住所
加古川市
出身
加古川市
ハンドル名
ひろかずのブログさん
ブログタイトル
ひろかずのブログ
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630
ブログ紹介文
加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪
自由文
更新頻度(1年)

89回 / 1540日(平均0.4回/週)

ブログ村参加:2014/12/02

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ひろかずのブログさんのブログ記事

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  • ぶらり散歩(10) ボーダーの地域

    ボーダーの地域加古川・高砂・稲美町・播磨町の位置を考えています。律令制度下で、直接に都の勢力が及ぶ範囲を畿内といいました。大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津が機内です。播磨は摂津に接しているが、畿内ではありません。が、播磨はボーダー(接点)の位置にありました。律令制度に先立つ古墳時時代、播磨の石棺や古墳からの出土品は畿内と似ており、明らかに西日本のものとは異なっています。この時代は、播磨は畿内の勢力下にあったのですが、都からは周辺部でした。この位置にある地域は、常に緊張した政治的状況にさらされていました。自らを維持するためには、湧き上がるエネルギーを必要としたのです。加古川地方は、古代より都の勢力と結びつきの強い地域でありながら、四国・吉備(岡山)の勢力と対峙する場所にありました。これは古代のことだけ...ぶらり散歩(10)ボーダーの地域

  • ぶらり散歩(9) 加古新村(現:稲美町加古)の誕生(4)・子孫には負担となる

    開発人の特権を認める議定證の第4項を読むことにします。概略は次のようです。(議定證:第4項)加古新村へ各々様(才兵衛・治兵衛・喜平次のこと)の村の百姓となり、開発された新田畑を私どもに、その身代相応に誰にでも割り付けくださり、感謝しております。その恩にむくいるため、各々様の持っておられる田畑の持ち高がどれほどであっても、各々様の諸役はもちろん、米銭の入用等は末世末代まで少しもお出しにならないで下さい。村中の者が持ち寄って負担します。もし、百姓が困るようなことがあっても、「協力してください」というような訴訟がましいことは、いっさい言いません。子孫には負担となるが、明治39年まで続くこの百姓の才兵衛らに対する約束も、時代がたち開発当初の事が遠い過去となった江戸時代の末期から明治時代になると、子孫にとっては大きな負担...ぶらり散歩(9)加古新村(現:稲美町加古)の誕生(4)・子孫には負担となる

  • ぶらり散歩(8)稲美町加古には寺がない ・移住者は、才兵衛・治兵衛・喜平次の旦那寺に

    加古土地改良区に、古文書「村方万事議定證(むらかた、ばんじぎじょうしょう)」(以下「議定證」とします)が保存されています。加古土地改良区で「議定證」(写真)を見せていただきました。変なおじさん(私)が、一緒ですがお許しください。いま、「加古新村の誕生」は、この議定證から加古新村の歴史を紹介しています。稲美町加古には寺がない移住者は、才兵衛・治兵衛・喜平次の旦那寺に(議定證:第5項)一宗旨の件ですが各々様(才兵衛・治兵衛・喜平次)と同じ禅宗になり、旦那寺も同じにしたいのでよろしくお願いします。神社や寺の守り札をいただいたりするのも、こちらからは一切口出しせず、三人様の指図どおりに致します。勝手に跡目を入れて、引っ越しをするようなことは致しません。これは兄弟・下人であってもお断りをし、帳面に書かれている外に、他所か...ぶらり散歩(8)稲美町加古には寺がない・移住者は、才兵衛・治兵衛・喜平次の旦那寺に

  • ぶらり散歩(7) 加古新村(現:稲美町加古)の誕生(2)・加古大池

    加古新村(現:稲美町加古)の誕生(2)姫路藩は、この新村の開発を進めるために援助をおしみませんでした。加古大池をつくる加古新村は、比較的順調に歩みだすことができました。これは、あまり他に例をみません。というのは、新しい村をつくるということは、池などを造り、まず水の確保がされなければなりません。新しく池などを造ると、既にある近隣の村では流れてくる水が少なくなります。当然のこととして抗議があります。加古新田の場合は、加古大池等を造りました。加古大池の水は、雨水だけでは当然足りません。草谷川からの水を使うことになります。草谷川の水は、川郷が水を使わない時期に加古大池に草谷川から水を引くとはいえ、水利権の一部を放棄したことになります。当然、下流の野村・下村・宗佐・船町・上西条・中西条などの草谷川の川郷からの抗議があるは...ぶらり散歩(7)加古新村(現:稲美町加古)の誕生(2)・加古大池

