chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
フォロー
住所
岡山県
出身
未設定
ブログ村参加

2014/12/11

arrow_drop_down
  • 「奥の細道」文月や六日も常の夜には似ず (越後路)

    文月(ふみづき)は七月七日に七夕の月で、七夕の日には和歌を読む(文を読む)ので”文月”となったそうだ。六日の発句会で、芭蕉先生は七夕を待ちきれない純情なような、楽しさを感じる句を詠んだ。・・・旅の場所・新潟県糸魚川市旅の日・2020年1月28日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行越後酒田の人々と名残を惜しんで日を重ねていたが、これから出で立つべき北陸道の空を遠く望み、はるばるの旅の思いに胸を痛めた。加賀の国府金沢までは、百三十里と聞いた。鼠の関を越えると、越後の地に足を踏み入れ、越中の国市振の関に至った。このあいだ七日、暑さと雨との辛労に心を悩まし、病気が起って、出来事を記さなかった。文月や六日も常の夜には似ず(七月と言えば、六日もふだんの夜...「奥の細道」文月や六日も常の夜には似ず(越後路)

  • 「奥の細道」波こえぬ契りありてやみさごの巣 (秋田県象潟)

    みさごの夫婦愛のような句。芭蕉と曾良の旅は、酒田と象潟で佳境を超えた。以後も越後・越中・加賀・越前へと旅をつづける。・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行波こえぬ契りありてやみさごの巣曽良象潟の九十九島の中に鶚(みさご)島という名の島があって、岩上にみさごの巣がかかっていた。鶚は、雌雄の仲が睦じい鳥といわれている。それが高い岩上に巣を作っているのは、波も越えることのできない夫婦の堅い契があってのことだろうか、といったのである。・・・旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島蚶満寺旅の日・2022年7月11日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行象潟は由利郡象潟町にかつてあった潟湖である。文化元年(一八〇四)の地震で地面がもり...「奥の細道」波こえぬ契りありてやみさごの巣(秋田県象潟)

  • 「奥の細道」蜑の家や戸板を敷きて夕涼 (秋田県象潟)

    古代から昭和40年頃までの日本の夏は、国民ほぼ全員が夕涼みを楽しんでいた。子どもとっては寝る前の楽しいひとときだった。町の人は通りに縁台を出し、田舎の人は庭に涼み台を出し、それに座るだけ。という単純な娯楽。漁町の人は夕方から、翌日の天気を予想しながら海風にあたっていた。象潟の人は”戸板を敷きて”の夕涼み。どんな夕涼みもなつかしく感じるほどに、日本の夏から消えてゆく。・・・旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島旅の日・2022年7月11日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「芭蕉物語(中)」麻生磯次新潮社昭和50年発行夜、宿に戻ったところへ、名主の今野又左衛門が訪ねて来て、「この土地のいわれを書いた『象潟縁起』というものが伝わっていたのですが、いつの間にかそれが紛失して困っております。ここへおいで下さった記念...「奥の細道」蜑の家や戸板を敷きて夕涼(秋田県象潟)

  • 「奥の細道」象潟や料理何くふ神祭 (秋田県象潟)

    高校生の時、古文の授業の「奥の細道」で、【象潟】を初めて知った。地図をひろげると、あった。秋田県地図の下の方に⛬象潟が載っている。あまりに遠方で、その地を訪れることは想像もできなかった。しかしそれから数十年経つと、行くことが想像できるようになり象潟へ行ってみたいと思うようになった。東京駅発のバスツアーで2022年、「象潟」に着いた。象潟の田んぼ道を歩いていると、なんか夢の中のような感じがした。バスが象潟を発車すると「ついに象潟にきた」と、自分ひとりの感動と満足にひたった。・・・旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島旅の日・2022年7月11日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行象潟や料理何くふ神祭曽良六月十七日は象潟の熊野権現の祭日であった。『書留」...「奥の細道」象潟や料理何くふ神祭(秋田県象潟)

  • 「奥の細道」汐越や鶴はぎぬれて海涼し (秋田県象潟)

    汐越は浅瀬、象潟は潟湖。鶴が海を見ている風景を詠んだ句だが、涼しさがつたわってくるようだ。現代の象潟は、潟湖時代の面影を彷彿させてくれるのが嬉しい。・・・旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島旅の日・2022年7月11日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「芭蕉物語(中)」麻生磯次新潮社昭和50年発行十八日は快晴であった。早朝象潟橋に行って鳥海山の晴嵐を眺め、海水の入江にはいる汐越のあたりで、鶴のおり立っている情景をみた。汐越や鶴はぎぬれて海涼し芭蕉潮が満ちてひたひたと寄せてくる汐越に、鶴がおりている。鶴の足は海水に洗われて、あたりの風景はいかにも涼しげであった。・・・・・・「日本の古典11松尾芭蕉」山本健吉世界文化社1975年発行腰長は象潟が海に通じているあたりの浅瀬で汐越といった。芭蕉の真蹟に「腰...「奥の細道」汐越や鶴はぎぬれて海涼し(秋田県象潟)

