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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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岡山県
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2014/12/11

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  • 「石工」の仕事

    「鴨方町史・民俗編」昭和60年発行、より転記。(2019年2月21日・笠岡市北木島町)xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx鴨方地方の山地は、花崗岩で形成されている。この花崗岩を石材として切り出している丁場が、随所に見られる。『六条院町誌』によれば、明治25年頃鴨方駅付近の山で掘り出したのが始まりといわれている。石材の硬度は、北木島産よりは硬く、香川の庵治石よりは軟らかい。丁場で石を切り出す人々を、山石屋と呼んでいる。山石屋になっている人は、香川県・愛媛県・広島県・岡山県(北木島・白石島)の島々で技術を習得したり、その地方がから出稼ぎに来ている人が多い。切り出しは、め・二番・三番・しわと呼ばれる「め」にそって、大きな石を割っていく。製品は墓石・地形石なで、注文に応じて割っていくが、だいたいは一サヤ(一...「石工」の仕事

  • 北木島の流し雛

    岡山文庫「岡山の民族」昭和56年文教出版発行より転記。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx(撮影・2019年2月21日北木島の北木中学校)雛まつりと流し雛旧3月3日、いまはひと月遅れの4月3日が雛瀬句である。笠岡市北木島大浦や高島では、旧3月3日に流し雛を行う。紙雛12人(閏年には13人)を雛檀に飾り、3日には麦藁のウツロ舟に、貝・寿司・桃の枝などとともに乗せて加太へ帰って下さいと、沖へ流す。下の病にかからぬようにという淡島信仰に支えられているが、古くは、紙雛に一家の災厄を持って行ってもらうという民間信仰があったと思われる。北木島の流し雛

  • 石の北木島

    「瀬戸内諸島と海の道」山口徹編者吉川弘文館2001年発行より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx石の島の盛衰花崗岩地帯の瀬戸内海は、古くから石材の宝庫で会った。近代に入っても、岡山市沖の犬島は明治期の大阪築港の石の供給地として栄えたし、国会議事堂は広島湾の倉橋島、徳山沖の黒髪島の石が使われた。戦後に入っても、石材業は、瀬戸内の「石の島」にとって重要な収入源、雇用機会の場であった。岡山県笠岡市沖の北木島も石の島である。人口別では、農業1200人、石材業600人、水産業122人となっており、生産額では、鉱業1億2800万、農林業4200万、水産業300万で、石材業の比重の高さが知られる。1960年代にはドリル・火薬・運搬重機が導入され、産出力は飛躍的に増大した。折からの高度...石の北木島

  • 真鍋島の花栽培

    笠岡市の広報などで、笠岡駅で真鍋島の花を売る昭和30年代前半の写真をよくみる。しかし、実際に笠岡駅のプラットホームで花売り娘を見たという人には会ったことがない。「瀬戸内諸島と海の道」山口徹編者吉川弘文館2001年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx花栽培の島岡山県笠岡市の真鍋島は、昭和20年代後半、花の島として一躍有名になったことがある。漁業の不振から畑作が注目され、1951年から県の指導で六戸の農家が花の栽培にのりだした。阪神地方に出荷したところ、飛ぶように売れたことから、栽培地が増え、またたくまに全島にひろがった。しかし、真鍋島の成功はほかの地域にもすぐに波及した。香川県の塩飽諸島、荘内半島でも花つくりが盛んになり、手強い競争相手になったのである。海上距離が長い分、...真鍋島の花栽培

  • 後月郡芳井町の或る山村の生活

    義母(昭和5年12月生まれ)の話し談・2019年2月17日---------------------------------------皇紀2600年の祝い(尋常4年・分校)記憶にない。青年学校国民学校と同じ敷地にあった。国民学校の校庭校庭に芋を植えていた。実業学校実業2年(昭和19年)の時、山を開墾した。出征兵士の家に稲刈りの手伝いに行った。毎朝の奉安殿への記憶奉安殿があったことすら記憶にない。終戦(実業3年)で学校が何が一番変わったか?急に英語がはいった。英語の塾に行く人もいたほど。珠算が増えた。とりこ・とりよめ幼児で養子をし、成人して結婚するのが多いがウチでは結婚と同時にとりこ・とりよめで家にはいった。後月郡芳井町の或る山村の生活

