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加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪
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337回 / 365日(平均6.5回/週)

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ひろかずのブログさんの新着記事

1件〜30件

  • 大河・かこがわ(218) 江戸時代(12) 近世の高砂(12)・姫路藩の木綿

    姫路藩の木綿姫路藩では、正徳二年(1712)に木綿仲買株が設定されており、元文元年(1736)大坂に入荷した木綿の生産の中に「播磨」の名が見えます。また、後に播磨藩御用商人・六人衆に一人となる高砂の岸本家の祖は印南郡大国(現:加古川市西神吉町大国)で酒造業と木綿販売を家業としていましたが、享保年間(1716~36)に分家して高砂に進出し、木綿販売を続けました。ですから、正徳・享保年間のころに、すでに高砂でも木綿流通がみられていたようです。新しい経済政策・江戸へ綿布を直送するしかし、木綿の作付けや木綿の流通が急増するのは19世紀以後のことです。つまり、河合道臣(後の寸翁)が木綿を専売制に着手した時期と重なります。播磨の木綿産地の中心地は加古・印南(いんなみ)郡でした。そのため、高砂に周辺地域から相当数の木綿(綿布...大河・かこがわ(218)江戸時代(12)近世の高砂(12)・姫路藩の木綿

  • 大河・かこがわ(217) 江戸時代(11) 近世の高砂(11)・木綿を藩の専売品に

    木綿を藩の専売品に江戸時代の後期、姫路藩は73万両という膨大な負債に苦しんでいました。家老・河合道臣(後の寸翁)の仕事は、なによりもこの負債を少しでも減らすことでした。道臣は、姫路木綿を大坂の商人を通さず、江戸へ直接販売できないかと考えました。しかし、姫路藩は大坂商人から膨大な借金を重ねていました。そのため、姫路藩は、大坂商人を通さないで自由な商業活動はできなかったのです。江戸は大消費地であり、姫路木綿は品質もよく大量の販売が見込まれました。しかし、多くの地元の木綿業者や藩の役人は、大坂商人を恐れて、不満を持ちつつも、なかなか道臣の案に協力しませんでした。と、いうよりも協力できなかったのです。*小説ですが、河合寸翁の経済政策について、『姫路藩・凍って寒からず(寺林峻)』(文庫『河合道臣』PHP文庫)をお読みくだ...大河・かこがわ(217)江戸時代(11)近世の高砂(11)・木綿を藩の専売品に

  • 大河・かこがわ(216) 江戸時代(10) 高砂の近世(10)・江戸時代の初期は、大開発の時代

    江戸時代の初期は、大開発の時代江戸時代のはじめ、新田開発がずいぶん行われ、耕地は広がりました。江戸時代初期は、大開発の時代で、日本の農村の原風景がつくられたのはこの時代です。とりわけ、印南郡・加古郡の平野部・台地部では加古新田(現:加古郡稲美町)をはじめ大規模な開発がおこなわれました。また、明暦4年(1658)の益田堤の築堤により、加古川の西岸部に新田開発が拡大しました。江戸時代中期の新田開発は停滞江戸時代初期には、これら新田の開発により、米の増産がありましたが、中期以降これら新田の開発は停滞します。あまりにも急激な、新田開発のために水不足の問題がおこりました。つまり、急激な開発が続けば、水不足で共倒れがおこりました。そのため姫路藩でも、中期以降は新田開発も積極的に行われていません。しかし、江戸時代の中期以降は...大河・かこがわ(216)江戸時代(10)高砂の近世(10)・江戸時代の初期は、大開発の時代

  • 大河・かこがわ(215) 江戸時代(9) 近世の高砂(9)・高砂の綿作

    高砂の綿作高砂地方の木綿の話をしましょう。木綿も米・塩と並んで高砂の重要な積み出し商品でした。綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河(愛知県)に伝えられたのが最初であるといわれていますが、栽培技術が伴わずその時は絶滅しました。その後、綿作は、文禄の頃(1592~96)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地になりました。木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立ちました。江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになりました。姫路木綿は、品質がよく、市川や加古川の水質が木綿を晒すには適していました。姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、...大河・かこがわ(215)江戸時代(9)近世の高砂(9)・高砂の綿作