  • ぶらり散歩(6) 加古新村(現:稲美町加古)の誕生(1)

    加古新村(現:稲美町加古)の誕生(1)稲美町加古(旧加古新村)の話をしましょう。開拓許可おりる加古新村の開発は、万治元年(1658)加古才兵衛の開発願に始まりました。加古新村の開拓について『加古新村由来記』は、次のように記しています。「中西条村(現:加古川市八幡町)の才兵衛は、26才の時から、庄屋を勤めていました。村の東の広大な原野の開拓を考え、3年間、麦・稗・大豆・小豆などを植え、低いところには、稲の種を蒔いたところ実を結びました。さらに3年間、実際に住んで寒暑に耐えられることも確かめました。才兵衛は、上西条(現:八幡町)の喜平次に印南野台地の開拓を熱心に説きました。喜平次も賛同はしたものの、開拓のための資金が心配でした。才兵衛は、資金のことを親類の下村の治兵衛にも相談しました。彼も同意し、三人は印南野台地の...ぶらり散歩(6)加古新村(現:稲美町加古)の誕生(1)

  • ぶらり散歩(5) 新撰組・河合耆三郎粛清さる

    新撰組・河合耆三郎粛清さる文久三年(1863)の夏のある日、一人の若者が高砂の町から姿を消しました。彼の家は、この地方では誰知らぬ者のない蔵元(くらもと)であり、秋の収穫期になると威勢の良い現場監督として、堀川岸で活躍していました。その彼が、突然豊かな暮らしをなげうって姿を消したのです。やがて、京の新撰組に入り、サムライになったことが、風の便りに聞こえてきました。彼の名は、河合耆三郎で、武士として活躍したいと常々考えていました。新撰組のできたことを知り、いてもたってもいられなく、ついに高砂の町を飛び出しまたのです。彼は、蔵元の息子で、銭の勘定に明るいことを買われ、新撰組では勘定方(会計係)の仕事をまかされました。新撰組の規則は、他に例をみない厳しいものでした。慶応二年(1866)二月二日の朝のことです。前夜、タ...ぶらり散歩(5)新撰組・河合耆三郎粛清さる

  • ぶらり散歩(4) 三島由紀夫 i n 加古川(2)・召集令状届く

    三島由紀夫in加古川(2)召集令状届く由紀夫の二回目の加古川訪問は、入隊の時です。昭和20年2月4日、赤紙、召集令状の電報がありました。電文には、「本籍地(志方町)で入隊せよ」と書かれていました。東京を発つ時、微熱だったのですが、志方に着くにつれて熱は激しくなってきました。入隊地の現在の青野ヶ原へ出かけました。この時のようすも、「仮面の告白」から引用します。「・・・(入隊場所の青野ヶ原で)入隊検査で獣のように丸裸にされて、うろうろしているうちに、私は何度となく、くしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいう音をラッセル(異常呼吸音)と間違え、あまつさえ、この誤診が私のでたらめの病状報告で確認され・・・(省略)・・・私は、肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた。営門を後にすると私は駆け出した。・・・・」彼は、加...ぶらり散歩(4)三島由紀夫in加古川(2)・召集令状届く

  • ぶらり散歩(3) 三島由紀夫 in 加古川(1)・三島由紀夫の松 

    三島由紀夫in加古川(1)三島由紀夫の松(徴兵検査の場所)三島由紀夫は、東京生まれですが、祖父、定太郎が志方町生まれで本籍が志方町にありました。祖父は、政府の役人でほとんど東京住まいでした。父、梓は東京生まれで政府に勤めており、由紀夫も東京生まれで、志方が懐かしいという思いはなかったようです。三島由紀夫が加古川市志方町を訪れたのは二回のみです。一回目は、由紀夫に徴兵検査(昭和19年5月)の命令が来た時です。当時、徴兵検査は現住所か本籍地のどちらで受けてもかまわなかったのです。彼も父も何とか公威(由紀夫)の不合格になることを望んでいました。おしなべて体格のよくない東京での徴兵検査になれば合格率が高くなります。当時の由紀夫は体の貧弱な若者でした。父、梓はたくましい若者の多い本籍地・加古川で受験すれば不合格の可能性が...ぶらり散歩(3)三島由紀夫in加古川(1)・三島由紀夫の松

