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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 「絶唱」葬婚歌 (鳥取県桝水高原)

    日本レコード大賞歌唱賞「絶唱」の歌詞は、詩人西條八十さんでないとありえない、という程に小説を短い言葉であらわしている。〽愛おしい山鳩は山こえてどこの空名さえはかない淡雪の娘よなぜ死んだああ小雪・・・旅の場所・鳥取県西伯郡伯耆町・桝水高原旅の日・2020年10月27日書名・絶唱著者・大江賢次発行・河出書房新社2204年発行・・・順吉はシベリアに拘留されていた。順吉はラーゲリで2年間を過ごしていた。第三章葬婚歌終戦の翌々年になっても、待ちに待った園田順吉は復員して来なかった。小雪がついに寝ついたのはその夏だった。その秋、園田惣兵衛が脳出血で、突然亡くなった。主人の急死にあって、山番の老夫婦ははじめて小雪を見舞った。それまで律義でもの堅い山番は主家をおもんばかって動じなかった。いま、その封建の扉がやっとひらかれ...「絶唱」葬婚歌(鳥取県桝水高原)

  • 「絶唱」山鳩 (鳥取県智頭)

    「絶唱」の主人公・園田順吉は、身分違いの少女・小雪を愛した物語というよりは、身分制度そのものに反対し、自己の考えどおり下層身分の子を愛した。言行一致の愛の物語。単純な純愛ではない。自己の生活や人生を懸けての愛。二人の純愛は駆け落ちで成就するが、日中戦争の勃発によって引き裂かれた。日中戦争から太平洋戦争がはじまった。順吉はなぜか、除隊もなく例外的に、長期の現役兵がつづいた。戦争が終わると、シベリアへ拘留された。これほど万が悪い人もいない。(生きて帰れただけいいが)だが、小雪は長期間の”銃後”の生活に耐えきれなかった。無理に無理を重ね、やせ細り、結核(不治の病)になって死んだ。・・・旅の場所・鳥取県八頭郡智頭町旅の日・2007年4月14日書名・絶唱著者・大江賢次発行・河出書房新社2004年発行・・・「山園田」...「絶唱」山鳩(鳥取県智頭)

  • 「青春の門 」筑豊扁 (福岡県田川市)

    瀬戸内海地方の代表産業だった製塩は、昭和30年代初めに突然のように消えた。山陽本線の広島県松永駅~岡山県岡山駅の線路沿い見わたす限りにひろがっていた藺草は、昭和50年頃に消滅した。北海道から九州まで盛んだった石炭産業は貿易の自由化によって、昭和30年代に大半が閉山となった。今ではボタ山を目で見ることができなくなった。・・・福岡県の筑豊炭田はもっとも有名な炭坑だった。伊吹信介は炭鉱の町田川で生まれた。祖父は、石炭を運ぶ遠賀川の川船船頭だった。父は、「さがり蜘蛛」の入れ墨者だったが、落盤事故の鉱夫を救助するため自ら犠牲になった。信介は、未亡人であり、継母であるタエの一人息子として成長していった。・・・旅の場所・福岡県田川市旅の日・2017年2月14日書名・「青春の門」筑豊扁著者・五木寛之発行・講談社文庫197...「青春の門」筑豊扁(福岡県田川市)

  • 父と暮らせば (広島県広島市)

    初本は1994年に新潮社から発行されてる。作者・井上ひさしさんは、この重いテーマを数年以上かけて調査したり、被爆者の話を聞いたりしているだろう。1994年といえば、身内に限っても呉から原爆のキノコ雲をみた16歳の海軍志願兵(予科練)のおじも、原爆投下二日目に広島に入った海軍兵の義父も、まだまだ元気だった。義父が話す地獄絵のような風景を見た人は2024年の今、もう世から去ってしまった。「日本は東アジアへの侵略国で加害者であったが、広島・長崎では非人道的兵器の被害者であった」という、この本の論評者がいたが、それでは一つ足りない。広島・長崎の市民は、街から転居するのを禁じられていた。あの日、「おとったん」は40才過ぎくらい。「美津江」は20才くらい。軍都広島が昭和20年8月に空襲を受けないはずがなかった。・・・...父と暮らせば(広島県広島市)