  • 「奥の細道」象潟や雨に西施がねぶの花 (秋田県象潟)

    ----ひそみにならう----「小説十八史略」陳舜臣毎日新聞昭和52年発行絶世の美女。その名を西施という。夫差はどんなに美人でも、道理のわからぬ愚昧な女はきらいであった。たおやかな賢女。それが夫差の理想の女性である。彼は西施に夢中になった。夫差は出征のときも、陣中に西施を伴っていた。片時も離さなかったのである。西施は眉をひそめると、一そう美しくみえた。眉のあたりに、ひきしまったポイントがつくられ、それが新しい魅力を生む。呉王の宮殿では、宮女たちが西施を真似て、悲しくもなんともないのに、眉をひそめるポーズをつくるのが、流行ったという。「ひそみにならう」という諺がある。自分にアウカドウカ、まるで考えないで、他人の真似をすること、つまり猿真似のことをいう。・・・中国五千年の歴史でも、「呉」と「越」の故事は今も日...「奥の細道」象潟や雨に西施がねぶの花(秋田県象潟)

  • 「奥の細道」暑き日を海に入れたり最上川 (山形県酒田)

    観光バスが鶴岡市から酒田市に入る頃、最上川と日本海に夕陽が落ちていった。バスが最上川右岸のホテルに着き、すぐに”暑き日を海に入れる”風景を見るために、最上川に架かる出羽大橋に行った。橋の上から、「暑き日を海に入れる」最上川を眺めていた。その眺めは絶景だった。芭蕉が見た「暑き日を海に入れる」最上川と同じと思った。暗くなって、暑き日が終わるまで最上川を眺めていた。・・・旅の場所・山形県酒田市落野目・出羽大橋旅の日・2022年7月10日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「超訳芭蕉百句」嵐山光三郎筑摩書房2022年発行暑き日を海にいれたり最上川芭蕉は鶴岡から川船に乗って、酒田へ向かった。酒田に出て、生まれてはじめての日本海を見たのであった。山野彷徨の果てに見る日本海は芭蕉にどのような感興を与えたのだろうか...「奥の細道」暑き日を海に入れたり最上川(山形県酒田)

  • 「奥の細道」あつみ山や吹浦かけて夕すずみ (山形県酒田)

    北前船や最上川の舟運で繁栄する酒田。芭蕉と曾良は医師・不玉の家を宿として、12日間のくつろいだ日々を過ごした。「芭蕉物語(中)」麻生磯次新潮社昭和50年発行朝食をすませて象潟を出発した。道中あゆ風がそよそよと吹いて来て、山も海も爽快であった。この日は一気に十一里の道を歩いて、夕方酒田に到着した。十九日も快晴であった。明日は寺島彦助が江戸に旅立つというので、芭蕉は杉風や鳴海の寂照や越人宛の手紙をしたため、曽良は杉風や深川長政宛の手紙を書いて、彦助に託した。伊東玄順は象潟から帰って来た芭蕉たちを誘って、最上川で舟遊びを催した。舟は河口から袖の浦に出て、眺望をほしいままにした。あつみ山や吹浦かけて夕すぐみ芭蕉・・・旅の場所・山形県酒田市落野目旅の日・2022年7月11日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・温海山...「奥の細道」あつみ山や吹浦かけて夕すずみ(山形県酒田)

  • 「奥の細道」湯殿山銭ふむ道の涙かな (山形県湯殿山)

    湯殿山への参拝は、お祓いを受け、裸足になって、銭を踏みながらお詣りする。ご神体からは温泉が湧き、世にも不思議な神域となっている。・・・旅の場所・山県県鶴岡市田麦俣字六十里山「湯殿山本宮」旅の日・2022年7月12日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「超訳芭蕉百句」嵐山光三郎筑摩書房2022年発行湯殿山銭ふむ道の泪かな曾良流出する湯の近くにはいまなお一円玉・百円玉の賽銭が金網のうえにばらまかれていた。賽銭を踏みながらの自己再生に涙するというのだから、曾良の作とした。御神体岩に湧く湯は熱く、足裏に触れると、ぬらぬらとして、なまめかしさがあった。湯をなめてみると塩分が強く舌がしびれていった。・・・・・・「日本の古典11奥の細道」山本健吉世界文化社1975年発行湯殿山銭ふむ道の涙かな曽良(出羽三山)芭蕉の湯殿詣...「奥の細道」湯殿山銭ふむ道の涙かな(山形県湯殿山)

