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  • 大河・かこがわ(271) 近世の高砂(67) 新、工楽松右衛門物語(38)・嘉兵衛の拿捕

    松右衛門から話題はどんどん流されています。このあたりで、元に戻さなければいけないのですが、ゴローニンの逮捕に次いで、嘉兵衛の拿捕の話を付け加えてから、話を松右衛門に戻します。ゴローニンの逮捕・嘉兵衛の拿捕の事件は、日本とロシアの戦争に発展しかねない大事件でした。幕末の外交史の重要な一頁を飾っています。多くの教科書や歴史書にも紹介されています。詳しくは、それらをご覧くさい。嘉兵衛の拿捕ゴローニン少佐は、(日本に)とらえられました。翌年(文化9年・1812)のことでした。代って艦長になったリコルド少佐は、ゴローニンをとりかえすため、クナシリ島の南方海上を航行中でした。たまたま、航行中の高田屋嘉兵衛の船を拿捕しました。日本風にいえば、雲をつくような大男どもが、日本人の平均身長よりも低い嘉兵衛にいっせいにのしかかったの...大河・かこがわ(271)近世の高砂(67)新、工楽松右衛門物語(38)・嘉兵衛の拿捕

  • 大河・かこがわ(270) 近世の高砂(66) 新、工松右衛門物語(37)

    ゴローニン、クナシリ島で捕虜にゴローニンらは、薪水をもとめて、泊村に上陸すると、すぐさま日本の警備兵にとらえられてしまいました。ゴローニンの船が近づいたとき、日本側は多少の発砲をしましたが、ゴロ一ニンと接触したとき、日本側の責任者の一人が、発砲をわび、「先年、ロシア船二隻が乱暴なことをしたために、同様の者がきたかと思い、発砲したのである。しかし、あなたがたの様子を見るのに、先年きた者とはまったくちがっている。われわれの敵意はまったく消えた」と言ったようです。そして、ゴローニンは、エトロフ島の長官と会い、りっぱな昼食のもてなしを受けました。やがて、ゴローニンは艦に戻りたいといって海岸へ去ろうとしましたが、ゆるされませんでした。沖合のディアナ号には副長のリコルドが鑑を指揮していましたが、彼は「ゴローニンは、日本に捕...大河・かこがわ(270)近世の高砂(66)新、工松右衛門物語(37)

  • 大河・かこがわ(269) 近世の高砂(65) 新、工楽松右衛門物語(36)・『私残記』

    『私残記』フォストフのシャナ(紗那)侵略により、南部藩の砲術師・大村治五平は捕虜になりました。彼は、後に『私残記』という著作を残こしています。*現在『私残記』(写真)は、中央文庫から出版されています。『私残記』は、子孫のために私的に残すという目的で書きのこされたエトロフ島防戦願末記です。『私残記』の稿は、盛岡の大村家に伝えられていましたが、昭和18年、盛岡在住の作家により現代語訳されて公刊されました。紗那(シャナ)の戦場においては、大村治五平は、戦場をすてました。もちろん逃げたのは大村治五平だけではありません。彼の職務は戦闘を指導すべき砲術師であり、さらに、一時ロシアに捕虜になりました。そのため、後に南部藩は戻ってきた治五平に対し藩は冷たかったのです。かれは藩における吟味の席上、「たしかに逃げたことは相違ない」...大河・かこがわ(269)近世の高砂(65)新、工楽松右衛門物語(36)・『私残記』

  • 大河・かこがわ(268) 近世の高砂(64) 新、工楽松右衛門物語(35)・フォストフ、シャナにあらわれる

    フォストフ、シャナにあらわれるフォストフの侵略に、幕府は大いにあわて、とりあえず南部・津軽の両藩に命じ、カラフト・エトロフへ出兵させました。文化4年(1807)4月、フォストフ船長は、ユノ号の外にいま一隻の武装商船を加え、艦隊を組んで、エトロフ島にまで入ってきました。4月24日、突然、ナイホの沖に現れました。(当時、エトロフの中心はナイホからシャナに移っていました)間宮林蔵、激怒29日の朝、2隻のロシア船が紗那(シャナ)沖に現れました。フォストフの艦隊には、60人ほどの人員がいました。そのうち、フォストフ以下17人が三隻のボートに分乗して浜にむかってきたのです。それを陸上から、シャナ駐留の200余人の南部・津軽藩のサムライどもが、ぼんやり見物していました。「なぜ機先を制して射撃しないのか」と、たまたま地理調査の...大河・かこがわ(268)近世の高砂(64)新、工楽松右衛門物語(35)・フォストフ、シャナにあらわれる