  • 「きけわだつみのこえ」日本戦没学生の手記 (鹿児島県鹿屋市)

    戦没学生とは、学生身分の軍人で戦死した人。大方が幹部候補生で、一般兵より身分が高かった。高等教育を受ける人は限られた数のエリート層だっただけに、戦没学生の手記は戦後社会へ反響も大きかった。この手記の本は映画化され、管理人も学校の講堂で映画を観た。「死んだ人々は還ってこない以上、生き残った人々は、何が判ればいい?」二等兵役の信欣三の表情が印象的だった。・・・旅の場所・鹿児島県鹿屋市今坂町「特攻慰霊塔」旅の日・2013年8月10日書名・「きけわだつみのこえ」日本戦没学生の手記発行・東京大学出版会1952年・・・大塚晟夫中央大學學生。昭和二十年四月二十八日、沖縄嘉手納神で戦死。二十三歳。昭和二十年四月二十一日はつきり言ふが俺は好きで死ぬんぢやない。何の心に残る所なく死ぬんぢやない。國の前途が心配でたまらない。い...「きけわだつみのこえ」日本戦没学生の手記(鹿児島県鹿屋市)

  • ひめゆりの塔 (沖縄県糸満市)

    昭和20年の日本の学生は、男子は19才から兵役義務、男女とも、大学・高校・中等学校は1年繰り上げ卒業、大学・高校・中等・国民学校は一年間学業なし(休学)、あるのは、徴兵・志願兵・学徒動員・食糧増産・開墾。そんな中、沖縄県は戦場となり、住民も戦闘事態になった。全国の高等女学校では、全校生徒が学徒動員の報国団が結成されていたが、沖縄県の女学校は前線に向き合う事態になった。女学生たちは、戦場の中で兵とともに死んでいった。・・・ひめゆり学徒隊看護要員として軍に動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒による女子学徒隊。南風原の沖縄陸軍病院に配備され、負傷兵の看護などにあたった。だが、戦況悪化のため、1945年5月末には病院の移転とともに南部に移動。6月18日、戦場の中に置き去りにされたために...ひめゆりの塔(沖縄県糸満市)

  • 昭和20年6月23日沖縄戦争が終結

    昭和20年6月23日、牛島司令官は、「最後まで戦え」という最後の命令を出し自決した。軍は壊滅状態で命令は届かず、守られず、無力でほぼ終結した。牛島司令官より10日程前に戦死した、海軍側の司令官太田中将のよく知られた電文、「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」同じ軍人であり、将官であり、ともに沖縄で戦いながら最期の言葉は、人間として、あまりに差がある。・・・「ライシャワーの日本史」文芸春秋社1986年発行1945年の2月から3月にかけて、アメリカ軍は多大の犠牲を払ってサイパンの北にある硫黄島を占領した。この小島は本土空襲で被弾した米軍爆撃機搭乗員の収容場所となった。1944年10月フィリピンのレイテ島沖に達したアメリカ軍は、1945年2月マニラを陥落した。二手に分かれていた米軍の攻勢...昭和20年6月23日沖縄戦争が終結

  • 竜馬がゆく (高知県高知市)

    日本国内にある銅像数は、弘法大師と二宮金次郎が群を抜いて多いと思える。お大師さんは寺院だけでなく、日本全国の街道・路傍に建っている。金次郎さんは、ほぼ小学校に集中している。では次に銅像が多い人は?たぶん坂本竜馬ではないだろうか。この人の像の特色は近年に造られた像が多い。観光地に多い。更に言えば、2010年NHK大河ドラマ、福山雅治主演の【龍馬伝】の放送がきっかけで、縁の地を観光地化し、その土地に観光目的の銅像が数多く立った。・・・旅の場所・高知県高知市上町・坂本龍馬記念館旅の日・2015年2月28日書名・竜馬がゆく著者・司馬遼太郎発行・文春文庫1998年発行・・・竜馬は、十二になっても寝小便をするくせがなおらず、近所のこどもたちから「坂本の寝小便ったれ」とからかわれた。からかわれても竜馬は気が弱くて言いか...竜馬がゆく(高知県高知市)

  • 「太平記」船上山行宮 (鳥取県琴浦町)   