  • 大河・かこがわ(214) 江戸時代(8) 近世の高砂(8)・高砂塩の盛衰

    高砂塩の盛衰荒井の塩業は、ずいぶん盛んであったのですが、18世紀の前半より急速に衰えていきました。原因として、次のような理由が考えられます。最大の原因は、加古川の水流と堆積作用により、塩の付き具合が悪くなり、塩の生産効率が低下したためです。そのため、塩田経営の中心地は、しだいに加古川の影響の少ない曽根・大塩・的形に移っていきました。そして、荒井の塩田は、宝永年間(1704~11)までに大半が田畑にかわりました。高砂から、多くの塩浜が消えていったのですが、衰えたとはいえ18世紀後半においてもわずかであるが続いていました。曽根町では、昭和20年代まで残っていました。塩田(荒井村)の発達した理由荒井村で、比較的に早く塩田が開発されたのは高砂の浜が遠浅で地理的な条件が良かったともさることながら、荒井村で開発された入浜式...大河・かこがわ(214)江戸時代(8)近世の高砂(8)・高砂塩の盛衰

  • 大河・かこがわ(213) 江戸時代(7) 近世の高砂(7)・高砂の塩・塩物

    高砂の塩・塩物江戸時代の高砂は、加古川河口の商品の集散地として栄えました。前号でも紹介したように、高砂は、もともとは、蔵米(年貢米)の積み出し地として建設された港町であったため、取扱品の中心は年貢米でした。これら年貢米は、高砂の大蔵元を通じて売りさばかれました。ところで、米に次ぐ高砂港の主要作物は、何だったと想像されますか。ある時期まで、なんと塩(物)でした。『高砂雑誌』によると、「・・・赤穂の人・赤穂屋徳兵衛は塩業に精通しており、領主・池田輝政の命によって高砂に来て塩の問屋をいとなみ、江戸時代初期の頃、荒井・小松原の一帯はほとんど塩田になり、販路を京阪の地に求めて、荒井塩の名は名声を高めた・・・」と記しています。やがて、高砂における塩業は、加古川の舟運と共に加古川の奥地にまで広がりました。元文年間(1761~...大河・かこがわ(213)江戸時代(7)近世の高砂(7)・高砂の塩・塩物

  • 大河・かこがわ(212) 江戸時代(6) 近世の高砂(6)・年貢米の集散地からスタート

    高砂は、年貢米の集散地からスタート近世の高砂は、加古川河口の商品集散地として繁栄してきた港町でした。もともと、蔵所・蔵米津出地として建設された港町で、取扱品の中心は年貢米でした。加古川流域には流域藩領の他に、多くの大名領・旗本領が入り組んでおり、その数は20余家にもなっていました。元治元年(1864)のある記録によると、高砂に集まった姫路藩米・他藩の大名米・旗本米の合計は65万5000石で、うち8割強が姫路藩領の年貢米によって占められていました。これらの多くの年貢米が高砂に集荷され、大蔵元によって売りさばかれたのです。年貢米の多くは高砂で売りさばかれる「姫路米の行き先は、これまで大坂で売りさばかれた」とするのが大方の説でした。ところが、文化十二年(1815)十月の「高砂南卸蔵出米控帳」によると、大坂廻米のほかに...大河・かこがわ(212)江戸時代(6)近世の高砂(6)・年貢米の集散地からスタート

  • 大河・かこがわ(211) 江戸時代(6) 近世の高砂(6)・高瀬舟が運んだもの

    加古川の流れと高砂の町高砂の町場がつくられました。江戸時代の高砂は、加古川の流れをぬきに語ることはできません。高砂の町の特徴は、加古川の広大な後背地を持っていたことです。高砂は、商品経済の発達にともない、高瀬舟による加古川の舟運の役割は、ますます大きくなりました。高瀬舟の本来の役割は、年貢米を高砂へ運ぶことであったのですが、加古川の流域で産出された、さまざまな商品が高砂に運ばれました。また、高砂に集まった商品は、流域の各村々に運ばれました。どんなものが高瀬船で運ばれたのか主な商品は次のようです。◇下り荷物(高砂へ運ばれたもの)木工品・・・・・木材、タンス、下駄、桶、樽など生活用品・・・・薪、炭、紙、綿など食料品・・・・・米、芋、茶、梨など◇上り荷物(上流の村々に運ばれたもの)農具・・・・・水車、唐箕(とうみ)な...大河・かこがわ(211)江戸時代(6)近世の高砂(6)・高瀬舟が運んだもの

