chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
フォロー
住所
岡山県
出身
未設定
ブログ村参加

2014/12/11

arrow_drop_down
  • 6月29日・岡山空襲

    岡山空襲は死者1.700人、空襲警報が無かったことで、被災者が多かった、といわれている。しかし、それを言えば空襲警報が発令されていたなら、果たして被災者が減っていたか?それは違うと思う。すでに当時の日本は、警報が出ても慢性化してして、「鳴っとるのう」の状況であった。より大きな問題は、市街地から避難するよう命令せず、(指導するどころか禁止した)空襲が激化していても市民の避難を許さなかった。その典型が軍都中の軍都・広島であるが、岡山も広島も、そのことはまったく触れない。被災者と空襲時の悲惨な状況のみを報道する。悲惨な状況をつくりだたのは、(米軍だけでなく)”神州不滅””最後は神風が吹く”と最後まで国民をあおり、指導・報道した国家である、と自分は思っている。・・・(大戦末期の父・茂平の自宅にて)・・・父は三度目...6月29日・岡山空襲

  • 道⑤明治・大正の道

    明治に道らしい道はなく、文明開化で馬車や荷車が通り、道は更に悪路になった。政府は鉄道の敷設を進めたので、道路は昭和30年頃まで、江戸時代とたいして変わらない状況のままとなった。大正の末年、鴨方往来(浜街道)が旧山陽道から国道2号線をとって変わったが、なんと車両通行さえおぼつかない国道2号線だった。高梁川が一本の川となり、その高梁川に霞橋の架橋完成に合わすように、周辺の国道2号線はバスが通れる程度の道となった。昭和3年のことである。・・・「道Ⅱ」武部健一法政大学出版局2003年発行明治維新明治2年、諸道の関門(関所)の廃止が通達された。その翌年より、本陣・脇本陣が廃止、助郷制度廃止、飛脚が廃止された。しかし、明治3年(1870)に人力車の開業、明治9年自転車の輸入が開始されるなど、馬車の通行がさかんになると...道⑤明治・大正の道

  • 道④江戸時代の道(道路とお参り)

    茂平は前面が海、三方は山に囲まれた地形で、陸路・隣村に行く道が二本あった。西の野々浜に行く道、坂里峠越。北の用之江に行く、野上峠越。坂里峠は、管理人が小学生の時は、怖くて目をつぶるようにして走り抜けた。野上峠は、管理人のひいひい祖父さんは、(農夫であったが)用心のため刀を差して峠を越えていたそうだ。つまり、茂平への出入りは峠越えで、山賊が出る(という噂の)暗くて細い峠道だった。おそらく、江戸時代の道は、五街道や主要道以外は、似たような狭い道であったと思われる。・・・・・道「道の文化史」中国地方総合研究センター2013年発行近世全国統一を目指した織田信長は、街道整備、関の撤廃など積極的に行った。信長の道路政策は秀吉が次いだ。秀吉の朝鮮出兵では、膨大な物資や武器、大量の兵が山陽道を通った。江戸時代は「西国街道...道④江戸時代の道(道路とお参り)

  • 道③江戸時代の道(商品の道)

    茂平の新田である吉原は江戸時代、綿花畑がひろがっていたに違いない。綿花は塩と米と並び、瀬戸内地方の代表品で「備中三白(びっちゅうさんぱく)」とも呼ばれていた。明治中期に輸入綿花が入り衰退していったが、農家にとっては換金作物であり、自給の糸・布・着物に必要な生活必需品を兼ねていた。・・・・「福山市引野町誌」福山市引野町誌編纂委員会ぎょうせい昭和61年発行「干鰯」西廻り航路(北前船)に依って干鰯が盛んに入荷し、帰り荷には塩や古手を積んで帰る(干鰯が入荷するまでは人糞尿、厩肥(きゅうひ)、山草などが重要な肥料元となっていたが、干鰯が入るようになると、米、木綿、たばこなどの生産力が飛躍的に上昇した)。こうなってくると農産物自身の生産量が増加してくるし、その流通量が増加してくる。江戸時代から明治にかけての購入肥料は...道③江戸時代の道(商品の道)

  • 道②江戸時代の道(年貢の道)