  • ぶらり散歩(2) 雪の鶴林寺

    雪の鶴林寺75才のお爺さんですが、今朝はうれしかったですね。起きると窓の外は雪景色。食事前に、鶴林寺へ出かけました。山門でハタと困ってしまいました。入山料(拝観料)を持ってきていません。山門から撮影しようとしましたら、料金所のお婆さんが「どうぞどうぞ」と拝観料なしに撮影ができました。今日の「ひろかずのブログ」は、説明なしです。雪の鶴林寺をご覧ください。(no4535)*写真:雪の鶴林寺◇きのう(2/10)の散歩(15.314歩)ぶらり散歩(2)雪の鶴林寺

  • ぶらり散歩(1) 「ぶらり散歩100」をはじめます

    「ぶらり散歩100」をはじめます「豊沢団平さんのこと」を急停車させ、いったん終えることにします。お読みいただきありがとうございました。次の話題を書きたくて終わることにしたのではありません。「地味な話題が続き、そろそろ〝ひろかずのブログ〟を読むのをやめようかな・・とお考えの方も多くなったのではないかと想像したからです。「ひろかずのブログ」は、今日でno4634号になりました。自分でも「よく続いている」と驚いています。そこで、今まで書いたら4634号から面白そうな記事をひろってみたり、新たなトリビアもどきを付け加えて書いてみようと思います。いま「ひろかずのブログ」は、加古川市の話題が多いですが、もちろん守備範囲は稲美町・播磨町・高砂市・加古川市です。とりあえず100号ばかりを考えています。「ぶらり散歩100」と題を...ぶらり散歩(1)「ぶらり散歩100」をはじめます

  • 豊沢団平さんのこと(13) 豊沢団平年譜(2)

    豊沢団平のことを年譜(1)・(2)で整理しておきます。豊沢団平年譜(2)明治10年58才文楽座を去り彦六座に移る明治26年67才11月千賀死去享年53才明治31年72才4月1日団平稲荷座の舞台に倒れ死去阿倍野に葬る昭和19年長男・平三郎が死去、遺族が常徳寺石碑に団平の名を刻む(no4633)*写真:豊沢団平◇きのう(2/8)の散歩(10.687歩)〈お願い〉「ひろかずの日記」http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。豊沢団平さんのこと(13)豊沢団平年譜(2)

  • 豊沢団平さんのこと(12) 豊沢団平年譜(1)

    豊沢団平のことを年譜(1)・(2)で整理しておきます。豊沢団平年譜(1)文政10年3月21日誕生団平寺家町西の町の醤油屋に生まれる天保6年9才入門天保9年12才三代目広助に入門、力松を名乗る天保11年14才天満の芝居に出演、初めて一場を持つ天保13年16才丑之助と改名天保14年17才三弦の横綱格となり、若太夫を弾く弘化元年18才豊沢団平を襲名長門太夫の合三味線となる嘉永2年21才母もと女死去(65才)安政元年28才妻、八重を娶る〃〃養父、安次郎死去(68才)万延元年34才初めて女児を得たが死産文久2年36才長男が生まれたが死去文久3年37才父平蔵作州にて死去(81才)慶応元年39才平三郎誕生慶応3年41才国吉誕生明治2年43才母八重死去八重死去後、千賀を娶る(no4632)*写真:豊沢団平◇きのう(2/7)の散...豊沢団平さんのこと(12)豊沢団平年譜(1)

  • 豊沢団平さんのこと(11) 院号は「調音院」

    団平の墓碑一代の名入団平が大往生をとげたのは明冶31年4月1日のことで、時に72才でした。安倍野の禅林寺に葬られました。団平はそこに眠っているのですが、団平の没後、襲名のことで問題をおこした仙左衛門が、明冶43年頃高野山に団平の墓碑を建てたとのことです。院号は「調音院」団平の長男平三郎が亡くなった後、昭和19年に遺族門弟衆が加古川常徳寺の父祖の墓畔に加古家霊位の碑を建て、これに団平の名を刻んでいます。法名は、大違絲道居士でした。団平の左は長男平三郎の法名です。(no4631)*写真:団平の墓碑(常徳寺)◇きのう(2/6)の散歩(10.698歩)豊沢団平さんのこと(11)院号は「調音院」

