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「ひろかずのブログ」終了退職してから3年目の2006・6・14、下のような「ひろかずのブログ」第1号を発信しました。写真もない、そっけない短いブログでした。・・・昼から、「ブログに挑戦してみよう(NHK)」を参考に、悪戦苦闘の末ブログを立ち上げました。よろしくお願いします。当面、「まち歩き」で、見たこと感じたことを投稿します。今日はその1です。・・・(創刊号より)ありがとうございました退職後、2年間は若い学生に交じり、ある大学で英語を勉強しました。3年目から目標が無くなりました。そのため、何となく始めたブログでした。でも、約15年も続けることができましたきました。その間たくさんの重なった記事も掲載しましたが、きのうで5671号になりました。そろそろ善意の押し付けを終わらねばなりません。今日のこの記事を最終号にし...「ひろかずのブログ」終了
鶴林寺の鐘楼鶴林寺の説明をしなければならないのですが、尾上神社の朝鮮鐘からはじめます。世阿弥作の謡曲「高砂」に、「高砂の松の春風吹き暮れて、尾の上の鐘も響くなり」と尾上の鐘を描いています。尾上神社(加古川市尾上町)の鐘がそれです。鐘の表面に飛天と楽器、上部には天蓋(てんがい)を浮き彫りにした珍しい朝鮮鐘です。この鐘には、顕宗二年(朝鮮の年号・1011)の銘があるので、尾上神社の鐘もこの頃、つまり朝鮮の高麗時代に作られたものと思われます。この鐘は、何時どのような経緯でもたらされたのかは分かっていません。また、現存する「朝鮮鐘」の多くは、鎌倉時代から南北朝期の「倭寇」の活躍した時代にもたらされたものといわれています。何時のころから尾上神社にあるのかも分かりません。朝鮮の高麗時代(日本の平安時代の中期から、南北朝時代...加古川町旧鳩里村探検(60)北在家(12)鶴林寺の鐘楼
加古川町旧鳩里村探検(59) 北在家(11) 北在家「四つ堂」の阿弥陀如来
北在家「四つ堂」の阿弥陀如来集落の中心にお堂があります。「四つ堂」といいます。阿弥陀如来が祀られています。木造阿弥陀如来は、平成2年に市指定文化財に指定されました。このお像は緊迫を施し、定印を結ぶ座像です。優雅な相好、全体に針のある整った体躯。一部に残る美しい模様等が見られます。平安時代の藤原彫刻の典型的な面影をのこし、堂々としています。他の部分はかなり剥げ落ちが激しくなっています。頭部は後世に補修されています。座高137センチメートルの仏様です。今日の報告も『加古川街実記(山脇重弘著)』をお借りしました。(no5670)*写真:平安時代の阿弥陀如来が安置されている「四つ堂」加古川町旧鳩里村探検(59)北在家(11)北在家「四つ堂」の阿弥陀如来
加古川町旧鳩里村探検(58) 北在家(10) 松野家の門前の稲荷社
松野家の門前の稲荷社松野家の前にいなり神社があります。説明がないので、近くの人も「どうしてここにあるのか?、そのいわれは?」等は、だんだん分からなくなっているようです。この稲荷社は、明治初期に鶴林寺にあった神社ですが、の神仏分離のためで、鶴林寺から移されることになりました。松野家が譲り受けて邸内に勧請していましたが、お参りする人が多いので塀を下げて神社が道に出るようにされました。常夜灯に宝暦七年(1757)別府浦多木氏の石碑があります。(no5669)*『加古川街実記(かこがわまちじっき)(山脇重弘)』より加古川町旧鳩里村探検(58)北在家(10)松野家の門前の稲荷社
加古川町旧鳩里村探検(58) 北在家(10) 松野家の門前の稲荷社 、もとは鶴林寺の境内に
松野家の門前の稲荷社もとは鶴林寺の境内に松野家の前にいなり神社があります。説明がないので、近くの人も「どうしてここにあるのか?、そのいわれは?」等は、だんだん分からなくなっているようです。この稲荷社は、明治初期に鶴林寺にあった神社ですが、の神仏分離のためで、鶴林寺から移されることになりました。松野家が譲り受けて邸内に勧請していましたが、お参りする人が多いので塀を下げて神社が道に出るようにされました。常夜灯に宝暦七年(1757)別府浦多木氏の石碑があります。(no)*『加古川街実記(かこがわまちじっき)(山脇重弘)』より加古川町旧鳩里村探検(58)北在家(10)松野家の門前の稲荷社、もとは鶴林寺の境内に
加古川町旧鳩里村探検(57) 北在家(9) 鶴林寺に残る秀吉の禁制札
