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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 西行

    場所・岡山県玉野市渋川「銅像歴史散歩」墨威宏ちくま新書2016年発行「北面の武士」だった西行は20代で出家し、二度の東北への旅など旅をつづけた歌人として知られる。岡山県玉野市の渋川海岸の西行像がまさに戦乱に関係する。「保元の乱」がおき、あっけなく敗れた崇徳上皇は讃岐に配流された。都に戻りたいという願いかなわず、「日本国の大魔神」になってやるとうらみながら死亡した。西行は親交のあった崇徳上皇の霊を慰めるために白峯を訪ねた。よしや君昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせん西行鎮魂の歌を詠んだ。「日本史探訪5」角川文庫昭和59年発行山本健吉西行西行には、自然を征服してやろうとか、ねじふせてやろうとか気持ちが毛頭ないわけです。自然と自分が一体になろうという気持、自然の中にはいっていって友達になろう、親しもうという気持...西行

  • 蜂須賀家政

    場所・徳島県徳島市徳島町城内徳島中央公園(徳島城)戦時中に供出し、戦後に再建の銅像は何千とあろうが、人物を変えての再建というのは珍しい。(蜂須賀家政)蜂須賀家政戦争挟み父子交代羽柴秀吉の四国征伐に蜂須賀正勝(小六)家政父子は従軍し軍功をたて、阿波の大名になった。秀吉は正勝に与えようとしたが、高齢を理由に辞退し家政に譲った。家政は阿波にはいると、秀吉の意向に従って兵農分離などを断行。徳島城を造り、城下町を整備した。製塩業、製藍業なども興し、現在につながる徳島の基礎を築いた。ところが秀吉没後徳川家康に近づき、関ケ原には嫡男至鎮を東軍に参加させ、自らは隠居した。家康から至鎮に阿波が与えられた。蜂須賀家の徳島藩は明治維新まで続いた。戦時中までこの公園に立っていたのは、長い槍をもつ、甲冑姿の正勝の銅像だった。大正2年に建...蜂須賀家政

  • 桃太郎(吉備津神社)

    場所・広島県福山市新市町宮内「吉備津神社」(いっきゅうさん)平安時代に制定されたといわれる全国の「一宮」、備前・備中・備後の一宮は、吉備津彦神社・吉備津神社・吉備津神社とすべて”吉備津”がつく。備後一宮は「吉備津神社」であるが、地元では「いっきゅうさん」と呼ばれ、市民に親しまれている。桃太郎日の丸も背負った童話の英雄小波が銅像建立を提唱明治中期以降、童話作家の巌谷小波(いわやさざなみ)がまとめた『日本昔噺』や国定教科書などで、おばあさんが川で拾った桃から生まれた桃太郎が、鬼ヶ島で鬼を退治して宝物を持ち帰る現在のような「桃太郎」が「国民童話」として広まり、定着した。小波は未来の国民を教育するには最適な教材だとして「国民教育のシンボル」で各地に銅像建立を唱えた。一方で福沢諭吉は、桃太郎は鬼が大事にしてきた宝物を取っ...桃太郎(吉備津神社)

  • 川越人足

    場所・静岡県島田市河原島田宿大井川川越遺跡「静岡県の歴史」若井淳之山川出版社昭和45年発行越すに越されぬ大井川関所の取り締まりはいかにきびしくとも、通行手形があれば通れるものであった。しかし、一度大雨でも降ると河原一面に出水して川留になって通ることができないのが大井川をはじめ安部川・瀬戸川・奥津川などであった。遠江や駿河のある河川は、天竜川・大井川・安部川・富士川・瀬戸川・奥津川なで、橋梁のない河川ばかりであった。こうした河川を通行者がわたるとき、天竜川・富士川では渡船制度が、大井川などでは渡渉方式が採用されていた。大井川の渡渉は古くからたいへんなところであった。水深も浅く、よほどの大水でない限り渡渉は可能のようであった。だから”自分越”をしていたが、生命の危険もしばしばあった。島田代官であった長谷川藤兵衛は1...川越人足

  • 呉要塞・高烏砲台

    場所・広島県呉市警固屋8丁目高烏台訪問日・2021年年4月26日対象はロシア艦船と思えるが、軍都・広島と東洋一の軍港呉を敵艦から守るため、出入り口の関門海峡と豊予水道に要塞を造り、さらに周辺の広島湾や呉湾にも要塞を構えた。大正時代には無用となり廃止されたが、一部要塞は太平洋戦争で高射砲基地として復活した。高烏砲台跡は戦時中復活したが、敵機に対する戦果はなかったのだろう。(高烏砲台跡)高烏砲台跡(現地案内板)明治19年(1886)、呉港に鎮守府設置が決まり、陸軍は広島湾と呉軍港を敵艦から守るため、明治29年(1896)~36年(1903)にかけて周囲の島や山などに呉要塞(のち広島湾要塞)を建設しました。山頂に八咫烏神社がある高烏山にちなんだ高烏台にも明治35年に砲台が完成しました。高烏砲台は広湾から呉湾に進入しよ...呉要塞・高烏砲台

  • 土屋寛翁像 ~千光寺公園、藤が満開~ 2021.4.26

    天気に誘われ千光寺公園に寄った。ツツジがきれいだろうと来てみたが、ツツジの場所は、「千光寺山頂上展望台」の工事のため、広い範囲が立入禁止区域だった。ツツジの場所意外の場所で、藤が二か所綺麗に咲いていた。千光寺公園は”藤の名所”でもあることを、初めて知った。・・・・・土屋寛翁像千光寺公園、西展望台のすぐ近くにある。栗原村長・町長、広島県議、衆院議員、尾道市長を務めた人。(Wikipedia)土屋寛広島県御調郡栗原村出身。御調郡書記を務めた後、1909年(明治42年)に栗原村の村長に選出され、町制施行後も町長を務めた。また、広島県会議員に選出され、県会の郡部会議長にも就任した。1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。その間、1940年(昭和15年)から1942年(...土屋寛翁像~千光寺公園、藤が満開~2021.4.26

  • 阿久利姫

    場所・広島県三次市尾関山公園阿久利姫三次藩の藩祖・浅野長治の娘・阿久利姫は赤穂藩主・浅野長矩に嫁いだ。江戸城松の廊下で刃傷沙汰の結果、長矩は切腹、赤穂藩は改易となった。長矩と阿久利姫の縁組は、姫がまだ生まれて間もない頃から進められ、長矩が17歳、姫が10歳の祝言があげられた。長矩が切腹後、阿久利姫は落飾して「瑤泉院」と称し、1714年45歳で逝去するまで夫の菩提を弔ったという。「あなたの知らない広島県の歴史」山本博文洋泉社2012年発行妻たちの赤穂事件赤穂浪士の物語は、日本男子にとって、一つの美学なのであろう。”男泣かせ”の要素に満ち満ちている。初志を貫く清々しさは心うつ。大義に命をかける男たち、むくわれぬ愛に身を捧げる女、共に崇高な精神である。うっとりと酔い痴れ高い観劇料を払うのも、むべなるかな。瑤泉院は、幕...阿久利姫

  • 平清盛像 ~音戸の瀬戸公園、つつじ満開~ 2021.4.26

    テレビ放送(4.25夕)で見ごろを確認、翌4.26は全国的に晴れ予報だったので、音戸の瀬戸公園に行ってきた。見事なつつじで、感動ものだった。・・・・場所・広島県呉市警固屋音戸の瀬戸公園(高烏台)平清盛清盛は、戦前の教科書によって、権勢を誇る悪役として知られていた。ところが戦後、この清盛の衣の下に、国際感覚に富んだ新しい人物像が再発見された。音戸の瀬戸を修築し、船の通行を可能にしたのは、若き日の安芸守清盛である。遣唐使を廃止して、閉鎖的な国粋主義が横行していた時代に、清盛は、西に大宰府をおさえ、東に神戸港を築いた。音戸はそれを結ぶ海路である。雄大な彼の構造にあったのは中国貿易だった。【君よ今昔の感如何】と語りかけているのが、『新・平家物語』の作者、吉川英治の文学碑である。「日本史探訪・源平の乱」角川文庫昭和59年...平清盛像~音戸の瀬戸公園、つつじ満開~2021.4.26

  • 紫式部像

    場所・滋賀県大津市石山寺後宮の光と影『源氏物語』「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」女御は后の下で当時4~5人、更衣はさらにその下の階級で20人前後。要するにハーレムである。前者は大臣の娘、後者は大納言の娘という出身だが、その中にも家柄の差がある。問題の更衣(桐壷)は、家柄はさほどではなかったが、すぐれて寵愛を受けていた。閉鎖的な女性社会だから、陰湿なことはおよその見当がつく。「参う上り給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿、ここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり」桐壷が帝の寝所へ通う廊下に、汚物をまきちらして妨害したというのである。そればかりか、中廊下の出入り口に錠をおろ...紫式部像

