人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。これは全く間違いだと思います。「人の一生」は今日の積もったものです。「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。今なくして一生はありません。過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。人の人生1
人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。これは全く間違いだと思います。「人の一生」は今日の積もったものです。「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。今なくして一生はありません。過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。人の人生1
何故私たち衆生は「グジュグジュしている今の自分を終着点」と、承知出来ないのでしょうか。何故おシャカ様はこんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。これはあらゆる人が道元禅師のいわれる「この法は人人(にんにん)の分上豊かに具われりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって必ずそのことが現れて来るということです。修行しなければ出来ません。歩みを進めていかなければ「行き着くところ」には到着出来ない、ということになるのです。行き着くところ2
本当に自信をもって「この修行をすれば間違いなく究極に到達する」ということは、なかなか断言できるものではありません。「出発はしたけれども何処に終着点があるのか」ということです。「終着点」とは何処かといいますと、「今の自分」です。「今のいろいろなことを考えたり、思ったり、グジュグジュしていたりしている其処(そこ)にしか行き着くところ」はないのです。それを誰が「グジュグジュしている状態はよくない」と決められるのでしょうか。「グジュグジュしているそれしかない」のですから、其処に行き着く他はないのではないでしょうか。行き着くところ1
「一切のもの」は何時でも完全な状態であり、充実した相(すがた)であるということです。それが「道(法)」というものです。私たち衆生は「ものが見える、聞こえる、話が出来るから生きている」といいますが、それらは全て「生きているという事実の説明」にすぎません。それらは、「今(今の事実)そのもの」ではなくて、「今(今の事実)の説明」にすぎないことです。「事実と説明(言葉)」の間にズレが生じていることに気付かなければなりません。「事実」というものも、なくならない限り「今(今の事実)」ではありません。ものをつかむための「今(今の事実)」ではありません。「今(今の事実)」そのものに成るための今(今の事実)」です。「今」ということ3
「今」というものは、もののない、認めようがないものです。ものの有る無しの「無い」では有(在)りません。ですから相対的な考えの「無い」では有(在)りません。私たち衆生の日常生活は「生死を超越した処」で行われているのです。これを「今」といっているのです。私たち衆生は「今」が存在しているように思っていますが、それは「私(個)というものを認めた所産」なのです。ですから「本来の自己」を見極めれば「存在するように思っていた今」はないということが分かるのです。「今」は「もともとないものの中で出来たもの」ですから「解決しよう(分かろう)」と思っても「解決の仕様がない(分からない)」のです。「今」ということ2
私たち衆生の日常生活を見てみると、ほとんどの人が過去と未来の中にしか日常生活が出来ていないと思います。すなわち「過去というのも過ぎ去ったことであり、未来というのは未だ来たらずということ」なのに、往々にして過去は愚痴になり、未来は不安の種にしてしまっているような考えで常に生活しているように見受けられます。「過去と未来が有(在)る」ということは必ず「今」がなければなりません。「今」が有(在)るから過去と未来が生じるということです。此の事は「道(法)」が分かる分からないということに関係なく「今」は有(在)るのですが、其の「今」の説明が出来ません。説明が出来ないということは、私たち衆生はそのくらい「何もない世界」に何時もいる、ということです。本当に「何もない状態」が「今」なのです。「今」ということ1
人は必ず死ななければなりません。如何なる「成功」も「死」には張り合うことは出来ません。如何なる財産を持っていても「死」に臨んで一時間の生命を買うことは出来ません。此処に「法(道)を求める」必要が何方にもあるのではないでしょうか。「真の成功」は「永久」でなければなりません。「時と所と位(くらい)」に因って変化すべきものではないのです。何人もその分量が同じでなければなりません。「禅」はそれを発見して「真の成功」に満足を与える無上の妙術です。「真の成功」とは
「境遇は結果」です。「結果」はどうすることも出来ないものです。「結果は即ち、真理」です。この事を仏教では「因縁生空」といっています。私が「因」であり、貴方が「縁」なのです。貴方と私とが因と縁によって結びついた処が「結果」なのです。即ち「私たち衆生はその境遇に満足しなければならない」のです。「私たち衆生は全く一つの物」です。「空」とは「一つの物」ということです。離れることはどうしても出来ないのです。「空」とは6
「因縁生」というお言葉があります。全ての物が集まって「一つの物」を形作っているのです。様々な現象が世界には有(在)る訳ですが、みんなそれは「自分の分かれた物だ」ということです。「元を質(ただ)せば、本当に一つの物」です。それぞれの物がそれぞれの立場にきちんと他の領分を侵さない様にしてあるということを「空」といっているのです。「空」というのは何も無いということではありません。「比較するものが無くなった」ということです。別の言葉で言えば、只、思い込みの取れたことです。「空」とは5
「空」というと、あるものがある時期において「ある縁に因って其の物に成った」と考えがちですが、そういうものではありません。「空のままにものが有(在)る」ということです。「空」のなかにものが、様々な「法として、差別として有(在)る」ということです。別の言葉で言えば、「それぞれのものが全て空のままに、無いながらにして有(在)る状態」を仏教で謂う所の「空」と説明している訳です。「空」とは4
「此の物自体」は「空」なのです。「実体」が無く、自性(じしょう)が無いものなのです。「一つの物」というものは有り様がありませんので、これを「空」といっているのです。「全ての事実」を「空」と名付けたのです。これは一応説明として「空」と名付けたのです。ですから、「此の空」も「認める事の出来ないものであり、実体の無いもの」なのです。「縁」に応じて自由に変化していき、その変化していく活動が「業」というものです。「修行に因って、自分が空に成った」という人がありますが、それは間違いです。私たち衆生はもともと「空」なのです。「空」とは3
「空」とは何かあるべきものが不在している状態をいうのではありません。相対的に「空」に対する「有(う)」を想定したものでもありません。「空の空、空の縁、空の自分」ということです。何故「空」なのかというと、「有形、無形の一切の物は全て因縁に因って出来ている」からです。「因縁の法則」は最初から「絶対の法則」として存在していた訳ではありません。おシャカ様が「法、道、空」を理論的に説明しなければならない為に「因縁の法則」を打ち立てたのです。「空」とは2
ある人は私を「お坊さん」と呼び、又ある人は私を「和尚さん」と呼びます。「此の物自体」には名称は有(在)りません。「此の物自体」は様々な「縁」に応じて変化していけるのです。本来、そういう風に全く自由さを持っているものです。何故これほどに自由活発に「此の物自体」は「縁」に応じて「その物に成れるのか」というと、「縁その物が空であり、縁に応じるこちら側の物も空だからです」。「空」とは人間(にんげん)的思惑(考え、意図)一切が取り除かれた状態なのです。別の言葉でいえば「全ての物が一杯にある様子、あるべきものがあるべきようにある姿、そしてお互いに邪魔にならないで融通し合っている姿」をいいます。「空」とは1
「修行に因って迷いをなくそう」と思うのは間違いです。「人(ひと)」は一定しない状態を「不安」という言葉で表現しています。本来、「迷い」や「不安」は実体のないものですから、「迷いの法」といい「不安の法」というものもみんな「ひとつの法」なのです。それぞれ「縁」に因って「迷い」となり「不安」となっているのです。これは「人(ひと)」が作ったものではありません。従って「迷い」は迷いのまま、「不安」は不安のまま有(在)るのが「法(道)」にかなった状態です。「法(道)」から離れようとするのは「自我の働き」だということをよく知(識)っておいていただきたく思います。無我とは3
そのように元来、名付けられない「此の物」を知らず識らずに認識し、周囲の人を「人間(にんげん)」と見るようになるのです。ですから、私たち衆生は此の世界に生まれたということを絶対に知(識)ることが出来ないにもかかわらず、「私は此処に存在している」という認識を起こしているのです。私たち衆生は、もともと「人(ひと)」ではなかったのに「ある時(物心がついてものごとを認識出来る働きが起きた時)」から「此の物を人」と認め「本来何もないもの(認めようにも認められないもの)を有(在)ると思って認識してきただけ」の話なのです。無我とは2
「無我」というものは「人(人)」というものを認めた上での言葉です。そこで「人の根源とは何か」ということが問題になります。私は「此の物」が「人(ひと)」と名付けられるようになったのは、何時の頃かということを考えてみたいと思います。父母の縁に因って「此の物」が出来上がりますが、私たち衆生は知らず識らずに生まれていつの間にか「人(ひと)」あるいは「人間(にんげん)」と名付けられていたという全く根底のないものなのです。このことを私は「不知不識生(ふちふしきしょう)」と名付けています。そして「人(ひと)」には「六根の意(認識)」というものが元元具わっており、この認識が自分と他というものを分けて見る働き、つまり「自我」というものを形成するのです。無我とは1