  • 大河・かこがわ(267) 近世の高砂(63) 新、工松右衛門物語(34)・レザノフ・食料を求めて

    レザノフ・食料を求めて18世紀、ロシアの南下政策が千島を圧迫しました。ロシアの南下政策は、本音のところでは、日本から食料を得ることでした。彼らのもっぱらの関心ごとは、毛皮の確保であり、対日貿易の目的は、シベリア・沿海州・その他の島々で働く毛皮会社の隊員の食糧の確保が主な目的でした。彼らはいつも餓えていました。野菜も少なく、病気も多かったのです。ロシアは、とにかく広く、人家もまばらで、本国から食料を運ぶとすると、とてつもなく高くつきました。何としても、食料は現地が必要でした。そのためにロシアは日本に開国を求めたのです。レザノフ来航日本への通商を求めてレザノフ(写真)が、長崎に来ました。レザノフが、日本を開国させるべく、文化元年(1804)長崎に来ましたが、鎖国を盾に交渉は、はねつけられました。レザノフは、これを侮...大河・かこがわ(267)近世の高砂(63)新、工松右衛門物語(34)・レザノフ・食料を求めて

  • 大河・かこがわ(266) 近世の高砂(62) 新、工楽松右衛門物語(33)・松右衛門は、嘉兵衛の師

    松右衛門は、嘉兵衛の師松右衛門は、寛政2年(1790)から寛政7年(1795)にかけて、彼の持ち船の八幡丸で、数回にわたって、エトロフ島の紗那(しゃな)の有萌湾(ありもえわん)まで航海しています。したがって、松右衛門は当然、魔の海峡・クナシリ水道の航海技術をすでに心得ていました。以下の話は、記録にはない、勝手な想像です。でも、きっとそんな会話があったことでしょう。この話を冬の夜で場所を兵庫の松右衛門の家と設定しておきます。嘉兵衛がエトロフ航路を見つける以前です。ある夜の会話・・・・松右衡門は、嘉兵衛と一献交えていました。酒はお互いに嗜んだが、二人共飲みつぶれるような飲み方はありません。話は、エトロフへの航路、つまりクナシリ水道の潮になりました。松右衛門:嘉兵衛よ。わしがクナシリ水道を初めて渡った時は、ここは地獄...大河・かこがわ(266)近世の高砂(62)新、工楽松右衛門物語(33)・松右衛門は、嘉兵衛の師

  • 「升田山を歩く」「をお読みください。

    https://docs.google.com/document/d/1YyEgGxvRrO0bGCBVU50JyMz0SblbJxF4/edit?fbclid=IwAR1EcCyGQTviMbt0hzOLaR3doRDvnzMqK1kMSMSDQIH6X3dgL8Nk4tqz2_s「升田山を歩く」「をお読みください。上記のURLをクリックしていただくと、「升田山を歩く」をご覧になれます。よろしくお願いします。なお、コピー等でご自由にご利用ください。「升田山を歩く」「をお読みください。

  • 大河・かこがわ(265) 近世の高砂(61) 新、工楽松右衛門物語(32)・松右衛門、紗那(シャナ)港をつくる

    松右衛門、紗那(シャナ)港をつくる寛政2年(1790)5月、松右衛門は、自分の持ち船・八幡丸でエトロフへ出発しました。エトロフの冬は早く、10月いったん兵庫港へ引き返しました。翌、寛政3年(1791)三月、十分な準備をして再びエトロフ島に向けて出航しました。その年は、天侯にも恵まれ、工事は順調に進みました。あらかた紗那(シャナ)港は完成させ、10月に帰航しました。以後も、松右衛門は数回にわたってエトロフ島に渡航し、寛政7年(1795)に工事を終了させています。なお、松右衛門が築港したこの場所は、江戸時代には恵登呂府島(エトロフ島)といい、戦前のエトロフ島西北部紗那郡の有萌湾(現:ナヨカ湾)です。松右衛門は、エンジニア松右衛門は、湾底に散らばる大きな岩を取り除き、船舶の接岸、碇泊に支障のないよう、船の澗(ま)をこ...大河・かこがわ(265)近世の高砂(61)新、工楽松右衛門物語(32)・松右衛門、紗那(シャナ)港をつくる

  • 升田山を歩く

    「升田山を歩く」をお読み頂ける方は、下記のURLをご参照願います。https://docs.google.com/document/d/1YyEgGxvRrO0bGCBVU50JyMz0SblbJxF4/edit?fbclid=IwAR1EcCyGQTviMbt0hzOLaR3doRDvnzMqK1kMSMSDQIH6X3dgL8Nk4tqz2_s上記のURLをクリックしていただくと、ご覧になれます。なお、コピー等でご自由にご利用ください。升田山を歩く