  • 仁科芳雄

    場所・岡山県浅口郡里庄町里庄歴史民俗資料館原子力で有名な仁科芳雄博士、里庄町出身の偉人。仁科芳雄明治23年里庄町浜中に生まれた。東京帝国大学卒業後、留学し「クラウン仁科の式」を発表、理学博士の学位を受けた。昭和19年1月大サイクロトロンを建設。21年文化勲章を授与され、30年仁科記念財団が創立された。胸像は歴史民俗資料館の西側に建立され、昭和55年11月除幕式が行われた。福本紀孝制作「ふるさとの想い出写真集」森脇正之編国書刊行会2020年発行撮影日。2021年3月31日仁科芳雄

  • 良寛さん (円通寺公園)

    場所・岡山県倉敷市玉島柏島円通寺公園良寛談・水上勉玉島は、なんともいえないのどかなところなんです。山は、いまはほんの公園です。あそこを円通寺山といいましても、ほんの小高いものです。越後の国上とか弥彦とかいったような、しかも北の海がすぐそこにずり落ちていて、波しぶきがかかるといったような険路がある・・・・・。出雲崎なんてのはまた特に、黒縄の道といってもいいくらいの帯のような、険しいところでございますね。だから、そういうところに育った良寛さんが、二十代で、のどかな南国で、全く越後と風光の違う、おだやかなところにいかれた。そこで修業なすった長い年月というのが、どこかしらん子どもと遊ぶのどかな人をつくりあげていると思うんです。国仙和尚が下さった詩がございますね。”お前は立派な境涯になった。わたしはおまえに何かやりたいと...良寛さん(円通寺公園)

  • 童と良寛

    場所・岡山県倉敷市玉島JR新倉敷駅ブロンズ原型半田郷陽像高140cm制作宮本隆昭和51年5月16日建立玉島ライオンズクラブ20周年記念良寛(1758~1831)新潟県三島郡出雲崎の人。岡山文庫談・水上勉良寛やっぱり子供をかわいがられたようですね。一番純真で、思想も近い。とにかく自分では鍬も持たず、弟子もとらず、寺もいらん、と。そうしたら何をするといったら子どもと遊ぶぐらいしかありませんからね。良寛さんは名主の息子さんで、まあ地方の町の上流階級の坊ちゃんですよね。十八で曹洞宗、禅宗ですね、小僧さん出家としては遅いほうです。玉島の国仙和尚さんが偶然越後に来られて、慕って玉島までいくわけです。玉島まで、今の倉敷の方ですね。この玉島というのは行ってまいりましたけども、資料というのがなかなか残っていない。「NHK歴史と人...童と良寛

  • 阿部正弘

    場所・広島県福山市福山城公園日米和親条約安政元年、ペリーは再び軍艦を率いて日本へ乗り込んできた。今度は本当に戦争をする気で乗り込んできています。江戸湾奥深くまで侵入してきて、江戸城が見えるあたりまで船をすすめたと記録にあります。品川沖までやってきて挑発する。ボートを降ろして測量をする。その沿岸には彦根藩、肥後藩、長州藩など幕府の命令で出兵し、軍艦の挙動を見守っておる。これはいよいよ戦争だということになる。この時のあわてぶりは大変なものです。沿岸の住民は家財道具を積み込み、山の方へ避難したと当時の日記には書いてあります。幕府の方では戦争する気はない。日米和親条約が結ばれるわけです。「アメリカ合衆国と帝国日本両国の人民誠実不朽の親睦を結び、親睦を旨とし、・・・勅諭を信じて双方左の通りに候」幕府は日本君主となっている...阿部正弘

  • 村上森造銅像(台座のみ)

    場所・岡山県浅口市寄島町大浦大浦神社寄島の大浦神社に行ったとき、銅像の台座と思えるものに、やや不釣り合いの記念碑がおいてあった。地元の方に聞いてみたら、「銅像があったが、戦時中に供出した。戦後しばらくして、これではあまりに気の毒だから、と記念碑を置いた」との話だった。さらに、碑の人は○○を作ってくれた、寄付してくれた、という話を「知らせる」という感じでなく「今でも感謝している」という口調で話された。銅像が供出後70余年を経て、今に感謝の念を持たれる人が気になった。それが貿易で財を成した村上森造翁だった。「ふるさとの想い出写真集」森脇正之編国書刊行会2020年発行村上森造村上森造は、寄島町早崎の豆腐屋に生まれ、大志をを抱いて明治22年20歳の時、神戸へ出て、麦稈真田の貿易に従事し、直接外国商社と取引して巨万の富を...村上森造銅像(台座のみ)

  • 材木の供出

    戦時中の「金属類供出」はよく知られている。学校の金次郎像やお寺の鐘が溶かされ、家庭からも多くの生活用品が”出陣”していった。戦争末期には材木も供出されたのは知っていたが、その対象となるのは山の木ではなく神社・寺院の古木(大木)であったようだ。八百万の国では、大木は地元で神木となって祀られていると思うが、どのような木が出陣したのだろう?なお使用目的は、木造船の材料である。身近な場所からも出陣していった記録写真があったので、転記させてもらう。「ふるさとの想い出写真集」森脇正之編国書刊行会2020年発行長川寺の大松の供出鴨方町長川寺の境内にあった大松。戦時中に供出することになり、伐採されたが、これを前に仏事が営まれ、記念に写されたものである。昭和17年頃材木の供出

  • 役行者小角

    場所・岡山県倉敷市西阿知役行者は「その姿は老人で、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち」のだが、この像に錫杖は欠けている。県内に数ヶ所以上の役行者の像はあると思える。「超人役行者小角」志村有弘角川書店平成8年発行はじめに役行者(えんのぎょうじゃ)くらい謎につつまれたふしぎな人はいない。行者は空を飛行することができたという。役行者は通りいっぺんの仙人ではなかった。人にとりついた怨霊を鎮めたり、病人をなおしたり、行者に助けられた人は数えることができないほどである。行者の与える呪符は、多くの人々を難病・奇病から救ったといい、だから、後世、『扶桑皇統記』の作者は世人が「活仏(いきぼとけ)」のごとく敬ったと書いている。行者が偉大であったの...役行者小角

  • 新渡戸稲造

    場所・北海道札幌市北海道大学新渡戸稲造稲造は文久2年(1862)盛岡市に生まれた。祖父は父とともに三本木原開拓者となった。稲造は、明治13年札幌農学校を卒業し、ついで東京大学文学部に入ったが中退し、米独で経済学を学び、帰朝後札幌大学教授となり、農学博士となった。後藤新平の知遇を受け台湾殖産局長となり、36年京都大学法学部教授となった。39年法学博士の学位を受け、第一高等学校長兼東京大学教授となった。大正8年国際連盟次長となり、大正14年帝国学士院、昭和元年貴族院議員となり、同8年太平洋会議の日本代表になったが、昭和18年72歳で永眠した。盛岡の生んだ碩学であり、国際的政治家であった。晩年はみずから”太平洋のかけはし”として日米間の調停のために活躍している。「岩手県の歴史」森嘉兵衛昭和47年発行新渡戸稲造文久2年...新渡戸稲造

  • 岸壁の母

    場所・福井県舞鶴市「舞鶴引揚記念公園」〽母は来ました今日も来たこの岸壁に今日も来たとどかぬ願いと知りながらもしやもしやにもしやもしやにひかされて〽あれから何年今もなお休まず「おはよう」「おやすみ」と忘れず送ってくれるのか遠く離れたシベリアの雪に埋もれた病院で一人寂しく故郷を思い起こしておはようとつぶやく息子の寝姿をそっと瞼の裏に描きゃいじらしいやら悔しいやら早く会いたい顔見たいいいえ募る思いに血が煮える〽悲願十年この祈り神様だけが知っている流れる雲より風よりもつらいさだめのつらいさだめの杖一つ「日本の古典芸能浪曲・怪談」龍口雅仁編丸善出版令和元年発行(Wikipedia)岸壁の母岸壁の母(がんぺきのはは)とは、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景であった...岸壁の母

  • 大伴家持

    場所・富山県高岡市JR高岡駅前万葉集『万葉集』はいうまでもなく、日本最古最大の歌集であり、その成立期間も5世紀から8世紀ごろまでの450年間におよぶ。天皇、皇族のうた、民衆のうた、それも農民から防人、乞食にいたるまで社会のあらゆる階層を含み、歌の形式も多様である。編者も一人ではありえないが、現在に近い形にまとめあげたのは大伴家持という説が有力だ。とにかく、当時これだけ幅広く人間と自然の営みを映した文学作品は、世界のどこにもない。なにしろ古いものだから”万葉集”の意味さえ定かではないが、常識的に「多くの歌」ということだろう。用字法は万葉仮名で、平安時代にはすでに難解とされていた。第二次大戦中、大伴家持の「海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍」といった部分が悪用された記憶が、なまなましい。「日本の書物」紀田順一郎新潮...大伴家持

  • 大友宗麟

    場所・大分県大分市JR大分駅前制作・富永直樹設置・昭和57年「NHK歴史と人間」日本放送出版協会昭和53年発行大友宗麟大友家というのは、九州の北部の守護職。家柄の古い名門として鳴らした家なんです。大友宗麟が歴史上に名前を残しているのは、キリシタン大名という肩書によって、かろうじて名前が残っているんじゃないかという気がいたします。洗礼を受けたのが49歳で、亡くなる58歳まで10年に満たない歳月です。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来まして、それから布教のためには、天皇の許可を求めるのが一番いいだろうといのうで、京都にのぼろうとする。その途中に山口によります。ポルトガルの難破した船を宗麟が助けて、ポルトガル人に人気があった。宗麟も縁故を結びたくて神父さんを招いた。表面は神父さんたちと仲良くして、本当は南蛮人がもって...大友宗麟

