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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 「第30回笠岡路上観察発表会」

    今回で最後となる発表会が下記の要項で開催される。「第30回笠岡路上観察発表会」場所・笠岡市六番町笠岡市民会館(第一会議室)日時・2023年8月31日(木)~9月3日(日)午前10時~午後6時・・・出展数は65点そのうち、一部作品。(ダイヤモンド青佐)(太陽の広場)(笠岡駅前のイルミ)特集「笠岡市内の山」(古城山)(虚空蔵山)テーマ「笠岡市内の神輿」(茂平)(一番町)・・・出版「去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡」笠岡路上観察研究会2023年9月発行予定・・・「第30回笠岡路上観察発表会」

  • 伊勢大神楽

    笠岡市にも「伊勢大神楽」は回ってくるが、くる地区と、こない地区がある。毎年のほぼ決まった時期に、事前に葉書が届き、家々の玄関口や庭先で演じる。初穂料によって短時間に終わったり、長時間舞ったりする。・・・「旅の民俗シリーズ・生きる」旅の文化研究所2017年発行旅芸人かつては、芸人の旅も多かった。越後の角兵衛獅子、伊勢の太神楽、西宮のえびすかき、周防の猿まわし、筑前の琵琶法師など広く知られている。そのうち、太神楽と猿まわしは、移動(旅)のかたちを変えながらも現代に伝わっている。・・・・・・・「神楽と出会う本」三上敏視アルテス2009年発行伊勢大神楽獅子頭を奉じて移動する神楽のプロフェッショナル伊勢大神楽は「移動する神楽」で、今でも西日本を中心にほぼ一年中檀那場(だんなば)と呼ばれる村落を巡り、一軒一軒訪ね歩い...伊勢大神楽

  • 女衒(ぜげん)

    ”女衒”という言葉を知ったのは、父との会話が初めてだった。・・父の話・2002.9.15日中戦争・ペーの話(従軍慰安婦)(朝鮮人慰安婦は「連れていかれた」と言っているが?)そりゃあ無ぇ。「連れていかれた」んじゃぁ無ぇ、希望して来とるんじゃ。金になろう。(村とか家とかに)おったんじゃあなんにもならん。それじゃけいええかげん(お金が)貯まったら帰りょうた。嫁に行きょうた。あの時分不景気で金儲けはできなんだ。せいが1時間が300円。中国人などは50円ど。村で世話をするモンであんちゃん。女衒。女衒が「自分が行けい。」言うても、いう事を聞かんので「日本軍がこう言うて来とる。」「ご苦労せぃ。」と勝手に”日本軍”の名前を使ぅとる。・・・(島原駅前・2012.5.8)”女衒”という言葉は、明治・大正・昭和と日常の暮らしの...女衒(ぜげん)

  • 傷痍軍人

    昭和46.47.48年頃、広島の八丁堀、天満屋広島店の前に毎日、傷痍軍人がへたっていた。いつも白衣で、片足か、片腕か、片目の無い、傷痍軍人姿だった。二人組みで、一人は賽銭箱を前に、ひたすらお辞儀を繰り返す。一人はアコーディオンで、「戦友」のような、さみし気な軍歌を弾く。その哀れな感じの音が商店街にもよく響いていた。ところが、残業や飲み屋帰りの人が、黒塗りの高級車で帰っているのは、あの、歩けない足や、無い腕の傷痍軍人だろうと見破った噂がひろがった。それでも、噂を知らない人もいて、暫くは天満屋の前に座りつづけた。この街頭の傷痍軍人は、広島県の呉市、福山市にはいない。岡山県岡山市にもいない。たぶん、人口100万都市以上で成り立つ業だったのだろう。・・・「失われゆく仕事の図鑑」永井良和他グラフィック社2020年発...傷痍軍人

  • エンヤコラ

    祖母の妹は、祖母に似ず美人だった。祖母に似ず上品な話し方をしていた。神戸で割と裕福な暮らしをしていたそうだが、神戸空襲で家族と家を失い、無一文、家無し状態となった。戦災後、茂平の実家に帰り、予科練帰りの子と二人仮住まいをしていた。その後、笠岡町営住宅に引っ越し、小さいながらも親一人・子一人で暮らしていた。妹を不憫と思った祖母は、内緒の品やお金を、孫(管理人の姉)に託して町営住宅まで、こっそり届けていた。ある日のこと、いつものように孫(管理人の姉)が町営住宅に物を届けに歩いていると、あの、きれいな祖母の妹がヨイトマケ姿で働いていた。孫(管理人の姉)は「見てはいけないものを見たようで、片目をつむって走り抜けた」と話していた。あるお盆の日、「おばちゃんは千原しのぶに似ているね」「わーっ、私、千原しのぶ大好き」ほ...エンヤコラ

  • 灯台守

    「喜びも悲しみも幾年月」の映画と歌が大人気の頃、婦人会の旅行で、母は”灯台”を見に行った。場所は市内の六島の灯台だったが、母の感想は、「遠くて、船が揺れて、上陸後は細い山道を登って」散々の旅行だったと話していた。・・・かつて同僚で、親が「海上保安部の灯台勤務」の人がいた。彼の話す転校等の移動は、今まで会った人の中で、一番すごかった。北海道から鹿児島県の南西諸島まで。裏日本・表日本、西日本・東日本、まさに、まんべんなく移動。居住地が、孤島か陸の孤島で、岬のとっさきは、どこも共通。学校は、中学生の途中から、親と離れて暮らした・・と言っていた。・・・(笠岡市六島の灯台)・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行灯台職員(灯台守)沖合の監視は、灯台職員の情報と連絡で、海上保安部が停船命令を出すので、...灯台守