  • 大河・かこがわ(264) 近世の高砂(60) 新、工楽松右衛門物語(31)・松右衛門エトロフヘ

    嘉兵衛がクナシリ水道の「三筋の潮」を発見し、クナシリからエトロフへの安全な航行を可能にしました。その後、嘉兵衛のすすめにより、工楽松右衛門は箱館・エトロフの港の建設に当たると話が進みました。この時のエトロフ港をつくった功績により、松右衛門は享和2年(1802)に幕府から「工楽(くらく)」の姓をもらっています。この辺りの事情を若干整理しておきます。松右衛門エトロフヘその頃、ロシアの南下があり、蝦夷地はにわかに騒がしくなってきました。幕府は危険なものとして警戒に当たるようになりました。寛政2年(1790)2月、幕府は国防のためエトロフ島に築港を計画しました。そして、「択捉島(エトロフ島)ニ廻船緊場ヲ検定シ、築港スヘシ」と兵庫問屋衆に幕命が下りました。兵庫湊の北風荘右衛門は、優れた航海技術と築港技術を持つ松右衛門を推...大河・かこがわ(264)近世の高砂(60)新、工楽松右衛門物語(31)・松右衛門エトロフヘ

  • 大河・かこがわ(263) 近世の高砂(59) 新、工楽松右衛門物語(30)・松右衛門が港を造りましょう

    松右衛門が港を造りましょう箱館の港の話になり、話は、一挙に具体的になりました。・・・・・三橋藤右衛門が「嘉兵衛、築港はできるか」と、たずねたのです。「箱館の浦をいまのままにしておけない」と、三橋藤右衛門はいいました。箱館がいかに「綱知らず」といわれたほどの天然の良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではありません。「港」は、長碕ですら荷を小舟に積みかえて荷揚げしていました。箱館が、長崎と同じように、幕府の直轄港になった以上、とりあえずそれをつくる必要があります。その時、嘉兵衛は、御影屋松右衛門(後の工楽松右衛門)の名前を出してしまいました。その日、話は、続きました。・・・・「ナイホ(エトロフ中西部の地名)にも港をつくらねばならんな」と、三橋藤右衛門はいいました。ナイホの築港の必要につ...大河・かこがわ(263)近世の高砂(59)新、工楽松右衛門物語(30)・松右衛門が港を造りましょう

  • 大河・かこがわ(262) 近世の高砂(58) 新、工楽松右衛門物語(29)・嘉兵衛、箱館へ帰る

    嘉兵衛、箱館へ帰る嘉兵衛は、エトロフへ渡りました。嘉兵衛の安全なエトロフ航路発見は、たんに幕府の「資金面で幕府の潤いになる」という面ばかりではありません。北からはロシア人の南下という問題がありました。エトロフから帰ったクナシリの浜には、近藤重蔵が出迎えました。嘉兵衛は、ハシケが腹を砂にこすりつけるのを待ちかねて、渚にとびおります。重蔵も、渚の水を蹴って嘉兵衛の手をとりました。「よくやってくれた」嘉兵衛は、重蔵に報告するために、砂の上にしゃがむと、砂を両掌に盛って、クナシリ島とエトロフ島のかたちをつくりました。さらに両島のあいだのクナシリ海峡(水道)をつくり、砂に指を突こんで、北から南へ切るように潮が流れているさまを示しました。次ぎに、さらに線をえがき、これらがたがいに絡みあいつつヱトロフ島西南端のベルタルベ岬に...大河・かこがわ(262)近世の高砂(58)新、工楽松右衛門物語(29)・嘉兵衛、箱館へ帰る

  • 大河・かこがわ(261) 近世の高砂(57) 新、工楽松右衛門物語(28)・ クナシリ海峡(水道)

    クナシリ海峡(水道)嘉兵衛は、幕府が用意した宜温丸でクナシリ島の東海岸をアトイヤ岬(クナシリ島の北端)まで航海してきました。いよいよ、クナシリ水道です。北岸で停泊しました。次の日、さっそく、嘉兵衛は、山頂に立ちました。クナシリ水道の潮を確かめるためです。山頂の東側は急斜面になって東海岸へ落ちこんでおり、山の西側の斜面はゆるやかで海岸線にこぶ(小さな岬)をつくっています。山頂に立つと、ぜんたいの地形がおもしろい。嘉兵衛は、とほうもなく巨大な船に乗っているような気分になりました。この日は、めずらしく晴れていました。クナシリ水道を揉にもんで流れている潮のかなたに、エトロフ島のベルタルべ山がそそり立っています。三筋の潮嘉兵衛は、全身を目玉にするようにして潮を見つづけました。根気が要りました。早朝から日没ちかくまで見つづ...大河・かこがわ(261)近世の高砂(57)新、工楽松右衛門物語(28)・クナシリ海峡(水道)