    1332年。天皇は二人。元弘2年で、正慶(しょうきょう)2年。後醍醐天皇は討幕失敗で隠岐の島に流罪となった。島から脱出し船上山に立てこもった。船上山は絶壁が城塞のように続く山。ここで後醍醐天皇は名和長年と、幕府軍と対峙した。後醍醐天皇は約80日間ほど、船上山に滞在していた。・・・旅の場所・鳥取県東伯郡琴浦町山川・船上山旅の日・2010年11月5日書名・太平記作者・不詳現代訳・「太平記」森村誠一角川書店平成14年・・・人の梯子隠岐の島前島後には、蒙古来襲以来夷狄の侵入に備えて、各島の見晴らしのよい場所に番所が設けられている。後醍醐配流前はもっぱら外敵の侵入に備える監視所であったのが、その後は後醍醐奪還に備えるための侍の詰め所になっている。「其方、これより長年と名乗れ」そのとき後醍醐は又太郎に長年という名前を...「太平記」船上山行宮(鳥取県琴浦町)  

  • 「太閤記」高松城水攻め (岡山県岡山市)

    高松城水攻め⇒本能寺の変⇒城主・清水宗治湖上で切腹⇒中国大返し⇒山崎の戦い戦国時代最大の連続した出来事であり、歴史上も重大な事件。史書に、小説に、映画に、テレビに、ゲームに、漫画に、絵本に、・・・頻繁に登場するが、歌はない。高松城主・清水宗治は為政についての資料は何も残ってないが辞世の句、一句で今も名を高松の苔に残している。~浮き世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して~・・・旅の場所・岡山県岡山市高松・高松城跡旅の日・2023年7月16日書名・「太閤記」原作者・小瀬甫庵現代訳・「古典文学全集・13太閤記」ポプラ社昭和40年発行・・・高松城水攻め年があけると信長は、甲州へ兵を進め、家康と力を合わせて、武田をほろぼしました。武田勝頼は、三月十一日に天目山で家族の者と自殺してしまいました。いっぽう、秀吉も今...「太閤記」高松城水攻め(岡山県岡山市)

  • 「太平記」桜井の別れ (大阪府桜井宿跡)

    昭和20年、終戦と共に、日本は平和日本となり「軍神」は日本から消滅した。その日から80年、令和の日本で軍神の名さえ忘れ去られようとしている。日露戦争・旅順港の広瀬中佐、昭和7年上海事変の爆弾三勇士、真珠湾攻撃の九軍人、など。なかでも、国民的英雄として扱われたのが”大楠公”こと、楠木正成。大楠公は”戦の神”であり、現人”神”の忠臣で、神が重なり戦前では最高・最大の軍神だった。庶民がつくり上げた神でなく、国家がつくり上げた神で、学校教育で児童が学んだのが特色な神。天皇(南朝)の為に一族は無私な心で、天皇を助け、命を投げ打つ。戦前の笠岡男子小には「楠公父子」、笠岡女子小には「楠公母子」の銅像があった。(今はない)東京の皇居外苑には、戦前からの「大楠公」像が今も残る。そこに銅像の説明はあるが、楠木正成の説明はない...「太平記」桜井の別れ(大阪府桜井宿跡)

  • 陸奥爆沈 (山口県周防大島「陸奥記念館」)

    昭和18年1月7日、戦艦陸奥が柱島沖で突然爆発して沈没した。乗員1.474人、うち助かった人353人。艦内にいた人は全員死亡、甲板にいた皿洗いなどの新兵が助かった。助かった人は別れながらも、南洋の戦場へ飛ばされた。事件は徹底的に隠されたので、死んだ人にも、しばらく給金が送金された。死んだ人は、その後に別の場所で死んだことになったのだろう。陸奥爆沈の原因はわかっていない。内部調査であり、調査書等はもとからないのだろう。あったとしても、敗戦後、まっさきに焼却処分しているはず。可能性が高いと言われるのが作者の言う人為爆発説。吉村昭は、軍の密閉した体質をとことん・・・それを、いつものようにたんたんと・・書いている。・・・旅の場所・山口県大島郡周防大島町東和・陸奥公園「陸奥記念館」旅の日・2013年4月25日書名・...陸奥爆沈(山口県周防大島「陸奥記念館」)