「月というのは自分自身である」ということを認識して頂きたく思います。「教えというレールの上」を走っている間は決して「法」というものは分かりません。「法」は他にある訳ではありません。何故ならば私たち衆生一人一人が「法」そのものであるからです。自己の正体を見極めない限りは色々な教えの中で右往左往してしまうものです。私たち衆生の「日常生活そのもの」がそのものに成れば本当に修行に成るということです。「法」を知(識)らずに「教え」だけを知(識)っている為に修行の方向間違いが生じてしまうのです。月を標す指3
個々のものは具体的に「事象(事実と現象)」として他と比較してそれぞれに違いがあります。そのことを一般的には「差異」といい仏教では「差別(しゃべつ)」といいます。「法」とは「差別(しゃべつ)」です。「ものの本質」というものは時間的にも空間的にも「同一(平等)」であり、因果の法則に従って「差別(しゃべつ)の相」が出て来ているということです。これはおシャカ様以前からそうであったということです。この事を仏教では「自然(じねん)」といいます。即ち、自ずから然りということです。月を標す指1
人類で初めておシャカ様は「諸法は無我なり」ということに気が付かれたのです。すべての教えは「月を標す指」ともいわれました。しかし、月を見ることよりも「指の詮索」に生涯をかけてしまう人があります。たまたま月を見ることを教えられても、はるか彼方の「月」というものを標されるので、これは「真に法を求めようとする人」にとっては、大変な大きな誤りを教えられているということになってしまうのです。月を標す指2
私たち衆生が自分自身でしている行為(見る、聞く、味わう、思う等々)に何となく物足りなさや不満足が残るというのはこれは全て「自我の介在」があるからです。それはまた「本来の自己と一つに成れていない」ということなのです。本当に見た、本当に聞いたという様子は、見たもの聞いたものが完全になくなった様子をいいます。仏教では「空」と呼んでいます。私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という縁に因って必ず「本来の自己」に目醒められる時節があります。「悟りを開いたという人」は何方でも必ず「六根の縁」に因って「本来の自己」に目醒めているのです。「おシャカ様の宣言」は「どんなもの(自分を含めて一切の衆生)でも仏でないものはない」ということなのです。別のお経の中で、「私たち衆生は仏そのものである」といわれたのです。自我の介在
「本来の自己」とは、認めようのない、認めることが出来ない、「際限のない大きな自己」ということです。それに目醒めることを別の言葉でいえば、「無我、無心、空、自己を忘じる」とかいう言葉で表現されているのです。人をも含めて一切のものというのは、何時でも同じ状態というものは有(在)りません。何時でも移り変わっている(無常)ということで、始終変化し続けているものには「自我」という、「これだ」というもの(中心となるもの)」を認めることは出来ないのです。本来の自己2
「今ものが見えた、今何か聞こえた」ということは既に「事実」というものは過ぎ去ってしまっているのに「自分の考えの中(記憶)」で「ものが見えた、何か聞こえた」というものが残るわけです。何処にも、認めようにも認められない自分を認めて、有(在)ると思っている自分が意識を起こして「自分は見た、自分は聞いた」と「妄想」を起こしているのです。ですから私たち衆生の修行は「本来の自己」に目醒めなければならないということなのです。本来の自己1
「自我」という認識を持った人間だけが、その事によって自分でバランスを崩して自分で悩まなければならないのです。喜びや悲しみを受け取るのはすべて「自我」という自分の心なのです。同じことから「縁」に因って、ある時は苦しくなり、又ある時は悲しくなったりするのも皆自分がそういう状態を作っているということに私たち衆生はなかなか気が付かないのです。「自我」について6
これは非常に矛盾したことですが「自我」が無ければ「迷い」はありません。「悟り」もありません。他の動物は人間ほど相対的認識が強くないので「自我に因って迷い、自我に因って悟りを開く」ということは不可能です。すべてのものに「法」があるのですが、人間だけが自我を持っていることが「縁」になって「法」を「事(事実)においても、理(理論)においても実証し、自分で納得いくものとして受け取ることが出来る」のです。「自我」について5
修行の要点は「現実の問題を自分の問題として取り組んで生活していくこと」です。物心が付く頃には相対的認識が芽生えて来ます。それが「自我」の始まりです。しかし、そういう「自我」が発生するのも「法の働き」なのです。「自我そのもの」は実体(塊)のないものです。すべてのものに「実体がない」という事はおシャカ様が初めて気づかれたのです。「自我」について4
「相対的認識」を強く持った人間(にんげん)だけがそのことに因って自分でバランスを崩し、自分で悩まなければならないのです。喜びや悲しみを受け取るのは全て「自我という自分を認める心の働き」なのです。同じことから、「縁」に因って或る時は苦しくなったり、また或る時は悲しくなったりするのも、みんな自分がそういう状態を作っているということに、私たち衆生はなかなか気が付かないのです。「自我」について3
物心が付く頃に「相対的認識」が芽生えて来ます。それが「自我」の始まりです。しかし、そういう「自我」が発達するのも「法の働き」なのです。「自我」そのものは、実体の無いものです。「実体の無い物」ということは人類史上おシャカ様が初めて気づかれたものです。これは非常に矛盾したことですが、「自我」が無ければ「迷い」はありませんし、「悟り」もありません。他の動物は人間(にんげん)ほど相対的認識が強くないので「自我に因って迷い、自我に因って悟りを開く」という事は不可能です。すべてのものに「法」は有(在)るのですが、人間(にんげん)だけが「法」を自分で納得のいくものとして受け取ることが出来るのです。「自我」について2
私たち衆生は、生まれた時からもうすでに名前が付いているように考えています。しかし、その名前は生まれた後から付けられた自分の「象徴」に過ぎません。私たち衆生は、生まれた時のことを知(識)らない自分と何時の間にか名前を付けられている自分を自分だと思っている自分との「二人三脚で日常生活」を送っているのです。その「象徴」にすぎない名前を認める心の働きを「自我」といいます。世界の多くの宗教といわれるものは、「結び目のある宗教」です。例えば「神と人、仏と人、自然(しぜん)と人」との結び目です。しかし本来は「結び目」があってはいけないのです。わざわざ縫い目を付けて、結び合わせようとする心の働きを「自我」といっています。人類で始めて「自我」を捨て去ったお方が、おシャカ様なのです。「自我」について1
喉が渇く時に、「水、水」と言っても決して喉の乾きはいやされません。「事実(水)」と「言葉(観念)」にはズレがあるのに、私たち衆生の日常生活は全ての物事が「言葉(観念)」で解決されているかの如くに「錯覚」を起こしている為に「本来の自分」が分からずに曖昧のまま過ぎてしまっているのです。「事実」を説明しても「本来の自分」には届きません。何時でも何処でも何をしていても「結果(本来の自分)」に到れば「今の事実」だけなのです。「今、今の連続」だけなのです。そもそも、私たち衆生は「思考の次元にはいないという事実」に気が付かなければなりません。私たち衆生は「今」存在しているのです。「今」以外に存在することは出来ないのです。しかも、私たち衆生はその「自覚」を失っているのです。問題の本質2
自分が生まれた事実を自覚している人は誰一人としていません。広辞苑に拠れば、"「人間(にんげん)」①人の住む所、世の中、世間、じんかん”と掲載されています。私たち衆生は「人間(じんかん)」に因って育てられ、知識を得て成長してきた自分をあたかも「本当の自分」であるかのように「錯覚」しています。問題の本質は、「本来の自分」というものをはっきりと「自覚」する必要があるということに気が付いていただかなければならないのです。そうしないといつまで経っても相対的なものの見方、考え方、六道輪廻を繰り返すことになるのです。「本来の自分」に目醒めない限りは、他人のものの見方や考え方を自分のもののように取り扱っているだけなのです。問題の本質1
それぞれのものが全部「法」にかなったものとして、そう在るのです。それでは「人」は如何なのでしょうか。ここでおシャカ様のお言葉を拝借していうならば、「人は人の為に在る」という事です。私たち衆生はあらゆる恩恵をこうむって生活が出来ているのですから、自分だけのものにしてはいけない訳です。自分を無にして、人さまの為に尽くすという事です。皆さん、それぞれの人がそれぞれの「法」を持っているのです。「一人、一宗」といっても差し支えないと思います。「天上天下、唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」です。人類で始めてそういう事に気が付いた人、「法」に目醒めた人、そのお方を私は「おシャカ様」と呼んでいます。人は人のために在る
この「六道輪廻」を固定した考えで認めてしまうと、「前世には地獄界に居たが、今世は人間界に生まれてきた」とか、「今世は人間界に居るが、来世は悪業に因って地獄界に堕ちるだろう」とか考えている人がいるかもしれません。しかし、「六道輪廻」というものはそういうものではありません。おシャカ様が説く「六道輪廻」とは、此の物の変化の様子、即ち「無常」ということです。ですから、「一念」が「消滅」することを「死」と言い、又次の「一念」が生じる事を「生」というのです。ですから、私たち衆生は何時でも「生死」を繰り返し続けているのです。六道輪廻2
私たちは今日一日の間でも六つの世界を留まることなく廻っています。現実に私たちは、この六つの世界の何処かに留まっているという事です。人間界の衆生に成っても、わずかの間に「縁」に応じて色々な事を考えます。考えるたびに「地獄・餓鬼・畜生・修羅界」を絶えず輪廻していく訳です。何故そのように一か所に留まっていられないのかというと「無常」だからです。「六道輪廻に実体がない」からです。おシャカ様の教えは「運命論」とか「宿命論」とは全く異なったものです。六道輪廻1
衆生は「縁」に因って何にでも成れると説明しました。しかし、普通の人間の求めているのは「十界(じっかい)の内の天上界」です。しかし、「天上界」は「果報が尽きる」ということが有(在)るのです。ですから、私たちは「善い縁」に会って修行しなければならない道理が有(在)るのです。本来「仏に成るべき性質」を持っていながら「善い縁」に会わなければ「修羅、畜生、餓鬼、地獄」に低迷しなければならないのです。これを「因縁説」といっています。迷いの世界を離れた世界3