  • 博労

    茂平の博労は、ますらおさんが一手に引き受けていた。ますらおさんは自転車に乗って、農家を訪問し、世間話と、牛の話と、必要に応じ牛の世話をしていた。村中で見かけるので、ますらおさんは村では有名人だった。一度、家の牛がお産をした時、ますらおさんが親牛に身を寄せて一体となって産まれるまで世話して姿を忘れられない。昭和35、36年頃テーラーが普及し、農家から牛が不要になった。その頃、ますらおさんも高齢で、牛の世話から身を引いた。今思い出しても、仕事ではあるが牛が大好きな顔した、ますらおさんだった。・・・「金光町周辺の民俗」岡山民俗会昭和46年発行博労(牛の仲買人)博労は、牛を飼育している家に出かけて、売買の話をする。両者の間で「なんぼう」と値をいいあう。話が成立したら「手を打つ」といって手打ちをしていた。手を売った...博労

  • 瞽女(ごぜ)

    瞽女は江戸時代末期まで、瀬戸内地方にもいたようだが、明治以降は東日本、特に越後が有名になった。昭和30年代で旅芸人としては消滅したが、現在は芸が伝承されている。・・・「失われゆく娯楽の図鑑」長瀬聡グラフィック社2022年発行瞽女瞽女(ごぜ)は、三味線を弾きながら、瞽女唄を歌い、全国を回る盲目の女性旅芸人の歴史的名称である。公的な福祉のない時代、目の不自由な女性たちの生活手段は灸、按摩、三味線など限られていた。当時の農村は娯楽が少なく、瞽女の興行は行く先々で歓迎された。・・・「瞽女(ごぜ)の世界を旅する」大山真人平凡社2023年発行ごぜとは、村々を門付けして歩く盲目の旅芸人をいう。江戸時代いは各地に存在したが、戦後廃れていく。最盛期、上越高田には17軒のごぜ屋敷があり、それぞれが組をつくり、越後や信州の村々...瞽女(ごぜ)

  • 天声人語 【昭和63年】

    天声人語【昭和63年】青函連絡船最終便1988(昭和63)年3・15連絡船がなくなったことを、いずれは悔いる時がくるかもしれないが、今はただ、これも時の流れだと思うほかはない。・・・コウノトリ人口繁殖成功1988(昭和63)年4・7昔は浅草でも青山でも、たくさんのコウノトリが寺の屋根や松に巣を作っていたそうだ。松とツルの絵は、実はツルではなくてコウノトリの場合が多い、という話をきいた。やがて受難の時代がくる。白くて大きな鳥だったのが災いして、狩猟の評的にされた。巣を作る松が減り、農薬汚染がひろがった。それがコウノトリ激減の理由にあげられている。今は日本で生まれたコウノトリは一羽もいない。だからこそ、飼育者たちは祈りながら、ヒナ誕生を待った。こんど卵を産んだ夫婦は、中国のハルビン動物園からやってきた。三月の...天声人語【昭和63年】

  • 天声人語 【昭和62年】

    天声人語【昭和62年】『平凡』廃刊1987(昭和62)年9・28ひところは大衆娯楽雑誌の世界に君臨していた月刊誌『平凡』と『週刊平凡』が廃刊になる。萩本欣一が「悲しいよ、悔しいよ」といっている。欣ちゃんはこの雑誌を読み、芸能人を身近に感じ、自分でもやれると思うようになってこの世界に入った。敗戦の年に誕生した『平凡』はたちまち百万部を超えた。7S、つまりスター、スクリーン、ステージ、ソング、スポーツ、セックスを扱って売れた。一九五九(昭和三十四年)に生まれた「週刊平凡」は7Sに1Tを加えた。テレビである。当時テレビは急成長期にあった。五十九年の普及率は一割強だが、六十五年には八割を超える。テレビの急成長は次々に人気ものを生み、人気ものを追った「週刊平凡」もまた、急成長した。この雑誌のおもしろさは異種交配にあ...天声人語【昭和62年】

  •  天声人語 【昭和61年】

    「天声人語」辰濃和男朝日文庫新自由クラブ解散8・13『瘦我慢の説』を書いた福沢諭吉翁だったら、新自由クラブ解散の報をきいてたぶんこう書いただろう。新自クごとき小党は大政党に抗してその勢いを維持するよりも、大政党に合併することこそ安楽なるべけれどもなおその独立を張り続けたるは小党の痩我慢にして、我慢のときにゆらぐことありたりといえども、一応は党の栄誉を保ちたれりというべし。しかるにここに遺憾なるは自民圧勝の余波をうけし新自クにこと起こりて、不幸にもこお大切なる痩我慢の大義を害しつつたることなり。そもそも新自ク結党の趣旨は荒野にありて日本の政治の蘇生を願う一粒の麦たらんとし、腐敗政治の打破を志すにあり、金権政治を断たんとするには痩我慢の主義によらざるべからず。されどこの遇直なる初志を貫きえぬまま、時勢を見はか... 天声人語【昭和61年】

  • 天声人語 【昭和25年】

    ・・・元号廃止と紀元考「天声人語」昭和25年2・14荒垣秀雄元号を今年いっぱいで廃止しようとの法案が参議院の文部委員会で練られている。来年から二十世紀の後半期に入るのだから時期としてちょうどよいのだろう。日本には元号と神武紀元と西暦の三つが雑居していて、世界史の理解に大きな妨げとなっている。元号は大化の改新で西暦六四五年に初めて採用され、天皇一世に八回も改元があったこともある。明治いらい皇室典範で一世一元とされて今日に至ったが、天皇とともに年代を起算することは、豊臣時代、徳川時代などと支配者の名によって歴史を分類することと共にもうやめてもよかろう。紀元の起こりは、明治五年十一月、その年を紀元二五三三年としたものだそうだが、神武紀元に大きなサバをよんでいることは今さらいうまでもなく、これも名実ともに速やかに...天声人語【昭和25年】