  • 清水次郎長

    場所・静岡県静岡市清水区美濃輪町子どものころ晩飯の後、たまに祖父がラジオを聴くことがあった。聴くのは決まって浪曲番組だった。その頃、ラジオのスターは広沢虎造だった。名調子でうなり、語っていた。森の石松と三十石船船道中〽旅行けば駿河の道に茶の香り「駿河の国が安倍郡、清水港の宇土町に住む山本長五郎。通称、清水の次郎長。これが街道一の親分よ」「お-お-江戸っ子、おい若いの。ここへ来ねえ来ねえ、座んねえ」「江戸っ子だってなあ」「神田の生まれよ」「なあおい、飲みねぇ、飲みねぇ。寿司を食いねぇ。江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」「そんなに次郎長が偉いか」「子分、いい子分がいるぜ次郎長には。千人近く子分があって、人に親分、兄ぃと言われるような日地が28人。おれを唱えて清水の28人衆。この28人の中に次郎長くらい偉いのがま...清水次郎長

  • 佐竹義堯

    場所・秋田県秋田市千秋公園立派な銅像がお城の中心に建っている割には、その功績が今一つわからない。秋田市役所HP第12代秋田藩主佐竹義堯(よしたか)(文政8年(1825)~明治17年(1884))は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では新政府方に属して戦いました。明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。「歴史と人物」昭和56年9月号中央公論昭和56年発行奥羽越列藩同盟複雑にからんだ諸藩の思惑の中で、同盟総体としての戦争目的ははたして明確であったかそもそも、戦争において、何ゆえに、何のために戦うのかを不明確な結束となった。一枚岩でなかった。①朝敵グループ会津藩・庄内藩、および桑名藩と旧幕脱走兵②リーダーグループ仙台藩・米沢藩・長岡藩③懐疑的グループ秋田藩・弘前藩・盛岡藩④弱小藩(現状維持・日和見)目的と...佐竹義堯

  • 桃太郎

    場所・岡山県岡山市北区駅元町(JR岡山駅前)入社して2年目の春、九州に転勤になった。社内の宴会時にTOP(支店長)から、「きみは(出身が)岡山か、岡山なら仁・智・勇の桃太郎の話を知っている・・・」鬼退治に犬・猿・キジを連れて行ったのは、日本人なら誰でも知っているが仁智勇のことは知らなかった。初耳だった。上司は40代で、戦時中は旧制高校生。時世がら、小学校の修身で教えてもらったのだろう。犬は仁を忘れない、猿は頭脳がいい、キジは死を恐れない勇者だ、とか。思い起こせば、当時は「軍歌酒場」が流行り、管理人も同僚たちといっしょに「同期の桜」などを大声で歌っていた。撮影日・2019年8月4日桃太郎

  • 自由の男神

    場所・岡山県岡山市中区奥市護国神社前ブロンズ作者岡本錦朋像高230cm台座高200cm昭和55年9月歩54戦友会並びに遺族建立珍しい名称だ、”自由の男神”。まあ女神があるのだから、男女平等で男神があってもいい、とはいえる。撮影日・2016年4月5日自由の男神

  • 浜子像

    場所・広島県福山市松永町JR松永駅前入浜式塩田は昭和30年頃まで、およそ300年間つづいた。寄島塩田では、↓下記だが、松永塩田もほぼ同じだったと思える。塩田で働いた人たちの労働は厳しかった。天候が相手で、やけつく夏も、凍りつく冬も、盆も正月もない。雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回の飯を食べるきつい仕事であった。塩田は1町5反、2町を短冊型に区画し、これを1塩戸とし経営された。塩戸毎に棟梁(2交代で塩を焚く、夜勤を夜釜という)上浜子(ばんこ)浜子の頭浜子1戸5~6人。作業の中枢となって晴雨にかかわらず出勤する。きっぷ女や子供・老人で寄せ子といって浜持ち作業の日だけ出勤する。計約10人くらい。「寄島風土記」昭和61年寄島町発行砂を沼井にすこいこみをするのが、特に重労働中の重労働であったそうだ。「あなた...浜子像

  • 加藤友三郎

    場所・広島県広島市中区「軍国日本の興亡」猪木正道中公新書1995年発行ワシントン会議海軍の実力者加藤友三郎は、日本の国力が米英両国に比べて段違いに劣っていることを考慮し、1921年12月11日、太平洋の防備を現状のまま維持することを前提として5・5・3の比率を受諾することを決意した。全権団随員の中には、加藤寛治中将をはじめ反対するものがおり、国内でも強硬論が強かったので、加藤主席全権は、次官あてに口述をした。「国防は軍人の専有物に非ず。戦争もまた軍人のみにてなしうべきものに非ず。国家総動員してこれに当たらざれば、目的を達しがたし。・・・・・平たくいえば、金がなければ、戦争ができぬということなり」加藤海軍大臣はさすがに見識が高い。日露戦争に勝ってから日本国民は増長し、第1次大戦で火事場泥棒のような手段で国威を発揚...加藤友三郎

  • 田中義一

    場所・山口県萩市堀内制作・山畑阿利一設置・昭和38年田中義一元治元年(1864)~昭和4年(1929)長門生まれ。陸軍軍人・政治家。大正7年原内閣の陸相となり、軍備の近代化、師団の増設、シベリア出兵を推進。大正10年大将、山県有朋亡きあと陸軍長州閥の総帥となった。昭和2年首相。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行「軍国日本の興亡」猪木正道中公新書1995年発行張作霖の爆殺(当時は”満州某重大事件”)昭和3年(1928)6月3日、北京を引き揚げた張作霖の特別列車は、4日朝5時23分鉄橋下で爆破され、貴賓室に乗っていた張作霖は致命傷を負い、間もなく死亡した。爆破計画の首謀者は関東軍の高級参謀河本大作である。張作霖の爆殺により東三省を弱体化し、乗じて満州を中国本土から切り離そうと考えていた。田中義一首相のように...田中義一

  • 板垣退助 (高知)

    場所・場所・高知県高知市丸ノ内板垣死すとも土佐の藩兵を率い、戊辰戦争の優秀な指揮官だったです。すぐれた軍人とも言えるだろうと思います。薩長土肥の雄藩連合で徳川幕府を倒したが、政府の中枢は薩長だけがうまいところをさらった。むしろ薩長藩閥を倒すため、おれたちは自由民権運動にいくんだというところもある。板垣が傷を受けたのは明治15年で、明治14年には大隈重信が追われて肥前がなくなった。明治の元勲というものは、みな薩長だけが占めてしまう体制が確立するのです。板垣は非常に清貧です。清貧で長生きしました。ヒゲなんかが、また特徴のあるヒゲですね。百円札なり、お礼に使用されるのにはいい人物ですね。相撲が好きで、太刀山を富山から連れてきて相撲取りにした。晩年は、相撲協会の理事長みたいなことをしていました。彼の本領は、やはり一代華...板垣退助(高知)

  • 西郷隆盛(上野)

    場所・東京都台東区上野公園高村光雲1897年戦時中の、金属類供出で溶かされるのをまぬがれた銅像は、戦後になると、戦犯扱いの人物像があった。上野の西郷さんも危機一髪だったようだ。戦犯美術「そうすると上野の西郷さんは」「西郷隆盛は日本最初の陸軍大将ですからね、当然リストアップされました。しかし着流しで犬を連れて散歩をしている像です。復権はしましたが賊軍の大将という汚名を着せられた経緯があるので、最終的には外しましたね」「広瀬中佐の銅像」もりたなるお新人物往来社2002年発行上野公園の西郷像は明治31年に除幕されている。帝国憲法発布(明治22年)の特赦によって西郷の賊名が除かれ正三位が追贈されたのを記念して建設に着手し、9年後に完成したのだ。除幕式にはまだ存命中だった西郷の未亡人が招かれていて、「あの人はこんな人では...西郷隆盛(上野)

  • 三浦環

    場所・長崎県長崎市南山手三浦環「蝶々夫人」で絶賛された国際的プリマドンナと明治37年東京音楽学校率。在学中はピアノを滝廉太郎、音声を幸田延に学ぶ。陸軍軍医と結婚、その後離婚。大正2年医学博士と再婚。翌々年、夫とともにドイツに留学。大正4年ロンドンで「蝶々夫人」を歌い大絶賛を博した。その後は欧米各地の大劇場で公演、”マダム・ミウラ”の蝶々夫人は”世界の三大芸術”とまでいわれた。昭和11年帰国、昭和12年歌舞伎座で歌い、聴衆は日本人初の国際的プリマの歌に酔いしれた。「大正クロニクル」世界文化社2012年発行(Wikipedia)三浦環三浦環(みうらたまき、1884年(明治17年)2月22日-1946年(昭和21年)5月26日)は、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』...三浦環