先般、迷いを離れた四つの世界が有(在)ることを説明しました。「仏界、菩薩界、縁覚界、声聞(しょうもん)界」です。1.仏界---仏の世界です2.菩薩界ーーー仏の教えを行ずる世界です3.縁覚界ーーー縁起の法を信じている世界です4.声聞界ーーー自分の利益だけを考えている世界です1.2.に属する衆生は信じる度合いが強いため迷いの世界には堕ちません。3.に属する衆生は人々の救済のみに生涯を過ごす衆生です。しかしこれも「人々の救済」という未だそこに助けなければならない「相手が有(在)る」状態です。4.の世界は、一切手を下すことがない世界です。「仏」とは「ものの本質」をいいます。即ち「仏界」とは「本質だけの世界」」です。迷いの世界を離れた世界2
「迷いの世界を離れた世界」が有(在)ります。「仏界、菩薩界、声聞(しょうもん)界、縁覚(えんがく)界です。四つの階級が有(在)るわけではありません。何故ならば、ものは何時でも同じ状態にはあり得ないからです。私たちは修行に因って「仏界、菩薩界」にも入ることが出来るのです。「善因善果」といって善い縁に触れれば「仏界菩薩界」に入ることが出来ますが、「悪因悪果」といって悪い縁に触れれば「地獄、餓鬼、畜生、修羅」という状態に堕ちなければなりません。ですから、出来る限り善い縁に会うように努めなければいけないということです。迷いの世界を離れた世界1
私たち衆生の一日を振り返っても、何時も同じ状態では有り得ません。「縁」に因って天上界から地獄界までを輪廻転生(りんねてんしょう)しているということです。私たち衆生は「自分の認めたもの」に因って様々な考えを起こしながら、その考えを自分自身では処理(解決)することが出来ません。何故ならば、「他からの縁」に因って自分が苦しめられているという考えから離れることが出来ないからです。迷いの世界2
「迷いの世界」を六道(りくどう)といい、その六道をぐるぐる廻っていることを「六道輪廻(りくどうりんね)」といいます。六道輪廻とは、①天上界・・・幸せだけあって苦しみのない世界、地獄界の反対です。②人間界・・・悩んだり、安心したり、悲しんだり、喜んだりの生活を繰り返している世界③修羅界・・・争い(怒り)の世界、戦争は修羅の世界といえます。④畜生界・・・ものの道理の理解できない自分本位の世界⑤餓鬼界・・・満足ということがない世界⑥地獄界・・・苦しいということだけの世界多くの人は「六道輪廻」を死後の世界のように想像していますが実際は現実の私たち衆生の「今の世界そのもの」をいっているのです。私たちの目の前にある一切が「縁」に因って成り立っているものですから、修行することに因って「覚者」にも成れれば、「地獄・餓鬼・...迷いの世界1
私たち衆生は「修行(今の事実に徹すること)」に因って「自らが道(法)その物である」ということを知(識)らない限りは、平等とか差別(しゃべつ)という言葉は知(識)っていても決して自分のものにはなりません。ですから、これは「万、止むを得ない」ことですがしばらくの間はおシャカ様や歴代の覚者の教えに従って修行し、精進していかなければならない訳です。「道(法)」が自分のものになるまで務めて精進していくのです。そうした時に「自分の道(法)」に目醒め、「仏法(仏道)」というものがなくなるのです。おシャカ様や歴代の覚者の教えが支えになっていては、本当に独立した「真の自分」には成ることは出来ないのです。「真の自分」とは2
人類は現在八十億人いるといわれています。私たち一人一人は確かに八十億分の一人です。本来みんな一つのものなのに、「因縁」が違っているためにそれぞれ異なったものであるのです。平等の面から見れば「みんな一つのもの」であり「差別(しゃべつ)」の面から見れば「それぞれみんな独立」しています。ですから「融和」している事になる訳です。「真の自分」とは1
つまり人間(此の物)は「色・受・想・行・識」という五つの集まりから成り立っているのです。ですから、肉体である「色(しき)」という「四大の働き(地水火風)」が無いと「精神の作用(受・想・行・識)も起こらないのです。そこで、「肉体と精神」は離して考えることは出来ません。肉体が先か精神が先かといえば、これは「同時」に起こるものなのです。何故ならば肉体には六根が備わっており、この六根を通して外部のもの(外境)を受け込んでいます。そして受け込むと「同時」に精神の作用(受・想・行・識)に因って色々な状態が出て来るという事なのです。全てのものは一つでは成り立っていません。人間(にんげん)の構造4
次に精神の作用は「受・想・行・識」の四つから成り立っている心の働きです。①受向こうから受け込んで来る全ての物の感覚です。②想想像して是非善悪を判断する作用です。③行これは活動です。次々に起こしていく意識の作用です。④識「分別(ふんべつとは仏教語です)」する作用です。私たち衆生は六根の働きその物が有(在)るという事だけなのです。ですからその事は何ら「自己と認めるべき何物も無い事」なのです。六根の働きは人間(此の物)の機能ではありません。動植物と同じように「働きその物の状態だけが在る」という事なのです。人間(にんげん)の構造3
人間の構成から考えてみると、六根という「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意〈こころ〉」という働きがあります。その六根の受け皿として六境という「色(しき)・声(しょう)・香・味・触(そく)」があります。一般的には五根といい、感覚を生ずる「視・聴・嗅・味・触」をいいます。仏教では五根といい、感覚を生ずる「眼・耳・鼻・舌・身」をいいます。人間(にんげん)の構造2
人間の構造は例えば分けていえば、「肉体と精神」という事です。肉体を仏教では色(しき)といい、「地水火風」という「四大(しだい)」で構成されています。①地固いもの、即ち骨肉です②水湿気を含んだもの、即ち血液です③火熱を含んだもの、即ち熱です。④風動くもの、即ち呼吸です。これらの四大が因縁和合して「人間や物(万物)」を形成しているのです。人間(にんげん)の構造1
人間の体は全てがそういうように集まって来ていますから、自分の生まれた事も、自分の死ぬことも分からないのは当然の事なのです。人間の「意(こころ)」の働きもまた、分別する道具ではありません。「それだけのものでしかない」という事です。人間の体は「何に因って好きだ、嫌いだ、美味しい、美味しくないというものが働いているのだろうか」と問題になっていかなければならないのです。人間(にんげん)の体2
人間(にんげん)の体は「五根」という「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)」に因って認知された対境としての「五境」即ち「色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)」という道具立てで構成されています。みんな器機・機能で構成されていますから「そのもの自体」には考える力は有(在)りません。例えば眼で物を見ると言いますが、眼は分別する道具ではありません。機能の働きには分別するものは持って居りません。例えば舌の上に辛い物を乗せても、舌には辛いという事を分別する道具ではありませんから「舌自体」は辛いとは言いません。そういうように人間(にんげん)の体というのは全部道具と同じようにそれぞれにはそれぞれの働きが無いのです。人間(にんげん)の体1
例えば音は耳から自然(じねん)に入って来るだけで、聞こうと思って聞いている人間(にんげん)は誰一人いません。「人間(にんげん)の体」にはみんなそういう自然(じねん)の働きが有(在)るという事です。「物を見なさい、嗅ぎなさい、味わいなさい、歩きなさい、考えなさい」と命令を出す人はいません。誰も居なくても「人間(にんげん)の体」はきちんと働きのままに迷わず、しかも規則正しく何の間違いも無く出来る、そういう働きが有(在)るのです。この事を仏教では「六根無作為(ろっこんむさい)」といいます。六根無作為(ろっこんむさい)
「今」仮に「人の世(迷いの世界)」に「正しいもの、真実のものが存在するのであろうか」という考えを起こしたとします。そうすると「何か正しいもの、真実のものが存在するのではないだろうか」と、また、その「ものの見方、考え方」を対象として「ものの見方、考え方を起こす」という事を知(識)っておいて頂きたいと思います。「意識(認識)」とは働きです。「人(この物自体)」の中に有(在)るものではありません。「人(この物自体)」というものは、自分が認めた「存在(所産)」なのです。「人の世」について3
「真(しん・まこと)」というのは「今の自分の状態」です。仮にそれがどんな状態であってもそれは「真実」なのです。ただ、自分がそれを「真実」だと気が付かない為に「他に求めてしまう」のです。今の状態の他に真実というものはあるはずが在りません。ものの見方、考え方を取り除きさえすればそこには「真」だけしか在りません。ですからものの見方、考え方さえ止めさえすれば「真」を求めようと思わなくても自ずから「真」が現前しているわけです。「人の世」について2
「人の世」とは「迷いの世界」ということです。「分かる分からない、信じる信じられない、正しい正しくない、合う合わない、善い悪い、好き嫌い、許す許さない等々」です。「ありとあらゆる存在はそれはそれとして存在しているだけで在り続けている」のです。「存在そのもの」は何物でもありません。自分は何様でも何者でもありません。ですから自分がありとあらゆるものとの「結び目」を無くするように努めていくのが修行の要点なのです。「人の世」について1
「一所懸命に坐って下さい」ということは「今の事実(坐禅)に手を付けてはいけない」という意味です。「じっと今の事実(坐禅)を守りなさい、一切解決の方法を見出してはいけない」ということを言っている訳です。「今の事実(坐禅)の状態」にどれだけ任せ切れる」かが問題なのです。別の言葉で言えば、「じっとそこで坐禅そのものに成りつぶれる」という事を「一所懸命に坐る」というのです。一所懸命に坐るとは
人間(此の物)は自分の象徴にすぎません。そこでこの象徴をさえ忘れる事に因って一切のもの、即ち森羅万象(しんらばんしょう)と隔たりが失くなります。一つに成るという事です。一つに成った事を「脱落」といっています。「空に成った」という事です。修行とは「既に脱落していた、一つであった、空であった」と自覚することです。これから空に成って、無に成って、一つに成って修行するという事ではありません。此の物7