  • 北木島の千鳥・大悟のこと他

    北木島に用事があり、ついでに千鳥・大悟のことなどを聞いた。行った日・2019.2.17------------------------------イワシの群れ北木に漁師が多かった。イワシの大群が来ていた。秋葉山(あきばさん)の山頂から見える。渦がするんで。そしたら、山の上から船に向かって合図しょうた。イワシの処理浜へ揚ぎょうた。ゆでて乾燥さしょうた。半乾きを食べるのが美味かった。イリコ(出汁)にしょうた。バックり山の航空監視塔山頂に祠があった。それを調べに(戦後)登ったことがある。その時でも鎌を持たにゃあ登れなんだ。(枝や草を切り切り登った)今はもう登れん。監視塔で見張っていた人は(年齢的に)施設に入っている。千鳥・大悟の少年時代島で演芸会をしとった、今はカラオケだけじゃけど。その頃、およねーずの「麦畑」など歌...北木島の千鳥・大悟のこと他

  • 茂平の店

    談・2005.1.15かんさん方。あきらさん方の東側。食べるものを置とった。ちくわやこ買うて食びょうた。今りょうやんの家。飴やパンを置いとった。子供が菓子や鉄砲玉を買いにいきょうた。ええもんはねえ。りょうやんはウチの前に住んどったが、その店が止めたんで、そこへ引っ越していった。番屋豆腐はスミにしょうた。その後で番屋が豆腐をはじめた。いわさん方にも、親が豆腐をこしらようた。吉本ははなえるのは遅かった。茂平の店

  • 小三の春⑯講堂で見る「オテナの塔」

    年に2回ほど、笠岡の映画館が来て学校の講堂で映画を見せてくれていた。講堂に暗幕を張って暗くした。暗幕の隙間から光が入り、講堂が真っ暗になることはななかった。そのため、スクリーンは薄くなるのが不満だったが、授業を受けるよりは映画の方が楽なので文句を言う人はいなかった。授業の代わりの映画なので、面白い映画はなかった。「野口英世」「路傍の石」「次郎物語」、暗い物語だった。「にあんちゃん」や「キクとイサム」などもあった。がまんして見た。一度だけチャンバラ映画を上映した。しかも「新諸国物語」、笛吹童子や紅孔雀や七つの誓と一連の人気映画で、「オテナの塔」。主演は若手スターの中村扇雀(現在の坂田藤十郎)。上映前から生徒たちは期待が大きく、「オテナの塔」の題名でもめた。映画は「お寺の塔」という意見で、「塔があるのはお寺に決まっ...小三の春⑯講堂で見る「オテナの塔」

  • 小三の春⑮日の丸をもって天皇陛下を迎える

    ある日の授業で、小さな箸のような棒を一本と、白紙が先生から支給された。生徒は机の蓋を上げてクレヨンを出した。先生の指示は・・・♪白地に赤く日の丸染めて・・・国旗の小旗を作る事だった。国旗は天皇陛下をお迎えするのが目的と言う。その旗をもって全学年の生徒が校庭に集まり、校長先生の挨拶後、学校から列を組んで山陽本線を渡った。線路の土手に一年生から六年生の生徒が横に長く並んだ。そして10分か15分くらいして天皇陛下が乗った汽車が来た。真っ黒い蒸気機関車は、普段の列車と違い黒光りがしていた。正面には特急列車の燕か、何かのプレートが付けられていた。そのプレートには日の丸が二本取り付けられ、神聖さがあった。ごおお~っ、という轟音とともに吐き出される黒煙は、いつもの汽車のように真っ黒でなく白さも感じた。前から見えて、後ろが見え...小三の春⑮日の丸をもって天皇陛下を迎える

