページ。平成四年、新人物往来社刊。函入り定価5,000円)並びに名力士のモノクロ写真5枚を御希望の方、先着1名様に無代進呈いたします。送料のみ御負担ねがいます。当該古本の保存状態良好で、切抜きや書込み等は一切ございません。力士写真は、プロのカメラマン撮影に非ず、素人が撮ったものと思えますが、撮影年月は全然わかりません。1、出羽錦東京出身、出羽海部屋、最高位関脇。2、時津山福島出身、立浪部屋、最高位関脇。3、安念山北海道出身、立浪部屋、最高位関脇。4、若ノ海秋田出身、花籠部屋、最高位小結。5、栃光熊本出身、春日野部屋、最高位大関。御希望の方は520円分の切手を同封のうえ…下記宛てお送りいただければ、折返し「レターパック…」にて御送付いたします。〒852-8113長...『日本相撲大鑑』と5力士写真進呈
※昨日の閲覧…2,420・訪問者…264トータル訪問者数1,135,762去る夏場所、最軽量力士の宇瑠寅は2勝5敗と、負越したけれど、序ノ口陥落を免れている。その十日目、2勝めの相手、京の里━『相撲』誌の略歴星取表に拠れば、身長185cmで体重が165.6kgとある。宇瑠寅は61.3kgなので、凡そ自身の2.7倍の重量級を翻弄したことになる。「小よく大を制す」の大相撲の醍醐味を観客は味わったはずだ。宇瑠寅、2.7倍の重量級を翻弄!
さきに採りあげた力道山対出羽錦だが、実は両力士は昭和十五年夏場所の初土俵なので「同期生」と云うわけだ。この昭和十五年夏の初土俵組には、大ものがすくなくない。小結・清水川光男→明於小結・國登國生関脇・時津山仁一(純一)関脇・信夫山治貞幕内・若嵐武〃・平ノ戸千代藏幕内・出羽湊秀一〃・福ノ里牛之助昭和15夏初土俵、10名が入幕
※昨日の閲覧…1,618・訪問者…311トータル訪問者数1,135,498日本相撲協会機関誌と銘打つ『相撲』の表紙には、3月号「春場所本物新番付」5月号「夏場所本物新番付」と誰にも目立つように赤丸で表示していたのに、今度の最新号には全然それがない。唯、35頁「目次」の上部中央に「…付録名古屋場所本物新番付」と記載しているだけだ。はっきり云ってしまえば、表紙の「大の里」顔の右側に表示するのをうっかり忘れちゃった編集部のミス。“失態”を演じた場合、誰だってその“責任”をとりたくない風潮が…Bマガジン社に限った話じゃぁないね。『相撲』最新号の大ポカだ!
拙稿「“時代”を超えた力士たち」の「明治→大正篇」④は、横…鳳・八嶋山・関…黒瀬川の記述が終り〔但し、爾後編輯の過程で自ら“添削”するかも知れぬ〕現在、山泉改め小錦を鋭意執筆中である。この2代め小錦の入幕直前“貧乏神”での珍・怪記録を御紹介したい。明治四二年春場所、東十両筆頭山泉●藤見嶽(西前十四)〇有村(東前十五)〇立川(西〃)●男嶋(東前十五格)〇鬼竜山(西前十一)や〔東前12両國に休まれる?〕〇神﨑(東前十三)●大ノ川(東前十一)〇大緑(東前頭十)△小櫻(十両2)当時、十両以下は現行「部屋別」総当り制と殆んど変らないので、対戦相手は東・西に関係なく取組が編成されていた。幕内8力士と対戦した“貧乏神”…
※昨日の閲覧…562・訪問者…312トータル訪問者数1,135,187窪寺紘一氏著『日本相撲大鑑』【画像】(466ページ。平成四年、新人物往来社刊。函入り定価5,000円)並びに名力士のモノクロ写真5枚を御希望の方、先着1名様に無代進呈いたします。送料のみ御負担ねがいます。当該古本は保存状態良好で、切抜きや書込み等は一切ございません。力士写真は次のとおりで、撮影年月はわかりません。1、出羽錦忠雄7cm×10.5cm2、時津山仁一8cm×12cm3、安念山治仝4、若ノ海正照7cm×10.5cm5、栃光正之8cm×12cm御希望の方は520円分の切手を同封のうえ…下記宛てお送りいただければ、折返し「レターパック…」にて御送付いたします。〒852-8113長崎市上野町14-11田中健お問合せはjhisa104@...『日本相撲大鑑』+力士写真5枚進呈