  • 大河・かこがわ(210) 江戸時代(5) 近世の高砂(5)・高砂の町割り

    高砂の町割り寛永3年(1626)、高砂町の町割りが完成しました。図は、「近世元禄の頃の高砂の町図」です。なお、『高砂誌』によれば、高砂の町割りを担当したのは尾上左近右衛門中須又右衛門でした。市街地の南部は、魚町・釣舟町・漁師町・戎町など漁業従事者の町、船頭・船持水主(かこ)・仲仕人夫等の渡海町などで構成されています。しかし、港町高砂の中心地は高砂川・南堀川に沿う東浜町・南浜町・材木町・今津町で、ここは、高砂町の玄関口で、船着き場・荷揚場の他、問屋の蔵が建ち並び、賑わいのある問屋街でした。飾磨と共に姫路藩の経済を支える東浜町の向いの北堀川を渡ると、南北の御津留穀留番所がありました。なお、北堀川に沿っての町は高瀬町です。これは、加古川筋に姫路藩、その他の藩の年貢の輸送に当たった高瀬船にちなむ町名と思われます。このよ...大河・かこがわ(210)江戸時代(5)近世の高砂(5)・高砂の町割り

  • 大河・かこがわ(209) 江戸時代(4) 近世の高砂(4)・ 政治都市から経済(商業)都市へ

    政治都市から経済(商業)都市へ江戸時代に繁栄した29ヵ町からなる高砂の町並みは、元和三年(1617)に姫路藩主となった本多忠政によってつくられたものです。元和の「一国一城令」に従って、高砂城が破却されたあと、その跡地には築城以前に、そこあった高砂神社が元の場所に戻され、神社の周辺に新たに町割りがなされて町人たちに屋敷地として与えられました。家を建てない場合は没収その時の「定書」の写し(写真)が『加藤家文書』に残されています。これには①高砂の町人を優先し、他所の者へはそのあとにすること、同じ屋敷地で競合した場合はくじ引きにすること。②屋敷地を与えられても家を建てない場合は没収して別の者に与えること。③屋敷の分議にあたっては高砂年寄(有力者)であっても「えこひいき」があれば直訴することなどが定められています。ここで...大河・かこがわ(209)江戸時代(4)近世の高砂(4)・ 政治都市から経済(商業)都市へ

  • 大河・かこがわ(208) 江戸時代(3) 近世の高砂(3)・高砂城、慶長17年の頃に造られた?

    高砂城、慶長17年の頃に造られた?高砂が近世の都市として成立したのは、姫路藩主となった池田輝政の高砂築城にはじまりました。(*戦国時代の高砂城は、荒井町小松原と思われる)おそらく、慶長六年から十四年にかけての大規摸な姫略築城が一段落したのち、高砂築城に着手したのでしょう。『慶長播磨国絵図』(天理大学図書館蔵)に城と高秒町が描かれています。ただし、その規模は不明で、はっきりとしていません。高砂は、城下町として出発したが!姫路藩主・池田輝政の時代に、現在の加古川の河口に高砂城が造られました。城下町は、現在の高砂神社を中心とする高砂町(たかさごまち)でした。もう少し、図の説明をしておきます。図は、近世の高砂の町場の図です。城下町から港(商業)町へ高砂の町は、姫路に次ぐ城下町として発展する予定でした。が、一大事件がおき...大河・かこがわ(208)江戸時代(3)近世の高砂(3)・高砂城、慶長17年の頃に造られた?