  • 豊沢団平さんのこと(10) 団平逝く

    団平逝く明治31年4月1日の舞台でした。団平の三味線の音はことに美しく、聞くものを感動せしめずにはおかなかったといいます。すでに、台本も残り一枚余となった8時30分頃のことでした。団平は、撥を持ったまま弦を弾こうともしません。その様子が尋常ではなかったので大隅太夫が「代り・・・代り・・・」と声をかけ、楽屋にいた門弟の豊沢龍助が羽織のまま舞台にかけ上って後を弾き継ぐ間に、門人が団平を左右より抱きかかえて楽屋へもどってきました。すぐに、診察をうけました。容体は急性悩充血ですぐに病院につれてゆくことになったのですが、運ばれていく途中、三休橋北詰派出所前で全く絶望となってしまいました。時刻は、10時30分でした。門弟等は涙ながら遺骨を清水町の自宅に運びました。団平はかねてから「撥をもったまま死にたい」と語っていましたが...豊沢団平さんのこと(10)団平逝く

  • 豊沢団平さんのこと(9) 逸話(2)・テンの音

    逸話(3)「テン」の音伊勢の桑名に二代目鶴沢寛治という三味線の名人がありました。団平が、まだ丑之助を名乗っていた時代のことです。寛治が、丑之助に三味線の秘訣を教えました。丑之助はさっそく、二挺の三味線をもって来ると寛治は、双方の調子を合わせて三味擦を下に置き、しばらく目つぶると「この音色をよく聞くように」といいながら、三の糸を指につまみ、手をはなすと、まことにさえてテンという音が生まれました。「若しこの音色が出る様になったら天下の名人級である。何度も、この音の出る様に工夫しなさい」と言って、その時は別れました。丑之助は、その後一心にこれ練習をしました、そのテンの音色は、なかなか出ません。より一層の練習に打ち込みました。それから、七年がたちました。桑名へ興行に行った折、団平は寛治を訪ねました。その時、寛治は自分の...豊沢団平さんのこと(9)逸話(2)・テンの音

  • 豊沢団平さんのこと(8)  逸話(1)

    名人豊尺団平については多くの逸話が残っています。そのうち二・三をここに紹介しておきましょう。(逸話1)船頭の教え若い20才前のころでした。団平は、義太夫の修行にたえきれずに、故郷の加古川へある日逃げて帰りました。そして再び大阪へ行く気力もなくて、ある日、加古川の渡し舟のりました。するとその老船頭が舟こぐ竿を使いながら、「今日は工合が悪い。きのう怠けて一日休んだらもう竿が思うように使えない」と呟く(つぶやく)のでした。それを間いた彼は、船頭でもそうだ。「浄瑠璃は、毎日の仕募で、一日休んでも腕が下る…」と反省し、再び大阪へ帰って修業を始めたということです。(逸話2)勝手に計算して持って帰ってんか団平は、稽古にいそがしい日日を送ったので借金取が来ても稽古が済むまで待ってもらっていました。そのうち借金取も何人かにふえま...豊沢団平さんのこと(8)逸話(1)

  • 三木歴史散策 in 高砂市

    三木歴史散策in高砂市今日は、2月24日(日)の歴史散策(「三木歴史散策in高砂市」)の下見を三木市の係の方と一緒にしてきました。当日が楽しみです。もちろん、歴史散策の目玉の松右衛門の旧宅にも寄りました。館長さんが「ひろかずのブログ」の「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」を読んでいただいていました。館長さんとお会いするのは初めてでした。感激でしたね。今後ともよろしくお願いします。*仕事がかさなり、原稿ができていなかったため「豊沢団平さんのこと」は、中断していました。明日から再開します。(no4627)◇きのう(2/2)の散歩(10.421歩)三木歴史散策in高砂市