    江戸時代は、年貢米による石高制の社会だったが、では、その年貢米はどのように運ばれたのだろう。田んぼで稲刈り→百姓家で米俵→庄屋へ運ぶ→代官所・城下の米蔵・湊の蔵→大坂・江戸、と思う。庄屋に集まった米俵は→一番近い川か海の湊まで馬の背で運ぶ→舟で指定の湊の米蔵に運ぶ。茂平に当てはめると、茂平の湊から笠岡の代官所指定の米蔵に収納する。(ここまでは庄屋の責任)笠岡湊から大坂・江戸の幕府米蔵まで運ぶ。(ここは代官所の責任)だったのだろう。・・・・「美星町史・通説編」美星町昭和52年発行年貢米の輸送年貢米の輸送は大仕事であった。九名村から、納められる年貢米は明治3年頃は玉島へとしたものである。九名村から水内川舟場まで3里、水内から玉島港まで7里半。水内から玉島経由笠岡まで17里半であった。連れの人足賃5日分、途中支...道②江戸時代の道(年貢の道)

  • 道①古代~戦国時代の道

    瀬戸内海の島々のうち、吉備・安芸(現在の広島県・岡山県)と讃岐・伊予(香川県・愛媛県)の国境は、タライの舟を流して決めたというようなことを学校の先生がおしてくれた。その説は、先生自身も自信がなさそうだった。今、地図をひろげてみると、タライで決めたのでなく、古代律令国家の役人が、国と国との真ん中を、中国・四国に平等に分けているのがよくわかる。例えば、大きな児島は吉備、小豆島は讃岐にと、地形とにらみあわせての平等な配分がよく見とれる。古代の山陽道は、現在の笠岡市域を通らず、市域の半分ほどは海域で、”鯨”の地名が残るように、時折、迷い込む鯨がいる海岸線が広がっていたようだ。・・・「道の文化史」中国地方総合研究センター2013年発行山陽道古代の山陽道近畿と大宰府を結ぶ、軍事、政治上の重要なルートであった。馬を交通...道①古代~戦国時代の道

  • 昭和20年6月23日沖縄戦終了③大和特攻その2「先哲と殉国の士・新山人物誌」

    特攻の観光地、鹿児島県知覧に観光で行った人が、特攻隊員の手紙を読んで泣く。それは観光客の自由で、泣きたいだけ、好きなように存分にいつまでも泣けばいい。だが原則、「死人に口なし」。特攻隊員の遺書は隊員の直筆だが、「まだ死にたくない」「負ける」とでも書こうものなら、即座に没。「お父さん、お母さん、お世話になりました。お国のため、喜んで死に行きます」は、即座に採用。そこだけは、前提として読んでから・・・泣いてほしい。・・・殉国の士を、せめても書き残して、後世に継ぐ、そういう著者の篤い志が伝わる郷土本が笠岡市にもある。・・・(新山小・奉安殿)「先哲と殉国の士・新山人物誌」山部明新山公民館昭和47年発行私の新山村助役時代は、支那事変から大東亜戦争(こんな言葉は使ってはいけないとかだが)の再只中で、私は来る日にも来る...昭和20年6月23日沖縄戦終了③大和特攻その2「先哲と殉国の士・新山人物誌」

  • 昭和20年6月23日沖縄戦終了②大和特攻

    戦艦大和は沖縄に出撃したが、豊後水道で早くも米軍の潜水艦に発見され、薩摩半島沖で沈没した。もし沖縄に突撃できていたら、上陸もかなわず飢餓地獄で戦死した可能性もある。出撃命令が発令された時点で、悲劇しかありえない作戦だった。せめてものとして、3隻の駆逐艦が帰還できたこと。なお、日本軍の戦死者総数は4.044名。米軍は13名。・・・「教養人の日本史・5」藤井松一現代教養文庫4月6日、大本営は航空肉弾戦と特攻艦隊のなぐりこみ戦術によって退勢を挽回しようと焦り、生き残りの大戦艦「大和」以下10隻の艦隊に片道燃料のみをあたえて出撃させた。しかし艦隊は潜水艦にとらえられて空襲をうけ、大和は数千名の艦員とともに徳之島に沈んだ。ここに日本海軍は完全に姿を消した。・・・「連合艦隊興亡記」千早正隆中公文庫1996年発行4月5...昭和20年6月23日沖縄戦終了②大和特攻

  • 「ひめゆりの塔」

    場所・沖縄県糸満市「ひめゆりの塔」訪問日・2012年12月18日「日本軍事史」吉川弘文館2006年発行1945年4月1日、米軍は沖縄に上陸した。日本側の軍民あわせて170.000人近くの命を奪った凄惨なものとなり、6月23日、牛島満司令官が自決して戦闘は終結した。「ひめゆり平和祈念資料館」ひめゆり学徒隊の生存者たちの思いは、生きたい、生きたいと思いながら死んでいった同級生たちの思いを代弁したいといういうことにあった。語るに語れない悔恨の思い出であり、祖国防衛に燃えて闘ったという誇りなどなかった。生存した彼女たちの多くは、戦後教壇に立ち、平和の尊さを子供たちに伝えることに努力してきた。物言えぬ同級生たちに代わり戦争の悲惨を直接語り伝えようと努力を傾ける姿には何時も敬服せざるを得ない。しかし、もうその時間もそ...「ひめゆりの塔」