  • 備中杜氏

    「寄島町誌」寄島町役場昭和42年発行備中杜氏のおこり本町には現在80名の杜氏がいて、備中杜氏を出す市町村中その数において第一位を占める。起源等について記録も無いが、岡山県工業試験場技師の研究によれば、古老杜氏より聞き及んだこととして、「備中南部海岸地帯は山が海岸まで迫り耕地の少ない僻地であった。農業のかたわら漁業に従事していた。冬季になれば職を探すことに苦心していた。元禄年間、通称忠吉は酒造技術を修得し、杜氏の職を得て、広島県忠海の酒造場を振り出しに各地で酒造技術者として就職していた。その後、浅野藤十は酒造家業の有望なことを認識し郷党青少年を教育して灘方面へ出稼ぎしていた。このように逐年酒造技術者の希望者は増加し、明治20年頃には約100名に達し備中杜氏の名称を冠した。大正年間には、1.000名以上となり...備中杜氏

  • 天声人語 【昭和21年】~四等国~ほか

    進駐軍の占領政策で、天皇制護持は補償されたが、敗戦による民主制天皇の誕生には、昭和21年当時、手探り状態であったのが読み取れる。・・・「天声人語」昭和21年・・・昭和21年1・1焦土日本建国以来かくも悲惨な、かくも深刻な新年はいまだかつてなきところ、満州事変の直後、内田康哉外相によって無考えに放言せられた焦土外交なるものは、その直後松岡洋右外相の放胆無比な仕上げにあって、ついに文字通り国を挙げて焦土と化してしまうのであった。この沈痛な昭和21年の初頭に当たって、君民相互の信頼と敬愛とを提唱し、単なる神話、伝説に即する現御神(あらみかみ)などの架空的観念を排する画期的詔書の渙発を見る。まさに科学的日本への一発条たるべきものであろう。・・・「天声人語」昭和21(1946)年1・6四等国昨年9月2日降伏調印によ...天声人語【昭和21年】~四等国~ほか

  • 墨ぬり教科書の頃

    敗戦後の軍国主義一掃の学校現場は、国民生活の衣食住、そのすべてが不足した中で行われていった。・・・「福山市引野町誌」引野町誌編纂委員会ぎょうせい昭和61年発行墨ぬり教科書昭和20年9月文部省は教科書の全部削除・一部削除・取り扱い注意を示した。ただし、これは「国語」科のみだった。20年12月GHQは、修身・日本歴史・地理の即時停止と教科書の全面回収という極めて厳しいものだった。文部省はこれを受けて指令を通達した。これが「墨ぬり教科書」であり、翌昭和22年に暫定教科書ができるまで使用された。◎削除・修正の例「海軍のにいさん」「菊の花」「神だな」「にいさんの入営」「金しくんしょう」「病院のへいたいさん」「支那の子ども」修正「センチノニイサン」「オクニノタメニ」を「兄さん、しっかり、元気ではたらけと」と修正するよ...墨ぬり教科書の頃

  • 写真を隠す、銅像を隠す、忠魂碑を隠す、鳥居を隠す

    終戦直後は食糧難に代表されるが、あわてふためく行為も多々あった。家には、天皇皇后の写真を額に入れて飾っていた。その額は、「戦後の一時、取り外して押入れの一番奥に隠していた」と祖母が話していた。「これを見られたらアメリカに捕まる」のが、その理由だった。そんな理由で、戦争直後に、いろんな物が焼かれたり、壊されたり、隠された。廃却されたものは戻らないが、隠されたものの多くは数年後に復活されたものが多い。笠岡市内では学校の校庭の地中から石の鳥居がでたり、和気清麻呂像が民家に隠されたりしたが、福山市の備後護国神社鳥居も興味深い。(2021.9.29福山市草戸町)・・・「福山市多治米町誌」新築中の護国神社は昭和20年8月8日の空襲で焼けた。戦後「このままだと取り壊されるおそれがある」と市当局者は近くの地中に二基とも解...写真を隠す、銅像を隠す、忠魂碑を隠す、鳥居を隠す

  • 塩飢饉

    茂平の苫無の松林の西側(内海=うちうみ)に沿って、塩田跡が残っていた。「戦争が終わって2~3年ほど、ここで塩を作っていた」という話だった。茂平の塩田は入浜式の塩田ではなくて、「安寿と厨子王」の、安寿がしていた桶で汐汲みの”揚浜式”の製塩だった。戦中から戦後の一時期は、原始時代に戻ったようなことを、大真面目に、そして一途にして、その日の生活をやりくりしていた時代だった。・・・「岡山の女性と暮らし戦前・戦中の歩み」岡山女性史研究会編山陽新聞社2000発行自家製塩の奨励塩田労働者を徴兵・徴用で奪われて、塩の生産も落ち込んだ。前年晩秋から、漬物用の塩の不足が問題となり、この5月、国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家用製塩の奨励を始めた。曲折した斜面を作り、何度も海水を流して17度程度のかん水にして、煮詰めれば一...塩飢饉

  • 天声人語 【昭和20年】~以徳報怨(徳をもって恨みに報いる)演説~ほか

    図書館から文庫本「天声人語」を借りた。その時代が、感じられて興味深い。・・・昭和20年の「天声人語」天声人語昭和20(1945)年9・12お役所仕事アメリカの進駐軍は、たった2日間で、横浜の桟橋から、厚木の飛行場まで、ガソリン油送管をひいてしまった。代々木練兵場の幕営にしても、一夜のうちに機械力を駆使して、街路ができ、キャンプが設営され、井戸が掘られ、浄水装置までつくられた。司令部における士官たちの執務ぶりでも、手紙ひとつがきても、すぐ速記者に口述してタイプを打たせ、上官の署名を得てただちに発送されるなど、水の流れるように事務がさばかれてゆく。また日米間の交渉的なことでも、こちらの言い分を正当と認めれば、遅滞なく命令に移されて、てきぱきと処理される。わがお役所仕事は、お役所仕事の効率があがらないということ...天声人語【昭和20年】~以徳報怨(徳をもって恨みに報いる)演説~ほか