  • 「奥の細道」語られぬ湯殿にぬらす袂かな (山形県湯殿山)

    湯殿山へのお詣りは神秘さが満点だった。ミステリーツアーのようだった。しかし、そのことは語りたくとも、書きたくても、撮りたくても不可能。「語るなかれ、聞くなかれ」が湯殿山神社。御神体は霊験極まり、SNS全盛の今どき、秘めるのはもったいないような気さえする。それほど魅力的な、不思議さがある湯殿山だった。いい体験だった。・・・旅の場所・山県県鶴岡市田麦俣字六十里山「湯殿山本宮」旅の日・2022年7月12日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」出羽三山の奥の院神秘が息づく行の山湯殿山神社本宮「語るなかれ」「聞くなかれ」修験道の霊地・湯殿山は、標高1,504m、月山南西山腹に連なるなだらかな稜線の山。出羽三山の奥宮とされる湯殿山神社本宮は、写真撮影禁止、参拝は土足厳禁という...「奥の細道」語られぬ湯殿にぬらす袂かな(山形県湯殿山)

  • 「奥の細道」雲の峰いくつくずれて月の山 (山形県月山)

    芭蕉がすごいのは文人として以外に、気力と体力が並外れている。江戸からの旅人が羽黒山にお参りするとこまでは、まあ理解できる。しかし、更に足を延ばして標高1.984mの月山、1.500mの湯殿山へ登る。これは体力・気力とも揃わなければできることでない。現代の我々の”登山”は、登山口駐車場まで車、そこから八合目付近までロープウェイ。山頂まで少し歩けば登頂、というのが、ほぼお決まりのパターン。登山口に一番近いJR駅に降りて、そこから歩いて登る、という人さえ皆無に近い。・・・旅の場所・山形県鶴岡市羽黒町・月山弥陀ヶ原湿原旅の日・2022年7月12日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「日本の古典11奥の細道」山本健吉世界文化社1975年発行芭蕉が月山に登ったのは、六月六日であった。出羽三山の主峰で海抜千九百八十メー...「奥の細道」雲の峰いくつくずれて月の山(山形県月山)

  • 「奥の細道」涼しさやほの三日月の羽黒山 (山形県羽黒山)

    羽黒山の参道は”涼しさ”という言葉そのものの世界。色は緑、涼しさしか感じない。句は夜の三日月を詠んでいるが、羽黒山を代表する情景に感じる。・・・旅の場所・山形県鶴岡市羽黒町手向「出羽神社(三神合祭殿)」旅の日・2022年7月10日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「超訳芭蕉百句」嵐山光三郎筑摩書房2022年発行涼しさやほの三か月の羽黒山羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山は山岳信仰の霊場として古くより名高く、『おくのほそ道』の旅の目的のひとつはこの出羽三山へお参りすることであった。なかでも羽黒山は参拝客が多く、その門前町が手向である。芭蕉が訪れたころは三百軒の宿坊があり、現在は古き宿が営業している。宿坊街のつきあたりが随神門で、そこをくぐると祓川を渡り、杉並木の一の坂、二の坂、三の坂が約二キロつづいてい...「奥の細道」涼しさやほの三日月の羽黒山(山形県羽黒山)

  • 「奥の細道」ありがたや雪をかをらす南谷 (山形県羽黒山)

    昭和10年代初め、連戦連勝の日本軍の進攻と重なるように、相撲界に天下無敵、69連勝の大横綱・双葉山が出現した。同じ部屋に、これまた大横綱になった羽黒山(はぐろやま)がいる。大横綱羽黒山はてっきり出羽三山・羽黒山の辺り出身と思っていたが、山形県でなく新潟県羽黒村の出身だそうだ。今知りました。そういえば倉敷市玉島の中心地も羽黒だ。・・・山形県には、夏も残雪を見ることができる山が多い。山形市を過ぎて北に向かうと残雪の山々が見えてくる。最上川に沿って東へ方向を変えると、出羽三山に残る白い雪が見え旅情気分を高める。南谷に泊まった芭蕉は、残雪を”かおらす”と表現した。雪が香るのは芭蕉の他にはいないだろう。・・・・・・旅の場所・山形県鶴岡市羽黒町手向「出羽神社(三神合祭殿)」旅の日・2022年7月10日書名・奥の細道原...「奥の細道」ありがたや雪をかをらす南谷(山形県羽黒山)

  • 「奥の細道」五月雨を集めて早し最上川 (山形県最上川)