  • 親子舟歌

    昭和30年ごろの日本の川は、橋で渡る、船で渡る、徒歩で渡るの三方法だった。島と島、島と本土、岬から岬も同じ。日本中に多くの渡し船が存在していた。その頃、潮来を歌った流行歌が多かった。歌の舞台は潮来出島のように思えるが、この歌を聴く人はみんな、自分の近くにある”渡し船”を勝手にイメージしていたと思う。三橋美智也「女船頭歌」、美空ひばり「娘船頭さん」すこし後に、橋幸夫「潮来笠」、三波春夫「船方さんよ」その代表曲は、なんといっても「親子舟歌」。大歌手・田端義夫、名子役・白鳥みづえ、が親と子に扮して歌う「親子舟歌」が大ヒットした。〽舟はろまかせろは親まかせ親は子まかせ歌まかセヨー一里きこえてギッチラコギッチラコ三里ながれてギッチラコギッチラコ歌はどこまで行くのやら〽泣くなヨシリキ悲しじゃないか泣けば母さん思い出す...親子舟歌

  • 昭和20年6月23日沖縄戦終了

    沖縄戦、敵は米軍だったが、日本軍も味方とは言えなかった。・・・雑誌「歴史人」2022年6月号沖縄南部には民間人が10数万人いたといい、彼らは日本軍の側にいることが安全だと思い、軍に付き従っていた。というのは、アメリカ人は鬼畜だという教育を受け、捕まれば拷問されたり凌辱されたりした後、むごい殺され方をすると信じていたからである。沖縄の女子学生たちは、野戦病院の看護婦として従軍させられていた。ひめゆり部隊も、そうした学生看護師隊の一つだった。彼女たちは第三外科壕にいたが、そこにアメリカ軍がガス弾を投げ込んで、数十名の若い命を奪ったのである。沖縄県民の命は、アメリカ兵だけでなく、日本兵も足手まといになる民間人に自決を強要したり、スパイ容疑をかけて射殺したりということが起こった。・・・「岩波講座日本歴史21近代8...昭和20年6月23日沖縄戦終了

  • ”肉”を食う⑤羊・鴨・鯨・雀・犬・ドンガメ・・

    子供の頃、日本の山々は人の手が入っていたので、動物は山奥にいて姿を見ることは珍しかった。干支で亥年の年なんか、いったいイノシシってどんな山村の、そのまた奥にいるのだろう?と不思議に思っていたが、今の日本は、イノシシの出ない村や町が珍しくなった。そんな訳で、少年時代に食べた肉はあまり多くはない。鴨畑仕事の帰りに父がつかまえて食べた。家族全員で分けると一切れで、味の想い出はない。雀空気銃を持っている人が撃ち落とした雀を焼いて食べた。雀自体が小さくて肉は一口でおしまい。ニワトリ養鶏を始めて後、特によく食べた。ドンガメ(カブトガニ)腹が減っているので仕方なしに海辺でドンガメを焼いて食べた。あの悪臭、グロテスクな形。ひっくり返すと何本もある手足が動く。クジラとにかくよく食べた。あの、しわい肉を。魚屋のしょうやんが売...”肉”を食う⑤羊・鴨・鯨・雀・犬・ドンガメ・・

  • 奥村五百子

    場所・佐賀県唐津市東城内・・・「近代日本の出発」板野潤治新人物文庫2010年発行与謝野晶子が厭戦派婦人の代表であったとすれば、主戦論派の婦人代表は愛国婦人会の奥村五百子(おくむらいおこ)であった。東本願寺派の僧侶の娘であった奥村は、義和団事件にさいして東本願寺の出兵慰問使として清国におもむき、帰国後の明治34年3月、軍人遺族や傷病兵の救援を目的とする愛国婦人会を組織した。皇族や華族を役員としたこの会は、日露戦争中には20万人近い会員を擁する一大婦人組織となっていた。与謝野晶子はこの愛国婦人会の活動に批判的で、「御者」や「馬丁」を引きつれて下手な包帯巻きをする「立派な令夫人」たちの行動を「あなかしこ、私などの知らぬこと、願わぬこと」と記している。・・・奥村五百子のことは知らなかったが、杉村春子が奥村五百子を...奥村五百子