鶴林寺に残る秀吉の禁制札時代は戦国時代の終わりの頃、天正6年(1578)です。東播磨地方が、信長・秀吉の支配に入るか、それとも中国地方に勢力を持つ毛利の勢力下に入るかを決する戦が、加古川地域で展開されました。当時、東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下でした。加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏のみが、秀吉方に味方していました。しかし、野口・神吉・高砂・志方城の結束は強く、三木方に味方したのです。秀吉は、勢力を持つ寺院等も調略しました。一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺にあります。内容は、次のようです。鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる軍勢が一般人に乱暴を働くこと陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること田畑を荒らすことこれらに違反するものは速やかに厳罰に処す天正六年三月二五日筑前守(*秀吉のこと)秀吉は、鶴林...加古川町旧鳩里村探検(57)北在家(9)鶴林寺に残る秀吉の禁制札
高砂線野口駅・・・別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の9月でした。現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線がありました。別府鉄道の主な役割は、別府にある多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。モータリゼーションの波で乗客は激...加古川町旧鳩里村探検(56)北在家(8)高砂線野口駅
加古川町旧鳩里村探検(55) 北在家(7) 国鉄(現・JR)高砂線は北在家を走る
国鉄(現・JR)高砂線は北在家を走る私の小学校時代は、昭和20年代の最後の頃にあたります。その頃、夏には学校から高砂の浜へ海水浴に出かけました。高砂線は、子供の声であふれかえっていました。私にとって高砂線は、浜に続く思い出がつまった鉄道でした。高砂は戦前から多くの工場が進出し、高砂線はお客だけでなく、貨物も大いに利用されていました。高砂線は、大正3年播州鉄道高砂線として開通しましたが、経営難のため大正9年に播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年、国鉄に買収されました。昭和36年頃から、海岸は埋め立てられ、海水浴場は姿を消した。そして、急速なモータリゼーションによりアッという間に貨物・乗客とも急減しました。その後、膨大な赤字が重なり、高砂線は昭和59年10月30日廃止になり、線路跡の大部分は、道路として利用されてい...加古川町旧鳩里村探検(55)北在家(7)国鉄(現・JR)高砂線は北在家を走る
加古川町旧鳩里村探検(54) 北在家(6) 鶴林寺の建築と太子信仰
聖徳太子について英雄とか、天才とか、偉人とか呼ばれて、多くの人々の心をひきつけてやまない人物というものが、歴史上にはしばしなその名を刻んでいます。もちろん、その人物が実際その人が魅力あった人物であったかという実像の問題も重要ですが、それ以上に多くの人々から魅力ある人物像の出現が希求された結果として、後からつくられた「像」がままあります。このことに目をむけなければなりません。聖徳太子もまた例外ではありません。今日まで、つづくその評価をおおく支えてきたものは、太子の没後大勢の人々から偉人の存在が求められて続けれられて歴史の集積であり、そうした人々の要求を承けて、新たな人物像が歴史の集積ではなかったでしょうか。聖徳太子は「救世観音」であるというのも平安時代の人々により作り出された像の一つです。この時代は、律令制の崩壊...加古川町旧鳩里村探検(54)北在家(6)鶴林寺の建築と太子信仰
加古川町旧鳩里村探検(53) 北在家(5) アイタタの観音さま
前号で「鶴林寺」の、聖観音いついて少しだけ紹介しましたが、『ふすさとの民話(加古川青年会議所)』で、「アイタタの観音さま」として知られているこの聖観音を紹介しされています。転載させていただきます。民話:アイタタの観音さま鶴林寺の観音堂に金色さんぜんと輝く観音様がおまつりしてありました。お身たけ1.1メートル、重量は105キロあって、そのお姿の神々しさと美しさは、お参りに来た人をひきつけずにおかないほどでした。それにもまして、この観音さまは閻浮檀金(えんぶだごん:注)の光を放つ黄金仏(おおごんぶつ)と言われていました。これを聞いたドロボウが、この仏さまを盗み出し、鋳つぶして売れば一辺に千万長者になれるだろうと悪い考えをおこし2、3人の仲間と共に、ひそかに観音堂に忍び込んで、まんまと盗み出しました。そこで見つからな...加古川町旧鳩里村探検(53)北在家(5)アイタタの観音さま