  • 新渡戸稲造

    場所・盛岡市内丸与の字橋右岸大正13年、アメリカで排日移民法アメリカで排日移民法が施行された。移民法の成立は、日本人の対米感情に悪影響を与えた。親米派、新渡戸稲造にも不信感を植え付けた。彼は「排日移民法が撤廃されるまではアメリカの土を踏まず」と宣言した。幣原喜重郎のように過剰反応しない人物もいたが、昭和天皇は、太平洋戦争の遠因は米国による移民拒否にある、と戦後語っている。「大正クロニクル」世界文化社2012年発行(Wikipedia)新渡戸稲造新渡戸稲造(にとべいなぞう、1862年9月1日(文久2年8月8日)-1933年(昭和8年)10月15日)は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円...新渡戸稲造

  • 板垣退助 岐阜

    場所・岐阜県岐阜市岐阜公園制作・柴田佳右設置・昭和25年明治15年自由党総理として岐阜中教院にて演説、「板垣死すとも自由は死なず」と有名な言葉を残したが、一命をとりとめる。その板垣総理遭難の地である。板垣退助天保8年(1837)~大正8年(1919)高知藩士。戊辰戦争では総督府参謀となり、会津攻略に戦功があった。明治7年愛国党を結成、自由民権運動を展開。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行「板垣死すとも・・・・・」天かに知られた名セリフである。明治15年(1882)3月、東海道遊説の旅に出た自由党総裁板垣は、4月6日岐阜で演説をした。そのあと会場の玄関を出たとたんに刺客に襲われ、手と胸に傷を受けたが、一命は助かった。板垣らは政府の放った刺客と直感したらしいが、犯人は愛知県士族の小学校教員で、板垣国賊説を頭...板垣退助岐阜

  • 西郷隆盛 (鹿児島)

    場所・鹿児島県鹿児島市鹿児島市立美術館前安藤照1937年銅像の西郷は、いかめしい軍服姿で堂々と立ち、右手を軽く折って腰にそえている。頭が大きく、体つきも貫禄十分だ。この姿は、明治6年、初代陸軍元帥として習志野で行われた大演習を指揮した時の姿を表現したものであるそうだ。昭和2年、南洲没後50年記念事業として企画され、10年後の昭和12年に除幕されたという銅像だ。城山の西郷像は堂々たる正装である。一段高いところに立って、鹿児島の街を見守っているかのようでもある。たとえ一時的には賊の汚名をきせられたのだとしても、鹿児島の偉人と言えば西郷隆盛なのだ。鹿児島の人が誰よりも西郷を尊敬しているという、その気分がひしひしと伝わってくるような銅像だった。「銅像めぐり旅」清水義範著詳伝社平成14年発行「氷川清話」勝海舟角川文庫昭和...西郷隆盛(鹿児島)

  • 福沢諭吉

    場所・大分県中津市JR中津駅制作・辻畑隆子設置・昭和60年城見小学校の教壇の黒板の上に額縁を掲げてあった。それは習字で、『天は人の上に人をつくらず』と書いてあった。先生の話では、『人の下に人をつくらず』とつづいていて、福沢諭吉の言葉だと。咸臨丸の話も学校で習った。その当時、福沢諭吉は誰でも知っていた。100円札の顔だった。その頃、1.000円札は見たことも触ったこともないが、顔は誰だったんだろう?脱亜入欧明治18年(1885)福沢諭吉は、朝鮮や中国など東アジア諸国を蹴落して日本だけが欧米先進国入りを果たすことを国民目標として提示し、それを「脱亜」と表現した。しかし福沢を含めて、明治のの本陣がめざした「脱亜」そして「入欧」には、アジア侵略につながる方途だけでなく、イギリスのように議会権限のつよい立憲君主制や、アメ...福沢諭吉

  • クラーク博士

    場所・北海道札幌市羊ヶ丘展望台建立・1976年(昭和51年)クラーク博士の銅像で有名な羊ヶ丘展望台に行ったが、博士の銅像以外には、コレといった見るほどのもはなかった。まあ、北海道らしさはいくらか感じることが出来た。ウイリアム・スミス・クラーク博士明治9年札幌農学校が開校した。日本最初の官立農学校である。開港にあたって、アメリカ合衆国マサチューセッツ農科大学長ウイリアム=クラーク博士が、教頭として一年の約束で赴任した。敬虔なピューリタン、クラークの方針にしたがった札幌農学校はユニークな存在であった。着任早々、こまかな規則をみせられたクラークは、憤然とそれを否定し、『ビィ・ジェントルマン!』だけで十分だといった。黒田の反対を押し切って、キリスト教による道徳教育を実行した。札幌農学校の学科編成は、せまい意味の農学専門...クラーク博士

  • 耳なし芳一

    松江市宍道湖畔公園制作・会沢実設置・平成8年小泉八雲の「怪談」の主人公「耳なし芳一」。”琵琶法師”。平家物語には、”白拍子”も登場するが、どちらも室町時代ごろ衰退消滅したようだ。耳なし芳一小泉八雲の小説「耳なし芳一のはなし」の主人公。琵琶の名手で盲目の若者。壇ノ浦で滅んだ平家一門の霊によって弾誦する。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行撮影日・2014年4月29日耳なし芳一

  • 木口小平

    場所・島根観浜田市浜田護国神社制作・1932年初建・内藤沖1961年再建・内藤伸今でも子ども向けの偉人伝は、だいたい半分は作り話だが”軍神”の話となれば、ほぼすべてが軍による創作で、”お国のために、喜んで死ぬ”お話となっている。この浜田市にある「木口小平像」は再建したもの。戦後は無用の人物となったが、よく再建できたものだ。しかも小平は浜田に何の縁もない人だし。木口小平明治5年(1872)~明治27年(1894)陸軍兵卒。岡山県生まれ。ラッパ手として日清戦争に従軍。宇品港を出てわずか1ヶ月後、明治27年の夏に牙山の緒戦で撃たれ、22歳で没した。死んでもラッパを口から離さなかった忠勇美談の兵士として教科書にのせられた。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行撮影日・撮影日・2011年10月27日木口小平

  • 石川啄木

    場所・北海道札幌市大通り公園石川啄木の詩は、日本人の心情に響くものがあるように感じる。3年前に啄木の故郷、渋民村を訪れた。北上川や岩手山が近く見え、啄木にちょっとだけ近づいた気持ちなった。石川啄木石川啄木は本名を一(はじめ)といい、渋谷村石川一禎の長男として、明治19年2月20日、渋谷村常光寺に生まれ、明治31年盛岡中学にはいり、3年の時ストライキの首謀者の一人となり、学生改革に活躍した。翌4年退学して上京し、文学に志したが病をえてはたさず、帰盛して詩活動に従い、長詩「愁調」が雑誌「明星」にのせられるようになる。このとき与謝野鉄幹の命令で”啄木”と称するようになった。明治38年処女出版「あこがれ」をだし、これによって結婚費用を支弁しようとしたが、収入は一文もなく、ついに節子との結婚式に間に合わなかったという。し...石川啄木

  • 大村益次郎

    東京都千代田区九段北靖国神社制作・大熊氏広設置・明治26年(1893)大村益次郎攘夷派に襲われて46歳でこの世を去った。大村は、靖国神社の前身東京招魂社の設置に強く関わっていたことから、大村の教え子らによって銅像建立が計画された。工部美術学校出身の彫刻家大熊氏廣が制作を依頼され、大熊自ら指揮を執って東京砲兵工廠で鋳造されたものである。銅像の高さは3m、台座は13mもある。実在の人物では最も古い像である。本像は、日本人の手になる本格的な西洋彫刻の劈頭を飾る、文字通り記念碑的な作品として美術史的に大きな意義を持っている。しかも、当時公園的な性格が強かった靖国神社外苑という設置場所から見ても、本格的近代銅像として成功した最初期の作例ということができる。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行大村益次郎文政2年(18...大村益次郎

  • 小川郷太郎

    場所・岡山県浅口郡里庄町里庄歴史民俗資料館小川郷太郎旧制第一高等学校、東京帝国大法科大政治学科に進学、1903年首席で卒業、大蔵省に入った。36歳で京都大教授になり財政学を担当した。大正6年(1917)京都市選挙区から衆議院議員に当選。大正13年大学を止め、岡山2区から立候補、TOP当選。選挙にはめっぽう強かった。昭和11年広田内閣の商工大臣として初入閣。昭和15年近衛内閣に鉄道大臣で入閣、どちらも補充入閣だった。このころは政治家小川がもっとも輝いた時期。商工大臣就任後お国入りでは地元あげて大歓迎、村民はちょうちん行列や鼓笛隊を繰り出して祝った。60歳の時である。鉄道大臣在任中の昭和16年4月、山陽線関門トンネル下り線が完成、軍需物資優先の貨物列車運行が始まった。昭和18年、ビルマ政府最高顧問に任じられ赴任、同...小川郷太郎