  • 感動と興奮の、映画史上最大のヒット作品「明治天皇と日露大戦争」

    娯楽=映画、という時代があった。町に住む人も、田舎に住む人も、映画が最大の娯楽だった。その映画の全盛期に、空前絶後の大ヒット映画が生まれた。それが「明治天皇と日露大戦争」。その頃は茂平の人が町へ遊びに行く=映画を見に行く、ことだった。だが、町(茂平の場合、町とは福山または笠岡を意味する)に行くことは滅多にない。そこで金浦座が月に2度ほど、茂平の集会場に出張して映画を上映していた。「明治天皇と日露大戦争」は東京や大阪で上映されてから2年ほど経って、茂平に来た。茂平の会場は超満員だった。父は、「やっぱし勝つ映画はええのう」というような事を言っていた。当時の日本は、戦争=敗戦の意識が強かった。公開後2年も経った映画でも、観客ほぼ全員が面白さで興奮したような記憶がある。上映中、フィルムが切れて中断が20回ぐらいあ...感動と興奮の、映画史上最大のヒット作品「明治天皇と日露大戦争」

  • 味噌

    味噌は、母が作る味噌しか知らなかった。味噌汁はおかずも兼ねていた。修学旅行に行って初めて、味噌や味噌汁が家のものとは違うのを知った。・・・「成羽町史民俗編」成羽町平成3年発行調味料味噌味噌は自家製で、昔はなめ味噌であった。味噌は、他人にやらぬものといわれ、それぞれの家庭でその家の特技により作られていた。大豆、麦で作り「三年味噌」が一番良いとされ、樽に封じて三年経って食べていたが、今では特別の家庭以外は一年位で食べるようになった。赤味噌・白味噌の二通りで麦麹・米麹によって異なる。・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行味噌米味噌と麦味噌があったが、戦後は米味噌中心になった。味噌作りは冬の仕事であった。庭があがったら(米の収穫が終わると)すぐに味噌を作った。米味噌には小米を使うことが多かった。まず米を蒸し...味噌

  • 旧五月五日 西浜(ようすな)オシグランゴ

    場所・岡山県笠岡市金浦開催日・旧暦5月5日(再開後は近い日曜日)「おしぐらんご」は、廃止前に一度見に行ったことがある。再開後の「おしぐらんごは」、10回くらいあるかな。その差(廃止前と再開)は、とても比較にならない。廃止前のおしぐらんごは、本気で櫓こぎ合戦をしていた。たとえ汚い手をつかおうと、何をしようと、とにかく”勝つ”、”負けられん”それが「おしぐらんご」だった。そういう元気や迫力は、漁師町ようすなの猟師や町民だけでなく、見物に訪れる人にも伝わり、競漕とお祭りが一体となった初夏の、一大イベントだった。漁師町西浜(ようすな)は、おしぐらんご廃止後はころがるように町も人も、元気と活気を失っていった。高度経済成長期、密集した市街地を形成していた金浦は時代に取り残された。漁師町・金浦であったが、漁業は消滅し、...旧五月五日西浜(ようすな)オシグランゴ

  • ダイコン(大根)

    中学校か高校の修学旅行の宿の朝食時、宿の人が「たくあんは、・・・、おみおつけは、・・・」と食事の説明をしたが、自分の膳に、たくあんも、おみおつけもなかった。話の内容で、どうも、「たくあん」とは「コーコ」のことで、「おみおつけ」とは「味噌汁」のことを意味しているようだった。家では汁かけが主流だったが、そういう食べ方はしてはいけないことも感じた(知った)。・・・「野菜まるごと辞典」成美堂出版2012年発行ダイコン(大根)日本の冬野菜の代表各。「日本書紀」にも記されて、古くから食されています。ダイコンの葉には栄養が豊富です。もっとも多いのが「青首ダイコン」で、生のまま浅漬やサラダ、大根おろし、おでんや煮込み、など万能に使える。全国各地に在来種があり、土地ならではの漬物などもあります。・・・・・・・・・・・・・・...ダイコン(大根)

  • 昭和8年6月17日 「実録・天六交差点の対決」その二・福山市、軍・警の対決

    大阪のゴーストップ事件の2ヶ月前のこと。福山で暴行事件があり、男を拘留した。ところが、その男は福山聯隊の陸軍将校だった。結局、警察が軍に謝罪し、事件は終わった。・・・「福山市史・下」福山市昭和58年発行軍警抗争事件異境で苦労しているであろう兵士への感謝の念と、「暴支膺懲」の宣伝とが市民内部で相乗的に増幅して、戦争支持が世論となり、批判の材料が与えられないまま無謀な戦争に引き込まれていったのである。このようななかで、昭和8年(1933)4月14日、軍の横暴ぶりを示す象徴的な事件が起こった。市内のカフェーで福山聯隊の中尉が暴行事件を起こし、これを鎮めようとした巡査二人と衝突、これを取り押さえ、憲兵隊に引き渡した。ところが憲兵隊長は、「現役将校に手錠をかけ留置場に入れたのはけしからぬ」と逆ねじをくわせ、第五師団...昭和8年6月17日「実録・天六交差点の対決」その二・福山市、軍・警の対決