私たち衆生は何時の間にか人間(此の物)を自分だと認識してきました。長い間、何か分からない、誰とも分からない「人間(此の物)」を自分だと思ってきたところに大きな問題があります。そこで道元禅師はこのように語っておられます。「仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり、自己を忘るるというは万法(まんぼう)に証せらるるなり、万法に証せらるるというは自己の身心、他己身心を脱落せしむるなり」と。どいういう事かというと、「人間(此の物)」を認めて自己とみなしてしているもの、それは何か」「一体自己というが是は何者か?」という問いを参究して行く事が仏道の修行であるという事なのです。此の物6
人間(此の物)というものはそういう働きだけのものなのです。従って「肉体と精神」をどれだけ鍛えても(修練、訓練しても)実体は有(在)りませんから、「ただそういう事をしている」という事にすぎないのです。「自らが法(道)その物であったという事」に目醒めることが「自己の正体を見極める」ということなのです。全ての覚者は「六根の縁」に因って自己の正体を見極めているのです。此の物5
「仏性自体の動き、六根自体の働き」が何時でもあってそれに対して問題を起こしていては、皆、きず物になってしまいます。「有(う)」に対しても「無」に対しても、皆、役に立たないようになってしまいます。「人の教え」を用いるとそういう大きな誤りが起きるのです。捨てようをすれば捨てる手続きを用いるだけ、捨てる物が有(在)ることになります。それだからといって「空に成ろう」と思えばそれだけ「空」にそむくのです。「本当の空」ではないのです。それは概念的取り扱いとしての「空」です。それだけですから、おおよそ「此の物(自分自身)」とは縁遠いのです。そういうことは人間(にんげん)にはなかなか分からないのです。それは、考え方と「此の物(考え方でない今の自分自身)」との区別がはっきりしないからです。此の物4
此の物が息を引き取るということは「生(しょう)の法」から「死の法」に変わることです。生には「生の法」があり、死には「死の法」があるだけなのです。その間には人の考えは入りません。生きている・生きていないという事ではありません。今、呼吸をし、話をしているのは「生の法の中」です。それが出来なくなった、止んだ時が「死の法」なのです。それほど人(ひと)というのは何処にもいないのです。誰一人自分が生まれたということは分かりません。誕生日さえも知(識)りません。長ずるに従って様々な「人間(じんかん)の教えや習慣や話に因って自分に成っている」のです。ですから他人から聞いたものばかりなので、どんなにしても自分と他人の意見の間にいろいろな問題が生じて来ます。「迷い」というものはそういうものです。迷いには「迷いの法」が有(在)...此の物3
私たち衆生は何時の間にか不知不識(しらずしらず)のうちに「此の物を自分だと認識」してきました。しかし、「此の物」は自分ではありません。「衆生」なのです。「衆生」とは六道輪廻する存在なのです。此の物は象徴に過ぎません。そこで「此の物という象徴」と「本来の自己」との隔たりを無くさなければなりません。問題は「すでに一体であり、一つの物であった」ということを「自覚」することです。「私が目醒める」ということではありません。「此の物が縁そのものに成る」ということです。おシャカ様の最後の説法の一節に「仮に名付けて身と為す」というお言葉があります。ですから、「此の物」を名付けて「此の身」と称するのです。此の物2
皆さんが自分と思っているもの、これは自分でも人(ひと)でも何でもありません。「此の物」というのが一番適切な表現なのです。特別に分けて言えば、此の物は肉体と精神より成り立っています。「此の物の働き」というのは、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の働き」であって、これは自分のものでも無ければ誰のものといえるようなものではありません。「六根という道具の機能」が集まって私たち衆生の生活を成しているのです。この事を「六根無作為(ろっこんむさい)」といいます。大切なところは、此の物を認めて想った時だけに此の物(自分)が有(在)るということです。このことは「増一阿含経(ぞういつあごんきょう)」にはっきり示されております。よく「悟りを開いた」とか、「自己に目醒めた」というような表現を耳にされたり、本で読まれると書かれており...此の物1
あなた一人あるがために宇宙が有(在)るのです。つまりあなた方一人一人は宇宙を統制しているのです。あなた方一人一人が無ければ世界は無いということを知(識)らなければなりません。それを理解出来ないものが「我(が)」なのです。宇宙(彼の物)と此の物との間に距離が生ずるのは「我(が)」なのです。その「我(が)」を取るという事が般若心経の目的です。「我(が)」が取れれば「空」に成るのです。空に成れば「自由と進歩的偉人」に成るのです。般若心経はそれを説いたものです。増一阿含経2
増一阿含経(ぞういつあごんきょう)に曰く、「此の物なければ彼のものなく、彼のものなければ此の物なし」とあります。此の物が彼の物を捉えているのです。此の物が「宇宙」を捉えているのです。此の物からいえば、彼の物のために世界が有(在)るのです。此の物がなければ彼の物はないということになるのです。此の物が有(在)る故に彼の物が有(在)るということになるのです。増一阿含経1
私たち衆生には「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意(心)」の働きそのものだけが有(在)るということなのです。このことを「六根無作(ろっこんむさ)」といいます。六根の働きは此の物の機能ではありません。動植物と同じように働きその物の状態だけが有(在)るということです。ですから私たち衆生「人間(にんげん)」と「人間(じんかん)」の違いをはっきり認識して「智慧(ちえ)」をもって「娑婆世界(自分の思い通りにならない世界)」を活かして生きていって欲しいと思っています。人間(にんげん)と人間(じんかん)3
私たちは元々一つの「種(発生するもと)」が有(在)って、そこから生まれてきたものではありません。物の実体というのはいろいろな物が縁に因って集まってきたものですから、もともと有(在)るはずがないのです。私たちの実体は「此の物」というのが一番適切な表現だと思うのですが、私たちは「此の物」を人間(にんげん)と言いますが、「此の物」は人間ではありません。「衆生」なのです。「衆生」とは「生きとし生けるもの生命あるもの」なのです。「人間(にんげん)」と認めようがないのです。何故ならば始終変化し続けているからです。人間(にんげん)と人間(じんかん)2
広辞苑に拠ると「人間(にんげん)」の項で、①「人の住む所、世の中、世間、じんかん」と記載されています。また、新字源には「人間」①じんかん「人の世、世間」と記載されています。さらに、「漢文では原則として人の意と区別してじんかんと読む」と記載されております。「人間到処有青山(じんかんいたるところせいざんあり)」「人間萬事塞翁馬(じんかんばんじさいおうがうま)」とあり「無門関の平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」では、「人間好時節(じんかんのこうじせつ)」と読みます。人間(にんげん)と人間(じんかん)1
その反対に、「汚れたものの時」は「汚れたものの世界」なのです。「キレイなもの」は毛筋ほどもありません。洗濯の目的は「キレイ」にするためのものではありません。只(ただ)洗濯をするそれだけで用事が足りているという事です。これは「比較するという相対的な考えから、全く離れた世界がある」という事です。洗濯2
「キレイなシーツ」に汚れが付いたとします。するとそれを洗濯します。そうすれば「キレイなシーツ」になります。またしばらくすると汚れます。また、洗濯をします。いつまでも汚れては洗濯するということになりますと、洗濯するということはどういう事なのだという事になってきます。しかし「キレイなものの時」は「キレイなものの世界」なのです。汚いというものは何処にもありません。比較するものがないのです。洗濯1
自己の正体を見極めるとは、自己の正体を諦めることに他なりません。これをおシャカ様のお示しでは「一大事因縁」といいます。「大事」とは、広辞苑に拠れば「大事②」で一大事の略、「出家して悟りを開くこと」とはっきり記載されております。いつの間にか、知らず識らずの間にこの「一大事因縁」ということが、私たち衆生に於いては忘れ去られてしまっているように思えてなりません。「諦める」と「明らめる」について3
「明らめる」の語源は、四聖諦の最初の「苦しみの原因を明らかにする」に由来するものです。その原因は「無明(むみょう)」即ち「人間(にんげん)が真理を知(識)らないこと」と説かれたのです。この頃つくづく思うことは、「諦める」という言葉を「語源から明らめる必要性」があるのではないでしょうか。「諦める」と「明らめる」について2
広辞苑には、㋐諦める〔「明らめる」②の意から〕思い切る。仕方がないと断念したり、悪い状態を受け入れたりする㋑明らめる①明るくさせる②事情などをはっきりさせると、記載されております。「諦める」の語源は今から約二千五百余年」以前においておシャカ様が最初に説かれた四つの真理、即ち「四聖諦(ししょうたい)、四諦」に拠るものです。おシャカ様はその中で「因果の道理」を説明し、実践するために「八正道(はっしょうどう)」をお示しになられました。「諦める」とは「因果の正体を見極める」ことなのです。「諦める」と「明らめる」について1
そこで私たち衆生はここで問題にしなければいけないところを早く知(識)ってそれをきれいに無くしてしまうようにしないといけないと思います。どんなに立派な覚者であろうとも、「迷いのままが結果であり仏である」ということが、どうしてもお分かりにならなかった時代があったのです。ですから「縁」が来なければどうにもならい時がある訳ですけれども、後進の私たち衆生は何時でも何処ででも何をしていても「唯務(ただつとめる)」でなければならないということなのです。父母未生以前3
「無始(始めの無い始め)」ということが仏教ではよく使われます。自分は何処から来たのか「本当に元が有(在)るのか」ということをよく考えてみる必要がある訳です。「本当に何も無い」という「無いもの」が残りやすいものです。よく「無い」とか「只」とかということで終わらせてしまう人がありますけれども、「無い」とか「只」というものが有(在)るのでは、これは即ち本が有(在)るということです。それに気付かなければなりません。父母未生以前2