  • 北木島の生活④北木島海水浴場ほか

    北木島町大浦出身のAさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx楠楠は石の地区、石船の人もおった。(北木島・楠2018.10.25)楠のフグ養殖(問)楠の北側の海にパイルが並んでいるが、あれは何?楠のフグ養殖。初代の村長が始めた。ワシも夏休みにアルバイトで餌を蒔きにいきょうた。金網で柵をして、フグのほんまもんがいっぱいおったんよ。チヌもおったが、フグの毒素で死んでしもうた。3年か4年かで止めた。小学校の遠足笠岡でサーカスがある時出て来たことがある。他には・・・・、弁当持って本土へ渡ったゆう記憶はないなあ。(笠岡へ行くことは?)歯医者じゃなあ。内科と眼科は島にあった、歯医者だけはなかった。小学校も中学校も弁当を持っ...北木島の生活④北木島海水浴場ほか

  • 「占領下の日本人」

    「昭和史9占領下の日本」研修出版より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx昭和昭和史対談「占領下の日本人」藤本義一会田雄次進駐軍と子供たち藤本・・東京裁判は昭和21年にはじまりました。会田・・陸海軍の将官などは敗戦の責めを負ってみんな自決しているだろうなあと思い込んでいました。藤本・・全員が死刑にされたっておかしくない、当たり前だったんですね。会田・・私だけでなく、一般の受け取り方だって、そんなに強烈じゃあなかった。もう、食うことが先決で。会田・・今の人はテレビなどで、当時のさまを悲痛な思いで見ていますけど、そうゆうものではなかったんですよ。藤本・・終戦になって人間天皇の宣言をしましたね。これには困りましたよ。写真に天皇とマッカーサ―がいっしょに写っている。これも困った。僕の中学の校庭の奉...「占領下の日本人」

  • 北木島の生活③北木小・北木中学校、ほか

    北木島町大浦出身のAさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。(北木島・北木中学校)xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx子供の遊び小学校に相撲が来た。校庭にこまい土俵を作って、吉葉山栃錦や千代の山や鏡里が来た。昭和30年頃。ろくせき6種類の色を集めて、おっかけゴッコをしようた。黄色がいちばん点数が多く、黒が一点。秋葉山秋葉さんへ登ってよう遊びょうた。八幡山景色は八幡さんのほうが綺麗じゃった。下から見ると、山頂の木が風流に見ょうたけど、枯れてはげ山になった。芝居芝居をするのがようきょうた。公民館でしょうた。神楽4年に一回くらいしょうた。-----------大人の遊びパチンコ一店、金風呂にあったようた。行ったことはない。ビアガーデン金風呂にあった。...北木島の生活③北木小・北木中学校、ほか

  • 北木島の生活②「瀬戸の花嫁」ほか

    北木島町大浦出身のAさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx瀬戸の花嫁(問)島内結婚が多く、・・・♪島から島へと嫁いで行くのよ~・・・「瀬戸の花嫁」はなかったのではないか?あったよ。お姉さん(兄嫁)は真鍋島から船に乗って嫁いできた。大浦は真鍋島との結婚が多かった。豊浦や金風呂は白石のとの交流があった。白石の人は高島やこと交流があった思う。------------猫車(ねこぐるま)(問)採石場の作業について?猫車に石を積んで(山から海辺へ)下しょうた。一人で。猫車は二輪車で、前を担ぎょうた。降ろしてもって上がる時にゃあ、(子供の)ワシ等も手伝をしょうた。子供がロープをつけて引っ張って上がりょうた。(三輪車の)ミ...北木島の生活②「瀬戸の花嫁」ほか

  • 北木島の生活①いちばんの楽しみは「金毘羅さん参り」

    北木島町大浦出身のHさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。下記は北木島の信仰の話し。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx石船で金比羅さんへ行きょうた。(石を積む場所に)人間が乗って、昭和35~36年までは違反でしょうた。多度津へ着くと、汽車に乗って琴平まで行きょうた。年に一回の金毘羅参り、これが楽しみじゃった。朝の5時ごろでて、日帰りしょうた。------------一度か二回だけ、白石の開龍寺に行ったことがある。(北木島の金風呂ふきん)瀬戸から白石の瀬戸まで、「郵便船」で渡してもろうた。そこからは歩いて開龍寺へお参りした。郵便船は北木と白石の一番近いところ結んどった。------------道通さんは、商売しょうる人が行っとかもしれん。--...北木島の生活①いちばんの楽しみは「金毘羅さん参り」

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