  • 大河・かこがわ(260) 近世の高砂(56) 新、工楽松右衛門物語(27)・嘉兵衛、エトロフ渡航を決める

    嘉兵衛、エトロフ渡航を決めるもし、ここ(クナシリとエトロフの間の水道)で安全な航法を発見すれば、幕府の蝦夷開発が、資金面でそれなりの潤いを得ることができるというのです。重蔵に課せられた任務は、とりあえずはそのことでした。こんどの嘉兵衛の水路調査は、とりあえず幕府が開発を求めていたのです。「大船を持ってゆけば、わけはありませんが・・・」と、嘉兵衛は辰悦丸のことを思いつつ言いました。重蔵は、かぶりを振りました。「小さな漁り舟ぐらいでも渡れる方法を考えてもらいたい。でなければ、操業のたすけにはならない」というのです。クナシリで働いているのは、小さな漁り舟か、蝦夷舟、もしくは5~60石程度の運び船で、今後、クナシリを基地にエトロフ稼ぎをしたかったのです。大船で渡ってしまっても、あと何の役にもたちません。嘉兵衛は、重蔵の...大河・かこがわ(260)近世の高砂(56)新、工楽松右衛門物語(27)・嘉兵衛、エトロフ渡航を決める

  • 大河・かこがわ(259) 近世の高砂(55) 新、工楽松右衛門物語(26)・嘉兵衛、アッケシで重蔵と出会う

    嘉兵衛、アッケシで重蔵と出会う嘉兵衛が、アッケシの運上屋で近藤重蔵と出会ったのは、嘉兵衛31才、(近藤)重蔵29才のときでした。重蔵は、既にエトロフに「大日本恵登呂府」という大きな標柱をたてていました。重蔵は、嘉兵衛に話しかけました。・・・クナシリ島までは安全にゆける。しかし、クナシリ島からエトロフ島にゆくには、急潮でしかも風浪、霧のすさまじい海峡がある。「身の毛がよだつよう」な危険が伴う。「この人(近藤重蔵)は、何の目的でこういう話をするのか」と思いました。エトロフへの安全な潮路の発見を!「嘉兵衛、どうであろう」と重蔵は、ひざを正しました。決意を問うためでした。彼にとって嘉兵衛をよんだのは、近藤重蔵が嘉兵衛にクナシリ島とエトロフ島のあいだの安全な水路の開拓を依嘱することでした。両島の間に、幅5里の水道(クナシ...大河・かこがわ(259)近世の高砂(55)新、工楽松右衛門物語(26)・嘉兵衛、アッケシで重蔵と出会う

  • 大河・かこがわ(258) 近世の高砂(54) 新、工楽松右衛門物語(25)・近藤重蔵

    近藤重蔵やがて、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)は、嘉兵衛、松右衛門に大きな影響を持つことになります。その前に、近藤重蔵について少し触れておきます。・・・・(近藤)重蔵は、江戸町奉行所の与力の家に生まれました。奉行所の与力というのは、幕臣からみれば、「与力か」と、さげすまれかねず、すくなくとも重蔵のほうが、それをたえず意識し、それがかれの努力のばねにもなっていたようです。当時の社会では、罪人は不浄とされ、与力・同心のように、罪人をとらえる職の者を不浄役人とし、正親の幕臣の列から外し、いわば臨時職として、その組織がつくられていたのです。また、「地役人(じやくにん)」という言い方でもって、正規の幕臣の外に置かれました。ただ、その長官である町奉行職だけが、幕臣でした。人材登用テストに合格江戸後期の代表的政治家である松平...大河・かこがわ(258)近世の高砂(54)新、工楽松右衛門物語(25)・近藤重蔵

  • 大河・かこがわ(257) 近世の高砂(53) 新、工楽松右衛門物語(24)・アッケシヘ

    アッケシヘここに登場する三橋藤右衛門、高橋三平は、幕府から派遣された役人です。ともに、蝦夷地の将来を真剣に考えていました。嘉兵衛、アッケシへ(高橋三平は)「嘉兵衛、この蝦夷島において、松前や箱館ばかりでなく、ほかの潮路も見てみたいと思わぬか」「それは、もう」嘉兵衛は、とびあがるようにいいました。そういうことになれば、商いなどどちらでもよいとさえ思いました。松前藩は、本土からの船に対し、松前、江差、箱館という港に出入りする航路の外は入港させたがらず、まして「奥」へゆくことは禁じていました。「直乗の船頭というものは、自分で荷を買って運ぶといい商いになるが、他の荷を運ぶだけでは稼ぎはつまらぬそうだな・・・」三平は、そのあたりをよく知っています。「その運ぶだけの仕事があるが、どうだ」というのである。高橋三平がいうのは、...大河・かこがわ(257)近世の高砂(53)新、工楽松右衛門物語(24)・アッケシヘ