    最上川は山形県の延長229kmの川。米沢・山形・尾花沢・鶴岡・酒田・・、山形県の全主要都市を流れる。”日本三大急流”で難所もある。江戸時代には最上川の治水事業や河道整備がつづけられた。近年は観光舟下りやテレビドラマ「おしん」の舞台としても人気の地。観光舟下りは、流れがいちばん穏やかなとろをのんびり舟遊びの感じだが芭蕉が詠んだ最上川は、たぶん難所の最上川だろう。”集めて早い”のは危険な最上川に違いない。・・・旅の場所・山形県寒河江市・酒田市旅の日・2022.7.12書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「流域をたどる歴史二東北編」豊田武ぎょうせい昭和53年発行山形県のおよそ8割を潤す最上川は、全長229km、流域面積7.040km2の大河である。ひらた船ひらた線には5人乗り米350俵積の大船、縦横18....「奥の細道」五月雨を集めて早し最上川(山形県最上川)

  • 「奥の細道」閑かさや岩にしみ入る蝉の声 (山形県山寺)

    40年ほど前に、会社の慰安旅行で初めて、知らないまま「山寺」に行った。なんで、わざわざ、日本全国のどこにでもある”山の寺”に行くのか?それが不思議だった。行ってみると、これはすごいお寺だ。山をくるぐる石段を上って登山のよう、しかも参道の左右、上下、その雰囲気や眺めがいい。芭蕉が有名な句を、ここで詠んだのもうなずける。自分も一句詠もうと思った。(思っただけ)芭蕉の時代も、現代も、立石寺(山寺)は見る価値がある、特に”眺め”と”岩”がいい。健康にもいい。・・・・・旅の場所・山形県山形市大字山寺「立石寺」旅の日・月日・2019年6月29日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「奥の細道の旅」講談社1989年発行山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見すべきよし、人々のすすむるに依り...「奥の細道」閑かさや岩にしみ入る蝉の声(山形県山寺)

  • 「奥の細道」眉掃きを俤にして紅粉の花 (山形県)

    紅花は山形県の”県花”に指定されている。紅花は江戸時代に最上川沿岸で大隆盛したが、明治になって突然衰退した。現在は観光用に少し栽培されている。時期は、岡山県でいえば綿花に似ている。一瞬で衰退したといえば、塩田もイ草もそうだ。煙草や除虫菊や薄荷や養蚕も、今はない。現在では「紅花」を偲ぶことしかできないが、芭蕉は、紅花隆盛期の、しかもその開花時に最上川を訪れている。・・・「紅花(べにばな)ものとの人間の文化史」竹内純子著2004年法政大学出版江戸初期から栽培された最上山形の紅花は、色素が豊富で特に京都西陣の染織物に勧化され、衣類の華美となった元禄のころから需要を増し、輸出量は「最上千駄」といわれ、豊年のときは千三百駄にのぼったといわれる。これらの積荷は最上川は舟で下り、酒田港で大船に積み替え、敦賀に入り、京都...「奥の細道」眉掃きを俤にして紅粉の花(山形県)

  • 「奥の細道」涼しさをわが宿にしてねまるなり (山形県尾花沢)

    山刀伐峠。芭蕉と曾良が命からがら峠越えした”最大の難所”。峠の名からして恐ろしい。反脇差を腰に差した若者が道案内をした”今日こそ必ず危あやうき目にも遭うべき日なれ”と心細く後をついて行った。峠を無事に越えて尾花沢に着いた。この町には紅花大尽・清風が、芭蕉が来るのを待っていた。・・・・・・旅の場所・山形県尾花沢市旅の日・2019年6月30日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「日本詩人選17松尾芭蕉」尾形仂筑摩書房昭和46年発行涼しさをわが宿にしてねまるなり元禄二年五月十七日(陽暦七月三日)、芭蕉は山刀伐峠の険を越えて、奥羽山系の横断を果たし、羽前国北村山郡の尾花沢(今の山形県尾花沢市)に到着、土地の豪商鈴木清風の厚遇のもとに二十七日までここに旅の足を休めた。句はこの滞在の間に巻かれた清風・曽良・素英・風流...「奥の細道」涼しさをわが宿にしてねまるなり(山形県尾花沢)

  • 「奥の細道」蚤虱馬の尿する枕もと (山形県封人の家)

    句から想像すると、奥羽山脈の山中に「ポツンと一軒家」。芭蕉が一宿を借りたのは、農具も家畜も麦藁もいっしょになった農家の片すみに寝た。そんなイメージだが、県道沿いの便利な場所。農家ではあるが大きな庄屋さん。一宿ではなく、雨のため三日間逗留した。今は旧有路家住宅(封人の家)という山形県の観光地となっている。住宅は江戸初期のもので、昭和40年代に解体復元された。土間には木造の馬がいて、囲炉裏には本物の火が燃え、芭蕉の時代を偲ぶことができる。県道の向かい側が駐車場で、土産店やそば店があり、ドライバーたちの休憩所となっている。・・・旅の場所・山形県最上郡旅の日・2019年6月30日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「奥の細道の旅」講談社1989年発行蚤虱馬の尿する枕もと五月十五日(陽暦七月一日)芭蕉は尿前の...「奥の細道」蚤虱馬の尿する枕もと(山形県封人の家)