  • 「今昔物語」美人に会った話 (京都府伏見稲荷)

    今昔物語には面白い話が多いが、「美人に会った話」もおもしろい。生活感がまるでなく、いつも恋や、歌を詠んで暮らしていたのだろうか?・・・旅の場所・京都府京都市伏見区「伏見稲荷大社」旅の日・2014年9月9日書名・今昔物語原作者・不明現代訳・「今昔物語宇治拾遺物語」世界文化社1975年発行・・・今昔物語・古山高麗雄稲荷詣に行き美人に会った話二月の初牛(はつうま)の日は、古来、上下を問わず京中の人々が、稲荷神社に、参詣して、人出で賑わうのである。近衛府の舎人どもも、稲荷神社に参詣に出かけた。中の社の近くまで来ると、参詣に来る人、参詣をおえて帰る人が行き交う中に、えも言えず美しく着飾った女に出会った。舎人たちは、みだらな戯言を言ったり、あるいは、身を屈めて、女の顔をのぞきこんだりす重方は元来、好色である。舎人たち...「今昔物語」美人に会った話(京都府伏見稲荷)

  • 彼のオートバイ、彼女の島 (岡山県白石島)

    この本のおわり、作者の「あとがき」がいい。ついでに書いておこう。瀬戸内海のどのあたりでもいいから、ほんのすこし船でいくだけで、いまの日本がどれだけひどい状態にあるかを、全身の痛みのようなかたちで感じとることができる。おなじテーマで、ぼくはまたひとつ、長い小説を書こうとしている。コオやミーヨと、どのくらいおもむきがちがってくるか、楽しみだ。著者「彼のオートバイ、彼女の島」片岡義男角川書店昭和52年発行・・・・片岡義男氏が瀬戸内海の島々の状況を憂い嘆いたのはもう47年も前のことだ。今の瀬戸内海では、島を一周しても人の声が聞こえない島が多い。洗濯ものが庭先に干してあるから住んでいる。テレビの音が聴こえるので住んでいる。猫がいるから人も住んでいる。それが現状だ。島から島へお嫁に行く「瀬戸の花嫁」はおそらく、広い瀬...彼のオートバイ、彼女の島(岡山県白石島)

  • 「東海道中膝栗毛」小田原 (神奈川県小田原)

    弥次さん・喜多さんの話はおもしろい。子どもから大人まで楽しめる。江戸時代に、発売とともに売り切れ・大人気だっというのもうなずける。江戸時代でも現代でも楽しめる話。この本の最大の参考書は、歌川広重の「東海道五十三次」。広重の絵画を見ながら、弥次喜多を読むと、楽しさが倍増し、なんとなくあの時代がわかったような気になる。小田原では、宿場の女中に色気をだし、風呂でやらかし、読者を安心(?)させる。・・・旅の場所・神奈川県小田原市旅の日・2015年7月8日書名・東海道中膝栗毛原作者・十返舎一九現代訳・「東海道中膝栗毛」世界文化社1976年発行・・・小田原宿引「あなたがたは、お泊りでございますか」弥次「貴様のところは奇麗か」宿引「さようでございます。この間建て直しました新宅でございます」弥次「女はいくたりある」宿引「...「東海道中膝栗毛」小田原(神奈川県小田原)

  • 「新選組始末記」島原の角屋 (京都市島原)

    「新選組始末記」は、作者・子母澤寛の取材の熱意と汗が伝わってくる作品だ。新選組と、その関係者への取材は、人間の寿命があり時間が限られる。大正末から昭和初期、日夜を惜しんでぎりぎり間に合ったと思える。この作品のおかげでその後、多くの新選組の作品が生まれた。・・・旅の場所・京都市下京区(島原大門・角屋)旅の日・2020年1月30日書名・「新選組始末記」著者・子母澤寛発行・中公文庫昭和52年発行・・・島原の角屋守護職会津侯、直々のお預りというので、京の町奉行与力同心も、新選組のする事については、良きにつけ、悪しきにつけ、見て見ぬふりをしているので、その勢力が強くなるに従って、芹沢鴨は、性来の乱暴狼藉をはじめて来る。世上これを「壬生浪士」といったが、蔭口には誰も「浪士」とは言わずただ「壬生浪壬生浪」といった。芹沢...「新選組始末記」島原の角屋(京都市島原)