  • 大河・かこがわ(256) 近世の高砂(52) 新、工楽松右衛門物語(23)・余話 工藤平助

    余話工藤平助ここで、話しておきたい余話があります。江戸時代も終わりの頃、女性の人権を主張した人物がいました。只野真葛(ただのまくず)です。真葛についての詳細については、『只野真葛(関民子著)』(吉川弘文館)をお読みください。只野真葛は、工藤平助の娘です。工藤平助は、ロシア人(赤蝦夷)の南下を幕府に説いた人物です。工藤平助は、工藤家の養子になり姓を変えましたが、元の姓は「長井」です。『只野真葛』の一節を紹介しておきます。(文体を変えています)・・・工藤平助の先祖は、播磨の城主で豊臣秀吉に滅ぼされ、その後郷士として住みつき豊かに暮らしていました。しかし、父の代に諸国の隠し田などの調査があり、郷士長井家がそれを持っていたため取り調べを受けた際、「ここは代々長井家が領有している土地だから今後とも長井家のものである」と述...大河・かこがわ(256)近世の高砂(52)新、工楽松右衛門物語(23)・余話工藤平助

  • 大河・かこがわ(255) 近世の高砂(51) 新、工楽松右衛門物語(22)・ロシア人の南下

    ロシア人の南下松前・蝦夷地をめぐる情勢です。時代を寛政10年(1798)に設定します。ここで、二つの事実に注目しなければなりません。一つは、先に述べたように松前藩はアイヌから、絞るだけ絞り上げていました。アイヌは、まさに松前藩の奴隷でした。当然、アイヌは松前藩に対して敵意を持ちました。もう一つは、この時代、北からロシア人が南下して、日本近海に姿を見せるようになったことです。ロシア人の南下については、既に天明元年(1781)ころ、工藤平助は『赤蝦夷風説考』で警告していました。その風説考の主題は「蝦夷地をこのまま放置すればアイヌたちもロシア人の命令に従い、わが国の支配をうけなくなるであろう」ということでした。幕府は、重大に受け止めました。しかし、その後もロシア人の日本への接近は徐々に増えてきました。ロシア人の蝦夷地...大河・かこがわ(255)近世の高砂(51)新、工楽松右衛門物語(22)・ロシア人の南下

  • 大河・かこがわ(254) 近世の高砂(50) 新、工楽松右衛門物語(21)・松前藩は、アイヌの襲撃をおそれた

    松前(2)松前藩が、北海道という広大な地を支配しながら、山ばかりの松前半島の南端の福山(松前のこと)の地を根拠地としているのは、蝦夷に対する自信のなさのあらわれでした。(なぜ、松前様はこんなところにいるのか)と、暗くなりつつある沖から福山(松前)城下の背後の山々を見ながら、嘉兵衛は思いました。すでに、嘉兵衛は、「箱館」という土地があることを聞いていました。道南のほぼ中央に位置し、大湾にかこまれ、港としても悪くありません。それに、箱館の背後には亀田平野という広大な平野があり、もしそこで城下町を営めば野菜の供給にも事欠きません。松前藩は、アイヌの襲撃をおそれたしかし、野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかろうという規準になると、まったく問題がべつになります。松前の地であれば、往来の山路はわずかし...大河・かこがわ(254)近世の高砂(50)新、工楽松右衛門物語(21)・松前藩は、アイヌの襲撃をおそれた

  • 大河・かこがわ(253) 近世の高砂(49) 新、工松右衛門物語(20)・松前藩は悪の組織

    松前藩(1)嘉兵衛も松右衛門も、やがて活躍の場所を蝦夷地に求めます。江戸時代初期の寛文年間、アイヌの英雄的な酋長シヤクシャインにひきいられた大反乱がありました。松前藩はこれに対し、寛文9年(1669)に征討し、シヤクシャインを降伏させ、毒殺してしまいました。以後、松前藩は実質上、蝦夷地(北海道)を支配しました。「場所」「場所」というのは、そこで漁業や商業を営んでよいという縄張のことです。藩は、全土を80余か所の「場所」に切り割って、これを藩士にあたえました。まさに、さかり場ごとに「場所(ショバ)」をもつヤクザのようです。「場所」の運営は、武士にとって重荷でした。みずから親方になって場所へゆき、アイヌから水産物を買ったり、本土の米、塩、酒、麹、鉄器、漆器などを売ったり、あるいは、時にアイヌを雇って直接、網を打つと...大河・かこがわ(253)近世の高砂(49)新、工松右衛門物語(20)・松前藩は悪の組織