  • 高岡大仏

    場所・富山県高岡市制作・中野双山設置・昭和8年”日本三大仏”といわれているので、見に行ったが「奈良の大仏」「鎌倉の大仏」とは大きさも見栄えも、比較にならなかった。でも高岡駅から大仏への道は、重伝建に指定された街並みや、古城があり、いい感じだった。高岡大仏(阿弥陀如来坐像)最初は1745年木造の金色坐像が建立されたが、1821年に消失。1841年再興されたが、もれも明治33年消失。現在の大仏は昭和8年に完成したものである。奈良・鎌倉の大仏とともに日本三大仏と称せられている。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行前田利長は,藩内の鋳物師を高岡に移住させ、拝領地を与えるという産業振興政策をとっていた。高岡は鋳物の街となり、江戸時代には全国の寺の梵鐘を作っているのだ。そして今は、銅像製造の街である。高岡市には大仏も...高岡大仏

  • 忠犬ハチ公

    場所・東京都渋谷区渋谷駅前(ハチ公口)制作・初代安藤照再建安藤士(照の子)忠犬ハチ公像は、昭和9年完成。渋谷駅前に設置。忠犬ハチは、昭和10年死去。忠犬ハチ公像は、昭和19年出陣式(金属類供出)忠犬ハチ公像は、昭和23年再建忠犬ハチ公像は、平成元年渋谷駅開発により移動、台座変更戦犯美術渋谷といえば駅前のハチ公が有名だ。ハチ公銅像は忠犬ハチ公ともいったのを覚えている。「忠義の犬ということだと・・・」ふと考えた。戦犯銅像は忠義の士が指定されるという。そうなると忠犬はどうゆうことになるのか。忠犬として称えられたハチ公は、戦争中の金属不足のために溶かされて兵器にされてしまった。忠臣楠木正成や忠勇義烈の広瀬中佐像は供出を免れたが、同じ忠義でもハチ公は飼い主に忠義だったから残されなかったのか。「広瀬中佐の銅像」もりたなるお...忠犬ハチ公

  • 上杉謙信公騎馬銅像

    場所・新潟県上越市春日山町「謙信公武道館」春日山駅を出て、正面の春日山城を仰ぎ見ながら目指していると体育館が右手にあり、銅像があった。それが「謙信公武道館」であり「上杉謙信公騎馬銅像」だった。日本100名城のスタンプは、この体育館でもらえる。上杉謙信天正4年(1576)には上杉と本願寺との講和が成立し、織田と上杉との同盟は破れた。翌5年9月15日、中秋の名月の日に七尾城を手に入れ、転じて加賀に進み湊川(名取川)で織田軍を撃破、加賀の北半を制圧した。そしてまた能登に帰り七尾城の未亡人とその幼児の面倒をみることにした。勢いに乗ったかれは、関東平定をも実現しようとして、天正6年(1587)正月、関東出兵の陣触れをおこなった。大進発の日は3月15日、謙信一代のうちで最大規模の動員であった。ところが出発の6日前、3月9日...上杉謙信公騎馬銅像

  • 「杜若(かきつばた)」の像

    場所・石川県金沢市能楽堂金沢の街は戦災も受けず、今も加賀百万石の街並みと風情が残り、なんともいえない魅力がある。この歌がぴったりくる。歌・詞・曲、三拍子そろった名曲。〽謡曲がふるふる加賀宝生の木洩れ陽青い石だたみああ金沢は金沢は・・・「加賀の女歌:北島三郎作詞:星野哲郎作曲:島津伸男」「石川県の歴史」下出積興山川出版社昭和45年発行加賀宝生の世界”加賀へ行くと天から謡曲が降ってくる”、屋根葺や植木屋が、仕事をしながら謡の一節を口ずさむからだ。室町時代以来、能楽は武家のたしなみとされていたの、加賀の富樫、能登の畠山によっておこなわれたが、さかんになったのは江戸時代にはいってからである。利家は幸若舞の愛好者で、能楽のファンでもあった。利長も父の資質をうけ神事能をはじめた。宝生流とのつながりができたのは三代利常のとき...「杜若(かきつばた)」の像

  • 藤堂高虎

    場所・愛媛県今治市通町制作・2004年(平成16年)「戦国武将100話」桑田忠親立風書房1978年発行藤堂高虎処世にたけたスパイ大名戦国時代は、よき主君をもとめて諸家を渡り歩くことはふつうに行われ、「七たび主家を変えねば一人前とは言えぬ」といわれたほどであった。その意味での典型が藤堂高虎である。高虎は七たび主人を変えた。とりたてて挙げるべく武勇譚がほとんどない。高虎は槍ばたらきよりも、人間関係を滑らかにすることで世を渡ろうとしたようである。高虎は、秀吉死後の天下人を、家康とみとめ、しきりと接近をはかり、家康の対立者たちの情報を細大もらさず家康の元へ運びこんだのである。高虎の家康への献身は、当の家康が死んだ後もつづく。【藤堂高虎】近江浅井郡藤堂郷に生まれる。浅井家の滅亡後、主家を転々とし、文禄3年(1594)秀吉...藤堂高虎

  • 加藤嘉明

    場所・愛媛県松山市松山城「戦国武将100話」桑田忠親立風書房1978年発行加藤嘉明は、加藤清正・福島正則らとならんで、賤ヶ嶽の七本槍のひとりにかぞえられた武勇の将だが、演技臭やハッタリがなく、若くして老成した感がする。関ケ原役の功によって嘉明は伊予松山20万石から会津40万石の大封に加増されたが、嘉明はこれが不服だったらしい。加藤家は、子の明成の代に会津42万石を没収されて断絶のうき目を見た。【加藤嘉明】三河の出身で、早くから秀吉につかえ、賤ヶ嶽七本槍の功で3千石を与えられ、天正13年淡路で1万5千石、朝鮮の役では水軍として出動。慶長2年には巨斎島で敵船を奪取した。関ケ原役後、伊予松山城を築く。後会津42万石に転封。寛永8年(1631)没す。69歳。撮影日・2011年7月14日加藤嘉明

  • 中島知久平

    場所・群馬県太田市金山城跡日本100名城の「金山城」に登城したら、城跡からスバルの工場や北関東の平野や市街地が見渡せた。そこに銅像が建っていた。中島飛行機(戦後・スバル)の創業者中島知久平の像だった。群馬県太田市のHPより飛行機王中島知久平知久平は、尾島町押切の農家の長男として明治17年(1884)に生まれ、18歳の時に軍人を志して上京し、海軍機関学校を卒業、海軍の軍人となり、大正6年(1917)3月に退官した時は機関大尉でした。海軍時代の知久平は、軍人としての職責を全うする傍ら、アメリカ・フランスで航空機産業の視察・研究を重ね、折からの大戦で大艦巨砲主義を排し、飛行機の重要性を説くようになり、「飛行機を大空に飛ばす」という自身の夢を現実化することになりました。知久平は、大正6年5月、海軍を待命のまま尾島町前小...中島知久平

  • 本多忠勝

    場所・愛知県岡崎市岡崎公園「戦国武将100話」桑田忠親立風書房1978年発行本多忠勝「家康に過ぎたる」合戦の勇者本多平八郎忠勝は、徳川譜代の武功派として四天王のひとりにかぞえられた典型的な戦国武将である。史書の伝える忠勝は、「若年より軍におもむくこと、およそ50余度におよび、武功すぐれておおしといえども、いまだかつて創をこうぶることなし」という勇将である。「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」、これもよく知られている。三方ヶ原の合戦の時、忠勝は25歳であった。徳川軍大敗北の殿軍の大役をつとめることになった。のちに武田方の初鹿野伝衛門が回顧して語っている。「・・・その時、殿軍の忠勝を追撃しようとしたが、蜻蛉切の槍を片手でふりまわし、鬼神のような形相で睨みつけられると、全身が総毛だって、手も足も出なかっ...本多忠勝

  • 和気清麻呂

    場所・岡山県和気郡和気町藤野和気神社前ブロンズ(茶色塗)作者朝岡文夫像高463cm台高180cm昭和59年3月建立「岡山彫像」岡山文庫平成元年発行天文5年(733)藤野の生まれ。国政に参与し、長岡遷都・平安京建設などの業績あり、宇佐八幡宮に使して弓削道鏡の野望をくじいいた話は有名。戦前は天皇家を護った英雄。戦後は平安京遷都などが事績として紹介されている。和気清麻呂(733~799)現在和気町にぞくする藤野郷の豪族和気氏の出生と伝えられる。早くから奈良朝廷に仕え、藤原仲麻呂の乱の鎮圧に勲功があった。また大宰府の宇佐八幡に詣でて、神託によって道鏡の陰謀を覆したのは神護景雲3年のこと。延暦23年、62歳の時には彼の健言が入れられて、都は平安の地に移る。清麻呂は造営太夫として工事を指揮したが、工事半ばにして率した。乱に...和気清麻呂

  • 吉備真備

    場所・岡山県倉敷市真備町(倉敷市真備支所)吉備真備奈良朝の政治、学術、文化の上に吉備真備の残した足跡は大きい。その出生は吉備郡真備町八田に生まれたと伝えられる。父が下道朝臣(しもつみちあそん)国勝という勢力者だったから、真備は早くから奈良の都へ上って学問をし、23歳の春には派遣学徒として唐へ渡った。同行の中に当時16歳の阿倍仲麻呂もいた。この地で真備は19年間にわたって、儒学、暦学、天文、度量衡、武術、音楽など多方面の学問芸術を習得し、帰朝すると大学助に就任した。同時に皇太子の教育を担当する東宮学士という役目も与えられる。この皇太子が孝謙天皇で、真備は再度、遣唐副使として唐にわたるのである。この再唐にさいして真備には大きな役目が課せられていた。それは唐の名僧鑑真和上を日本へ招聘することである。仏教の権威を高める...吉備真備