  • 「平家物語」奈良炎上 (奈良県奈良市)

    1180年東大寺の伽藍が焼け、奈良の大仏は首から落ちた。清盛の命による平家の「南都焼き討ち」だが、その後、重源による東大寺復興や、「歌舞伎十八番」勧進帳もよく知られている。大仏はその後、1567年に松永秀久によって二度目の落首。現在の大仏様は、頭部が江戸時代、腹部が鎌倉時代、下部が奈良時代のもののようだ。・・・旅の場所・奈良県奈良市・奈良公園旅の日・2021年11月5日書名・平家物語原作者・不明現代訳・「平家物語」古川日出男河出書房新社2016年発行・・・奈良炎上「よし、南都も攻めてしまえ!」大将軍には頭の中将平重衡、副将軍には中宮の亮平通盛、すなわち入道清盛公の子息と甥でございます。この二人がつごう四万余騎を率いまして、奈良へ向かって出発しました。邀え撃たんとする興福寺の大衆は、老人もいれば若いのもいる...「平家物語」奈良炎上(奈良県奈良市)

  • 「平家物語」先帝身投げ (関門海峡・壇ノ浦)

    天皇制は長く続いているが、近現代でも危機は大きい。終戦時の危機は最大で、”ご聖断”の際、天皇自ら「自分のことはどうなってもよい」との発言が伝わる。昭和20年、21年、連合軍占領下で天皇制の存亡はなかばした。令和以降の危機も大きい。そもそも論であるが、天皇や将軍が男性であることが必須というなら、側室が要る。歴代の天皇や将軍や殿様は、正室の息子は少数派。天皇が二人いた時代もある。源平の戦い、南北朝の時代、源平の戦いでは”先帝身投”があり、平家方天皇の安徳天皇が崩御した。平家滅亡で、二人天皇は解消された。山口県下関市・・・旅の場所・福岡県北九州市門司~山口県下関市旅の日・2015年2月20日書名・平家物語原作者・未詳現代訳・「日本の古典⑦平家物語」瀬戸内晴美世界文化社1976年発行現代訳・「平家物語」長野常一現...「平家物語」先帝身投げ(関門海峡・壇ノ浦)

  • 城の崎にて (兵庫県城崎温泉)

    「城の崎にて」は、読者によっていろんな感想がわかれると思える。自分の感想は、東京に住む作者が「熱海」でも「草津」でもなく、わざわざ「城崎」という地に温泉療養に行ったこと。大正時代の「城崎」が、東京からどれほど遠方か。現在でも、京都・大阪から特急電車で3~4時間もかかる。それほど遠い城崎温泉だが、温泉情緒がすばらしい。温泉の街を流れる川、橋、柳、山。少し離れた海(日本海)。温泉は「外湯めぐり」も楽しいが、作者のように生き物観察も風情がある。「城崎」のことを「城の崎」と書いているのは、「少し作り話があります」というように感じるが、作者もそうだが、湯治客もまた「城崎温泉」のことをほめる人はいるが、けなす人はいない。いい温泉だと思う。・・・旅の場所・兵庫県豊岡市城崎温泉旅の日・2016年12月1日書名・城の崎にて...城の崎にて(兵庫県城崎温泉)

  • 若い人 (東京都二重橋前)

    子どもの頃、毎日のおやつは、ほぼ【ふかし芋】だった。それで母に、いったい「皇太子(現在の上皇さま)は、どんなものをおやつに食べているのか?」と問うと、母は「そうじゃなあ、リンゴのようなもんじゃろうかなあ」という返答で、自分も、そうじゃなあ、となんとなく納得した気持ちになった。そのことは昭和30年代で、普通の親子の会話だが、もし昭和10年代の会話で、うっかり巡査の耳にはいれば、不敬罪であると逮捕されていたかも知れない。・・・旅の場所・東京都千代田区・皇居外苑旅の日・2018年3月9日書名・若い人著者・石坂洋次郎発行・「日本現代文学全集35」講談社昭和44年発行(原作発行・1933年三田文学)・・・(管理人記・「不敬罪である」と軍から告訴されたのは、太字の箇所と思える)「若い人」宮城前で一同下車する。掃き淨め...若い人(東京都二重橋前)