  • 『加古川さんぽ~市内各町の歴史散歩~』製作中

    「毎日が日曜日」なんですが、今日だけは忙しかったため「豊沢団平さんのこと」の原稿が来ませんでした。そのため、「ひろかずの日記」とおなじ記事を掲載させていただきます。経過報告『加古川さんぽ~市内各町の歴史散歩~』製作中明日から、本格的な校正作業で~すいま、『加古川さんぽ‐市内各町の歴史散策‐』上・下二冊の編集作業を急いでいます。先日、原稿(表紙ともに)を2月中旬完成、3月中旬に製本完成の予定としました。こう決めておかないと、いつまでもだらだらと時間だけが過ぎていきそうです。今日(2/2)の午前中、参考図書を整理して纏めました。これで、まえがき(あとがき)・もくじ・内容(本文)・参考図書と原稿がだいたいできました。上巻・下巻合わせて300ページほどの冊子になります。明日から。校正に取り組みます。300ぺージを緊張し...『加古川さんぽ~市内各町の歴史散歩~』製作中

  • 1月の散歩

    2019年1月の散歩「目標:一日10.000歩」は達成することができました。お陰で風邪もひいていません。ご飯も美味しいです。この調子で2月もがんばりますか!そうしたら春です。1月の散歩1日(火)12.514歩自宅~播州大橋・自宅~長田公園2日(水)11.759〃自宅~大崎・自宅~稲屋3日(木)11.284〃自宅~ジョウシン電機・自宅~マックスバリュー4日(金)11.885〃自宅~鶴林寺~長田公園・自宅周辺5日(土)10.461〃自宅~長田公園・自宅周辺・鶴林寺周辺6日(日)13.383〃自宅~長田公園・自宅~稲屋~大崎7日(月)10.697〃平荘湖1周・自宅周辺8日(火)11.500〃自宅~新幹線側道で川岸~播州大橋~自宅9日(水)11.359〃自宅~鶴林寺~長田公園・アクトス周辺10日(木)10.667〃自宅...1月の散歩

  • 豊沢団平さんのこと(7) 仁兵衛と改名

    仁兵衛と改名団平は叔父安次郎方へ養子に入っていましたが、加古川の生家はいずれも他家へ養子に行ったものや、若くして亡くなる者が続出しました。母は、嘉永二年(1849)、姉は嘉永四年に亡くなり、父も作州(岡山県)に帰ってしまいました。加古家の血統も絶えてしまうようになりました。そのため、自らは大阪に住みながら、養家を辞して加古家を立てることとし、加古家の代々が仁右衛門を襲名したことから、その一字をとって仁兵衛と改名しました。もっとも、同音であるため仁平とも書かれたこともあったようです。芸界では、もっぱら仁兵衛でした。(no4624)*写真:自宅のタカサゴ・ユリ(1/31撮影)◇きのう(1/30)の散歩(12.848歩)豊沢団平さんのこと(7)仁兵衛と改名

  • 豊沢団平さんのこと(6) 千賀女との再婚

    千賀女との再婚千賀女(ちか)は、西陣の染物業沢田安兵衛の二女で備中松山の城主板倉周防守につかえ、一人の男子をもうけたが、周囲の妬みがきびしいので、暇を乞うて京都に帰り、茶屋家業を初めていたといわれています。しかし、千賀女の素性については異説もありはっきりしません。しっかりした真の強い人であったことは間違いなさそうです。当時、大坂義太夫弾の名人といわれる団平が妻を失い子供をかかえて困っている話を知って、団平の性行を承知の上で、自分の仰くべき人はこの人の他にはいないと自ら進んで団平の後妻に押しかけています。千賀女が家に入ってからは、二児の教育は元より、家事一切を引受けて世話をしました。そのため、団平は、安心して心のままに芸道に専念することができました。千賀女には、創作の才がありました。壷坂の台本は千賀女の手になるも...豊沢団平さんのこと(6)千賀女との再婚