  • 大河・かこがわ(207) 江戸時代(2) 近世の高砂(2)・今津町は、現・加古川市尾上町から移住者のつくった町

    今津町(2)今津町は、現:加古川市尾上町からの移住者のつくった町前号の「慶長播磨絵図」は、江戸時代が始まって間もない頃につくられた絵図です。この絵図の加古川河口左岸に「今津村」の記載があります。中世の頃、今津村のあった加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていたといいます。その今津村に慶長6年(1611)、藩主(池田輝政)から通達(図)がありました。内容は、「高砂村へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものでした。*なお、この通達文(池田輝政定)は、『高砂市史(第五巻・資料編(近世)』p154に解読文があります。詳しくは、それをご覧ください。中世に栄えた今津村(現:加古川市尾上町)も、この頃になると砂の堆積により、その機能を失ないつつあったのです。...大河・かこがわ(207)江戸時代(2)近世の高砂(2)・今津町は、現・加古川市尾上町から移住者のつくった町

  • 大河・かこがわ(206) 江戸時代(1) 近世の高砂(1)・今津町(1)

    1580年三木城は落城し、城主・別所治は自害しました。これが、東播磨の中世のおわりです。以後、高砂は急速に発展しました。高砂の話をしましょう。今津町(1)地図で、「今津町」を捜してください。中世の「今津」は、現:加古川市尾上町『近世の高砂』(高砂市教育委員会)に、次のような記述があります。(一部書き改めました)「・・・中世の高砂は、播磨五泊の一つに数えられ、内海の寄港地としての地位を固めていた。ところが、この中世の高砂の泊(港)は現在の高砂の地ではなく、「播磨名所巡覧図絵」でも「今津の浦口」とあるように、加古川左岸の池田(加古川市尾上町)付近をさしていた・・・」(『近世の高砂』より)つまり、中世の今津(現:加古川市尾上町池田)は、「今津千軒」とよばれ、内海の寄港地として大いに賑わっていました。しかし、加古川河口...大河・かこがわ(206)江戸時代(1)近世の高砂(1)・今津町(1)

  • 大河・かこがわ(205) 加古川の中世 阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)

    秀吉・信長に攻められた神吉城跡は、現在の常楽寺です。常楽寺(東神吉町)に残る「女人来迎」を余話として紹介しておきましょう。当時(鎌倉・室町時代)、女人は、男子より穢れており、「変成男子(へんじょうなんし)」という考えが一般的でした。女性は、成仏でるが、そのままでは無理で、いったん男性に変身して姿かたちが男性にかわり、その後極楽への往生が可能とされていたのです。阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)日本仏教説話では、死後初七日(しょなぬか)からはじまって33回忌まで、さまざまな冥界(めいかい)の王や仏に出会うといいます。まず、死ねば閥魔王(えんまおう)の裁きを受けるとされました。あの世があるならば「地獄」より「極楽」を願うのが人情です。女性の往生を描く東神吉町にある常楽寺(浄土宗の寺)に、嫌倉時代末期から南北朝時代にかけ...大河・かこがわ(205)加古川の中世阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)

  • 大河・かこがわ(204) 戦国時代(20) その後の加古川城主・糟谷武則

    その後の加古川城主・糟谷武則志方城落城後、秀吉軍は三木城を攻め立てます。そして、三木城は陥落し、三木城主・別所長治は自害します。加古川城主・糟谷武則は、加古川地方の城主としては、唯一、織田(豊臣)方として戦いました。その後の糟谷氏の運命を紹介しておきましょう。加古川城主の糟谷武則は、賎ケ岳の戦後も秀吉方の武将として、数々の戦役に出陣しました。徳川家康と戦った小牧の役(天正13年)、小田原の役(天正18年)、そして朝鮮への侵略、世に言う「文禄の役」では晋州城攻撃にも参戦しました。武則は、秀吉の栄達とともに出世しました。が、関ケ原の合戦では西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃しました。加古川城廃絶「賎ケ岳七本槍」で活躍した武将たちは、武則をのぞき、みな東軍(家康方)に味方しています...大河・かこがわ(204)戦国時代(20)その後の加古川城主・糟谷武則