  • 足摺岬 (高知県土佐清水市)

    「足摺岬」は二十歳くらいの時読んだ。当時、若者の読むべき本とか言われていた。他にもいろいろあった。新潮文庫などは大々的に「夏の100冊」とか称して宣伝して、読むのを脅迫(?)していた。今は、新潮社に限らず、ああいう宣伝がないのがさみしい。「足摺岬」を読んだ当時は、若者らしく本に共感した。年を経て今読むと、昭和初期の「大学は出たけれど」の暗い世相の方を強く感じる。・・・旅の場所・高知県土佐清水市足摺岬旅の日・2018.10.2書名・足摺岬著者・田宮虎彦発行・旺文社文庫昭和42年発行・・・「足摺岬」田宮虎彦それは、もう十七、八年も前のことになる。その時、私は自殺しようとしていた。なぜ、自殺しようと思いつめていたのであろうか。死のうとしたその時でも、理由ははっきりとは言えはしなかっただろう。何となく死にたかった...足摺岬(高知県土佐清水市)

  • 井上成美 (広島県江田島)

    軍や民の指導者としては、救いようもない狭さと時代遅れの思考レベルだった大日本帝国陸海軍の上層部の中にも、少数ではあるが、広く、長く日本を考える将官たちもいた。陸軍では2.26事件で斃れた渡辺錠太郎大将。海軍では、米内・山本・井上とうたわれた井上成美大将がその代表。井上大将の現実を見る目は鋭い。日米開戦前に、日本はアメリカに海上封鎖されたら何もできない(負ける)。日本はアメリカを海上封鎖することは出来ない。出来たとしてもアメリカはすべて国内自給できる。(負けない)今ならだれでも言えることを当時の日本で発想した軍人・政治家はいない。井上大将の言う通り、日本は封鎖され、負けた。・・・旅の場所・広島県江田島市江田島町元・海軍兵学校+古鷹山旅の日・2013年1月16日書名・井上成美著者・阿川弘之発行・新潮文庫平成4...井上成美(広島県江田島)

  • 金色夜叉 (静岡県熱海温泉)

    尾崎紅葉は小説に、ずいぶん大仰な題名、「金色夜叉」をつけ男女の主人公二人を熱海海岸で歩かせる。大衆演劇が顔負けの「死ぬ」の「生きる」の、と大げさなセリフを何度も繰り返させセリフが尽きると、体力で遣り込める。本も演劇も歌も、たいそうな人気があったんだろうな。明治・大正・昭和と。熱海海岸で二人の銅像を初めて見た時は驚いた。”婦女暴行”!これが文学作品の銅像か!?どこからみても暴行にしか見えなかった。また、それほど迫力満点の像ではあった。・・・旅の場所・静岡県熱海市東海岸町旅の日・2015年7月8日書名・「金色夜叉」著者・尾崎紅葉発行・岩波文庫1939年発行・・・(岩波文庫の表紙)「金色夜叉」尾崎紅葉貫一は蹈留りて海に向いて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添いて、気遣しげにその顔を差覗きぬ。「堪忍して下さいよ、皆...金色夜叉(静岡県熱海温泉)

  • 中将姫     (奈良県当麻寺)

    小学校にあがる頃、絵本を読むことはあったが、漫画も絵本も男子は侍で、女子はお姫様、とほぼ決まっていた。それで「中将姫」を知ることはなかった。中将姫の存在を知ったのは、二十代も後半の頃。講談社が戦前の絵本の復刻版が発売し宣伝し、その新聞広告で知った。大人になって児童の絵本を見ると、子どもの時とは違って、物語の解釈や絵のすばらしさに気づくことがあった。今でも図書館で絵本をめくることがある。・・・旅の場所・奈良県葛城市當麻・當麻寺(たいまでら)旅の日・2012年10月30日書名・ちゅうじょうひめ原作者・不明現代訳・小学館の絵本昭和40年発行・・・ちゅうじょうひめは、「こうしてしあわせになれたのも、やさしいほとけさまのおかげですもの。わたしは、ほとけさまがよろこんでくださるようなりっぱなにんげんになりましょう。」...中将姫  (奈良県当麻寺)