  • 大河・かこがわ(252) 近世の高砂(48) 新、工楽松右衛門物語(19)・土崎(秋田)にて

    土崎(秋田)にてある日、嘉兵衛は、北風荘右衛門に呼ばれました。「秋田まで行ってくれるか。木材を運んでほしい」これは賃仕事だと思ったが義理のある荘右衛門から出た以上、断ることはできません。途中、無理をしてシケに巻き込まれたが目指す庄内・土崎(つちざき・秋田県)に着きました。「辰悦丸」建造土崎の前の海は、北前(日本海)です。船大工は北前の海と船については知り尽くしています。それに、この地方は大坂と比べ手間賃が安いため、船はより安価にできます。嘉兵衛は、自分の船の建造を地元の船大工に建造を頼むことにしました。そのいきさつです。寛政七年(1795)春、26歳の嘉兵衛は和泉屋伊兵衛の沖船頭となり、日本海航路の出羽酒田に初めて出かけました。この年12月、かれは出羽庄内で千五百石積み辰悦丸を建造・海運業者として独立・船持船頭...大河・かこがわ(252)近世の高砂(48)新、工楽松右衛門物語(19)・土崎(秋田)にて

  • 大河・かこがわ(251) 近世の高砂(47) 新、工楽松右衛門物語(18)・船を持て

    船を持て・・・・多度津で、(高田屋)嘉兵衛が(工楽)松右衛門旦那からきいた話で胆に銘じたのは、「持船船頭になれ」ということでした。「沖船頭(雇われ船頭)など、いくらやっても面白味にかぎりがある」ということでした。「嘉兵衛、いくつだ」「二十四でございます」「わしなどは40から船持の身になったが、若ければ船のことがもっと身についたにちがいない、沖船頭をいくらやったところで、持船とは身につき方がちがう」ともいうのです。が、資金がありません。千石船一艘の建造費には千五百両という大金が必要でした。二千両といえば、それだけの現金を持っているだけで富商といわれるほどの額です。松右衛門の場合は、「松右衛門帆」という大発明をして、それを製造し大いに売ったればこそ、沖船頭から足をぬいて持船の身になることができたのです。「わし(嘉兵...大河・かこがわ(251)近世の高砂(47)新、工楽松右衛門物語(18)・船を持て

  • 大河・かこがわ(250) 近世の高砂(46) 新、工楽松右衛門物語(17)・金毘羅大権現

    司馬氏は、金毘羅大権現について松右衛門に語らせています。金毘羅大権現(嘉兵衛が松右衛門以多度津であった日、嘉兵衛は松右衛門に酔いました。金毘羅大権現の話もしました)・・・・松右衛門且那は、「多度津にきて、なぜ金昆羅さんが船人から大もてであるかがわかったろう」と、いわば罰があたりそうなことをいったのです。「金毘羅さんは、本来、ただの山である。象頭山(ぞうずさん)といわれる秀麗なすがたの山は、海上を走っている航海者の側からいえば類なくすばらしい目印になる。その山を見て、自分の船の位置を教えてもらい、また他の海域から帰ってくると、ふたたびその山を見て、こんどの航海もぶじだったことをよろこびあう。自然、山を崇敬するようになる。多度津の前の海に、船乗りの輩出地としては質量ともに日本一の塩飽諸島(しあくしょとう)が浮かんで...大河・かこがわ(250)近世の高砂(46)新、工楽松右衛門物語(17)・金毘羅大権現

  • 大河・かこがわ(249) 近世の高砂(45) 新、工楽松右衛門物語(16)・嘉兵衛と松右衛門の出会い

    『菜の花の沖』(第二巻・文春文庫)に、高田屋嘉兵衛と松右衛門の出会いの場面です。司馬遼太郎氏がつくりあげた話(小説)ですが、嘉兵衛と松右衛門の風景としては、いかにもありそうな話です。嘉兵衛と松右衛門の出会い嘉兵衛の住む兵庫港の西出町の長屋は、冬になると賑やかになります。冬は海が荒れ、よほどのことが無いと船は動きません。嘉兵衛は、暇ではありません。堺屋の持船のうち、二艘の船底を「たで」ねばなりません。「たでる」とは船底を燻して、木材を食う虫を追いだすことで、老朽あるいは損傷のカ所を修理するということも含まれています。兵庫の港の欠陥として、この浦が出船・入船で繁昌するあまり「船たで場」が少なかったのです。後に、兵庫港にも本格的な船たで場は造られますが、嘉兵衛のころにはまだそれがなかったのです。船舶の世界において、多...大河・かこがわ(249)近世の高砂(45)新、工楽松右衛門物語(16)・嘉兵衛と松右衛門の出会い