  • 昭和20年8月14日、「最後の空襲」

    人気歌手のシゲちゃん(旧ジャニーズ事務所・NEWSの加藤シゲアキ)は歌や踊りだけでなく、作家としてもよく知られている。そのシゲちゃんが「なれのはて」という新作品を発表し、雑誌にインタビュー記事が載った。八橋油田の近く、秋田市土橋港に製油所があった。その土橋製油所が8月14日夜~15日未明に爆撃空襲にあい、約250名もの犠牲者を出したそうだ。この日(昭和20年8月14日)、日本全土や外地の戦地では、翌8月15日正午の”重大放送”を待っていたが、不運なことに米軍のマリアナ司令部に攻撃中止が伝わったのは、8月15日午前4時45分で、既にB-29の編隊は日本空襲を終えて帰還する途中だった。秋田県土橋のほかに、埼玉県熊谷、群馬県伊勢崎が昭和20年8月14日~15日、「最後の空襲」攻撃された。歴史街道」令和6年5月号...昭和20年8月14日、「最後の空襲」

  • 「奥の細道」五月雨の降りのこしてや光堂 (岩手県平泉)

    この東北旅行の時は天気に恵まれなかった。しかし、中尊寺の濡れた参道を歩いているとき薄日が差した。この旅行中で、初めて光と地面に影ができた。この日は6月30日で、芭蕉と曾良が中尊寺を訪れた旧暦五月十二日と一日違い。何か芭蕉が歩き見た中尊寺と同じように感じ、幸運を感じながら光堂を拝観した。・・・旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町”世界遺産”中尊寺旅の日・2019年6月30日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「奥の細道の旅」講談社1989年発行兼て耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢と成るべきを、四面新に囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、暫時千歳の記念とはなれり。五月雨の降りのこしてや光堂・・・「超...「奥の細道」五月雨の降りのこしてや光堂(岩手県平泉)

  • 「奥の細道」卯の花に兼房みゆる白毛かな (岩手県平泉)

    兼房は高館で、義経夫婦が自害したことを見届けた。その後、館に火を放ち、壮烈な最期を遂げた人。そのことは【義経記】に記されているが、現在では架空の人とされている。・・・旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町”世界遺産”毛越寺(もうつうじ)旅の日・2019年6月30日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「芭蕉物語」麻生磯次新潮社昭和50年発行曽良は増尾十郎兼房の奮戦の有様を想像していた。兼房は初め大納言久我時忠の臣であったが、時忠の娘が義経の正妻となったので乳人役であった兼房は義経の臣となった。高館最後の日に、泣く泣く義経の妻子を刀にかけ、館に火を放ち、長崎次郎を死出の道連れにして猛火に飛びこみ、壮烈な最後をとげた。六十三歳の老齢であった。折から咲き乱れる卯の花を見ると、白髪をふり乱して奮戦した兼房の姿が、髣髴と眼前...「奥の細道」卯の花に兼房みゆる白毛かな(岩手県平泉)

  • 「奥の細道」夏草や兵どもが夢の跡 (岩手県平泉)

    源義経は子どもの頃のヒーローだった。大人になってくると、兄頼朝が義経を排除した理由もよくわかってくる。それでも義経はヒーローでありつづける。それが平均的な日本人の義経への思いであり、そして今も、義経の死後800年とつづいている。この句の「兵ども」とは、義経および藤原三代の栄華を指している。・・・三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。先づ高館にのほれば、北上川南部より流る々大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落人る。康衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。さても義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。夏草や...「奥の細道」夏草や兵どもが夢の跡(岩手県平泉)

  • 「奥の細道」松島や鶴に身をかれほとゝぎす (宮城県・松島)

    ”松島”は、はっきり言って瀬戸内海地方に住む人にとっては、景勝地ではない。普通の景色。だが日本では古くからの名勝地であり、芭蕉もたいへん旅の楽しみにしていた場所。しかも、眺めにあまりに感動して句を詠めなかった。奥州の入口、白河の関でもそうだった。感動して句が出ない。そのへんに俳聖と称される芭蕉先生の、親近感のある人間性を感じる。・・・旅の場所・宮城県松島町「日本三景松島」旅の日・2019年7月1日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「芭蕉物語」麻生磯次新潮社昭和50年発行松島や鶴に身をかれほととぎす「鶴に身をかれ」といったのは、あるいは曽良が自分に向って言い聞かせた言葉かも知れない。鶴に身を借りて、この松島湾の上を飛び廻ったら、どんなに楽しいことだろうと、心ひそかに思ったかも知れないのである。とにか...「奥の細道」松島や鶴に身をかれほとゝぎす(宮城県・松島)