  • 「兵隊盃」

    城見村出身の偉人、加藤六月代議士は終戦後、小さな”盃”をコツコツと蒐集していた。その盃には、日の丸や凱旋が描かれていて、軍人の戦勝や退役の際の記念品だった。戦後は廃棄物同様に扱われ、哀れんだ六月さんは、それを”兵隊盃”と呼んだ。・・・「兵隊盃」序にかえて加藤六月私が「兵隊盃」を蒐集するようになったのは、昭和24.25年頃である。郷土の星島二郎先生の門下生となって、修業しはじめたころでもある。当時の食糧事情はひどく、食べ物、そして着る物、せわしい日々、やみくもに生きてきた。そんな時に戦災で焼け残った街角に時折、骨董品をみかけた。岡山市の骨董品店でのことである。片隅に日の丸と軍旗をあしらった小さな盃が埃にまみれ雑然と積み上げられていた。この時、胸をついた不思議な感情は今でも忘れることはできない。何かしら哀れと...「兵隊盃」

  • 靖国神社

    場所・東京都訪問日・2011.9.9靖国神社(Wikipedia)靖国神社は、東京都千代田区九段北にある神社。慶応4年(1868年)以降、戊辰戦争・明治維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、そのための施設である招魂社創立の動きが各地で起きた。それらを背景に明治天皇の勅令によって明治2年(1869年)に建てられた招魂社に起源を発し、国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る。全国にある護国神社と深い関わりがある。戦時歌謡の「九段の母」では、〽上野駅から九段までかってしらないじれったさ杖をたよりに一日がかりせがれきたぞや会いにきた上野駅から九段坂まで、徒歩で4kmほどある。「せがれ」が22才とすれば、「九段の母」は44、45才前後。今では、信じられないが、その年齢で「杖をたより」で「一...靖国神社

  • 終戦④”玉音放送”を聴く

    以前からも神国・日本ではあったが、それがにわかに強調され、宣伝されだしたのは昭和12.13年頃から。その当時、小学生や上級学校にいっていた少年少女が、軍国・愛国民の中核となり、その数年後新聞テレビでみるように敗戦を聴いて嗚咽した。その上の世代は敗戦で安堵したり、(不幸にも)戦線で死んでいった。・・・「太平洋戦争全史」亀井宏講談社2009年発行8月14日の夕刻から、東京中央放送局は「明15日正午に重大な放送があるので、国民はもれなく聞くよう」くり返した。8月15日正午、終戦の詔書を朗読する天皇の声は予定どおり電波にのって、全国に流れた。この日、日本列島はおおむね快晴、暑い日であった。・・・父の話(岡山市・陸軍下士官)ワンワンようたが、聞き取りにくかったが意味するところはよく分かった。「日本は負けん、これから...終戦④”玉音放送”を聴く

  • 終戦③”ご聖断”

    1945年7月26日のポツダム宣言から、20日間を経てやっと1945年8月15日の玉音放送に到達した。1945年8月14日になっても、なお海相を除いて「死中に活を求める」と”聖戦継続”を参謀総長、軍令部長、陸相が求めた。最高指導者でありながら、何もみえていない人たちが、軍と国家を導いていたことを現わしている。・・・・・「大日本帝国崩壊」加藤聖文中公新書2009年発行8月13日の閣議8月13日午前8時半過ぎから最高戦争指導会議構成員会議が開催された。前日同様、東郷の受諾説と阿南・梅津の再照会説が対立、途中の中断をはさんで午後3時まで続いたが結論はでなかった。午後4時から閣議が開催されたが、相変わらず対立が繰り返された。しかも東郷のもとには陸軍のクーデター計画の噂が頻々と伝えられるようになっていた。事態は一刻...終戦③”ご聖断”

  • 終戦②”国体護持”

    ”国体護持”をつきつめれば、天皇制維持を意味する。さらにつきつめると、最悪の場合、天皇・皇后の生命を保障する。昭和天皇は自らの地位や命よりも、日本民族の継続を思った。・・・「大日本帝国崩壊」加藤聖文中公新書2009年発行ソ連参戦によってポツダム宣言の受諾は一刻の猶予も残されていないことを悟ったが、それでもまだ一週間も要したのである。8月9日、午後11時50分からの皇居地下壕の御前会議宣言受諾か本土決戦かは三対三で真っ二つに割れ、残る鈴木の去就が注目されたが、鈴木は自らの意見を述べないまま立ち上がり、天皇の前に進み出て聖断を仰いだ。天皇は、「計画に実行が伴わない」として本土決戦論を退け、ポツダム宣言受諾に賛成すると発言した。時はすでに8月10日午前2時20分であった。会議が終わると鈴木は早速、首相官邸に引き...終戦②”国体護持”

  • 終戦①”無条件降伏”(ポツダム宣言)

    第二次大戦の日本軍の作戦失敗、惨劇といえば、「インパール作戦」がまず挙げられる。しかし、日本の態勢を決したフィリピン「レイテ島の戦い」の方が、より悲惨度や規模が大きい。作戦の始まりからして大本営発表の戦果を鵜呑みし戦況を誤り、陸海軍の将兵の多くの戦死者、初の特攻隊を生んだ。軍指導者が、正常な頭であったなら、この時に戦争は負けて終わっていた。沖縄・硫黄島・原爆はなかった。千島列島も占守島まで日本のままだった。づるづると昭和20年8月まで、外地では負け戦をつづけ、本土では空襲で都市は焼かれ放題となった。・・・・・・「一億玉砕への道」NHK取材班角川書店平成6年発行ポツダム宣言の成立7月17日から三国首脳会談がポツダムで開催された。米国・バーンズ国務長官はアメリカ世論を懸念して天皇制の存続を明記することに反対し...終戦①”無条件降伏”(ポツダム宣言)