  • 宮本武蔵

    場所・岡山県美作市リゾート武蔵の里五輪坊宮本武蔵宮本武蔵の伝記に関しては、今なお不明な点が多い。殊に、その出生地、実父、養父のことは異説が多く、とうていまとまりがつかない。武蔵自筆の『五輪書』から、要約すると、天正12年に播州で生まれた。13歳で有馬喜兵衛に勝ち、16歳で但馬の秋山其に勝ち、21歳で京にのぼり数度の他流試合に勝ちを制した。28.29歳までの間に66度の試合をして、一度も負けなかった。30歳を越してからは、剣法の理論にうちこんで他流試合をやったが、50歳ごろ、自然と剣の奥義に目を開き以後は剣理によって自得した。その兵法を二天一流と称し、肥後岩戸山において『五輪書』の執筆を始める。時に60歳。『五輪書』に書き漏らしている事項はひじょうに多い。慶長5年、17歳、関ケ原合戦に出たという説があるが、一言も...宮本武蔵

  • 宮島水中花火

    場所・広島県廿日市市宮島無くなった日・2019年8月が最後撮影日・2007年8月14日宮島水中花火打ち切り決定今日(2021.4.14)の中国新聞に、「宮島水中花火が打ち切り決定」と一面に大きく掲載されたている。2020年と2021年はコロナのため、中止。2022年は安全対策が取れないので中止、以後同じ(打ち切り)。つまり2019年の宮島水中花火が最後の大会ということになった。・・・宮島花火には一度見に行った。その時の感動と感想と失望はよく覚えている。・・・読売旅行のバスツアーで見に行った。バスでは三原市のおじさんと相席で、これから見る花火とツアーについて”意見が一致”した。「バスツアーは神社も見れる、弥山に登れる、水族館も見れる。それでバスに申し込んだ。」・・・帰りのバスでも三原のおじさんと”意見が一致”した...宮島水中花火

  • 高杉晋作

    場所・山口県下関市長府制作・1972年(昭和47年)長府の街並みは萩に似て歴史があり、町歩きが楽しい。幕末長州藩士。1864年(元治元年)12月、功山寺で高杉晋作が、力士隊・遊撃隊らわずか80人程度で挙した瞬間を表した像。桃型の兜を顎に掛け小具足に身を固めた騎馬像。「日本の銅像完全名鑑」広斉堂出版2013年発行「歴史と小説」司馬遼太郎集英社文庫昭和54年発行幕末の事なにをくよくよ川側柳水の流れを見て暮らすという唄をつくった長州人高杉晋作ほど飲んで遊んだ男もなかったであろう。高杉にとって、酒、革命、女は、彼の血が要求している等価値のものであった。かれは乱世に生まれて英雄となった。高杉は藩庁から三千両の洋行費をせしめ、子分の伊藤俊輔(博文)をつれて下関まで出かけた。金がある。つい遊んだ。芸者末社を総揚げにして連日連...高杉晋作

  • 谷干城

    場所・高知県高岡郡四万十町窪川(四国霊場37番札所・岩本寺の参道脇)高知県四万十町HPより「西郷を止めた男谷干城(たにかんじょう・たてき)」西南戦争明治10(1877)年に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、現在日本国内で最後の内戦である。新政府、討伐軍を派遣西郷軍の邀撃に動くため、当時、情勢不安定だった九州を安定させる役割で派遣されていた谷干城が熊本城で反乱軍を迎え撃った。熊本城籠城作戦この戦いが雌雄を決する最大の前哨戦とされた。兵力差は歴然だったが大方の予想に反し、干城率いる政府軍は五十余日に寄る籠城により勝利をおさめる。西南戦争での功績なども有り、日本における重鎮となっていった干城。...谷干城

  • 西郷隆盛

    場所・鹿児島県鹿児島市城山町「西郷隆盛洞窟」前西郷軍は熊本まで攻めのぼるが、熊本城は落とせず、九州を大行軍して鹿児島に帰り着く。9月に入り、西郷は城山の狭い洞窟の中にいた。9月24日、官軍が総攻撃を始める。西郷は洞窟を出て、最前線に出ようと歩いていくが、途中で腹に官軍の弾丸が当たる。西郷はかたわらの別府晋介にむかって、「晋どん、晋どん、もうここでよかろ」と言ってすわった。晋介がその西郷の首を介錯した。「銅像めぐり旅」清水義範著詳伝社平成14年発行「西南戦争」西郷隆盛率兵進発明治10年2月15日(1877年)西郷隆盛ら自刃同年9月24日西南戦争の誘因は、征韓論に敗れて下野した西郷隆盛が、東京を去って鹿児島に隠退したことからはじまる。鹿児島の軍事訓練校でもある私学校の生徒が西郷の不遇に憤慨し、武力蜂起を実行にうつそ...西郷隆盛

  • 旅立ちの法然さま

    岡山県久米郡久米南町里方「誕生寺」ブロンズ作者山田良定昭和49年6月浄土宗保育協会建立法然(源空)浄土宗の開祖1132年誕生時で出生1145年叡山に登り修業1175年浄土宗を開く1212年京都で寂す岡山文庫誕生寺・会式法要(二十五菩薩練供養)平安時代の終わりごろ、法然は久米南条郡稲岡荘の押領・漆間時国の子として生まれた。幼名は勢至丸。勢至丸が9歳の時、時国は夜討にあい、時国は討ち死にして所領は横領された。この不幸が、勢至丸を浄土宗の開祖法然にするきっかけとなった。勢至丸は叔父観覚のもとにひきとられ仏門にはいったが、天養2年(1145)、13歳のとき、観覚のすすめで比叡山にのぼった。18歳の時、天台座主への栄光の道をすて、隠遁、読経と思索にふけった。腐敗堕落した天台宗にあきたらず、くるしむ民衆を救済する真の仏教を...旅立ちの法然さま

  • 柴田勝家

    場所・福井県福井市中央北ノ庄城跡建立・1967年(昭和42年)柴田勝家像「鬼」と呼ばれた猛将織田信長の筆頭家老。無骨な性格で武勇に秀でたため「鬼柴田」と呼ばれる。水瓶を割って背水の陣で出撃して敵を打ち破った逸話から「瓶割柴田」の異名ももつ。「日本の銅像完全名鑑」廣済堂出版2013年発行「戦国武将100話」桑田忠親立風書房1978年発行柴田勝家通称権六。修理亮(しゅりのすけ)。織田家筆頭の老臣で、天正3年(1575)9月信長の越前一向一揆討伐後、越前国主となる。本能寺の変のときは、越後の上杉景勝にあたっていた。賤ケ嶽の合戦で敗れて居城北ノ庄で自害した時は62歳で、妻のお市の方は37歳であった。墓は、福井市左内町の西光寺にある。撮影日・2015年8月3日柴田勝家

  • 最上頼光

    場所・山形県山形市山形城跡義光は家康の気を引くため、徳川家の臣になっていた次男に家督を譲り、長男を殺害した。義光の死後これが原因となって家中がみだれ、孫のとき最上家はとりつぶしとなったのである。【最上義光】出羽山形城主。足利氏の一族斯波兼頼の子孫で、義光は11代目。朝鮮の役の時は、肥前名護屋城に家康とともに駐在した。関ケ原役後山形57万石となる。慶長19年(1614)没す。69歳。戦国武将100話」桑田忠親立風書房1978年発行日本の城下町2東北(二)1981ぎょうせい山形市山形市の築城と城下町づくりは最上義光によって行われた。最上改易後の山形城主には鳥居、次いで保科と変わり、幕末まで十二氏が変わった。あわただしい交代劇は,藩風、藩学や、芸能文化も移入しなかった。義光は最上川の三難所を削岩させ船便をひらいた。山...最上頼光

  • 堀尾吉晴像

    場所・島根県松江市松江城「戦国武将100話」桑田忠親立風書房1978年発行堀尾吉晴鬼神の働きホトケの茂助秀吉は堀尾吉晴の武功について、「吉晴は、わしが藤吉郎といった時代からの家来で、幾度もの合戦に出撃しているが、その武功は万人にまさり、源頼光の四天王にも匹敵する」信長の浅井攻めでは、敵の斥侯を討ち取り、長篠の役で首二級をとっている。中国の毛利攻めでは身に13ヶ所の傷を負うという大奮戦だった。明智討伐の山崎の合戦、柴田勝家を破った賤ケ嶽の合戦と、吉晴の武名は合戦のたびに高まっていった。吉晴はふだんは温厚で、容貌は一見して女のようにやさしかったという。「仏の茂助」とあだ名されたぐらいであった。秀吉の死後は、徳川家康に近づいている。愛知県生まれで、織田信長や豊臣秀吉に仕え、関ケ原合戦後、松江に転封された大名。松江城と...堀尾吉晴像