  • 大河・かこがわ(248) 近世の高砂(44) 新、工楽松右衛門物語(15)・高田屋嘉兵衛・兵庫港へ

    高田屋嘉兵衛・兵庫港へいま、「工楽松右衛門」について紹介していますが、ここにもう一人登場します。『菜の花の沖』の主人公・高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)です。松右衛門は、今まで地元それも高砂市では知られていましたが、広く知られた人物ではありませんでした。歴史的に重要な人物ではない、という意味ではありません。工楽松右衛門の名前を全国的に有名にしたのは、小説『菜の花の沖』です。小説の主人公である高田屋嘉兵衛の頭には、絶えず松右衛門の励ましの声が聞こえていたようです。「高田屋嘉兵衛」について紹介しておきましょう。高田屋嘉兵衛、淡路島を抜ける彼は、明和六年(1769)正月、淡路島の西海岸(西浦)都志(つし)本村(五色町)という寒村で生まれ、追われるように兵庫へ押しだされました。寛政二年(1790)、先に、兵庫港の堺屋で働...大河・かこがわ(248)近世の高砂(44)新、工楽松右衛門物語(15)・高田屋嘉兵衛・兵庫港へ

  • 大河・かこがわ(247) 近世の高砂(43) 新、工楽松右衛門物語(14)・蝦夷地(北海道)へ 

    蝦夷地(北海道)へ江戸は、膨大な食欲を持つ消費都市であり、そこへ商品を運びこむというのが一番いいのですが、そこには菱垣廻船、樽廻船という株仲間が独占していました。そのため、松右衛門は「もうけ」のために、日本海、そして蝦夷地に乗り出しました。松右衛門帆は、蝦夷地(えぞち)との航海を容易にしました。松右衛門のように持船がすくなく、あたらしい商人には、既成の航路に割りことはむずかしく、松前(蝦夷地)へ行く商いの方がやりやすかったのです。松前の商品で最大のものは肥料用のニシン(干鰯・ほしか)で、この肥料が上方や播州などの作物としての木棉の生産を大いにふやしました。しかし、この商品は、株仲間が組織されていて、松右衛門のような新参が割りこめないし、割りこめても妙味が少なかったのです。そのため、北風荘右衛門は松右衛門に独立を...大河・かこがわ(247)近世の高砂(43)新、工楽松右衛門物語(14)・蝦夷地(北海道)へ 

  • 大河・かこがわ(246) 近世の高砂(42) 新、工楽松右衛門物語(13)・商業を縛る株仲間

    商業を縛る株仲間松右衛門は、松右衛門帆を独占し、個人的に利することをしませんでした。小説『菜の花の沖』からの引用です。(文体は変えています)・・・・それでも、松右衛門はいくばくかの金は得ました。「これで、鉛を乗りまわせる」と、松右衛門はよろこびました。廻船問屋は、そのきりもり(当主)が高度の能力を必要とするため、子孫が容易にそれを継げるというものではありません。松右衝門が少年のころ奉公した御影屋も先代の死後、能力不足で衰えていたため、帆でもうけた金でこの株をゆずってもらい、御影屋の当主になりました。当時、兵庫津には北国専門(北前船)の廻船問屋が13軒あり、幕法によってそれらが「株」として固定しており、勝手に新規開業することができなかったのです。「株仲間」が、大きな力を持ち威張っていました。それは、封建制度そのも...大河・かこがわ(246)近世の高砂(42)新、工楽松右衛門物語(13)・商業を縛る株仲間

  • 大河・かこがわ(247) 近世の高砂(41) 新、工楽松右衛門物語(12)・ある日の会話

    ある日の会話松右衛門は、北風家の別家の喜多二平とくつろいで話していました。以下は、勝手な想像で書いています。喜多二平:きのうは雨、風もきついですな。こんな日が続くと船も困りもんです。特に、帆が長持ちしまへん。松右衛門:そうですな。破れやすいし、それに水で腐りやすいし・・・・喜多二平:なんとかなりませんかね。松右衛門:太い糸で帆を織ったらどうでしょう。わたしの故郷(高砂)は綿の産地です。やってみます。きっと、こんな会話があったのでしょう。松右衛門の生まれた高砂辺りが、綿の生産が盛んな所でなかったら、さすがの松右衛門も「綿の太い糸で帆を織る」という発想は、生まれなかったことでしょう。加古川河口辺りの綿作について少し見ておきます。故郷は綿の生産地元禄十年(1697)に刊行された江戸時代の農書に『農業全書』があります。...大河・かこがわ(247)近世の高砂(41)新、工楽松右衛門物語(12)・ある日の会話