  • 昭和20年、食べる物がない④学校農園

    文部省はついに、学校のグラウンドを掘り返して農場にするよう命じた。・・・(昭和19年頃、広島県福山市旭国民学校)義兄の写真、この後、義兄は岡山県陶山国民学校に縁故疎開した。・・・・・・「岡山教育史」「青少年学徒食糧、飼料増産運動」昭和16年2月、文部省は各道府県に対し「青少年学徒食糧、飼料増産運動」通達を出し、「1年を通して30日以内の日数は授業を廃し、国策に協力せしめる」作業にあてることとした。その日数は授業時間とみなすこととなった。作業は軍人家族留守宅を含めて農村では米麦増産の作業全般に協力した。このような集団作業を進める組織が、学校報国団の結成である。戦争末期の食糧増産運動最初、生産的意義よりも教育的意義が強調されていたが、しだいに労働力不足を補うようになってきた。食糧不足は深刻となり、学校も総力を...昭和20年、食べる物がない④学校農園

  • 長崎平和公園

    場所・長崎県長崎市平和公園訪問日・2012年5月10日「歴史の現場」毎日新聞2000年発行忘れられぬ感触火が収まった爆心地に翌10日、午前11時ごろ忘れられない光景が幾つかある。一つは、6~7才の子供だった。親から教えられていたのであろう、目と耳を両手で押さえた姿勢のまま死んでいた。市街電車は木製で、鉄の車輪だけ残し、燃えていた。数十人の乗客は折り重なるようにして死んでいた。「もう戦争に負けてもいい。こんな目に遭うなら奴隷になっても、まだましだ」と思った。背中から、自分たちの犠牲を無駄にしないでくれと、絶えず死者の声が蘇ってくるようにも思えるのだ。長崎平和公園

  • 昭和20年8月9日、ソ連軍の日本侵攻②すべての領域が崩壊していった

    ソ連の侵攻は、天皇始め重臣たちの終戦決意を決定的なものとした。「泥棒を見て縄をなう」、それさえも出来ない大日本帝国の終末だった。「一億玉砕への道」NHK取材班角川書店平成6年発行「精鋭関東軍」の現実急激に増強されるソ連軍に対し、誰の目にも日本側の劣勢は明らかであった。日本は敗北を予感し、ゆえに、参戦そのものがないことを願ったのである。おおよそ、兵員で2.5倍、火砲で30倍、戦車・飛行機で26倍というようにソビエト軍が圧倒的に優勢であった。関東軍の大部分は45年に入ってからの新設であり、素質・装備・訓練なだあらゆる点でレベルは落ちていた。第二五師団参謀の主任は語る。「もう兵器がないんですよ。砲隊はありましたが砲がないんです。そんな状態でしたね。人間の数はそろえられますわ。在満召集でね。開拓団なんてどんどん召...昭和20年8月9日、ソ連軍の日本侵攻②すべての領域が崩壊していった

  • 昭和20年8月9日、ソ連軍の日本侵攻①日本のはかない望み

    日ソ中立条約は、ソ連は、ドイツと日本の東西で戦争したくない。日本は、アメリカとソ連の南北で戦争したくない。という打算だけで条約締結した。それから4年後、ソ連は西の戦争が終わった。日本は南の戦争で敗北状態、戦意も武器もなかった。そもそも、食べ物すらなかった。そこへソ連が進攻した。・・・「日本歴史21近代8」岩波講座1977年発行大本営は45年4月末から本格的な対ソ戦の検討を始めた。中国戦線を放棄するか、満州をも放棄して本土決戦に専念するか、結局は東南部の山岳にたてこもることになった。いずれにせよソ連の参戦は、日本の戦争遂行にとって最悪の事態をまねくという認識では一致していたのである。・・・「一億玉砕への道」NHK取材班角川書店平成6年発行ソ連ロゾフスキー外務次官は1945年1月10日、モロトフに「太平洋戦争...昭和20年8月9日、ソ連軍の日本侵攻①日本のはかない望み

  • 昭和20年、ソ連への和平依頼

    終戦間際の日ソ交渉ほど、みじめな外交交渉はない。「溺れる者は藁をも摑む」を、国家が実行した。ここまできても、なお「死中に活を求める」案すら出せず、ソ連にすりよるだけで、最後に侵攻された。・・・「一億玉砕への道」NHK取材班角川書店平成6年発行「対ソ静謐(せいひつ)」「一億玉砕」本土決戦太平洋の島々での戦いではことごとく敗戦を重ね、もはや日本の敗戦は必至とも見えるこの時期、軍部はどのような心づもりで本土決戦をのぞもうとしていたのか。対外政略の唯一の目標としてあげられたのが「対ソ静謐(せいひつ)の保持」であった。アメリア軍を迎え撃って本土決戦を行うためには、北方のソビエトとの安定が絶対条件であった。唯一絶対の条件であった。1943年11月、テヘランで開かれた米英ソ首脳会談で、改めてソビエトの対日参戦は確認され...昭和20年、ソ連への和平依頼

  • 昭和20年8月8日・福山空襲の夜

    これは、昭和22年4月1日に岡山県小田郡A村立A小学校に入学したB男さんの話。談・2023.7.23・・・(問)小学校入学する前の想い出は?戦時中の記憶福山の空襲夜と、あくる日いちばん記憶があるのは福山の空襲。まあ、ぼのすごいB29が何機も旋回する。焼夷弾を落とす。そしたらあくる日になって、空からひらひら紙が落ちてくる。商店の燃えカスが落ちていくる。商店の伝票や台帳が。あれだけにゃビックリした。田舎では庭に「涼み台」を置いて、9時か10時まで休んでいた。それから寝とった。普段は、リュックと防空頭巾を枕元に置いて寝ようた。その日は、リュックサックを背負って、もう僕らは逃げる用意をしとるん。最低限の衣服と食べ物をちょろっといれとん。空襲の時にゃ、そこで震えながら空を見とった。僕らは壕がないから裏の山に逃げよう...昭和20年8月8日・福山空襲の夜