  • 昭和8年6月17日 「実録・天六交差点の対決」

    小学校の4年生か5年生の頃だたと思う、福山の駅前通りに交通信号機が出来た。それが道路横断の信号機を見た初めてだった。前を見ると赤、横を見ると青。道とは歩くところと思っていたが、”停まる”ことも必要のようで、何をどうすればいいのか解らず、一瞬不安になった。結局、人の後をついて渡ったのをよく覚えている。知られているように、「人は右、車は左」は昭和22年に制定されたもので、戦前には道路交通法もなく、車も数少なく、人の一生は信号機を見ずに終えるのが普通だったのだろう。警官は戦後こそソフトになり「お巡りさん」とも呼ばれるが、戦前の「巡査」は権威を背景に居高くしていた。警官が戦前偉ぶっていた時代、商都大阪といえども、交通信号も滅多にない四つ角(今は交差点という)で、道を渡ろうとした男性と巡査がけんかになった。ところが...昭和8年6月17日「実録・天六交差点の対決」

  • 小学校六年生になると、♪菜の花畠に入り日薄れ見わたす山の端霞ふかし春風そよふく空を見れば夕月かかりてにおい淡し・・の、「朧月夜」を習っていた。自分も早く六年生になって「朧月夜」を歌いたい、と思っていた。先生の説明では、菜の花は「菜種油」にするという話だった。茂平では一部の田んぼに菜の花を植えていた。田んぼの裏作で麦はなく、半年寝かす田が多かった。菜の花とレンゲが咲く田んぼは、子ども心にも田舎の田園風景を彩っていた。今思うと、菜の花はレンゲと同じように肥料にしていたのだろう。家の料理に油を使ったものは珍しくはなかったが、それはキンピラゴボウのように、油を使うというよりも垂らす、程度の使用量だった。田舎の農家では、自給自作が基本なので、お金を出して買う物は、少しずつ、もったいなく、使っていたのだろう。・・・「...油

  • 大相撲全盛期の栃若時代、大関朝汐(後に横綱朝潮)は、ニワトリを追いかける相撲と呼ばれていた。農家では庭で飼うニワトリを夕方、小屋に追い込むが、それは子供の仕事(手伝い)で、その姿は朝汐が相手力士の動きをふうじ、土俵際に追い詰める相撲に、よく似ていた。ニワトリが生んだ卵は、家族の口には入らなかった。たった日に2個程度の卵だが、それをためては売っていた。食べるのは、運動会の弁当にゆで卵を半分に切ったものが入っていた。遠足のときも半分あった。一個まるごとほしいもんじゃ。一個一人で食べてみたいもんじゃ、と思っていた。その願いは小学校の3年生の頃から、叶えられた。親が小屋を建て養鶏を始めた。毎日、傷物の卵が一個二個はでていた。その売り物にならない卵が家族の口に入った。念願かなった一個まるごと食べる卵は、いつも「卵ご...卵

  • 梅干し

    梅干しは子供のおやつだった。「うめんぼし」と呼んでいた。タケノコの季節には、葉の中に梅干しやシソを入れて挟み、その汁や実を吸っていた。酸っぱいので、梅干し一個で腹いっぱいになった気がしていた。今ラーメン店などに、醤油の隣に小梅の瓶が置いてあるが、ああいうミニサイズの梅は昭和30年代、40年代にはなかった。・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行梅干し五月六月になると収穫したり、購入して毎年漬けた。三升程度漬けておくと一年中あった。まず塩漬けにした。シソを半夏(はんげ)前に取って、梅といっしょに漬ける。梅雨があけると「土用の三日干し」、すぐにでも食べられたが、一年ほどおくと色がきれいに染まった。殺菌作用があるなどといわれ、用途は広いものであった。・・・ウメウメが果樹としてつくられるようになったのは、江戸...梅干し