  • 大河・かこがわ(246) 近世の高砂(40) 新、工楽松右衛門物語(11)・帆でもうけよ

    帆でもうけよ松右衛門織りは、こんにちなお兵庫県の明石から加古川にかけての産業である厚織りやカンバス、ベルト生地の製造、あるいはゴムタイヤに入れる「すだれ織り」といったかたちで生きつづけています。松右衛帆について続けます。かれは、この帆布の製作のために兵庫の佐比江に工場を設けましたが、当時まだ沖船頭(雇われ船頭)でした。この資金は北風家、あるいはその別家の喜多家から出たのではないかと思われます。佐比江(さびえ)の工場では、船主や船頭が奪いあうようにして出来上がりを持ってゆくというぐあいで、生産が需要に追いつかないほどでした。かれは、むしろ積極的にこの技術を人に教え、帆布工場をつくることをすすめました。明石の前田藤兵衡という人物などは、いちはやく松右衛門から教えをうけて産をなしたといわれています。「金が欲しい者は、...大河・かこがわ(246)近世の高砂(40)新、工楽松右衛門物語(11)・帆でもうけよ

  • 大河・かこがわ(245) 近世の高砂(39) 新、工楽松右衛門物語(10)・松右衛門帆

    松右衛門帆松右衛門を有名にしたのは、なんといっても、「松右衛門帆」の発明です。近世初期の帆はムシロ帆であり、17世紀後半に木綿の国産化により木綿帆が普及し船に利用されました。しかし、18世紀末までは厚い帆布を織ることができなかったので、強度を増すために、二・三枚重ねてさして、縫い合わせた剃帆(さしほ)でした。剃帆(さしほ)は、縫合に時間と労力が必要であり、それでも強度は十分でなく破れやすい帆でした。松右衛門帆については『菜の花の沖』に詳しく説明されていますので、ここでも引用させていただきます。帆の改良「帆を改良しよう」と松右衛門が思いたったのは、中年をすぎてからです。彼は、北風家の別家の喜多二平家で話しこんでいたときに不意にヒントを得たらしい。幾度か試行錯誤をしたらしいのですが、「木綿布を幾枚も張りあわせるより...大河・かこがわ(245)近世の高砂(39)新、工楽松右衛門物語(10)・松右衛門帆

  • 大河・かこがわ(244) 近世の高砂(38) 新、工楽松右衛門物語(9)・松右衛門の発明

    松右衛門の発明松右衛門は、少年の頃から発明をすることが好きで、驚くほど多才な才能を発揮しています。中でも、なんといっても船の帆「松右衛門帆」ですが、松右衛門帆については、後に紹介します。『農具便利論』にみる松右衛門の発明松右衛門の発明ついて『菜の花の沖』(司馬遼太郎)で、次のように書いています。(漢字等少し変えています)・・・たとえば大船と大船の連絡用の快速艇を考案して「つばくろ船」と名づけたが、荒波をしのぐが便利なように潜水艦のような形をしている。彼が考案した船や道具のうち15点ばかりが、江戸後期の農学者大蔵永常(おおくらながつね・1768~?)の『農具便利論(三巻)』に鮮明な図付きともに掲載されている。轆轤(ろくろ)を用いて土砂取船、舷が戸のような開閉する土砂積船、海底をさらえるフォークのような刃の付いたジ...大河・かこがわ(244)近世の高砂(38)新、工楽松右衛門物語(9)・松右衛門の発明

  • 大河・かこがわ(243) 近世の高砂(37) 新、工松右衛門物語(8)・筏で材木を大坂へ運ぶ

    筏で材木を大坂へ運ぶ松右衛門は、兵庫湊の「御影屋」という廻船問屋で水主(かこ・船乗り)をしていが、ずいぶん北風家の世話になった。そこで船乗りとしての知識や技術、そして商を覚えました。北風家も、松右衛門をずいぶん可愛がり援助をしたようです。次の松右衛門が筏(いかだ)で材木を運んだということも、北風家から出た話であろうと思われます。誰も考えつかないようなことを行わせ、一挙に「兵庫湊と松右衛門あり」と宣伝しました。松右衛門も見事にそれに応えました。・・・・彼が30才のころ、姫路藩から頼まれて秋田から大坂へ材木を運ぶことになりました。しかし、当時大きな材木を積むことのできる船はありません。秋田の商人から工夫を頼まれた松右衛門は、材木を筏に組んで、それに帆と舵(かじ)をとりつけることを思いつきました。木材の運搬を頼まれた...大河・かこがわ(243)近世の高砂(37)新、工松右衛門物語(8)・筏で材木を大坂へ運ぶ

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