  • ”さんこう”(おかやま山陽高校)が甲子園で初勝利

    2023年8月8日兵庫県西宮市・阪神甲子園球場「第105回全国高校野球選手権大会」NHKテレビ放送岡山県代表の山陽高校(さんこう)が、ついに甲子園で初勝利した。ついに、というのは山陽高校にとっても、井笠地域にとっても(もっとも他には興譲館が出たことがあるだけ)初めての甲子園の勝利。”さんこう”の選手は、全員地元の中学校からの進学者。この地元というのは、広島県福山市を含む。近年、岡山県備中地区と広島県備後地区の野球少年は、広島市の広陵高校へ進学の人が多いようだが、これを機に、備後から”さんこう”進学者が増えれば、さらに強豪高校になる。どうなるか。JR鴨方駅から近く通学に便利なのも強み。目指せ、甲子園2勝!・・・・・今日(2023.8.8)は用事があり、岡山に行った。両備バスの運転席後ろ側に↓展示文書があった...”さんこう”(おかやま山陽高校)が甲子園で初勝利

  • 昭和20年、食べる物がない③子ども

    映画「二十四の瞳」では、大石先生の幼子が空腹で何か生ものを食べ、食あたりで死んでしまう。小学生くらいになると、自分で周辺の自然から、いくらか調達できるけどいちばんの弱者は赤ちゃん。母は近所の子、二人に乳を与えていたが、その二人とも結局亡くなってしまった。・・・「日本食物史」江原・石川・東四柳共著吉川弘文館2009年発行食料確保と工夫南瓜やさつまいもの栽培がさかんに奨励されると同時に、ドングリやイナゴの食用化がすすめられた。このポスターには「とち、かし、なら、くぬぎは皆さんのおなかを一杯にさせる乾パンやあめやパンになります。ウント拾って沢山食べましょう。また、あるアルコールや牛の皮のなめすタンニンになります。学校の先生の指導の下に、大いに拾って下さい。農林省・日本林業会」という文言がみえる。子どもたちの力も...昭和20年、食べる物がない③子ども

  • 昭和20年、食べる物がない②大人「ほしがりません勝つまでは」

    食べる物や武器がなくても、精神論とスローガン(標語)だけは勇ましかった。事後冷静になってみれば、まるで負け犬の遠吠えとしか言えない。・・・・「日本流通史」石井寛治有斐閣2003年発行食糧不足極度の食糧不足に対応するため、国民は食べられるものは何でも食べようということになった。雑誌『生活科学』1943年3月号は、昆虫で食べられそうなものを紹介している。トンボの幼虫やかいこのサナギ、いなごの成虫。カミキリムシやゲンゴロウまで、いったいどうやって食べるのであろうか。これではまるで江戸時代の飢饉の庶民の姿である。・・・「日本の食はどう変わってきたか」原田信男角川書店平成25年発行昭和15年7月、国民精神総動員運動による贅沢排撃運動と相まって、8月1日の興亜奉公日には「ぜいたくは敵だ」といった立て看板が並び、贅沢追...昭和20年、食べる物がない②大人「ほしがりません勝つまでは」

  • 昭和20年、食べる物がない①決戦食

    戦国時代に有名な”三木の干し殺し”、”鳥取の渇え殺し”。これは、天正時代の出来事で450年以上前の話。それが、昭和時代の日本で再現されようとしていた。日本列島全体を封鎖され、人・食糧・燃料・物資の移動ができない。いっぽう封鎖された国内では、労働力なく、肥料なく、農具なく、食糧生産が制約された。中国やアメリカやソ連と戦う兵の食糧が、昭和20年秋には底をつき。さらに、昭和21年はそれ以上の食糧危機を迎え、兵も銃後も飢え死の可能性が高かった。おそらく、暴動が起きて敗戦だったと思える。・・・「ふるさとの戦争」青木暢之中国新聞1995年発行決戦下「野草も食糧に」国内の食糧事情は窮迫していた。主食の米はまず軍需食糧として確保される。台所では米に変わり、サツマイモ、ジャガイモ、雑穀が主食に昇格する。代用食はイモばかりで...昭和20年、食べる物がない①決戦食

  • 初代「フラガール」

    昭和50年代後半、福島県いわき市に住んでいた。いわき市には炭鉱のボタ山が残り、鉱山からは温泉が湧いていた。”常磐ハワイアンセンター”という巨大な温泉観光センターがあり、その年間会員になっていた。残業がない日は、帰宅後に長女を連れてハワイアンセンターに行っていた。いわき市を去って後のこと、ハワイアンセンターは「スパリゾートハワイアンズ」と名称を変えた。そして『フラガール』という映画にもなった。映画ははワインセンターの踊り子さんの物語で、豊川悦司(トヨエツ)や蒼井優が主演。その蒼井優が演じたダンサーが亡くなったと、今日の新聞に載っている。・・・【産経ニュース】映画「フラガール」のダンサー役のモデルで、初代フラガールの小野恵美子(おの・えみこ)さんが4日午前6時30分、アルツハイマー型認知症終末期のため福島県い...初代「フラガール」

  • 農業も統制下へ(軍需農産物の増産)

    家は果物農家だった。残念ながら父母に、戦時中の果物の作付制限のことを聞いていない。父母は、その事を自らも話をしなかった。たぶん、父は断続的に兵役に就き、母は農婦・主婦・母・家政婦および雑役婦で身体も気力も余力が無く、毎日のことで精いっぱいだったので、果物の作付・・・この場合、老木の植え替え・・・まで、事実上手が回らなかったと思える。おそらく、桃や梨を植えるのは茂平でも、どこでも日本全国制限があった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「新修倉敷市史6」農業も厳しい統制下へ昭和16年4月、農産物作付制限規則を公布果物・桑・茶・庭木など新植を抑え、翌年からはスイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。昭和18年秋、いっそう強められ、農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである...農業も統制下へ(軍需農産物の増産)