  • かんぴょうの煮しめ

    学校の遠足、運動会、学芸会の日には巻きずしとキツネ寿司が定番だった。弁当箱に巻きずし半分、キツネ寿司半分が、ほぼどこ子も似たようなものだった。巻きずしの具は、家々で違っていた。が、かんぴょうだけはどの子の巻きずしにも入っていた。かんぴょうは、ハレの日の弁当の想い出が強いが、母にとっては煮しめのようだ。(母の話)昔のボニゆうたら「かんぴょう」や「さつま」や「じゃがいも」や、ボニのごちそうゆうたら決まっとった。昔は炊いて食びょうたんじゃ。ボニのにしめをするするゆうたら、かんぴょうがなければできんゆうてようた。くくってなぁ、家でこしらえたのはおいしかりょうた。こりこりして。食べるもんが無いけぃ、作ることにして作りょうた。雨が降りゃあわやくそになりょうた。談・2001年10月7日・・カンピョウ・カボチャ・タマネギ...かんぴょうの煮しめ

  • シイタケ

    中学生か高校生の時、笠岡に、シイタケを売っている店があった町ではシイタケを買って食べる人がいる、ということにおどろいた。・・・「岡山の作物文化誌」臼井英治岡山文庫平成18年発行シイタケかつて、わが家の晩秋の仕事の一つにシイタケの菌の植え付けがあり、子どもの私もかり出された。ドングリの木(アベマキ)を切り出すことからはじまり、原木を担いで下す。手回しドリルで穴をあけ「種駒」を詰め込んだ。かつてはコナラ、シイ、クヌギの風倒木や切株に自然発生するものを採取していたが、江戸時代に菌の発生を促進する方法が述べられている。昭和18年に「種駒」を原木に植え付ける方法が開発されて、シイタケ栽培は飛躍的発展を磨げた。・・・「野菜まるごと辞典」成美堂出版2012年発行シイタケ丸ごとか、スライスして、セミドライは数時間、完全に...シイタケ

  • 醤油

    自分の家でも、近所の子の家でも、醤油は家で作っていた。昭和33年頃だろうか?作るのを止めて、店から一升瓶で購入するようになった。・・・(母の話)2002年5月26日小麦を植え、大豆を植え麹を作り彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。空臼で搗きょうた。実家のトノばあさんは村中で評判のええ麹をつくりょうた。おばあちゃんは(実家へ行ったとき)習うて、真似をしたらエエ麹ができるようになった。どこの家にも甕にいっぱい「ひしお」を作っておいとった。途中から鴨方で麹を作ってくれるとこができだした。醤油を搾る麹を1年寝かして、塩と水をいれて、混ぜくるんじゃが。せいから搾る。辛ぃ醤油ができるんじゃ。二...醤油

  • 平清盛

    場所・広島県廿日市市宮島町平清盛と宮島「瀬戸内の風土と歴史」谷口・後藤・石田共著山川出版社昭和53年発行清盛が安芸国主となるのは1146年、29歳の時である。清盛と厳島神社の関係はこの時に始まるといわれている。清盛はその後、日宋貿易に有利な地位を確保するとともに、いよいよ内海地域との因縁を深めることとなる。1167年ついに従一位太政大臣の栄華を占める。当時唐船と呼ばれた宋商船を幾艘か手に入れ、厳島神社参詣などにもつねに唐船を利用した。清盛には、おそらく生涯の参詣は数十度に及んだもののようである。その一門子弟もこれにならうもの多く、1174年には後白河法皇、1180年には高倉上皇、1176年に建礼門院が、こうした辺地のへ御幸は、当時まったく異例のことであった。撮影日・2023.6.10平清盛

  • 灘尾弘吉先生像

    場所・広島県広島市中区基町(広島城三の丸・内堀沿い)庶民の生活とは無縁で、東京生まれのぼんぼんで、二代どころか、三代、四代が主流の自由民主党。自由民主で、何人も機会均等であることを標榜しながらムスコという理由だけで候補者に決め、国会議員になることがあたりまえになっているのが、日本の政権政党の実情。かつては、この政党にも高い志をもった人たちが選挙で当選していた。広島県能美島出身の灘尾弘吉さんは、知性教養がその風貌にまであらわれていた。そして”自民党三賢人”と呼ばれた。灘尾さんは衆議院議長ののち引退した。(もちろん身内を後継とせずに)広島市の同じ選挙区だった、同党議員は引退後、ムスコに後を継がせ、今ではそのムスコ(三代目)が首相をしてる。三代目もムスコ(四代目)を秘書官にして、2023年に新聞を騒がせた。撮影...灘尾弘吉先生像