  • 佐久間象山

    場所・長野県長野市小島田町川中島古戦場(八幡原史跡公園)「氷川清話」勝海舟角川文庫昭和47年発行佐久間象山佐久間象山は、もの知りだったよ。学問も博し、見識も多少もっていたよ。しかしどうもほら吹きでこまるよ。あんな男を実際の局に当たらせたらどうだろうか・・・、なんとも保障できないのう。顔つきからして一種奇妙なのに、古代模様の袴をはいて、いかにもおれは天下の師だというように厳然とかまえこんで、元来勝気の強い男だから漢学者が来ると洋学をもっておどしつけ、洋学者が来ると漢学をもっておどしつけ、ちょっと書生が尋ねてきても、じきにしかりとばすというふうで、どうも始末にいけなかったよ。国立国会図書館佐久間象山さくましょうざん文化8年2月28日~元治元年7月11日(1811~1864)解説実名は国忠のちに啓、号は象山。父は松代...佐久間象山

  • 上杉謙信

    場所・新潟県上越市春日山町春日山城跡春日山城はJR春日山駅の真正面に位置し、駅前通りがそのまま春日山城へとつづく。今も市民の心に、戦国武将謙信は顕彰されているような感じがした。上杉謙信享禄3年(1530)越後守護代長尾為景の子として生まれる。初めの名は景虎。兄や一族と争ったが、守護上杉定実の調停で守護代につき越後春日山城主となる。天文21年(1552)亡命してきた上杉憲政から上杉の姓と関東管領職を譲られる。武田信玄との川中島での決戦は5度に及んでいる。越中を平定し、能登・加賀に進攻し、織田信長と対決して天下に覇をとなえんとしたが、惜しくも天正6年病に倒れた。墓は、高野山および上越市林泉寺、米沢市御廟町にあり、遺品の数々が米沢市の上杉神社におさめられている。「戦国武将100話」桑田忠親立風書房1978年発行撮影日...上杉謙信

  • 山中鹿之介像

    場所・島根観安来市広瀬町建立・1978年(昭和53年)「尼子十勇士」の筆頭尼子氏再興のために毛利氏と戦い、織田信長に支援を求めるなどの奮闘をみせる。「我に七難八苦を与えよ」と祈った逸話が残る。「日本の銅像完全名鑑」広済堂出版2013年発行山中鹿之介山中鹿之介といえば、戦前には講談はもとより、教科書にまでのった話は有名である。山の端にかかる三日月をあおいで、「われに七難八苦をあたえたまえ」と祈ったという場面である。主家再興のために骨をくだいて奔走する姿が、戦前の忠君愛国の精神教育に格好の題材となったのである。彼の人生ドラマを華やかにいろどるのは、主家尼子家再興のために戦う、その執拗なゲリラ活動にあるだろう。「戦国武将100話」桑田忠親立風書房1978年発行撮影日・2020年10月28日山中鹿之介像

  • 吉川経家

    場所・鳥取県鳥取市鳥取城跡戦国の世でも、因幡鳥取城の籠城ほど人間性が極限まで追い詰められたものはまれであろう。羽柴秀吉の大規模な包囲作戦で、城は完全に飢餓地獄におとされ、人肉をくらうという未曽有の事態が発生したのである。当時の記録は、その模様をなまなましくつたえている。「・・・・稲かぶを上々の食物とし、のちにはこれも尽き候て、牛馬をくらい、霜露にうたて弱き者は餓死・・・」痩せ細った歩行も困難な男女が、城の柵ぎわにすがって、包囲軍に助け候えと泣き叫ぶのである。それに容赦なく寄せ手の銃火が集中する。撃たれた者がまだ息もあるというのに,城内のものどもが、手に刃物をもって、むらがり、あらそってその肉を切りとった。「・・・身体のうちにても、とりわけ頭はよき味とみえ、頭をこなたかなたへ奪い取り逃げ候・・・」秀吉の「渇殺し、...吉川経家

  • 徐福

    場所・和歌山県新宮市不老不死の仙薬。---始皇帝はますますそれに強くあこがれるようになった。徐福の上書に許可を与え、巨額の費用を出したのは、28年のことであった。同じ年に仙人さがしを命じている。だが3年たっても、仙人も仙薬もみつからない。始皇帝の行列は,会稽から呉にむかい、長江を渡り、山東半島半島南部を目指して進んだ。徐福に命じておいた不老不死の仙薬について、詰問し、催促することにあった。曲者の徐福、もちろん予想される詰問に対する返答を用意していた。第一は、暴風。風波に負けぬ巨船が必要とするので、そのため歳月を要した。この徐福はえらい人物である。六国を滅ぼして天下を統一した始皇帝を、仙人だの仙薬をさがすだのといって、だまくらかして、財物をまきあげた。凡庸な人間にできることではない。・・・和歌山県の新宮市と熊野市...徐福

  • 天草四郎

    場所・長崎県島原市島原城「私説・日本合戦譚」松本清張文春文庫1977年発行島原の役寛永11年から3年間、九州の涯、島原領と天草領では凶作がつづき、飢饉がおこった。14年の春からは餓死する者がふえた。麦も出来ず、夏は、旱魃で田は地割れし、苗一本育たない。盗賊が横行して人心が動揺し、不安は高まった。不安に流言はつきものだ。流言は流言を生み、人々の恐怖をさらに煽った。将軍家光の病状も入っている。実は死亡したのではないかという風説がたった。家光の不例を背景にして、紀州さまが謀反をおこされるの、牢人衆が一揆をおこすのという評判が伝わった。九州ではさらに不思議な天然現象がおこった。秋に入ったというのに、まるで春の花が狂い咲いた。この地方は、旧領主有馬氏以来、切支丹信仰が民衆の間にしみこんでいる。次の利用主松倉重政は、過酷な...天草四郎

  • 伊藤大孝~ビルマ戦線~

    場所・岡山県笠岡市神島氏は長く岡山県議を務め、また日本遺族会の役職をされた。笠岡市名誉市民。「人生不屈」伊藤大孝昭和61年発行ビルマ戦線ペグー山系師団は6月16日転進を開始した。ペグー山系は標高300m、山幅60km内外の竹林を主とする人煙まれな山なみである。この山中に糧秣を求めることは至難であった。そのため、パウカン平地では敵と戦いながら、籾集めに命をかけて行動した。ペグー山系突破の日数は約1ヶ月と予定されたが、各自40日分の食糧の携行を命ぜられた。芋・もみがらをとってきてドンゴロスや一斗缶に入れるのであるが、兵器弾薬のほか、このカンを背負えないものは餓死するといわれた。それからが過酷な行軍であった。竹林の中、チークの大木で、昼間も薄暗い気持ち悪さ。道もなく、連日の雨で一面泥濘。数々の激戦で将兵の被服や靴はぼ...伊藤大孝~ビルマ戦線~

  • 大国主命と因幡の白うさぎ像

    場所・鳥取県鳥取市白兎道の駅「神話の国白うさぎ」鳥取市の西のはずれ、白兎海岸はその名のとおり、神話「因幡の白兎」の伝承地である。波静かな砂浜が無垢の美しさでひろがり、海を見わたせば、兎の住んでいたという淤岐ノ島が兎の形で浮かび、そこからワニの背を思わせる岩礁が波間に見え隠れに陸地の気多崎へと通じている。いまの子どもたちはもうユーモラスな兎とワニの物語も、「大こくさま」の唱歌も知らないという。その歌曲碑が潮風に吹かれて浜辺に立っている。「歴史と旅」昭和57年2月号秋田書店撮影日・2020年10月14日大国主命と因幡の白うさぎ像

  • 山岡鉄舟

    場所・岐阜県高山市「日本剣豪100選」綿谷雪著秋田書店昭和46年発行山岡鉄舟高歩山岡鉄舟は天保7年、本所大川端通いに六百国の旗本の五男として生まれた。通称鉄太郎、後に鉄舟と号した。鉄太郎11歳の弘化2年に父が高山代官所に赴任したので高山に行き、17歳までそこに過ごした。20歳の時、山岡静山の門に入り槍術を学び技術・思想の上で大きな感化を受けたが、いくばくもなく静山は死去し、望まれてその長女英子の婿として山岡家に入った、英子15歳、鉄太郎20歳であった。明治元年、西郷隆盛と会見して江戸を焦土から救った。江戸開城後は、徳川慶喜にしたがって駿府に移り民政をつかさどった。後に明治新政府に出仕した。子爵に叙せられた。明治21年、53歳にて死去した。撮影日・2016年2月3日山岡鉄舟

  • 川中島の戦い

    場所・長野県長野市小島田町川中島古戦場(八幡原史跡公園)建立・1969年(昭和44年)川中島の合戦は小学校にあがる前に、パッチンで知っていた。漫画・小説・テレビ・映画でいろいろ合戦シーンが登場するが、一番、印象に残っているは映画「風林火山」。三船プロ制作「風林火山」で、川中島では中村錦ちゃんが武田信玄、石原裕ちゃんの上杉謙信。馬上から裕ちゃんが斬りつけると、錦ちゃんが座ったまま軍配で受け止める。あのシーンは見ごたえあった。後で思ったが、あの映画で裕ちゃんのセリフは一つもなかった。「私説・日本合戦譚」松本清張文春文庫1977年発行川中島の戦川中島の戦といっても、今の青少年にはあまり分からぬ。筆者の子供時代の絵本とえば、必ず武田信玄と上杉謙信の一騎打ちが、極彩色で載っていたものだ。床机に腰かけ、諏訪法性の兜をかぶっ...川中島の戦い