  • 朝鮮産の米

    朝鮮半島から、日本の都合だけで、米を移入したり、止めたりした。計画性のなさに、半島の農民は一層疲労していった。「革新と戦争の時代」井上光貞他共著山川出版社1997年発行朝鮮産の米米騒動後、米を増産日本は米騒動後の1920年代に朝鮮で産米増殖計画により米の増産を強行し、朝鮮産米の相当な部分を日本に移入して内地の食糧を補っていた。その朝鮮産の米が昭和恐慌の際、本土農家を圧迫した昭和恐慌の際には、この移入米が逆に内地農業を圧迫して農業恐慌を深刻化させたために、産米増殖計画を中止する措置がとられていたが戦時にはいり、昭和14年(1939)の大旱害以降ふたたび食糧不足が激化すると、雑穀をあてがう朝鮮住民には麦や高粱など雑穀をあてがい、米の消費を禁止同然にして強制供出させ、内地に米を移入しようとした。しかし、米の対日...朝鮮産の米

  • 「この非国民め!」

    「この非国民め!」戦時中、京都女子大の国文科の二年生の学生だった時、学徒動員が下り、私たち女学生は軍需工場へ動員されました。そこで毎日やらされたのは、弾磨きです。私は毎日長時間作業による過労と、粗食で体調を崩し、ある日の午後、工場内の蚕棚のようなベッドに休んでいました。少し気分が落ち着いてきたので、持参していたバルザックの『谷間の百合』の文庫本をつい手に取った時です。そこに当直将校が見廻りにやってきました。バタンと大きな音がしたかと思うと、将校の怒号が響きました。「起きろ!貴様、仮病を使って何を読んでいるのか!なにい、『谷間の百合』?こんな敵国の本を読んでいるのか!この非国民め!」平手打ちを食わせました。好きだった学業を中断され、疲労して病に倒れ、せめてもの慰めにと手にした小説すら没収されてしまった。いち...「この非国民め!」

  • 名古屋・陸軍第三師団

    場所・愛知県名古屋市中区特別史跡「名古屋城跡」訪問日・2018.9.15明治維新により、戦目的だったお城は、当然のことのように、戦争目的の軍がお城を引き継いだ。尾張名古屋の名古屋城には陸軍第三師団と歩兵六聯隊が置かれた。現在は師団司令部の煉瓦塀だけが300mほど残っている。「愛知県の歴史」塚本・新井著山川出版社昭和45年発行昭和20年5月14日の朝から440機のB29が来襲して、低空から焼夷弾の雨を降らせた。名古屋市民がほこりとしてきた名古屋城の天守閣は、猛火のなかで2時間も燃えつづけたあと、くずれおちた。昭和19年、130万をこえた市の人口は、空襲と疎開で50万前後まで減った。・・・名古屋・陸軍第三師団

  • 広島大本営

    場所・広島県広島市中区基町訪問日・2016年3月31日日清戦争当時(明治27・28年)、広島市の広島城跡の陸軍第五師団に大本営が置かれた。広島の大本営は2年間で終了したが、第五師団は昭和20年8月15日まで存続した。宇品港と一体化した軍都として広島は大いに栄えていた。・・・中国軍管区司令部跡Wikipedia中国軍管区司令部跡(ちゅうごくぐんかんくしれいぶあと)は、広島県広島市中区基町にある、大日本帝国陸軍中国軍管区司令部防空作戦室の遺構。旧陸軍の防空作戦室は全国に6ヶ所あったことはわかっており、ここは現存唯一のものになる。広島市への原子爆弾投下の第一報を外電した場所であり、現存する被爆建物の一つ。国史跡広島城址公園内にあり本丸を囲む内堀の石垣付近に位置し、広島護国神社境内隣にある。半地下式鉄筋コンクリー...広島大本営

  • 佐世保鎮守府

    場所・長崎県佐世保市訪問日・2012年5月12日「日本の遺跡と遺産⑦戦争遺跡」岩崎書店2009年発行佐世保を造船の町として大きく発展させた鎮守府と海軍工廠佐世保鎮守府関連遺跡鎮守府というのは、日本の海を4つの海域に分け、それぞれの海域警護のために置かれた海軍の重要な機関です。九州方面の海軍根拠地として佐世保に鎮守府が置かれたのは1889年(明治32)のことでした。1903年には大きな造船所を持つ海軍工廠もつくられ、佐世保は軍港であるとともに、日本屈指の造船都市となりました。現在も市内には、軍港時代のレンガ倉庫群、鉄筋コンクリート造りの司令部の建物、レンガ造りの弾薬庫群、海軍工廠のドッグやクレーン、20か所あまりの工場建築物群などが残されています。海軍の少年兵(予科練生)だったおじは、四ある鎮守府を、それぞ...佐世保鎮守府

  • 舞鶴鎮守府(赤煉瓦倉庫群)

    場所・京都府舞鶴市「舞鶴赤れんがパーク」訪問日・2013.8.12旧大日本帝国海軍「舞鶴鎮守府」跡。舞鶴鎮守府は1901年開庁、その後ワシントン軍縮条約で1923年要港へ格下げ、1939年鎮守府に復活した。1945年、敗戦により廃止。戦後は海上自衛隊や公園として使用されている。赤レンガは保存と見栄えが良く、映画やテレビに登場する。シベリア拘留者の引揚で有名な舞鶴港は、ここから数キロ離れている。「続しらべる戦争遺跡の事典」柏書房2003年発行国道27号線沿いに赤煉瓦倉庫群がある。これらは舞鶴鎮守府の軍需品等の保管倉庫として、1900(明治33)年~1921(大正10)年までに建てられたものである。1904年には、軍港引き込み線が開通し、倉庫内まで線路を引き込み、物資の運搬にあたった。舞鶴の赤煉瓦造物は114...舞鶴鎮守府(赤煉瓦倉庫群)