  • 「2023ひろしまフラワーフェスティバル」を見に行く②広島の今

    日時・2023.6.10場所・広島県広島市・廿日市市広島FF見物が目的で広島に行ったが、広島ついでに、気になる場所も見てきた。・・・宮島の大鳥居宮島の大鳥居が2022年12月に工事完了。3年半ぶりの大鳥居は、平清盛から9代目になるそうだ。広島駅前(南口)広島駅ビルの建替えと広電路面電車の駅ビル進入を同時工事中。路面電車は駅ビル二階になり、現在の路面電車のスペースはバス等に利用される。ひろしまゲートパーク広島市民球場の跡地。令和5年3月31日にオープンの「HIROSHIMAGATEPARK」。年間通して大小のイベントを行うそうだ。サッカースタジアム現在の工事状況。サンフレッチェ広島の本拠地となる3万人収容のスタジアム。広島城三の丸名古屋城の”金シャチ横丁”のような土産店街をつくるようだ。瀬野川の「スカイレー...「2023ひろしまフラワーフェスティバル」を見に行く②広島の今

  • 「2023ひろしまフラワーフェスティバル」を見に行く

    日時・2023.6.10場所・広島県広島市中区・平和大通り(100m道路)広島FFは例年、天気予報が晴で、初日にあるパレードを見に行っていた。ところが、コロナで3年間休止。それに加えて今年はG7が広島で5月にあり、FFの開催は5月GWから6月に変更された。そういう事情があり、4年振りということで、雨さえ降りそうになければ見に行こうと思っていた。4年ぶりに見る広島FFは演じる人、見物人、その皆んなが待ちわびている感じだった。「花のパレード」、これは呉市の皆さん。「花の塔」。「花のステージ」、歌うのは倉橋島出身の歌手・島谷ひとみさん(今回で出場二度目)。「ピースフラワープロジェクト」は、平和記念公園芝生ひろば。他にも、平和大通りにはステージ、お店、展示、が沿道を埋め尽くしている。盛況・盛大な広島FF初日だった...「2023ひろしまフラワーフェスティバル」を見に行く

  • 学校で見る映画④大学

    ゼミの先生は映画が好きだったのか、どうかは知らないが、ゼミ生を二度映画館に連れていってくれた。ゼミの先生は、よく自身の高校生活のことを話された。先生は日比谷高校(旧制東京府立一中)の卒業生だった。その事を少し自慢しているように感じた。一度目は、「赤ずきんちゃん気を付けて」という芥川賞作品の映画。主演は岡田裕介(後の東映社長)と森和代(後に森本レオと結婚)の二人。先生がなぜ、この映画に連れていってくれたのか、といえば。たぶん。映画の舞台が当時、東大進学者数が一番多い日比谷高校だったから。映画に出る森和代は、それはそれは可愛かった。週刊現代の表紙はいつも、森和代だった。当時無名の俳優・森本レオと突如、結婚して引退した。同世代の男性に、悔しい思いの人は多いはず。二度目は、「橋の無い川」だった。被差別部落を扱った...学校で見る映画④大学

  • 学校で見る映画③高校

    推薦映画笠岡市内の4高校は、4校の”学校推薦”映画という制度があり、”学校推薦”以外は見に行ってはいけなかった。当時、映画館は大和座・セントラル劇場・中央劇場・金星劇場があった。成人映画以外は、ほぼ”学校推薦”だった。人気が高かったのは「中央劇場」。土曜日の午後、館前の自転車置き場は高校生でいつも満車。映画を見る前に、中央劇場の向かい側にある「斎藤」で中華そばを食べて入れば無上とも言える贅沢だったが、自分は、その贅沢を経験してない。その頃の人気映画にショーンコネリーの「007」があった。管理人がよく行ったのは青春映画。笠岡セントラル劇場と大和座が青春歌謡映画を上映していた。非推薦映画話題作で「黒い雪」という映画があった。ワイセツ映画で非推薦だったが、見に行った同級生がいた。「女王蜂」という洋画も非推薦だっ...学校で見る映画③高校

  • 学校で見る映画②中学校

    「太平洋ひとりぼっち」当時も今も理由がよくわからないが、あの映画は「文部省推薦」だったのだろうか?そし、そうならなんでだろう?金浦中学校で、たぶん一回あっただけと思うが、体育館で映画をした。それが石原裕次郎主演の「太平洋ひうとりぼっち」。ヨットに乗って日本からアメリカの西海岸まで単独で航行した堀江青年を映画化したもの。当時、堀江青年は新聞・テレビ・ラジオ・雑誌に取りあげられ国民的ヒーローだった。その話題の延長にのっかって映画化し、主演も石原裕ちゃんが演じた。映画は、太平洋上でヨットの一人生活なので、面白さはあまりなかった。太平洋で毎日、気が狂いそうな孤独な日々荒れた海の、命懸けの戦いは十分感じたが娯楽の要素が少なかった。それで学校で上映されたのかな?映画には、裕ちゃんと日活が得意なアクションも歌もなかった...学校で見る映画②中学校