鶴林寺の仏たち鶴林寺には、多くのすぐれた仏教彫刻が伝えられています。主な仏像を紹介しておきましょう。その中でも最古のものは「あいたた観音」(写真)の異名を持っている聖観音立像です。この観音様は、白鳳期(大化の改新~奈良時代以前)の貴重な仏様ですが、鶴林寺が白鳳期からあったという証拠にはなりません。いつの時代か、どこからか持ち込まれたと思われます。鶴林寺には、このほかに平安時代にさかのぼる次の諸像があります。①木造十一面観音立像(重文)平安中期②木造釈迦三尊像(重文)平安末期③木造四天王立像(重文)平安末期④木造阿弥陀如来坐像(県指定)平安末期⑤木造恵便法師坐像平安末期⑥木造菩薩像頭部平安末期②・③は太子堂本尊、④は常行堂本尊として祀られていました。藤原様式をしめす平安末期の諸像が多いのですが、これらの仏像こそ創...加古川町旧鳩里村探検(52)北在家(4)鶴林寺の仏たち
加古川町旧鳩里村探検(51) 北在家(3) 文献史料からみる鶴林寺
鶴林寺(3)文献史料からみる鶴林寺鶴林寺は国宝の本堂・太子堂をはじめとする文化財の宝庫であることはいうまでもありません。主要な建造物のほとんどすべてが国または県の文化財に指定されています。建築物以外でも、その種類が多種多様であることは驚きです。ところが、鶴林寺が伝えてきた文献史料は、古くても中世(鎌倉・室町時代)に遡るもので、その数も37点にすぎません。そして、鶴林寺文書には著しい特色があります。年代のもっとも古い文書は、鎌倉後期の文永五年(1268)の寄進状ですが、「縁起の伝える鶴林寺は聖徳太子建立」のことが出てきません。ふつうですと鶴林寺ほどの大寺院に伝わる文書では、皇室をはじめとする中央の貴族層か、将軍家か管領・守護クラスの上層武士層との結びつきが何かあるはずですが、鶴林寺文書にはそれを示す文書は全くあり...加古川町旧鳩里村探検(51)北在家(3)文献史料からみる鶴林寺
加古川町旧鳩里村探検(50) 北在家(2) 鶴林寺は四天王寺から勧請
鶴林寺(2)鶴林寺は四天王寺から勧請前号で「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と書きました。では、鶴林寺はいつ、だれが創建したのかということですが、これも『加古川市史(第一巻)』から一部を引用します。・・・・鶴林寺は、もと「四天王寺聖霊院」と称し、養老二年(718)には身人部春則(むとべはるのり)が本願となって一大殿堂を建立し刀田山四天王寺と寺号を改めたと伝える。身人部は、播磨の在地土豪らしい。その時期を平安後期と推測している。その理由は、当時の伽藍配置が平安中期以降あらわれる天台寺院に共通している。・・・まとめます。①元の鶴林寺は、養老二年(718)、身人部春則が建立した。②その殿堂を刀田山四天王寺と寺号とした。③鶴林寺の伽藍配置は平安後期のものである。四天王寺について、少し思いきったことを書いてみます。「歴史...加古川町旧鳩里村探検(50)北在家(2)鶴林寺は四天王寺から勧請
加古川町旧鳩里村探検(49) 北在家(1) 鶴林寺は聖徳太子の創建ではない しかし・・・
鶴林寺(no1)・なぜ鳩里村?復習です。明治22年4月1日に粟津村・木村・友沢村・稲屋村・北在家村・備後村等の村々が合併して加古郡鳩里村となりました。では、どうして鳩里村(きゅうりむら)という名称なのでしょう。これは、この地域に名刹、鶴林寺があったためです。鶴林寺は、「斑鳩寺(はんきゅうじ)」とも呼ばれていました。そのため「鳩」の一字をとって村の名称(鳩の里:鳩里)としました。その鳩里村も、大正4年3月20日、加古川町(かこがわちょう)に編入し、行政地名から消えていきました。そんな鳩里地区の歴史探検を鶴林寺から始めましょう。鶴林寺は聖徳太子の創建ではないしかし・・・旧鳩里村北在家は、鶴林寺について書くことを若干ためらっています。鶴林寺やその檀家の方、そして加古川市観光協会等から、お叱りが聞こえてきそうです。加古...加古川町旧鳩里村探検(49)北在家(1)鶴林寺は聖徳太子の創建ではないしかし・・・
加古川町旧鳩里村探検(48) 粟津(21) 粟津弥生遺跡(2)
粟津弥生遺跡(2)次回から北在家探検に出かけましょう「加古川町旧鳩里村粟津探検(no2)」で「粟津弥生遺跡」を紹介しました。少し復習をしておきます。この遺跡は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。この遺跡を紹介して後、『粟津遺跡調査報告書』(2020:加古川市教育委員会)がインターネットにあることを知りました。場所は、「ひろかずのブログ・旧鳩里村粟津探検(no2)」で確かめてください。「報告書」には、調査地点の写真がありましたので、付け加えておきます。次回から「加古川町旧鳩里村北在家探検」をはじめます「粟津探検」は不十分でしたが、次回から「旧鳩里村北...加古川町旧鳩里村探検(48)粟津(21)粟津弥生遺跡(2)
加古川町旧鳩里村探検(47) 粟津(20) 南粟津:加茂神社