私たち衆生は、本来の自分とか元に帰るということをよくいいますが、果たして自分の元というのは何かということを考えてみる必要があるのではないでしょうか。禅語に「父母未生以前(ふぼみしょういぜん)」というお示しがあります。「お父さんやお母さんから生まれない以前に自分はどこにあったのか」ということです。父母未生以前1
月夜の路に蛇がいた。蛇と思ったから蛇に見えたが、よく見ると縄であったのです。縄の基本は麻であったということです。麻でこしらえた縄を蛇と思ったから、蛇に見えたのです。これを「虚妄幻化(こもうげんけ)」といいます。三性とは、「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」は蛇です。「依地起性(えじきしょう)」は縄です。「円成実性(えんじょうじっしょう)」は麻です。唯識三性観(ゆいしきさんしょうかん)
三、法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)おシャカ様のお説きになった法門を勉強することを誓います。四、仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)おシャカ様の道に目醒めることを誓いますという意味です。四弘誓願文4
二、煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)「三毒、五欲」というお言葉があります。三毒とは煩悩のことで「貪・瞋・痴(とんじんち)」のことです。ここで五欲というのは、「眼・耳・鼻・舌・身・意(こころ)」という諸々が自分の心を悩ますものです。それを断ずることを一切衆生に口に出して誓うと同時に、自分自身も「三毒五欲」を断ずる為に修行に務めますと誓うのです。四弘誓願文3
一、衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)人間(にんげん)は動植物の命を殺生(せっしょう)して生活させてもらっています。ただ、普通の生活ではそんなことも考えずに食べているので、感謝の念も怒らないと思います。動植物は人間の為にあるように思いがちですが「動植物も一切衆生の中に入る」わけです。私たち衆生は、誓って一切衆生を救おうという誓願の下に動植物の命を殺生し自分の身を支えて修行させてもらっているのです。四弘誓願文2
仏教徒の誓いである「四弘誓願文(しぐせいがんもん)」は天台宗の天台大師がおつくりになったと言われております。この四弘誓願文の「誓」というのは、口に出して唱えることです。それから「願」というのは、自分の心に念じることです。ですから、一切衆生を救おうという願いで、私たち仏教徒はこのお経を口に出して拝読することになっているのです。四弘誓願文1
「菩提心」が無ければたとえ悟っても、皆うそに成ります。有名な白隠禅師は、二十四歳の時に痛快に悟ったのですが、「菩提心」が無かったから「魔の悟り」になってしまいました。実に四十二歳の時まで、そのことに気が付かなかったのです。後に「我れ魔道に陥れり」と懺悔(さんげ)しておられます。白隠禅師四十二歳迄を「因行格(いんぎょうかく)」と、四十二歳から八十四歳を「果行格(かぎょうかく)」とはっきり記しておられます。菩提心5
「菩提心の要訣」は人々をして、菩提心を起こさせることに務めることです。これを「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」といいます。救われる人より救うべき人になるのです。つまり、誰にもこの心を起こさせるのです。先ず自ら菩提心を起こして、人にも起こさせるのです。起こしなさいと標本を示すのです。そうするととにかく救いを以って自任する人と成るのです。菩提心4
おシャカ様の目から見れば「菩提心」は私たち衆生が目の前で実行していると見えるのです。このことを信じられないということは「我」というものがあるからです。元来「我」というものは無いものです。何故ならば「天地は一つの物」だからです。切っても切れない仲なのです。皆我です。大きな我です。「菩提心」とは世界の人々と「道」を楽しむということです。菩提心3
修行するには先ず「菩提心」を起こさなければなりません。今の多くの人には「菩提心」の名前すら知らない人があります。「菩提心」はこの私たち衆生の体に本来充ちているのです。「菩提心」は生まれつきのもので無くそうと思っても無くすることの出来ないものです。天性持って生まれたものです。「菩提心」とは無上道を得て宇宙を救い尽くすということです。本来救われるように成っているのです。そのことをおシャカ様は「天地と我と同根、万物(ばんもつ)と我と一体」と言っておられます。これは「不変の真理」です。また「有情(うじょう)非情同時成道」とも言っておられます。成道とは成仏ということです。「成仏」とは救いということです。これは救いつつあるということなのです。菩提心2
今は人道主義といいますが、人間(にんげん)が世の中の中心になってきました。その人間の求めているものは、六道輪廻の極楽の世界すなわち天上界です。この天上界というものは、果報が尽きると必ず真っ逆さまに「三悪道(地獄・餓鬼・畜生)、人間、修羅の世界に落ちることがあります。ですから天上界に居られる方は、そういうところに何時までも留まっているということは出来ません。もうひとつ「上求菩提(じょうぐぼだい)」という菩提心を起こされて声聞(しょうもん)縁覚を飛び越えて「菩薩、仏」という位に自分自身の修行力・境涯を高めていただかないといけないということです。歴代の覚者はそうしてご苦労をなさったのです。おシャカ様をはじめとして「生まれながらにして仏様」というお方は一人もありません。皆、血の滲むような努力の末に法を得られた方々...菩提心1
仏教というのは、私たち衆生が既にきちんとした、迷えないような基本体であることを知ってもらう教えです。他に尋ねることはないのです。こんなに確かなことが他に何処にあるのでしょうか。仏教とは、今ここに有(在)る物を、有(在)る物に因って、自分自身で「実証(立証)」出来る道です。一番手付かずで全部道具が揃っているのです。迷う道具も揃っていますが、悟る道具もみな揃っているのです。それですから、「この道具立て(六根)」のままに行ずれば「自然(じねん)」に自分で「自覚」出来るようになっているのです。不思議3
私たち衆生は、自分が自分自身であることに間違いないのに、私が一番不思議に思うことは多くの人が自分自身の事が自分自身で信じられないということです。こんなに確かな「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意”心”)が自分にあって自分で使いつつあるほど確かな自分であるのに、これをどうして自分で信じて生活出来ないのでしょうか。活かして生きていけないのでしょうか。それですから、「本当の自分とは」と、何処かへ尋ねて行こうとするのです。如何したら「本当の自分が見つかるんだろう」と思ってとんでもない方向に進んで行こうとするのです。それはそれをはっきり指示する教え及び指導者がいないからです。不思議2
人間(にんげん)には、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意”心”)という働きがあります。私たち衆生は訓練して物が見えたり、聞こえたりするようになったのではありません。生まれながらにして物が見え、聞こえ、味わい、匂いを嗅ぐことが出来ます。そういう霊妙な働きを「不思議」といいます。「不思議」というのは、人の考えの及ばない働きを持っているという事です。その働きのままにしておけばよいのに「意(心)」だけが往々として別になるものなのです。ですからそこで「不安だから安心したい、不明瞭だから明瞭にしたい」と、様々な考えが浮かんできます。実は不安は「安心しなければならない」という迷いから生じるのです。つまりおシャカ様の考えでは様々な結果として、現在の不安があるのです。ですから、不安に「安心してとどまること(不安のままに手を加え...不思議1
正法眼蔵は道元禅師のご著書として有名ですが、その語源の出典を遡ればおシャカ様になります。原文を紹介します。「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり不立文字(ふりゅうもんじ)教外別伝(きょうげべつでん)摩訶迦葉(まかかしょう)に付属す」ですから道元禅師の正法眼蔵というご著書は、おシャカ様がお言葉にされた正法眼蔵と全く同じ内容であり同じ性質のものであることをご理解いただきたいと思います。「この法とは」4
「この法」は何処にでもあるものですが、「それぞれのものが法である」と、指導する人が居ない為に「法の中」に生活していながらも気が付かないというのが現状です。また正しく「法」を説ける指導者が欠けている為に修行がいたずらに「形骸化した法のみ」を求めることに終始したり修行がその「法」を得る手段や方法に終わってしまうという傾向になりがちです。「この法とは」3
「この法(人間を含めた形のある物、形のない物の存在)」には正しいものも、正しくないものもありません。そういう在り方のものではありません。「この法」というのは何処にでも有(在)るものです。アジア特有のものではなく、地域に関係なく、人種・文化・思想や言葉に左右される事なく世界中何処にでもあるものです。「この法」は片寄り様がなく、汚れる事もなく、生まれることもなく、滅することもありません。「この法」は、今の私たち衆生のすべての様子のことです。自分を含めて一切のものが「法」なのです。「この法とは」2
道元禅師「正法眼蔵」に曰く、「この法は人人(にんにん)の分上ゆたかにそなわれりといへども、いまだ修(しゅう)せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし」と。「この法」とは、今のありのままの状態、自分の今の事実という事です。「人人の分上」とは、それぞれの人がそれぞれの立場で一杯一杯に「法」が備わっているという事です。「修せざるにはあらはれず」とは、たとえ豊かに「法」が備わっていたとしても修行しなければ、それが働きとしてあらわれてこないという事です。「證せざるにはうることなし」とは、実証「理(理論)」においても「事(事実」においても証明しなければいけないという事です。「この法とは」1