  • 豊沢団平さんのこと(5) 団平、妻・八重を亡くす

    団平、妻・八重を亡くすそして、「ちか」と再婚若年ながら太夫の三味線弾きなったことで、女性からいろいろもてはやされました。しかし、なんとしても三味線いっさいの技能を極め、誰にもまけぬ境地に達したいと決心していたので女性のことで気をつかうようなことはあまりなかったようです。安政四年(1857)31才の時、高砂清水町に住んでいた佐藤市次郎の二女八重を娶りました。団平には、八重との間に平三郎と国吉の二人があったことに明かになっています。愛情は細やかで、常徳寺におさめられている位牌によれば、6人の子供をなしています。六人目に生れた女児の出産のために八重は31才で落命して母子ともなくなりました。八重がなくなった時、平三郎は5才、国吉は3才でした。団平は、芝居の出勤にも、弟子達の指導にも困って、その年は不明であるが贔屓の旦那...豊沢団平さんのこと(5)団平、妻・八重を亡くす

  • 豊沢団平さんのこと(4) 18才で文楽座に出演、 そして豊沢団平を襲名 

    弘化元年(1844)18才で文楽座に出演そして、豊沢団平を襲名団平は、平蔵の末っ子として文政10年3月21日、寺家町の醤油屋に生まれました。幼名は、丑之助とも力松といわれました。芸界に入った初めの名が力松で、常徳寺の記録は全部、丑之助です。竹本千賀太夫の養子となりましたが、千賀太夫のすすめで三代目豊沢広助に入門して三弦を始めました。そして、天保9年12才の春に力松を名のりました。一度三弦を習い始めると、人に倍して熱心であったので上達もいちじるしく、天保11年の春に天満の芝居に出、初めて三段目を弾く身になりました。弘化元年18才で文楽座に出て、豊沢団平を襲名し、長門太夫の合三味綜であった清七の代役をつとめています。清七が、遂に病に倒れたので長門太夫の所望とあって、多くの先輩をこえて名人長門太夫の合三味線となったの...豊沢団平さんのこと(4)18才で文楽座に出演、そして豊沢団平を襲名

  • 豊沢団平さんのこと(3) 団平の兄弟関係

    団平の兄弟関係団平の父平蔵は、当時の記録によると放埒で大酒を呑みでした。そして、遊興にふけって京の島原、大阪の新町あたりで名が知られた人物でした。その上に、義太夫浄瑠瑠を好み、多くの芸人を愛して、これがために家産は遂に散逸してしまったといいます。ですから、晩年尾崎村(岡山県)に帰って暮らしたのは、妻に先立たれ、我が身ひとりになったためばかりではなさそうです。団平の死亡当時の朝日新聞に書かれているのですが、団平の手記によると兄弟は二女であったと思へます。上の二人は女で、男は為次(為冶郎)と団平でした。為次郎は長男ではあったのですが、淡路の正井家に養子として行き、団平は叔父安次郎の養子となっています。嘉永四年四十八才で亡くなった二女の和佐のみが平蔵のもとにとどまっていたようです。(no4620)*今日は適当な挿絵・...豊沢団平さんのこと(3)団平の兄弟関係

  • 豊沢団平さんのこと(2) 団平は、寺家町で生まれる

    団平は、寺家町で生まれる団平は家寺町に生まれました。家は代代醤油屋であったといわれています。今の寺家町330番地を含む一角です。昭和39年当時、玉岡昌二氏によると四代前の健蔵氏の代に寺家町に出て来て、初めはその家の一部を借りて住居を初めたのですが、間もなくその家を買取ったとのことです。この家の裏に近年(昭和39年)まで醤油蔵であったかと思われる建物が残っていたのですが、腐朽のため倒壊して、今それをしのぶものは残っていません。父平蔵は作州(岡山県)尾崎村の竹内氏の次男として生まれ、加古家に入り養子となって仁右衛門を襲名しました。平蔵は、晩年尾崎村に帰っています。父、平蔵が作州へ帰った理由は、次号で考えましょう。団平の養父、加古安次郎の代になって、隣なる加古川町(寺家町)へ移転しました。その家は立派な大きな家でした...豊沢団平さんのこと(2)団平は、寺家町で生まれる