南粟津:加茂神社粟津地区の南部は加古川駅に近く便利な地域です。それに、加古川中央線(鶴林寺の北を走る東西の広い道路)が開通しました。農地は、住宅地、商業地と猛烈な勢いで都市化が進み、人口も増加し粟津は適切規模をこえるまでになりました。そして、粟津の南部は南粟津町内会を結成しました。そして、新しい町のシンボルとして、加茂神社を創設しました。加茂神社の説明の前に摂、境内社、境外社を整理しておきましょう。◇摂社・末社◇現在は、摂社・末社に関する規定は特にありません。が、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社が最も高くそれに次いで摂社そして末社の順とされていました。そして、本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境内外に独立の敷地を持...加古川町旧鳩里村探検(47)粟津(20)南粟津:加茂神社
加古川町旧鳩里村探検(46) 粟津(19) 加古川簡易裁判所
加古川簡易裁判所粟津には簡易裁判所(写真)があります。裁判所といえば、何となく敷居が高い気がしますね。でも、簡易裁判所は、そんなに堅苦しい裁判所ではありません。弁護士は事情や悩みをヒアリングし、最短で最小の労力やコストで問題を解決するための手段を提案してくれます。簡易裁判所:簡単な話し合いによる裁判所簡易裁判所では、民事事件については訴訟の目的となるものの価額が140万円を超えない請求事件に限り、扱うことができます。簡易かつスピーディーに問題の解決を図る仕組みができており、すべての事件が1人の簡易裁判所判事によって審理および裁判されています。また、調停委員の仲介のもとで、当事者双方が話し合いによって解決を目指す調停制度が設けられているのも大きな特徴です。民事手続には民事訴訟、民事調停、支払督促などがあり、争いの...加古川町旧鳩里村探検(46)粟津(19)加古川簡易裁判所
加古川町旧鳩里村探検(45) 粟津(18) BAN-BANテレビ・ラジオ
BAN-BANテレビ・ラジオBAN-BANテレビ・放送は、粟津にあるテレビ・ラジオの放送局です。東播磨のインターネット・電話も扱っており、二市二町の地域に密着した情報の発信の中心となっています。BAN-BANは、改めて紹介することはありません。そのため、今日は私個人のことになりますが、ご了解す下さい。『加古川さんぽ』をバンバンラジオで紹介2019年7月の初めでした。「バンバンラジオで谷五郎さんとお話しください」という電話がありました。おそるおそるOKしましたが、こんな経験はないので少し心配でした。そして10日、5時からバンバンラジオ『はりま~るラジオ』の録音がありました。進行は、谷五郎さんと竹内明美さんでした。私は、歯が抜けて発音がはっきりせずドキドキしていたんですが、お二人はさすがプロですね気持ち良い雰囲気を...加古川町旧鳩里村探検(45)粟津(18)BAN-BANテレビ・ラジオ
加古川町旧鳩里村探検(44) 粟津(17) あかりの鹿児資料館
今日の「あかりの鹿児資料館」については、『Kako‐Styile2』(特定非営利活動法人シミンズシーズ発行)に原正道氏が取材され、書かれた記事を転載させていただきました。あかりの鹿児資料館江戸時代の明かりと明治時代の洋燈約2000点を所蔵・展示する、加古川の隠れた名ミュージアム「あかりの鹿児童資料館」。江戸から名にかけえの時代を照らしあ様々な照明器具の美しさ、素朴で生活に根ざした実用性、職人たちが腕を競った工芸の魅力など、明かりを通して、当時の人々暮らしを伝えています。明かりについて知られるミュージアムは、長野県小布施まちにある「日本の明かり博物館」戸堂資料館の全国でも2ヵ所という貴重な博物館です。ガスおよびガス器具販売の「ネクスト・ワン」の故・橋本俊一会長設立。明治中期にランプの芯を作っていたっことから、明か...加古川町旧鳩里村探検(44)粟津(17)あかりの鹿児資料館
加古川町旧鳩里村探検(43) 粟津(16) 明治14年の粟津の集落(人口、269人)
明治14年の粟津の集落(人口、269人)『播磨地種便覧』から明治時代の野尻新村の税をみておきます。同書の前書きに「一、戸数人口は明治14年1月御調ヲ以載ク」とあるので、明治14年の数字です。明治新政府は、明治6年(1873)から「地租改正」を行い、米を納める年貢をあらため、土地の所有者から貨幣で定額の地租を取ることにしました。地租改正では、耕地の面積をはかりなおし、新たに地価を定め、その3%を地租としました。一般的に、新政府の収入が減らないように高めに設定されたため、農民の負担は江戸時代と比べても軽くなりませんでした。そのため、各地で「地租改正」に反対する激しい一揆がおこり、これに押された政府は、地租を地価の2.5%(明治10年)に切り下げました。『地種便覧』は、各村の人口、家数、田、畑の面積ならびに地租の額等...加古川町旧鳩里村探検(43)粟津(16)明治14年の粟津の集落(人口、269人)
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