  • 昭和20年②本土決戦と「一億総玉砕」

    「竹槍から鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口に至るまで、刀、槍は敵兵の腹部めがけてぐさりと突き刺す。みぞおちを突くか、睾丸を蹴る。一人一殺でよい」まるで原始時代か古代を思わすが、昭和の戦時中、国民に配布した『国民抗戦必携』に書かれたもの。最期に”神風が吹いて日本が勝つ”、それを国民に押し付けた。兵器も、食べものも、着るものも、学校もなくなったが・・・日本には”大和魂”がある!、とされた。・・・「一億玉砕への道」NHK取材班角川書店平成6年発行本土決戦の現実昭和20年6月8日の御前会議で「挙国一致皇土決戦では国民義勇隊の組織を中軸とし・・・」と記され、国民義勇隊の組織化には大きな期待が託されていた。国民義勇隊は、官公署、会社、事務所など多数を擁するところはその職域ごとに、その他のところでは、一定地域ごとに組織さ...昭和20年②本土決戦と「一億総玉砕」

  • 昭和20年①戦局は好転の見込み絶対なし【近衛上奏文】

    日本軍はレイテ戦で敗れ、マッカーサーはフィリピンに上陸した。昭和19年から、日本の戦争は転げ落ちるように負け戦をつづけていた。しかし、そもそも、開戦以前からそれは日本の指導層が認識していたことだった。昭和20年2月、指導層で初めて近衛公が”敗戦”という言葉を使った。・・・「日本の歴史14」研秀出版1973年発行日本本土空襲米国はB29をつくりだしとともに、昭和19年春から夏にかけて中国四川省成都などに基地を設け、満州・北九州・台湾の製鋼工場を爆撃。昭和19年11月にはマリアナ基地から日本本土空襲を始めた。11月24日から昭和20年3月9日まで、高度1万メートルから、航空機工場を狙った。精度は悪く,効果は少なかった。昭和20年3月10日以降、夜間の都市爆撃に切りかえ、低空(6.000m~8.000m)から焼...昭和20年①戦局は好転の見込み絶対なし【近衛上奏文】

  • 旧福山市体育館

    場所・広島県福山市草戸町解体日時・2023年10月から解体(予定)撮影日・2021年9月29日中国新聞に旧体育館の解体記事が載った。・・・中国新聞2023.7/25(火)「優れた意匠」の旧福山市体育館、模型を残し10月にも解体建築業界は保存要望広島県福山市は老朽化に伴う旧市体育館(草戸町)の解体に10月にも着手する方針を決めた。同体育館を巡っては、建築業界から「意匠に優れ、市民の集いの場としても役割を担ってきた」などと保存活用を求める声が上がっているが、市は「耐震性に問題があり、跡地活用も決まっている」などと説明。模型を残して次世代に伝え継ぐとしている。・・・福山市体育館はかつて、若者のデートの代表場所だった。広島県東部~岡山県西部の恋人たちが、この体育館のアイススケートでデートをした。その前は、福山市民...旧福山市体育館

  • 天声人語 【大本営発表】 (辰濃和男)

    戦前・戦中の日本は、報道の自由が権力や法や軍事に圧迫され、それが戦争の開戦~敗戦の大きな要因になった。戦後の昭和は、その反省からもマスコミも言論人も矜持をもって出版や報道していたが、平成ころからの日本は、報道機関が、何か勝手に権力にすりより、自己と所属先の保身第一の報道が目につくようになった。その結果、今や日本の「報道の自由度ランキング2022」では世界71位のありさま、とても先進国とは言えない。・・・【ごまかしを監視し、戒め、責任をとる機能がなかった。】【作家の高見順は当時の日記に書いている。「沈黙を守っている新聞に対して、言いようのない憤りを覚えた」】戦争と苦渋の体験した言論の先人に、今の報道人は顔向けできるのだろうか?・・・辰濃和男一ツ橋大学HP「静かな炎・辰濃和男」「文章のいちばんの条件は、これを...天声人語【大本営発表】(辰濃和男)

  • 昭和22年4月、6・3制学校が始まる頃 (新制小学1年生の話)

    戦後の教育改革で、昭和22年4月1日から6・3制度が施行。昭和23年4月1日から6・3・3制度が施行。昭和24年4月1日から6・3・3・4制度が施行された。・・・これは、昭和22年4月1日に岡山県小田郡A村立A小学校に入学したB男さんの話。談・2023.7.23・・・(「一億人の昭和史」占領下の市民生活毎日新聞昭和50年発行)・・・食べるものだいたい麦飯とサツマイモ。朝サツマイモを炊く、家族全員ぶんのサツマイモを炊く。それを食べて学校に行きょうた。(麦飯は?)そんなものを朝から食べるもんな。もってーねい。中学生になるころ麦飯を食うようになった。弁当ある正月あけに、兄嫁が弁当に餅を焼いていれてくれたんじゃ。昼に食べようとしたら餅がカチンカチンになっとって、顎が折れるくれい噛んだ思い出がある。晩飯夏はうどん。...昭和22年4月、6・3制学校が始まる頃(新制小学1年生の話)

  • 製縄(せいじょう)

    縄=わら縄、という時代が有史以来つづいてきたが、1960年代になって化学製品に追いやられた。家では祖父が、雨の日に藁縄を編んでいた。父や母はしない。祖父の雨の日の仕事だった。祖父が作ったワラ縄は長屋に積んで保管していた。そのワラ縄は、すべて家の自給用で他家にわけたり売ってお金にしてなかった。(家の必要量だけ作っていた)・・・製縄(せいじょう)千田の製縄の歴史は古く、かつ重要な副業として重んじられていました。農家の各戸毎に足踏み製縄機を据え付け、老若男女の別なく、副業として精励したものです。昔の家の建築は、壁は土壁でした。細長い竹が組まれ、それを手ないのわら縄で組んで止め、泥壁が塗られたもので、建築には必須のものとなり、小遣い稼ぎになっていました。太平洋戦争後、化学工業の発展で化学製品の縄が大量に生産販売さ...製縄(せいじょう)

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