  • 「奥の細道」あやめ草足に結ばん草鞋の緒 (宮城県多賀城市)

    仙台で出会った画家の加右衛門という人は、親切を絵に描いたような人で、風流心もある人だった。仙台を発つとき、お金持ちでない加右衛門は、気持ちのこもった手土産を呉れた。芭蕉にとって理想的とも言える想い出の町と人となった。・・・旅の場所・宮城県多賀城跡旅の日・2019年7月1日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「奥の細道の旅」講談社1989年発行名取川を渡って仙台に入る。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四五日逗留す。ここに画工加右衛門と云ふものあり。聊か心ある者と聞きて知る人になる。この者、「年比さだかならぬ名どころを考置き侍れば」とて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるる。あやめ草足に結ばん草鞋の緒<中略>壺碑(つぼのいしぶみ)市川村多賀城に有り。つぼの石ぶみは高サ六尺余、横三尺斗。...「奥の細道」あやめ草足に結ばん草鞋の緒(宮城県多賀城市)

  • 「マンガ絵ぶたまつり」

    場所・岡山県高梁市川上町地頭最終回・2024年8月10日撮影日・2014年8月23日・・・・・・漫画の町・川上町で毎年開催されていた「マンガ絵ぶた」が中止になるそうだ。今朝の新聞に載っている。・・・2024年8月11日「山陽新聞」社会面絵ぶた最後の夏高梁でまつり高齢化、作りて減「マンガ絵ぶたまつり」(実行委主催)が10日、高梁市内であった。地元住民団体の力作が夏の宵を彩る、旧岡山県川上町時代の1995年に始まった人気イベントは製作メンバーの減少で今年で幕を閉じることが決まっており、関係者に惜しまれながらフィナーレを飾った。青森県の「ねぶた」を模した絵ぶたは高さ3~4Mで、木や針金の骨組みに和紙を貼り、表面に描いた絵を内側からライトで照らしている。”ラストイヤー"は会場のマンガ絵ぶた公園一帯に「名探偵コナン...「マンガ絵ぶたまつり」

  • 「奥の細道」笠島はいづこ五月のぬかり道 (宮城県笠島)

    西行法師も訪れ、一句を残している笠島。雨とぬかり道で、ここまで来ながら、笠島を断念した芭蕉。その芭蕉の残念さが、読むこちら側まで伝わってくる。・・・「芭蕉物語」麻生磯次新潮社昭和50年発行笠嶋やいづこ五月のぬかり道中将実方の塚のある笠島はどの辺だろう。ぜひ行って見たいと思うのだが、このぬかり道ではどうにもならない、残念なことであるというのである。「笠嶋や」は後になって「笠嶋は」と改めた。「や」も「いづこ」も疑問の意があり、それが重なり過ぎて、旬が重くなる。それに「笠嶋や」ではせせこましい感じであるが、「は」とすると何となくおおらかで余韻があるように思われたのである。この句にはさまざまな感慨がふくめられていた。その一つは藤中将の塚をどうしても訪ねてみたいという懐古的な気持である。もう一つはぬかり道をとぼとぼ...「奥の細道」笠島はいづこ五月のぬかり道(宮城県笠島)

  • 「奥の細道」風流の初めやおくの田植歌 (福島県白河市)

    かつて福島県いわき市に住んでいた。いつか地元紙に県内で一番多い句碑は「松尾芭蕉の”風流の初めやおくの田植歌”で、その数は22~23碑である」という記事が載ったことがある。松尾芭蕉の句碑は、全国に約4.000碑あるそうだ。笠岡への来歴はないが、もちろん笠岡市にも芭蕉の句碑はある。この”風流の初めやおくの田植歌”は、さすがに福島県にしか建っていないだろうな。しかも、福島県の関東寄りの地に限定だろう。・・・旅の場所・福島県白河市白河城と阿武隈川(東北新幹線車窓)旅の日・2022.7.10書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「奥の細道の旅」講談社1989年発行風流の初やおくの田植うた白河の関址を越えて陸奥国にはいった芭蕉は、四月二十二日須賀川に相楽等躬を訪ねた。「白河の関いかがこえつるや」と聞かれて芭蕉が示...「奥の細道」風流の初めやおくの田植歌(福島県白河市)

  • 「奥の細道」かさねとは八重撫子の名なるべし (栃木県那須野)