  • 大河・かこがわ(203) 戦国時代(19) 高砂城の攻防

    高砂城の攻防高砂城の話です。『播州太平記』から高砂城の戦いを再現します。が、この本は物語性が多く、実態はよくわかりません。とにかく、高砂城は秀吉軍に敗れました。・・・秀吉は、三木城を攻めようと、三木城の東にある平井山に陣を置いて、三木城を兵糧攻めにする準備にとりかかりました。高砂城がじゃまになります。高砂城主・梶原景行は、別所氏とは親密な関係にありました。景行は、毛利とひそかに連絡をとり、海上から加古川を登り、美の川を経て三木城へ兵糧を運びこもうとしました。天正六年(1578)十月十八日、秀吉軍の攻撃が始まりました。秀吉軍は、高砂城に火をつけました。その時、毛利の援軍が波をけたててやって来ました。秀吉の兵は、梶原軍と毛利軍に挟まれ、ほとんどが打ち取られ、残った兵は今津(現:加古川市尾上町)へ逃れたといいます。高...大河・かこがわ(203)戦国時代(19)高砂城の攻防

  • 大河・かこがわ(202) 戦国時代(18) 志方状の戦い(2)・志方城の戦いはあった

    志方城の戦い(2)・志方城の戦いはあったが戦闘には、戦力だけでは判断できない要素もあります。「志方城(右図:木内内則作)の戦いは、確かにあった」と考えます。その理由として、播磨地域の情勢をみておきます。播磨は、浄土宗・浄土真宗の影響が強い地域です。信徒は「主君と自分とは現世だけの契りであるが阿弥如来との契りは未来永劫の契りである。主君よりも信仰の方が大切である」と考えます。もし、戦わずして信長方に敗北を認めるとなると、家臣・領民の支持を一挙に失いかねません。石山本願寺は、信長軍と壮烈な戦いをしています。志方地域からも多くの者が本願寺の支援に出ています。信長は、まさに仏敵であり悪魔でした。また、志方城から家臣たちも三木城を支援しており、三木城にも多く籠城しています。最初から戦わず信長側につく雰囲気にはありません。...大河・かこがわ(202)戦国時代(18)志方状の戦い(2)・志方城の戦いはあった

  • 大河・かこがわ(201) 戦国時代(17) 志方城の戦い(1)

    志方城の戦い(1)神吉城は落城しました。信忠(信長の長男)は、神吉城を叩き潰しました。引き続き、信忠は大軍を率いて城主・櫛橋政伊(くしはしまさこれ)の志方城へ攻め寄せました。この時、官兵衛は加古川にはいません。したがって、官兵衛は自分の妻の実家・志方城を攻めるという苦痛から逃れることができました。守る志方の兵は1000人。志方城の戦いはあったのか?志方城の攻防についての詳細はよくわかりません。以前、あるところで「志方城の戦いはなかった」と言う説を紹介したことがあります。そう考えたのは、志方城に先立つ神吉城の戦いでは、織田軍に押しつぶされ、城主(神吉頼定)も討たれました。その時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。野口城の戦いでも援軍はありませんでした。志方城の戦いでも援軍は期待できませ...大河・かこがわ(201)戦国時代(17)志方城の戦い(1)

  • 大河・かこがわ(200) 戦国時代(16):450年前の石垣保存へ 

    以下は、2016年9月23日の神戸新聞の記事です。余話として掲載させていただきました。450年前の石垣保存へ加古川・神吉八幡神社兵庫県加古川市西神吉町宮前の神吉八幡神社境内にある、最後の神吉城主、神吉頼定(よりさだ)の父頼経(よりつね)が寄進したとされる約450年前の石垣の一部保存が進んでいる。同神社は来年5月の国恩祭に向けた改修で解体を検討したが、郷土史家らが重要性を確認。計画は変更された。(津田和納)石垣は昨年11月、地域の歴史に関心を持ち調べている籠谷(かごたに)ツルヱさん(66)=高砂市北浜町=が確認した。神吉八幡神社の元総代、神吉省象さん(88)と偶然出会い、話をするうち、石垣の存在を知り、夫の照弘さん(69)と石垣の場所に向かった。松などが、うっそうと茂る雑木林の中に縦7メートル、横15メートルにわ...大河・かこがわ(200)戦国時代(16):450年前の石垣保存へ

  • 大河・かこがわ(200) 戦国時代(16) 余話:450年前の石垣保存へ          加古川・神吉八幡神社

    450年前の石垣保存へ加古川・神吉八幡神社兵庫県加古川市西神吉町宮前の神吉八幡神社境内にある、最後の神吉城主、神吉頼定(よりさだ)の父頼経(よりつね)が寄進したとされる約450年前の石垣の一部保存が進んでいる。同神社は来年5月の国恩祭に向けた改修で解体を検討したが、郷土史家らが重要性を確認。計画は変更された。(津田和納)石垣は昨年11月、地域の歴史に関心を持ち調べている籠谷(かごたに)ツルヱさん(66)=高砂市北浜町=が確認した。神吉八幡神社の元総代、神吉省象さん(88)と偶然出会い、話をするうち、石垣の存在を知り、夫の照弘さん(69)と石垣の場所に向かった。松などが、うっそうと茂る雑木林の中に縦7メートル、横15メートルにわたって周辺の石垣と石の色や形が異なる一部分に行き当たった。ひときわ大きな石に文字が掘ら...大河・かこがわ(200)戦国時代(16)余話:450年前の石垣保存へ加古川・神吉八幡神社

  • 大河・かこがわ(199) 戦国時代(15) 神吉城の戦い(5)・神吉城落城

    激戦も大詰めを迎えました。信長側の記録である『信長公記』を読んでおきます。神吉城落城(『信長公記』より)・・・7月15日夜、淹川一益・丹羽長秀両軍の攻め口から神吉城東の丸へ突入し、16日には中の丸へ攻め込みました。(信長軍は)敵将、神吉則実を討ち取り、天守に火をかけました。敵味方入り乱れて火花を散らし、その間に天守は焼け落ち、敵(神吉)方の将兵過半数が焼死しました。西の丸は荒木村重が攻めました。ここには、城主の叔父の神吉藤大夫が立て寵もっていました。藤大夫が降参の申し入れをしてきたので、佐久間信盛・荒木村重の二人が斡旋し、信長はこれを聞き届けた。藤大夫は赦免され、隣の志方の城へ退去しました。・・・城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して、落城したと記しています。神吉城落城は、頼定の叔父神吉藤大夫のうらぎりか?『...大河・かこがわ(199)戦国時代(15)神吉城の戦い(5)・神吉城落城

  • 大河・かこがわ(198) 戦国時代(14) 神吉城の戦い(4)・激しい神吉城攻めの理由とは?

    激しい神吉城攻めの理由とは?信長が、なぜ、こうまでして大部隊を神吉城(図・木内内則作)攻めに投入したのでしょう。実は、権力者の体面に関わる事件が、播州で続いたのが、その主な理由でした。これまで友好関係にあった別所が、突如信長にそむき、毛利に走りました。また、尼子一族の上月城が、毛利の大軍に囲まれましたが、圧倒的な武力を誇る信長軍でも三木城(東播州)と上月城(西播磨)の二方面作戦を強いられるため、尼子一族を見捨てたことです。さらに、秀吉が三木城外で、東播磨の連合軍の夜襲を受け、見るも無残な惨敗を被ったこの三点が神吉城へ、大軍勢を投入した主な理由でした。これらの屈辱に信長の怒が爆発しました。(織田)信忠は何の戦果を挙げることなく、手ぶらで播州を引き上げるわけには行きません。見せしめのためにも神吉一族を抹殺することで...大河・かこがわ(198)戦国時代(14)神吉城の戦い(4)・激しい神吉城攻めの理由とは?

  • 大河・かこがわ(197) 戦国時代(13) 神吉城の戦い(3)・神吉城は反撃するも

    神吉城は反撃するも6月27日、(信長軍は)神吉城を攻めたてました。北から東の山へかけて、織田信忠(信長の長男)・織田信孝(信長の三男)・細川藤孝等が前後左右何段にもなって陣を布き、神吉城の北の志方の城に対しては、織田信雄(信長の二男)が陣取りました。また、丹羽長秀等は、備えとして西の山に陣を布きました。滝川一益・稲葉一鉄・筒井順慶・明智光秀・荒木村重らは神吉の城へ激しく攻めよせ、たちまちに外構えを攻め破って裸城にしてしまいました。織田信孝は、足軽と先を争って戦い、苦戦で、負傷・戦死が若干ありました。しかし、一挙に攻略できそうにもなかったので、この日は攻撃をゆるめ、翌日、銃弾よけの竹束を持って、本城塀際まで詰め寄り、埋め草で堀を埋め、築山を築いて攻め立てました。神吉城は、南の方が手簿であったので織田信包(のぶかね...大河・かこがわ(197)戦国時代(13)神吉城の戦い(3)・神吉城は反撃するも

  • 大河・かこがわ(196) 戦国時代(12) 神吉城の戦い(2)・神吉戦はじまる

    神吉戦はじまる(天正6年6月25日・旧暦)天正6年(1578)6月25日の早朝、戦闘がはじまりました。総大将(織田)信忠が、軍配を反しました。織田勢は、大国集落と岸集落の二ヵ所から仕掛けてきました。大国地区に結集した織田軍は、我先にと川に水しぶきを上げました。続々と騎馬武者が川中に突入し、さらに水しぶきを巻き上げ、中洲に乗り上げ、突進しました。これを迎える神吉勢は、恐怖で顔は引きつり、壁に身を沈め、必死に恐怖を押しのけ、銃口を突き出しました。神吉城のゲリラ作戦織田軍の騎馬武者か荒井川に乗り入れました。騎馬が突進した浅瀬の中ほどは、人の膝下まで水嵩があって流れは早い。それでも、騎馬武者は先を競って押し寄せてきます。一群の騎馬隊で、荒井川か黒く塗りつぶされた。川の半ばを越え、突進した先頭の騎馬が、グラッと傾き、よろ...大河・かこがわ(196)戦国時代(12)神吉城の戦い(2)・神吉戦はじまる

  • 大河・かこがわ(195) 戦国時代(11) 神吉城の戦い(1)・信長軍、神吉城を攻撃

    信長軍、神吉城を攻撃天正6年(1578)6月25日、野口城攻撃の後、信長は神吉城攻撃を命じました。神吉の風景と政治情勢を確認しておきます。当時の風景です。神吉城の南(現在の神吉町と西井ノ口の間)を、加古川の支流の荒井川南西の方向に流れていました。政治情勢は、この時、信長は、秀吉を一旦、但馬(竹田城)に左遷しました。その理由は、播州経営の失敗でした。従って、秀吉・官兵衛は、一端姿を消し、神吉戦に秀吉・官兵衛の姿はありません。信長軍は、どの方向から攻めてくるか?神吉城として大問題は、「どの方角から織田軍が神吉城を攻めて来るか」ということでした。大方の予想は、加古川を北上し、日岡山を過ぎた池尻辺りの浅瀕を渡河するという意見でした。とすれば、南側の荒井川方面での備えは無駄になるばかりか、一戦も交えず敵の攻撃を受けます。...大河・かこがわ(195)戦国時代(11)神吉城の戦い(1)・信長軍、神吉城を攻撃

  • 大河・かこがわ(194) 戦国時代(10) 余話:鶴林寺に残る禁制

    鶴林寺に残る禁制時代は戦国時代の終わりの頃、天正6年(1578)です。東播磨地方が、信長・秀吉の支配に入るか、それとも中国地方に勢力を持つ毛利の勢力下に入るかを決する戦が、加古川地域で展開されました。当時、東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下にありました。加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏のみが、秀吉方に味方でした。しかし、野口・神吉・高砂・志方城の結束は強く、三木方に味方でした。秀吉は、勢力を持つ寺院等も調略した。ここに一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺に残されています。容は、次のようです。鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる軍勢が一般人に乱暴を働くこと陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること田畑を荒らすことこれらに違反するものは速やかに厳罰に処す天正六年三月二五日筑前守(*秀吉のこと)秀吉は、鶴林寺の調...大河・かこがわ(194)戦国時代(10)余話:鶴林寺に残る禁制

  • 大河・かこがわ(193) 戦国時代(9) 野口城の戦い(2)・なぜ、野口城が最初に狙われたか?

    なぜ、野口城が最初に狙われたか?天正月6年4月3日、三木城を取りまく諸城の攻撃の火蓋が野口城の攻撃から始まりました。早朝より攻撃が開始され、秀吉軍は、3000の兵で攻めたてました。この戦いで糟谷武則は、初陣でした。それにしても、「なぜ野口攻めから始まったのか?」と言うことが疑問でした。理由として考えられるのは、①街道筋の城である、交通も発達しており経済に豊かな土地である。②城の規模が比較的小さく、比較的攻めやすく成果を上げるのに適当である、と考えていました。野口城孤立、そして破れる(野口城戦では、三木側からの援軍はありません)・・・・三日目でした。野口一帯をおおう煙の海を泳ぎ渡るように、新たな兵力が攻囲軍の後方に迫りました。「待ち続けた味方、の援軍がとうとう着いたぞ」「見殺しにされるかと案じていたが、これで助か...大河・かこがわ(193)戦国時代(9)野口城の戦い(2)・なぜ、野口城が最初に狙われたか?

  • 大河・かこがわ(193) 戦国時代(8)・野口城の戦い(1)

    野口城の戦い(1)秀吉軍は、三木城の勢力を、簡単に考えていたようです。しかし、三木城攻撃の初戦で手痛い敗北を喫しました。秀吉は、三木城をとりまく城を攻撃し、城を裸にしてしまう作戦に変更しました。最初に狙いを定めたのが野口城でした。野口城の城主は、長井四郎左衛門政重です。そこへ、秀吉軍は手持ちの兵3000人で攻めたてました。対抗する野口方は、軍勢380人に近在の農民、教信寺の僧兵を加えた600人が城にたてこもったといいます。野口の地形話は、すこし、野口合戦をはなれ地形の話です。中部中学校の東に駅ヶ池(うまやがいけ)があります。印南野台地は、一般的に水が得にくい土地柄で開拓が遅れましたが、この辺りばかりは、地形が西と南に低く、北と東が高く、印南野台地の西の端にあって、水が集まる場所でした。雨が多い時は、ここに水が集...大河・かこがわ(193)戦国時代(8)・野口城の戦い(1)

  • 大河・かこがわ(192) 戦国時代(7)・加古川評定(2)・評定は決裂

    加古川評定(2)・評定は決裂天正6年(1578)2月23日、秀吉は、評定のために7500人を率いて加古川の糟谷の館(加古川城)に向かいました。この加古川評定は、毛利攻めの方策を論じる軍評定のはずでした。別所は、長治の名代として、叔父の賀相と三番家老の三宅治忠、を評定へ送り込みます。その他、東播磨の主だった城主、神吉城(神吉頼定)、野口城(長井艮重)、英賀城(三木通秋)、石守城(中村重房)、瑞谷城(衣笠範景)、魚住城(魚住頼治)・阿形城(油井勝利)、高砂城(梶原景行)、志方城の輝橋伊定、淡河城(淡河定範)らは、加古川評定に加わりました。しかし、播州の二大勢力の当主・三木城主(別所長治)、御着城主(小寺政職)の姿はありませんでした。三木・別所氏が信長方に味方すれば、他の領主もそれに倣ったかもしれません。しかし、三木...大河・かこがわ(192)戦国時代(7)・加古川評定(2)・評定は決裂

  • 大河・かこがわ(191) 戦国時代(6)・加古川評定(1) 

    加古川評定(1)時は、信長・秀吉の時代です。当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大阪では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗して、身動きがとれません。その時、石山本願寺を支援していたのが、毛利氏でした。やがて、播磨を舞台に信長軍と毛利軍人の激しい戦いが展開されます。当時、野口・神吉・加古川・志方(以上加古川市)・高砂の諸城は、三木の別所氏の支配下にありました。天正5年(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届きました。内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」というものでした。城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才でした。やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東にある称名寺が加古川城跡・写真)で開かれました。信長側からは秀吉が、そして三木側からは城主・長治に...大河・かこがわ(191)戦国時代(6)・加古川評定(1)

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