  • 出口のない海   (山口県徳山市)

    戦前の日本軍は何にも増して”勇ましさ”が優先した。その行きつく先は、戦果よりも、”死ぬ”方が優先された。魚雷に人を乗せた回天は、訓練中の殉死、親船もろとも戦死は数知れず伝えられ、戦果は何一つ報告されていない。旅の場所・山口県周南市大津島旅の日・2014年7月12日書名・出口のない海著者・横山秀夫発行・講談社2004年発行「出口のない海」人間魚雷・・・・・カイテン。だが、「甲標的」のように敵艦に向かって魚雷を発射するのではない。自らがその魚雷なのだ。爆薬を満載した改造魚雷に人が乗り込み、たったひとり暗い海の中を操縦し、敵の艦船の横腹めがけて搭乗員もろとも突っ込む。それは筆舌に尽くしがたい壮絶な特攻兵器だった。「でかい......」魚雷だ。形そのものは魚雷には違いない。だが、それは巨大な棺桶に見えた。鉄の棺桶...出口のない海 (山口県徳山市)

  • 婉という女 (高知県宿毛市)

    江戸時代の初期の四国・土佐藩家老”野中兼山”は、土佐藩の新田開発や港湾建設で有名な人だが、失脚後、一族が長期間幽閉されたのもよく知られている。幽閉されていたのは現在の宿毛市立宿毛小学校の校地。校地内には記念碑や多くの説明板が建ち、野中一族の功績や、一族の幽閉の史実を長く伝えていくという意思が伝わる。宿毛小学校の説明板。↓野中兼山一族の幽閉野中兼山は江戸時代、土佐藩(今の高知県全域)の奉行で、藩内の政治のリーダーでした。兼山は新田を開発したり、港を築いたり、お米の値段を調整したり、次々と新しい仕事を実行しました。宿毛でも、河戸堰や宿毛総曲輪(堤防)を築いたり、沖の島や山でおきた国境争いを解決しました。しかし、兼山のやり方はとても強力だったので、各地で反発を生み、結局、奉行を辞めて隠居します。そしてその直後、...婉という女(高知県宿毛市)

  • 林 譲治

    場所・高知県宿毛市桜町(市役所隣の公園)林譲治さんは高知県宿毛出身の政治家。翼賛選挙は非推薦で落選。戦後は吉田茂さんと縁戚もあり、党役員や衆院議長を務めた。【宿毛市HP】林譲治(はやしじょうじ)明治22年~昭和35年(1889年~1960年)-吉田内閣副総理-林譲治は林有造の次男で、戦前戦後を通じて中央政界で活躍しました。戦後、実父を宿毛にもつ吉田茂が第二次吉田内閣を組閣した際に副総理として入閣し、世間から「宿毛内閣」と呼ばれました。その後も衆議院議長、自民党幹事長などを歴任し、昭和34年には衆議院議員在職25年の永年在職議員として表彰されました。訪問日・2018.10.3林譲治

  • 「玉島ハーバーフェスティバル」に行く 2024.6.1

    日時:2024.6.1~6.2(行った日・6.1)名称:第10回玉島ハーバーフェスティバル場所:岡山県倉敷市乙島・玉島外貿1号埠頭特設会場晴れ過ぎない、おだやかな天気だったので玉島港(水島E地区)で開催のイベントに行った。「第10回玉島ハーバーフェスティバル」は初めての見物だった。イベントの場所がハーバーで、イベント名もハーバーなので、どんな催しだろうか?港の港湾関係の、作業船・大小の運搬船・警備船が見れるのか、コンテナーヤードやE地区の企業PRや商品説明、仕事の説明などあるのかな?イベントなので食物・物産市は間違いなくあるだろう。行ってみると、予想は外れて、国の安全、防災の安全、生活の安全を業務とする「自衛隊」「消防」「警察」の展示のイベントだった。メインは海上自衛隊の「くろべ」の来艦だった。「くろべ」...「玉島ハーバーフェスティバル」に行く2024.6.1

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