    「奥の細道」にはときに、小さな物語りのような紀行文がある。なかでも那須野で出会った小娘の話と、越後の宿で会った遊女の話はしみじみとした味わいがある。那須野の少女はその情景が目に浮かぶようだ。・・・旅の場所・栃木県那須塩原市旅の日・2018年8月4日(車窓)書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「芭蕉物語」麻生磯次新潮社昭和50年発行那須野は北に那須岳、西に高原山、東に八溝山にかこまれた広野で、狩猟の地として知られていた。道というほどのはっきりした道はなく、それも縦横にわかれているのですっかり途方に暮れてしまった。そのうち草を刈る男を見つけた。「この馬を貸してあげよう。乗ってさえおればよい。馬がとまったら、そこでおりて、こちらに向けて尻っぺを一つぶってください。馬はひとりでにここへ帰ってくるからな」芭蕉...「奥の細道」かさねとは八重撫子の名なるべし(栃木県那須野)

  • 「奥の細道」剃捨てて黒髪山に衣更 (栃木県日光市)

    曾良は本名を河合惣五郎という侍だったが、出立の朝、髪を剃った。旧暦では4月1日が衣替えの日で、芭蕉と曾良が日光を訪れたのは旧4月1日だった。・・・旅の場所・栃木県日光市旅の日・2004年6月26日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「芭蕉物語」麻生磯次新潮社昭和50年発行剃り捨てて黒髪山に衣更曽良黒髪山は男体山である。古木が多くて黒々としているので、この名があるということだが、山をふり仰いでみると、霞がかかってそろそろ夏の季節に入るというのに、ところどころに雪が残っている。曽良は黒髪山という山の名から、剃り捨てた黒髪を思い起した。黒髪を落し墨染の衣に着換えて、旅に出たのであるが、黒髪山の麓まで来たら、ちょうど四月朔日で、夏物に衣更えすることになった。いまさらのように、俗衣を僧衣にかえた日の思い出がよみがえ...「奥の細道」剃捨てて黒髪山に衣更(栃木県日光市)

  • 「奥の細道」あらたうと青葉若葉の日の光 (栃木県日光市)

    高校の修学旅行は「東京」と「九州」の二つのコースがあり、自由選択だった。東京は「東京・日光」が恒例だったが、どういう訳か自分の年は「東京・信州」で日光に行けなかった。当時は、関西以西に住む人にとって、日光は旅行地として北限だった。当時は、「日光見ずにけっこーゆうな」と言われていた。自分も、はやく一度日光を見て、一人前に「けっこうじゃなあ」と言う事を言ってみたかった。それから数十年を経て、やっと日光に行く機会があった。日光は、感激するほどきれいな「けっこー」なところだったが、腰を抜かすほど見物料が高かった。・・・旅の場所・栃木県日光市二荒山神社・日光東照宮旅の日・2004年6月26日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「わたしの芭蕉」加賀乙彦講談社2020年発行あらたうと青葉若葉の日の光『おくのほそ道』に出...「奥の細道」あらたうと青葉若葉の日の光(栃木県日光市)

  • 「奥の細道」行春や鳥啼魚の目は泪 (東京都・千住大橋)

    2022年7月、初めて千住大橋を渡った。京成電鉄の「千住大橋駅」からJR「南千住駅」まで歩いた。道中は至るところ芭蕉や日光街道や大名行列の絵図等があって、千住に来たという実感がした。・・・「奥の細道の旅」講談社1989年発行千住大橋文禄三年(一五九四)隅田川で最初に架けられた木橋。当初は単に大橋と呼ばれたが、下流に両国橋ができたので、千住大橋と呼ばれた。長さ91.7m、現在の鉄骨の橋は関東大震災の復興事業で昭和2年に架け替えられた。芭蕉が送ってくれた人々と、涙の別れをしたのもここである。・・・旅の場所・東京都足立区~荒川区千住大橋旅の日・2022年7月13日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・「芭蕉物語」麻生磯次新潮社昭和50年発行舟が千住に着いたのは巳の下刻(午前十一時頃)であった。ここは奥羽街道、日光...「奥の細道」行春や鳥啼魚の目は泪(東京都・千住大橋)

  • 「奥の細道」草の戸も住替る代ぞひなの家 (東京都江東区・芭蕉記念館分館)

    (はじめに)笠岡市竹喬美術館で、数年前に「奥の細道句抄絵」展があった。作品や、その下書きの絵が展示され、絵画の迫力を堪能した。小野竹喬画伯が全霊を込めて描く姿を、勝手に想像をさせてくれた。その時、美術館で「奥の細道句抄絵」の冊子を購入した。その本を家でひろげていると、自分もその世界に少し浸りたくなった。・・・旅の場所・東京都江東区常盤「江東区芭蕉記念館分館」旅の日・2022年7月13日書名・奥の細道原作者・松尾芭蕉・・・・・・「わたしの芭蕉」加賀乙彦講談社2020年発行『奥の細道』芭蕉の散文が日本語の表現として、いかに優れて、いかに美しいかを体験していただきたいので、『奥の細道』の冒頭の文章を示す。みなさんに原文を何度か読み返し、その日本語の美を味わっていただきたいからである。月日は百代の過客にして、行き...「奥の細道」草の戸も住替る代ぞひなの家(東京都江東区・芭蕉記念館分館)