「仏道という道」に随って究極に至らなければならないのです。既に道の中に居りながら道を探し求めるというのは、非常に矛盾したことですけれども、それを行わなければ、実に余分なことですけれども「今の自己の様子・今の事実」というものは本当に分からないのです。言葉について4
私たち衆生は「空」だとか「無」とかいうと、何かそれが「仏法(仏道)」の大意、究極だと考えがちですけれども「仏法(仏道)」という事を思ったり考えたりすることでも既に言葉に引っ掛かって「迷いの元」となるものです。「仏法(仏道)」には「即今」というお言葉がよく登場しますが、「今」という言葉は有(在)っても「今という事実」は有(在)りません。ですから「今」という言葉を使った、実体のない「今という状態」を自分のものにする以外にないのです。言葉について3
「そのまま」という覚者の言葉は「そのまま」という状態に一度、私たち衆生本人が達してみて、「結果的に見ると」という文脈で初めて活かして生きる言葉として使える言葉であると思います。ですから覚者のみが、「そのまま」の深意を指導出来るということではないでしょうか。歴代の覚者の「そのまま」というお言葉は、私たち衆生の「そのまま」という錯誤の不自由さから解放させる方向に転じさせることへと向けられているのです。言葉について2
言葉ほど扱いに注意を要する者はないと思います。例えば「そのまま」という歴代の覚者が表現するお言葉は「そのまま」という厳然たる状態が有(在)るわけではありません。私たち衆生が「そのまま」というレンズを通して見て「錯覚」を起こしているだけです。そうあるべき好ましい姿を想定し、そうあるべき好ましい姿という目的志向の文脈でこの言葉を使う時は本質から離れて隔てが有(在)ることになります。覚者がそのままという時は、これは「そのままその物と一つである状態」です。即ち「そのままの無い状態」が前提になっていることが、このお言葉の本質です。言葉について1
物質にはすべて法則があります。この法則に従い自分の考えを交えてはいけないのです。「生老病死そのものは法則」です。人の力や「何の何物(何者)かの力」を借りて解決するのではなく「生老病死そのもの」に素直に任せていくのが「解決の道」です。「活かして生きること」が大切な処です。解決の道
死ぬ時に三つの愛着が起きると仏教の論書の中に説かれています。誰一人として、この考えから離れられないというのです。その第一番目に「惜愛(せきあい)」というのが出て来ると言われています。病床に居りながらまだ自分自身というものを考える余裕がある場合、いわゆる自分以外の周囲のものに対して愛着を起こし、財産とか名誉とかそういうものを惜しむ愛を惜愛といっています。ところが体がだんだん衰弱してくると財産とか名誉を必要をしないのに次の執着が出て来ます。それが第二番目の「自体愛」というものです。何とかして自分の体だけを保っていけばそれでいいという考えです。第三番目が「当生愛(とうしょうあい)」というものです。これから死んだらどうなるのか、それが分からなくて心配になってくるのです。地獄極楽といっても平生に信仰が無いからわから...三つの愛着
「集」とは煩悩のことです。苦の元(本)は実に煩悩があるからなのです。それさえ取り除けば安楽に死ねるのです。それが「滅道」です。その死を安楽にするには「妄想、煩悩」を滅すればよいので、滅という結果を先に出してあるのです。それを満足させるには「道」という修行が在るのです。やはり結果を先に提示して「それなら修行してみよう」となるから「因即修行」と後に回してあるのです。道(修行)に因って必ずそういう妄想、煩悩を滅する事ができます。「苦が楽に成る」のです。そうしたら何時死んでもいいという「信念」が起こって来るのです。三つの弱点6
苦集滅道(くじゅうめつどう)というのは結果です。人生は苦を伴うものです。死に行く支度をしているものです。医者から「あなたはもう駄目ですよ」と言われたら金の力は何の効力もなく、何の役にも立ちません。私たち衆生は「三つの弱点(愛着)」を持っているから苦しいのです。それをどうしたら安心して死ねるか、その結果として先に提示したのが苦集滅道で、先ずこれで最初に私たち衆生の覚醒を促したのです。三つの弱点5
苦集滅道(くじゅうめつどう)は日本では「貪・瞋・痴(とんじんち、貪り・怒り・愚痴)です。これを煩悩と言っています。苦集滅道の苦、集ですが「苦集(煩悩)」を取り除きさえすれば安楽になるということは、道理としてわかって頂けると思います。その取り除くということは「滅(なくする)」ということです。ですから、「煩悩」が無くなれば人は安楽になるということは道理として当然のことです。その楽になる道(みち)が道(どう)なのです。私たち衆生は道(みち)を修行することによって必ず安楽になることは間違いないと仏教の論書には説明されているわけです。三つの弱点4
おシャカ様は初めに四つの真理として苦集滅道(くじゅうめつどう)をお説きになりました。①苦・・自分が悩み苦しんでいるという事実、思い通りにならない事実を認識すること。②集(じゅう)・・苦しみが集まる、苦しみが生ずることの原因をあきらかにすること。③滅・・思い通りにならないという苦しみをなくすこと④道・・道によって必ず究極に到達することが出来るということ、道理を説き各人に考えてもらい目的に向かって進む為の道をお示しになったのです。私たち衆生は、自分と道との結び目をなくする修行に務めなければならないのです。仏教ではこの四つの真理の事を四聖諦(ししょうたい)、四諦(したい)といいます。三つの弱点3
「時は金なり」という時代は過ぎました。エマーソン曰く「時は命なり」と。金はまた得られますが、失った時は再び得ることはできません。時は命を刻んでいますが、この真理を判らないで過ごしていては、日々命を殺していることになるのです。それでは仏教でいう所の「殺生(せっしょう)罪」であり、大破戒なのです。いま、皆さんを未熟なお方としてお話させてください。そうでなければ話が出来ないからです。「未熟なお方には結果を先に見せる」というのが仏教の鉄則です。仏弟子のうち声聞(しょうもん)には「苦集滅道(くじゅうめつどう)」という事をおシャカ様はお説きになりました。三つの弱点2
人間(にんげん)の執着は何時頃から始まったかというと、お父さん、お母さんの因縁によって私たち衆生がお母さんのお腹の中に托生(たくしょう)した時から生への執着というものが入ります。これは自分とか自分じゃないということに関わりなく、働きとして執着というものが有(在)るのです。そういうものが胎内で容(かたち)作られてきて、そうしてそのまま誕生して来るという訳です。この事を仏教では「業因」といっています。ですから、「不知不識生(ふちふしきしょう、しらずしらずに生ず)」なのです。私たち衆生は「三つの弱点(惜愛、自体愛、当生愛)」を持っています。これが苦の根源になっているのです。生きている今の現実には誰もが、そういう事はあまり考えないで生活しているだけなのです。三つの弱点1
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人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。これは全く間違いだと思います。「人の一生」は今日の積もったものです。「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。今なくして一生はありません。過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。人の人生1
何故私たち衆生は「グジュグジュしている今の自分を終着点」と、承知出来ないのでしょうか。何故おシャカ様はこんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。これはあらゆる人が道元禅師のいわれる「この法は人人(にんにん)の分上豊かに具われりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって必ずそのことが現れて来るということです。修行しなければ出来ません。歩みを進めていかなければ「行き着くところ」には到着出来ない、ということになるのです。行き着くところ2
本当に自信をもって「この修行をすれば間違いなく究極に到達する」ということは、なかなか断言できるものではありません。「出発はしたけれども何処に終着点があるのか」ということです。「終着点」とは何処かといいますと、「今の自分」です。「今のいろいろなことを考えたり、思ったり、グジュグジュしていたりしている其処(そこ)にしか行き着くところ」はないのです。それを誰が「グジュグジュしている状態はよくない」と決められるのでしょうか。「グジュグジュしているそれしかない」のですから、其処に行き着く他はないのではないでしょうか。行き着くところ1
「一切のもの」は何時でも完全な状態であり、充実した相(すがた)であるということです。それが「道(法)」というものです。私たち衆生は「ものが見える、聞こえる、話が出来るから生きている」といいますが、それらは全て「生きているという事実の説明」にすぎません。それらは、「今(今の事実)そのもの」ではなくて、「今(今の事実)の説明」にすぎないことです。「事実と説明(言葉)」の間にズレが生じていることに気付かなければなりません。「事実」というものも、なくならない限り「今(今の事実)」ではありません。ものをつかむための「今(今の事実)」ではありません。「今(今の事実)」そのものに成るための今(今の事実)」です。「今」ということ3
「今」というものは、もののない、認めようがないものです。ものの有る無しの「無い」では有(在)りません。ですから相対的な考えの「無い」では有(在)りません。私たち衆生の日常生活は「生死を超越した処」で行われているのです。これを「今」といっているのです。私たち衆生は「今」が存在しているように思っていますが、それは「私(個)というものを認めた所産」なのです。ですから「本来の自己」を見極めれば「存在するように思っていた今」はないということが分かるのです。「今」は「もともとないものの中で出来たもの」ですから「解決しよう(分かろう)」と思っても「解決の仕様がない(分からない)」のです。「今」ということ2