  • 学校で見る映画①小学校

    小学校の時は日本映画の全盛期だった。それを反映しているのか、どうかは不明だが、学校でよく映画を見た。場所は城見学校の講堂、真田(さなだ)講堂。講堂に暗幕を張ってあり、全校生徒が入り、床にべべちゃんこをして座る。暗幕は揺れて館内に光が入ることがよくあった。映画館では2~3本立て上映で、さらに予告編とニュースがあったが、講堂で見る映画は一本立ての上映だった。学校で見る映画は苦痛だった。勉強しなくて、座っているだけの授業(?)なので楽なはずだが、嫌いだった。その理由はただ一つで、”面白くない”映画だったから。いわゆる”ためになる”映画。覚えている映画は、野口英世の少年時代路傍の石にあんちゃんキクとイサム白蛇伝(←まんが、今で言うアニメ、カラー映画だった)そのうち、路傍の石は6年間で二度見たような気がする。違う映...学校で見る映画①小学校

  • 川辺橋

    場所・岡山県倉敷市真備町川辺~総社市清音無くなった日・令和5年6月4日撮影日・2015年9月23日(川辺側=高梁川右岸の、川辺橋)川辺橋の撤去工事が、テレビや新聞で報道されている。橋が傾いたので橋脚を撤去する、という工事が始まった。(清音側=高梁川左岸の川辺橋)・・・【TVニュース】6月4日、傾いた橋脚にかかる2つの橋桁のうち、1つを取り除く作業が行われました。川辺橋の橋脚の傾きが見つかったのは5月8日です。県は、このまま放置すると橋脚が倒れて川の流れを妨げ、水位が上がる恐れがあるとして撤去を決めました。新しい橋を整備するかなど今後の方針はまだ決まっていません。・・・川辺橋とは旧山陽道に架かる橋で、江戸時代、川辺は川辺宿として栄えた。大名たちは「橋の無い」高梁川を、渡った。大正時代ごろ、山陽道は南の浜街道...川辺橋

  • ”2023JFE西日本フェスタ”に行く

    「人に歴史あり」とはよく聞く言葉だが、それは、あらゆる自然界や土地にも言える。広島県深安郡大津野村津之下の牛の首は、風光明媚な海水浴場だったが、第二次世界大戦中に海軍の飛行場が出来た。敗戦後、飛行場の場所に、進駐軍がやってきた。その周辺には、飛行場県建設に連行されてきた朝鮮人が住み、あやしげな酒を売っていた。(当時の飲食物は、誰が売っていたのか問わず、全て怪しい)その後、警察予備隊という軍隊が出来、大津野飛行場跡は予備隊の人が暮らしていた。(その頃、管理人は小学校の遠足で大津野の予備隊に来たことがある)戦後、広島大学ができて、大津野飛行場跡は「広島大学水産学部」になった。昭和36年頃、日本鋼管の進出が決まり、牛の首は激変した。今はもう、戦前の海、戦中の海軍基地、戦後の警察予備隊、広島大学、その名残りは何一...”2023JFE西日本フェスタ”に行く

  • 若狭「鯖街道」と備中「とと道」

    江戸や明治の時代、京都の人たちが食べる鮮魚は、大阪湾や瀬戸内海でとれたものを、伏見まで海上輸送し、伏見から1里ほど陸送したと思われる。若狭・鯖街道の陸送は18里の距離。鯖は瀬戸内でも太平洋でもとれる。”鯖街道”の名称ではあるが、魚の総称だったのだろう。鯖大使という高僧伝説も、魚という意味のようだ。(鯖街道・熊川宿2013.8.2)「日本の風土食探訪」市川健夫白水社2003年発行鯖街道と鯖の食文化(小浜城跡)(小浜城跡)鯖街道江戸時代若狭湾でとれた鯖を一塩して、徹夜で京都まで若狭街道を運んだことからその名がついた。しかしその荷の中には鯖のみではなく、イカ、鯛、カレイ、ブリなどの魚、北前船で運ばれてきた昆布や十州塩なども含まれていた。その中で最も量が多く、京都の人たちに喜ばれる魚が鯖であったことから鯖街道とい...若狭「鯖街道」と備中「とと道」

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、しろみ茂平の話さんをフォローしませんか?

ハンドル名
しろみ茂平の話さん
ブログタイトル
しろみ茂平の話
フォロー
しろみ茂平の話

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用