  • 豊沢団平さんのこと(1) 三宅周太郎さんのことの続きです

    *「三宅周太郎さんのこと(27)~(32)」の続きとしてお読みください。豊沢団平さんのこと(1)前回の「三宅周太郎さんのこと(32)・団平の死」で、このシリーズを終えました。そして、きのう(1/24)、次のブログの話題を計画していました。そんな作業中でした。「どこかで、豊沢団平さんのことを書いておられた方がおられた・・・・」と、ぼんやりと思い出しました。その時は、それ以上に記憶は戻ってくれませんでした。「75才のお爺さんじゃ仕方がない・・・」とあきらめていたのですが、昼すぎでした。突然、「ア!」「もしやして、永江幾久二さん(故人)の著書ではなかったか・・・」とひらめいたのです。というのは、永江さんは、生前、三宅周太郎さんと親交のあった方で、長らく加古川郷土文化協会を主宰されていた方でした。さっそく、永江さんの本...豊沢団平さんのこと(1)三宅周太郎さんのことの続きです

  • カバンや小物お土産に人気 :復刻版「松右衛門帆」の工場直売所

    今日(1/24)の神戸新聞東播版に「復刻版松右衛門帆、の工場直売場」の記事が掲載されています。工楽松右衛門の資料として掲載させていただきました。カバンや小物お土産に人気復刻版「松右衛門帆」の工場直売所江戸時代の古民家「工楽松右衛門旧宅」(兵庫県高砂市高砂町今津町)の一般公開を機に、松右衛門の帆布生地を再現したブランド「松右衛門帆」のかばんや小物の人気が高まっている。製造・販売会社「御影屋」は旧宅近くにあり、観光客の土産物として選ばれているという。「歴史のロマンを手元で感じて」とPRしている。(本田純一)松右衛門は発明家としても名を残し、北前船に使う丈夫な帆布を作り日本の海運発展に寄与した。太い糸を2本合わせて生地を織り、大きな織り目が柄にもなって立体感が出るのが特長という。「松右衛門帆」のかばんには、織り目を生...カバンや小物お土産に人気:復刻版「松右衛門帆」の工場直売所

  • 三宅周太郎さんのこと(32) 団平の死

    団平の死明治31年4月1日。場所は大阪の稲荷座。その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、聞き入る人々を魅了していました。九分どおり済んだと思われた時である、団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。71歳でした。三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としていました。粟津の常徳寺が加古家の菩提寺であり、団平はこの境内に眠っています。友達の理髪店に行きました。理髪店の裏が常徳寺です。(no4616)*写真:常徳寺の団平...三宅周太郎さんのこと(32)団平の死

  • 三宅周太郎さんのこと(31) 豊沢団平さんのこと:余話二題

    団平さんのこと:余話二題この辺で「三宅周太郎さんのこと」を追えますが、最後に余話を二つばかり付け加えておきます。その1:「豊沢団平生誕之地」の碑は残っていたたしかに団平さんの碑があったことを覚えています。場所も覚えています。だれかが、「むかし団平さんという人いて、その人はここで生まれたんや・・・」と教えてくれたからです。いつ・だれに聞いたかすっかり忘れました。その碑は小さな碑でした。文楽の研究家の「三宅周太郎さんのこと」を連載しながら、気になっていました。21日(月)の午後、その場所に出かけることにしました。場所は、加古川中央公民館の玄関から寺家町商店街への道があますが、商店街の道の10㍍ぐらい手前の左(西側)です。「もう50年以上前に見た小さな石碑ですから、もうないだろう・・・」とダメ元で出かけたのです。が、...三宅周太郎さんのこと(31)豊沢団平さんのこと:余話二題

  • 入館好調、観光拠点に 工楽松右衛門旧宅

    今日の神戸新聞東播版に「工楽松右衛門旧宅」の記事が掲載されています。工楽松右衛門の資料として掲載させていただきました。入館好調、観光拠点に工楽松右衛門旧宅昨年6月から一般公開されている兵庫県高砂市の工楽松右衛門旧宅が人気を集めている。入館者数は当初見込みの約4倍で、すでに3万人を突破。市外から訪れる客が多く、高砂観光の拠点になりつつあるという。関係者は「旧宅を核に、町をPRしたい」と意気込む。(本田純一)旧宅は江戸時代後期に建てられ、町の中心地だった南堀川の船着き場に面している。吹き抜けの土間や五つのかまどなどが残る。また外壁に古い舟板を再利用した「舟板塀」が見られるなど、海運で栄えた往時の高砂をしのばせる。昨年、旧宅や高砂神社常夜灯など4件が日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に追加認定され、古民家が多く残る旧...入館好調、観光拠点に工楽松右衛門旧宅