私たち衆生の日常生活を見てみると、ほとんどの人が過去と未来の中にしか日常生活が出来ていないと思います。すなわち「過去というのも過ぎ去ったことであり、未来というのは未だ来たらずということ」なのに、往々にして過去は愚痴になり、未来は不安の種にしてしまっているような考えで常に生活しているように見受けられます。「過去と未来が有(在)る」ということは必ず「今」がなければなりません。「今」が有(在)るから過去と未来が生じるということです。此の事は「道(法)」が分かる分からないということに関係なく「今」は有(在)るのですが、其の「今」の説明が出来ません。説明が出来ないということは、私たち衆生はそのくらい「何もない世界」に何時もいる、ということです。本当に「何もない状態」が「今」なのです。「今」ということ1
人は必ず死ななければなりません。如何なる「成功」も「死」には張り合うことは出来ません。如何なる財産を持っていても「死」に臨んで一時間の生命を買うことは出来ません。此処に「法(道)を求める」必要が何方にもあるのではないでしょうか。「真の成功」は「永久」でなければなりません。「時と所と位(くらい)」に因って変化すべきものではないのです。何人もその分量が同じでなければなりません。「禅」はそれを発見して「真の成功」に満足を与える無上の妙術です。「真の成功」とは
「境遇は結果」です。「結果」はどうすることも出来ないものです。「結果は即ち、真理」です。この事を仏教では「因縁生空」といっています。私が「因」であり、貴方が「縁」なのです。貴方と私とが因と縁によって結びついた処が「結果」なのです。即ち「私たち衆生はその境遇に満足しなければならない」のです。「私たち衆生は全く一つの物」です。「空」とは「一つの物」ということです。離れることはどうしても出来ないのです。「空」とは6
「因縁生」というお言葉があります。全ての物が集まって「一つの物」を形作っているのです。様々な現象が世界には有(在)る訳ですが、みんなそれは「自分の分かれた物だ」ということです。「元を質(ただ)せば、本当に一つの物」です。それぞれの物がそれぞれの立場にきちんと他の領分を侵さない様にしてあるということを「空」といっているのです。「空」というのは何も無いということではありません。「比較するものが無くなった」ということです。別の言葉で言えば、只、思い込みの取れたことです。「空」とは5
「空」というと、あるものがある時期において「ある縁に因って其の物に成った」と考えがちですが、そういうものではありません。「空のままにものが有(在)る」ということです。「空」のなかにものが、様々な「法として、差別として有(在)る」ということです。別の言葉で言えば、「それぞれのものが全て空のままに、無いながらにして有(在)る状態」を仏教で謂う所の「空」と説明している訳です。「空」とは4
「此の物自体」は「空」なのです。「実体」が無く、自性(じしょう)が無いものなのです。「一つの物」というものは有り様がありませんので、これを「空」といっているのです。「全ての事実」を「空」と名付けたのです。これは一応説明として「空」と名付けたのです。ですから、「此の空」も「認める事の出来ないものであり、実体の無いもの」なのです。「縁」に応じて自由に変化していき、その変化していく活動が「業」というものです。「修行に因って、自分が空に成った」という人がありますが、それは間違いです。私たち衆生はもともと「空」なのです。「空」とは3
「空」とは何かあるべきものが不在している状態をいうのではありません。相対的に「空」に対する「有(う)」を想定したものでもありません。「空の空、空の縁、空の自分」ということです。何故「空」なのかというと、「有形、無形の一切の物は全て因縁に因って出来ている」からです。「因縁の法則」は最初から「絶対の法則」として存在していた訳ではありません。おシャカ様が「法、道、空」を理論的に説明しなければならない為に「因縁の法則」を打ち立てたのです。「空」とは2
ある人は私を「お坊さん」と呼び、又ある人は私を「和尚さん」と呼びます。「此の物自体」には名称は有(在)りません。「此の物自体」は様々な「縁」に応じて変化していけるのです。本来、そういう風に全く自由さを持っているものです。何故これほどに自由活発に「此の物自体」は「縁」に応じて「その物に成れるのか」というと、「縁その物が空であり、縁に応じるこちら側の物も空だからです」。「空」とは人間(にんげん)的思惑(考え、意図)一切が取り除かれた状態なのです。別の言葉でいえば「全ての物が一杯にある様子、あるべきものがあるべきようにある姿、そしてお互いに邪魔にならないで融通し合っている姿」をいいます。「空」とは1
「修行に因って迷いをなくそう」と思うのは間違いです。「人(ひと)」は一定しない状態を「不安」という言葉で表現しています。本来、「迷い」や「不安」は実体のないものですから、「迷いの法」といい「不安の法」というものもみんな「ひとつの法」なのです。それぞれ「縁」に因って「迷い」となり「不安」となっているのです。これは「人(ひと)」が作ったものではありません。従って「迷い」は迷いのまま、「不安」は不安のまま有(在)るのが「法(道)」にかなった状態です。「法(道)」から離れようとするのは「自我の働き」だということをよく知(識)っておいていただきたく思います。無我とは3
そのように元来、名付けられない「此の物」を知らず識らずに認識し、周囲の人を「人間(にんげん)」と見るようになるのです。ですから、私たち衆生は此の世界に生まれたということを絶対に知(識)ることが出来ないにもかかわらず、「私は此処に存在している」という認識を起こしているのです。私たち衆生は、もともと「人(ひと)」ではなかったのに「ある時(物心がついてものごとを認識出来る働きが起きた時)」から「此の物を人」と認め「本来何もないもの(認めようにも認められないもの)を有(在)ると思って認識してきただけ」の話なのです。無我とは2
「無我」というものは「人(人)」というものを認めた上での言葉です。そこで「人の根源とは何か」ということが問題になります。私は「此の物」が「人(ひと)」と名付けられるようになったのは、何時の頃かということを考えてみたいと思います。父母の縁に因って「此の物」が出来上がりますが、私たち衆生は知らず識らずに生まれていつの間にか「人(ひと)」あるいは「人間(にんげん)」と名付けられていたという全く根底のないものなのです。このことを私は「不知不識生(ふちふしきしょう)」と名付けています。そして「人(ひと)」には「六根の意(認識)」というものが元元具わっており、この認識が自分と他というものを分けて見る働き、つまり「自我」というものを形成するのです。無我とは1
「月というのは自分自身である」ということを認識して頂きたく思います。「教えというレールの上」を走っている間は決して「法」というものは分かりません。「法」は他にある訳ではありません。何故ならば私たち衆生一人一人が「法」そのものであるからです。自己の正体を見極めない限りは色々な教えの中で右往左往してしまうものです。私たち衆生の「日常生活そのもの」がそのものに成れば本当に修行に成るということです。「法」を知(識)らずに「教え」だけを知(識)っている為に修行の方向間違いが生じてしまうのです。月を標す指3
個々のものは具体的に「事象(事実と現象)」として他と比較してそれぞれに違いがあります。そのことを一般的には「差異」といい仏教では「差別(しゃべつ)」といいます。「法」とは「差別(しゃべつ)」です。「ものの本質」というものは時間的にも空間的にも「同一(平等)」であり、因果の法則に従って「差別(しゃべつ)の相」が出て来ているということです。これはおシャカ様以前からそうであったということです。この事を仏教では「自然(じねん)」といいます。即ち、自ずから然りということです。月を標す指1
人類で初めておシャカ様は「諸法は無我なり」ということに気が付かれたのです。すべての教えは「月を標す指」ともいわれました。しかし、月を見ることよりも「指の詮索」に生涯をかけてしまう人があります。たまたま月を見ることを教えられても、はるか彼方の「月」というものを標されるので、これは「真に法を求めようとする人」にとっては、大変な大きな誤りを教えられているということになってしまうのです。月を標す指2
私たち衆生が自分自身でしている行為(見る、聞く、味わう、思う等々)に何となく物足りなさや不満足が残るというのはこれは全て「自我の介在」があるからです。それはまた「本来の自己と一つに成れていない」ということなのです。本当に見た、本当に聞いたという様子は、見たもの聞いたものが完全になくなった様子をいいます。仏教では「空」と呼んでいます。私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という縁に因って必ず「本来の自己」に目醒められる時節があります。「悟りを開いたという人」は何方でも必ず「六根の縁」に因って「本来の自己」に目醒めているのです。「おシャカ様の宣言」は「どんなもの(自分を含めて一切の衆生)でも仏でないものはない」ということなのです。別のお経の中で、「私たち衆生は仏そのものである」といわれたのです。自我の介在
坐禅は坐禅より外に知るものはないのです。「坐禅は坐禅なり」です。外に知る者があれば、これは坐禅ではありません。生は生の法位にして、盡天盡地の生なのです。死は死の法位にして、貫古貫今の死なのです。ですから仏祖の生死を見ることは、春の百花を見る様なものです。道歌に「おもしろや散るもみじ葉も咲く花もおのづからなる法(のり)のみすがた」とあります。花は咲く時、咲くと言わず、散る時は散ることを知らないのです。生は生の生にして、生の外に生なしなのです。「空即是色、色即是空」なりです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす3
「縁に対せずして照らす」とは、その物それがそのままはっきりしていて、疑わしいところの無い、ということです。玉の自ら光を発して自ら照らすが如きものです。「虚明(きょめい)自照心力(しんりき)を労せざれ」です。相手なりに相手が無いことです。どうして喧嘩ができるでしょうか、ということです。「不回互にして成ず」と同じです。「対せず」とは、対しながら対する自己が無いことです。ここのところを道元禅師は「一方を證すれば一方は暗し」といっています。「暗し」とは同化ということです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす2