  • 丘さとみ(東映城のお姫さま)さんが亡くなる

    娯楽といえば=映画、映画といえば=チャンバラ、の少年時代だった。昭和30年代前半は映画産業は隆盛をきわめた。なかでも東映は人気で、「第二東映」を作り作品を倍増し、映画館にフィルムを供給した。そのころ、京都に「東映城」が出来た。その東映城にはお姫さまが大勢いて、なかでも三人のお姫様が人気だった。それが「丘さとみ」「大川恵子」「桜町弘子」。東映城には他にもいっぱい人気女優がいた。中原ひとみ、長谷川裕美子、星美智子、千原しのぶ、高千穂ひずる、田代百合子、多喜川千鶴、花園ひろみ、・・・特別枠で美空ひばり。名前は、すらすらと今でも言える。豪華な女優陣だ。・・・(Wikipedia)・・・丘さとみは時代劇に出ていたので、お姫様女優と呼ばれたが、映画では庶民的な役がよく似合っていた。相手役は錦ちゃんや千恵蔵・右太衛門両...丘さとみ(東映城のお姫さま)さんが亡くなる

  • ネット通販で初めてペイペイを使用した

    ネット通販は年に10回程度利用する。支払いは原則「ビザカード」だが、相手先により銀行引き落としも使用することもある。今日、古本をネット注文した。ネットオフという会社。「次へ」を、次へ次へクリックしていくと、支払になった。すると「ペイペイ」払いが、チェックマークをクリックしないうちに点っている。「ペイペイ」でも支払いが出来るのか、と初めて知った。そして「次へ」をクリックしていき、注文完了となった。初めての、「ネット通販のペイペイ払い」経験だったが、やってみるとカード払いより、すこしだけ楽なように感じた。今後は、もしペイペイが使えるならペイペイを利用したいと思った。・・・皆はどんな方法でネット通販を支払っているのか調べてみると、多い順に①クレジットカード②QRコード決済(PayPayなど)③コンビニ払い④デビ...ネット通販で初めてペイペイを使用した

  • 満蒙開拓団 ただ一人、私だけ 死にきれなかった

    戦後からみれば、そもそも、何故、他国の満州へ移民したのだろう?と簡単に言える。そして開拓団が昭和20年8月9日を期に、石を投げられ、暴行・略奪され、全てを棄てて逃げ出すしか方法はなかった原因も、簡単にわかる。開拓団に募集した人は正義感や国を思う心が強かったことも、感じる、がそれは当時の日本と日本人にしか通用しなかった。他国はそれを侵略とみなしていた。本当に悪かった人は、国の指導者だろう。・・・雑誌「NHKラジオ深夜便」2015年10月号戦後七十年特別企画戦争・平和インタビュー選3ただ一人、私だけ死にきれなかった久保田諫昭和5(1930)年生まれの久保田錬さんは、終戦当時15歳。国策で進められた「満開拓移民」として、家族と離れ満州(現・中国東北部)に移り住んでいました。開拓団として満州へ一満州に行かれたのは...満蒙開拓団ただ一人、私だけ死にきれなかった

  • 満蒙開拓団 ソ連の侵攻・敗戦

    ♪赤い夕陽の満州は・・・、昭和20年(満州帝国康徳12年)の8月9日をもって一変した。満州帝国にソ連軍が攻め込んできた。日本軍人は先に逃げ、次に役人が逃げ、一般邦人が丸腰の状態でソ連軍兵士の餌食になった。都市住民はソ連兵の、強姦・殺害・持逃げ、を無抵抗でされるがまま。開拓団の集団は、徒歩で荒野を、乞食同様な姿で・・・その無法の都市へ向かった。・・・「昭和時代敗戦・占領・独立」読売新聞中央公論社2015年発行恐怖の逃避行約155万人にのぼる在留邦人(軍人は除く)は、突然のソ連軍襲来に驚き、大混乱した。根こそぎ動員で一家の柱を失っていた辺境の入植地では、女性や子供、老人たちが置き去りにされた。その数、約22万人といわれる。関東軍は、作戦計画が漏れるのを恐れて、一般人に避難勧告をしなかった。都市部の住民も、突然...満蒙開拓団ソ連の侵攻・敗戦

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、しろみ茂平の話さんをフォローしませんか?

ハンドル名
しろみ茂平の話さん
ブログタイトル
しろみ茂平の話
フォロー
しろみ茂平の話

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用