  • 山内一豊

    場所・高知県高知市丸ノ内山内一豊高知城を造ったのは山内一豊である。山内一豊といえば、妻のへそくりで名馬を買ったことで男をあげ、掛川五万石の城主にまで出世したことで有名なあの山内一豊である。一豊は徳川家康にもうまくつかえ,慶長5年(1600)に土佐一国二十万余石を与えられたのだ。その一豊が10年かけて造ったのが高知城。一豊の銅像は、この前の戦争の時に供出され、長らく不在のままだった。それが、平成8年に再建され、追手門をくぐる前の、県立図書館の前に建っていた。武具をつけ、槍を持って馬に乗る勇壮な銅像である。それにしても面白いのは、戦争の時に、一豊の銅像は供出されたのに、竜馬の銅像は供出されなかったということである。追手門をくぐってすぐ広場の一角に、板垣退助の銅像がある。そして、石段をあがっていった三の丸跡の広場の隅...山内一豊

  • 武市半平太

    場所・高知県須崎市浦ノ内「武市瑞山銅像」土佐の最下級武士の岡田以蔵が、いわれるまま「人斬り」をして、最後には虫けらのように磔刑で死んでゆく。命じる武市に仲代達也、以蔵に勝新太郎、薩摩の人斬りに三島由紀夫が出演した。話題作で公開時に映画館で見たが、印象に残る活劇映画だった。「歴史の中の日本」司馬遼太郎昭和51年中公文化武市半平太ーー映画「人斬り」で思うこと橋本忍氏が、拙作の『人斬り以蔵』という短編を参考にされ、五社英雄監督とともにひとつの映画世界をつくられたのが映画「人斬り」である。私は参考人程度である。脚本を読んでみると、さすがにおもしろい。陰謀と暗殺、これに手を染めた者は、洋の東西を問わず歴史の審判はおそろしく悪い。暗い不浄者の扱いをうける。明治後、東京の土佐人の間で「土佐の吉田松陰」などとその死後の名を顕揚...武市半平太

  • 長宗我部元親

    場所・高知県高知市長浜建立・1999年(平成11年)「鬼若子」と呼ばれた四国の覇者土佐の国人だった長宗我部国知価親から領地を継ぎ、1代で四国を統一するまでに成長。その後、豊臣秀吉に敗れ、土佐一国の支配者になる。元親は初陣まで「姫若子」と呼ばれるほど貧弱だったが、後に鬼武者へと変わり、「鬼若子」の異名をとった。「日本の銅像完全名鑑」廣済堂出版2013年発行土佐一国は、ひょんなことから尾張出身の山内一豊が授かった領地である。土佐にいたもともとの武将は、長宗我部元親だった。その人物がほとんど一代で土佐全土どころか、四国の全土を平らげたのである。それなのに、秀吉と戦って敗れて土佐一国に押し込められ、後に、家康によって家をつぶされたのだ。そういうところへ、一豊は赴任してきたのである。「銅像めぐり旅」清水義範著詳伝社平成1...長宗我部元親

  • 千姫様

    場所・兵庫県姫路市姫路城「千姫様」平岩弓枝角川書店平成2年発行千姫様冬の陣が終わったとたんに、あっという間に外堀、内堀を埋め、二の丸、三の丸を打ち壊したから、本丸はまるで裸同然のみすぼらしい姿になった。秀頼が口惜しげにいうのを、千姫は泣きたい気持ちで聞いていた。・・・・「貴公は坂崎出羽守どのではないか」坂崎出羽守と呼ばれた男が、千姫を見て土に膝を突いた。「姫君には、よくぞご無事で・・・坂崎出羽守、御案内申し上げる。」「よく戻って来た。さぞかし怖い思いをしたであろうな」この孫娘に会うのは七歳の時以来だと家康は思った。桑名城で、千姫と本田忠刻の華燭の典がとり行われて後、人々の耳目を驚かせたのは、坂崎出羽守が乱心のため、家臣によって殺害されたが、将軍家の格別の思し召しをもって坂崎の家は取り潰しにならずにすむらしいとい...千姫様

  • 佐々木盛綱

    場所・岡山県倉敷市天城平氏は扇をさしあげ源氏を招く。盛綱は部下十五人と馬にまたがり、さっと海に乗り入れた。盛綱らはどんどん進み、とうとう海を渡りきってしまった。まず名乗りである。「今日海を渡り、敵陣に進む大将軍をが誰とか見る。宇多天皇より九代の孫、近江の国の住人、佐々木源三が三男、三郎盛綱なり、平家の方にわれと思われん者は大将もさむらいも落ち合って組めや、組めや。」(源平盛衰記)「歴史の旅吉備」神野力秋田書店昭和46年発行「岡山県の歴史散歩」岡山県高校教育研究会編山川出版社1976年発行藤戸合戦「平家物語」は、戦の模様をいきいきとつたえている。1184年(寿永3)12月はじめ、源平両軍は藤戸海峡を挟んで対陣していた。児島に陣をしいた平家側は扇でまねいて挑発したが、水軍をもたぬ悲しさ、源氏側は手のつけようがなかっ...佐々木盛綱

  • 菅茶山

    場所・広島県福山市神辺町湯野「菅茶山記念館」「あなたの知らない広島県の歴史」山本博文洋泉社2012年発行菅茶山同時代の学者・文化人から「当代一等の詩人」と評された菅茶山。出自は農民身分ながら、寛政の改革を行った松平定信の別邸に招かれるなど、当時の人々から多大な尊敬を集めた人物である。茶山は1748年備後国安那郡北川村で生まれた。実家は農業とともに酒造業を営む裕福な家庭で、父は俳諧をたしなむ人物だった。父の影響もあり、茶山は俳諧を学ぶようになると、和歌や漢詩にも興味を持ち始め、やがて本格的に学問に志すようになる。19歳の時から京都・大坂に遊学。当時一流の学者・文化人らと交流を深め、1781年頃には、神辺に私塾を開いて村の子供たちに学問を教え始めた。この私塾は後に福山藩にう献上されて藩の郷塾となり、「廉塾(れんじゅ...菅茶山

  • 田辺朔郎像

    場所・京都市左京区南禅寺草川町琵琶湖疎水で有名な田辺朔郎。【京都市公式】京都観光Navi田辺朔郎たなべさくろう土木工学者。琵琶湖疏水の設計、工事監督者。江戸生まれ。工部大学校卒業とともに京都府御用掛となり、疏水工事を完成。水力発電所設置を成功させた。東京帝国大学教授。のちに京都帝国大学教授。第2疏水、水道など京都市三大事業にも尽力。墓は東山区、市営大日山墓地。蹴上公園に銅像。1861(文久1)~1944(昭和19)明治2年の「東京遷都」によって、急速に衰退した京都復興のため、第3代京都府知事北垣国道は、琵琶湖と宇治川を結ぶ水運を開き、同時に上水道、水力発電、灌漑、防火などに利用する琵琶湖疎水の一大プロジェクトを計画した。工部大学校(現・東大工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎を、工事責任者に起用した。この琵琶湖疎...田辺朔郎像

  • 三木武吉

    場所・香川県高松市栗林公園保守合同で有名な政治家。栗林公園に銅像が建っている。(Wikipedia)保守合同1955年(昭和30年)4月13日、三木は保守政党の結集を呼びかける。三木は、社会党再統一に危機を抱いていた。また、この時期、医者から癌のため余命もって3年を宣告されていた。三木は党内合意を取り付けに動くと同時に、自由党に工作を開始する。5月15日、三木は自由党総務会長の大野伴睦と会談を持つ。三木は浪花節と愛国の情をもって、巧みに大野をかき口説き、大野の賛成を得る。岸・三木・石井・大野四者会談が持たれ公式に自由・民主両党間で保守合同に向けて動き出す。これに対して民主党内では三木武夫、松村謙三らが保守二党論をもって反撃する。最後に総裁に誰がつくか平行線をたどった。結果、総裁を棚上げし、困難と思われた保守合同...三木武吉

  • 軍神広瀬中佐

    場所・大分県竹田市広瀬神社大分県HPより竹田市広瀬神社の鳥居前に建つ広瀬武夫の胸像。全身像(M40.4渡辺長男作)をもとに製作し、昭和48年3月に設置された。日露開戦間もない明治37年早春。日本海軍は旅順港内のロシア太平洋艦隊を封殺するため、閉塞作戦を実施した。旅順港入り口に老朽船を沈め、敵の航路をふさごうという危険な作戦である。軍艦「朝日」の水雷長(当時少佐)広瀬武夫は、この決死隊指揮官として二度にわたって出撃した。二度目の出撃のさい、予定地点で福井丸の爆薬に点火、退避するが部下の杉野兵曹長の姿がないのに気付き、沈みゆく福井丸にとって返し、ついに散弾に斃(たお)れる。37歳であった。広瀬は明治元年、竹田市の士族の二男坊に生まれる。兄も海軍軍人。海軍大尉時代にロシア駐在武官となり、この間ヨーロッパ各国を視察した...軍神広瀬中佐

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