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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 南京虐殺④ --研秀出版

    "南京虐殺"の④は研秀出版より転記する。・・・・・・・・・・・・・・・「昭和史4・大陸の戦火」平成7年研秀出版・・・・・・・・・・・・・・・戦勝にわく国内南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝気分の美酒に酔った。浮かれたのである。陥落発表は12月13日だった。しかし国民は待ちきれなかった。新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。・・・・全国民は今か今かと「陥落」の二字に集中している。いつでも旗行列ができるよう待機。・・・神田や銀座は「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい・・・と伝え、待ちきれなくなった帝都市民は陥落を決めてしまい、七日夜は銀座も浅草も興奮のるつぼと化し、ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、それから東京では三日三晩、旗行列や提灯行列が宮城前...南京虐殺④--研秀出版

  • 「い草」の盛衰

    「い草」の盛衰山陽地方では、広島県松永から岡山県都窪郡にかけてい草が多かった。管理人は昭和44年と45年に”臨時雇用者”として10日間ほどい草刈に行った。臨時雇用者は、お金だけが目的で、雇い主もお金だけで釣っていた(と思う)。一日4.000円~5.000円だったような記憶がある。(土方仕事が一日1.200~1.500円だった)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「早島歴史紀行」平成28年早島教育委員会編学校教育ビジョン発行い草王国「岡山」昭和15年(1940)岡山県のい草作付面積は、3600ヘクタールに及び戦前の最高を記録しました。そして終戦後、昭和21年はわずか3ヘクタールという状況で、まさにゼロからの出発でした。昭和26年に戦前の水準を回復しました。そして昭和30年代になると岡山県のい草産業は、そ...「い草」の盛衰

  • 東京オリンピック返上

    東京オリンピック返上2020東京五輪は1年延期になった。82年前に、東京五輪は中止になっている。今思えば、宇垣外相の意見は当然だが、当時はたいへんな決断だったろう。その時父は、徐州から(新型コロナウイルスの)武漢へ進軍していた。それと一言、82年前の河野一郎さんから、現在の太郎大臣まで、事実上の世襲がつづくことが、現在の国会議員の劣化を証明している。こうゆう事態が不可能になるような”憲法改正”なら、憲法改正に賛成する。・・・・・・・・・・・・・・・・・「昭和史4・大陸の戦火」平成7年研秀出版東京オリンピック返上昭和13年7月15日、日本政府は、昭和15年東京で開催予定の万国博覧会の延期と、第12回オリンピック大会の中止返上を発表した。理由は、「何年かかるかわからん戦争をやっているのに、万博やオリンピックでもなか...東京オリンピック返上

  • 浜街道・七隠・・・その2

    明治時代に鉄道が通るまでの日本は、人も物も、道路でなく川や海を船で移動するのが主だった。大門~笠岡間の”七隠れ”と呼ばる道は、そのことを証明している。(古道・七隠れ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「大津野のあゆみ」平成15年大門町誌編集委員会より転記大門駅の設置以前から既に引野から大門を経て笠岡に至る道は通じていたが、明治8年に道路の幅員が1間から2間に拡張され、荷車や人力車の通交を便利にした。大正に入ると「大正記念事業」として、内務省から各県郡村道の改修を施すことが指令され、福山から大門を経て笠岡に通じる道路が改修整備された。大正11年8月に「道路法」が設置され、大門駅前を通る道路は県道となった。更に、昭和4年には県道福山~笠岡間は第二国道に昇格している。1920年(...浜街道・七隠・・・その2

  • 樺太地上戦

    樺太は米軍の空襲も受けず、大戦中でありながら平和に暮らしていた。昭和20年8月9日から、突然戦争状態になり混乱しつくした。状況は満州国とほぼ同じ。・・・・・・・・・・・・「NHKスペシャル・樺太地上戦・終戦後7日間の悲劇」角川書店・2019年発行より転記「宝の島」樺太は1905年日本領土になった。それから40年後、樺太は日本で最も豊かな地域であったという。公務員の給与水準を高く設定していたため、全国農村から若くて優秀な若者が学校の教員などとして数多く押し寄せていた。豊かな天然自然を生かした漁業や林業に加え、各地に製紙工場が設立され、炭鉱の開発も相次ぎ、「宝の島」とまで呼ばれていた。鉄道網や道路網も発達、人口約40万人。戦火に脅かされることも、食糧不足に陥ることもない、宝の島にありつづけた。あの夏、わずか2週間ほ...樺太地上戦

  • 昭和46年の広島・・・①

    福屋前の傷痍軍人広島の百貨店・福屋の前に、いつも白衣姿の男性が3人ほどいた。座って、募金箱を前にお辞儀を繰り返していた。アコーディオンが(勇壮でなく)沈んだ感じの軍歌を流していた。歳の頃は戦後26年目だから、45~55才位の元軍人だった。それから2~3年後、あれは傷痍軍人でなく、身体は元気な人で福屋の時間が過ぎると「しゃきっとして、お金をもって、高級車に乗って去っていく」のを見たという話を多く聞いた。当時、東京や大阪にはこうゆう偽の元軍人が繁華街にいたそうだが、中四国では岡山や松山で見たことがないので、大都市限定の偽傷痍軍人だったようだ。昭和天皇が広島に会社の隣に広島グランドホテルがあった。ある日、昭和天皇が広島に来てパレードをした。グランドホテルから出るときか、来た時に天皇をはじめて見た。生まれて初めて天皇を...昭和46年の広島・・・①

  • 陽明丸とシベリア出兵⑫笠岡市図書館の陽明丸船長「茅原基治」コーナー

    笠岡市図書館2fにある茅原基治コーナーには、B5サイズで茅原船長の航海図と顕彰のチラシが置いてある。その航海表と歴史本のその時代とを重ねてみる。国をあげて反ロシアをあおる最中に、陽明丸が人道的な行動を起こすことができたのだろうか?・・・・・・笠岡市図書館のチラシ大正8年(1919)9月アメリカ赤十字はロシアの子供たちを船に乗せてロシアを離れ、混乱が落ち着いたらロシアの親元に返すという救出計画をたてました。世界中の船舶会社に救援を依頼しましたが、引き受けてくれるところはどこもありませんでした。この困難な呼びかけに応じたのが、勝田汽船の社長であり、船長に茅原が選ばれました。大正9年(1920)7月9日、ウラジオストク港から、陽明丸はロシア人の子ども779名をはじめ、ロシア人女性など合計960名を乗船させ出航しました...陽明丸とシベリア出兵⑫笠岡市図書館の陽明丸船長「茅原基治」コーナー

  • 父は葡萄酒の密造をしていた

    子供の頃、衣食の多くは、田舎の農家は自給自足や、近所との物々交換で生活していた。そのうちお酒。家では、お酒(日本酒)は高価なので、焼酎を飲んでいた。お酒は客があるときに限り、熱燗をしていた。ビールは高価であり、アルコール度も低く対象外だった。(冷蔵庫もないが)他に葡萄酒があった。盆が過ぎて葡萄の出荷が始まる。傷や腐ったつぶをバケツに入れて、手でも揉みながら葡萄酒造りをしていた。父が造った葡萄酒は、父と祖父が飲んでいた。子供も正月などハレの日に杯についで呑んでいた。アルコール分が弱いのか、呑む量が少ないのが原因か、酔った記憶はない。日本の経済も暮らしも大きく変わっていた大阪万博の頃、父は税務署から密造の摘発をされたそうだ。茂平では葡萄農家が4~6人ほど挙げられたようだ。時は、茂平の干しイチジクが禁止された頃と重な...父は葡萄酒の密造をしていた

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