「事に触れず似て知る」とは「事その物に成る」ことです。事、即ち、知です。知るの外に知るものが無いのです。「真知は不知なり」です。相手が無いから知り様がないのです。つまり、「事実は真理の證明者なり」です。道元禅師の歌に「聞くままにまた心無き身にしあれば、おのれなりけり軒の玉水」と。明らかに聞くばかりです。これを「真に知る」というのです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす1
「解脱」に到るためには、誰のものでもない、その人自身の表現(行為)こそが非常に大切です。地上に多くの人がいるのは、それぞれの人に異なった役割をしてもらうためであり、同じ表現(行為)を二度とする必要は全くありません。外側に否定的なものが見える時には、自分の心の中にそれを「現象化させている否定的な波動」があるのです。格言6
意識の未発達の段階では、外の世界に現れている現象が、自分の想念に因って造り出しているものであるという事に気付かず、実体のあるものとして認識してしまいます。それに翻弄されて不必要な混乱を招いている場合が非常に多くあります。ひとりの人間(にんげん)の周囲の出来事は、その人の出している波動に因って現象化されています。何もしていない様に見えても、いつもニコニコして暮らしている人の方が、世の中には貢献しています。何ということもない、日常の生活のひとつひとつに正しく関わっていくことが、人間(にんげん)の究極の望みの目的にとって最も大きな効果があり、しかもその人にとって最短の進歩を与えてくれます。格言5
「法」をもとめるどんな努力も「最後まで続けた人」だけが、「解脱」に到るのです。人間(にんげん)が地上に肉体を持っているという事実は、人間の数だけそれぞれの人生を通して「修行方法」が用意されているという意味です。私たち衆生は原則としては「真理」を自分自身の内側に向けて求めるべきであり、外側の誰かに対して求めてもそれを得ることは出来ません。しかし、その一方でどんな人でも最初は「迷いの真っ只中にある自我意識の状態」から始めなければならないのです。「人を呪わば穴二つ」というお言葉がありますが、否定的な想念を誰かに向けたようなときは確実に自分が害を受けることになります。これは「カルマの法則」です。格言4
どのような宗教集団であっても「自分意識の人間(にんげん)」が関わっている限り、その教義や活動に多かれ少なかれ問題が生じてしまいます。私たち衆生は人間(にんげん)としてのおシャカ様という「人格(個性)」を考えてはいけないし、又そのような「人格(個性)」も想像してはいけないのです。何故ならば、こうした考えが「法(真理)」を識るうえで私たち衆生の目を覆うからです。誰かに追随することは易しいです。その人物が大きければ大きいほど、追随するのは容易となります。しかし、それは「本人の解脱」にとっては妨げとなります。何故なら、「追随する者(その人物)」は、決して「解脱」するものではあり得ないからです。「追随と随身の識別」ははっきりしなければなりません。格言3
必ず来る最後をふだんから考えている人は、生きるとはどういうことか、最後はどう締めくくるべきかの覚悟が出来ています。死は自分の思いを越えたところで起きるので、自分の思い通りにはいきません。生き方は自分の思いの範囲内で充実させることが出来ます。ですから、結果を気にせず、しかも死は視野に入れながら思い通りに出来る範囲の事を思い通りにすればいいのであって、あとは「おまかせ」です。「人事を尽くして天命を待つ」のではなく、「天命に任せて人事を尽くす」のです。「有難(うなん)」とは、人の生を受くるは難く、限りある身の今、生命ありは有り難し。格言2
人の為と書いて「偽(にせ)」と読みます。また、人の夢と書いて儚(はかない)と読みます。運動とは運を動かすこと、つまり行動すること。出会いは人の心を広げてくれるし、別れは人の心を深くしてくれます。「人の役割」とは、老いる姿、死にゆく姿をあるがままに後継者に「見せる、残す、伝える」ことです。命が残されているという事は、今何歳であろうと、まだまだしなければならないという事があるをいう事。「忍」とは心の上に刃(やいば)を載せて生きていくこと。我々の人生というものは、生きて死ぬまでの「間」でしかないのです。「健康」は人生を豊かに生きる「手段」であるはずなのに、いつの間にかそれが「目的」になってしまっているようです。格言1
「彼岸」に対して「此岸(しがん)」というものがあります。一般にはこちらの岸(此岸、今)が現実の迷いの世界で、彼の岸(彼岸)に悟りがあるようにとられられています。しかし、そうではありません。私たちはいつでも「彼岸」という結果(悟り)にいるのだという事です。ところが、私たちは今自分が「彼岸」にいるという事をどうしても信じることが出来ないのです。「覚者」は「あなた達はもうすでにいつでも彼岸に到っているのです。今が彼岸なのだから、今の外に彼岸を求めてはいけません。」と話しているのです。しかし私たちは「今、すでに彼岸にいる」という事を信じることがなかなか出来ないものです。何故かというと、「自我」というものがあるのです。彼岸について2
彼岸とは仏教語です。広辞苑によれば、「ひがん〔彼岸〕(仏)河の向こう岸、生死の海を渡って到達する終局、理想・悟りの世界、涅槃⇔此岸(しがん)」と記されています。しかし、こちらの岸(此岸)と彼の岸(彼岸)というものを立てることは間違いです。彼岸とは正しくは「到彼岸、事究竟(とうひがん、じくぎょう)」といいます。「事究竟」とは、「事がそれで終わっている」ということです。本来、私たちの日常生活は「事がそれで終わっている」という事でないと本当ではありません。「自分はまだ未熟だ」という人がよくいますが、本来その人は「未熟のままで終わっている」のです。「未熟だから完成させよう」と考えるのは間違いです。みんなそれぞれに一杯一杯なのです。しかし私たちは理屈では分かっていても、「事実」がなかなか伴わないものです。そこで止む...彼岸について1
「委」は頓なり、「頓」は壊(え)なり。「壊」は”ヤブレル”または”クズレル”と読みます。その物それに成り切って、成り切るというものも無くならなければなりません。その物に成ってその物を「證せなければ」いくらのべつ幕なしに喋っても駄目なのです。「委」の字の真意義は説けば、手付かずです。「そのまま」というのも及ばずです。除くものがない、壊すものがない、本来の極浄に成ることです。その間に認識の入る隙間はありません。認めれば妄想です。その物に成ることです。「坐禅箴」残り物5
「単」は「不染汚(ふぜんな)」です。「不染汚」とは外から汚されないことをいいます。元来、不染汚の境界(きょうがい)に体達して、異分子が混じわらなければ(残り物がなければ)六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のままで極浄です。もはや落とすべき「煩悩・菩提」も無いのです。そのものそれに向かって直下(じきげ)に究盡(ぐうじん)する修行が、ここでは「委すること無うして脱落す」というのです、「坐禅箴」残り物4
「禅」の字が「単、示」の二字から成立しています。「単」は赤裸々です。「赤裸々」とは「裸をもう一つ裸にする」と理解しなければなりません。裸をもう一つ裸にしてこそ「真の単」なのです。ちょうど百合の皮がまだむけていないのに、皮が無いと思っているようなものです。「悟り」というものが有(在)れば、それだけ「単」ではないのです。それを「真常流注(しんじょうるちゅう)」といいます。いわゆる「悟りという病」です。所詮、何物も脱し、何事も落としてこそ「大自在底」が初めて得られるのです。そこのところを道元禅師は「坐禅箴」の中で「その親委(い)すること無(の)うして脱落す」と、お示しになって居られます。「坐禅箴」残り物3
本当に親しいものは、何者が入って来ても犯されるものではありません。時と処によって境界(きょうがい)が変わるものではないのです。汚されるものは不思量に「残り物」があるからです。「何も無い」というものを、もう一つ殺さなければ本当の親しみは得られません。「坐禅箴」残り物2
「不思量」とは自己を忘ずることです。「自己を忘ずる」とは、万法(まんぼう)に證せらるることです。ですから、その現れ方は純一無雑にして何物に当たっても親密でなければなりません。ところが「実地」に於いてはそうは行かないのです。ちょうど、魚を焼いてしまってもなお、匂いが残るようなものです。そこで歴代の覚者は一層の奮起を促して「小成(しょうじょう)に安ずること」を戒められるのです。「坐禅箴」残り物1
ここのところは、「現成(げんじょう)」の二字を「現」と「成」と割って使っていますが、「現成」とは現れて確かで間違いのない様子をいいます。山は高くして山であるということです。「諸法実相」は現れたまま欠けることもなく成就しているのです。ですから「現成」といいます。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す3
「不回互」とは独立無伴にして、他の交渉を要しないので、自らは自らにて「成功(成就)」している事を自覚するのです。しかも、自らは自らを「證明(しょうみょう)」して疑わぬのです。それを「その成自ずから(おのずから)證す」といいます。「證す」とは自證のことです。仏道は「自分を自分で證明することが出来る教え」です。もし自分を自分で證明することが出来ないのであるならば、「他の人の證明を得た」としても何の役にも立ちません。「この證明は自證」で他の證明を借りるのではありません。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す2
自ずから(おのずから)人格の不思量を尊重すると、同時に他人の人格をも尊重せざるを得ないのです。それを「其の現自ら親し(そのげんおのずからしたし)」といいます。「親し」とは親密ということです。これは「不思量にして現ず」の証拠です。道歌に「糸瓜(へちま)とは糸瓜に似たる糸瓜かな」と。「その物はその物が證するより親しきはなし」なのです。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す1
「不回互(ふえご)にして成ず」とは、物は皆いちいち独立して外からの何の交渉も、回互も入る隙間も無いはずです。見る時は、見るばかり。聞く時は、聞くばかり。「人」も「境」も認めようのないはずのものです。不思量の故に不回互なのです。決していちいちの独立で他の干渉を許さぬものです。この「成」は成立、または成就の義で、人格的には「成仏」の「成」ということです。「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず3