chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 玉祖神社(山口県防府市大字大崎1690)

    訪問日令和5年5月31日久し振りに宇佐神宮にでも行ってみようかと思っていたが、強い雨が降っていたので止めた2・3日雨予報だったこともあり九州を離れることにした玉祖神社(たまのおやじんじゃ)周防国一宮ということで訪れた「たまそ神社」と思い込んでいたが「たまのおや神社」という読むことを今知った旅の途中でいつの間にか「一宮を巡る旅」が加わったがこれが結構楽しく気に入っている雨上がりに訪れたが綺麗に清掃されていて気持ちがいい狛犬1制作年は分からないが風雨に曝され、穏やかでユーモラスな表情になっている神門体重過多による膝痛のためしゃがんで撮ることなどめったにないがこの景色が気に入ったのか撮っているこの時はまったく知らなかったが、神紋は、亀甲紋様の周りに曲玉が3つ祀られている神は三種の神器の一つ八尺瓊勾玉(やさかにの...玉祖神社(山口県防府市大字大崎1690)

  • 柞原八幡宮(大分県大分市大字八幡987)

    訪問日令和5年5月29日柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)豊後国一宮この神社を訪れる前に参拝した神社「西寒多(ささむた)神社」も同じく豊後国一宮互いに豊後国一宮を主張していたというのも面白い案内板の日暮門近くの駐車場を探したが、農道・林道に迷い込み酷い目にあったこの案内板の前に三度目に来たときにバイクに乗った女性に声を掛けた近い場所に駐車場はあるが、初めてなら石段をお勧めしますと言われた鳥居地元の女性で毎月お参りに来ているという20代だと思うが私のペースに合わせて歩いてくれる気持ちが嬉しい鳥居の額には「菊の御紋」が掲げられている南大門(重要文化財)別名・日暮し門この門の彫刻が素晴らしいと説明してくれた西門(重要文化財)私をここまで案内してくれた女性久し振りにバイクに乗ることができたので感謝と安全祈願にきた...柞原八幡宮(大分県大分市大字八幡987)

  • 西寒多神社(大分県大分市寒田1644)

    訪問日令和5年5月29日西寒多神社豊後国一宮以前、訪れようとしたことがあったがたどり着くことができなかった他の人も「ナビで着かない不思議な神社」と投稿していたカーナビはパナソニックだが、今回はグーグルとヤフーナビを駆使して到着した帰りはパナを利用したが酷い目にあった(汗)駐車場に何が原因か分からないが神聖な場所に相応しくない看板「萬年橋」から境内を眺める社務所看板にあるトラブルの原因を聞こうと思ったが無人であった手水舎鳥居神楽殿正面に社殿鬼の歯形石合併社日露役記念狛犬拝殿神功皇后が三韓征伐からの帰途、西寒多山(現本宮山)に臨幸し、その証として山頂に白旗を立てたというその後、応神天皇9年4月、武内宿禰が本宮山上に祠を建てたのが創祀であるという本宮山を神体山として成立したと見られている7世紀の中ごろ、藤原鎌足...西寒多神社(大分県大分市寒田1644)

  • 大御神社(宮崎県日向市日知屋1番地)

    訪問日令和5年5月29日大御神社祭神:天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)から「日向のお伊勢さま」と親しまれている前回、訪れた時に悔いを残したことがあったので再訪した鳥居この鳥居の周辺が駐車場になっている天気はこれから悪くなる予報だったがまだ大丈夫だ社号標祭神の天照皇大御神の二字「大御」が社号になっている案内板鵜戸神社悔いを残したというのは案内板の「白龍」の形が私の撮った写真と違っていたので気になっていたこの案内板を読んで理解していれば良かったのだが……早速、鵜戸神社に向かう由緒と祭神参道の最後の部分は人が一人通れる程度の幅手すりの右側は崖になっている岩窟の入口にあるのは流木岩窟は高さがある岩窟は人工的につくられたものとホームページに記載があったが信じられない奥の方に社らしきものが見えてくる写真では明...大御神社(宮崎県日向市日知屋1番地)

  • 都農神社(宮崎県児湯郡都農町大字川北13294)

    訪問日令和5年5月28日都農神社日向国一宮創建は神武天皇即位の6年前、天皇が東征に向かう際に鎮祭したことに始まるというあぶら石絵馬には祭神の「大国主命」茅の輪素盞鳴尊が旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めた弟の巨旦将来は、豊かな生活をしていたのにそれを断った兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていたが、素盞鳴尊を泊めて厚いもてなしをした素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れて、「もし悪い病気が流行することがあったら、茅で輪を作って、腰につけていれば病気にかからないですむでしょう」と教えた茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものだったが、時代がたつにつれて大きくなり、これをくぐって罪やけがれを取り除くようになった他に参拝者がいなかったので「茅の輪」を潜...都農神社(宮崎県児湯郡都農町大字川北13294)

  • 霧島神宮(鹿児島県霧島市霧島田口2608番地5号)

    訪問日令和5年5月28日霧島神宮予備知識もなく地図上で鹿児島神宮の近くにあるということで訪れた初めての場所で駐車場探しに苦労する社号標一の鳥居近くにある、駐車場に車を置き緩やかな坂を300m程歩く80段の石段というがもっとあるように感じる二の鳥居ここが表参道になる坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念坂本龍馬が日本最初といわれる新婚旅行で霧島連峰を訪れた龍馬が妻のお龍と高千穂峰を訪れた際、何を思ったか「天逆鉾」を引き抜いて見せたというこのことは龍馬自身が手紙で姉に伝えており、手紙も桂浜の龍馬記念館に現存している霧島神宮展望台山頂付近に雲がかかりぼんやり見えているのが桜島だ神聖降臨之詩碑参拝者が多い神社で人の流れが落ち着いた頃合いをみて先に進んだ三の鳥居この先に足を踏み入れたときに、驚いた参道は木に覆われ薄暗く、そ...霧島神宮(鹿児島県霧島市霧島田口2608番地5号)

  • 鹿児島神宮(鹿児島県霧島市隼人町内2496)

    訪問日令和5年5月28日鹿児島神宮大隅国一宮鹿児島市内にあると思っていたら違った石造り太鼓橋御門神社境内への石段麓脇に2つの社が建つ雨之社祭神:豊玉彦命菊の御紋がある御神木建久年間植樹、樹齢約800年と伝わる手水舎龍宮の亀石鹿児島の地名発祥の地勅使殿(重要文化財)令和4年(2022年)本殿及び拝殿、勅使殿、摂社四所神社本殿が重要文化財に指定された創始は社伝によると遠く神代とも「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされる和銅元年(708年)に現在地に遷座され、旧社地には現在摂社石体宮(石體神社)が鎮座している彦火火出見尊(別名:山幸彦)はこの地に高千穂宮(皇居)を営み、500有余歳の長寿に亘り間農耕畜産漁猟の道を開拓し国家の基礎をつくったという扁額には「正八幡宮」正...鹿児島神宮(鹿児島県霧島市隼人町内2496)

  • 番所鼻自然公園・たまて箱温泉(鹿児島県)

    訪問日令和5年5月27日番所鼻自然公園(鹿児島県南九州市頴娃町別府5202)開聞岳の絶景を見ることができる観光スポットの一つに「番所鼻(ばんどころばな)自然公園」がある番所鼻自然公園は、薩摩藩の番所があったことから名づけられた走っていた道路から比較的近い場所にあることから立ち寄ることにした海の池(ドラゴンホール)番所鼻自然公園には火山活動と海の浸食によって岩礁がぐるりと円を描いている海の池(ドラゴンホール)があり,竜宮城の入口だったという言い伝えもある干潮時には池の周りを一周できる幸せの鐘「吉鐘」願い事に合わせて鳴らす回数がある1回:幸運,2回:健康,3回:夫婦円満と縁結び,4回:子宝,5回:安産遊歩道を歩く南国の花?花には興味はないのだが不思議と旅先では見入ってしまう開聞岳は標高が924mで日本百名山の...番所鼻自然公園・たまて箱温泉(鹿児島県)

  • 枚聞神社(鹿児島県指宿市開聞十町1366)

    訪問日令和5年5月27日枚聞神社(ひらききじんじゃ)薩摩国一宮ということで訪れたが、薩摩国には2つの一の宮があるもう一つは同じ日に訪れた「新田神社」である鎌倉時代以降、枚聞神社と新田神社は薩摩国一の宮の座を巡り激しく争っていたという一の鳥居鳥居中央には菊の御紋手水舎予備知識は薩摩一宮だけなので案内板記載事項を読んで確認する主祭神の「大日孁貴命」は天照大神のこと斎藤茂吉歌碑昭和14年(1939年)10月斎藤茂吉は枚聞神社を訪れているたわやめの納めまつりし玉手筥そのただ香にしわが觸るごと二の鳥居社務所絵馬掛け案内になっていない(笑)神馬勅使殿社殿は、総朱漆塗極彩色の鹿児島地方独特の建物で、正面に唐破風の向拝のついた勅使殿、その奥に拝殿、幣殿、本殿と連なる創建の年代は社伝によれば、遠く神代とされているが、神社の...枚聞神社(鹿児島県指宿市開聞十町1366)

  • マルス津貫蒸溜所(鹿児島県南さつま市加世田津貫6594)

    訪問日令和5年5月27日マルス津貫蒸溜所嘉之助蒸溜所から数10km離れた場所にある津貫蒸溜所訪問も九州に入った時から考え楽しみにしていた場所である駐車場に入ると建物から受付の男性が笑顔で迎えてくれた見学の予約はしていなかったので不安だったが「大丈夫ですよ」と(ガイド無しだが)順路案内の通り行ってくださいとのこと見学①「旧蒸留塔」高さ26m、蒸留所のシンボルタワーが旧蒸留塔である蒸留酒と共に歩んできた本坊酒造の歴史を伝える建造物「協力一致の精神」「不屈の精神」など私の好きな言葉が並ぶ小型蒸溜釜500L錫蛇管(すずじゃかん)見学②「ウイスキー蒸留棟」本坊酒造が鹿児島を代表する特産物「さつま芋」を使って焼酎造りを始めてから百有余年この土地の水と気候風土を知り抜き、酒造りの伝統を今に伝える津貫の地で、ウイスキー造...マルス津貫蒸溜所(鹿児島県南さつま市加世田津貫6594)

  • 嘉之助蒸溜所(鹿児島県日置市日吉町神之川845-3)

    訪問日令和5年5月27日嘉之助蒸溜所「嘉之助蒸溜所」は1883年創業の本格焼酎の蔵元、小正醸造が2018年よりウイスキーの製造を始めた小規模蒸溜所だ製造工程の見学ほか、オリジナルグッズを販売するショップ、美しい海を一望にするバーもありYouTuberなどでも評判が良い全国の蒸溜所巡りも旅の目的の一つに加えたこともあり、九州入りした時から訪れる予定でいた前日、熊本県に入りホームページで調べてみると明日を逃すと2日間の休館日になることが分かった「体験・見学」もあるが事前予約が必要だガイドによる嘉之助蒸溜所の背景説明、ウイスキー製造工程の一連の見学さらに、THEMELLOWBARでのテイスティングが体験できるという予約は見学日の1週間前からとあったが、余市や宮城峡蒸溜所、白州蒸溜所などでは当日空きがあれば加えて...嘉之助蒸溜所(鹿児島県日置市日吉町神之川845-3)

  • 新田神社(鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2)

    訪問日令和5年5月27日新田神社薩摩国一宮創建は神亀2年(725年)<三国神社伝記による>二の両部鳥居約800m先の川内川左岸土手近くに一の鳥居が建っている(知らなかった)川内川から神社までまっすぐ伸びる「八丁馬場」と呼ばれた参道は桜の名所となっている新降来橋鳥居を潜ると大小二つの太鼓橋がある大きいこの橋は昭和61年に架けられたもの小さな方は明治25年に架け替えられた石造太鼓橋の降来橋(薩摩川内市指定文化財)(写真右側に写っている橋だと思うが)この時はその価値も分からずにいた太鼓橋を渡ると、石段の参道が見えてくる石段参道入口脇には左右に門守神社が祀られている東門守神社西門守神社旅の疲れもあり石段を上がるのは嫌だと思っていると、数台の車が上へ走って行く姿が見えた駐車場に戻りその道を進むと石段上に駐車場があっ...新田神社(鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2)

  • 雁回山 長寿寺 <通称:木原不動尊>(熊本県熊本市南区富合町木原2040)

    訪問日令和5年5月26日島原半島から熊本港まで九商フェリーを利用した6m未満の車両で5000円弱の運賃、約1時間の船旅を楽しんだ雁回山長寿寺<通称:木原不動尊>天台宗に属する比叡山延暦寺の末寺熊本市南区富合町木原にあるため、「木原不動尊」の通称で親しまれている成田山新勝寺(成田不動尊)、目黒区の瀧泉寺(目黒不動尊)と並ぶ日本三大不動尊の1つである仁王門仁王像仁王像シリーズを投稿しているが、腹部が強調された面白い写真になった表情も独特である正面には柵があるが横には何もないのも珍しい仁王像は筋骨隆々とした恐い姿を想像するが、人の良い中年の小太りのオッサンのような感じがする鐘楼観音堂堂内中央に「十一面観世音菩薩」向かって右に「源為朝公」平治の乱で平清盛に敗れる源義朝の弟で、源頼朝、源義経の叔父にあたる乱暴者で勘...雁回山長寿寺<通称:木原不動尊>(熊本県熊本市南区富合町木原2040)

  • 島原城 その2(長崎県島原市城内1丁目1183-1)

    訪問日令和5年5月26日島原城その2昭和39年(1964年)に天守が復元され、キリシタン資料・藩政時代の資料を展示する歴史資料館になっている入館料:550円写真撮影ができることを確認し入館する1階キリシタン展島原城下絵図キリスト教が島原へ伝わるフランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされたキリスト教は九州西部や東部に浸透永禄6年(1563年)には島原半島にも伝わった石像マリア観音キリシタン火鉢花十字模様がデザインされている隠しマリア聖像マリア聖像が描かれているというが……影踏・踏絵島原藩では「板踏」とともに「箱踏」といって穴を開けた箱に聖画像を入れた道具も利用していた「箱踏」は島原藩オリジナル「踏絵(レプリカ)」鬼子母神に仮託された聖母子像天草びな島原の乱大手門の戦い天草軍記島原の乱では、天草四郎が3万...島原城その2(長崎県島原市城内1丁目1183-1)

  • 島原城 その1(長崎県島原市城内1丁目1183-1)

    訪問日令和5年5月26日島原城島原城は元和4年(1618年)から、松倉豊後守重政が約7年の歳月をかけて築いた五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城だった寛永14年~15年(1637年~1638年)初代松倉重政、2代勝家の圧政により島原の乱が起こる勝家は領内を騒乱に導いた責により斬首。松倉氏は改易となる明治9年(1876年)廃城令により天守以下建造物が破却される昭和39年(1964年)天守復元。キリシタン資料・藩政時代の資料を展示する歴史資料館となる景華園遺跡の支石墓撑石(島原市指定文化財)弥生時代から鎌倉時代に至る約1500年の長期にわたる住居跡、墓域跡だったと推定されるこの撑石(しょうせき)の重量は18.4t初めて訪れる城で、周辺を歩きながら撮る城の周辺は...島原城その1(長崎県島原市城内1丁目1183-1)

  • 東明山 興福寺(長崎県長崎市寺町4-32)

    訪問日令和5年5月25日東明山興福寺十数年前、寺社巡りを始めた頃、参考にしていたのが五木寛之氏の「百寺巡礼」だったその一つに、この興福寺もあり今回初めて訪れることになった山門(長崎県指定文化財)風頭山の山麓に15の寺院が並列する寺町通りの中ほどにある朱色の山門により「あか寺」として市民に親しまれている山号の「東明山」は隠元禅師の書興福寺は、我が国最初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖「隠元禅師」が、中国より初めて日本に渡海され住持した地である扁額「初登寶地」は隠元禅師の書日本黄檗宗発祥の地、隠元禅師初登の聖地である隠元禅師像隠元禅師像というのは初めて観たいつもなら数枚写真が残っているのだが、疲れていたためかこの1枚だけ隠元禅師は中国から承応3年(1654年)長崎へ渡来、興福寺住職として滞在長崎滞在1年後、禅師は、京...東明山興福寺(長崎県長崎市寺町4-32)

  • 聖寿山 崇福寺 その2(長崎県長崎市鍛冶屋町)

    訪問日令和5年5月25日聖寿山崇福寺その2大雄宝殿(国宝)護法堂の前に位置するのが崇福寺の本堂「大雄宝殿」正保3年(1646年)1月に唐商何高材(がこうざい)の寄進によって創建された長崎市に現存する最古の建物もともとは1階建てだったが、35〜6年後に日本人の棟梁によって2階が付け加えられた1階は中国様式、2階が和風様式になっている扁額には「大雄寶殿」本尊:釈迦如来坐像(長崎県指定文化財)大雄とは釈尊の別称の一つ(世尊とも)本尊である「釈迦如来坐像」が安置されているので大雄宝殿という昭和10年頃の仏像修理の際、本尊の「釈迦如来坐像」の胎内から、銀製の五臓、布製の六腑等が発見された金属の五臓があるのはこの釈迦如来が唯一のもの十八羅漢(長崎県指定文化財)媽祖門(重要文化財)媽祖門(まそもん)は媽祖堂の門であり、...聖寿山崇福寺その2(長崎県長崎市鍛冶屋町)

  • 聖寿山 崇福寺 その1(長崎県長崎市鍛冶屋町)

    訪問日令和5年5月25日聖寿山崇福寺その1黄檗宗の寺院寛永6年(1629年)長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から「超然」を招聘して創建中国様式の寺院としては日本最古のもの三門(重要文化財)寺院の外門で中央と左右に門戸のあることから「三門」と呼ばれる嘉永2年(1849年)に再建された際、初めて「龍宮門」と呼ばれる様式で造られた中国で材料を加工し、中国人技術者が建設した建物が多い多い崇福寺の中、この三門は日本人によって建てられた右側の門左側の門三門の彫刻狛犬石段階段途中にある石仏の目の周りが不気味だ第一峰門(国宝)第一峰門は、中国の寧波(ニンポー)で加工された材料を唐船で長崎に運び入れ、元禄8年(1695年)に完成した別名は唐門・海天門・中門など第一峰と海天の名称は扁額の文字による軒下の組...聖寿山崇福寺その1(長崎県長崎市鍛冶屋町)

  • 長崎山 清水寺(長崎県長崎市鍛冶屋町8-43)

    訪問日令和5年5月25日長崎山清水寺真言宗霊雲寺派の寺院元和9年(1623年)京都・清水寺の僧・慶順により創建された山門石段の途中にある奇縁氷人石山門脇にある縁結びの願掛け石江戸時代、迷子探しや男女の縁結びに役立てたと言われている左側に「たつぬるかた」(尋ねる方)、右側に「をしゆるかた」(教える方)と刻まれ結婚を望む人は左に、世話人は右に名前や素性を書いて紙を貼ったと伝えられている石段(仁王門跡)本堂に上る石段の最初の踊り場には、かつて左右に仁王門が建立されていた天保14年(1843年)の大火で仁王門が焼失現在は礎石だけが残されている石段横の石仏中門(石門)明和8年(1771年)四方田慈輔の寄進により石段の最上段に建てられた「廣大圓満」の文字が彫られている長崎の寺院ではいくつかみられるが、全国的には珍しい...長崎山清水寺(長崎県長崎市鍛冶屋町8-43)

  • 端島<通称:軍艦島>(長崎県長崎市)

    訪問日令和5年5月25日端島<通称:軍艦島>(世界遺産)平成27年(2015年)国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された長崎港から「軍艦島上陸ツアー」というのもあるが年金生活者には厳しい価格帯だった軍艦島を一番近くから見えるという野母崎総合運動公園(軍艦島展望所)に車を走らせた長崎市内で渋滞はあったが海岸線を走る国道499号線は快適で軍艦島の姿を見ながらのドライブ野母崎総合運動公園はきれいに整備されていて、そこから見える景色は美しい端島での石炭の発見は一般に文化7年(1810年)のこととされる江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった明治2...端島<通称:軍艦島>(長崎県長崎市)

  • 九十九島(長崎県佐世保市)

    訪問日令和5年5月24日九十九島(西海国立公園)車での九州への旅は今回が最後になると決めていた九十九島の美しい景色は雑誌等で知ってはいたが、自分の目で一度確かめてみたかった九十九島は、佐世保湾の外側から北へ平戸までの約25kmの海域に点在する海域この場所に来る途中、時折車から見える海の景色は最高で期待は高まっていた複雑に入り組んだリアス海岸と島々が織りなす美しい自然景観が広がっている九十九(くじゅうく)とは数がたくさんあるという意味で使われる例え言葉で、実際の島の数は208ある平戸藩主松浦静山が、出羽国(秋田県)の「象潟九十九島」に倣い名づけたとされる佐世保市内には「九十九島八景」と呼ばれる8ヶ所の展望スポットがあるここは、その一つで佐世保市下船越町にある展望公園「展海峰(てんかいほう)」という場所右側に...九十九島(長崎県佐世保市)

  • 亀岡神社(長崎県平戸市岩の上町1517番地ホ第2)

    訪問日令和5年5月24日亀岡神社平戸城へ向かう途中に訪問予定にはなかったが気になる神社があった歴代平戸藩藩主を祀っているという狛犬1狛犬2中川愛子像肥前国平戸藩主松浦清の11女として平戸に生まれる姉の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、3男2女(忠愛・忠光・公董・栄子・慶子)を産んだ娘・慶子が孝明天皇に仕え、やがて愛子の孫にあたる皇子・祐宮睦仁親王(のちの明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任されたのちに、曾孫・明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育にもあたっており、天皇2代の養育に関わったことになる皇室関係の像なのでプレートの傷が気になった(修復希望)拝殿(国登録有形文化財)寛永8年(1631年)平戸藩藩主松浦棟が祖霊4柱を平戸城内の霊椿山に祀ったのに創まり(霊椿山神社)明治になって霊椿山、七郎、...亀岡神社(長崎県平戸市岩の上町1517番地ホ第2)

  • 平戸城(長崎県平戸市岩の上町1458)

    訪問日令和5年5月24日平戸城(別名:亀岡城)初めて訪れる場所は駐車場探しに苦労する困っていると、地元の親切な女性が城に一番近い場所を教えてくれた乾櫓(いぬいやぐら)駐車場から少し歩いた場所に乾櫓が見えてくる二の丸御殿を守護していたとされる乾櫓平戸の乾の方角(北北西)にあたることから、乾櫓と呼ばれた「日本最初たばこ種子渡来之地」の石碑慶長6年(1601年)に「たばこ」の種子がこの地に伝えられたという記録をもとに建てられた*「たばこ」が日本へ伝わった正確な年代や状況については諸説あるらしい天文12年(1543年)に種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲とともに伝えたとする説慶長10年(1605年)前後に、ポルトガルやスペインなどの西欧諸国から渡来したとする説案内板平戸藩では家臣団の再編や領国支配の強化を進める...平戸城(長崎県平戸市岩の上町1458)

  • 平戸ザビエル記念教会(長崎県平戸市鏡川町259-1)

    訪問日令和5年5月24日平戸ザビエル記念教会平戸といえばキリスト教のイメージがある信仰心はないが宗教施設(建築物)には昔から興味を持っていたルルドの泉ピレネー山脈の麓の川縁に厳かに潜む秘境地ルルドそこに、奇跡的にいくつもの不治の病を治した、と言い伝えられる泉がある1854年、貧しい家の生まれの14歳の少女ベルナデットはルルド近くの洞窟付近で薪を拾っていたそばに居た一人の女性が少女に向かって言った「泉の水で顔を洗いなさい、そしてその水を飲むのです」しかし周りを見ても水はなく、近くにあった川の水を飲もうとすると、その女性は「洞窟の土を手で掘ってごらんなさい」とそこから泥水が湧き出、徐々に聖水へと変化していったそして驚くべき事に、この泉には、病気を癒す力があることが判ったベルナデットは何度と現れるその女性に何度...平戸ザビエル記念教会(長崎県平戸市鏡川町259-1)

  • 高野山 最教寺(長崎県平戸市岩の上町1206番地1)

    訪問日令和5年5月24日高野山最教寺道路地図を見て気になっていた寺院で訪れることにした大きな駐車場に車が1台もなく急に不安になった境内図この時は「西高野山」というのが最教寺の別称とは知らずにいた境内図を参考にすることもなく、目の前にあった「本堂」を見逃してしまった真言宗智山派の寺院本尊:虚空蔵菩薩像鐘楼愛染堂愛染堂横にある石仏奥に「霊宝館」があり休館日ではなかったが開いていなかった雑草が生い茂っていて整備されている感じもなかった鎮守社肥前七福神八十八ヶ所苔の参道参道横には石仏緩やかな苔の参道の最後は石段になる奥の院境内修行大師像大日如来像手水舎奥の院本殿伝承によれば、当寺がある場所は空海が唐から帰国して初めて護摩を焚いたところと言われている真言宗に帰依していた鎮信はこの地に寺院の建立を思い立ったしかし、こ...高野山最教寺(長崎県平戸市岩の上町1206番地1)

  • 第59回すすきの祭り「花魁道中」(北海道札幌市中央区)

    訪問日令和5年8月3日第59回すすきの祭り「花魁道中」2023年すすきの祭りは8月3日(木)~5日(土)メインイベントとともいえる「花魁道中」は初日8月3日(木)20時豊川稲荷から始まった写真ブログを始めてからネタを探すために撮り始めたが、年々観客が多くなっている今回は30分前に場所を確保、偶然出発前の待機場所付近だった出発前ではあるがこの先頭の女性は常にキリッとした表情を崩さずにいた今年の花魁「夢千代太夫」役は、相川みりあさん(会社受付)以前はススキノに勤務するホステスが選ばれていたが、最近は学生や会社員から選ばれている出発前なので高下駄(7kg)は履いていないこの下駄の高さは30cmほどある花魁道中の歴史を調べると、衣装や髪飾りが豪華になるにつれ、バランスをとるために高くなっていったという出発前最後の...第59回すすきの祭り「花魁道中」(北海道札幌市中央区)

  • 湊の立神岩(佐賀県唐津市湊町595)

    訪問日令和5年5月23日湊の立神岩(唐津市天然記念物)この周辺を走っていたとき、人気YouTuber「あいたの~愛犬と楽しくお出かけ~」でこの景勝地を訪れていたことを思い出した今回の旅でこのYouTuber影響を受け、訪れた3つ目の場所になるカーナビでは違う場所を案内されUターンもできず諦めかけた場所でもあるスマホのナビに救われたどり着くことができた別名夫婦岩とも呼ばれている約30mの大きな岩の柱が人のように寄り添っているこの巨岩は火山の噴火によってマグマが冷え固まったとき、ブロック状になった玄武岩でできている確かに人の姿に見える、これが男岩か女岩かはわからない女岩なら幼子を抱いているように見える私の横を老人のサーファーが通っていく(いつの間にか沖に向かっている)湊の立神岩は九州におけるサーフィンの発祥地...湊の立神岩(佐賀県唐津市湊町595)

  • 唐津神社(佐賀県唐津市南城内3-13)

    訪問日令和5年5月23日唐津神社創建は天平勝宝7年(755年)と伝えられている一の鳥居この純白の鳥居を通り駐車場へこれほど大きな白色の鳥居は観た記憶がない明治6年(1873年)に郷社に列し、これを機に現在の「唐津神社」に改称した昭和17年(1942年)県社に昇格二の鳥居狛犬1手水舎正面に社殿が見える初めて訪れる神社ということもあり左側の境内社から回る水天宮唐津在住の筑後人会が筑後地方の総氏神である久留米水天宮を勧請白玉稲荷神社江戸末期頃、唐津唐房の黒崎坊が新町の町内安全のため奉祀廿日恵比須神社江戸後期頃、刀町の各家で恵比須講が組織され宮座を定めて祀っていたその後町内で祭礼をしていたが、昭和58年、当神社境内へ奉遷火伏稲荷神社社文化年中(1804~1818)、唐津の首町であった本町が町内安全を祈願し稲荷大神...唐津神社(佐賀県唐津市南城内3-13)

  • 唐津城(佐賀県唐津市東城内8−1)

    訪問日令和5年5月23日唐津城(別名:舞鶴城)唐津城に向かう途中、「虹の松原」という約100万本のクロマツの林の中を約4.5kmにわたって走行した写真や動画に記録していないが運転してトリハダが立つほど感動した静岡の「三保の松原」、福井の「気比の松原」と共に日本三大松原の一つに数えられている駐車場に入り急に嫌な気分になった料金案内板を見ると普通車が1時間100円に対しキャンピングカーは4倍の400円だという2時間の料金を見ると900円、倍以上になっている1時間以内に戻るには急がなければならない目の前の石段など上っては間に合わない高齢者用のエレベーターを利用し、時間短縮に努めた文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣寺沢広高がこの地に封ぜられた慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万...唐津城(佐賀県唐津市東城内8−1)

  • 河上山 神通密寺 実相院(佐賀県佐賀市大和町大字川上947)

    訪問日令和5年5月23日河上山神通密寺実相院先に訪れた、與止日女神社西門(佐賀県指定文化財)から道路を挟んだ向こう側に立派な門が見えた近寄って案内文を読むと1000年以上の歴史を持つ古刹だということが分かったこの日の訪問予定にはなかったが訪れることにした仁王門(佐賀県指定文化財)三間一戸の八脚門で、正面の額の裏に寛永20年(1643年)の年号があり、この頃の建物と考えられる扁額には寺号の「神通密寺」と記され、菊の紋が四つ飾られている実相院の由来仁王門を背に緑に囲まれた参道を歩く正面に「中門」が見えてくる周辺には年代を感じ周囲に溶け込んでいる石仏があるこちらには3体の石仏それぞれ拡大して撮ってみるこちらには大小7体の石仏馬に乗ったものは珍しい子供を抱いているのかとても表情が穏やかだ写真にはないが数十段の石段...河上山神通密寺実相院(佐賀県佐賀市大和町大字川上947)

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、今、出発の刻(たびだちのとき)さんをフォローしませんか?

ハンドル名
今、出発の刻(たびだちのとき)さん
ブログタイトル
今、出発の刻(たびだちのとき)
フォロー
今、出発の刻(たびだちのとき)

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用